現代の人々に語りかけるアンティーク
死を悼むモーニング・ジュエリーの秘密
1828年に亡くなった人物のモーニング・リング。外側にある小さなボタンを押すと隠された遺髪が見られる仕掛けになっている
2019年12月に突如出現した新型コロナウイルスにより、日々の活動に制限が生まれ、「人はいつか死ぬ」という周知の事実を頭の片隅に留める生活が続いている。このウイルスで愛する人を亡くしても、感染の懸念から最後の瞬間まで相手に触れることができず、過去これほどまでに死や愛について考える機会はなかったのではないだろうか。かつて英国には故人を偲ぶ方法の一つとして、故人の遺髪を使用した「モーニング・ジュエリー」(mourning jewellery)と呼ばれる、喪に服すときに身に着ける装飾品があった。ジュエリーが生まれた経緯をたどってみると、重く辛いイメージが付きまとう死に対して別の解釈があるように感じられる。今回は英国のモーニング・ジュエリーの歴史を紐解きつつ、さまざまな経路で現在のアンティーク市場に出回るそれらとの出会い方について紹介する。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)
参考:「 The Art Of Death: Visual Culture In The English Death Ritual C.1500 - C.1800」Nigel Llewellyn Reaktion Books、www.famsf.org、www.tate.org.uk、www.thehistorypress.co.uk、www.thepracticalgemologist.com ほか
モーニング・ジュエリーとは?
服喪中に着ける、故人の死を悼むためのジュエリーのこと。黒を基調とし、編み込んだ遺髪をブローチやバングル、指輪などに埋め込む。特に指輪が知られており、現在もアンティーク市場に出回る。英国でモーニング・ジュエリーが本格的に流行したのはヴィクトリア朝時代だが、この習慣が生まれる前から「メメント・モリ」に代表される死を思う文化は存在しており、そこから派生してできたとされている。
死と生を同時に実感する「メメント・モリ」
モーニング・ジュエリーの歴史を語る前に、まずは西洋における死生観について整理しておきたい。「メメント・モリ」(memento mori)というラテン語のフレーズを耳にしたことはあるだろうか。「死ぬことを忘れてはならない、死を想え」という意味を持つこの言葉は、主に人間の脆さ、命の短さを表し、死が身近にあることを思い出させる事象をテーマにした、芸術活動全般をさす用語として使われている。この言葉が誕生したのははるか昔の古代ローマ時代。凱旋パレードで将軍に仕える兵士が、勝利の味に溺れ、過度のプライドを持って傲慢になるのを防ごうと、軍の統制のために使われた。戦場で命を落とした自分たちの指揮官のことを決して忘れるな、という戒めの言葉は「今日は生きているが、明日は分からない」「永遠に続くものなどない」という命のはかなさを喚起させつつも、同時に今この瞬間に生きていることを改めて実感させるポジティブな意味合いも含まれていた。
また、同時代の政治に携わるようなエリートたちは、金の指輪をすることが認められていた。喪に服すときは、金の指輪の代わりに鉄の指輪をはめていたことが分かっている。
死をモチーフに作られた数々の作品
やがてメメント・モリは、カトリック教会の文脈においてより道徳的な解釈へと変化していく。疫病や紛争が蔓延し、死について考えざるを得ない日々が続いた中世の欧州で、現世における一時の贅沢よりも、天国で至福のときを過ごすために、生きている間に罪を悔い改めることが教徒たちにとって最も重要な課題となった。メメント・モリは、魂の不滅や来世へ備えることに意識を集中させるという、よりストイックな考えが主な意味合いとなり、それと同時に多くの宗教芸術家たちがこの哲学に魅了され、数多くの作品を世に残していった。ルネサンス、バロック期にこのモチーフとして最も取り上げられたのは骸骨で、そのほかにも砂時計、時計、消えかけたロウソク、果物、花などがあった。また、オランダではメメント・モリとは別に人生の虚しさをテーマにした「ヴァニタス」(vanitas)と呼ばれる静物画が生まれ、特に16~17世紀にかけて人気を博した。
バロック期のフランス派画家、フィリップ・ド・シャンパーニュによる「ヴァニタス」(1671年ごろ)。生、死、時間は当時頻繁に用いられたモチーフだった
ミニマライズされた宗教観
話の舞台を英国に戻そう。前章から少しさかのぼった15世紀のチューダー朝も欧州大陸の状況と同じく、イングランドも赤痢や天然痘など多数の病気が流行し、市民は死と隣り合わせの生活を送っていた。16世紀中ごろに宗教改革が起こる前まで、カトリックが主流だったイングランドでは、すでにメメント・モリにまつわる作品の制作は始まっていた。数あるメメント・モリ作品のなかでも特に貴重なものとして知られているのが、1546年に金とエナメルで作られたと推定される骸骨のジュエリー(写真下)。
英南西部デヴォンで見つかった骸骨のジュエリー
骸骨が棺の中に横たえられた毒々しいデザインで、おそらく金製チェーンのペンダントのオーナメントに使用されていたとされている。蓋の部分は取り外しできる仕組みになっており、中には「THROUGH THE RESURRECTION OF CHRISTE WE BE ALL SANCTIFIED」(キリストの復活を通じて私たちは神聖化される)と碑文が彫られている。裕福だった上流階級の人々は生前からトランジ(一種の記念碑で、遺体や骸骨などのレリーフのこと)を作って自身の信心深さを示していた。
英南部オックスフォードシャーのフィフィールドにある聖ニコラス教区教会内のトランジ
金銭の余裕はないもののこの考え方は次第に中流・労働階級へと広がっていき、大きなトランジから日常で身に着けられる小さな芸術品、装飾品へと軽量化していった。「メメント・モリ・ジュエリー」もその流れを汲んだもので、骸骨、頭蓋骨、棺などをモチーフにして作られ、アイテムのどこかに自身の宗教に関する考えや記憶をしるし、必要に応じてそれを読むことで、日常的に死について思い出すことができるようにしていたようだ。
1620~50年、オランダ北部で作られたとされるメメント・モリ・リング
モーニング・ジュエリーへの転換
「死を忘れない」という宗教色の強いジュエリーから、特定の故人を偲ぶ「モーニング・ジュエリー」への転換は16世紀ごろからあったようだが、明確に認識されるようになったのは17世紀ごろ。1649年、当時イングランド国王だったチャールズ1世が処刑されたとき、その1年後に国王の肖像をあしらった指輪やその遺髪を入れた指輪が作られ、直接故人を偲ぶジュエリーが生まれた。これをきっかけに、イングランドでは哀悼するための指輪であるモーニング・リングの習慣が世間に広まっていくことになる。デザインはメメント・モリ・ジュエリーのように骸骨のものや、パールをあしらったシンプルなものまでさまざまだったようで、リングの内側に精巧な仕掛けを取り付けたり、宝石の下などに遺髪を入れ、故人の名前や没年を刻み、死を悼むものとして遺族によって所持されるようになった。大抵がブラック・エナメルやジェット(黒玉)など黒色をベースに作られ、未婚の女性や子どもが亡くなったときには白いエナメルが使われた。いずれにしても比較的安価な素材が使用されていたようだ。
モーニング・リングの一大ブームが巻き起こったのは、ヴィクトリア朝時代。この時代の平均寿命は40~45歳で、人々は常に戦争や疫病に脅かされる毎日を送っていた。ヴィクトリア女王は最愛の夫であるアルバート公を1861年に亡くし、悲しみのあまりその後約40年間のほとんどを黒いクレープ・ドレスとモーニング・ジュエリーを身に着けて生活した。多くの市民から慕われていたヴィクトリア女王のこの姿は世間に大きな影響を与え、巷ではモーニング・ジュエリーを日常的に身に着けることが大流行。また、当時の服喪に関するルールは現在よりも厳格で、女性の場合喪服を2~3年も着なければならなかった。これらのことを踏まえると、街中に黒色があふれていたのは想像に難くないだろう。自ら重い口を開かずとも、大切な人が亡くなったことをジュエリーだけで伝えられた時代があったのだ。モーニング・ジュエリーは指輪に始まり、ロケット、ブレスレット、ネックレスなどさまざまなスタイルが出回った。またそのモチーフも、メメント・モリのときのような宗教色は薄れ、柳や天使、雲、イニシャルなど、より穏やかなイメージが多く採用された。
喪服を着るヴィクトリア女王。1867年撮影
廃れていった黒の魅力と日本への影響
ロンドンのオールド・ベイリー刑事裁判所の記録によると、1730年から1908年の間にモーニング・リングの盗難事件が190件あり、流刑地に飛ばされたり、死刑判決を受けた者もいた。このようにイングランド全土で大流行したモーニング・リングだったが、1887年にヴィクトリア女王が即位50周年を迎え、喪服の緩和令が施行されると、ベゼル(指輪の枠部分)にダイヤモンドやアクアマリンなど宝石を取り付ける大量生産タイプの指輪に流行が移っていく。英王室が牽引したといっても過言ではないモーニング・リングのブームは、突如終焉を迎えることになった。
ちなみに日本の「服喪中に黒い服を着る」という習慣は明治以降に英王室から輸入された文化。日本の皇室では服喪中、世間一般に見られるパールではなく、ジェットなど黒いジュエリーをモーニング・ジュエリーとして身に着けている。
葬儀では伝統的に黒いジュエリーを身に着けていた英国だが、現在ではパールも認められている
所有していた指輪を近親者に配ったサミュエル・ピープス
日々の細やかな出来事を日記に残したことで知られる政治家サミュエル・ピープス(1633~1703年)も、自身が亡くなるときに所持していた123個の指輪を手放した。指輪は友人関係、社会的に地位の高い人に向け3つの階級に分類され、配られたという。「自分のことを忘れないで」というこの意志は、かの文豪ウィリアム・シェイクスピアも同じだった。1616年に亡くなるときに、「私の記憶を愛して」という意味の指輪を持つように自分の妻と娘に伝えていたそうだ。
どうやったら見つけられる?
アンティーク・ディーラーに聞くモーニング・ジュエリーの探し方
指輪をはじめとするモーニング・ジュエリーは、現在もアンティーク市場で取引されている。遺髪が組み込まれているので生理的にダメな人にはお勧めできないが、一見するだけでも大変価値があるもの。一度見てみたい、という方々のために、探し方のコツを現役のアンティーク・ディーラーに聞いてみた。
まず、モーニング・ジュエリーの市場価値について教えてください。ほかのアンティークに比べると価値が高いように思うのですが。
そうだとも、そうでないともいえます。モーニング・ジュエリーに限らずどのアンティークも値段をつけるのは難しいところですが、モーニング・ジュエリーの場合、価格が高くなる条件を備えています。優れた職人の技で高品質に作られていることに加え、アイテムそのものが特定の人物の思い出や歴史と結びついている点などです。ひとえにモーニング・ジュエリーといっても、英王室に関係するものなら、莫大な価値があるということになります。コンディションの良いモーニング・リングであればだいたい500ポンドくらいでしょうか。これらが市場に流れるルートは、指輪の継承者が興味を持たず自ら売却したり、生活困窮のためやむを得ず手放したりなどです。また、一時の流行が終わり多くのモーニング・リングが新しい指輪を作るために溶かされてしまったという時代背景もありますので、現在アンティーク市場に出回るものはそれだけで希少性があるといえます。
モーニング・ジュエリーはだいたい黒色が基本ですよね?
黒色が基本ですが、故人との間柄によって異なる場合があります。以前深い青いエナメルで作られたブローチを扱ったことがありましたが、この色の場合は故人との関係が父、母、夫や妻といった密接なものでなく、いとこなど間柄が離れていた人々が着けていました。
どうすればコンディションの良いモーニング・ジュエリーを見つけられるのでしょう。
全てのアンティークにいえることですが、まずは自分が気になっているジャンルについて知ることが大事です。基本的な知識があれば、実際にアイテムを目にしたときにそのコンディションが良いかどうか、その希少性も分かりますよね。また、評判の良い、信頼できるディーラーから買うことはとても大事なことです。買い手として常に覚えておいていただきたいのが、売り手はアイテムを売ってビジネスをしているということ。例えば売り手に「これはルビーですよ」と伝えられたとき、「あ、天然の良いルビーなのだな」と思うかもしれませんが、同じルビーでも加工があるかによってその価値は大きく変動します。私の考えとして、良いアンティーク・ディーラーというのは買い手に知識を与えることができ、またそのアイテムについて情熱を持って説明できること。結果その場で売れなかったとしても、良い話ができ、また別の機会に会いにきてくれる方が個人的にうれしいので、ぜひたくさん話しかけてほしいです。
また、ご存知の通りアンティークは常にこの世に一点しか存在しません。どの場所にいっても常にお目当のものが手に入る保証はなく、あってもクオリティーが良いとは限りません。大事なことはベストなタイミングで、良い場所ないし売り手から購入すること。手に入れるまで時間はかかると思いますが、美術館などで良いものを見たりして審美眼を鍛えておくことは、自分が最も欲しいと思うアイテムに出会うために大事なことだといえます。
1850年製のバングル、指輪、イヤリング、ブローチ、懐中時計付きペンダントのモーニング・ジュエリー。15カラットゴールドにブラック・エナメル、ダイヤモンドと大変豪華な仕様だ
インタビューした人
Paul Coakley-Webb ポール・コックリー=ウェッブさん
ロンドン北部のカムデン・パッセージ(後述)で販売するアンティーク・ディーラー。一家でアンティーク業を営んでおり、英国のシルバーを中心に、金、ガラス、ジュエリーなどさまざまなアンティークを販売している。
モーニング・ジュエリーに出会えるかも?
ロンドン&ロンドン近郊のアンティーク・マーケット
ディーラーが買い付けにくる本場
Sunbury Antiques Market

ロンドン郊外サリー州のケンプトン競馬場で行われる大規模なアンティーク・マーケット。より良い商品を求め、朝6時30分の開場前からディーラーたちが列をなすプロ御用達の場所だ。お目当のアイテムがあるなら、朝早くに訪れること。カードを受け付けない店もあるので、現金を持っていくのが安心だ。
毎月第2、最終週の火曜日6:30-14:00
入場料£10(8:00まで。以降は無料)
ナショナル・レールKempton Park駅
www.sunburyantiques.com/kempton
ショップからカフェまで何でもそろう
Camden Passage

アンティークやセカンドハンド、ヴィンテージの洋服までいろいろな商品が並ぶ、小さいがフレンドリーな雰囲気のマーケット。ほかにもチーズやチョコレートの店、カフェなども連なっているので、半日以上滞在できるのもうれしい。インタビューしたポールさんの店はCharton Place通り前の区画にある。
水・土 9:00-16:00
地下鉄Angel駅
www.camdenpassageislington.co.uk
高値だが良質ぞろいのセンター
Grays Antique Centre

インドア型のアンティーク・センターで、100を超えるディーラーたちが各々ブースを構えている。ジュエリーからシルバーまでどれもお高めの価格設定だが、それに見合った高品質のアイテムがそろう。
月〜金 10:00-18:00
地下鉄Bond Street駅
www.graysantiques.com



在留届は提出しましたか?
がちょうに乗って空を飛ぶおばあさんが描かれた、マザーグース絵本の表紙
フランス版「昔ばなし」の口絵
英語版「昔ばなし」の口絵



「ゴールデン・スランバー」はアルバム「アビイ・ロード」に収録
鳩の深い魅力にはまるファンシーズたち
第1次世界大戦中、仏軍で使われた伝書鳩
地方のショーに出展するロイヤル・ピジョン・レーシング・アソシエーションのトレード・ブース
レース・リングを付けた鳩の右足
ファンシーズがホーム・ロフトから愛鳩を解き放つ
審査員によって入念にチェックされる鳩たち
会場一面、鳩でいっぱいになる
異常気象などの問題もあり、鳩レースの開催は今後苦労を強いられることになりそうだ
アンドリュー・ビアー作「'スマッシャー' ザ・ピジョン」
チャールズ・ダーウィン著「The Variation of Animals and Plants under Domestication」内の鳩の先祖の挿絵

ゴードン・ロディック氏(写真右)。ザ・ボディ・ショップの経営者で妻のアニータ・ロディック氏と共に
2021年4月、ロックダウンを経て販売員たちが街角に戻ったことを喜ぶジョン・バード氏

また、ビッグイシューは株式会社として雑誌「ビッグイシュー」を発行・販売するほか、これと別に慈善財団「Big Issue Foundation」や「Big Issue Invest」「Big Issue Shop」があり、さまざまな規模の社会支援事業に対する資金援助や支援を展開している。ビッグイシュー・ショップでは、販売者や商品の作り手をサポートするだけではなく、サステナブルな商品を販売。T シャツ、セーターなどの衣類のほか、小物やアクセサリー、食器類が並ぶ。食品もあり、写真右のコーヒーは「利益の100パーセントをホームレス減少のための事業に充てる」と明言している。
ロンドン中心部ヴォクソールにあった初期のロンドン・オフィス
413号は俳優のベン・ウィショーが表紙。新作映画について語るほか、ゲイであることをカミングアウトした時期を振り返ったショート・インタビューが掲載
絵本「だるまちゃんとかみなりちゃん」が表紙の412号は、同絵本の作者で2018年に死去したかこさとしさんをフィーチャー。かこさんの親族へのインタビューだった
在りし日のボブとボウエンさん
イズリントン・グリーンにあるボブの彫像













第一次世界大戦中、仏人店主に「ミサのためにパンとバターとチーズをください」と尋ねる英准大尉
ウイスキーとのペアリングも人気がある
寝る前のスティルトンで不思議な冒険に出てみてはいかがだろうか
街のシンボル的存在のイーリー大聖堂。1342年に完成した高さ52メートルのオクタゴンと呼ばれる8角形の塔(写真)の美しさは必見だ
ノルマン人によって作られたネイヴ(Nave)と呼ばれる身廊。天井はヴィクトリア時代にペイントされた
イーリー大聖堂の礎を築いたエセルスリス
近付いてみるとその大きさに圧倒される
フレデリック・アシュウィン作「最終日の夜明け」
オリヴァー・クロムウェルの家。チケットは1階の観光案内所で購入しよう
クロムウェル家のキッチンの様子
棒の先頭にこの道具を付け、水中のウナギを地上から狙った(イーリー博物館蔵)
ちなみに、街名のイーリー(Ely)とウナギ(Eel)の発音が似ているため、ウナギが命名に絡んでいるという説もあるが、定かではない。

4月にイーリーで行われた伝統の一戦








ヘンリー8世とアン・ブーリンとの結婚は、その後のアイルランドの運命も変えた
オリヴァー・クロムウェル
「ジャガイモ飢饉」と呼ばれた大飢饉(1845~49年)は英政府の政策が原因で長引き、人々は4年にわたり飢餓に苦しんだ
イースター蜂起で建物が崩壊したダブリンのサックヴィル・ストリート
1916年に独立運動の急進派が出したアイルランド共和国宣言
1976年8月、ベルファストで起きた市街戦。英国兵士の持つ銃の先が見える
1970年代のロンドンデリー(デリー)で、建物の屋上から火炎瓶を投げようとしている男性
ベルファスト合意のパンフレットを手にしたシン・フェイン党の元党首ジェリー・アダムズ氏(写真右)
北アイルランドとアイルランドの国境に立つ交通標識
北アイルランド議定書に対する反対デモ
「アイリッシュ海に境界線を作るな」、と書かれたベルファストのグラフィティ
モリスの最も初期の壁紙デザイン「トレリス」1862年
ウィリアム・モリス William Morris
モリスの邸宅レッド・ハウス内部
1874年のモリス(写真右)とバーン=ジョーンズ(同左)
モリスとバーン=ジョーンズによるアーサー王とランスロットのステンドグラス
モリスがデザインしたテキスタイル「コンプトン」シリーズ
ロセッティがモリス商会のためにデザインした椅子
1879年に撮影されたロンドン中心 オックスフォード・ストリートの店






















街の至るところに出された女王逝去のサイネージ
ピカデリーの書店ハッチャーズに置かれた女王への追悼の言葉
ピカデリー・サーカス駅前の電子広告に映し出された女王の姿
いつも華やかなディスプレイのフォートナム&メイソンが、女王の写真を使いシンプルで黒いディスプレイに変わった
バッキンガム宮殿の外に手向けられた市民からの花束






