Hanacell
そのとき時代が変わった


ベルリンの壁建設 Der Bau der Berliner Mauer

1961年8月13日 Der Bau der Berliner Mauer
西ドイツへの亡命者は1949~60年の11年間で260万人を数え、脱出の波はさらに勢いを増すばかり。東ドイツにとって、労働者の流出は大きな痛手となっていた。

壁建設以前の東西

ビリー・ワイルダー監督が古巣のベルリンで撮った『One, Two, Three』という映画をご覧になったことがあるだろうか。

コカ・コーラ米本社の重役から、ベルリン観光旅行中の娘の監督を頼まれた西ベルリン支社長。目を離したすきにその娘が東ベルリンの青年と結婚してしまったため、重役の目をごまかすための様々な作戦を展開する傑作コメディである。

1961年の6月にクランクインしたこの映画は、偶然にもベルリンの壁出現の現場に居合わせてしまった歴史の証人ともいえる作品で、スクリーンにはまだ壁がない東西ベルリン間を自由に往来する人々が登場する。アメリカ娘と結婚した東ベルリンの青年は、スクーターで6月17日通りからブランデンブルク門へと走り抜けるのだ。

実際の往来はこれほど簡単ではなかったようだが、家賃の安い東ベルリンや周囲の東ドイツに住みながら、西ベルリンに通勤していた労働者が6万人ほどいたのは事実だった。

東ドイツが、西ドイツとの国境線沿いの幅5キロを進入禁止区域にしたのは52年。しかし、米英仏の信託統治領として残った西ベルリンについては、地理的には本来なら東に属するとの考えから、境界線を暫定的なものとみなしていたのである。

東西の運命を隔てた日

それゆえに、西ベルリンを経由して西ドイツへ流出する東ドイツ国民が後を絶たなかった。特に、ソ連のフルシチョフ書記長が「西ベルリンを自由都市に」と提案した59年以降、駆け込み亡命が急増する。もし連合国がソ連の思惑通りに西ベルリンから撤退したら、東から逃げ出すチャンスは2度となくなると、人々は恐れおののいたのだ。

61年6月15日に東ベルリンで開かれた国際記者会見で、西ドイツの新聞記者がウルブリヒト東ドイツ国家評議会議長に対し、「西ベルリンを自由都市にするということはブランデンブルグ門に正式な国境を設けるということですか?」と聞いた背景はここにある。ウルブリヒトはこの質問に、「こちら側から壁を建ててほしいと願う西ドイツ人がいるようですな」と、何やら思惑ありげに応えた。壁の構想はまだ国家機密であった。

それから2カ月後の8月13日午前0時。東ドイツは西ベルリンを封鎖する作業を開始した。境界166キロメートルの内、地上部分のすべてに有刺鉄線あるいはコンクリートの壁を張り巡らし、東西をつなぐ交通網を遮断する。ただし西→東→西と走る電車路線U6、U8、S2には東内継続運行を認める一方で、U6とS2が東内で交差するフリードリヒシュトラーセ駅を除いてノンストップとした。こうして東内のオラーニエンブルガー・トーア駅(U6)やウンター・デン・リンデン駅(S2)、アレクサンダー・プラッツ駅(U8)など16もの駅がドアの開かないGeisterbahnhof(ゴーストステーション)になり、乗客はフリードリヒシュトラーセ駅の封鎖されたトランジット空間でのみ、移動と免税ショッピング、そして東への入国が許されることになった。

1961年8月15日、ベルリン・ミッテ、Ruppiner Straßeでの壁建設の光景
1961年8月15日、ベルリン・ミッテ、Ruppiner Straßeでの壁建設の光景
©AdsD-Archiv der sozialen Demokratie

西への逃亡と東の計算

19才のコンラート・シューマンが有刺鉄線をヒョイと飛び越えて、最初の逃亡人民兵になるのは壁出現から2日後。道沿いに壁が建ったベルナウアー通りでは、アパートの窓から身を乗り出して西へ逃げようとする住民の姿が西の人の目を釘付けにする。

9月までに西へ逃亡した一般住民は216人、当局からは85人。その後も、ソ連の軍服を西から取り寄せて堂々と検問をくぐった男性や、自家製ミニ潜水艦で北海を越えた青年、長さ45メートルの地下トンネルを掘って脱出に成功した26人など、様々な方法で西ベルリンあるいは西側へ生きて逃れた東ドイツ国民は5000人を越えた。

このほか、当局にわざと逮捕されて刑務所の不味い飯を数年我慢し、西ドイツから政治犯として買い取ってもらう方法もあった。64年から壁崩壊の89年までに約3万4000人がこの方法で西へ「売られ」、東は大量の外貨を手に入れた。

想像してみてほしい。東は西の地下鉄を完全に遮断することもできたし、東へ流れ出てくる下水を塞ぐこともできたのに、そうしなかったのはなぜか。それは、そうすることで西の外貨を稼いでいたからだった。汚い話だが、もし東に下水道を封鎖されていたら、西ベルリンは糞尿まみれになっていたのである。冷戦下にあっても、東西は常に奇妙な取引関係にあった。そんな壁の裏舞台を見るのも、今となっては一興であろう。

25 Februar 2009 Nr. 754

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:30
 

初めての男女同権法 das Gleichberechtigungsgesetz

1958年7月1日 das Gleichberechtigungsgesetz
戦後、ドイツ連邦共和国基本法の3条2項に規定された「男女同権」。しかしその理念を家庭や職場など実際の生活環境で実現するには、まず民法の改正が必要だった。

男権社会から男女同権社会へ

アンゲラ・メルケル首相は世界で最も知名度の高い女性だそうだ。鮮やかなパンツスーツで国際会議に登場する最近の首相には、貫禄さえ伴ってきた。メルケル政権には女性閣僚がほかに5人。大学では女子学生の数が男子を上回り、連邦軍でも女性兵士が男性兵士と並んで戦闘訓練を受けている。

国連開発計画(UNDP)が2006年に発表した人間開発報告書でも、ドイツのジェンダー・エンパワーメント指数(GEM)は75カ国中9位。女性が政治および経済活動に参加し、意思決定に加わる機会を十分持っていると評価されたのだ。

50年前とはまさに隔世の感である。当時、夫は婚姻関係のすべてに最終決定権を持ち、妻には夫に従う義務があった。親権を持つのは父親だけ。そんな男権社会がどのようなプロセスを経て現在の姿へと変貌したのだろう。

根強く残った男性優位の思想

西ドイツが基本法で「Männer und Frauen sind gleichberechtigt 男女は同権」と謳ったのは1949年。しかしこれを実行するには、どうしても民法第4編「家族法」の改正が必要だった。1896年に成立し、1900年1月1日に施行されたという事実から、この民法典がどれほど女性の存在を無視する内容だったかを想像していただきたい。夫は妻を無理やり退職させることができ、妻の財産も夫が管理。もちろん女親に親権はない。

こんな19世紀来の法に守られてきた男性議員たちが戦後、初めて耳にする「男女同権」なるものを民法に適用するのである。大論争が巻き起こり、特に1354条の「夫婦の共同生活に関わるすべての事柄において、決定権は男性にある」の是非では、もめにもめる。つまり、夫婦がどこに住んで何に出費し、子どもをどう育てるかを決めるのは夫という“男の権利”を、時のコンラード・アデナウアー首相(キリスト教民主同盟=CDU)でさえ譲れなかったのだ。

英首相官邸前で男女同権、自由を訴える女性たち(1971年
英首相官邸前で男女同権、自由を訴える女性たち(1971年)
当時、世界各地で同様の運動が活発に行われた
©PA/PA Archiv/PA Photos

紆余曲折を経て法制化

ゆえに1952年10月、同政権が提出した改正案にはこの「夫の最終決定権」が残り、そのため社会民主党(SPD)の反対によって棄却されてしまった。法案からこの記載が消えたのは、それから5年後の58年7月1日。ようやく初の男女同権法の施行にこぎつけた。

これは歴史を変える大きな一歩だった。父と母の両方に親権が与えられ、夫は妻から勝手に仕事を取り上げられなくなったのである。ただし妻の就労には、「夫と家族への義務に支障がない限り」という但し書きがついた。「妻は専業主婦(Hausfrauenehe)」という伝統的な性別役割分業が、婚姻の基本概念だったからだ。

ゆえに、ウーマンリブの60年代になって婚姻関係の見直しが強く求められたが、該当する民法の改正にはさらに時間がかかった。やっと新しい婚姻離婚法が施行されたのは77年7月1日。これで妻は就労に夫の許可を必要としなくなり、自分の苗字を残す複合姓の選択も可能になる(夫婦別姓は94年認可)。そして離婚には、夫婦のどちらに原因があるかを問う有責主義ではなく、婚姻関係がもはや存在しないときはその婚姻を失敗とみなす破綻主義がとられるようになった。

長く険しい実現への道

現在、ドイツの労働市場で女性が占める割合は44.9%。諸外国とほぼ同じ水準である。しかし女性の給与は男性の76%分にしかならない(フランス89%、スペイン83%、日本69%)。また母親の就労率で見ると、無職の割合が55%もあり、英米の30%台、北欧諸国の20%台に比べ、高さが目立っている。

国は出産を促し、育児を助けるために手厚い現金給付制度を導入したが、母親が働きに出られる子育てインフラの充実には力を入れなかった。これが母親就労率が低い最大の原因であろう。例えば3歳未満児が保育サービスを利用できる率は、わずか14%。さらに幼稚園や学校の大多数は半日制で、給食サービスもほとんどない。

男女同権法の導入から50年。現在のドイツは「男女格差が小さい国」の1つに数えられるまでになった。しかし、公共サービスの不備により母親の就労が難しい現状は、働きたい女性にとっては明らかな不平等だ。男女同権実現への道はまだ先が長そうである。

30 Januar 2009 Nr. 750

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:30
 

ユーロビジョン・ソング・コンテストに参加

1956年5月24日
西欧の統合をめざす動きが、政治、経済、軍事のレベルで具体的になる1950年代後半、大衆芸能にも共同のイベントがスタート。西ドイツはその初回から参加を果たした。

初回は7カ国からのスタート

当初は「Grand Prix Eurovision de la Chanson」と呼ばれ、司会も開催地の言語とフランス語のバイリンガルだったこの欧州国別対抗歌唱コンテスト。参加国が増えるに従って英語の使用が一般的になり、1973年以後は名称も「Eurovision Song Contest」に替えられた。

いまさら説明するまでもないが、コンテストでは参加国の代表歌手がくじ引きで順番に新曲を歌い、視聴者が自国以外の国に順位をつける。このアイデアを出したのは、ジュネーブに本部を置く欧州放送連合(EBU)の代表マルセル・ベイソン(1907-81)だった。時はテレビ放送の黎明期。3年前に英国エリザベス2世戴冠式の中継に成功したEBUは、このイベント放送で送信技術の限界を試したかったのだそうだ。

初回大会にはスイス(開催国)、イタリア、フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、西ドイツが参加する。もうお気づきのはず。スイスを除くこの6カ国は当時すでに石炭・鉄鋼の共同体を組んでいた。そしてその6カ国による欧州共同体(EEC)が発足するのは、2年後の58年。当時の西ドイツが西欧共同の家への加入に出遅れまいと、いかに懸命にアンテナを張っていたかが、これでお分かりいただけるだろう。

コンテストは2回目から英国や北欧諸国を加え、続けて軍事独裁下にあったスペインとポルトガルも招待。さらには独自の社会主義政策を執るユーゴスラビアも取り込んで、世界最大の音楽テレビイベントへと成長する。その過程で数々の世界的ヒット曲が誕生した。

ほんの少し平和を・・・・・・

英国代表クリフ・リチャードの『Congratulations』(68年2位)、スウェーデン代表ABBAの『Waterloo』(74年優勝)、スイス代表セリーヌ・ディオンの『Ne partez pas sans moi』(88年優勝)を覚えておられるだろうか。西ドイツが送り込んだ奇想天外なバンド Dschinghis Khanの同名曲(79年4位)は、ディスコブームに乗って世界を圧巻する。そう、あの「ジング、ジング、ジンギスカーン…」である。

ABBA
1974年に優勝したスウェーデン代表ABBAのフリーダ(左下)と
アグネッタ(右下)、ベニー(左上)とビョルン

そして82年、西ドイツ代表ニコールが1位に輝いた『Ein Bisschen Frieden』(ほんのすこし平和を)は、東と西、両ドイツ人の心を代弁する歌だった。「この地上にほんのすこし太陽を、喜びを、温かさをください。歌で多くのことは変えられないけれど、私は嵐の予兆を風に感じる小鳥。ほんのすこし平和を、夢をください、人がそんなに泣かないように」

ソ連のSS-20ミサイルとNATOの核搭載パーシングIIミサイルの欧州配備によって、東西の緊張が再び高まった80年代前半。東ドイツの国民もニコールのメッセージを聴いた。公には認められずとも、西のテレビ電波は東ドイツでも一部の地域を除いて受信が可能だったのだ。子どもの頃にこの歌を毎日聴いていたと告白する旧東ドイツ人は大勢いる。

Ein bisschen Frieden, ein bisschen Liebe ──。
ベルリンの壁が崩れるのは、この7年後である。

拡大を続ける歌の共同体

現在EBUには欧州のほか、北アフリカ、中東から56カ国が加盟しており、どのメンバー国もコンテストへの参加資格を有しているわけだが、実際には欧州以外からトルコ、イスラエル、モロッコ、そしてアゼルバイジャンが参加。そして近年の開催では、ソ連崩壊以後に加わった東欧・ロシアの上位進出が目立つようになった。

それは東欧圏の隣国同士が、視聴者の電話投票とSMSによるポイントを相互に与え合う結果になっているからだ。例えば旧ソ連邦の国や、つい10年前には民族紛争の地だったバルカン諸国が、かつての仲間を上位にランクインする。

このエスニック傾向は、ドイツに住むトルコ人がトルコ代表に大量に投票することで起きる順位の偏りと同様とはいえ、古くからの参加国にすれば歯軋りしたくなるだろう。そのために西欧のメンバーは真剣な取り組みをやめてしまったとの声まで出ている。

スタートから53年。巨大な歌の共同体へと進化したユーロビジョンには、変革が急務かもしれない。

18 Juli 2008 Nr. 723

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:31
 

再軍備 Wiederbewaffnung

1955年11月12日
米ソの冷戦を背景に、韓国と北朝鮮が戦争へ突入した1950年6月25日。米国はソ連共産圏の西欧侵出にも脅威を抱き、前線に立つ西ドイツに再軍備を許可しようと考えた。

朝鮮戦争が勃発

先立つ49年4月、英仏を中心にした西欧諸国は米国と北大西洋条約を結び、集団安全保障体制(北大西洋条約機構=NATO)作りに着手していたが、そこには「米国を引き込みロシアを締め出す」ほか、「ドイツを抑えこむ」目的があった。西欧諸国にとって、ナチスドイツの過去とドイツ人への恐怖は、それほど鮮明だったのである。

しかし、朝鮮戦争の勃発によって情勢は一変。西ドイツを一刻も早く西欧に組み入れる必要にかられた米国は、コンラート・アデナウアー西ドイツ首相(キリスト教民主同盟=CDU)と密談し、西ドイツの再軍備と引き換えに首相の要望をのむ方向で交渉に入った。

それは、「西ドイツに他の西欧諸国と同等の国家主権と自衛権を認める」こと。首相の単独交渉に政府閣僚たちは立腹するが、最終的にはグスタフ・ハイネマン内相を除いて再軍備に賛成する。

米英仏による占領が終了

一方、西ドイツの再軍備とNATO加盟に反対し、別の構想を提案したのがフランスである。新たに欧州防衛共同体(ECD=EVG)を設立し、そこに西ドイツを組み入れて平和への連帯責任を持たせようというのだ。この構想に沿い、51年4月18日、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクと西ドイツの6カ国が、石炭と鉄鋼を共同で管理する欧州石炭鉄鋼共同体(後に欧州共同体へ統合)を設立することに調印した。

そして52年5月26日、西ドイツは米英仏3国とドイツ条約(Deutschlandvertrag)を締結。この日をもって3国による西ドイツ占領は終わりを告げ、再軍備への道が開かれる。連邦議会がEVG参加を可決したのは翌年3月。ところが、この構想は結局のところ批准されなかった。主権侵害を恐れる反対派によって、当のフランス国会が否決したからだ。かくして西ドイツの再軍備は、NATO加盟によって解決されることになるのである。

ドイツ条約調印
1952年5月26日、ボンでドイツ条約に調印する(右から)
アデナウアー西ドイツ首相、アチソン米国務長官、
シューマン仏外相、イーデン英外相
©DPA DEUTSCHE PRESS-AGENTUR/DPA/PA Photos

男子に兵役義務

55年11月12日、デオドール・ブランク国防相は志願兵101人に連邦軍への辞令を手渡した。連邦議会ではアデナウアー首相が、「無策によって、祖国と西欧がボルシェビキの支配下に置かれることがあってはならない」と力説。56年7月7日には、16時間に及んだ討議の末、兵役義務法が連邦議会を通過し、18歳から45歳までの全男子国民が12カ月の兵役義務を負うことになった。この法を免れるのは西ベルリン居住者だけ。東ドイツに囲まれた西ベルリンの住民は、すでに敵と対峙する“最前線”にいるとみなされたからだ。

各地で再軍備反対の声が上がったことは言うまでもない。敗戦からわずか10年。市民のデモ行進に「Ohne mich / Ohne uns(私はごめんだ!)」のプラカードが揺れた。しかし57年4月1日、最初の兵役徴集が実施され、アデナウアー首相とフランツ=ヨーゼフ・シュトラウス国防相(キリスト教社会同盟=CSU)は、連邦軍の核装備まで考え始める。

核兵器の保有、反対!

カール=フリードリヒ・フォン・ワイツゼッカー、オットー・ハーン、ヴェルナー・ハイゼンベルクら著名な原子物理学者18人がその直後に出した反対声明を、声明主催者の研究地にちなんで「das GöttingerManifest」という。彼らは戦術的核兵器を「ヒロシマに落とされた原子爆弾と同様の破壊力をもつ」と分析し、「水爆への恐怖が現在の均衡を実質的に維持させている点を否定しないが、西ドイツほどの小国は、核兵器の保有を断念することによって世界の平和に貢献できる」と結んでいた。

国民の3分の2がこの声明を支持したことで、連邦政府は最終的に核保有への野望を引っ込める。しかし、西ドイツに駐屯する米・英・仏軍基地に多数配置された核兵器は東に、対する東ドイツのソ連軍基地の核は西に照準を定めていた。西ドイツ市民の原爆死反対闘争(Kampf-dem-Atomtod)は、現実的な恐怖に根ざしていたのである。

 

23 Mai 2008 Nr. 715

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:31
 

旅行ブーム到来 Die Reisewelle

1955年
いまや世界の果てに行っても、必ず一人には出会うといわれるドイツ人観光客。彼らの旅行ブームは、戦後、経済復興と高度成長を遂げ、収入と有給休暇が保証された1950年代に始まった。

旅行代理店の登場

西ドイツの1950年代は、東西冷戦の緊張が高まるなかで、個々人が日々に小さな幸せを見つけた時代である。経済復興と高度成長によって完全雇用が可能になり、戦争難民たちは仮住まいのバラックから脱出。工場ではベルトコンベヤーによる流れ作業が効率を高め、労働者には有給休暇が保証された。

こうして、旅行ブームを生む条件は整ったのである。「君知るや、レモンの花咲く国を」とゲーテが『イタリア紀行』にしたためた18世紀に、南欧旅行ができたのはひと握りの有産階級だったが、20世紀は大衆の時代。収入と休暇を保証された市民の関心が、外の世界へ向かっても不思議ではない。そのニーズを真っ先にキャッチしたのが、団体旅行を企画して列車までチャーターするドイツ初の旅行代理店「トウローパ(Touropa)」だった。

「低所得者にも休暇を」

寝台車の3段ベッドでくつろぐ若い女性、コンパートメントのソファーで談笑する夫婦、客車の横腹に大きなトウローパのロゴ。同社のポスターに惹かれ、西ドイツ人はまずバイエルン州キームガウ(Chiemgau)へ、やがてオーストリア、そしてイタリアへと観光を始めた。

ポスター
©touropa.com

「旅行ウェーブ(Reisewelle)」と称されたこのブーム。それは、元ブレーメン労働局長カール・デーゲナー(Dr. Carl Degener)の功績でもある。「低所得者にも手が届く価格での休暇を」を持論とする彼は、すでに1920年代、北ドイツからキームガウの山村ルーポルディング(Ruhpolding)へと向う団体列車を送り出していた。そして西ドイツ建国後、彼がドイツ観光局(DER)、バイエルン州観光局(ABR)の支援を受け再開した観光事業。それが51年にトウローパとして巣立ち、やがていくつかの競合代理店と航空会社を抱きこんで大規模な旅行会社へと成長する。社名は「Touristik Union International AG」。これが、現在もドイツの観光業をリードするTUIなのである。

航空会社LTUもこの時代に産声を上げた。55年にフランクフルトで設立されたこの「Lufttransport Union」社が、1号機をシチリア島へ飛ばしたのは56年3月2日。乗客はたった36人だった。やがて60年、マヨルカへの定期便がスタート。当初は年間10万人だった西ドイツからのマヨルカ観光は、その10年後、185万人に膨れ上がる。

はるかに遅れて日本にも

このブームを日本人の海外旅行史と比較すると、いかに西ドイツ人が早く、そして自由に国境を越えていたかが見て取れる。日本では、戦後から東京オリンピックが開催された64年までの19年間、業務を目的としない海外旅行はできなかった。しかもパスポートは一次旅券のみ。やっとオリンピックを機に自由化されても、渡航は一人年1回だけで、外貨の持ち出しは500ドル以下と制限されていた。

大卒の初任給が3万円に満たなかった当時、ハワイ1週間のパック旅行は35万円。一般庶民には手が出ない価格である。大型飛行機の登場と変動相場制による円高が始まった80年代に、やっと海外旅行は高嶺の花でなくなるが、同じ敗戦国でも島国日本と地続き国ドイツでは、大衆ツーリズムの発展に10年以上の開きがあった。

フライトの乗客数で見ると、現在ドイツからロンドンへ年間400万人、マヨルカへ370万人、トルコのアンタヤへ280万人が出かけている。ロンドンへはビジネス客が多いことを考えれば、休暇先の人気ナンバーワンはやはりマヨルカだ。

音楽家ショパンがフランスの女流小説家ジョルジュ・サンドと滞在した1838年を思い出すまでもなく、マヨルカは昔からの観光地である。現在はドイツ人と英国人の2週間格安パックツアー客で膨れ上がり、一時はドイツのマヨルカ買収話まで噂になった。

今後もドイツ人の旅行熱は決して衰えないだろう。 彼らにとってバカンスは権利、ステータスだからだ。 失業者が労働局に3週間の休暇補助金を申請した例さ えある。

デーゲナーが「ドイツ人は満腹したら次は記録的な旅行者になる」と予告したのは1949年。その言葉通り、ドイツは2007年も国別外国旅行支出で世界一と なっている。

14 März 2008 Nr. 705

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:32
 

<< 最初 < 1 2 3 4 5 6 7 8 > 最後 >>
7 / 8 ページ
  • このエントリーをはてなブックマークに追加


Nippon Express ドイツ・デュッセルドルフのオートジャパン 車のことなら任せて安心 習い事&スクールガイド バナー

デザイン制作
ウェブ制作