Hanacell
そのとき時代が変わった


ベルンの奇跡 Wunder von Bern

1954年7月4日
スイスで開催された第5回サッカー・ワールドカップで、下馬評にも上らなかった西ドイツ代表チームが初優勝を遂げる。ドイツ人は戦後初めて歓喜の涙を流し、「ドイツ人の歌」を大合唱した。

戦後初めてW杯出場

高度成長が始まっていても、まだ敗戦による欝(うつ)の気分が残っていた1954年。戦後のサッカー・ワールドカップ(W杯)に、ドイツのチームが出場するのは初めてだった。監督は、戦前にドイツ帝国チームを率いたことのある57歳のゼップ・ヘアベルガー。巧みな戦略と「ボールは丸い」「試合後は試合前」などの訓話で、“シェフ”と呼ばれた強いリーダーである。

夏のスイスに集まった代表16チームは、まず予選リーグで4つのグループに分けられた。西ドイツが入ったのはハンガリー、トルコ、初出場の韓国とともに第2グループ。日程短縮のためハンガリー対トルコ、西ドイツ対韓国の試合が省かれ、西ドイツはトルコ、ハンガリーと対戦する。

初戦の対トルコは4-1で勝った。次に対戦するハンガリーは、52年ヘルシンキ・オリンピックの優勝国。27試合負け知らずで、すでに韓国を0-9で下している。ヘアベルガー監督はドイツの負けを予想し、平行する試合でトルコが韓国に勝つと踏んだ。その場合、ドイツとトルコの勝ち点は同じになり、進出をかけて追加試合が組まれることになる。

監督は控えの選手を4人起用してハンガリー戦に臨み、当然ながら3-8で大敗を喫した。しかし「1軍選手を追加試合のために温存する」作戦は見事に成功し、韓国を7-0で下したトルコとの再戦に、7-2で勝利。決勝ラウンドに進んでユーゴスラビアを2-0(準々決勝)、オーストリアを6-1(準決勝)で破り、ついに決勝進出を決める。その相手は再びハンガリ ーだった。

終了間際の運命のシュート

決勝戦の前日。監督は雨が降りしきる練習グラウンドに記者団を集め、「明日も降る」と言ってトレーニングを公開した。選手たちが履いているのは、靴職人アドルフ・ダスラー(通称Adi Dassler)が作った靴。お気づきだろう。スポーツメーカーAdidasの創業者が開発した世界初のサッカーシューズには、靴底に取り外しができるクリート(ネジびょう)がはめ込まれ、選手の滑る足元をしっかり支えていた。

そして翌7月4日17時。雨。ベルンのワンクドルフ・スタジアムで開始のホイッスルが鳴った。ドイツのストライカーは単純明快なヘルムート・ラーン。監督は、思慮深いキャプテンのフリッツ・ヴァルターと相性がいい彼を、最終戦に指名したのである。

しかし開始からわずか6分で、ハンガリーが先制点を挙げ、その2分後にチボール選手が2点目のゴール。だれもがハンガリーの優勢を予想した。ところが11分と18分に、西ドイツのマックス・モーロックとラーンが連続ゴール。そして2-2の同点で始まった後半、両チームのゴールキーパーが何度もネット前でボールをはじき、延長かと見えた84分、パスを受けたラーンが瞬時に14メートル先のゴールポストを目がけ、運命のシュートを蹴り入れた。

「トーア(ゴール)! Tor! Toor! Tooor!……」
アナウンサーが狂ったように叫ぶ。

試合終了のホイッスルが鳴った。西ドイツ、3-2で勝利!キャプテンのヴァルターに優勝カップが手渡され、西ドイツ国歌が演奏される。そのとき、狂喜するドイツ人サポーターは、第1節「Deutschland, Deutschland über alles……」を大合唱した。

国歌の意味を知った日

ご存知かと思う。ハイドンの曲にホフマンが詩をつけた「ドイツ人の歌」は、22年に国歌として定められ、ナチスの侵略とともに周辺国でも鳴り響いた過去がある。ゆえに戦後、アデナウアー首相vsホイス大統領の国歌論争が起こり、52年に「Einigkeit und Recht und Freiheit(統合と権利と自由を祖国のために)」という第3節のみを西ドイツ国歌とすることで、事実上の合意がなされていた。

しかし当時の国民は、有名な第1節しか知らない。「世界に冠たるドイツよ、兄弟のごとく結束し、マース(ベルギーとオランダの川)からメーメル(現リトアニア領クライペダ)、エチュ(南チロルの川)からベルト(デンマークの海峡)までを防衛する」と聴かされた隣国の人々が、眉をひそめるのは当然だろう。

事態を懸念したホイス大統領は、凱旋チームをベルリン・オリンピック競技場に迎えた7月20日、8万人の聴衆に向かって、「ドイツ人の歌」の第3節をゆっくりと朗読する。こうして国民は改めて国歌の意味を自覚し、優勝の歓喜とともに自信を取り戻した。戦後に存在すること自体をやめていたドイツ人が、「再び何者かになった(Wir sind wieder wer)」瞬間である。

11 Januar 2008 Nr. 696

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:32
 

東ドイツで初めての人民蜂起 Volksaufstand des 17. Juni 1953

1953年6月17日
Volksaufstand des 17.Juni 1953

西ドイツの国民がクルマと旅行に楽しみを見つけた1950年代初頭、東ドイツでは、“スターリンの申し子”との異名を持つウルブリヒトが執る統制政治に、ひずみが生じ始めていた。

階級闘争を強化

ナチス時代にモスクワへ亡命していたヴァルター・ウルブリヒト(Walter Ulbricht)は、100人以上のドイツ人亡命仲間がスターリンの恐怖政治によって粛清された中で生き残り、戦後に東ベルリンへ帰還後、スターリンの命令でソ連占領地区の共産党と社会民主党をドイツ社会主義統一党(SED)へと合併させた政治家である。そして1949年10月7日にドイツ民主共和国(DDR=東ドイツ)が成立するや、いかにも老獪(ろうかい)な政治家らしく、まず副首相の座について情勢を観察。翌年7月には、初めて設置された党中央委員会の書記長に就任し、実質的な権力を握ったのだった。

まず就任に先立って、体制批判を取り締まる国家保安省(SSD=シュタージ)を設立。続いて“帝国主義国家”西ドイツと接する国境線域から500メートル離れた所まで、住民を立ち退かせた。そして52年7月の党大会で、「階級闘争の強化」を高らかに宣言。農業を集団農場化し、工場・建設労働者のノルマを10.3%増やすと発表する。

立ち上がった労働者たち

その結果は惨憺(さんたん)たるものだった。重工業の拡大を優先したことで、生活物資の不足と食糧危機が起きた。停電も頻発し、多くの“人民”が西へ逃亡を始める。するといみじくもほぼ同時期の53年3月4日、ソ連ではスターリンが脳卒中のため急死し、クレムリンに後継者争いによる政治的空白が発生した。

ソ連指導層にすれば、この時期に東ドイツが政情不安定になることは避けたい。しかしウルブリヒトは危機を認識するどころか、5月13日には労働時間の延長を提唱。「このままだと2週間で東ドイツは消滅する」と、ウラジミール・セミョーノフ駐東独ソ連最高司令官は警告を発する。

6月11日、やっと路線変更を決めたSEDは、手工業、小売業を民営に戻し、集団農場化を中止した。逮捕していた牧師を釈放し、教会機関に一定限の自由も与える。しかし、労働者に課したノルマは取り消さなかった。

最初のストライキが発生したのは6月16日。東ベルリンのスターリンアレー(現・カールマルクスアレー)とフリードリヒスハインの工事現場で働く建設労働者たちが、ライプツィガー通りの労働組合ビルと政治局へ向かって行進を始めたのである。

約500カ所でデモ

その日の午後、政治局はついにノルマの廃止を決定した。が、時すでに遅し。デモ隊の要求は「自由選挙」「ドイツ統一」「ウルブリヒトの辞任」へとエスカレートし、その状況を西ベルリンの米セクター(区)から放送局RIAS(Rundfunk im amerikanischen Sektor)が報道する。東ドイツに囲まれた西ベルリンは、事実上は西ドイツの特別州でありながら、形式上は米・英・仏の信託統治領のままだったため、東西統一までこのセクターが存在するのである。

翌17日、ハレやイエナなど工業都市を中心に約500カ所で民衆がストライキ体勢に入った。参加者は労働者を中心に、医師、大農場主、家主、牧師などさまざまな階層から40~150万人。デモ隊はSEDの事務所を占領し、刑務所やシュタージの建物などになだれ込んだ。東ベルリンではデモ隊と人民軍の衝突が起こり、政治局はソ連当局に保護を求める。

ソ連軍戦車の出動

午後1時。東ベルリンに駐屯するソ連陸軍が非常事態宣言を発した。これは、戦時国際法によりソ連が行政権を実効することを意味する。16師団から戦車が出動し、民衆は蜘蛛の子を散らすように散り散りになった。突発的に発生した抗議行動だったため、指導するリーダーがいなかったからだ。その結果、激しい衝突は起こらず、直接・間接的に命を落とし た犠牲者は55人と、決して多い数ではない。

一方、西側はこの事件を傍観するばかりだった。米国はソ連が仕掛けた罠ではないかと警戒し、英国のチャーチル首相は「(デモは)4国均衡を脅かす行為だ」と批判。西ドイツは「6月17日」を国民記念日に決め、西ベルリンのティアガルテンを貫く大通りを「6月17日通り(Straße des 17. Juni)」と改名するが、それ以外に何もできない。こうして東側陣営で初めて起こった自由化運動は、歴史の一コマで終わったのである。

16 November 2007 Nr. 689

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:33
 

経済の奇跡 ── “カブトムシ”で復興

1950~1958年
戦後の焼け野原から這い上がり、経済復興の原動力となったのは、戦前にヒトラーが「全ドイツ人に国民車を」と企画したフォルクスワーゲン「ビートル」であった。

5年で人口2割増

敗戦後、西側の3区は急激な人口増加に直面した。帰還兵や東欧ユダヤ系流民のほか、オーデル・ナイセ川以東の旧領地から追放されたドイツ系難民が、毎年数百万人単位で入ってきたからだ。さらに、二つのドイツが誕生すると、今度は東ドイツから西ドイツへの亡命が始まって、戦前に4200万人前後だった西側地域の人口は、1950年代初頭に5000万人 以上に膨れ上がってしまう。

5年余りで人口が20%も増え、そのほとんどが難民という状況は非常事態である。そのため西ドイツ政府は、1952年に負担調整法を導入し、主に土地家屋を持つ先住民から賦課金を徴収。難民が旧領地で戦中および戦後に失った個人資産(推定2996億マルク)を、部分的にそれで補償する措置をとった。新住民がスムーズに融合できなければ政情不安もありえたことを考えると、この措置は戦後のヨーロッパの平和に大きな貢献をしたと言えるかもしれない。

ドイツ工業の底力

経済復興と雇用の創出に決定的な役割を果たしたのは工業である。ドイツは確かに戦争で焼け野原になっていたが、産業立国としての基盤は失われていなかった。国民経済は1850年以来、大恐慌による急落と二つの大戦中の低迷期を除いて常に拡大しており、開戦前のナチス政権下では急上昇さえしている。伝統の手工業、自動車産業、化学工業、機械技術には、2度目の敗戦でも再興できる底力があったのだ。

かくして1948年、西の被占領地区に新マルクが登場し、後の西ドイツ蔵相ルードヴィヒ・エアハルト(63年に首相)によって社会市場経済システムが実行されると、「経済の奇跡(Wirtschaftswunder)」と呼ばれる高度経済成長が始まる。そのシンボルになったのは、ヒトラーが企画したカブトムシ「VWKäfer 」(日本名:ビートル)だった。

ビートルの誕生

「全ドイツ人に国民車(Volkswagen)を」と夢見るヒトラーの依頼を受けて、当時のダイムラー・ベンツ社の設計主任フェルディナンド・ポルシェがこの車を設計したのは、1934年1月。しかし価格の折り合いが付かず、実際に第2号モデル30台が製造されたのは37年だった。

VWのロゴが入った会社が設立され、「平野にある未開地で、国境から遠いが原料地に近い」条件にかなう、人口わずか1000人の村ヴォルフスブルク(Wolfsburg)が生産地に選ばれる。確かにそこは、ドイツ(当時)のほぼ中央にあって隣国から遠く、小さいので地図にも載っていない。事実、最初に進駐してきた米軍は、この町を見過ごしてしまったそうだ。

操業は敗戦直後に再開されている。北西部を占領区にした英国軍が、45年8月に普通乗用車2万台を注文してきたからだ。しかも納期は1年後。VWの従業員6033人は不可能だと思った。「カブトムシ」は確かにナチスのプロパガンダ商品だったが、これまでに生産されたのはわずか630台。戦争勃発で国民車どころではなくなり、量産したことがなかったの である。

生活を楽しむ消費社会へ

しかし何ごとも貫徹するのがドイツ人。驚異的な組織力を発揮して同年12月27日から大晦日までに54台を組み立て、翌年に1万20台、47年には凍結による休止期間があったにもかかわらず9000台を達成。こうしてVWは経済成長のシンボルになり、ライバル各社とともに世界へと打って出たのだった。

この時代を示す代表的なシーンを紹介しよう。一つは、仕事を終えた土曜日の午後、公共広場に設けられた水道ポンプの周りに愛車で乗りつけ、洗車の順番を待ちながらサッカー談議に余念がない男性たち。もう一つは、店が用意した木の買い物ボックスを抱えて商品棚をまわる女性たちの姿だ。49年6月にアウグスブルク(Augsburg)で誕生した初のアメリカ式スーパーマーケットは瞬く間に全国に波及し、アメリカン・モダンライフへの憧れを作り上げる。

そして敗戦から10年──。西ドイツは、クルマ、テレビ、外国旅行を楽しむ消費社会を迎えるのである。

19 Oktober 2007 Nr. 685

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:33
 

自立への第一歩 - アデナウアーがじゅうたんの上に!

1949年9月21日
政党の結成、新憲法の制定、総選挙を経て、ついに西ドイツが誕生。初代大統領にテオドール・ホイス、初代首相にはコンラード・アデナウアーが就任し、新内閣はボンの米英仏占領委員会へ報告に訪れた。

求む、中高年パワー

敗戦直後にドイツの速やかな再建を予想した者はいなかったそうだ。ナチスによって、国の体制がそれほどまでに破壊されていたということだろう。一方では、指導する側の米英仏とソ連が対立を深めるばかりだった。戦後数年にしてドイツが東西に分裂しつつあることは、誰の目にも明らかだったのである。そのため、西側統治3国は、まもなく西に生まれるであろう暫定国家の体制づくりに着手する。

米英仏が国づくりの要職に選んだ人材は、ワイマール共和制時代(1919-1933)に活躍した中高年だった。理由は簡単、“ホワイト・リスト”に記載された「ナチスに関係しなかった白い人物」が、若いエリート層にほとんどいなかったからだ。つまり戦後のドイツは、老人パワーに再登場いただかなければ、動きようがなかったというわけである。

トップも老人

コンラード・アデナウアーもそんなご老体だった。何せ生まれは1876年。ヒトラーの政権樹立時すでに57歳だった彼は、ナチス幹部との握手を拒んでケルンの市長職を追われ、2度逮捕され、ケルンの強制収容所から病院送りになっている。

そんな彼が敗戦後、真っ先にしたことは、キリスト教思想を基盤にする政党を結成することだった。人々は自由な政治活動によほど餓えていたらしい。同様の政党が全国各地で生まれ、キリスト教民主/社会同盟(CDU/CSU)として連合。ナチス時代に弾圧されていた社会民主党(SPD)も活動を再開し、自由民主党(FDP)も設立された。

そして1948年6月1日、米英仏とベネルクス3国は「西ドイツの建国」を正式に決定し、西側占領地区の州首相たちに憲法制定を委託。9月には草案審決のための評議会がボンに招集され、72歳のアデナウアーが議長のポストに就いた。このときは周囲もご当人も、老人だから名誉職にうってつけだと考えていたそうだ。

基本法から建国へ

未来の西ドイツ憲法には、暫定的な性格を強調するため、あえて「基本法」という名前が付けられた。「ドイツが分裂している間は統一への過渡期ゆえ、正式な憲法は統一が成ったあとで」と制定委員会が考えたからである。モデルはワイマール憲法だった。ただし、世界で最も自由と言われたその憲法が、無責任な不信任決議によってナチスの台頭を招いた過去から、基本法では「総理に対する不信任表明には、議員過半数の賛成で後任候補が選ばれていること」という条件を付け、議会と政府の権限を強化、大統領のそれを制限するなどの変更がなされる。

こうして基本法草案は評議会を通過し、バイエルン州でひと悶着あったものの、全州の賛成を得て49年5月23日、ついに制定。ここに西ドイツが誕生し たのである。

アデナウアーの決意

さあ国が動き出した。総選挙でCDU/CSUがSPDに僅差で勝利したのは8月。FDPとの連立政権が生まれ、テオドール・ホイス(FDP)が初代大統領、アデナウアーが初代首相に就任したのは9月。そして、内閣がボンの米英仏占領委員会に報告に赴いた9月 21日、その事件は起こった。

迎える3占領国の最高司令官たちが立つのはじゅうたんの上。部屋に入ってきたアデナウアー首相以下ドイツ人閣僚はじゅうたんの手前で止められ、むき出しの床に立たされた。プリミティブな力関係の図である。米英仏は、占領国の地位をまだ手放すつもりはない。議事進行を担当するフランスの司令官が、あいさつのために一歩前に足を進めた。するとアデナウアーも一歩踏み出し、何とじゅうたんの上に。「私たちも同等です」との思いを込めた老首相の、この気概!彼の一歩は、西ドイツの自立の第一歩として、国民の心に深く刻まれたのである。

ちなみに、東西が統一されても基本法のままなのはなぜかと思われるだろう。表向きの説明は「東ドイツが西ドイツに吸収されて自動的に基本法の効力下に入ったので、新憲法は不要」というもの。その実は、「一度ふたを開けたら諸問題で収拾がつかなくなるので、だれも手をつけたがらなかったから」とか。さもありなん。

21 September 2007 Nr. 681

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:34
 

ドイツマルクの登場

 
1948年6月20日
帝国マルク、レンテンマルクからドイツマルクへ。西側占領国の通貨改正法により、人々はいまやほぼ無価値に等しくなった古い紙幣を握り締め、通貨交換所の前に列をなした。
 

焦土と化したドイツ

ナチスドイツが無条件降伏をしたのは1945年5月8日。ユダヤ人600万、ソ連邦2000万人ほか、計5500万人もの命を奪ったナチス犯罪と戦争によって、敗戦国ドイツは焦土と化し、800年来自領だった東方の土地をポーランドとソ連に明け渡すことになった。

4分の3に縮んだ国土には米英仏ソの4占領軍が入り、ナチ要人に対するニュルンベルク裁判と、社会からのナチズム一掃が始まる。が実のところ、庶民の関心は寝る所と食べ物を見つけ、物々交換に使える品物を手に入れることだった。帝国マルクはただの紙切れになり、タバコが通貨代わりともいえる闇経済が出現していたからである。

この時代に最も辛酸をなめたのは、プロイセンやシレジアなど旧ドイツ領から追放されてきた難民だろう。家も財産も失った彼ら流民の数は、戦後1年目に560万、5年後には1100万人に達する。自治体が発行する食券がなければ、飢え死する者が続出したに違いない。

共産勢力へ対抗

さて、米国はドイツ経済がすぐ強力になると困る反面、共産勢力に対抗する必要上、このままではもっと困ると考えた。そこで1947年1月、民主主義と経済復興を促すマーシャルプランを発表し、通貨改正、つまり新マルクを登場させる。

この頃の占領4国はまだ共同で統治委員会を開いているので、改正は全国一斉に行う手はずであった。ところが、ソ連には印刷技術と紙がない。そこで米国は英国と内々に手を結び、新ドイツ通貨を米本土で印刷することにした。

第1号のドイツマルクが刷り上ったのは47年10月。米英が単独で中央銀行(Die Bank deutscher Länder)を設立したのは48年3月。ソ連が腹を立てて統治委員会から抜けたのはその直後。こうして米国はまんまと東西冷戦に先手を打ち、104億マルク分の新札をBird Dogという荷札でカモフラージュし、ブレーメン港に陸揚げさせたのだった。

混乱なく進んだマルク交換

かくして1948年6月19日、西側陣営は住民に初めて通貨改正を公表し、その翌日に通貨交換を始める。焼け跡世代にとって、この出来事はよほど印象的だったらしい。「誰でも40マルクをもらえた」とする神話まで生まれたが、現実はそう甘くない。帝国マルクからドイツマルクへの交換レートは、賃金と年金、家賃と不動産価格で1:1。しかし現金は10:1、銀行預金では100:6.5だった。

つまり、現金40マルクを手にするには400帝国マルクが必要だったのである。それでも交換はなんの混乱もなく終了し、翌朝には商品が忽然と店頭に現われて、物々交換は跡形もなく消えうせる。戦前はナチス帝国を13年も続けさせ、戦後はこうして復興を推し進めていくドイツ人の組織力!皮肉の一つも言いたくなるではないか。

ここで、当時の住民は米ソ間ばかりか西側3区間の移動さえ難しかったことに注目してもらいたい。占領側は住民管理のため、住民の側は住民票のある土地でしか食券と住宅割り当てがもらえなかったからだ。ゆえにソ連区の住民が新通貨のために西へ行くことはなかったが、西で無効になった帝国マルクが東へ大量に密輸されてきたため、ソ連もわずか3日後の6月23日に1:1の通貨改革を実施せざるをえなくなる。

面目を潰されたソ連はその翌日、ソ連地区に囲まれた西ベルリンへの電力と交通を遮断する報復に出た。外部からの供給がなければ、人口220万人の陸の孤島は生きていけない。ゆえに西側は英ガトウ空港、米テンペルホーフ空港、仏テーゲル空港へと物資を空輸するルフトブリュッケ(空の架け橋)作戦を開始し、6月26日から閉鎖が解除された49年5月12日までに、食料49万トン、石炭140万トンを運び込んだ。

その結果、ソ連の思惑とは裏腹に西側の連帯意識は強まり、東西冷戦は後戻りできなくなる。ドイツ人のマルクへの愛着は、こうした歴史から生まれたのである。

17 August 2007 Nr. 676

最終更新 Dienstag, 05 November 2019 17:24
 

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