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Sat, 20 April 2024

第3回 東京・西新橋のロンドン・バス。

「ルートマスター」と呼ばれるロンドン名物の2階建てバスが、パーティー専用の観光バスとなって東京を走り回っている。中でも、お台場や都心の夜景スポットを巡回する定期観光ツアーは大人気らしい。

トラファルガー広場を通る「9」「15」の2系統を残して、ロンドンのルートマスターが「引退」したのは、2005年12月のことだ。東京のパーティー・バスは、その年の4月から運行しているという。

東京のロンドン・バスと言えば、職場近くの「西新橋1丁目」を思い出す。その交差点に2000年ごろ、赤い2階建てバスを再利用したバーがあった。

もしかしたら、ルートマスターとは違う車種だったかもしれない。正式な店名は「ダブルデッカー」だったが、みんな「ロンドン・バス」と呼んでいた。1階は「席=座席」が1つ、2階のそれは7つか、8つ。薄暗い照明、狭い通路、渋い木製のテーブル、それに種々の小物や飾り物が揃っていて、なかなか趣があった。天井には確か、サッカー日本代表の監督だったトルシエのサインもあったと思う。

「西新橋1丁目」は、霞が関のお隣でもある。当時の取材先は財務省や外務省などの官庁だったから、官僚たちをロンドン・バスに誘うこともあった。同僚や他社の記者仲間と、じゃあ、ちょっと軽く1杯というときにも足を運んだ。

夜遅くの酒飲み話など今となっては覚えているはずもないのだが、ある雨の晩、2階の席で知人から「絶対読んだ方がいい」と言われ、山田詠美の「ひざまずいて足をお舐め」を勧められたことは、妙にはっきりと記憶している。その夜は、自分には珍しく文学談義を続けた。

マスターから「今度、ロンドン・バスを撤去し、近くのビルで新しい店を構えることになった。また来て下さい」と言われたのは、2002年ごろだった。寂しげな表情ではなく、次の新しい店でも頑張るんだ、という雰囲気に満ちていたと思う。

その後しばらくして、ロンドン・バスは本当に消え去った。千葉まで自走して行ったという話があり、夜中にどこかへ牽引されて行ったという話もあった。

そして、私は「近くのビルの新しい店」を見つけることができなかった。教えてもらった場所が、うろ覚えだったのかもしれない。あるいは、私が店を探していたときは、まだ新店の準備が整っていなかったのかもしれない。

新聞記者になったばかりの、小樽勤務時代にも、似たような経験があった。バスではなかったけれど、よく足を運んだ、小粋なバー。

ある晩、先輩と2人で行くと、30代半ばのマスターが「今度、新しい場所に移るんだ。今より良い店になるから、また来てよね」と言い、新しい店の地図をメモ用紙に書いてくれたのである。

でも、新しい店は見つからなかった。いや、小樽は東京と違う。人口15万人ほどの小さな街だ。見つからなかったのではなく、オープンしなかったに違いないのだ。

あれも雨の晩だった。2人で新しい店を探し歩きながら、先輩は「マスター、本当は商売が苦しくて大変だったんだろう。新しい店って、あいつの夢だったんだろうな」と言った。いいやつだったのに、と。

西新橋1丁目のロンドン・バスが消えた後、私は札幌、ロンドンと転勤を続け、今年の春、再び東京勤務になった。職場から歩いて10数分。交差点にバスはなく、周囲は銀行の看板ばかりが目立つ。あのころにはなかった名前の銀行も数多い。

しかし、である。

夏の終わりごろ、ロンドン・バスの元経営者が開いた店が、近くの小路を入ったビルの地下で営業しているという話を聞いた。店内には、赤いロンドン・バスの模型もあるという。

経営者は同じなのだろうか。バスの内装品も使われているだろうか。トルシエのサインは、どうなっているのだろう——。

そんなことを考えながら、まだ新しい店には行かずにいる。そして、「もしかしたら」と20年ほど前のことも考えた。

あの小樽の新しい店。マスターの夢は実現していたのに、自分たちはあのとき、雨のせいもあって、看板を見つけ出せなかっただけかもしれない。

 
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高田 昌幸:北海道新聞東京編集局国際部次長。1960 年、高知県生まれ。86年、北海道新聞入社。2004 年、北海道警察の裏金問題を追及した報道の取材班代表として、新聞協会賞、菊池寛賞、日本ジャーナリスト会議大賞を受賞。2006~09年、ロンドンに駐在。
E-mail: editorial@news-digest.co.uk
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