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Tue, 19 March 2024

< 公開から100周年 > 映画「キッド」にまつわる
6つのストーリー

映画「キッド」の主役、チャーリー・チャップリン(写真左)とジャッキー・クーガン(同右)映画「キッド」の主役、チャーリー・チャップリン(写真左)とジャッキー・クーガン(同右)

喜劇王チャールズ・チャップリンが手掛けたサイレント映画「The Kid」(邦題「キッド」)が、米ニューヨークのカーネギー・ホールで1921年1月21日に公開されてから今年で100年を迎えた。故郷の英国を離れ、米国を拠点に活躍していたチャップリンは、本作公開前も一定のヒット作品を出していたが、「キッド」はそれまでの映画史を大きく変えるマイルストーン的作品となった。自身初となる長編喜劇映画の監督として、また脚本、製作、約50年後のサウンド版の音楽にいたる全てを自身で徹底して作り込んだわけだが、天才が作る作品には一般人には想像できないさまざまなエピソードが付随している。今回は、数あるその中から英国との接点や、ハリウッドらしい名声や富にまつわる印象的なエピソードを6つ紹介しよう。(文・英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: Charlie Chaplin(Official representative of Charlie Chaplin)、University of Southampton Special Collections、Encyclopædia Britannica ほか

1笑って泣ける作風は実生活から生まれた

「キッド」が生まれる前まで、サイレント映画業界では、「コメディー」「ドラマ」など、基本的には1作品に対し一つのジャンルに絞られていた。2つ以上の要素が入ってしまうと、ストーリーに一貫性がなくなる、というのが当時の映画業界における共通認識。また、すでに映画が一大産業として発展していた米国では、コミカルな動きで視覚的に笑わせる「Slapstick comedy」(ドタバタ喜劇)が1920年代の流行りだった。しかし、その常識は本作によって突如打ち破られることになる。

人生に浮き沈みがあるように、ドラマとコメディー要素を自然に織り交ぜることで、笑って泣けるストーリー展開に仕立てた本作は映画史における革命だった。情景描写が妙にリアルで、観客の感情に直接訴えてくるストーリーは、チャップリンの実生活におけるさまざまな体験に基づいて作られた緻密なものであった。例えば、「(チャップリン扮する)リトル・トランプが捨てられた子ども(キッド)の父親になる」という大まかなプロットは、1人目の妻、ミルドレッド・ハリスとの間にもうけた男の子が生まれて3日で亡くなり、埋葬されたわずか10日後に完成した。また、孤児院の職員がキッドを施設へ無理やり連れて行こうとする描写は、同じように幼少時代に母親から引き離され、孤児院での生活を余儀なくされたチャップリンの辛い記憶にリンクしている。

撮影期間は数週間の休みを除き約9カ月。チャップリンは各シーン納得がいくまでリテイクを重ね、結果的に上映68分の映画に対し、50倍以上ものフィルムを回し続けた。

チャーリー・チャップリン(写真左)とジャッキー・クーガン(同右)チャーリー・チャップリン(写真左)とジャッキー・クーガン(同右)

1922年に撮影されたチャーリー・チャップリン。その素顔は青い目をしたチャーミングな顔立ちの男性だった1922年に撮影されたチャーリー・チャップリン。その素顔は青い目をしたチャーミングな顔立ちの男性だった

2天才子役、ジャッキー・クーガン

母親に捨てられ、リトル・トランプに拾われる孤児を演じたジャッキー・クーガン(John Leslie Coogan, 1914~84年)とチャップリンの出会いは諸説あるものの、とても運命的だったと言われている。

「キッド」に出演する前から生後18カ月にしてサイレント・コメディー映画「スキナーズ・ベイビー」(1917年)に出演していた。クーガンの父親もまた舞台で活躍するコメディアン兼ダンサーで、その公演を偶然見に来ていたチャップリンに息子を引き合わせた。

クーガンはチャップリンの軽快な動きを完璧にコピーすることができた。驚きを隠せないチャップリンは、クーガンに職業を尋ねると、「僕は早業の世界の手品師なんだ」と即答した。ウィットの効いた返答にチャップリンは胸を打たれ、この時5、6歳のクーガンを次作の子役に抜擢した。ダンスの才能はもちろんのこと、クーガンは子どもながら目元に悲しみをたたえた印象的な顔でも皆を魅了した。映画のプロットに合わせ、「キッド」は別名「The Waif」(浮浪児、顔色の悪い子ども)とも呼ばれた。

2人は約50年後の1972年、米ロサンゼルスで再会を果たしている。この時の様子についても、いろいろなエピソードが残されているが、「チャップリンがクーガンに『誰よりも会いたかった』とささやいた」「クーガンとの再会を喜び、同席していたクーガン夫人に、『あなたの旦那は天才だ、これだけは決して忘れてはいけないよ』と伝えた」など、総じて心温まるものである。

1920年ごろに撮影されたジャッキー・クーガン1920年ごろに撮影されたジャッキー・クーガン

3離婚騒動で秘密裏に行われた編集作業

「ミルドレッドは息をのむ(美しさ)というのではなく、かわいらしかった」。チャップリンは後の妻となるミルドレッド・ハリス(1901~44年)に出会った瞬間をこのように回想している。1918年、映画プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィン主催のパーティーで初めて会ったとき、チャップリンは29歳、ハリスは16歳。ハリスもチャップリン同様、若くして俳優キャリアをスタートさせていた。

同年、ハリスから突然妊娠を知らされたチャップリンは大慌てで結婚することを決める。しかし初めこそ良かったものの、互いに相手の人物像を大きく勘違いしており、特に若いハリスは夫の並外れた才能やそれによる劣等感など、複雑な思いを抱えていた。無論結婚生活は長続きせず、「キッド」の撮影中に離婚訴訟が進む。ハリスの弁護士らが映画の製作を妨害するのではないか、と考えたチャップリンは、編集前のフィルムをコーヒーの缶に詰め、信頼できる製作メンバーと共に米西部ソルトレイクシティのホテルとニューヨークの匿名スタジオへ飛び、秘密裏に編集を進める羽目になった。

チャップリンの最初の妻であるミルドレッド・ハリス。「キッド」の撮影期間と離婚訴訟がまるかぶりで、チャップリンは公私ともに忙しかったようだチャップリンの最初の妻であるミルドレッド・ハリス。「キッド」の撮影期間と離婚訴訟がまるかぶりで、チャップリンは公私ともに忙しかったようだ

4一躍スターになった子役クーガンの功罪

世界恐慌の真っ只中の当時、ハリウッドでは子どもが親のために金を稼ぐ手段になることに疑問を抱く者はいなかった。本作で一大子役スターになったクーガンは、その後も数々の映画に出演し、週に2万2000ドル(現在で32万1200ドル、日本円で約3351万円)を稼ぐ超売れっ子になったが、母親と元マネージャーの継父(実の父親は離婚後、1935年に自動車事故で他界)の金銭の管理はずさんだった。数百万ドルはあるはずだった財産は、ギャンブルなど2人の浪費によって、ほとんど手元に残っていなかったのだ。これをきっかけに、1939年、子役の収益の一部を本人に残すよう義務付ける「クーガン法」がカリフォルニア州で成立。「子どもは楽しんで撮影しているから」という親の言い分は法をもって阻止できるようになった。近年は映画子役のみならず、YouTubeで子どもを使って金を稼ぐ親が増えているため、何かと引き合いに出される法律となっている。

5「キッド」の裏で公開されなかったもう一つの作品

米国を拠点に活躍していたチャップリンには、英国に意外な交友関係を持っていた。その人物とは、フィリップ殿下の叔父にあたる、ビルマの初代マウントバッテン伯爵ことルイス・フランシス・アルバート・ヴィクター・ニコラス・マウントバッテン(1900~79年)だ。詳細は語られていないものの、ミルドレッド・ハリスを通して出会ったとされている。

1922年、マウントバッテン伯爵はエドウィナ・アシュレイ夫人とハネムーンでハリウッドを訪れる。伯爵がハリウッドにいる間、チャップリンは結婚のお祝いとして短編映画「Nice and Friendly」(「ナイス・アンド・フレンドリー」)を即興で製作。これはアシュレイ夫人の真珠のネックレスをめぐり、さまざまな人物がそれを盗もうとする物語で、新婚2人のほか、チャップリン、ジャッキー・クーガンなど「キッド」のキャスト、ワシントンDCの英国大使館スタッフなど、周囲にいた人物を役職関係なく巻き込んだ豪華なホーム・ムービーだった。撮影は米俳優ダグラス・フェアバンクス、元妻のメアリー・ピックフォードが住む邸宅の庭で行われた。

ルイス・マウントバッテン伯爵(写真右)とエドウィナ・アシュレイ夫人(同左)。ハネムーンで米ニューヨークも訪れたルイス・マウントバッテン伯爵(写真右)とエドウィナ・アシュレイ夫人(同左)。ハネムーンで米ニューヨークも訪れた

6独特の山高帽スタイルは米国生まれ

チャップリンのトレードマークである、山高帽にちょび髭、ぶかぶかのズボンのキャラクターは米国で誕生し、「トランプ」「リトル・トランプ」と呼ばれ親しまれ、「キッド」を含む一連の作品に登場した。そもそもチャップリンはどのような経緯で米国へ拠点を移したのだろうか。

チャールズ・チャップリン(Charles Spencer Chaplin, 1889~1977年)の俳優キャリアは英国で始まった。1889年4月16日、歌手で俳優の両親のもとに、ロンドンで生まれたチャップリンは、両親の離婚後、幼くして母親に引き取られた。しかし後に母親が精神病に侵されてしまったため、異父兄のシドニーと共に孤児院を転々とする困窮した生活を強いられる。しかし、両親の才能を受け継いだチャップリンが、ライブ音楽を提供するミュージック・ホール(ヴォードヴィル)でデビューを飾るのに時間はかからなかった。

転機となったのは、コメディー劇団として有名だったフレッド・カーノー(1866~1941年)率いるファン・ファクトリー(the Fun Factory)への入団だった。当時、ミュージック・ホールでの演目がそのままサイレント映画になることもあり、舞台と映画は強固な関係で結ばれていた。

「Jimmy the Fearless」(「ジミー・ザ・フィアーレス」)など、数々の演目で活躍し、注目を浴びたチャップリンは、1910年に同劇団の海外巡業で米国を訪問する。この公演が大成功に終わり、1913年に公演のため再び米国を訪れた際、現地の映画プロデューサーに声を掛けられたことをきっかけに、活動の拠点を米国に移したのだった。

チャップリンは英国の映画界への直接的な貢献はないに等しかったものの、「キッド」の成功で英国へ凱旋帰国した際は、市民から熱烈な歓迎を受けた。

チャップリンがこの扮装で初めてスクリーンに登場したのは映画「Kid Auto Races at Venice」(「キッド・オート・レーシーズ・アット・ヴェニス」)(1914年)だと言われているチャップリンがこの扮装で初めてスクリーンに登場したのは映画「Kid Auto Races at Venice」(「キッド・オート・レーシーズ・アット・ヴェニス」)(1914年)だと言われている

フレッド・カーノーチャップリンの世界的な活躍を後押ししたフレッド・カーノー。チャップリンは、世話になったカーノーが晩年借金で困窮したときに資金援助を惜しまず、カーノーの葬儀には「深い同情を込めて」と感謝の言葉をおくったという

The Kid

貧しそうなシングル・マザーが置き手紙を添えて、男の赤ちゃん(ジャッキー・クーガン)を道に停めてあった高級車に置き去りにする。しかし泥棒が車を盗み、赤ちゃんを路上に残してしまう。通りかかったトランプ(チャーリー・チャップリン)は、その子を自身で引き取り育てることにする。そして5年の月日が流れ子どもはたくましく育ったが……。

The Kid

(U)68分
監督: Charles Chaplin
出演: Charles Chaplin, Jackie Coogan, Edna Purviance ほか
1921年1月21日米国プレミア公開
(1972年サウンド版リリース)

 

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