Hanacell

ヴォルフ・ビアマンの東ドイツ市民権剥奪 Biermanns Ausbürgerung aus der DDR

1976年11月16日
東ドイツ史には体制批判の記念日が3つある。労働者が蜂起した1953年6月17日、文化人が抗議声明を出した76年11月17日、そしてベルリン市民が壁を開かせた89年11月9日だ。2つ目の記念日の原因を作ったのがヴォルフ・ビアマンだった。

詩と歌で行った体制批判

冷戦期にドイツの一方から他方へ移ったと聞くと、普通は東から西への亡命を思い浮かべるだろう。しかし例えば、生まれたばかりの娘アンゲラ(現メルケル首相)を連れて東ドイツの教区に赴任したホルスト・カスナー牧師のように、数えるほどではあっても西から東へ移ったドイツ人もいた。今回の主役ヴォルフ・ビアマンもその1人である。

彼がハンブルクから東ドイツへ移住したのは1953年。16歳だった。当時まだ禁止されていなかったドイツ共産党が、青年部の50人を実地研修へと送り出したのである。ビアマンの父はアウシュヴィッツで殺されたユダヤ人共産主義者、ドイツ人の母も同志だった。その息子ヴォルフは母の期待に応えて共産主義者に成長し、その理想を実現すべく東へと移ったのである。そしてフンボルト大学で政治経済学を履修。しかし61年のベルリンの壁建設をきっかけに、詩と歌で東ドイツの体制を批判することになってしまった。

東ドイツを支配するSED(ドイツ社会主義統一党)は、ビアマン脚本による演劇公演を中止させ、詩の発表も禁止した。しかしその一方で、64年に西ドイツでの朗読ツアーを許可している。飴を与えたわけだ。するとビアマンは西で詩集を出版し、68年には東ベルリンの自宅で制作したLPを西の訪問者に託してリリース。東でも闇のコピーが出回った。

ドイツの12月にシュプレー川は東から西へ流れ/僕は鉄道で壁を高々と越えた/ふわりと鉄条網の上を/血塗られた犬たちの上を浮いていく……(筆者訳)

72年に公表した詩の一節である。愛する祖国ドイツの停滞を批判したハインリヒ・ハイネの詩集『ドイツ冬物語』からタイトルを借り、愛する惨めな東ドイツを描写したのだ。

SEDはこの不愉快な詩人に激怒した。党は共産主義の敵から批判されるより、それを信奉する同志から批判される方が腹が立つ。ビアマン追放の動きが始まった。しかし本人に出国の意志はない。シュタージ(国家保安省)の記録によると、「詩人追放作戦」は5回試みられ、6回目で成功する。

ヴォルフ・ビアマン(左)とアーミン・ミュラー=スタール
今なお現役で活躍するヴォルフ・ビアマン(左)と
アーミン・ミュラー=スタール
左)©MATINEE ZUMÅ 70. Geburtstag-mit Ulrich Wickert
am Sonntag Foto: NDR/Thorsten Jande
右)©A3637 Joerg Cars tensen/DPA/
Press Association Images

「この嫌な鳥が僕を冷たく捕まえて」

1976年秋。ビアマンは9月に11年ぶりのコンサートを東ベルリンの教会で開いた。教会に所属する同姓同名のシンガーと間違えて許可されたコンサートだった。しかし政治局はこれを機に寛大なふりをして、西ドイツの労働組合IGメタルが11月に計画するコンサートへの出演を許可。ビアマンは当局から再入国の約束をもらい、出国する。

11月13日、ケルン。ビアマンは『プロイセンのイカロスのバラード』を歌った。……逃げたいなら行きな/僕はここにいるよ/この嫌な鳥が僕を冷たく捕まえて/遠くへ放り投げるまで/なぜって僕はプロイセンのイカロス/鋳鉄でできた灰色の翼だ……(筆者訳)

鳥とはプロイセンの、そしてその継承者とも言えるブランデンブルク州の紋章にある鷲である。帰国が頭にあるビアマンは過激な党批判を避けた。しかし11月16日にSEDはビアマンの市民権剥奪を決定。翌17日にそのニュースが流れるや、東の文化人13人が党への抗議声明を、フランス通信社AFPを通して公開したのである。

霧散した文化人の抗議

抗議行動は5日後、100人以上の署名が集まる展開になった。それまでビアマンの存在さえ知らなかった東の国民も、西の第一放送ARDを受信してコンサートの録画を見てしまう。追放して一件落着と踏んでいたSEDにはとんでもない誤算だった。

当局は比較的無名の署名者をただちに刑務所に入れ、逮捕すると騒ぎになる有名人に対しては懐柔策に出た。裏切った愛人を取り戻そうとする必死の試みに似ていなくもない。

こうして劇作家ハイナー・ミュラー、彫刻家フリッツ・クレーマーらは署名を撤回。しかし一方で、エクソダスとも呼べる集団脱出が発生する。詩人ザラ・キルシュ、人気俳優マンフレッド・クルーグら多くが出国許可を得て西へ移った。

現在、この事件を積極的に語る関係者が少ないのは、各々の道を選択する過程で失望し、信頼関係が崩れてしまったからだという。留まって体制批判を続けた作家クリスタ・ヴォルフも語らない。就業を禁止されても1年以上留まり、戻れない覚悟でハリウッドへ移って成功した俳優アーミン・ミュラー=スタールも、2006年にシュピーゲル誌の取材にただ1人応えたとき、当局と取り引きしてすぐに出国した俳優仲間については苦い口調になった。

こうして文化人たちの抗議行動は霧散してしまった。しかし歴史の大きな流れの中で、この事件は「東ドイツ終焉の始まり」とみなされている。

19 Februar 2010 Nr. 804

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:20  
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