Hanacell
そのとき時代が変わった


水晶の夜から50年 フィリップ・イェニンガー連邦議会議長の演説 Rede von Philipp Jenninger zum 50. Jahrestag der Novemberpogrome 1938

1988年11月10日
1938年11月9日夜から10日未明にかけて、ドイツ各地で発生したユダヤ人商店・シナゴーグ襲撃。砕け散ったガラスから「水晶の夜=クリスタル・ナハト」と呼ばれる。その50周年に当たる88年11月10日、連邦議会で行われたフィリップ・イェニンガー議長(キリスト教民主同盟= CDU)の追悼演説に、議員たちはヒステリックな拒否反応を起こした。

「暴力の継承者」が行った演説

イェニンガー議長が演説をドイツ・ユダヤ人中央評議会のガリンスキー議長に頼まず、自ら行うことにしたのは、「犠牲者ではなく暴力の継承者が語るべき」と考えたからだった。

「皆さん、私たちは今、我々ドイツ人が起こした犯罪を検証し、追悼し、現在と未来への教えを得るためここに集まっています」と彼は始めた。以下にポイントを要約する。

「ドイツ国民は反ユダヤ主義に無抵抗であり、襲撃事件に加わった者は少ない反面、批判も起こりませんでした。(…)1933年から38年という時代は、ヒトラーの政治的勝利が歴史に類を見ないという点で目を奪います。(…)ワイマール体制を外交的屈辱と感じていたドイツ人にとっては、すべてが奇蹟のようでした」

「当時の世論はユダヤ人について、“今まで思い上がっていた” “制限を設けて当然”と考え、1938年11月のような酷い事態には他人事を決め込んだのです(…)」

「多くのドイツ人が国家社会主義に幻惑されました。無関心によってナチスの犯罪を許しました。自らも犯罪者となりました。その責任については、それぞれが答えなければなりません。しかし歴史を捻じ曲げ、事実を隠蔽する行為には一緒に反駁すべきです」

一斉拒否―欠けていたレトリック

イェニンガー議長はユダヤ人虐殺の目撃証言を詳しく引用し、何千という死体を見ても臆さないよう親衛隊員を激励したヒムラー警察長官の言葉を使った。

演説が始まってすぐに緑の党の議員のほとんどが退席。社会民主党(SPD)の議員で最後まで残ったのは半数ほどだった。CDUと自由民主党(FDP)の議員たちは呆然とうつむき、演説を終えたイェニンガー議長はたった1人で議場を後にする。彼が連邦議会議長を辞任したのは翌日だった。

さて、読者の皆さんはどう思われただろう。翌日の新聞が大見出しにした「反ユダヤ主義」や「ヒトラー崇拝」を演説から感じただろうか。歴史書のような印象はあるが、過去の暗部を正確に語り、その罪に言及したものと言えないだろうか。

ではなぜ、議員とメディアは拒否反応を起こしたのか。多くの議員がイェニンガー議長のトーンにいらだったと語っている。一度も「悲しみ」という言葉を使わなかったとの指摘もある。レトリックの失敗だったというのだ。

確かにイェニンガーの語りには修辞が不足していた。ワルシャワのゲットー記念碑前にひざまずいて詫びたブラント首相や、1985年5月8日の敗戦40年周年に「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となります」と訓示した ヴァイツゼッカー大統領の、劇的あるいは高尚な表現術を彼は持ち合わせなかったのだ。しかしそれだけで議員の過剰な拒否反応は説明できない。

バーシェル事件を扱った本
1984年から88年まで連邦議会議長を務めた
フィリップ・イェニンガー

「我々が犯した罪」という捉え方

日本人は一般的に、西ドイツを過去の検証と克服の手本と考える。確かに西ドイツの政治家は「ナチスの犯罪」について言葉を尽くして謝罪し、あちこちに記念碑を建ててきた。様々な追悼行事も欠かさない。そこにあるのは過去を刻印することに熱心な傍観者の視点だ。

ところがイェニンガーは「我々ドイツ人が犯した罪」を語り、傷口をまた開けてしまった。そのために議員たちは罪悪感を呼び起こされる可能性に気付き、拒否という防衛のスイッチを入れたのではなかろうか。

しかし面白いことに、スキャンダルの風向きはすぐさま一転する。「不快な内容なので耳をふさいだのか」などの批判が国民から起こり、外国からは「これほど勇気あるナチス分析をドイツの政治家から聞いたことがない」との賞賛も上がった。

皮肉な方法でイェニンガー支持を表明したのはユダヤ人中央評議会のイグナツ・ブービス新議長だ。ブービス氏は1年後の、偶然にもベルリンの壁が開いたその翌日という水晶の夜51周年で、演説の中にイェニンガーの表現をいくつか黙って使い、満場の拍手を浴びた。拒否する聴衆は1人もいなかった。

当事件は、表現技術によって受け手の理解が大きく変わること、そしてドイツ指導層に集団ヒステリー的傾向があることを示した。イェニンガーの原稿は現在、修辞学の教材としてよく使われている。

27 Mai 2011 Nr. 869

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:03
 

バーシェル疑獄 Barschel-Affäre

1987年9月7日~
1987年10月11日、ジュネーブのホテルの一室から男性の死体が発見される。1週間前にシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州(SH)首相を辞任した政治家、ウヴェ・バーシェル(キリスト教民主同盟= CDU)だった。

疑獄を呼んだ選挙戦スクープ

1950年以来CDU が政治を担うSH州で、82年に前任者から政権を引き継いだバーシェルは、83年の改選に勝利して二次政権を樹立。その4年後の87年9月13日に、再び州民の審判を受けたところだった。

結果はCDU42.6%、社会民主党(SPD)45.2%、自由民主党(FDP)5.2%。CDUは第2党へと後退したが、FDPと連立すれば政権を維持できなくはない。しかし選挙前の9月7日、シュピーゲル誌からCDU陣営の汚い選挙戦についてスクープされ、首相バーシェルは窮地に立たされていた。ここから、「ワーターカントゲート(Waterkantは低地ドイツ語で北海沿岸の意)」と呼ばれる一大疑獄の幕が切って落とされる。

記事によると、バーシェル選挙事務所が広報担当に雇ったライナー・プファイファーは、SPDの州首相候補ビョルン・エングホルムの私生活を探偵に探らせ、根も葉もない誹謗中傷を流すだけでは足りず、偽の脱税情報を通告。さらには医者を名乗ってエングホルム本人に電話を掛け、「貴殿はエイズに罹患している」と言ったという。

謎めいたバーシャルの死

選挙前日、バーシェルは記者団に「完全な作り話である」と断言した。しかし選挙後、シュピーゲル誌が次々に送り出す暴露記事によって追い込まれ、10月2日に首相を辞任。そのわずか9日後にジュネーブで死体となって発見される。

家族や目撃者などの証言によると、バーシェルは6日に妻とグラン・カナリア島へ休暇に出掛け、10日の10:30に1人でジュネーブへ向けて離陸。15:10にジュネーブ空港に着き、その10分後に空港を出て、遅くとも16:30にはホテルBeau-Rivage に到着すべきところ、17:10 にチェックインしている。12日に同件の調査委員会に出頭する予定があり、11日にキールへ飛ぶ航空券を購入済みだった。

空港からホテルまでの空白の40分間に彼は何をしていたのだろうか。バーシェルは妻と妹に、「ロベルト・ロロフという男が私の名誉回復の助けになる情報を持ってフランクフルトからジュネーブに来る」と言っていた。空港近くでそのR.R.なる人物と会ったことは、ホテルに残されたメモからも確かなようだった。

翌日の昼にホテルの客室でそのメモとバーシェルの死体を発見したのは、シュテルン誌の記者とカメラマンである。彼らは早朝からホテルに張り込み、何度も317号室のドアまで行っては「入室断り」の札を見てロビーに 戻ってきていたが、12時になっても政治家が現れないため、点検に来たルームサービス係と一緒に入室。フロアの端に転がる片方の靴と使用した形跡のないベッドを目に留め、メモを見付け、バスルームに入って死体を発見する。彼らがすべての状況をカメラに収めて警察に通報したのは、1時間後だった。

着衣のままバスタブの水に半分浸かっての死は、普通の死に方ではない。胃から向精神薬、抗うつ薬、精神安定剤、睡眠薬が多量に検出され、死者が以前から薬物に依存していたことから、ジュネーブ警察は自殺と判断。リューベック地検も自殺と結論付けた。

バーシェル事件を扱った本
バーシェル事件を扱った本
『Der Doppelmord an Uwe Barchel(第5版)』
(Wolfram Baentsch, 2008)。
これまでに、事件を題材にした数多くの書籍が出版されている

他殺説と事件の余波

しかし、今でも他殺説を主張する関係者は多い。浴槽の前にあった片方の靴に出所不明の液体が付着し、ワイシャツの2番目のボタンが千切れ、抗うつ薬の箱がなかったこと、R.R. なる人物が特定されず、バーシェルの闇の活動が明るみに出たからだ。

弁護士業に就いていた1970年代から、バーシェルはアラブ諸国や南アフリカへの武器密売を手掛け、東ドイツとの不法な商取引にも関係していたが、今回のスキャンダルによって今後は邪魔な存在になるとみなされ、殺されたというのだ。有名なイラン人武器商と北朝鮮人、あるいはイスラエルの諜報機関モサドによって口封じされたとする説もある。

そしてこの事件は、88年5月のやり直し選挙に大勝利してSPD政権を樹立し、92年選挙で続投を決めたエングホルム首相の運命をも変えてしまった。

エングホルムは88年初頭、調査委員会でCDUの不法行為をシュピーゲル誌の報道で初めて知ったと証言。しかし実際は、選挙の7日前に前述のプファイファーがSPD広報官らに告白しており、SPDはその情報をシュピーゲル誌に流した上で、プファイファーに口止め料として計5万マルクを払っていた。それが明らかになったのは93年5月。エングホルムは偽証の事実を認め、すべての公職を辞すことになった。

この事件で勝利者がいるとすれば、シュピーゲル誌を筆頭とするメディアであろう。彼らは「調査報道」を旗印に、売るための情報操作を行い、世論をあおり、しかし展開については責任を負わず、自己批判もない。現在もバーシェルの死の謎は最も売れるネタである。

22 April 2011 Nr. 864

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:04
 

ホーネッカーの西ドイツ訪問 Honecker im Westen

1987年9月7日
1987年9月7日、東ドイツのエーリッヒ・ホーネッカー国家評議会議長(ドイツ社会主義統一党(SED)書記長)が初めて西ドイツを訪問し、ドイツ・ドイツ関係は新たな局面を迎える。

ドイツ・ドイツ会談とソ連の圧力

東西が顔を合わせるドイツ・ドイツ会談は、それまでに3回行われていた。1970年にブラント首相(SPD)が東ドイツのエアフルトでシュトフ閣僚評議会議長と会い、翌年に同議長が西のカッセルを訪れてブラントと再会。次のシュミット首相(SPD)も、81年に東ドイツ・ブランデンブルク州の湖畔でホーネッカー国家評議会議長と会っている。

つまり4回目となる今回のドイツ・ドイツ会談は、3回目のシュミット東独訪問への返礼と言えるものだが、予定は83年4月、84年9月と2度、東からキャンセルされていた。この時期は、米ソの核戦略拡大競争、モスクワオリンピックの西側ボイコットへと、東西間の緊張が再び高まっていたために、ソ連がホーネッカーの西独訪問にストップをかけたと歴史書にはある。それはどういうことなのか。

ホーネッカーは80年から中立国オーストリアを手始めに、NATO加盟国のイタリア、ギリシャ、オランダを歴訪し、バチカンでローマ教皇、日本で昭和天皇に拝謁するなど、積極的な対西外交を展開していたが、西ドイツの首都ボン訪問には特別な意味が伴う。

西ドイツが2つのドイツ国の存在を現実として認めるということだ。それはホーネッカーの成功を意味し、東ドイツの政治力を抑えておきたいソ連にとっては好ましくない。また西側諸国も本音では、頭越しのドイツ関係を喜んでいなかっただろう。

象徴的な2国会談

しかしソ連にミハイル・ゴルバチョフ書記長が登場し、1987年5月に開かれたワルシャワ条約機構の会議(当連載32回参照)で軍縮案が採択されるや、ドイツ・ドイツ関係も急展開。急きょ、ホーネッカーの西ドイツ訪問が可能になった。

1987年9月7日、握手を交わすホーネッカー(左)とコール
1987年9月7日、ボンの西ドイツ首相府で
握手を交わすホーネッカー(左)とコール
©ddrbildarchiv.de/DPA/Press Association Images

西で迎えるのは82年から政権を取るヘルムート・コール首相(CDU)。国民の反応は2つに割れた。交流の広がりに期待が膨らむ一方で、「ドイツの分裂を代表する人物を儀仗隊(ぎじょうたい)の栄誉礼で迎えるのか」「これで統一は幻になった」などの否定的な意見も出る。

コールは「単なる実務訪問である」と説明して批判を抑えた。ドイツ・ドイツ関係は“両国民に関わる国内問題”なのだから、これによって東の壁を少しでも開けられればと考えたのだそうだ。

こうして9月7日、2つのドイツ国旗がはためくボンの飛行場に、ホーネッカーを乗せた特別機が到着した。東の国旗は西と同じく横に黒赤金の3色が入り、中央部に労働を象徴するハンマーとコンパスと稲穂の花輪が描かれている。オリンピックや世界選手権で何度も表彰台を飾った国旗だが、覚えておられるだろうか。

次にボンの首相府で、国賓を迎えての栄誉礼が挙行された。軍楽隊がドイツ民主共和国(東ドイツ)の国歌『廃墟からの復活』を演奏し、ホーネッカーとコールが捧げ銃をした儀仗隊の前を並んで巡閲する。2つの国旗、2つの国歌、儀仗隊の栄誉礼。コールは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

名を捨て、実を取ったコール政治

しかしその夜の歓迎晩餐会で、コールは東ドイツにも生中継されることを計算した上で辛らつなスピーチを行う。

「ドイツの国民は分裂に苦しんでいます。道の前に立ちはだかって彼らをはね返す壁に苦しんでいます。彼らは今日ここで、我々が新しい橋をかけることを望んでいるのです」

カメラは隣に座る東ドイツ国家評議会議長の、凍りついた表情を映し出していた。

ホーネッカーは5日間の訪問中に環境問題、放射能問題、学術交流で協定を結び、4つの州を視察。精力的に動き回っている。ザールラント州では生まれ故郷の町を訪ねて隣人たちと語り、ヴッパータールでは1983年に彼を名指しで風刺したロック歌手ウド・リンデンベルクから、「Gitarren statt Knarren(鉄砲よりギターを)」と書かれたギターをプレゼントされて苦笑い。人間の顔をのぞかせた。

そして帰国後、ドイツ・ドイツ会談の成功を大々的に宣伝し、国民への監視体制を多少緩める。87年中に西ドイツへの旅行を許された東ドイツ市民は500万人。前年より100万人も多い。35の市町村が西と姉妹都市を結び、青少年のスポーツ文化交流も盛んになる。

別の見方をすれば、コールの、名を捨てて実を取る政治が未来への投資という形で実を結んだとも言えよう。いみじくも当時、東ドイツの国家安全機関(シュタージ)がドイツ・ドイツ会談後の東ドイツにおけるイデオロギー弱体化を警告している。しかしベルリンの壁が、そのわずか2年後に崩れることを、誰が想像できただろう。

18 März 2011 Nr. 859

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:06
 

軍縮、始まる Abrüstung im Warschauer Pakt

1987年5月29日
東ベルリンで1987年5月29日に始まったワルシャワ条約機構の首脳会議。加盟国の代表たちは、ソ連のゴルバチョフ書記長が求める世直し改革(ペレストロイカ)を冷たく退け、軍縮案でのみ合意した。

ワルシャワ条約機構の大会議

東ベルリンには100社を越える西側のメディアが集まってきていた。3日にわたる大会議である。ホストを務める東ドイツのエーリッヒ・ホーネッカーSED(ドイツ社会主義統一党)書記長は、満面の笑みで各国の代表を迎え、“社会主義者の兄弟のキス”を交わした。社会共産圏の結束を示す一大ショーでもあるのだ。

ワルシャワ条約機構は冷戦の終焉とともに解散されたので、ご存じない方のために少し説明しておこう。これは西側の軍事同盟NATO(北大西洋条約機構)に対抗するため、ソ連とアルバニア、チェコスロバキア、東ドイツ、ハンガリー、ブルガリア、ポーランド、ルーマニアが1955年に結成した同盟で、加盟各国の防衛、統一軍事、外交、相互理解など、政策全般にわたって協議する重要な決定機関であった。

当時の状況は、盟主であるソ連に85年からミハイル・ゴルバチョフ書記長が登場し、政治経済改革、情報公開、スターリン批判の再開など、広範なペレストロイカ政策を始めたところ。しかし、加盟各国の代表にとってその話題は好ましくないものだった。

ペレストロイカへの冷ややかな視線

そのことは、会議に先立って加盟各国をまわってきたソ連ゴルバチョフ書記長にはっきりと示されたらしい。ハンガリー社会主義労働者党のトップに30年以上君臨する75歳のカーダール・ヤーノシュは、条件付きで賛同しつつ、同国では20年前から改革を試みていると反論。後の革命で処刑されることになるルーマニアの独裁者、ニコラエ・チャウシェスクにしてみれば、ペレストロイカなどは迷惑千万な話だった。

1987年12月8日、ワシントンのホワイトハウスで中距離核戦力全廃条約に調印する米国のレーガン大統領(右から2人目)とソ連のゴルバチョフ書記長(右から3人目)
1987年12月8日、ワシントンのホワイトハウスで
中距離核戦力全廃条約に調印する米国のレーガン大統領
(右から2人目)とソ連のゴルバチョフ書記長(右から3人目)
©BARRY THUMMA/AP/Press Association Images

そして東ドイツのホーネッカー書記長は、会議に先立ってゴルバチョフ書記長の一行をメッセ見学へと案内する。そこには東ドイツが誇る工作機械や32ビットプロセッサのコンピューターなど、最新鋭の技術が展示されていた。つまりホーネッカーはソ連に対し、我が国は社会主義国として発展している、ペレストロイカが必要なのはお宅であって我が国ではないと、言外に匂わせたのだ。

核の抑止力による勢力均衡

結局この会議で彼らが合意に至れそうな案件は、軍事問題しかなかったことになる。

冷戦期、米ソは互いに核武装することで力の均衡を図ってきたわけだが、双方で“均衡”の解釈が違うため、核の抑止力に頼っている限り核兵器が増えることになる。例えば、ソ連が新型の中距離弾道ミサイルSS-20をウラル以西に設置した1979年。ヨーロッパの核はこれで均衡したと主張するソ連に、米国とNATOは青ざめてこう言った。

「SS-20を撤去しないなら、当方も中距離弾道弾パーシング2を配備する」「全廃するなら、当方も撤去する」。軍拡には軍拡で対抗しつつ、軍縮(互いにゼロにするオプション)も提案したというわけだ。しかし、81年に始まった交渉は難航し、米国はパーシング2を西ヨーロッパに配置。ソ連はその対抗措置として東ドイツとチェコスロバキアにSS-20を前進配備してしまった。

レーガン外交——軍縮への転換

このような状況でソ連を軍縮へと向わせたのが、ソ連を「悪の帝王」と名指した米国レーガン大統領の「力による平和外交」だったことは興味深い。実のところ、ソ連の国家財政は軍拡競争とアフガニスタン侵攻によって破たん寸前にあり、国を再建したいゴルバチョフ書記長がワルシャワ条約機構の加盟各国から軍縮への支持を取り付けることは、米国と交渉を再開する上で必要なプロセスだったのだ。

東ドイツとチェコスロバキアが賛成したことは言うまでもない。ホーネッカーは以前からSS-20を「悪魔の用具」と公言してはばからなかったのだ。ほかの代表たちにもワルシャワ条約機構を「防衛のみの軍事同盟」と定義して軍縮することに異存はなかった。

ニュースが世界に発信された。西ドイツのコール首相は「ゼロオプションに期待する」と発言。東ベルリンの壁近くでは若者たちがゴルバチョフの名を連呼する。ワシントンで行われた米ソ首脳会談で歴史的な中距離核戦力全廃条約が結ばれたのは、同年12月8日。こうして東西の冷戦は終焉へと動き始めた。世直し案にそっぽを向いた東ドイツと東欧の権力者たちが追われるのは、間もなくである。

18 Februar 2011 Nr. 855

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:07
 

チェルノブイリ原発事故の衝撃 Katastrophe im Atomkraftwerk Tschernobyl

1986年4月26日
ソ連邦ウクライナ共和国にあるチェルノブイリ原子力発電所4号炉で大爆発が起きたのは、1986年4月26日。西ヨーロッパ諸国が放射性降下物による汚染に気付き、国民に厳重警戒を呼び掛けたのは3日後のことだった。。

事故の隠ぺい、対応の遅れと放射能拡散

対応がこれほど遅れたのは、ソ連当局が事故の発生を隠したからにほかならない。当時のソ連はゴルバチョフ書記長下でペレストロイカ(再建)が提唱され、グラスノスチ(情報公開)が始まってはいた。しかし、広島に投下された原子爆弾の500倍とも言われる爆発事故についての事実が公表されたのは、スウェーデンのフォルスマルク原子力発電所で、2日後に高濃度の放射能が検出されてからだった。

4月28日早朝、検出値の異常から安全装置が自動的に作動した発電所では、まず自所内の放射能漏れを疑い、最終的にソ連領域から漏出していることを突き止める。

こうしてソ連当局はチェルノブイリ原発の事故を否定できなくなり、以後は国際原子力機関(IAEA)へも協力的に報告するようになるが、その間に放出された膨大な量の放射性物質は、まずロシアからスカンジナヴィア、ブリテン島へ、次に風向きが変わってチェコやドイツなどの中欧へ拡散。やがて北半球全体へと広がってしまった。

西ドイツ内のパニック

西ドイツでチェルノブイリの名前が挙がったのは4月29日夜のことである。公共放送ARDのニュース番組Tagesschauがトップで取り上げ、大気汚染と土壌汚染について説明。窓と戸を常に閉めておくこと、幼児を砂場で遊ばせないこと、汚染が予想される猪や鹿などの野生肉、河川魚、戸外のキノコや果実、牛乳などについて残留放射能テストが行われること、安全値を越える食物の処理については関係当局が指示を出すことなどを通知した。

1986年5月11日、放射能汚染の不安から市販のミルクを路上に撒き散らすベルリン市民
1986年5月11日、放射能汚染の不安から市販のミルクを
路上に撒き散らすベルリン市民
©Peter Homann/AP/Press Association Imagess

翌30日、スーパーマーケットは食料品を買いだめする客で大騒ぎになる。将来起こりうる不足の事態に備えようとするのは、いずこも同じ。この時点で流通している食品のほとんどは前年、あるいは屋内で生産されたものだが、汚染の不安から生鮮食品が売れ残り、どこをどう回ってか超安値で東ドイツに出回るという笑えない落ちまでついた。

この日、ミュンヘン上空で通常の10倍のガンマ線が計測される。バイエルンの森のキノコからは最高4万ベクレル/㎏の放射能が検出された。2年後の1988年に1万5000ベクレル/㎏の鹿、6万5000ベクレル/㎏の猪が捕獲されたこともある。餌を通して体内に放射性物質が蓄積されるためだ。EUの残留規定値は一般食品で600ベクレル以下、乳製品と離乳食で370ベクレル以下。これらの数値に比べ、驚くほど高い汚染度である。

汚染ミルクの中和処理

では、汚染された食物を流通からどのように除外するのか。放射能安全委員会は生産・捕獲者に破棄を要求し、補償金を支給することにした。例えば、基準値を越える猪を捕獲した人は近くの獣類管理局に破棄を依頼し、ケルンの連邦行政局に補償を請求するのである。

汚染ミルクについては特殊な方法が取られた。ミルクの成分は乳脂肪分と大量の乳清。脂肪分は固形物に加工して対処できるが、水溶性の乳清については中和の方法がこの時点では見付からない。関係者には保管が通達された。

汚染乳清5000トンが貨物列車150台に積み込まれ、ニーダーザクセン州エムスラント地方のメッペン連邦軍用地に搬送されたのは翌1987年の2月。イオン交換法によって汚染が中和され、最終解決を見たのは、さらに15カ月後の88年5月である。

事故の教訓ーー 脱原発へ

東西冷戦の最前線で米ソの核兵器競争に身をさらす東西のドイツ人にとって、チェルノブイリの原発事故は原子力への不安をさらに強め、忘れがたい具体的な恐怖体験として記憶に刻まれたことだろう。

それまで内務省の管轄だった連邦の環境行政が「環境省」として独立したのは、事故直後の1986年6月6日。以後、原子力発電所の安全管理の見直し、さらに原子力から再生可能エネルギーへの転換を進める動きが起こる。緑の党と連立したSPDシュレーダー政権下で、2023年までに段階的に原子力発電所を廃止することが決まったのは2002年である。

放射性元素セシウムの半減期は134で2年、137で30年。西ヨーロッパにも降り注いだ放射性物質は、人体にどれほどの影響を与えているのだろうか。事故からまもなく25年が経つ今でも、ドイツの森からは体内の放射能が600ベクレル/㎏を越える猪が多数捕獲されているという。

21 Januar 2011 Nr. 851

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:07
 

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