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Mon, 14 October 2024

20世紀モダニズムの作家ヴァージニア・ウルフの
過ごした場所

ヴァージニア・ウルフ

小説家そして評論家として、モダニズム文学において重要な位置を占めるヴァージニア・ウルフ。豊かな教養を備えたロンドンのアッパーミドル・クラスの家庭に生まれ、当時の英国最先端の文化を吸収しながら育ったウルフは、ヴィクトリア朝時代の旧弊な社会が崩れ始め、自由主義改革や社会運動が盛り上がりを見せるロンドンの街で多感な時期を過ごした。そのため、その作品には当時の社会的背景が色濃く反映されている。サフラジェットによる女性選挙権運動、第一次世界大戦、さらには第二次世界大戦と、価値観の目まぐるしく変わる時代を生き抜いたウルフの姿を、ロンドンの街と共に振り返る。
(取材・執筆: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: 「Virginia Woolf at Monk's House」ナショナル・トラスト刊ほか

ヴァージニア・ウルフ

VIRGINIA WOOLF
ヴァージニア・ウルフ
1882-1941

19世紀末から20世紀半ばに活動。代表作に「ダロウェイ夫人」や「灯台へ」などがあり、内的独白や意識の流れの技法を用いて、人間の心理や日常生活を描いた。姉は画家のヴァネッサ・ベルで、姉妹で知識人や芸術家たちの集団「ブルームズベリー・グループ」(Bloomsbury Group)に参加。旺盛な執筆活動の一方で周期的な精神病に苦しみ、第二次世界大戦の真っ最中である1941年に59歳で英南東部ウーズ川に身を投げて命を絶った。女性の社会的地位や個人のアイデンティティーをテーマに取り上げていたことから、近年フェミニズムの先駆者として再評価されている。

22 Hyde Park Gateサウス・ケンジントンに生まれる

ヴァージニア・ウルフは、著名な批評家で歴史家のレスリー・スティーヴン(Leslie Stephen)と、ラファエル前派のモデルとしても知られるジュリア・プリンセップ・ジャクソン(Julia Prinsep Jackson)の次女として、1882年1月25日にロンドン西部サウス・ケンジントンの22 Hyde Park Gateに生まれた。ロイヤル・アルバート・ホールの目と鼻の先で、多くの大使館が立ち並ぶこの通りには、アッパーミドル・クラスの人々が暮らし、かつてはウィンストン・チャーチル元首相も住んでいた。現在22番地にはイングリッシュ・ヘリテージの青い銘板が三つ飾られている。一つはウルフの父親、二つ目は画家でブルームズベリー・グループのメンバーでもある姉のヴァネッサ・ベル、そして三つ目はウルフ自身を称えるものだ。ウルフには、異母兄弟や姉妹を含めて計7人の兄弟姉妹がおり、特に姉のヴァネッサとは生涯を通じて強い絆を築いた。

ヴァージニア・ウルフの暮らした家1904年まで暮らしたサウス・ケンジントンの家

父親は子どもたちの教育に積極的で、ウルフは幼少期から膨大な蔵書を持つ自宅の図書室にアクセスできる環境で育った。また、父親は「オックスフォード英国人名鑑」(Oxford Dictionary of National Biography)の編集者でもあったことから、多くの著名な知識人や作家が家を訪れた。この恵まれた環境が、ウルフの知的好奇心と文学的才能を育む助けとなったのは間違いない。だが当時の男女不平等な慣習のせいで、ウルフの兄弟たちがケンブリッジ大学へ進学するなか、ウルフとヴァネッサはキングス・カレッジ・ロンドンの女子学部以上へ進むことが出来なかった。ウルフはよほど悔しい思いをしたのか、後年自著「自分だけの部屋」(A Room of My Own)の中で、「女性の精神向上の願いはことごとに阻まれ、愚鈍であるようにと望まれ、企まれてきた」という考えを発表するに至った。

ヴァージニア・ウルフクリケットをして遊ぶ12歳のウルフ(写真左)と姉のヴァネッサ(同右)

46 Gordon Square + 29 Fitzroy Square ブルームズベリーでボヘミアンになる

1904年に父親が死去したため、ウルフは姉のヴァネッサと兄のトビー、弟エイドリアンと共にロンドン中心部ブルームズベリーの46 Gordon Squareに引越した。近くには大英博物館があり、周辺にはロンドン大学の建物が立ち並んでいるので、作家や思想家が集まる場所として当然のように見える。しかし、当時のブルームズベリーは現在より自由でボヘミアンな土地柄であり、そんなところで未婚の兄妹たちが集まって一緒に家を構えるのは、先駆的で少々スキャンダラスなことでもあったという。46番地は、兄のトビーがケンブリッジ大学で知り合った若くて才気あふれる青年たちの集合場所となり、その中にはロジャー・フライ、J・M・ケインズ、リットン・ストレイチー、E・M・フォースター、レナード・ウルフ、クライヴ・ベルがいた。このグループは外部から「ブルームズベリー・グループ」と呼ばれるようになる。グループとの知的な交流がウルフの創作活動に大きな影響を与え、ウルフの最初の本格的な執筆活動もこのころ始まった。文学批評が中心で、さまざまな雑誌に記事を寄稿したが、特に「タイムズ・リテラリー・サプリメント」誌へは死ぬまで評論を送り続けた。

現在の46 Gordon Square現在の46 Gordon Square

兄のトビーが06年に腸チフスで急死し、姉のヴァネッサがブルームズベリー・グループの一員クライヴ・ベルと結婚することになった。そのためウルフは07年8月に兄のエイドリアンと共にブルームズベリーからほど近い、フィッツロヴィアの端正なジョージアン建築29 Fitzroy Squareに引越す。この家でウルフは最初の小説「船出」(The Voyage Out)の執筆に取り掛かった。やがて12年に、ウルフもまたブルームズベリー・グループの一人である作家のレナード・ウルフ(Leonard Woolf 1880~1969)と結婚した。

エチオピア王族一行のふり1910年、グループのメンバーがエチオピア王族一行のふりをして英海軍をだまし、戦艦「ドレッドノート」を見学するに至った悪戯。ウルフも顔を黒く塗って参加した(写真一番左)。偽エチオピア皇帝事件と呼ばれて後に新聞沙汰になった

Hogarth House, 34 Paradise Road ホガース・プレス出版社を始める

ロンドン南部の緑豊かなリッチモンドにある建物へ、ウルフと夫のレナードは1915年に引越し、ホガース・ハウスと名付けた。ウルフはそのころ重度の精神疾患に苦しんでいたため、落ち着いた環境で暮らすことが必要だったのだ。父親や兄の死の際に寝込んだウルフだが、執筆するたびに極度の肉体的、精神的な消耗状態に追い込まれ、13年9月には自殺を試みた。翌年夏までには完全に回復したように見えたものの、15年2月には再発してさらに容体は悪くなり、この病は17年まで続いた。レナードは、妻が楽しめる趣味や活動を見つけ、執筆による精神的ストレスからの解放を図ろうと考えた。2人は印刷技術に興味を持っていたので、素人ながら17年3月に小さな手動印刷機と古い活字、一式の道具や材料を購入。ホガース・プレスと名付けられた出版社が、34 Paradise Roadの居間に設立された。

ホガース・プレスの拠点となったリッチモンドのホガース・ハウスホガース・プレスの拠点となったリッチモンドのホガース・ハウス

最初の本は17年7月に発行された。それはウルフの物語「壁のしみ」(The Mark on the Wall)とレナードのエッセイを収めた32ページの小冊子だった。表紙には「ホガース・プレス、リッチモンド 1917」と印刷され出版社の歴史が始まった。活字を1字1字拾い、自分で印刷、製本していくため部数はそんなに多く制作できない。初期のころ、アイルランドの作家ジェームズ・ジョイスに「ユリシーズ」を持ち込まれたが、大作のため自分たちでは無理だと断らなければならなかったという逸話もある。そのため初期は150部止まりのものが多かったが、数年間でホガース・プレスの事業は急速に拡大し追加の設備が設置され、一部の印刷作業は外部の会社に委託されるまでになった。しかし24年までに出版された32冊の本のうち16冊は実際にウルフ夫妻自らの手で印刷された。そのなかには、T・S・エリオットの「荒地」や心理学者ジークムント・フロイトの著書など、20世紀を代表する名著も多く入っている。当初はウルフの精神不安を和らげ、肉体的に夢中になれる活動として始め、自分たちや友人の本を業者を介さず出せるという気楽な気持ちで続けた。しかしレナードの出版業への熱意は生涯にわたるもので、第二次世界大戦、そしてウルフの死後も続いた。最終的に1946年に現在のペンギン・ランダムハウスに統合されるまで、315冊もの良書を出し続けた。

ホガース・プレスの発展に尽くした夫のレナード・ウルフホガース・プレスの発展に尽くした夫のレナード・ウルフ

一方、ウルフにとってこうした手仕事による気分転換は功を奏した。21年に自分で活字を拾い、出版した短いスケッチのコレクション「月曜日あるいは火曜日」(Monday or Tuesday)で登場人物の意識にフォーカスを当てた新しい文章の技法を試みたウルフは、作家としての転機を迎えた。批評家たちは「経験の流れを小説に具現化するための、柔軟で印象派的あるいは瞑想的なスタイル」と称え、T・S・エリオットは「やっとあなた自身の声を見つけましたね」と賛辞を贈った。

この技法は後に続く「ジェイコブの部屋」(Jacob’s Room)やその後の小説でさらに発展していく。意識の流れを描くモダニスト、ヴァージニア・ウルフの誕生である。

52 Tavistock Square + 37 Mecklenburgh Square 再びブルームズベリーへ

1924年3月、ウルフとレナードは約10年間リッチモンドで暮らした後、ロンドン中心部に戻り、ブルームズベリーの北側52 Tavistock Squareに居を構えた。ホガース・プレスは地下に設置。引越しの理由は、ウルフの精神状態が落ち着き執筆に脂がのってきたことで、若いころから慣れ親しんできたロンドンの街の刺激が恋しくなったためだった。ロンドンに戻ってきた喜びは、ロンドン散策の長い描写がある25年発表の「ダロウェイ夫人」(Mrs Dalloway)からも想像できる。ウルフは定期的に街頭ウォッチングに出掛け、街の人々と街との関わりを観察した。当時、英国の経済は第一次世界大戦(1914~18年)が終わってから急速に成長し、20年代初頭には好景気に沸いていた。新たな文化も生まれており、若い女性たちの間では断髪でひざ丈のスカートを履き、ジャズに合わせて激しく踊る米国に影響を受けたファッションがはやり、インテリアはアール・デコの時代だった。BBCがラジオ放送を開始し、大英帝国博覧会が開催。自動車や映画など多くの発明や発見と製造業の成長とともに、消費者の需要と願望が加速し生活様式の変化が起きていたのだ。絶えず変化する街の風景にウルフは多くの刺激を受けた。戦前のヴィクトリア朝時代の文化、すなわちディケンズやコナン・ドイル、オスカー・ワイルドの小説、ラファエル前派の絵画、ビアズリーのイラストレーション、ウィリアム・モリスの壁紙、バーナード・ショーの演劇といったものが、急速に過去のものになっていった。

タヴィストック・スクエアにあるウルフの胸像タヴィストック・スクエアにあるウルフの胸像。
像の横にQRコードが設置され、ウルフについて説明する音声情報が聞ける

ウルフはこのころちょうど、叔母からの遺言で毎年500ポンド(現在の価値で約500万円)受けとることになった。この遺産はウルフが文学に没頭することを可能にし、ウルフは「ダロウェイ夫人」の後も、「灯台へ」(To the Lighthouse)、「オーランド―ある伝記」(Orlando)、「波」(The Waves)といった代表作を意欲的に発表した。しかし、1920年代の世界的な好景気は一時的なものに過ぎず、29年の米ニューヨーク株式市場の大暴落から始まり、時代は一気に経済的な混乱と政治的な緊張が高まる様相となる。各地で失業と貧困が広がり、ナチズムとファシズムが台頭。再び戦争の足音が聞こえ始めた。ウルフの精神状態はそれと共に再び悪化していく。レナードはユダヤ人であり、2人は1930年代の反ユダヤ主義を伴ったファシズムを非常に恐れていた。ウルフとレナードの名はヒトラーのブラック・リストに載っていたともいわれている。

39年、英国がドイツに宣戦布告。ウルフたちの住んでいた52番地はロンドン大空襲「ブリッツ」によって建物が損傷してしまう。街はこの時期ドイツ軍の爆撃を受け、多くの建物が破壊されていたため、2人は比較的安全な地域と考えられた37 Mecklenburgh Squareの最上階に移動。しかし、この家も後に空襲の被害に見舞われ、2人はとうとう1919年に購入したイースト・サセックスの別荘、モンクス・ハウスに向かうことになった。しかし、このころにはウルフの精神状態は最悪ともいえる状況になっており、作品の多くにインスピレーションを与えたロンドンの街に再び戻ることはなかった。現在、Tavistock Squareのフラットのあった場所に最も近い箇所に、ウルフを称えたブロンズ胸像がある。フラットは空襲で大きな被害を受け、かつての住居の跡地には現在タヴィストック・ホテルが建つ。

Monk’s House 終焉の地

傷心のウルフたちは戦火のロンドンを逃れ、1940年にイースト・サセックスの田園地帯の中心部にひっそりと佇むモンクス・ハウスに向かった。モンクス・ハウスは英南東部ルイスの郊外にある静かで小さなコテージで、19年に購入された後、夫妻はここを週末や夏の避暑地として利用し、近くに住む姉のヴァネッサやブルームズベリー・グループのメンバーを呼んでは会話を楽しんだ。もともとの庭園は古い農場の建物の廃墟に作られた小さな区画に過ぎなかったが、2人は年月をかけてナシやリンゴが実る果樹園、さまざまな野生の花でいっぱいの美しい英国の田舎風庭園を作り上げていた。20年には小さかったキッチンを拡張、26年には温水が出る浴室が完成し、29年には庭に池、新しいテラス、蜂の巣箱ができた。ウルフのために庭に面する新たな寝室も設け、その様子は今でも変わらない。

花の咲き乱れる庭から臨むモンクス・ハウス。小さな温室も付属している花の咲き乱れる庭から臨むモンクス・ハウス。
小さな温室も付属している

内部のインテリアは主に姉のヴァネッサが手掛けており、部屋のあちこちにはヴァネッサが描いたウルフの肖像画や水彩画などを飾り、椅子のテキスタイルなどもデザインした。ウルフの好きな色がグリーンであることから、壁やドアにはクリームがかった緑色のペンキも塗られた。そんな楽しい思い出ばかりがあるはずのコテージだったが、1941年初めごろから、ウルフは13年の自殺未遂以来の深刻な精神的苦痛に再び悩まされるようになる。新年の日記には、ロンドン大空襲によって家が破壊されたことを絶望する言葉が見られ、それに亡くなった友人ロジャー・フライの伝記の評判が芳しくなかったことが重なり症状は重くなった。過剰なストレスから幻聴も聞こえ始めたという。ウルフは全作品中で最も抒情的といわれる最後の小説「幕間」(Between the Acts)の原稿を完成させた後、ほぼ仕事ができない状態になった。

まだ肌寒さの残る1941年3月28日、ウルフはコートをはおると、ポケットにたくさんの石をつめて自宅近くのウーズ川で入水自殺をした。懸命な捜索によりウルフの遺体が発見されたのは4月18日。レナードとヴァネッサの2人にあてた切なくも美しい遺書も見つかった。レナードはウルフを火葬し、遺骨を2人が愛したモンクス・ハウスの庭のニレの木の下に埋葬した。残されたレナードは、ウルフが亡くなった後もこの家に住み続け、69年に死去。ウルフと同じニレの木の下に埋めるよう遺言を残していた。モンクス・ハウスは友人で芸術家のトレッキー・リッチーに遺贈され、現在はナショナル・トラストの管理で一般公開されている。ウルフが最後に見たもの、感じたものを追体験できるモンクス・ハウスは、今も訪れる人が後を絶たない。

Monk’s House
モンクス・ハウス
Monk’s House
庭に面した素朴なモンクス・ハウスの入り口 
Monk’s House
ウルフの寝室にある本棚。ここに並ぶ本はウルフ自身によってカバーが掛けられている。その作業は頭痛を癒やすセラピーの役割を果たしたという
Monk’s House
入り口入ってすぐのこぢんまりとした居間。姉のヴァネッサがデザインしたソファーのカバーや絵画が見える。壁はウルフの愛した緑色
Monk’s House
庭に面した明るい寝室。右はじには小さなシングル・ベッドが置かれている
Monk’s House
椅子の背にはヴァージニア・ウルフの頭文字であるVとWを組み合わせた意匠が付く
 
 
 

モンクス・ハウスへの行き方

ナショナル・トラストに管理されているモンクス・ハウスは季節によって開園日が異なる。また、バスは多い時間帯でも1時間に1本なので余裕をもって計画を。ロンドンのバスのように次の停車駅を放送しない上、インターネットにもつながりにくいため、乗車時に一言、ドライバーに最寄りのバス停に着いたら教えてくれるように頼んでおくと心安らかな旅ができる。London Victoria駅からナショナル・レールでLewes駅まで約1時間、駅前からバス(123 Bus Newhaven行き)でRodmell Mill Laneまで約15分。バス停前のパブThe Abergavenny Armsから徒歩7分。

www.compass-travel.co.uk/compass-timetables/bus-timetables

5~9月 木~土
4、10月 金・土
11~3月 休館
12:30-16:00(庭は17:00まで)
£9.50(オンライン予約必須)

Monk's House
Rodmell, Lewes, East Sussex BN7 3HF
Tel: 0127 347 4760
www.nationaltrust.org.uk/visit/sussex/monks-house

ウルフの代表作5選

ヴァージニア・ウルフの代表作を小説から評論まで併せて紹介する。①と②の装丁は姉のヴァネッサ・ベルが担当し、ウルフが写植を手掛けたホガース・プレス版だ。

1 Mrs. Dalloway
ダロウェイ夫人(1925年)

Mrs.Dalloway

「お花はわたしが買ってきましょうね、とクラリッサは言った。だって、ルーシーは手一杯だもの。ドアを蝶番から外すことになるし、仕出し屋のランペルマイヤーから人が来る。それに、この朝! すがすがしくて、まるで浜辺で子供たちを待ち受けている朝みたい」*と始まるこの小説は、人物が考えていることがそのまま描写される、ウルフの得意とする手法。パーティーの準備でロンドンの街を駆け回るダロウェイ夫人が、あたかも一緒にいるような臨場感を味わえる。
*光文社古典新訳文庫 土屋政雄訳

2 To the Lighthouse
灯台へ(1927年)

To the Lighthouse

スコットランドにあるスカイ島を訪れたラムゼー家の人々に起きた出来事を描く長編小説。短い対話のみで、あとは全て登場人物の思考と考察で占められている。物語の筋よりも意識の流れをどのように表すか、ウルフの文学的実験が試されている。物語の語り手がどんどん変化するため、読者は一定の視点を通して物語を読むという従来の方法が取れない。アヴァンギャルドとも技巧的ともいわれるウルフ作品の特徴がよく表れた作品だ。

3 Orland
オーランド – ある伝記(1928年)

Orland

両性具有を人間の理想型と考え、かつて同性愛も経験したウルフが、一時期自身の恋人だった英詩人ヴィタ・サックヴィル=ウェストをモデルに描いた半伝記的な物語。16世紀に生きる16歳の美少年が男性から女性へ変わりながら300年余り生き続ける。現代のトランスジェンダー観を先取りする主題で、LGBTを考えるうえでも興味深い1冊。1992年に映画化され、ティルダ・スウィントンが主役を演じた。

4 A Room of One's Own
自分だけの部屋(1929年)

 A Room of One's Own

もしシェイクスピアに才能あふれる妹がいたら、支援者も模範とすべき先達も、お金も時間も、自分の部屋すらもないなかで文学の道に進むことは可能だったか。女性の参政権が認められたばかりの1928年に、ウルフが女子大で行った講演の草稿をまとめた本。女性の自立をはばむ家父長制社会を弾劾し、女性は未来の女性のために勇気をもって連帯をしなければならないと、ユーモアや毒舌を交えながら述べるフェミニスト文学の古典。

5 Three Guineas
三ギニー 戦争を阻止するために(1938年)

Three Guineas

教育や職業の場で続けられてきた女性に対する直接的、あるいは制度的な差別。それが戦争と通底する暴力行為であることをさまざまな資料で明らかにし、戦争のない未来のためにできることを提示する評論の書。第二次世界大戦直前に書かれたため、「自分だけの部屋」よりもさらにウルフの思いは深刻で、戦う権利のない女性が意思表示をするにはどうすればよいのかを考える。女性が学問をすることの重要性や必要性を説いた1冊。

 

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