Hanacell
そのとき時代が変わった


緑の党が初めて州に入閣 Eintritt der Grünen in die Hessische Landesregierung

1985年12月12日
1985年10月、ヘッセン州のSPD(社会民主党)政権が全国で初めて緑の党との連立を決意。12月12日、同党のヨシュカ・フィッシャーはジーンズとスニーカー姿で環境・エネルギー相に就任した。

ヘッセン州の苦悩

まず、ここに至ったヘッセン州の特殊な事情を説明しておきたい。当連載の第27回で、連邦における1982年10月1日のシュミットからコールへの政権交代には、小党FDP(自由民主党)の役割が欠かせなかったと書いたが、覚えておられるだろうか。連立の相手をCDU(キリスト教民主同盟)へと鞍替えしたFDPは、あのときSPDから裏切り者と呼ばれ、有権者からしっぺ返しを受けた。同時期にヘッセン州で行われた州議会選挙で、議席配分に必要な得票条件の5%を下回ってしまったのだ。

その結果、ヘッセン州議会にはCDU、SPD、緑の党が入ったが、どの党も過半数には達せず、単独では安定政権を樹立できない。しかし、CDUとSPDに大連立への意向は全くなく、かといって全国組織になったばかりの緑の党と組むなどもってのほか。伝統の2大政党から見ると、この頃の緑の人々は「長髪、無精ひげ、セーター姿で愛と平和を唱えるヒッピー」か「68年反体制闘争の残党」。彼らに現実の政治ができるとはとても思えなかったのだ。

これでは膠着状態である。結局、76年から州を率いてきたホルガー・ベルナー州首相(SPD)が暫定内閣を組み、1年後の83年9月24日にやり直し選挙が行われた。結果はSPD46.2%、CDU39.4%、FDPが返り咲いて7.6%、緑の党5.9%。またも過半数を超えた政党はなく、8カ月が経過しても連立交渉はまとまらない。

緑の党の躍進、フィッシャーの入閣

そこで1984年7月、ヘッセン州SPDは、あれほど嫌っていた緑の党の支持を頼りに単独で第3次ベルナー内閣を発足させ、ついに85年10月、同党に行政の1部門を任せる内閣改造を決意。ヨシュカ・フィッシャー(当時37歳)を環境・エネルギー相に起用するのである。

1998年、シュレーダー率いるSPD・緑の党の連立政権が誕生
1998年、シュレーダー率いるSPD・緑の党の連立政権が誕生、
フィッシャー(中央)は外相に就任した。
左はシュレーダー、右はラフォンテーヌ
©ROBERTO PFEIL/AP/Press Association Images

フィッシャーは現在政界から引退しているが、連邦のシュレーダーSPD・緑の党連立政権(1998~2005)で外相を務めた人物なので、ご存知の方は多いだろう。党首以上の影響力を持つオーバーボスと呼ばれ、挑発的な言動ゆえに良くも悪くもメディアの寵児であった。

ギムナジウムを中退し、過激派に加わって警察に石を投げていた経歴を持つ。しかしRAF(ドイツ赤軍)によるテロが連鎖した77年秋に革命幻想から覚め、フランクフルト大学で社会学を聴講、82年10月にヘッセンの緑の党に入党した。

この頃の緑の党は、草創期からの自然保護派が離脱し、反核、人権、消費者保護などもテーマにするオールラウンドな党への拡大過程にあり、現実の政治に目覚めた非常に雄弁なフィッシャーは、その舞台でめきめきと頭角を現すことになった。

コール内閣に対する信任案の否決から実行された連邦の解散総選挙で、緑の党の候補者リストの3番目に入り、初の緑の連邦議員28人のうちの1人になったのは83年3月。入党からわずか5カ月後である。そして党のローテーション原則から議席をほかの党員に譲った85年、地元ヘッセン州から声が掛かる。かつて水や原発などの環境問題には興味がないと言っていた彼が、皮肉にも環境・エネルギー相として、党初の入閣を果たしたのだ。

スニーカーで就任宣誓

1985年12月12日。ヴィースバーデンのヘッセン州議会で就任宣誓を行う日の朝、フィッシャーは用意したイタリア製のスポーティ・ジャケット、オータムカラーのワイシャツ、新しいジーンズ、真っ白なナイキのスニーカーを身に着け、当時の妻から「シキミキ(Schickimicki)だこと」とからかわれたという。確かに彼はプライドが高く、ブランド物に敏感で注目されることを好む。このスタイルで権威になびかない姿勢を誇示すると同時に、緑の党が大臣になるという前例のない宣誓シーンを効果的に演出できることを知っていたはずだ。

当時、ヘッセン州CDU幹事長だったマンフレート・カンター(後に連邦内相)は、このシーンを「デモの元プロ、元家屋占拠者、元国家反逆者が州大臣ヨーゼフ・フィッシャーになった」と描写している。フィッシャー本人は、「かつての不発革命のヒーロー、今は小さなヘッセン州の、珍しい鳥を保護する環境相。しかし政治の表舞台に立ったことは68年世代にとって慰めだ」と、彼独特のスタイルでコメントした。

シュピーゲル誌によると、「プロジェクト・フィッシャーはこうしてスタートした」。それが成功したことは言うまでもない。彼はこの後、絶大な影響力を持つ緑のスター政治家となり、キャリア街道を突き進んでいくのである。

19 November 2010 Nr. 843

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:08
 

ヴェルダンでの独仏和解 ミッテランとコール Der Handschlag von Verdun

1984年9月22日
第1次世界大戦中に独仏両軍から70万人の戦死者を出したフランス北東部の激戦地、ヴェルダン。その地に設けられた無名兵士の納骨堂前で、1984年9月22日、フランソワ・ミッテラン仏大統領とヘルムート・コール西独首相は手をつなぎあった。

独仏の宿怨の地、ヴェルダン

列強間の様々な対立から起こった第1次世界大戦は、最初の近代戦であり、国家総力戦だった。鉄道、飛行機、戦車、機関銃が登場して、前世紀までの騎馬戦は無意味になり、歩兵が敵の射撃に生身の体をさらすことになったのだ。そのためスイスからドーバー海峡まで続く独仏間の西部戦線では、両軍が塹壕を築いて膠着状態に陥り、初めて毒ガスが使われる。ロマンチックな愛国心から志願した若者たちは、次々に帰らぬ人となった。

ドイツ軍がパリへと続く街道にあるヴェルダンを攻略すべく、フランス軍に攻撃を仕掛けたのは1916年2月21日。同年12月19日まで続いた激しい塹壕戦で、フランス軍36万2000人、ドイツ軍33万5000人が戦死する。

その記憶を今に伝えるヴェルダンは、独仏の宿怨を象徴する代名詞のような場所である。そこでの追悼式典に、ミッテラン仏大統領がコール西独首相を招いた。それは先立つ6月に開催した連合軍ノルマンディー上陸40周年式典に西ドイツを招待しなかったことへの、埋め合わせの意味があったらしい。

無言で手をつなぎあい、和解

1984年9月22日、追悼式典はヴェルダンから北に数キロ離れたコンサンヴォアにあるドイツ人戦没者墓地から始まった。フランスの国家代表がここを訪れるのは初めてである。次に2国の代表団はヘリコプターでデュオモン要塞跡へと移動し、そこに設けられている軍人墓地に降り立った。

相手国に敬意を表し、フランス軍楽隊が西ドイツ国歌「ドイツ人の歌」を、次に西ドイツ国防軍楽隊がフランス国家「ラ・マルセイエーズ」を演奏する。ミッテラン仏大統領とコール西独首相は納骨堂へと歩を進め、棺台の前に並んだ。納骨堂には、ヴェルダンの戦いで命を落とした、国籍さえ分からない無名兵士13万人の遺骨が納められている。

戦没者墓地の納骨堂の前で手を握り合うミッテラン仏大統領(左)とコール西独首相
戦没者墓地の納骨堂の前で手を握り合う
ミッテラン仏大統領(左)とコール西独首相
©DPA DEUTSCHE PRESS-AGENTUR/DPA/Press Association Images

コールは回顧録にこう書いた。「そういう予定は全くなく、突然ミッテランが私の手を握り、私たちは数分間ずっと黙って手を握り合っていた」。

当時、公共放送ARDのフランス特派員だったウルリヒ・ヴィカートは、手が差し伸べられた瞬間を見逃したため、誰が先導したのかを知ろうと後日ミッテラン大統領に直接質問し、答えを得ている。「独りの孤独から抜け出してコールに今の気持ちを伝えるべきだと強く感じ、手を差し出したら、コールが握り返してくれたんだよ」と。

強き指導者たちの、兄弟の誓い

ライン左岸までの自然国境論を主張したルイ13・14世の時代から、ドイツ人とフランス人は様々な理由を付けては戦ってきた。17世紀の30年戦争で戦場となったドイツは人口を3分の1に減らし、18世紀の7年戦争ではフランスが最終的に北米植民地まで失う。19世紀にはナポレオンがライン諸邦とプロイセンを蹂躙(じゅうりん)し、普仏戦争ではビスマルクがパリを攻落。20世紀も第1次世界大戦、第2次世界大戦と殺し合いは続いた。

両国民には父祖伝来の敵のイメージが出来上がっていただろう。しかし第2次世界大戦後の東西冷戦下で、かつての宿敵は接近を始める。どちらの側にも心の底から不戦と復興を願う気持ちがあったに違いない。独仏間の緊張緩和を求めたロベール・シューマン仏外相、西側共同体への参入を目指したアデナウアー西独首相、和解を唱えたド・ゴール仏大統領。彼らはパートナーとなり、まず経済から統合が進められた。両国民が敵愾心(てきがいしん)を乗り越えてきたプロセスは、こうした強い政治指導者を抜きには語れない。

ミッテランとコールもパートナーだった。ヴェルダンの戦いから生還した父親を持つコール、第2次世界大戦中にこの地で負傷し捕虜になったミッテラン。ヴェルダンの追悼式典でミッテランの手を握り返したコールは、ほっとした表情で見返し、常に冷静なミッテランはそのまま前の方角を凝視し、たたずんでいたそうだ。

共同声明で2人の政治家はこう結んだ。「これは兄弟の誓いだった。我々は2つの大戦で命を落としたフランスとドイツの息子たちの前で和解をするためにここにいる。両国は歴史から、和解と相互理解と友情を学んだ。両国民は平和、理性、そして友好関係の道から後戻りしない」。独仏和解のシンボルとして、これ以上のものはない。

22 Oktober 2010 Nr. 839

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:08
 

ヒトラーの日記 Die Hitler-Tagebücher

1983年4月25日
1983年4月25日、週刊Stern誌の記者ゲルト・ハイデマンは200人の報道陣を前に、黒い冊子の山から1冊を手に取って高く掲げた。「ヒトラーの日記を発見しました!」

Spiegel誌を越すスクープを!

日記は全部で60冊。表紙の右下に大きく“FH”の文字が刻まれている。

敗戦直前の1945年4月、ベルリンの総統防空壕から機密文書を運び出した飛行機がドレスデン南部のエルツ山中に墜落。総統の日記はその機骸から持ち出され、隠されていたが、とある情報筋から存在が明らかになり、手に入れるに至った。ディーラーの名は明かせない――。

ハイデマンの説明は、詳細を明かすと東ドイツの提供者に危険が及びかねないことを推測させるに十分だった。

1948年に創刊された週刊Stern(本社ハンブルク)は、政治と社会をテーマにする実用型のニュース報道誌である。ルポと写真に多くの誌面を割くため、グラフ雑誌と称されることもある。当時、この評価を不服とする同社は知識層を対象に販売部数でトップに立つ競合誌、週刊Spiegelを強く意識し、追い越すことを標語にしていた。

このスクープによって同誌が世界的に有名になることは間違いない。スイスと米国の専門家に依頼した筆跡鑑定では、本物とのお墨付きが出ている。「独裁者とナチ国家の歴史は部分的に書き換えられるはずです」と、コッホ編集長は力を込めた。

記者と古美術商が仕組んだ茶番劇

実際、日記の一部を掲載した4月28日発売の18号は売上を30%伸ばし、次週5月5日発売の19号も完売する。

しかし、内容を読んだ歴史家らは首をひねり始めた。例えば1933年2月27日の頁には、「月曜、雨、1日中在宅、夜、帝国議会」とだけ。ほかの頁も似たようなものだが、たまに長文が入る。肖像画家の前でポーズを取り、口臭に悩み、愛人エファ・ブラウンの想像妊娠騒ぎに同情する姿があった。しかしヒトラーは大の執筆嫌いだったはず。突然のこの饒舌(じょうぜつ)さはどうしたことだ。

1983年4月25日、記者会見で、発見したという「ヒトラーの日記」を掲げるハイデマン
1983年4月25日、記者会見で、発見したという
「ヒトラーの日記」を掲げるハイデマン
©THOMAS GRIMM/AP/Press Association Images

結局、世紀のスクープが世紀のスキャンダルへと転落するまでに要した時間は、わずか10日だった。5月6日、連邦公文書館、連邦刑事警察庁、連邦物質調査局が正式に「偽物」と判定。日記には45年以前には存在しない紙、インク、のりが使われていたのだ。

これほどお粗末な落ちがあるだろうか。茶番の主役は前述の記者ハイデマンと、美術商コンラート・クヤウである。60年代、ハイデマンは優秀な戦争記者だった。コンゴ動乱で彼が撮った写真は65年の世界報道写真大賞に輝いている。しかし70年代に入るとナチ物にのめりこみ、持ち家を売ってまで軍人ヘルマン・ゲーリングのヨットを購入。ゲーリングの姪を愛人にし、金欠病に陥る。それゆえ、総統の日記が隠されているという情報は、千載一遇のチャンスだったのである。

そこに、名画の模写を手掛けるシュトゥットガルト在住の古美術商クヤウが登場する。ドレスデン近郊の村に生まれ、ベルリンの壁出現以前に西へ逃れてきていたクヤウは、東ドイツの墜落現場とパイロットの墓を訪れて日記の存在を信じ込んだハイデマンに対し、東の隠匿者から日記を買い取り、西へ持ち出すことは可能だと言った。

全メディアへの教訓

クヤウ本人が日記を表紙から偽造し、すでに知られた出来事を満遍なく織り込んで、10年以上にもわたるヒトラーの日常を60冊もでっち上げることを、誰が想像できただろう。

事件発覚後に同誌の発行人から真相の解明を命じられた編集員ゾイフェルトは、「今考えると信じられないが……」と笑いを堪える。まずクヤウは表紙のイニシャルをFHと刻む大ミスを犯していた。アドルフ・ヒトラーだからAHのはずではないか。

当事件を描いた92年の映画『Schtonk!』に、ハイデマンの勧めで3冊を試しに買ってみた編集主幹らがそれに気付くシーンがある。「どうしてFなんだ、フリッツだったか?」「アハハまさか……。…F…F…Führer(総統)だよ…、Führer Hitler」。

筆跡鑑定家が照合のために別のヒトラー直筆を求めてきたときの話はもっと笑える。なんとクヤウ本人がそれを作り、鑑定家へと回されるようにハイデマンが仕組んだのだ。嘘の筆跡を同じ嘘の筆跡で照合すれば本物。ここでハイデマンは犯罪者になった。彼とクヤウは逮捕され、それぞれ4年8カ月、4年半の懲役刑を受ける。

こうしてStern誌の面目は丸つぶれになり、物笑いの種になってしまった。なにせ偽造日記60冊に930万マルクも払ったのだ。しかしなぜこうも簡単に騙されたのか。ヒトラーで大もうけを夢見た点では、記者も模写画家も出版社も同じだったのだ。金は人を盲目にする。当事件はすべてのメディアにとっても痛い教訓となっただろう。

24 September 2010 Nr. 835

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:09
 

転換 シュミットからコールへ Wende – von Schmidt zu Kohl

1982年10月1日
増え続ける失業者、米国の核ミサイル・パーシングII配備、連立与党・自由民主党(FDP)との対立。1980年代に入り、シュミット首相(社会民主党=SPD)は難しい政局に立たされた。

財政緊迫、FDPとの対立激化

1980年0.9%、81年0%、82年マイナス1.1%。経済成長率である。イラン革命による原油生産の中断から始まった79年の第2次オイルショックは、西ドイツ経済に大きな打撃を与えたのだ。失業者が倍増し、82年1月には7.2%、183万人に達する。

税収が減る一方で社会保障への拠出が膨らみ、国家財政はますます緊迫してきた。政府は税の優遇措置是正、補助金の削減、公務員給与の据え置きを実施する。

連邦に初めてSPDの首相が誕生してから13年。74年にヴィリー・ブラントからヘルムート・シュミットへと交代したが、常にFDPとの連立政権である。議会では、最多の議席数を持つキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)が野党席に座っていた。

SPDは72年時の改選を除き、69年、76年、80年の総選挙にいずれも勝利していない。そのSPDが政権を樹立し、維持できたのは、第3党のFDPが第1党CDU・CSUとの連立を望まなかったからなのだ。

しかし軍事と財政問題で、首相とSPD左派、およびFDP閣僚との対立は深まるばかりだった。首相は2月、議会に内閣信任決議案を出して可決させる。このときFDPが忠誠を示したのは、否決による解散総選挙を望まなかったからであろう。

内閣不信任決議へ

オットー・グラフ・ラムスドルフ経済相がFDP独自の経済社会政策案を提出したのは1982年9月9日。首相は、話し合う余地はないと突っぱねた。そして9月17日、連邦議会の演壇でFDPへの信頼を失ったと述べ、野党に対し、建設的不信任決議案を提出するよう求めた。

ドイツで議会が内閣への不信任を問う場合、次の首相候補が決まっていなければならない。ワイマール時代に左派と右派が倒閣だけを目的に共闘し、不信任案を乱発してナチスの台頭を許した過去をかんがみての方法である。

不信任決議は、議会にとっては内閣を倒すため、首相にとっては圧力をかけるための手段となる。シュミット首相とSPDは、CDU・CSUの首相候補であるヘルムート・コールに組閣能力を問い、FDPとその党首ハンス=ディートリヒ・ゲンシャーには、内閣が機能不全に陥った責任を取るよう迫ることで、将来起こりうる総選挙において有権者がFDPを罰することに賭けたのだ。

1982年10月1日、連邦議会での内閣不信任案可決によって新首相となり、宣誓するヘルムート・コール
1982年10月1日、連邦議会での内閣不信任案可決によって
新首相となり、宣誓するヘルムート・コール
©DPA DEUTSCHE PRESS-AGENTUR/DPA/Press Association Images

コール新首相の誕生

同日午後、ゲンシャー外相、ラムスドルフ経済相らFDPの閣僚4人全員が辞職し、CDU・CSUとの連立交渉を開始した。3党が消費税を1%アップして14%にすることなどで合意したのは9月28日。首相はかつての内閣同僚を“裏切り者”と呼んだ。

そして10月1日の連邦議会。シュミット政権に対する内閣不信任決議案がCDU・CSU、FDPの議員団から提出された。激しい審議が続き、投票は午後3時に持ち越された。投票総数495のうち、賛成256票、反対235票、棄権4票。戦後のドイツで初めて、かつ唯一の「前任を罷免し、同時に後任を任命する」建設的不信任決議はこうして可決される。

拍手が起こった。この時点で新首相コール(52)が生まれたのだ。笑みを浮かべたコールに、シュミット前首相が多少の落胆とかなりの安堵を交えた表情で近付き、祝福する。世界中のメディアがこのシーンを配信した。

名ばかりだった「転換」

そして小党FDPはまたしても、政治の天秤を左右する政権メーカーであることを証明してしまった。FDPがCDUとの連立を解消し、SPDにCDUと連立するチャンスを作ったのは1965年。69年からはSPDと組み、今度はCDUへの政権交代を可能にしたのだ。

このセンセーショナルな政権交代が以後、「Wende(転換)」と呼ばれるようになったのは、コール新首相が「精神的・道義的な転換」を求めたことに由来する。しかしFDPの閣僚ポストはシュミット政権そのまま。転換とは名ばかりとも言えた。

ゆえに“裏切り者”のゲンシャー、ラムスドルフに対する有権者の怒りは大きく、82年内に行われたヘッセン、バイエルン、ハンブルクの州議会選挙で、FDPの得票は議席配分の条件である5%を割り込んでしまう。さらに新政権内でもFDPの不協和音は止まらない。

ついにコール首相が内閣信任決議案を提出して否決させたのは12月17日。やっと連邦議会は解散され、83年3月に総選挙の予定が組まれた。このとき、CDU・CSUとFDP連立のコール政権が16年も継続することを、誰が予想できただろう。

27 August 2010 Nr. 831

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:10
 

平和運動 Friedensbewegung

1981年10月10日
NATO(北大西洋条約機構)が1979年12月12日に採択した「二重決定」を契機に、冷戦の最前線に立つ西ドイツ国民は核戦争への危機感を強め、平和運動に立ち上がった。

米ソ軍拡競争の尖鋭化

東欧諸国を加えた現在のNATOは周辺地域の紛争予防と危機管理に重点を移しているが、冷戦中はソ連共産圏に対抗するための西側軍事同盟であった。1979年時の加盟国は、米、英、カナダ、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、デンマーク、アイスランド、ノルウェー、イタリア、ポルトガル、ギリシャ、トルコ、西ドイツ。加盟国は域内のいずれかの国が攻撃された場合に、共同で応戦する義務を負っていた。

冷戦期の特徴は、米主軸の西側陣営とソ連を中心とする東側陣営が軍拡と核開発にしのぎを削り、それによって安定と均衡を保っていたことだ。こちらが手を出せば破壊的な報復がもたらされるという恐怖によって、米ソ間の直接戦争を回避してきたわけである。しかし核の抑止力に従っている限り、常に核兵器を増強し続けるしかない。

そのため70年代、米ソ間で戦略核兵器の制限交渉や欧州安全保障会議が始まり、緊張緩和の時代に入ったと見えた76年、ソ連が旧型ミサイルに替え、核弾頭を搭載する強力な中距離弾道ミサイルRT-21M(NATOコードSS-20Saber)を、ウラル地方以西の29基地に配備。射程範囲に入った西ヨーロッパ諸国は震え上がってしまった。

核配備——恐怖のシナリオ

これに対するNATOの反応が「二重決定」と呼ばれる。米ソ双方が軍縮交渉のテーブルに着くことを提案する一方で、米のパーシング2型ミサイル108基と巡航ミサイル・トマホーク464基を、1983年から西ヨーロッパに配備することを決定したのだ。「そちらがSS-20を撤去しなければ、当方も同レベルの新型核ミサイルを配備しますよ」というわけである。

1981年10月10日、ボンのホーフガルテンで行われた市民平和集会
1981年10月10日、ボンのホーフガルテンで行われた市民平和集会
© DPA DEUTSCHE PRESS-AGENTUR/DPA/Press Association Images

ここで、西ドイツには米英仏の軍隊が国中に分散して駐留し、冷戦が終わった現在も駐留し続けていることを思い起こしてほしい。特に米軍はハイデルベルク、シュトゥットガルト、マンハイム、ラムシュタインなど、26もの都市に基地(施設ではなく軍事活動拠点)を開き、軍人約30万人を配属。当時すでに7000基にも及ぶ核ミサイルを持ち込んでいた。対するソ連は東ドイツに50万もの兵力を投入し、SS-20が照準を西へ定めている。

この状況でNATOが西ドイツに、パーシング全基とトマホーク96基を割り振るというのである。それは、核兵器の発射拠点であると同時に攻撃目標になっている東西両ドイツを舞台に、すべてを抹殺する核戦争が勃発しかねないということを意味した。基地と軍人に身近に接する西ドイツ人にとって、ひどく現実的な恐怖のシナリオである。非核三原則に守られ、最近まで国防問題を他人事と考えてきた一般の日本人には馴染みのない感覚であろう。

反核・平和運動のうねり

市民の抗議行動が始まった。1980年11月16日、クレーフェルトに共産党系のグループが集まり反核宣言。ソ連を悪の帝国と名指すロナルド・レーガンが81年1月に米国大統領に就任すると、ドイツ国民の恐怖感はさらに高まる。

4月のイースター行進で各地の市民が反核を叫び、週刊シュピーゲル誌は43/1981号で平和運動を特集した。首都ボンで大規模な市民平和集会が開かれたのは10月10日。教会、組合、左派、環境保護系、さらには与党SPD、そして軍拡に反対する軍人らも加わった。

参加者30万人。会場のホーフガルテンとその周辺は市民で埋まり、「核兵器ストップ!」「原爆死反対!」などのプラカードが揺れる。国内からはノーベル賞作家のハインリヒ・ベル、国外からも著名な平和運動家らが壇上に立ち、最後に米国の歌手ハリー・ベラフォンテが「We Shall Overcome」を熱唱。レーガン大統領に中性子爆弾の開発中止を求めた。

しかしこうした抗議の声に対して、SPDのアペル国防 相は「国を弓矢で守ろうというのか」と反論。東西の戦力不均衡を最も恐れるシュミット首相は、平和論者たちを「子ども同然だ」と揶揄する。

結局、米が打ち出した米ソ双方のミサイル完全撤去案は83年11月、英仏の核兵器を除外したためにソ連から拒否されて座礁。こうして米の新型ミサイルは84年から西ドイツ、ベルギー、オランダ、イタリアに配備されてしまった。このときすでにシュミット首相は政権をCDU(キリスト教民主同盟)のヘルムート・コールに譲り、一方、平和運動で発言力を強めた緑の党が連邦議会へと進出していたことは、皮肉な展開とでも言えようか。

21 Juli 2010 Nr. 826

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:11
 

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