ニュースダイジェストのグリーティング・カード
Tue, 15 October 2024

同性愛が条件付きで非犯罪化して50年 19~20世紀を生きた
英国のクィアな文化人たち

男性同士、女性同士のカップルが仲睦まじく往来を歩く姿は英国ではもはや日常の風景。しかし、今からわずか50年前まで、男性の同性愛行為は違法だった。イングランド及びウェールズで男性の同性愛が条件付きで非犯罪化されたのは1967年。同性愛者を含む性的少数者(クィア)である文化人たちは、どのように生き、制作活動を行っていたのか。50年という節目を迎えた今年、19世紀から20世紀にかけて性の垣根を越えて活躍した文化人たちを振り返ってみたい。参照「Queer British Art 1861-1967」Tateほか

性的少数者LGBTQとは?

性的少数者はLGBTQと表現されることが多く、これはレズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、クィアの頭文字を取ったもの。もともとはレズビアン(女性の同性愛)、ゲイ(同性愛、特に男性の同性愛)、バイセクシャル(両性愛)、トランスジェンダー(身体と心の性が一致していない、違和感を覚えるなどの性の形態)をまとめて「LGBT」と呼ぶことが多かったが、近年ではクィアを含め「LGBTQ」とするケースが増えている。クィアに関しては様々な定義がみられるが、いわゆるLGBTを含むあらゆる性的少数者を指す。よって、異性装を好む人々や、特定の性的指向の枠にはめられることを避ける人々なども含まれる。

19世紀から現在に至るまでの
同性愛者をめぐる時代の変遷

1533年 イングランド王ヘンリー8世の時代、イングランド及びウェールズにおいて「バガリー」を禁じる法が制定。バガリーとは元々は神の意思に背いた不自然な性行為を指したが、後に肛門性交のことを言うようになった(男女問わず)。1861年までは有罪の場合、死刑が宣告された
1885年 「品位に欠けるみだらな行為」(gross indecency)を禁じる条項が追加。男性同士の性行為が違法に
1895年 オスカー・ワイルドが「品位に欠けるみだらな行為」を行ったとして2年の懲役刑を科される
1957年 ウォルフェンデン委員会が軍人以外の21歳以上で合意ある成人同士の同性愛行為を非犯罪化するよう提言
1967年 第三者がいると思われる場所を除き、同性愛行為が非犯罪化。性的同意年齢は21歳(異性愛及びレズビアンは16歳)
1969年
6月
米ニューヨークのゲイ・バー、ストーンウォール・インへの警官による踏み込み捜査が、5日間にわたる暴動へと発展。同性愛者の権利を求める運動の象徴的イベントとして知られるようになる。ゲイ解放戦線(GLF)がニューヨークで設立
1970年 ロンドン・ゲイ解放戦線(ロンドンGLF)が設立
1972年
7月
性的少数者の文化を称える「プライド」パレードの第1回がロンドンで開催。参加者は約700人
1980年 スコットランドで同性愛行為が非犯罪化(条件は1967年と同様)
1982年 欧州人権裁判所の判断に基づき、北アイルランドでも同性愛行為が非犯罪化
1994年 同性愛の男性の性的同意年齢が18歳に
2000年
1月
同性愛者の軍隊勤務を禁じる規則が廃止
2001年
1月
上院における3回にわたる否決ののち、労働党政権が同性愛の男性の性的同意年齢を16歳に引き下げ
2005年
12月5日
同性愛カップルに結婚とほぼ同等の権利を与える2004年シビル・パートナーシップ法が施行
2005年
12月30日
同性愛カップルが養子を迎え、共同親権を持つことが可能に
2009年
9月10日
ブラウン首相(当時)が同性愛者だったアラン・チューリングに対して、刑務所への収監と引き換えにホルモン療法を施したことを正式に謝罪
2013年
12月
エリザベス女王がアラン・チューリングに死後恩赦を与える
2014年
3月29日
イングランド及びウェールズで同性間の結婚が可能になる2013年結婚(同性カップル)法が施行
2014年
12月16日
スコットランドで同性間の結婚が可能になる2014年結婚及びシビル・パートナーシップ(スコットランド)法が施行
2017年
1月31日
イングランド及びウェールズにおいて、過去に同性愛行為で有罪になり亡くなった人々が赦免された。また、有罪となり生存している人たちは、内務省に届け出ることで記録が抹消される。通称「アラン・チューリング法」

Source: The Guardian, etc

同性愛者の恩赦への道を開いた
アラン・チューリング
Alan Turing

アラン・チューリング
ブレッチリー・パークにあるアラン・チューリングの銅像

第二次大戦時、ナチス・ドイツの暗号機エニグマによる暗号文解読に大きな筋道を示したアラン・チューリングは、「人口知能の父」とも呼ばれる優れた数学者にして暗号解読者だったが、その存在が脚光を浴びたのは近年のことだった。

1912年にロンドンで生まれたチューリングは若いころから数学や科学の才能に秀で、ケンブリッジ大学で数学を学んだ。卒業後はフェローとして研究を続け、米プリンストン大学で博士号を取得。第二次大戦中には政府暗号学校ブレッチリー・パークで暗号解読に携わるようになる。エニグマの暗号を解読する装置「ボム」の設計における主導的役割を果たすが、仕事の性質上、業績は秘匿された。

同性愛者だったチューリングは1952年、39歳のときに街で知り合った若者と関係を持つが、その男性がチューリング宅への泥棒の手引きをしていたことから警察に同性愛指向が知られ、逮捕される。刑務所への収監を避けるために性欲を抑える(とされた)ホルモン療法を受けるが、その後は暗号解読者としての仕事を続けることが不可能となる。1954年、自宅で青酸中毒により死去。自殺とされる。

死後になってチューリングの業績が公になり、その栄誉を称える動きが活発化。2009年にはゴードン・ブラウン首相(当時)がチューリングに対する謝罪を政府として正式に表明。2013年には恩赦が決定した。2017年1月31日、イングランド及びウェールズで同性愛または両性愛の罪で有罪となった人々の恩赦を認める法が施行。この法律はチューリングにちなみ、「アラン・チューリング法」と呼ばれる。

自由と美を謳歌した人々
ブルームズベリー・グループ
Bloomsbury Group

ブルームズベリー・グループ
ゴードン・スクエアにあるブルームズベリー・グループの拠点

1905年から第二次大戦期にかけて、ロンドン中心部ブルームズベリーに集った芸術家や作家、学者たちの集団「ブルームズベリー・グループ」。元々はケンブリッジ大学の複数のカレッジの学生からなる「ケンブリッジ使徒会(アポスルズ)」に端を発したもので、後にブルームズベリーに居を構えたバネッサ・ベル、トビー・スティーブン、バージニア・ウルフ、エイドリアン・スティーブンの兄弟姉妹の家に集うようになったメンバーがこう呼ばれるようになった。

平和主義や左派自由主義を掲げると同時に、同性愛やオープン・マリッジの関係を持つ人々が多かったことでも知られている。例えば画家のダンカン・グラントは同性愛者で同じグループのエイドリアンや経済学者ジョン・メイナード・ケインズ、作家のリットン・ストレイチーらと関係を持った一方で、同じくメンバーだったクライブ・ベルと結婚していたバネッサとの間に娘をもうけた。

社交界から地に堕ちた洒落者
オスカー・ワイルド

Oscar Wilde
1854 - 1900
作家 / 劇作家
Oscar Wilde

19世紀を代表する作家 / 劇作家のオスカー・ワイルドは、「ドリアン・グレイの肖像」や「サロメ」などの著作同様、耽美で破滅的な人生を歩んだことで知られる。

アイルランドのダブリンで医師の家庭に生まれたワイルドは、名門ダブリン大学トリニティ・カレッジを経て、特待生としてオックスフォード大学で学び、優秀な成績で卒業。在学中から奇抜な服装や華美な生活で名を馳せたワイルドはその後、批評家や雑誌編集者、そして作家として活躍、社交界の寵児となった。弁護士の娘と結婚し、子供を2人もうけたが、男性とも関係を結び、1891年には16歳年下のアルフレッド・ダグラス、通称「ボージー」と親しくなる。この出会いが彼の運命を大きく左右することになった。1895年には息子の将来を不安視したボージーの父、第9代クイーンズベリー侯爵ジョン・ダグラスがワイルドの同性愛を公に糾弾。互いが互いを告訴する事態に発展する。結果、ワイルドは「品位にかけるみだらな行為」を行ったとして有罪となり、2年の懲役刑に服した。

服役後には世間から見放され、体調を崩し経済的にも困窮。家族とも離ればなれとなり、欧州を放浪した。途中、ボージーとよりを戻すもまた別れ、1900年にパリにおいて46歳でその生涯を終えた。

女性初のロイヤル・アカデミー正会員に
ローラ・ナイト

Laura Knight
1877 - 1970
画家
Laura Knight

ヌード画を描く女流画家の自画像――今となっては驚くべき構図ではないかもしれないが、女性が美術学校でヌード・デッサンの授業に参加することが禁じられていた時代、その絵は衝撃をもって受け止められた。

幼少期に父が家を出て、経済的にひっ迫した家庭に育ったローラ・ナイトは、母が教えていたノッティンガム美術学校に学費なしで進学。卒業後には美術教師として働いた。在学中にハロルド・ナイトと出会い、1903年に結婚。イングランド西部コーンウォールのニューリンに夫とともに移り住み、「ニューリン派」と呼ばれる芸術家たちのコミュニティーの中心的存在となった。ナイトはここで戸外制作や、プロのモデルをロンドンから呼び寄せてヌード・デッサンを行うなどして画家としての自己を見出していく。

サーカスのツアーに同行したり、ジプシーと交友関係を結び肖像画を手掛けるなどしていたナイトは、第二次大戦中に戦争芸術家諮問委員会により戦争画家として選出された。戦後はドイツに3カ月間滞在し、ニュルンベルク裁判の過程を追うなど、ジャーナリスティックな姿勢と感性で作品を作り続け、1929年に女性に対する騎士に相当するデイムに。1936年には女性初のロイヤル・アカデミー正会員となった。

沈黙を強いられた作家
E・M・フォースター

Edward Morgan Forster
1879 - 1970
作家
Edward Morgan Forster

「ハワーズ・エンド」や「モーリス」、「インドへの道」などを生み出したE・M・フォースターは、同性愛という自らの性的指向を作品に投影して後世に名を残す一方、その性的指向ゆえに沈黙を強いられた作家でもあった。

1879年、ロンドンに生まれたフォースターは、ケンブリッジ大学在学中にケンブリッジ使徒会に参加。後にブルームズベリー・グループのメンバーとなった。大学卒業後、世界各地を旅したフォースターは、中東を訪れた際に17歳の青年に惹かれ、創作意欲を掻き立てられることになったが、数年後にその青年が結核で死去。哀しみを手紙の形にしたためている。

オスカー・ワイルドが有罪となった1895年、16歳の多感な青年だったフォースターにとって、自らの性的指向は物語を生み出す源泉であると同時に、公にしてはならない禁忌でもあった。ケンブリッジ大学に通う2人の男子学生の愛とすれ違いを描いた「モーリス」は1913年に執筆されたものの、出版されたのは死後。「インドへの道」が1924年に出版された後、1970年に死去するまで、小説を執筆しようとはしなかった。1964年付けの日記にはこう書かれている。「私がもっと書いていたり、もっと多くの本が出版されていたら、より有名な作家になっていただろう。しかし性が後者の道を阻んだのだ」。

レズビアン文学の先駆者
ラドクリフ・ホール

Radclyffe Hall
1880 - 1943
作家
Radclyffe Hall

イングランド南西部ハンプシャーのボーンマス(現在はドーセット)の裕福な家庭に生まれたラドクリフ・ホールは、自らを「生来の性的倒錯者(同性愛者)」と呼び、しばしば男装したレズビアンだった。

1907年にはドイツの保養地でアマチュアの歌手メイベル・バッテンと出会い恋に落ちる。当時、ホールは27歳、バッテンは51歳。バッテンは既婚者で、娘や孫もいた。バッテンの夫の死後はともに暮らし、バッテンがホールに付けた「ジョン」という名を生涯、使用していたという。恋多き人物で、バッテンの親戚であるウーナ・トゥローブリッジ(彼女も既婚者で子供がいた)と恋愛関係になり、バッテンの死後に同棲。ホールが死去するまでともに暮らしたが、その間も別の女性と恋愛関係にあったと言われる。

1928年に出版された代表作「孤独の井戸」は、男装のレズビアンで、第一次大戦中に救急部隊の運転手を務めたスティーブン・ゴートンが女性と恋に落ちる物語。あからさまな性的描写はなかったものの、わいせつであるとして裁判にかけられ、廃棄処分となった。このとき、政府の医療顧問らは同作を、女性同士の同性愛を促進し、「社会的、国家的惨事」を招くと批判したという。英国で再出版されたのは、ホールの死後、1949年のことだった。

自由としがらみの狭間で生きた
バージニア・ウルフ

Virginia Woolf
1882 - 1941
作家
Virginia Woolf

登場人物の心中に流れゆく思考をそのまま文章の形にしていく「意識の流れ」という手法を用いた作家バージニア・ウルフ。性に奔放である一方で、女性であることのしがらみを見据え、数々の作品を残した。

著述家で編集者の父と、女流写真家ジュリア・マーガレット・キャメロンを伯母に持つ母の下に生まれたウルフは、古典や英文学に囲まれて育った。女性であることから、ケンブリッジ大学で学んだ兄弟と異なり、同大に進むことはかなわなかったものの、ロンドンのキングス・カレッジの女子部で数カ国の言語や歴史を履修した。

ロンドン中心部ブルームズベリーにある自宅で知り合った文化人らと親しくなったウルフは、ブルームズベリー・グループの一員として活動。作家のレナード・ウルフとの結婚生活を送りつつ、既婚者の女流作家ビタ・サックビル=ウェストとも関係を持つなど、奔放な恋愛生活を送った。サックビル=ウェストをモデルにした「オーランドー」は、時代や性別を超越し、300年にわたり生き続ける青年貴族の人生を紡いだもので、現在でもジェンダー研究において重要な位置を占めている。

若いころから躁うつに悩まされていたウルフは、第二次大戦勃発後、病状が悪化。1941年3月28日に入水自殺した。

ミューズとの混沌とした関係
フランシス・ベーコン

Francis Bacon
1909 - 1992
画家
Francis Bacon

人間の心の奥底に沈む絶望や孤独を引きずり出すような筆致で知られるフランシス・ベーコンは、同性の恋人たちとの波乱に満ちた関係から生まれた生々しい感情を数多くの作品に写し取っている。

グレートブリテン及びアイルランド連合王国(現アイルランド)のダブリン生まれ。若いころから同性愛指向を自覚し、16歳のときに母親の下着をまとっているところを父親が見つけたことがきっかけで家を追い出された。ロンドンに移ってからは同性愛者たちが多く集うソーホーでも知られた存在となり、酒を飲み、ギャンブルに浸り、化粧をして享楽的な日々を過ごすようになる。

ミケランジェロの絵画や彫刻、エドワード・マイブリッジによる裸身のレスラーたちの写真など、男性の身体を題材にした作品を通して自らの性的指向を絵画に昇華する術を探究。また、元空軍パイロットでときに暴力的であったピーター・レイシーや、泥棒でアルコール依存症だったジョージ・ダイアーといったパートナーとの振れ幅の大きい生活や、相手の事故死や自殺などを経験してきたベーコンは、恋人たちをモデルにした作品を多く残した。1967年以前はモデルの名をイニシャルにするなどしていたが、以降はより明確に性的指向を示す作品を手掛けるようになったと言われる。

衝撃的な著作以上に波乱に満ちた人生
ジョー・オートン

Joe Orton
1933-1967
劇作家
Joe Orton

権威をこき下ろして人の偽善を暴き、同性愛を匂わせる衝撃的な舞台を生み出した若き才能は、自身が描いた物語以上に波乱に満ちた人生を生きることになった。

イングランド中部レスター出身のジョー・オートンは1951年、名門演劇学校RADA在学中にケネス・ハリウェルと出会い、恋人同士となる。卒業後にはそれぞれ地方の劇場で働いた後、ロンドンに戻って小説の共同執筆を手掛けたものの、注目を集めることはなかった。

1959年から62年にかけて、イズリントンの図書館から勝手に本を持ち出して、表紙等にコラージュを施し戻していた2人は、1962年に逮捕。6月の禁錮刑と262ポンドの罰金を科された。収監されている間に創作意欲が喚起されたオートンはここで転機を迎え、1963年にはBBCがオートン作のラジオ劇を65ポンドで購入。同作は後に舞台化された。1964年に初演を迎えた舞台「エンターテイニング・ミスター・スローン」は大成功を収め、海外でも上演。しかし一方で、ハリウェルは日の目を浴びず、うつ状態に悩むようになる。

1967年8月9日、オートンは自宅でハリウェルによって頭部をハンマーで殴られ、死亡。ハリウェルはその後、自殺した。オートンが不特定多数の男性との関係を記した日記を読むように指示した遺書を残していたという。

太陽照りつける米西部へ
デービッド・ホックニー

David Hockney
1937 -
画家
David Hockney

今年80歳を迎えた今もなお、iPadでの制作など、精力的に新たな地平を求め活動し続けるデービッド・ホックニー。米カリフォルニアの眩い太陽の下、色彩鮮やかに身近な人物や風景を描いた作品の数々には、熱狂的なファンも多い。

イングランド北部ウェスト・ヨークシャーのブラッドフォードに生まれたホックニーは、地元のアート・カレッジで学んだ後、1959年にロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートへ進学。同性愛者に対しより開放的なロンドンの空気を享受し、1960年には同性愛者としての性的指向も含めた自己の存在意義を表現するプロパガンダ・アートに取り組むようになる。同性愛行為の非犯罪化を提言したウォルフェンデン・レポートが発表されるなど、同性愛者の権利獲得への動きが活発になったころにロンドンに来たホックニーは、ベーコンなどと比べると、明快な形で性的指向を表現していたようだ。

1960年代からは基本的にカリフォルニアに拠点を置き、制作活動を行うように。水面の揺らめきや煌めきを明るい色調で表現したプールの連作などを生み出した。自らの恋人の裸体を伸びやかに描いた「ニックのプールから上がるピーター」は、奇しくも1967年に、優れた現代絵画に贈られるジョン・ムーアズ賞を受賞している。

 

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