Hanacell
そのとき時代が変わった


緑の人々、連邦の党になる Die Grünen werden eine Partei

1980年1月13日
1970年代半ばから後半にかけて、環境保護や人権をテーマにした自由な有権者組織が各地で誕生し、地方自治体に議員を送り始めた。しかし州と連邦には、議席配分条件(有効投票数の5%以上の得票)がある。80年1月、彼らは全国組織を結成することにした。

草創期——政治参加の道を

この動きには、社会民主党(SPD)の連邦政権下で野党席に左翼がいなくなった背景がある。産業労働を基盤にする与党SPDに対抗するため、野党キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)の一部はドイツに古くから伝わるエコロジー思想に着目。一方、1960年代からの反体制活動家たちは国の法治体制を認めた上で、現実的な政治参加を模索し始めたのだ。緑の人々(Die Grünen)の全国党は、この2つの流れからまとまるのである。

まずは草創期をご紹介しよう。緑の人々の有権者組織(市政党)から最初の議員が誕生したのは77年10月。ニーダーザクセン州でだった。地方自治体の選挙に5%条項は適用されないため、ヒルデスハイムで“緑の環境保護 名簿”(GLU)が1議席、ハーメルンでも“原子力はいらない有権者名簿”が1議席を獲得する。

そして翌78年3月、“緑のシュレスヴィヒ=ホルシュタイン”(GLSH)が同州の2つの郡で、バイエルン州の“独立ドイツ人行動連合”(AUD)がエアランゲン市で議席を獲得。6月に行われたニーダーザクセン州議会選挙では、GLUの得票率が3.9%に達する。環境問題に関心のないSPD指導部は眉をひそめ、「緑は民主主義にとって危険」とさえ言った。

党設立の立役者、ヘルベルト・グルール

国民の環境意識を高め、緑の党設立に威力した人物に、元CDUの連邦議員ヘルベルト・グルール(1921~93)がいる。75年に著書『略奪された地球—経済成長の恐るべき決算—』で自然破壊に警告を発したグルールは、78年7月に意見の相違からCDUを離党。すぐさま“緑の行動と未来”(GAZ)を結成し、「右でも左でもなく前へ」をスローガンに各地の緑をまとめることになる。

Tatortのタイトル・デザイン
緑の地に向日葵の花をあしらった緑の党のロゴ
©Bündnis 90/Die Grünen

彼のGAZがニーダーザクセンのGLU、バイエルンのAUD、シュレスヴィヒ=ホルシュタインのGLSHと組んで初の欧州議会選挙に臨んだのは79年6月。グルールのほか、環境平和主義者ペトラ・ケリー、芸術家ヨーゼフ・ボイスを候補に立てた“諸派・緑の党”(SPV Die Grünen)は注目を集めて3.2%を得票。そして10月、“ブレーメンの緑”が州レベルで初めて5%条項を突破し、4人の市・州議員を誕生させるに至った。

この勢いにある意味で便乗したのが、衰退期にあった全学連や共産主義者、オルタナティブらの、いわゆる“Kグループ”である。グルールら保守右派の幹部は11月の党大会で、彼ら過激左派の加入を阻止しようと反対動議を出すが、僅差で否決。党員数は2830人から一気に1万人へと増える。全国党として新たに出発する時機が到来したのである。

全国党としての地位確立

1980年1月12、13日、カールスルーエに代表1004人を集めた党大会は、最初からカオスだった。投票権を拒否された左派が右派に圧力をかけ、政策立案メンバーに選ばれたオルタナティブの代表に対して、右派からリコール請求が出る。1カ月前にNATOが「ソ連に軍備制限を求めつつ軍備拡大を行う」とする二重決定をしたことで、左派の声はより熱を帯びていた。怒号が飛び交い、花が配られ、歌声が起こり、男性たちが編み物をする。男女の古い役割観を覆すこの挑発的な姿をテレビで見た国民は、あっけに取られたそうだ。

結局、この大会はスローガンだけを決めて解散。2カ月後の第2回大会でやっと政策と代表3人が決まる。この混乱期を乗り切れたのは、代表の1人になったペトラ・ケリーが「私たち緑は歴史的なチャレンジ、ムーブメント、そして“党”なのです」と左右を仲介し、東独からの亡命者ルドルフ・バーロが左派を、「君たちのいわゆる“レーニン主義”は茶番だ」と抑えたからだった。

しかし82年にグルールら右派が、環境問題をメインテーマにする党を新たに結成して離脱。こうして以後、環境保護だけでなく平和、人権、反原発、消費者保護、教育問題、フェミニズムなど幅広い政策を掲げる、オールラウンド路線が決定的になる。緑の党が連邦議会に28人の議員を送り込んだのは、結成からわずか3年後の83年だった。

18 Juni 2010 Nr. 821

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:11
 

蘇った過去 Holocaust

 
1979年1月22日
公共放送ARDで米国の長編テレビドラマ『Holocaust』が放映され、西ドイツ国民は初めて“自発的”にナチスとユダヤ民族虐殺の過去に眼を向けた。
 

対照的な運命 ── ヴァイス家とドルフ家

4回連続のこのテレビドラマでは、ベルリンのユダヤ人医師ヨーゼフ・ヴァイスとその家族の運命が、患者だった若いドイツ人エリック・ドルフ夫妻の出世と平行して描かれている。ご存知ない方のために、粗筋をご紹介しよう。

第1部(1935~40年)は、医師の長男カール(画家)と“アーリア人”インガの結婚式で始まる。ローレライを歌うヴァイス家はドイツ社会に完璧に同化したユダヤ人だ。一方、妻を診てもらったエリック・ドルフは、法学を修めていても職がない。そのためナチスに入党し、親衛隊(SS)の国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒに接触、出世街道を歩み始める。38年11月9日、ユダヤ人商店への襲撃事件が発生(水晶の夜)。長男カールはブッヘンヴァルト収容所へ、父ヨーゼフはポーランドへ追放され、母ベアタは次男ルディ、娘アナを連れて義理の娘インガの実家に身を寄せる。やがてルディは自由を求めて出奔、アナは1人で街に出てレイプされ、送られた精神病院で安楽死させられる。

第2部(1940~41年)では、ルディがプラハでユダヤ人女性ヘレナ・スロモヴァに遭遇。一緒に逃れたソ連領域で独ソの開戦に巻き込まれ、キエフ近郊バビ・ヤールでSSによるユダヤ住民大量殺害を目撃する。それを指揮したのはエリック・ドルフ。彼はユダヤ人の撲滅に射殺では効率が悪いと考え、化学者に相談する。

Holocaust
ドイツで『Holocaust』が放映された1979年、
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の
ガス室の跡地に立つ元収容者の男性
©HORST FAAS/AP/Press Association Images

ユダヤ人問題、最終解決へ

第3部は1942~43年。外部へのプロパガンダ収容所テレジエンシュタットへ移され、嘘の幸福図を描かされているカールと、自ら希望して入所した妻インガが再会。喜びもつかの間、秘密裏に現実を描いたデッサンが外部に漏れた。一方、母ベアタはワルシャワのユダヤ人ゲットーに送られ、医師として働く夫ヨーゼフと再会。しかしそこはアウシュヴィッツへの中継地でしかなかった。43年4月、ゲットー住民が武装蜂起。ゲシュタポ隊長ドルフは上部にチクロンBのガス利用を提案、ユダヤ人問題は最終解決へと進んだ。

そして最終章の1944~45年。カールは妊娠した妻インガを残してアウシュヴィッツへ送られ、父ヨーゼフと母ベアタもアウシュヴィッツへ送られた。次男ルディはパルチザンに合流し、ナチスを撃退していくが、その頃すでに両親はガス室に消え、カールも解放を待たず衰弱死する。戦後、米軍の取調べを前にドルフは隠し持っていた毒薬で自殺。ルディは義姉インガと生まれた甥を訪ね、イスラエル建国に協力するつもりだと語る。

大衆と過去をつないだ「ホロコースト」

以上4本のドラマがARDの番組表に載ったのは、1979年1月22・23・25・26日の夜8時。視聴率は最終章で40%に達し、Holocaustという耳新しいギリシャ語起源の英語は、わずか1週間で子どもから老人までが口にする単語となった。

ドイツ人は46年に政治映画『身近な殺人者』(監督ヴォルフガング・シュタウテ)で社会に潜むナチ戦犯の存在を示され、55年にはドキュメンタリーの秀作『夜と霧』(監督アラン・レネ)で虐殺現場の衝撃的な映像を見せられている。63~65年には収容所の実行犯を裁くアウシュヴィッツ裁判が開かれた。ナチスとその犯罪に関する書物は数知れない。

しかし米国のテレビドラマは、先の映画や裁判、書物では成しえなかった社会現象を引き起こした。大衆の心をつかみ、学校や職場でも「ホロコースト」を話題にさせたのである。

その理由はまず、絵巻物のようなドラマの構成にあるだろう。2つの家族の運命を描くことで、ユダヤ人殲滅(せんめつ)作戦のプロセスと記録に残る重大事件を満遍なく、まるで歴史書をひもとくように追っている。子どもたちはこの作品を通して初めて過去を実感することになった。

また、ホロコーストという外国語がクッションになり、過去に対して距離を置けたことも大きい。Massenmorde (大量殺人)、Judenvernichtung(ユダヤ人絶滅)では高く構えてしまうブロックを、Holocaustという見知らぬ言葉が外したのだ。

その結果、西ドイツ人はこれまで集団虐殺のカテゴリーに隠れていた“個人のドラマ”に感情移入を起こした。悲劇の主人公に自身を投影し、その心情を自分のこととして一喜一憂する。それは悲劇を観ることで成される心の浄化作用(カタルシス)に似ていたのかもしれない。

21 Mai 2010 Nr. 817

最終更新 Mittwoch, 28 Januar 2015 17:17
 

「Tatort」と大衆文化 "Tatort" in der Massenkultur

1970年代
反体制運動に揺れた1960年代後半からSPD・FDP(社民・自民)の連立政権へと政治が変わった70年代には、文化にも大きな変化が起きた。大衆に広く受容されるマスカルチャーが出現したのである。

時事問題を扱ったテレビドラマ

その代表格といえば、1970年11月29日のスタートから現在まで続くテレビドラマ「Tatort(タートオルト=事件現場)」である。制作指揮はドイツの公共放送ARDとオーストリアの公共放送ORF。レトロなタイトル・デザインはこの40年間に多少更新されているが、クラウス・ドルディンガー作曲のタイトル・ミュージックは変わらない。ドイツに長くお住まいの方なら、緊迫した、あのジャズのメロディーを一度は耳にされたことがおありだろう。

90分間のこの刑事ドラマを実際に作るのは、WDR(西部放送)やHR(ヘッセン放送)など地方の公共放送局。局ごとに脚本、監督、カメラ、俳優のチームが組まれる。つまり、シリーズにはハンブルク、ケルン、ミュンヘンなど各地の捜査班が交代で登場し、事件を解決するという趣向だ。そこでは地方の現実が描かれ、階層間の対立が暴かれる。この路線はハイカルチャー、エリート文化を自負する国、ドイツの社会に衝撃を与えることになった。

第1回のTatort作品『Taxi nach Leipzig(タクシーでライプツィヒへ)』を例に挙げよう。ライプツィヒの高速道路パーキングエリアで西ドイツ製の靴を履いた少年の死体が発見され、その子の父親が住むハンブルクの市警に東ドイツ検察から調査依頼が入る。しかし依頼は即キャンセルされたため、市警のトリムメル警部は逆に好奇心を募らせ、西ベルリンへ向かうと偽って自家用車で東ドイツに入国。ライプツィヒの近くでパンクを演出し、タクシーで少年の母親を探すと、彼女の愛人を名乗る人民警察官が現れた……。

統一から20年が経とうとしている今、若い方々にはさほどインパクトがないかもしれない。SPDのヴィリー・ブラント首相が東方接近を始めたとはいえ、この時代は冷戦のピークにあったことを思い出してほしい。東ドイツと分裂家族に触れるテーマは政治に真っ向から踏み込むことを意味した。もちろんライプツィヒでの撮影などはありえず、NDR局(北部放送)はハンブルクとフランクフルトでセット撮影をしている。

Tatortのタイトル・デザイン
ドラマの冒頭、緊迫感あふれるタイトル・ミュージックに
合わせて映されるTatortのタイトル・デザイン
©ARD/SF DRS/ORF

ニュー・ジャーマン・シネマの出現

さてここで、Tatortの出現に多大な影響を与えたドイツ映画の動きについて簡単に触れておこう。ドイツ映画は1920年代にエルンスト・ルビッチなど優れた監督を輩出したが、ナチ支配によって多くが亡命し、戦後は国際水準を追うばかりだった。しかし62年、無難な映画にうんざりした若い映画作家たちが、「古い映画は死んだ」と宣言。ここからニュー・ジャーマン・シネマと呼ばれる新しい動きが始まる。

しかし、彼らを財政支援するドイツ映画振興協会(FFA)が設立されたのは74年。それまでの間は、テレビ局が若手映像作家らに短編やドキュメンタリーなどの制作チャンスを与えていた。Tatortはこうした背景から生まれたのである。

この時代から非凡な監督が数多く出ていることはご存知かと思う。ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの『マリア・ブラウンの結婚』、フォルカー・シュレーンドルフの『ブリキの太鼓』(原作ギュンター・グラス)が世界的にヒットしたのは79年。ヴェルナー・ヘルツォーク、ヴィム・ヴェンダースも、カンヌやベルリンの映画祭で注目されていった。

Tatortが生んだスターたち

Tatortからハリウッドへ進出した監督もいる。ヴォルフガング・ペーターゼンは映画『Uボート』で商業的に成功するまで、Tatortドラマを4本手掛けていた。中でも1977年の作品『危険な年頃』は、当時16歳だったナスターシャ・キンスキーを一夜にして有名女優にした作品として、現在も語られることが多い。

シリーズでは、これまでに770本以上が制作された。登場した警部は90人を越える。中でも最も破天荒なのは、ゲッツ・ゲオルゲ演じるデュイスブルク署のホルスト・シマンスキー警部だろう。初登板は81年6月28日。飲んで殴る一匹狼シマンスキーは公務員のイメージをがらりと変え、老若男女を夢中にした。今や彼のホームページも開設され、劇中の情報を元にプロフィールまで作られているのだから驚きである。

文芸評論家も「本物の社会派ドラマであり、大衆文化の金字塔だ」と評価するTatort。来年放送予定のシマンスキー警部の最新作が待ち遠しい。

16 April 2010 Nr. 812

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:14
 

ドイツの秋 Deutscher Herbst

1977年9月5日〜
ドイツ経営者連盟会長の誘拐、ルフトハンザ機ハイジャック、RAF(ドイツ赤軍)服役囚の自殺、同会長の遺体発見と、テロが連鎖した6週間を「ドイツの秋」と呼ぶ。

連続テロの序曲

1970年代中頃、RAFとほかの極左暴力集団は、獄中にいる仲間を釈放させるためにテロを繰り返していた。ストックホルムの西ドイツ大使館が占拠されたのは75年4月。77年4月にジークフリート・ブーバック連邦検事総長、同年7月にはドレスナー銀行ユルゲン・ポント頭取が射殺される。秋に発生する連続テロの序曲だった。

9月5日午後5時29分、ケルン。ドイツ経営者連盟会長ハンス=マルティン・シュライヤーを乗せた公用車がRAFに襲われ、運転手と護衛警官は射殺、同氏は郊外のアパートに拉致される。要求は、RAF設立メンバーを含む同志11人の釈放だった。

ヘルムート・シュミット首相(SPD)は応じない方針を固める。75年2月に西ベルリンの市長候補が過激派「6月2日運動」に誘拐されたとき、政府は獄中の同派5人を国外へ出していた。「国家は再びテロに屈してはならない。ましてシュタムハイム刑務所(当連載第20回参照)内のバーダー、エンスリン、ラスペは絶対に出せない」。それが政府の総意だった。

ランツフート号のハイジャック

政府の姿勢は、接触禁止法を可決させたことで鮮明になる。囚人相互および外界との接触を遮断するこの法により、RAF囚は弁護士と面会できなくなった。すると拉致グループは監禁されたシュライヤー氏の写真をメディアに送り付け、さらに組織的なテロを実行したのである。

マヨルカ発フランクフルト行きのルフトハンザ航空181便ランツフート号が、フランス上空でハイジャックされたのは10月13日。男女各2人のハイジャック犯はパレスチナ解放人民戦線PFLPに属し、RAFの同志11人の釈放を求めた。

拉致されたシュライヤー氏と「RAFの捕虜20日」と書かれたプラカード。
拉致されたシュライヤー氏と「RAFの捕虜20日」と
書かれたプラカード。RAFがメディアに送り付けた
©FILE/AP/Press Association Images

ランツフート号はローマ、キプロス、バーレーンを経て14日にドバイ着陸。主犯格マームドは狂乱の度を強めていた。星型のロゴが付く手荷物を見つけると「ユダヤ人は誰だ、殺してやる」と叫び、その日が客室乗務員の1人の誕生日であることを知ると、管制塔にケーキを注文。震える人質86人にハッピーバースデイを歌わせる。

7分間のテロとの交戦

翌日、ランツフート号は南イエメンのアデンに強制着陸。脇の砂地に降りたため、シューマン機長が点検のため外へ出てしばらく戻らなかった。現地の責任者に乗客の保護を打診していたらしい。マームドは怒り狂い、戻ってきて機を発進させた機長の頭を通路で撃ち抜いた。乗客は恐怖のあまり叫び声すら出なかった。

17日未明、ソマリア・モガディシュに着陸。間をあけてルフトハンザ特別機2機も到着する。1機目に西ドイツ全権特使のヴィシュネヴスキー国務大臣、2機目には特殊部隊GSG9が乗っていた。ソマリアがGSG9の活動を承認したのは午後9時半。西ドイツ特使は時間を稼ぐため、マームドに釈放の準備に入ったとの情報を流した。

GSG9がランツフート号の非常口から突入したのは18日2時5分。「Köpfe runter !(伏せろ)」と叫び、動いている人間に銃を向けた。犯人の数は機長から生前に発信されていた。3人死亡、女1人逮捕。わずか7分の交戦だった。

メンバーの自殺、テロの犠牲

作戦完了、乗客は無事です——。ドイツ時間0時12分、報告を受けた首相は涙をぬぐったという。しかしこれで、人質になっているシュライヤー会長には死が確定したとも言えた。RAF囚を集めたシュタムハイム刑務所7階の看守が異変に気付いたのは午前7時41分。アンドレアス・バーダー、ヤン=カール・ラスペは銃で、グドルン・エンスリンは首を吊って死んでいた。その翌日、エルザスの山中でシュライヤー会長が射殺体で発見される。

しかし独居房の受刑者がなぜ同時に自殺を図れたのか。彼らは贅沢な待遇を受けていた。平時には相互に面談ができた上、ラジオやテレビの視聴も自由。電気に強いラスペは湯沸かし器まで組み立てていた。この彼が通信ケーブルを各部屋間に通し、シンパの弁護士から銃が手渡されていたことは間違いない。彼らの死は自殺と結論付けられた。遺体にはいくつもの誤射と苦悶の痕があったそうだ。なぜ看守はその騒ぎに気付かなかったのだろうか。

シュライヤー未亡人は生涯、「夫が見殺しにされたことには納得できない」と言い続けた。「罪悪感は消えない」とシュミット首相は振り返る。世界を震撼させ、テロ対策の流れを変えたドイツの秋は、こうして終わった。

19 Februar 2010 Nr. 804

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:19
 

ヴォルフ・ビアマンの東ドイツ市民権剥奪 Biermanns Ausbürgerung aus der DDR

1976年11月16日
東ドイツ史には体制批判の記念日が3つある。労働者が蜂起した1953年6月17日、文化人が抗議声明を出した76年11月17日、そしてベルリン市民が壁を開かせた89年11月9日だ。2つ目の記念日の原因を作ったのがヴォルフ・ビアマンだった。

詩と歌で行った体制批判

冷戦期にドイツの一方から他方へ移ったと聞くと、普通は東から西への亡命を思い浮かべるだろう。しかし例えば、生まれたばかりの娘アンゲラ(現メルケル首相)を連れて東ドイツの教区に赴任したホルスト・カスナー牧師のように、数えるほどではあっても西から東へ移ったドイツ人もいた。今回の主役ヴォルフ・ビアマンもその1人である。

彼がハンブルクから東ドイツへ移住したのは1953年。16歳だった。当時まだ禁止されていなかったドイツ共産党が、青年部の50人を実地研修へと送り出したのである。ビアマンの父はアウシュヴィッツで殺されたユダヤ人共産主義者、ドイツ人の母も同志だった。その息子ヴォルフは母の期待に応えて共産主義者に成長し、その理想を実現すべく東へと移ったのである。そしてフンボルト大学で政治経済学を履修。しかし61年のベルリンの壁建設をきっかけに、詩と歌で東ドイツの体制を批判することになってしまった。

東ドイツを支配するSED(ドイツ社会主義統一党)は、ビアマン脚本による演劇公演を中止させ、詩の発表も禁止した。しかしその一方で、64年に西ドイツでの朗読ツアーを許可している。飴を与えたわけだ。するとビアマンは西で詩集を出版し、68年には東ベルリンの自宅で制作したLPを西の訪問者に託してリリース。東でも闇のコピーが出回った。

ドイツの12月にシュプレー川は東から西へ流れ/僕は鉄道で壁を高々と越えた/ふわりと鉄条網の上を/血塗られた犬たちの上を浮いていく……(筆者訳)

72年に公表した詩の一節である。愛する祖国ドイツの停滞を批判したハインリヒ・ハイネの詩集『ドイツ冬物語』からタイトルを借り、愛する惨めな東ドイツを描写したのだ。

SEDはこの不愉快な詩人に激怒した。党は共産主義の敵から批判されるより、それを信奉する同志から批判される方が腹が立つ。ビアマン追放の動きが始まった。しかし本人に出国の意志はない。シュタージ(国家保安省)の記録によると、「詩人追放作戦」は5回試みられ、6回目で成功する。

ヴォルフ・ビアマン(左)とアーミン・ミュラー=スタール
今なお現役で活躍するヴォルフ・ビアマン(左)と
アーミン・ミュラー=スタール
左)©MATINEE ZUMÅ 70. Geburtstag-mit Ulrich Wickert
am Sonntag Foto: NDR/Thorsten Jande
右)©A3637 Joerg Cars tensen/DPA/
Press Association Images

「この嫌な鳥が僕を冷たく捕まえて」

1976年秋。ビアマンは9月に11年ぶりのコンサートを東ベルリンの教会で開いた。教会に所属する同姓同名のシンガーと間違えて許可されたコンサートだった。しかし政治局はこれを機に寛大なふりをして、西ドイツの労働組合IGメタルが11月に計画するコンサートへの出演を許可。ビアマンは当局から再入国の約束をもらい、出国する。

11月13日、ケルン。ビアマンは『プロイセンのイカロスのバラード』を歌った。……逃げたいなら行きな/僕はここにいるよ/この嫌な鳥が僕を冷たく捕まえて/遠くへ放り投げるまで/なぜって僕はプロイセンのイカロス/鋳鉄でできた灰色の翼だ……(筆者訳)

鳥とはプロイセンの、そしてその継承者とも言えるブランデンブルク州の紋章にある鷲である。帰国が頭にあるビアマンは過激な党批判を避けた。しかし11月16日にSEDはビアマンの市民権剥奪を決定。翌17日にそのニュースが流れるや、東の文化人13人が党への抗議声明を、フランス通信社AFPを通して公開したのである。

霧散した文化人の抗議

抗議行動は5日後、100人以上の署名が集まる展開になった。それまでビアマンの存在さえ知らなかった東の国民も、西の第一放送ARDを受信してコンサートの録画を見てしまう。追放して一件落着と踏んでいたSEDにはとんでもない誤算だった。

当局は比較的無名の署名者をただちに刑務所に入れ、逮捕すると騒ぎになる有名人に対しては懐柔策に出た。裏切った愛人を取り戻そうとする必死の試みに似ていなくもない。

こうして劇作家ハイナー・ミュラー、彫刻家フリッツ・クレーマーらは署名を撤回。しかし一方で、エクソダスとも呼べる集団脱出が発生する。詩人ザラ・キルシュ、人気俳優マンフレッド・クルーグら多くが出国許可を得て西へ移った。

現在、この事件を積極的に語る関係者が少ないのは、各々の道を選択する過程で失望し、信頼関係が崩れてしまったからだという。留まって体制批判を続けた作家クリスタ・ヴォルフも語らない。就業を禁止されても1年以上留まり、戻れない覚悟でハリウッドへ移って成功した俳優アーミン・ミュラー=スタールも、2006年にシュピーゲル誌の取材にただ1人応えたとき、当局と取り引きしてすぐに出国した俳優仲間については苦い口調になった。

こうして文化人たちの抗議行動は霧散してしまった。しかし歴史の大きな流れの中で、この事件は「東ドイツ終焉の始まり」とみなされている。

19 Februar 2010 Nr. 804

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:20
 

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