Hanacell
そのとき時代が変わった


シュタムハイムRAF(ドイツ赤軍)裁判 Stammheim-Prozess

1975年5月21日〜77年4月28日
RAFの犯罪を審理する初めての裁判がシュタムハイム刑務所に建てられたビルで開廷。アンドレアス・バーダー、ウルリケ・マインホフ、グドルン・エンスリン、ヤン=カール・ラスペら設立メンバー4人が被告席に座った。

「城塞」さながらの裁判所

1972年6月にRAF(Rote Armee Fraktion)の中核が次々に逮捕されてから、約3年をかけて準備した裁判である。起訴状には銀行強盗や器物損壊などに加え、逮捕直前にフランクフルト、アウグスブルク、ミュンヘン、カールスルーエ、ハンブルク、ハイデルベルクで起こした爆破による殺人4件、傷害34件に対する罪科が挙げられた。

審理の担当はバーデン=ヴュルテンベルク州のシュトゥットガルト高等裁判所。爆破による犠牲が最も多かったハイデルベルクが同州に位置することから選ばれ、被告らはシュトゥットガルトの北部にあるシュタムハイム刑務所の7階に集められていた。

しかし被告を開廷ごとに刑務所から裁判所へと移動させれば、RAF第2世代から奪還目的に襲撃される恐れがあった。そのため当局は刑務所のゲレンデに堅固な多目的ビルを新設し、その中で裁判を開くことにする。法廷となった窓のないホールはむき出しのコンクリート壁に囲まれ、さながら城塞であった。

前例のない裁判である。1年半前には被告の1人ホルガー・マインスがハンガー・ストライキのため死亡し、RAFが裁判官や検察官らを標的にする危険もあった。

RAF第1世代の誕生

主犯格はミュンヘン生まれのアンドレアス・バーダー(1943年生)。学校を中退し、西ベルリンのヒッピー共同体に出没したボヘミアンである。車の窃盗や文書偽造などの軽犯罪に手を染め、既婚の女流画家との間に22歳で1女をもうけていた。

バーダーが、ドイツ文学の博士課程にいたグドルン・エンスリン(40年生)と出会ったのは1967年の夏。イラン国王のドイツ訪問に抗議する西ベルリンの全学連デモで、男子学生が警官に射殺された直後である。体制に激怒するエンスリンがパートナーと、産んだばかりの息子を捨て、バーダーと共にデパートを放火するまでに時間はかからなかった。

しかしRAFの設立は、ウルリケ・マインホフ(34年生)の登場を待たねばならない。社会学を学んだマインホフは雑誌の編集長になり、結婚して双子の娘を出産。反体制デモを組織する左翼界のシンボル的な女性だった。その彼女がバーダーと出会って過激化し、再逮捕された彼に取材する名目で70年5月14日に刑務所を訪れ、脱走に協力。自身も追われる身になる。バーダー=マインホフ・グルッペと呼ばれるRAF第1世代の誕生である。

当裁判が長期に渡ったのは、被告らがハンガー・ストライキを断続的に行い、弁護側と共に挑発的な言動を取って審理を故意に遅らせたためだ。「国家と戦争状態にある」彼らは、法廷を法治国家転覆のための舞台として利用したのである。

2007年に発見された裁判の録音を聴くと、75年10月28日にバーダーは「週に3回も開廷する横暴を拒否する」と発言。マインホフは76年3月10日、司直による弁護人の解任を批判しつつ、ほかの被告たちから距離を置く発言をした。

彼女が独房で首を吊るのはその数週間後。検死により自殺と発表された。しかし世論は不透明さを批判し、法廷では証人として喚問されたRAFのメンバーが、「ウルリケの仇だ」と叫んでテオドール・プリンツィング裁判長に襲い掛かる一幕もあった。

シュタムハイムRAF(ドイツ赤軍)裁判
RAF第1世代の中核メンバー。左からヤン=カール・ラスペ、
グドルン・エンスリン、アンドレアス・バーダー
©/AP/Press Association Images

RAFを生んだものとは

RAFはなぜ生まれたのか。第1世代における女性の比率は50%に近かった。アジビラを書いたのはマインホフ、資金責任者はエンスリンである。それゆえ、強い性的オーラを放つボス、バーダーに取り込まれたという生物学的な考察が1つ。2007年に初めてインタビューに応えた当時の裁判長プリンツィング氏は、バーダーの印象を「無法者だが指導力は抜群で、戦前に生まれていたら優秀な兵士になっていただろう」と語った。

父親(国家)への満たされない愛が憎悪に変わったという心理学的な考察もある。いずれにせよ彼らは、過去について沈黙する父親世代を糾弾しながら、同じ暴力に頼る蹉跌(さてつ)を踏んだ点で、同様の犯罪者だった。唯一傍聴を許された司法専門の報道記者ウルフ・シュトゥーベルガーはその点を指摘し、罪状の徹底糾明を行うべきだと述べている。

最後に被告たちと関わった弁護人の数奇なキャリアを記しておこう。放火犯当時のバーダーとエンスリンを弁護したホルスト・マーラーは自らRAF設立に加わって逮捕され、獄中で極右に転向。当裁判でバーダーを担当したクリスティアン・シュトレーベレは緑の党の連邦議員、エンスリンを弁護したオットー・シリーはシュレーダー前政権の内相になる。そして被告らは終身刑を受けた77年に惨い最期を迎えるが、それについては次々回までお待ちいただきたい。

22 Januar 2010 Nr. 800

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:21
 

ギヨーム事件とブラント辞任 Guillaume-Affäre / Rücktritt Willy Brandts

1974年4月24日
ブラント首相(SPD =社会民主党)の個人秘書ギュンター・ギヨームとその妻クリステルが東独スパイの容疑で逮捕され、わずか12日後に首相自らが責任を取って辞任。国民は2重の衝撃を受け、様々な疑問を口にした。

欠けていた確証——遅れた逮捕

首相の個人秘書という、一国政治の頂点部分にまで東独の諜報活動が入り込んでいたことに国民は大きなショックを受け、さらに前年5月末の時点で連邦憲法擁護庁(BfV)からゲンシャー内相を通してブラント首相へと、疑惑が知らされていたことにも驚いた。首相はなぜギヨームを解任しなかったのか。なぜ逮捕までに約1年もかかったのか。

「ブラントは半信半疑だったのではないか」と、逮捕直後に出たシュピーゲル誌は書いている。これまでに幾多の要職がスパイとして逮捕される一方で、根拠のない噂話も多かったからだろう。あるいは諜報機関による陰謀の可能性も考えたかもしれない。

西独の諜報機関には、国内を監視するBfVと、国外を扱う連邦情報局(BND)の2つが存在する。ソ連共産陣営に対峙するこの2機関は、当然ながらドイツに初めて誕生した社会民主主義政権を快く思っていなかった。特にBNDは、戦後アメリカ占領軍の後押しで元ナチス親衛隊員やゲシュタポを主要メンバーとして発足した前身(ゲーレン機関)を持つだけに、保守反動の傾向が強かった。

そのためブラントは、BNDと連携するBfVの情報を鵜呑みにできなかったのかもしれない。あるいはこのことで、東側にいるBND諜報員の動きが発覚する危険も考えたであろう。ギヨームがスパイであるとの確証がない以上、首相は動くわけにはいかなかったのだ。

スパイの仮面が暴かれた日

BfVによると、当時約1万1000人もの東独工作員が西独で活動していた。彼らは、建国から壁出現までの12年間に西へ逃れた亡命者270万人に混じり、西独に潜入してきていたのである。

ギヨーム夫妻も同様、東独国家保安省シュタージの工作員教育を受け、亡命を装って1956年に西独へ入った。フランクフルトに居を構え、翌年SPDに入党。ギュンターは党の地区指導員、クリステルは党の秘書として事務能力を発揮する。そして68年、夫はフランクフルト市議に当選。その後、連邦に誕生したブラント政権の首相府へと推薦を受け、首相の個人秘書へと潜り込むまでに要した期間はわずか4年だった。

彼のベルリン方言をブラントは気に入っていたという。首相は西ベルリンの前市長である。彼らは家族ぐるみで付き合い、ブラントは疑惑を知らされてからも妻の母国ノルウェーでの休暇にギヨーム一家を同行させる。逮捕後に事情を知った政府要人と知人らは、ギヨームの凡人ぶりとブラントの仮面顔を思い出し、信じられない演技力だと驚いた。

当事件は、東独がブラントの極秘文書や私生活まで知っていることに疑問を持ったBNDが、シュタージの対外諜報本部(HVA)から出る短波を集めた記録をひっくり返し、その中にあった3通の祝福メッセージの発信日がそれぞれ、ギヨーム夫妻と1人息子の誕生日と一致することから人物が割り出された。

連邦刑事庁(BKA)がギュンター・ギヨームを自宅アパートで逮捕したのは74年4月24日。そのとき彼が「私はドイツ民主共和国(DDR)市民、HVAの将校である。敬意を払いたまえ!」と発言し、それが有罪の決め手に欠く後の裁判で重要な状況証拠となる。

ギヨーム事件とブラント辞任
ブラント辞任2日後の1974年5月9日、次期政権について
話し合うSPD議員団長のヴェーナー(右)と後継候補の
シュミット(中央)。左はブラント。
©Strumpf/AP/Press Association Images

「誰かが責任を取らなければ」

逮捕後、首相はBKAが押収したギヨームの記録物件を読み、5月6日の夜にハイネマン大統領へ辞表を提出した。ブラントはその日の早朝、妻が眠るベッドの足元に立って「今日辞任するよ」と言い、妻は「誰かが責任を取らなければならないものね」と答える。政治的責任による辞任を語るときによく引用されるエピソードだ。

確かにギヨーム事件は、ブラント辞任の原因になった。しかし彼に辞任を決意させた実際の理由については、今もって様々な解釈がなされている。ギヨームが世話したという女性との交際を暴露されることを恐れたのか、うつ病のために気力を失ったのか、闇将軍と言われたSPD議員団長ヘルベルト・ヴェーナーによって辞任へと追い込まれたのか。

いずれも真実だろうと、南ドイツ新聞は辞任後30年が経った2004年5月6日に書いた。党体制の豪腕ヴェーナーがセンチメンタルなブラントに見切りをつけ、SPD政権を継続させるために、保守テクノクラートのヘルムート・シュミットを首相後任に推したことは想像に余りある。

そして東独は、皮肉にもブラントの辞任に驚いてしまう。同政権下で新東方政策が始まり、相互に国家主権を承認したのは1972年12月(東西ドイツ基本条約)。この時期のブラントの失脚は、東独にとって望まない事態だった。そのためギヨームは、東独が送り込んだ最高のスパイ、しかし作戦そのものは失敗に終わったと言われている。

18 Dezember 2009 Nr. 796

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:22
 

ミュンヘンオリンピックの惨劇 Münchner Olympia Attentat

1972年9月5日
オリンピック開幕から10日が経過した9月5日の未明、選手村にパレスチナの秘密テロ組織「ブラックセプテンバー(黒い九月)」が侵入。イスラエルの選手を人質に取った。

薄弱だったテロへの危機感

自由なドイツ、開かれたドイツを世界に示そう。西ドイツはオリンピックに希望を託していた。開催地はミュンヘン。ヒトラーを独裁者へと成長させた街である。期間中に警察官ばかりが目立つと、その過去を彷彿とさせるかもしれない。バイエルン州と市は、警備を通常の増員体制でいくことにした。

しかし時局はテロの危険を示していた。1972年上半期だけでも、黒い九月がハンブルクとオランダのエネルギー施設を爆破、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)がサベナ航空572便をハイジャック、ドイツ赤軍(RAF)がカールスルーエなどで連続5件の爆破、PFLPから依頼された岡本公三ら日本赤軍3名がテルアビブのロッド国際空港ターミナルで無差別乱射、と断続的に発生。イスラエルのオリンピック委員会は特別警戒を求めたが、西ドイツは過激派テロの反社会性を甘く見ていたのだ。

黒い九月、選手村に侵入

こうした状況下で、ミュンヘンオリンピックは8月26日に開幕。11日目を迎えた9月5日の未明、選手村の近辺で電話線を整備していた郵便局員3人が、フェンスを乗り越えて村内に入っていくトレーナー姿の男性集団を目撃する。フェンスの高さはわずか2メートル。すでにこの方法で宿舎へ近道する男子選手たちの姿が何度も目撃されていたため、朝帰りの選手たちだろうと郵便局員らは思った。

しかし、彼らのスポーツバッグには自動小銃や手榴弾が入っていた。4時35分、彼らはイスラエル選手団の居住フロアに侵入し、抵抗したコーチ1名と選手1名を射殺。ウエイトリフティングの選手1名が窓から脱出できたが、ほか9名の選手は人質になった。

黒い九月と名乗った占拠グループから、イスラエルに収監されているパレスチナ人234名の釈放を求める声明が出されたのは5時30分。警察本部、バイエルン州内相らが対策本部を設置したのは6時40分。すでにテレビ局や外国の報道陣が実況中継を始めていた。

覆面をして選手村に立てこもる占拠グループのメンバー
覆面をして選手村に立てこもる占拠グループのメンバー
©KURT STRUMPF/AP/Press Association Images

オリンピック史上最悪の悲劇

以後、この事件はテロとオリンピックが同時に進行するという、まれにみる展開となった。黒い九月が求めた最後通牒の9時は、12時、さらに17時まで延長され、その間、9時からハンドボールの日本対ドイツ戦、10時には乗馬とカヌーがスタート。しかし、15時開始予定の男子バスケットボールの試合にエジプト選手が現われず、国際オリンピック委員会(IOC)のブランデージ会長は、ようやくこの時点でオリンピックの中断を発表する。

そして17時、占拠グループは人質を連れてカイロへの脱出を要求。ドイツ側はエジプト政府から了解を得たと嘘をつき、出国を模した飛行場での狙撃計画を立てた。

それがいかにずさんであったかは、現場に急行したイスラエル諜報機関モサッドの長官が目を覆った事実が示している。ルフトハンザ機が待機するフュルステンフェルトブルック空軍基地に、犯人と人質を乗せたヘリコプターが着陸したのは22時。照明は暗く、狙撃手の銃はスコープなしの一般ライフル。乗務員の格好で機内に待機するはずだった一般警察官たちは、準備不足と役割への不安から逃げ出していた。

罠に気づいた犯人に狙撃手が発砲したのは22時50分。約2時間の銃撃戦で、人質9名全員、警察官1名、占拠犯8名のうち5名が死亡する流血の惨事となった。

惨事がもたらした教訓

翌日、IOCはオリンピックスタジアムで追悼式を開き、数々の人種差別発言ですでに辞任を求められていたブランデージ会長が、怒号渦巻く中でゲームの続行を宣言する。「The game must go on!」

耳を疑う選手、密かに安堵する選手、試合の予定を考える各国関係者。友好と相互理解を謳うスポーツの祭典は、その目的とはほど遠い現実の姿を露呈した。

一方、救出作戦失敗の原因について分析されたのは後々のことであり、ドイツ当局は当初から落ち度を認めなかった。殺されたイスラエル人選手の遺族から起こされた賠償請求にバイエルン州が応じると決めたのは、なんと28年後の2000年9月である。

しかし、この事件が西ドイツにある種の覚悟をもたらしたことだけは確かだ。テロへの対処を主な任務とする特殊部隊の設立が決まったのは、惨劇直後の9月26日。6年後に発生したルフトハンザ181便ハイジャック事件で人質救出に成功し、日本の特別急襲部隊SATのモデルになったGSG9(国境警備グループ9)は、こうして誕生したのである。

20 November 2009 Nr. 792

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:23
 

私たち、中絶しました! Wir haben abgetrieben !

1971年6月6日
1971年6月6日の朝、キオスクで週刊誌Sternの最新号を手にした通勤客は度肝を抜かれた。表紙一面に女性28人の顔写真がずらりと並び、横帯に付されたタイトルは「私たち、中絶しました!」。こうして戦後最大のタブーは破られることになった。

中絶は有無を言わさず違法

写真には国際的スターのロミー・シュナイダー、女優ゼンタ・ベルガー、スーパーモデルのフェルシュカ・フォン・レーンドルフらの顔も見られ、ページをめくると、刑法218条の改正を求める請願書が彼らを含む女性374人の署名入りで公表されていた。

当時の西ドイツは、この刑法218条によって妊娠中絶を犯罪と規定し、堕胎手術を引き受けた者に5年以下の、依頼した妊婦には1年以下の自由または罰金刑を科していたのである。中絶の企てさえも刑罰の対象であった。

一般に望まない妊娠をした女性たちは、たとえそれが性暴力を受けた結果であっても、あるいは未婚であっても産むしか道はなく、どうしても産みたくない女性は、中絶が合法の英国かオランダへ行くか、国内で極秘に手術してくれる医者を探すしかなかったのだ。

それでも闇の中絶は、年間数万件はあったと推定され、堕胎を引き受ける助産婦らを指して天使製造人(Engelmacherin)なる言葉さえあった。無謀な堕胎によって妊婦が死亡する事故も珍しくなかった。そういった現実を政治家も司法も神父も、つまり男性たちは十分に知っていたが、重い口を開こうとはしなかったのだ。

アクション218
「アクション218」を率いたアリス・シュヴァルツァー(写真中央)。
1987年6月、雑誌EMMAの創刊10周年記念パーティーにて
©CHRISTEL BECKER-RAU/AP/Press Association Images

大衆誌で張った合法化キャンペーン

この「アクション218」を率いたのは、後に女性解放運動の旗手として雑誌EMMAを創設することになる女性ジャーナリスト、アリス・シュヴァルツァーだが、手段はフランスからのコピーだった。

2カ月前の4月11日、フリーランスの記者としてパリに滞在していた当時29歳の彼女は、シモーヌ・ド・ボーヴォワールやジャンヌ・モロー、カトリーヌ・ドヌーブなどの有名人を含む女性343人が雑誌上で「中絶手術を受けた」と公言して中絶の合法化を求めた勇気に感銘し、西ドイツでの実行を思い立ったのである。

その際にStern誌をアクションの場として選んだのは、大衆的な報道雑誌として多くの読者を抱えていたからだろう。Spiegel誌は知識層に限られ、Focus誌はまだ発行されていなかった。実はフランスでも西ドイツでも、実際には手術を受けていない署名者がかなりの数含まれていたが、国家の管理から自分の肉体を取り戻すために立ち上がった彼らの連帯感に、多くの女性読者は勇気をもらったのだった。

一方、男性たちは驚愕し、怒りの反応に出た。中絶を自由化して出産を女性の意のままにさせたら、男性は女性を管理できなくなる。署名者の多くが職場で配置換えや解雇の脅しを受け、何人かの女性宅には堕胎罪と民衆扇動の容疑で家宅捜査さえ入った。

「中絶を違法としない」法律へ

しかし結局、検察庁は誰1人として起訴できなかった。同年7月19日、「アクション218」は中絶自由化を求める8万6000人の署名を法務省に提出。メディアはおおむね賛成へと論調を変え、11月には何千という女性たちが218条の破棄を求めて街頭デモに出た。

時のSPD・FDP(社会民主党・自由民主党)政権は世論に押された形で、まず1974年に一部の改正を行い、ようやく76年7月21日、公的機関での面談により理由が認められる場合には受胎後12週まで、優生学と母体保護に基づく理由または犯罪による理由がある場合には22週までの中絶を違法としない新218条を施行する。こうして出産を望まない女性は面談を受け、面談証明書を発行してもらうことで中絶手術を受けられるようになった。

ここで、東ドイツの事情にも触れておこう。東はほかの共産圏と同様、マルクス主義による宗教の否定と女性の労働力を確保する目的から、病院で容易に中絶手術を受けられる管理体制を整えていたが、西側の動向を意識して72年に類似の刑法153条を施行。皮肉にもこれ以降、中絶数は大幅に減少する。それでも人口比で見ると西の2倍の堕胎があった。

こうして中絶合法化のプロセス1つを取っても、西欧は闘って自由を獲得してきた社会であることがよく分かる。女性たちは、個人の意思に基づいて中絶を選ぶことは基本的な権利であると主張したのだ。経済的な必要性から倫理的な葛藤を経ずに手続きを簡素化し、中絶天国になった日本との違いは、かように大きい。それがシングルマザーの社会的な認知の差にも現われているように見える。現在、新生児に占める婚外子の割合は日本2%。ドイツでは30%弱となっている。

16 Oktober 2009 Nr. 787

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:24
 

ワルシャワでひざまずいたブラント Brandts Warschauer Kniefall

1970年12月7日
1970年12月7日、ヴィリー・ブラント西ドイツ首相(社会民主党=SPD)はワルシャワを訪れ、ポーランドとの国交正常化基本条約に調印。その足でゲットー英雄記念碑に献花し、ひざまずいて黙祷を捧げた。

東との断絶―ハルシュタイン原則

ホロコーストへの深い謝罪として世界に報道されたこの姿に対して、西ドイツ人がどのように反応したかを語る前に、ブラント政権の政策に触れておきたい。

1969年10月に発足したSPDとFDP(自由民主党)の連立政権が、「新東方外交」を進めたことはご存知だろう。それは、原案者の名前を冠して「ハルシュタイン原則」と呼ばれた外交方針を“正式に”破棄することだった。

この原則を採用していたのは、63年まで西ドイツを率いたアデナウアー首相(キリスト教民主同盟=CDU)である。東ドイツを絶対に国家とは認めず、「ソ連地区(Zone)」や「中部ドイツ*」と呼んでいた彼は、55年にソ連と国交を樹立して最後の残留ドイツ人戦争捕虜1万人の釈放に成功すると、ただちに「ソ連以外で東ドイツを承認した国とは国交を断絶する」とするこの原則を採用し、東欧やアラブ、アフリカを舞台に、東ドイツが通商代表部を設ければこちらは手を引くなどの外交競争を続けてきたのだった。

ブラント東方外交による東の承認

しかし1960年代中頃、キューバ危機を経て東西陣営間の緊張がゆるみ、新興独立国が次々に東ドイツを承認しはじめると、アデナウアーの後継者であるエアハルト首相とキージンガー首相は行き詰まりを認識。原則に従って57年から断絶していたユーゴとの外交を再開したり、イスラエルと国交を――アラブが反発から東を承認することが予測されても――樹立するなど、原則を破棄しないまま新しい外交関係を試すようになった。

この接近政策をさらに進め、原則を正式に破棄したのがブラント政権だったのだ。発足に際して「2つのドイツの存在を認める」と発言したブラントは、早速70年3月に東西ドイツの首脳会談をスタートさせ、8月にはソ連と武力不行使・現状承認に関する条約、12月7日にはワルシャワを訪れてポーランドと国交正常化基本条約に調印。互いにいかなる領土的な要求も持たないことを確認した。

つまり西ドイツは、ポーランドが東ドイツと河川の国境を形成するオーデル=ナイセ線を事実上の独ポ国境であると認めたのである。これは、戦後同線の東側に位置する旧東部ドイツ領から追放され、その回復を望む東方出身者たちの気持ちを逆なでする決定だった。

ワルシャワのゲットー英雄記念碑の前でひざまずくブラント首相
ワルシャワのゲットー英雄記念碑の前でひざまずくブラント首相
©Bundesregierung Photo: Engelbert Reineke

ゲットー英雄記念碑前での跪座

ゲットー記念広場はワルシャワの旧市街からほど近い。かつてこの地区には、ナチス・ドイツが同市のユダヤ人を強制移住させた居住区(Ghetto)があった。1940年11月の時点で囲い込まれたユダヤ人住民は約40万人。その多くが劣悪な食糧事情と衛生状態のために病死し、42年以降は強制収容所へと送られた。それが死を意味することに気付いた住民が43年4月に武装蜂起し、1カ月間血まみれになって戦い惨敗。ゲットーはほぼ空になった。

その蜂起の様子が刻まれている英雄記念碑の前に、西ドイツの代表団は並んでいた。花輪がモニュメントの手前に捧げられ、ブラント首相が進み出て花輪から下がる2本のリボンの位置を調整する。西洋の献花式で代表者が行う行為である。そして数歩後ろに下がり、頭を垂れて数秒。突然ひざまずき、両手を組んで黙祷を始めた。カメラのフラッシュが炸裂する。西ドイツ代表団は呆然と首相の姿を見つめていた。

この「跪座(きざ)」は計画的だったのだろうか。当夜ブラントは、首相府長官エゴン・バール(SPD)からの質問に「立っているだけでは十分ではないとふっと感じたんだ」と説明したという。

国外からの賛同、国内の反発

ドイツ人に迫害されたユダヤ人への哀悼を跪座のポーズで、しかも自らナチスに追われた経験を持つドイツ人が示したことは、特別な重みを持っていた。国際的にはナチスの犯罪をドイツ国民が認めた徴として注目され、日本ではドイツ人の良心とする解釈が先行した。

しかし西ドイツでの反発は大きかった。シュピーゲル誌のアンケート調査に対し、「大げさだ」と答えた人は48%。野党CDUとCSU(キリスト教社会同盟)、保守大衆紙、1000万人を擁する追放関係者団体は「身売り外交」と批難した。ブラントの東方外交は、「ドイツ固有の領土」を「ひざまずいて」差し出したように映ったのである。

そのためブラントは帰国後、「東部ドイツ領からのドイツ人追放はいかなる理由があろうとも正当化できない」と演説するが、「平和を確保するためには、領土の請求を放棄する以外に我々が取る道はない」とする姿勢を貫いた。

しかし、これら2つの条約が連邦議会で批准されたのは2年後の1972年5月17日。紆余曲折とも言える、法と意識の調整期間が必要だったのである。

*戦前のドイツ国土を基準にした地理的表現。

18 September 2009 Nr. 783

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:25
 

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