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Thu, 05 March 2026

電話の誕生から150年グレアム・ベルが発明したもの

スマートフォンで瞬時に声を交わすことが日常となった現代。だが、その原点である電話が誕生してから、まだ150年に満たない。

1876年、スコットランド生まれのアレクサンダー・グレアム・ベルが米国で特許を取得した電話は、やがて英国に広まり、国家の通信制度、都市の労働、街角の風景を変えていった。その発明は単なる機械にとどまらず、制度や働き方など社会の仕組みにまで影響を及ぼした。本特集では、ベルの発明が英国にもたらしたものをたどる。

(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.belllegacy.orghttps://asaseno.aki.gswww.appps.jphttps://engineeringhalloffame.orgほか

電話の発明

電話の発明をめぐる争い

モールス信号による電信ネットワークが急速な発展をみせていた19世紀後半、電話の発明はアレクサンダー・グレアム・ベル(Alexander Graham Bell)1人によって成し遂げられたというより、当時複数の人物が各国で試みていた技術だった。ベルは、1本の電線で複数のモールス信号を送る多重電信機の改良研究の途中で、電気信号を使って声を送るアイデアに到達し、1876年に米国で電話の特許を取得したことでその名を知られる。

だが、イタリアのアントニオ・メウッチ(Antonio Meucci)、ドイツのフィリップ・ライス(Philipp Reis)、米国のエリシャ・グレイ(Elisha Gray)らも同時期に技術開発を進めていた。そのため、特許権を巡る争いや商業競争は訴訟の泥沼を生み、電話史の初期は複雑な主張と反論が交錯した。

特にベルとグレイの間では、発明か盗用かといった論争があり、発明者の功績は議論の的となった。2002年、米国下院はメウッチの貢献を認める決議を採択したが、上院では採決されず、一方カナダ議会は反対動議を全会一致で可決し、公式に発明者はベルであると宣言された。ベルの特許は最初の実用的な電話として知られ、電話技術の商業的実用化には、トーマス・エジソン(Thomas Edison)が改良したカーボン・マイクなどの特許も重要な役割を果たした。ライスはギリシャ語の「遠く」(tele)と「声」(phone)を合わせた「電話」(telephone)という名称を造り、メウッチも電話技術への貢献で米国下院から表彰されている。

ベルによる電信装置の特許出願図面ベルによる電信装置の特許出願図面

グレアム・ベルの歩みと電話発明

音への関心

アレクサンダー・グレアム・ベルの生まれが米国と思われている方も多いかもしれないが、1847年にスコットランドのエディンバラに誕生、ベルが24歳のときに両親を含む一家でカナダや米国に移住し、電話を発明後に米国に帰化した。

父のアレクサンダー・ベルは発声法学者(elocutionist)で、劇作家ジョージ・バーナード・ショーの「ピグマリオン」に登場するヘンリー・ヒギンズ教授のモデルになったともいわれている。また、聴覚障がい者の発話を助ける「視話法」の考案者として知られる。母は重度の難聴であったが芸術的才能に恵まれ、ベルは幼少期から音に強い関心を抱いた。エディンバラ大学とロンドン大学で学んだ後、父の助手として教育に携わる。ロンドンでは物理学者ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの音響研究にも触れ、音の共鳴や振動の科学的分析に関心を深めた。ベルは教育者であると同時に実験好きでもあり、音の振動を目に見える形で記録したり、電気信号に置き換えたりする装置を自作していた。

このころ電信業界では1本の電線で複数の信号を送る多重電信機の改良が求められていた。ベルも異なる音の高さを利用する「ハーモニック・テレグラフ」の研究を進める。音の振動を電流の変化として伝える実験を重ねるなかで、モールス信号ではなく声そのものを送る可能性が見えてきた。電話は、こうした電信改良研究の延長線上から生まれた技術だった。

しかし一家は結核で兄弟2人を失い、ベル自身も体調を崩したため、1870年に空気のきれいなカナダのオンタリオへ移住。回復後の71年、米ボストンに移り、聴覚障がい者教育機関で読唇術と口頭法を指導した。72年にはノーザンプトンのクラーク聴覚言語学校の校長に就任、翌年にはボストン大学教授となった。さらに教育団体を設立し、ベルは生涯にわたり聴覚障がい者教育に尽力することになる。ヘレン・ケラーに盲学校を紹介するなどもし、ケラーはそこで師となるアン・サリバンに出会った。

1875 年に初めて音声を送信した、ベルの電話の複製1875 年に初めて音声を送信した、ベルの電話の複製

聴覚障がいが結んだ縁

クラーク聴覚言語学校で出会ったのが、後に妻となるメイベル・ガーディナー・ハバード(Mabel Gardiner Hubbard)だった。幼少期に病気で聴力を失ったメイベルはベルの教え子である。その父、弁護士で実業家のガーディナー・グリーン・ハバード(Gardiner Greene Hubbard)は、電信独占に対抗する新技術に強い関心を抱き、ベルの研究を資金面で支援した。こうして電話は、実験室の試みから事業化を視野に入れた研究へと動き始める。

1876年2月、ベルは米国で電話の特許を出願し、3月7日に特許第174465号を取得した。だが装置はなお改良の途上にあった。助手のトーマス・ワトソン(Thomas A. Watson)に向けて「ワトソンさん、こちらへ来てください」と呼びかけ、その声が隣室にいたワトソンまで届いたことで、初めて明瞭な音声伝達に成功する。特許取得からわずか3日後のことである。6月25日にはフィラデルフィアで開かれたセンテニアル博覧会に電話機を出展。当初は教育展示の一角に置かれただけだったが、別室にいるベルの声が受話器から聞こえると評判が広がり、科学者や来場者が装置の前に集まった。この反響を追い風に、翌77年、ベルは電話会社を設立し、電話機の販売を開始。その技術はやがて大西洋を渡り、産業化のただ中にあった英国社会へと広がっていく。発明は1人の研究者の成果にとどまらず、国家の信制度や都市の労働、街角の風景を変えていくことになる。

晩年のグレアム・ベル(写真左)と、妻のメイベル(同右)晩年のグレアム・ベル(写真左)と、妻のメイベル(同右)。メイベルはベルの研究に協力を惜しまなかった

英国社会の受容と影響

事業化の始まり

ベルが1876年に特許を取得した翌年には、ヴィクトリア朝時代の英国でも電話の実験と事業化が始まる。電話が社会に広がっていく上で、もう一つ欠かせない技術が電話交換機(スイッチボード)だった。初期の電話は、ある2点を直接結ぶ専用線でしか通話できず、自宅や会社といった固定された場所同士でしか使えなかった。そこで重要になったのが、加入者同士を中継する交換機の仕組みである。交換機では、利用者が受話器を上げると中央の局につながり、交換手がどの回線に接続するかを手動で結び替えることで、任意の相手との通話が可能となった。これにより、電話は点と点を結ぶ通信装置から、都市全体を結ぶネットワークへと進化した。1879年にシティのコールマン・ストリートに最初の電話交換機が設置されたと伝えられているが、やがて英国の各都市部に交換局が設置され、商店、銀行、新聞社、駅などが次々に接続された。労働や商いの取引の速度は飛躍的に高まり、都市生活のリズムそのものが変化していった。

ハロー・ガールズ

交換機の拡大とともに、交換手という新たな労働も生まれた。電話交換業務は高度な集中力と細かな手作業を要し、英米では初期は男性が担当していたものの、次第に多くの局で若い女性が採用されるようになった。こうした女性は「ハロー・ガールズ」とも呼ばれ、第1次世界大戦中の米国の女性交換手たちの愛称でもあった。交換手たちは都市の大規模な交換局では数百人規模の労働力を形成し、電話ネットワークの日常運用を支えた。同時に、手動スイッチボードには限界もあったため、1912年には自動式の交換機が英国で導入され始めるなど、技術革新と労働の変化が並行して進んだ。

また、当初は民間企業による運営であったが、通信を国家インフラとみなした政府は制度整備を進め、同年には電話事業を国有化し、郵便事業を担っていた郵政公社(General Post Office=GPO)が一元管理する体制に。英国では19世紀以来、郵便制度が国家統合の象徴的インフラであったことから、電話もその延長線上に位置づけられ、公共サービスとして扱われた。これは米国のようにAT&Tなどの民間企業が主導するモデルとは対照的である。そのため第2次世界大戦後も、英国の電話普及率は米国より低く、1970年代に至っても電話を引くのに数カ月待つような状況が存在したと記録されている。これは国家独占体制であったことと関係する。

Hello Girls 第1次世界大戦中の女性交換手たちHello Girls 第1次世界大戦中の女性交換手たち

赤い電話ボックスの誕生

一般家庭への電話普及が遅れた一方、公衆電話は急速に広まっていった。公衆電話ボックスが英国で制度化されるのは20世紀初頭である。電話網が都市部を中心に広がるなか、街路に設置される統一的なデザインが求められた。1924年、当時の通信行政を担っていたGPOは、ロンドン市内に設置する新型ボックスのデザインを公募する。翌25年に採用されたのが、ウォータールー橋やバタシーの発電所などで知られる建築家、ジャイルズ・ギルバート・スコット(Giles Gilbert Scott)によるデザインだった。スコット案は古典主義的な意匠を基礎とし、ドーム状の屋根と格子窓を備える堅牢な鋳鉄構造が特徴だった。この初期モデルは「K2」(Kiosk No.2)と呼ばれ、1926年からロンドンで設置が開始された。K2デザインは都市美観に配慮したもので、そこに立つだけで街並みに重厚感を添えた。設置当初から屋根の下部や設備全体に政府を象徴するクラウン(王冠)マークが配され、国家の公共インフラであることを示していた。

赤い電話ボックス

なぜ「赤」なのか

K2に続いて、より実用的で全国展開を前提とした「K6」が1935年に設計された。これはジョージ5世即位25周年を記念して製作され、36年から制作・配備が進んだ。K6はK2よりも小さく軽量で、街路に設置しやすい規格となっている。赤色が採用されたのは、視認性の高さが理由である。霧や煤煙が多い英国の都市環境では、遠くからでもすぐに見つけられる色が求められた。そのためK6にも遠目にも目立つ「赤」が採用され、これが全国に急速に広がる要因となった。K6は1930年代末までに3万5000基以上の公衆電話を実現し、広範な通信基盤として機能した。今日最も広く使われている塗料色は「カラント・レッド(Currant Red)」として知られ、英国規格BS381CRed539で色調が定義されている。

都市文化のアイコンへ

21世紀に入り、携帯電話の普及により公衆電話の利用は激減。1990年代にはピークで約10万基存在した電話ボックスは、2020年代には大幅に減少したが、それでも伝統的な赤い電話ボックスは国内だけでなく連邦諸国でも目にすることができる。通信事業を担うBTグループは、多数のボックスを撤去対象としたものの、ボックスの歴史的価値を認める声も強く、各地で保存運動が起こった。赤い電話ボックスは英国らしい景観の象徴として保存され、観光地や街角のランドマークとして残されている。現在ではWi-Fi スポットや小型図書館、アート展示などに再利用される例も見られ、単なる通信機器から都市文化のアイコンへと役割を変えている。ベルの発明から始まった技術は、交換機を経て、街角の赤い箱となり、やがてデジタル化の波の中でその役割を変えていく。赤い電話ボックスの歴史は、英国が通信という新技術をいかに公共空間へ落とし込んだかを示す物語でもある。

簡易図書館になったウェールズの赤電話ボックス簡易図書館になったウェールズの赤電話ボックス

 

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