独断時評
独断時評 バックナンバー
ロベルト・エンケの死

| ロベルト・エンケの死 |
![]() このニュースはドイツ市民にとって、今年最も強いショックと悲しみを与えた出来事であろう。11月15日にハノーファーのサッカー競技場で行われた追悼式に4万人もの市民が参加したことは、ヒーローの死が人々に与えた衝撃を浮き彫りにしている。 エンケの死後、人々は彼が2003年からうつ病の治療を受けていたことを初めて知った。この事実を知っていたのは、家族と医師だけだった。エンケは「自分がうつ病であることが世間に知れたら、サッカー選手としての経歴は終わりだ」と思い込んでいたのである。このため彼は治療を受けている事実を世間に対して隠し通した。 妻や心理療法のセラピストである父親は、エンケを救うために必死の努力をした。「サッカーだけが人生ではない。ほかの事をやっても生きていけるではないか」という言葉も、追いつめられたエンケを救うことはできなかった。幼い娘が心臓病で亡くなったことも、彼の絶望感に追い打ちをかけた。 “Wir dachten halt auch, mit Liebe geht das. Aber man schafft es doch nicht immer.”(私たちは愛情があればうまくいくと思っていました。しかし、うまくいかないこともあるのです)という妻の言葉は、人々の涙を誘った。 ドイツではエンケの死をきっかけに、うつ病についての議論も活発に行われるようになった。この国では年間約400万人がうつ病に悩んでおり、その内、約4%が自ら死を選ぶといわれている。うつ病の患者が増える背景には、社会のプレッシャーの増大がある。学校や職場でも競争は激しくなる一方で、短時間で具体的な成果を出すことが求められる。ITの普及によって仕事の効率が高まったことは事実だが、勤労者のストレスは増大する傾向にあるのだ。 また、経済のグローバル化によって職場の安定感も失われ、いつリストラが行われるか、いつ自分の会社が他社に買収されるかわからない。先行きの不透明感は高まる一方だ。 ある医師は、「うつ病は特殊な病気ではなく、誰でもかかる可能性がある。したがって、そうした症状があることを隠さずに、治療を受けるべきだ」と言う。有名なスポーツ選手は映画スターと同じで、常にマスコミとファンから注目されている。「失敗してはいけない」「病気であることが知られてはならない」という重圧感が、エンケを袋小路に追い込んでいった可能性がある。彼は完全主義者だったのかもしれない。うつ病を防ぐには、「これに失敗しても別の道がある」「自分はこれができなくても、別のことは得意だ」という楽観的な気持ちを持つことも重要だ。問題に直面したら「これは自分への挑戦であり、必ず解決方法がある」と前向きに考えよう。 ドイツでは昨年、9331人が自殺した。日本では、1998年から毎年3万人を超える市民が自ら死を選んでいる。OECD(経済開発協力機構)加盟国の中で、日本の自殺率(10万人当たりの自殺者数)は最も高い。エンケを死に追い込んだプレッシャーは、すべての市民にとって他人事ではない。 27 November 2009 Nr. 793 |
|
|
|
関連記事:
著者プロフィール:熊谷徹 1959年東京生まれ。早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。ワシントン支局勤務中に、ベルリンの壁崩壊、米ソ首脳会談などを取材。90年からはフリージャーナリストとしてドイツ・ミュンヘン市に在住。過去との対決、統一後のドイツの変化、欧州の政治・経済統合、安全保障問題を中心に取材、執筆を続けている。著書に「ドイツの憂鬱」、「新生ドイツの挑戦」(丸善ライブラリー)、「ドイツ病に学べ」、「住まなきゃわからないドイツ」、「びっくり先進国ドイツ」(新潮社)など。 http://www.tkumagai.de/ |











