Hanacell

Nr. 12 三分岐型教育システムと格差社会

前回はドイツの英語教育の優れている面についてお話しました。英語コンプレックスの私は、ドイツの小学生が習いたての英語をペラペラと話すのを見て、うらやましく思いましたが、ドイツで教育を受けた誰もが英語を得意としているわけではありません。娘が小学校を卒業した翌年にこんなことがありました。アメリカ映画のDVDを6人の友達と観ていると、「英語じゃ分かんない」と3人が言い出しました。ところがほかの3人は「えぇ? このくらいの簡単な英語なら分かるよ」と言いました。英語が分からないと言ったのはレアールシューレの生徒、後者はギムナジウムの生徒でした。

私は「あれ?」と思いました。この2つの学校は同じ英語の教科書を使用していて、授業時間数も同じなのに、理解力には明らかな差が見られたからです。実はこうした学校間による“差”は、ドイツ社会全体に見られる“格差問題”と無縁ではありません。特にハウプトシューレは近年、やる気のない生徒を抱える学校として人気が低下しています。かつては職人を育てる誇り高き学校。しかし機械技術などが高度化して、今やその誇りがなかなか見出せない時代です。将来に希望や目標を抱けない生徒は学ぶ意欲を失い、非行少年のような態度が目立ち、「ハウプトシューレの生徒」と外見からでも判別できてしまうほどです。


イラスト: © Maki Shimizu

ドイツでは、大人でも服装からその人の思想や生活環境が判断できる場合が少なくありません。私が以前に住んだ町ではギムナジウムとレアールシューレ、ハウプトシューレの3つの建物が隣接していましたが、どの生徒がどの学校に通っているかが外見から一目瞭然でした。地味な服装で山のような教科書をカバンに入れて持ち歩くか、上着もズボンもだらしなく、女の子はナイトクラブ風な化粧とカラフルなデザインの服を身に着けるか。朝は「グーテン・モルゲン(おはよう)」「ハロー」とあいさつするのか、「ヘイ、そこのデクノボー! 元気かぁ?」などと罵言を好んで多用するか。

学校環境を見ても、ハウプトシューレの廊下にはコーヒーカップやガムの紙が捨ててあり、図書室は小さく、アメリカンコミックスが多くの場所を占めています。一方、ギムナジウムの図書館は広くて英語やフランス語の小説や資料まで並んでいます。

もちろん学校がすべてではありません。礼儀正しいハウプトシューレの生徒や、反抗的なギムナジウムの生徒もいます。ドイツは州に教育行政の自由が一任されているにもかかわらず、この三分岐型システムだけは全国共通で、しかもハウプトシューレは存在意義を失ったまま。「ほら、あそこにいるのはハウプトシューレの生徒だよ」と市民がささやき、いわば差別的な視線を投げかける現実が残念ながらあります。ハウプトシューレには外国人労働者の子どもが多いことも起因していますが、子どもを育てるはずの場が、社会的階層や差別を生みだしかねない状況は問題です。

しかし、それでもなお、ドイツの教育の現場には何らかの魅力が存在することを感じます。なぜなら「個性的になろう」などと大きな声で言わなくても、どの子も自分らしさを保ち、自分の意見を人前で堂々と表明できる人間に育っていくからです。格差がありながらも、子どもたちはあまり卑屈にならずに、生きることへの主体性や人間としての自己肯定力が身に付いていく。義務教育後の長い人生の中で必要とされる力が養われていると思えるのです。


イラスト: © Maki Shimizu

最終更新 Dienstag, 30 August 2011 11:34  
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