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Tue, 16 December 2025

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知っているようで知らない英国の珈琲。

知っているようで知らない英国の珈琲。

英国の珈琲。

「ロックダウンになってできなくなり、悲しく思うことは何か」という2020年春の調査で、1位「友人や家族に会えない」の次に「コーヒー・ショップに行けない」という結果が出た英国。紅茶の国というイメージがありながら、気が付けば上質のコーヒーを入れてくれるカフェがそこかしこにあるのが当たり前になっていた。今回は、そうしたカフェを支えるロースタリー*にスポットを当てるとともに、コーヒー豆の選び方や保存方法なども紹介する。 (文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

*コーヒーを生豆の状態で仕入れて焙煎し、卸売りまたは小売りをする焙煎所。ビール業界でいえばブルワリーに相当する

コーヒーにまつわる豆知識

コーヒー豆はアカネ科コーヒーノキ属から採取されるコーヒーチェリーの種子のこと。貿易量は現在、石油に次ぎ世界第2位といわれているが、その起源は9世紀アフリカ東部のエチオピアにある。カルディというヤギ飼いの男が、ヤギがコーヒーの実を食べると元気になることを発見したのが始まりだそう。英国には中東のイエメンを経て、精神の解毒剤、誘淫剤として17世紀半ばに入ってきた。当時コーヒーを出す店は「コーヒーハウス」と呼ばれ社交場として重宝された。18世紀初めにはロンドンだけで3000軒もあったといい、これが英国の最初のコーヒー・ブームだったといえる。

ロンドンの人気ロースタリー10選

ここ10年のコーヒー・ブームで台頭した数あるロースタリーの中から、ロンドンを基盤にするこだわりの10軒を厳選した。このページで紹介したロースタリーのコーヒー豆は、どれもカフェやオンラインで購入できる。自分好みの味を見つけてみてはいかがだろうか。

スクエア・マイル・コーヒーSquare Mile Coffee

Square Mile Coffee

2008年に2人のコーヒー・スペシャリストが立ち上げたスクエア・マイルは、初期のコーヒー・ブームを牽引した立役者ともいえる。卸売りにフォーカスしており、現地企業などが提供するビジネス講習を取り入れている農園から直接豆を購入。公平で公正なサプライチェーンを確保することに努めている。写真の「レッド・ブリック」は深めにローストされたエスプレッソ用の豆で、「オレンジ、アーモンド、チョコレート、ファッジ」の味わい。苦みだけが強調されがちなエスプレッソの意外なフルーティーさに驚くかも。

Red Brick
£12 / 350g
https://shop.squaremilecoffee.com

モンマス・コーヒーMonmouth Coffee

Monmouth Coffee

1978年創業の老舗ロースタリー。英国でコーヒー人気が高まる以前から、おいしいコーヒーが飲める店として知られていた。かつてはコヴェント・ガーデンの店の地下で直火焙煎していたが、現在はロースターを南部バーモンジーに移動。バラ・マーケット内の支店も常に行列ができる人気店だ。写真の「スケ・クト」はエチオピアの農園名。味わいは「ミクスド・ピール、ジャスミン・ウィズ・ブライト・アシディティー・アンド・フレッシュ・ボディ」。浅めのローストで少し酸味があるが、癖がなく飲みやすい。

Suke Quto
£7.50 / 250g
www.monmouthcoffee.co.uk

オールド・スパイク・ロースタリーOld Spike Roastery

Old Spike Roastery

2014年にロンドン南部ペッカム・ライで誕生したオールド・スパイクは、社会問題の解決を目指し、その手段としてコーヒーを扱うソーシャル・エンタープライズ(社会的企業)。売り上げの65パーセントをホームレスの自立支援に投資するほか、森林破壊を防ぐ取り組みにも参加し、コーヒー1パックにつき1本植林しているという。写真のコーヒー「ホライゾン」はルワンダ南部産の豆レッド・ブルボン種を使い、味わいは「レッド・チェリー、レモン・ドリズル、メープル」。甘みと酸味が溶け合う濃厚だがすっきりした口当たりだ。

Horizon-Rwanda-
£10 / 200g
https://oldspikeroastery.com

ヴォルケーノ・コーヒー・ワークスVolcano Coffee Works

Volcano Coffee Works

ニュージーランド出身のカート・スチュワート氏が2010年にロンドン南部ブリクストンで始めたロースタリーで、後述のアセンブリー・コーヒーはこの姉妹店にあたる。ロンドンを中心に英国各地のカフェ、レストラン、ホテルなどで広く扱われているので、知らずに口にしている人もいるかもしれない。写真の「ファイアーハウス・ブレンド」は、ブラジル産をベースにしたエチオピア、ウガンダ産のブレンドで、「チョコレート・オレンジ、フォレスト・フルーツ、シナモン」の味わい。

Firehouse Blend
£7.50 / 200g
https://volcanocoffeeworks.com

アセンブリー・コーヒーAssembly Coffee

Assembly Coffee

ロンドン南部ブリクストンをベースに、2015年に立ち上げられたロースタリー。生産者と積極的に触れ合い絆を深めることで、高品質なコーヒー豆を生産者から直接購入している。コーヒーは生産者と最終的な買い手との間に多数の業者を介することがあり、その結果生産者はほんのわずかな収入しか得られないというシステムが存在する。アセンブリー・コーヒーはその悪しきサイクルを正そうと努めているとのこと。写真の「エチオピア」は、種類の異なるコーヒー2パック・セットのうちの一つで、「スウィート・スパイス、フローラル」の味わい。

Ethiopia (Assembly Care Packcage)
£20 / 400g
https://assemblycoffee.co.uk

スカーレット・コーヒー・ロースターズScarlett Coffee Roasters

Scarlett Coffee Roasters

ロンドン北部イズリントン、エンジェルのおしゃれなロースタリー。南米の鳥スカーレット・アイビスをパッケージのモチーフに、エスプレッソ用のド・ボーヴォワール、ミルク・コーヒー用のアイビス、フィルター用のザ・ボウ・モンド、そしてアイビス・デカフの4種類が用意されている。いずれもさらにその中から国を選べ、アイビスの「グアテマラ」は同国チマルテナンゴ産の4種の豆をブレンドしたもの。味わいは「ブレイバーン・アップル、ミルク・チョコレート、ダブル・クリーム」でバランスが良い。

IBIS-Guatemala-
£10.50 / 225g
https://wearescarlett.co.uk

ミッション・コーヒー・ワークスMission Coffee Works

Mission Coffee Works

現在ロンドン東部クラプトンを拠点にするミッション・コーヒーは2012年に創業。以来、最良の生豆だけに焦点を絞り焙煎してきた。今では英国だけではなく欧州のカフェ、ホテル、レストランに届けられている。ほかのロースタリーと同様に、オンライン・サブスクリプションのシステムを使えば、家庭やオフィスでも気軽に試すことができる。写真の「ピヴォット」は、オールド・スパイク・ロースタリーの「ホライゾン」と同じ農園の豆を使っており、2021年の英グレート・テイスト・アウォーズで星2つを獲得。

Pivot
£9.40 / 200g
www.missioncoffeeworks.com

キス・ザ・ヒッポKiss the Hippo

Kiss the Hippo

2018年にロンドン南西部リッチモンドで誕生し、同年から英国バリスタ選手権でスタッフが3年連続入賞を果たした。地球に優しいコーヒーを目指し、二酸化炭素の吸収量が排出量より多い「カーボン・ネガティブ」の認証を受けた企業としても知られている。写真の「ジョージ・ストリート・ブレンド」は、コロンビアとエチオピアの豆を半々に使ったハウス・ブレンドで、豆の個性を引き出す「チョコレート、ベリーズ、バタースコッチ」の味わい。リッチモンドのほか、中心部マーガレット・ストリートにカフェを持つ。

George Street Blend
£10.50 / 250g
https://kissthehippo.com

ダーク・アーツ・コーヒーDark Arts Coffee

Dark Arts Coffee

コーヒーの焙煎は錬金術のようなものだと考える、バイクやオカルト好きのメンバーによって2014年にロンドン東部ハックニーで創業されたロースタリー。ウクライナ軍の言葉から取った「ロシアン・ワーシップ・ゴー・ファック・ユアセルフ」はエルサルバドル産の豆のブレンド。1パック購入するとそのうち2ポンドが、ロシア軍のウクライナ侵攻で被害を受けた住民や避難民のサポート団体に寄付される。味わいは「ミルク、プラリネ、ラズベリー」。日本にも葉山に支店がある。

Russian Warship Go Fuck Yourself -El Salvador-
£10 / 250g(現在Sold Out)
www.darkartscoffee.co.uk

バランス・コーヒーBalance Coffee

Balance Coffee

ロンドン北部のロースタリー、バランスは、自宅で飲むコーヒーの質を上げることをモットーに、コーヒーを自分で丁寧に入れたいと思っている人々のために焙煎している。コロナ禍の在宅期間中、自宅のキッチンにバリスタもどきの器具をそろえた人も多いというが、そんな人にこそぴったりのコーヒーが見つかりそうだ。写真の「スタビリティー・ブレンド」は「ミルク・チョコレート、ヘーゼル・ナッツ、フィグ」の味わいを持つ人気商品。学生は全商品が20パーセント割引でお財布にも優しい。

Stability Blend
£7.99 / 250g
https://balancecoffee.co.uk

いまさら聞けないコーヒーの6つの基本

店頭やオンライン・ショップ上で、コーヒーの種類の多さに戸惑ってしまう人も多いはず。味の好みは人それぞれだとしても、知っておいたら少しは役に立つかもしれない6つの豆知識をご紹介。

1. コーヒー豆にも旬がある

コーヒーも農作物なので野菜や果物と同様に旬がある。北半球と南半球では収穫時期が異なるため、一括りにすることはできないが、コロンビアは3~6月、ブラジルは5~8月、エチオピアは11~2月が収穫期。英国のロースタリーに豆が届き焙煎される時間を考えると、ここから1カ月ほど後ろ倒しした時期が、私たちが旬のコーヒーを味わえる期間といえそうだ。ただし豆の種類にもよるので、詳しくはロースタリーで聞いてみよう。

コーヒー豆にも旬がある

2. グリーン・コーヒーって何?

コーヒー豆が茶色なのは焙煎しているから。皮をむいて果肉を取り去った生の豆はピスタチオにも似た緑色で、この生豆をグリーン・コーヒーと呼ぶ。一方で、焙煎をせずに生豆で作られたコーヒーをグリーン・コーヒーと呼ぶこともある。このコーヒーは緑茶のような色合いで、焙煎しないことから豆そのものの特徴が分かり、栄養分もそのまま摂取できると一時期話題になった。ただし、コーヒー特有の苦みが全くしないので、コーヒー好きには物足りないかも?

グリーン・コーヒーって何?

3. ウォッシュドかナチュラルか

ロースタリーから豆を取り寄せると、ウォッシュド、ナチュラルなどの説明書きが付いているが、これは生産者が豆を果実から取り出す精製方法を示したもの。ウォッシュドは水を使って果肉を洗い流す方法で、すっきりとクリアな味わいに仕上がり、豆の味を1番引き出す方法だともいわれている。一方のナチュラルは、果肉が付いた状態で乾燥させる伝統的な方法。ウォッシュドよりフルーティーに仕上がるので、どちらが良いというより個人の好みの問題といえる。

ウォッシュドかナチュラルか

4. シングル・エステートはすごいのか

シングル・エステート・コーヒーやシングル・オリジン・コーヒーは、一つの農園、あるいは一つのエリアで採れたコーヒー豆のこと。そのコーヒー農園ならではの独特の風味を感じることができるうえ、品種や精製方法などについても確実に分かるため品質にぶれが出ない。ではいくつかの産地の豆を混ぜたブレンド・コーヒーは悪いのかといえば、ロースタリーがそれぞれの地域のコーヒー豆が持つ特徴を生かし調合するので、ロースタリーの腕の見せ所ともいえる。

シングル・エステートはすごいのか

5. 深煎り・浅煎りとは

コーヒー豆の焙煎時間が長いか短いかを表し、長く焙煎する深煎りの豆(ディープ・ロースト)は濃い茶褐色で香ばしい香りと苦みの強い味わいがある。朝しっかり目覚めたいときや食後に適しており、エスプレッソには深煎りが使われる。一方、浅煎りの豆(ライト・ロースト)はこんがりとしたきつね色。焙煎時間が短いので苦みが少なく酸味があり、フルーティーな味わいを楽しめる。ケーキやフルーツとの相性も良い。焙煎の度合いは深~浅8段階ほどある。

深煎り・浅煎りとは

6. どっちを買う? 粉と豆

フレッシュなコーヒーを楽しみたかったら、粉よりも豆を買うべき。コーヒーは空気に触れると酸化が始まり劣化していくので、毎朝とは言わずとも2、3日分ずつ挽いていくのが良い。挽いたコーヒーは空気に触れないようしっかり蓋の閉まる容器に入れて、日の当たらないところに保存。もちろん残った豆にも同様のケアが必要だ。ちなみに冷蔵庫は湿気がある上、コーヒーがほかの食品の匂いを吸収してしまうのでお勧めしない。

どっちを買う?粉と豆

 

NABESHIMA AUBERGE: Rich traditional culture is still alive in Saga

Rich traditional culture is still alive in Saga

NABESHIMA AUBERGE

Saga is full of attractive spots where you can feel the Japanese culture very close, such as the potteries, Shinto shrines, sake breweries, onsen (hot springs), tea district, and castle. Take a pottery class, make a wish at a Shinto shrine, and experience history at Karatsu Castle. Take a break at a sake bar or a tea shop, and indulge yourself in a blissful time at one of our onsen inns.

‘One-Building Rental’ inn, Onyado Fukuchiyo‘One-Building Rental’ inn, Onyado Fukuchiyo
1st floor bedroom1st floor bedroom
Souan Nabeshima offers more than 20 types of sake ‘Nabeshima’Souan Nabeshima offers more than 20 types of sake ‘Nabeshima’
Restaurant, Souan NabeshimaRestaurant, Souan Nabeshima
Auberge amenitiesAuberge amenities
 
 
 

Historical Background

Hizen Hamashuku / Salagura-dori Street
Birth of Onyado Fukuchiyo

Hizen Hamashuku, which prospered as a post town and port town for „Nagasaki Kaidou Tara Oukan” during the Edo period. Among them are „Fukuchiyo Sake Brewery“ and „Onyado Fukuchiyo“, which handle the sake „Nabeshima“. Among them, Salagura-dori Street is a townscape with many white-walled sake breweries and thatched-roof houses, and has high historical value, and has been selected as an important traditional buildings preservation district of the country.

Onyado Fukuchiyo, which faces the Salagura-dori Street, is based on an old merchant house that was built 230 years ago (1780s) and was one of the largest traditional buildings in the area, producing soy sauce and miso. Even in the conservation area, the buildings are aging. Therefore, this old merchant house was restored and remodeled and rebuilt as a „restaurant where you can stay (Auberge)“. The symbolic thatched roof of „Kudo-zukuri“, which is derived from the resemblance to „Kado“, is reproduced by
a professional craftsman. The brick chimney, which is a remnant of the former soy sauce and miso production, is preserved as it was.

We want to protect the beautiful landscape of this town and connect it to the future. When staying at Onyado Fukuchiyo, the auberge itself is the purpose of the trip, but please feel the unique travel experience of this area, here Hizenhamajuku / Salagura-dori Street, where history and tradition are alive.

One And Only Sake Brewery Auberge

Hizen Hamashuku, where the sake „Nabeshima“ was born, is a post town where sake brewing has been active since the Edo period. The townscape, which still retains its appearance, has been selected as an important traditional buildings preservation district of the country as an area of historical value.

„Onyado Fukuchiyo“ has been renovated from the 230-year-old historic building, which is one of the largest in the area, with high quality and comfort. There is also a restaurant called „Souan Nabeshima“ where you can enjoy the fusion of sake and Japanese cuisine with all five senses.

Guests staying at the hotel will be guided by Fukuchiyo Sake Brewery, which is normally closed to the public, by master brewer or brewers. Please enjoy a special time only here at the restaurant „Sake Brewery Auberge“ run by the sake brewery.

Onyado Fukuchiyo
2420-1, Hamamachi, Kashima City, Saga Prefecture 849-1322
https://fukuchiyo.com/en
onyadofukuchiyo

 

英国人の弟子をもつ激動期の画家 河鍋暁斎を知っていますか

英国人の弟子をもつ激動期の画家
河鍋暁斎を知っていますか

「地獄太夫と一休」1871~89年 遊郭を訪れた一休が芸妓と舞い踊る 「地獄太夫と一休」1871~89年 遊郭を訪れた一休が芸妓と舞い踊る

「書画会図」1876~78年にぎやかな書画会の様子 「書画会図」1876~78年にぎやかな書画会の様子

ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(以下RA)では2022年3月19日から、幕末、明治の激動期に活躍した絵師、河鍋暁斎の作品を紹介する「Kyōsai: The Israel Goldman Collection」が開催される。美術商イスラエル・ゴールドマン氏が40年近くにわたり集めた1000点近くの暁斎のコレクションから、英国で初公開の23作品を含む、約80点が一堂に会する。今回は、河鍋暁斎と英国の関係を紹介するほか、本展覧会のキュレーターである定村来人さんに、暁斎の人気の秘密についてお話を伺った。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: Bunkamura サイト「ゴールドマン・コレクション これぞ暁斎! 世界が認めたその画力」展、http://artistian.net ほか

河鍋暁斎とは

河鍋暁斎(かわなべきょうさい、1831~89年)は幕末から明治にかけて活躍した絵師。伝統的な狩野派の絵画から浮世絵や風刺画までを駆使し、あらゆる画題に挑んだ。特に近年では、明治政府や当時の世相を皮肉った作品や、そのエキセントリックな性格とユーモアあふれる作風が人気を呼び、マルチな本格派絵師として知名度が高まっている。代表作は「達磨図」「地獄太夫図」「百鬼夜行図屏風」ほか多数。

河鍋暁斎

暁斎をめぐる時代背景(1831〜89年)

1831年(天保2年) 5月18日、周三郎の名で現在の茨城県古河市に誕生。翌年、一家で現在の文京区本郷に移る
1833年(天保4年)  天保の大飢饉が発生
 英作家で数学者のルイス・キャロルが誕生
1837年(天保8年) 浮世絵師の歌川国芳に入門
 ヴィクトリア女王が即位
1840年(天保11年) 狩野派の絵師、前村洞和に入門
1848年(嘉永元年)  マルクスとエンゲルスが「共産党宣言」を発表
1841年(天保12年)駿河台狩野家当主・狩野洞白陳信の画塾に入る
1849年 (嘉永2年)  葛飾北斎が90歳で死去
1853年(嘉永6年)  ペリーが率いる黒船が浦賀沖に来航
1855年(安政2年) 安政江戸地震。仮名垣魯文の文章に絵を付けた鯰絵「お老なまず」を作成
1857年(安政4年)ごろ 戯画や風刺画で人気を博し、「狂斎」と名乗る
1860年(万延元年)  桜田門外の変
このころから欧米で浮世絵が流行り始め、ジャポニズムへと発展
1862年(文久2年)  生麦事件
 ロンドンで万国博覧会が開催
1863年(文久3年)  薩英戦争
1867年(慶応3年)  大政奉還
夏目漱石が誕生
1870年(明治3年) 「貴顕を嘲弄する」絵を描いたとして逮捕、投獄される。翌年、釈放後に号を「暁斎」と改める
1872年(明治5年)  新橋と横浜を鉄道が開通
1873年(明治6年) ウィーン万国博覧会に大幟「神功皇后武内宿禰図」を送る
1877年(明治10年)  ジョサイア・コンドルが建築学教授として来日
1881年(明治14年) コンドルが弟子として入門
1883年(明治16年) コンドルに「暁英」の名を与える
1889年(明治22年) 4月26日、胃がんのため58歳で死去。谷中の瑞輪寺正行院に埋葬される

暁斎の作品について

異なるジャンルを自在に描き分けた

「蛙の学校」1871〜79年 蓮根の椅子に腰を掛け、欧米風の教育を受ける蛙たち 「蛙の学校」1871〜79年 蓮根の椅子に腰を掛け、欧米風の教育を受ける蛙たち

河鍋暁斎は、技術力の確かさから当時の絵画の垣根を超越し、自由な描き分けもしくは一つの絵にさまざまな要素を混在させることが可能だったといわれる。もともと才能があったのはもちろんだが、幼いころに二つの相反する画塾で学んだことも大きな理由の一つといえる。商人から下級武士に転じた家に生まれ、幼いころから絵を描くことが大好きだった暁斎は、父によって6歳のときに武者絵で有名な浮世絵師、歌川国芳の画塾へ送り出された。国芳は常々、人体の動きをよく観察するようにと教えていたため、幼いが熱心な暁斎は長屋などで口論や喧嘩があるたびに、画帳を持って乗り込んでいったという。しかし、国芳が暁斎を吉原遊郭に連れて行くなどしたため、これを心配した父に画塾行きを禁じられた。暁斎が国芳のもとで学んだのは2年ほどだったものの、写生の大切さは幼い心に刻まれたようだ。神田川の岸辺に流れ着いた人間の首を観察したり、釣り上げた鯉を食べずに描いたという逸話が残っている。

「烏瓜に二羽の鴉」1871~89年 暁斎は鴉を得意とし、注文も多かった 「烏瓜に二羽の鴉」1871~89年 暁斎は鴉を得意とし、注文も多かった

この翌年、暁斎は次に狩野派の絵師、前村洞和に入門する。町民文化を担う浮世絵師から一転、江戸土佐藩邸の御用絵師の門下になった暁斎は、狩野派の特徴である漢画の影響を受けた格式高い絵画を学ぶ。筆の使い方に多くの決まりがあり、「粉本(ふんぽん)」という手本を使い模写をするシステムは、動きのあるものを素早く描くのとは異なる訓練だった。暁斎はここでも熱心に学び、洞和から「画鬼」と呼ばれ可愛がられたという。しかし翌年、洞和の病により駿河台狩野家当主、狩野洞白陳信の画塾に移る。1857年に絵師として独立した時点で暁斎は、伝統的な狩野派だけでなく琳派、四条派、浮世絵までを描けるハイブリッドな絵師になっていた。あたかも時代は幕末。黒船でペリーが来航し江戸幕府の滅亡が秒読みとなっており、鎌倉時代から約700年続いた武士政治が終焉を迎えていた。

「鍾馗と鬼」1882年鍾馗は、疫病や魔よけのため掛け軸などに描かれることの多い神様 「鍾馗と鬼」1882年鍾馗は、疫病や魔よけのため掛け軸などに描かれることの多い神様

英国人コンドルとの出会い

江戸幕府の終わりと、欧米におけるジャポニズムの流行の始まりはほぼ同時期だといえる。ロンドンでは1862年に万国博覧会が開催され、刀や漆器、版画など日本の美術工芸品も展示。大きな話題を集めたという。だがそれとは反比例するように明治政府は日本の欧米化を急ぎ、近代化に必要な先進技術や知識を得ようとしていた。政府に招かれ多くの「お雇い外国人」が日本の地を踏む一方、庶民はまげを落とし洋服を着て、牛肉を食べることに忙しく、過渡期には官民ともにまるで熱病にかかったように文明開化にのめりこんでいった。暁斎はそうした世間の様子を面白おかしく皮肉った戯画をいくつも描き、体制側を茶化すような作品を制作。1870年には上野の書画会(後述)で酔って描いた絵が官吏の目にとまり、およそ文明国らしくない「むち打ち50回」と入牢3カ月の刑を受けたといわれる。

「閻魔大王浄玻璃鏡図」1871~89年(1887年?) 閻魔大王が地獄行きの死者を裁くため、鏡にその身を映して真偽を問う 「閻魔大王浄玻璃鏡図」1871~89年(1887年?)閻魔大王が地獄行きの死者を裁くため、鏡にその身を映して真偽を問う

ジョサイア・コンドル(Josiah Conder 1852~1920年)というロンドン生まれの建築家が、工部大学校(現在の東京大学工学部)の建築学教授として日本を訪れたのは1877年。コンドルは、ウィーン万国博覧会やフィラデルフィア万国博覧会など、欧米に向けて次々と作品を出品し海外にも名の知られ始めていた暁斎の元を訪ね、日本の伝統的画法を習うため弟子入りした。毎週土曜日が稽古の日だったそうで、20歳あまりの年の差や国籍の違いにも関わらず2人はいたく意気投合し、鎌倉や日光などに一緒に写生旅行へ出掛けたといわれている。1883年に暁斎はコンドルに「暁英」という雅号を与えた。コンドルはお雇い外国人としての契約が切れた後も日本に残り、建築事務所を開設して鹿鳴館や神田のニコライ堂をはじめとした数々の建築を設計している。二人の関係は暁斎が1889年に死ぬまで続き、臨終の際に暁斎の手を握っていたのはコンドルだったという。コンドルは終生英国に戻ることはなく、1920年(大正9年)に麻布の自宅で死去し、文京区の護国寺に葬られた。

「天竺渡来大評判 象の戯遊」1863年 インドから来た象の見世物の様子 「天竺渡来大評判 象の戯遊」1863年インドから来た象の見世物の様子

書画会のスターだった暁斎

「書画会」は観客の前で即興的に作品制作をするもので、絵画だけではなく書や詩などさまざまなジャンルの芸術家がパフォーマンスを行う、今でいうアート・イベントのこと。江戸時代後期から流行し始め、特に幕末から明治初年には規模も大きくなり頻繁に開かれた。書画会を企画する会主は何百人と人が入ることができる大広間のある料亭のような場所を借りた。参加してもらう絵師や書家、文人に依頼をし、事前に引札(広告チラシ)で宣伝するのが一般的で、煩雑な開催手続きを一手に引き受ける専門の業者も存在したほど大変な繁盛だったという。

「幽霊図」1868~70年 「四谷怪談」を演じる歌舞伎役者、5代目尾上菊五郎からの依頼作 「幽霊図」1868~70年「四谷怪談」を演じる歌舞伎役者、5代目尾上菊五郎からの依頼作

「月下猛虎図」1871~89年 水面に映った月を見る虎 「月下猛虎図」1871~89年 水面に映った月を見る虎

人々は入場料を払い、目当ての絵師や書家に持ってきた扇面や画帖などに作品を揮毫(きごう)してもらった。また、料亭が会場なので食事や酒も注文することができ、新しいひいき客を求めて芸者たちもやって来るため、大変にぎやかで華やかなイベントだった。このような場で即興的に描かれた作品を「席画」というが、暁斎は席画を非常に得意としていたといわれる。酒が好きなうえウィットやユーモアに富んだ作品を当意即妙に作り出せるのだから、書画会のスター的存在だったといってもよいだろう。暁斎は時にお上から眉をひそめられるきわどい絵を描き、参加者はそれを見て日頃のうっ憤を晴らし留飲を下げていたのかもしれない。今回のエキシビションでは、そのような会場の様子を描いた「書画会図」の他、席画や酔筆による作品が第3室を賑わせる。

「三味線を弾く洋装の骸骨と踊る妖怪」1871~78年 急激な欧米化でちぐはぐな姿の日本を皮肉った 「三味線を弾く洋装の骸骨と踊る妖怪」1871~78年急激な欧米化でちぐはぐな姿の日本を皮肉った

イベント情報

Kyōsai: The Israel Goldman Collection
2022年3月19日(土)~6月19日(日)
火~日 10:00-18:00
£17 (予約が必要)
Royal Academy of Arts
Burlington House, Piccadilly, London W1J 0BD
Tel: 020 7300 8090
Green Park/Piccadilly Circus駅
www.royalacademy.org.uk

Interview
ユーモアと遊び心で人々に寄り添った暁斎

今回、RAで行われる暁斎展のキュレーターを務めるのは、2017年に日本で開催された暁斎展にも関わった定村来人さん。暁斎のゴールドマン・コレクションや、英国と暁斎の関係などについてお話を伺った。

定村来人(さだむら こと)

定村来人

東京大学大学院総合文化研究科にて博士号を取得。2016年より大英博物館アジア部客員研究員。現在は、セインズベリー日本藝術研究所ロバート&リサ・セインズベリー特別研究員。イスラエル・ゴールドマン・コレクションのキュレーターとして、2017年の渋谷Bunkamura「ゴールドマン・コレクション これぞ暁斎! 世界が認めたその画力」展に関わった。著書に「Kyōsai: IsraelGoldman Collection」 (RoyalAcademy of Arts、2022年)、「Kyōsai’ s Animal Circus」 (同上)、「暁斎春画 ゴールドマン・コレクション」(共著、青幻舎、2017年)がある。

長年、河鍋暁斎の研究を続けておられますが、なぜ日本ではなく英国を拠点に選ばれたのでしょうか。

暁斎研究を始めたのは大学院で、修士・博士課程の6年半ほどは同大学院のロバート キャンベル教授のご指導の下、東京で勉強、研究をしました。その後英国に拠点を移したのは、大英博物館に寄託されているイスラエル・ゴールドマン・コレクションの存在と、2016年に大英博物館で客員研究員として受け入れてもらえたためです。大英博物館もまとまった数の暁斎作品を所蔵しており、1993年には日本国外初の暁斎展を開催しています。そのキュレーションをしたのが日本部門長だったティム・クラークさんで、クラークさんのご指導を受けながら経験を積むことができるのも魅力でした。

「暁斎絵日記」1883年10月20日か?「暁斎絵日記」1883年10月20日か?

暁斎コレクターであるイスラエル・ゴールドマン氏についてお聞かせください。

ゴールドマンさんは1980年代初めから暁斎作品の収集を始め、現在でも精力的に集めておられます。規模、質ともに世界で1、2を争う暁斎コレクターで、所蔵点数は1000点近くに及びます。ゴールドマンさんは江戸から明治時代の浮世絵版画・版本と肉筆作品を専門に扱う美術商で、世界のコレクターたちと仕事をしてきたほか、大英博物館などの美術館や博物館に重要な作品をもたらしてきました。ゴールドマン・コレクションの版画作品は、専門家ならではのこだわりにより、非常に状態の良い早い摺りのもの、稀少な作品が多く含まれています。私は2011年からこのコレクションの目録作りをはじめ、その整理、管理、研究に関わってきました。

今回RAを会場するにあたり、特にポイントとなったことはありますか。

RAは美術館であると同時に、美術学校を伴ったアーティストのための機関です。そこで、展示では「作品が生まれる場」に焦点を当てようと考えました。暁斎の時代には、観客の前で即興的に揮毫する書画会という催しが多く行われており、暁斎は席画の名人として知られていました。また、このような集まりでは複数の作家による合作も多数作られました。今回はこのような席画や合作、そして作画や観客、批評家たちの様子をテーマにした作品が多く出展されます。英国ではほぼ30年ぶりの暁斎展なので、第1室ではコレクションの名品によって暁斎の幅広い画業を紹介し、第2室では時事的な作品から暁斎が生きた時代を見る内容になっています。そして第3室で、席画や合作を通して当時の活気あふれる創作の場の雰囲気を感じてもらいたいと思っています。

暁斎と英国の共通点をお聞かせください。一番弟子が英国人だったこともそうですが、暁斎の作品には、英国の新聞のカリカチュア、風刺画などにも似た皮肉なユーモアが含まれているのではないでしょうか。

暁斎は1874年(明治7年)に、英国の週刊新聞「Illustrated London News」の派遣員として幕末に日本に来たチャールズ・ワーグマンが刊行した風刺漫画雑誌「JapanPunch」を模して、ワーグマンの画風と鳥羽絵*のスタイルを合体させたような挿絵を「絵新聞日本地」に描いています。英国との関係は、弟子となった建築家のジョサイア・コンドル、「Japan Weekly Mail」の主筆フランシス・ブリンクリー、画家モーティマー・メンぺス、医師ウィリアム・アンダーソンらとの個人的なつながりを通じて強くなりました。後にRAの解剖学教授となったアンダーソン旧蔵の暁斎作品の多くは大英博物館に収蔵され、英国における暁斎研究の土台となりました。
*誇張した、簡略なタッチで描かれた江戸時代の戯画

ロンドンで初めて暁斎を見る方に向けて一言いただけますか。

暁斎を楽しむ視点はさまざまあります。とびぬけた線描力、墨画と着彩画における高度な技術、即興的な作品の自由闊達な筆、生き生きした動物や人間や化け物たちの描写、暁斎が描いた幕末、明治という時代、そして暁斎その人も魅力にあふれています。

暁斎は流派の垣根を取り払い、あらゆる伝統から学んで自分のスタイルを確立しました。そして、身の回りで起こっていることに常に関心を寄せ、ユーモアと遊び心あふれる作品を多数制作しました。人々の日常と感情に寄り添った暁斎の絵は、現在の私たちの心にも響くものが多くあると思います。

 

ウクライナ情勢 英国はどう受け止めているのか

ウクライナ情勢英国はどう受け止めているのか

ロシアによるウクライナ侵攻への抗議デモが6日、ロンドンで開催されたロシアによるウクライナ侵攻への抗議デモが6日、ロンドンで開催された

2022年2月24日、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻は世界に大きな衝撃を与えた。ニュースで繰り返し伝えられる惨状に加え、現地にいる一般市民がソーシャル・メディアでアップするありのままの様子。固唾を飲んで動向を追うしかない我々にとって、日々の会話はこのニュースで持ちきりとなっている。欧州に位置する英国市民の誰もがこの事実を重く受け止めており、それぞれができる範囲で必死に反戦を訴えている。今回は、英政府としてのこれまでの対応や国内における市民活動についてピックアップしつつ、ウクライナ難民に関する英政府の課題をまとめてみた。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.bbc.co.ukwww.theguardian.comhttps://news.sky.comwww.ft.com、Russia Beyond、www.goal.comwww.gov.uk、時事通信社、産経新聞社、https://www.nhk.or.jp/ ほか

 ウクライナへ侵攻するロシアの言い分今回の侵攻にはソ連崩壊の歴史が大きく絡んでいる

「失われたソビエト連邦」

「ウクライナのロシア系住民は虐げられている。クリミアの同胞を救わなくてはならない」。今回のウクライナ侵攻に対するロシアのウラジーミル・プーチン大統領の大まかな主張がこれだ。クリミアとは2014年までウクライナに属する自治共和国で、同年に行われた住民投票により、現在は実質ロシアの支配に置かれている地域である。しかし世界はこれを認めておらず、国際法上はウクライナの支配下のまま、という極めて複雑な状況下にある。

ここで、ロシアとクリミアの関係を見ていくと、元々両国はソビエト社会主義共和国連邦(以下ソ連)を形成するエリアの一つであった。1922年12月30日~1991年12月26日まで存在したソ連は、ソビエト連邦共産党による一党独裁国家であり、ロシアやウクライナは「ソビエト」(ブルジョア議会に対抗する労働者会議が起源)という正式の権力機関を置く15の連邦制共和国の一つとしてそれぞれ存在していた。91年のソ連崩壊後は、ロシアは「ロシア連邦」(RussianFederation)として、ウクライナは「ウクライナ共和国」(1996年まで。以降は「ウクライナ」)として独立した。

そもそもソ連はなぜ解体になったのだろうか。1980年代に原油収入の低下が経済に影響を与えていたことに加え、1985年、当時の最高指導者ミハエル・ゴルバチョフ書記長は、強力な一党独裁制を敷いていたソ連を民主主義へと導こうとした。これは既存の社会体制の中のより民主的な政治を意図していたが、極端な社会主義下に置かれていた市民たちはこれを社会主義そのものからの解放と捉え、政府は次第に人々を制御できなくなっていく。また、80年代後半にはチェコやハンガリーなど近隣の社会主義国が次々と民主化していき、対外的にも大きな変化があった。これらをきっかけにソ連は名実ともに弱体化していく。

時を同じくして、第二次世界大戦後に起こった米ロ冷戦も89年のマルタ会談で実質終結を迎え、それは暗に社会主義が資本主義に敗北したことを意味していた。

ソ連解体後に独立した国

ソ連解体後に独立した国

同胞を守りつつ、NATO加盟を阻止

不本意な形で大国が崩壊し、同時にソ連が誕生する前からロシアと深い繋がりのあったウクライナも、ロシアを捨てて独立してしまった。プーチン大統領は、ウクライナが今もロシアの兄弟国家であると信じている。ロシアに接するウクライナ東部はロシア系の住民が多く住んでいるという地理的な理由や、2014年には親ロシア派の武装分離勢力が実効支配してきた二つの地域「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」が誕生しウクライナからの独立を主張したが、ウクライナ政府がこれらを反政府武装勢力とみなした。ロシアからすれば同胞が危険にさらされたという認識だ。また、同年にはクリミア半島の帰属を巡って両国間でクリミア危機が起こり、この結果ロシアがクリミアを併合。今回の問題はこれの延長である。

ウクライナのドネツクでキエフ行きのバスを待つ避難民ウクライナのドネツクでキエフ行きのバスを待つ避難民

さらに軍事的な理由もある。ロシアはウクライナの北大西洋条約機構(NATO)加盟の動きについて快く思っていない。米国を中心に資本主義国家を中心としたこの同盟に入ることは、西陣営スタイルの新しい政権が樹立することに等しいためだ。

2月21日、ロシアは2015年2月11日にベラルーシのミンスクで調印された、東部ウクライナにおける紛争(ドンバス戦争)の停戦を意図した停戦協定、ミンスク2(Minsk II)を破り、先の二つの共和国を承認。それに加え、同共和国がウクライナの領土を獲得する権利があるという主張も支持している。BBCによると、ロシアは今回の一連の動きを戦争とも侵攻とも表現していない。あくまでもウクライナで威圧されている人々を守るというのが名目だ。もちろんこれらはロシア政府の主張であり、ロシア国民の総意ではない。プーチン大統領はウクライナを占領するつもりはないとしているが、これまでの軍事行動、そしてウクライナの国家体制を「ナチス的だ」と表現し、ロシア国内の政府系テレビ局では「ウクライナは2014年にファシストに制圧された」と放映していることを鑑みても、本当の狙いは一体何なのか、何を持って停戦となるのかは今の所誰も分からない。

無慈悲な爆撃を受けた地域無慈悲な爆撃を受けた地域

 英国国内の動向政治、経済面、スポーツ面で積極的な動きがあった

厳しい制裁と国民総動員の支援の促し

ボリス・ジョンソン首相を筆頭に英議会は、ロシアがウクライナに軍事侵攻した2月24日、同首相が「野蛮な企てである」「(ロシアの行動は)民主主義への攻撃だ」と痛烈に批判するなど、ロシアのウクライナ侵攻を激しく非難している。現在対ロ制裁や注意勧告を強化している英政府だが、侵攻から約2週間の経過した現時点(3月8日)までに行われた制裁は次の通り。

  • プーチン大統領に近い有力者や軍事企業などの資金源を封じるため、100人以上のロシア人資産家やロシア系大手銀行など、個人や企業を問わず資産凍結の対象とする
  • ロシアの富裕層をロンドンの金融市場から取り締まるための経済犯罪法(Economic Crime Bill)を導入
  • 英国でのアエロフロート・ロシア航空機の離着陸を禁止
  • ハイテク製品の輸出を禁止
  • ナビゲーション装置など軍事的な使用が考えられる機器の輸出を禁止
  • 英国民に対しロシアへの渡航中止を勧告
  • ロシアに滞在する英国民に、不可欠な場合を除き退避を検討するよう勧告
  • ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領の身辺警護に、米国と合同チームで英陸軍特殊空挺部隊を派遣
  • ロシアからの石油やガスなどエネルギー供給停止の可能性に備え、小型モジュール原子炉の使用について、承認手続きを開始するよう原子力規制当局に要請

ウクライナに対しては、これまで国からの支援金として総額4億ポンド(約605億円)の寄付を行ったほか、政府の公式ウェブサイトでも、安全を脅かされているウクライナ市民を支援する方法として「ウクライナを助けるために何ができるか」というページを公開。同ページでは、「英国はウクライナと共にある。英国民は避難を余儀なくされているウクライナの人々を支援する用意がある」という、ウクライナ支援が国民の総意であるとする文言と共に、慈善団体への寄付の呼びかけ、適正な支援機関を通じた衣類や衛生用品などの提供、現地で何が起きているのかをソーシャル・メディアで拡散するためのハッシュタグ「#StandForUkraine」の使用の勧めなど、政府はウクライナ支援を全面に出している。

その一方で、ウクライナ難民の英国入国ビザ取得の緩和についてはきっぱりと拒否。すでに280万人以上の難民がウクライナ周辺国に受け入れられているにもかかわらず、英国ではたったの900人強で入国審査は引き続き厳重なルールを継続したい模様だ。そのため現在難民の一部はフランスのカレーで足止めを受けており、野党労働党などから人道的なルートを確保すべきだと批判されている。

ウクライナ情勢についてカナダのトルドー首相(写真左)、オランダのルッテ首相(写真右)と会見するジョンソン首相(同中央)ウクライナ情勢についてカナダのトルドー首相(写真左)、オランダのルッテ首相(写真右)と会見するジョンソン首相(同中央)

大手企業の相次ぐ撤退、スポーツ界への影響

経済面では大手英企業がロシアからの撤退を表明している。英石油大手BPが、自社が保有するロシア国営の大手石油会社、ロスネフチの株式を全て売却すると発表し、ロシア事業からの撤退を表明。石油大手のシェルも同様にロシアとの共同事業中止を決めた。また、ロンドンに本部を置く世界的な大手会計事務所アーンスト&ヤング、プライスウォーターハウスクーパース、デロイトが、ロシアとベラルーシからの撤退を発表。これにより今後ロシアやベラルーシの国外での経済活動に大きな制限がかけられることになる。また、ロンドン証券取引所グループ(LSE)は、ロシアの全顧客を対象にサービス提供の停止を発表している。

10日のBPガソリンスタンドの様子。ロシアからの撤退を表明後、ガソリン、 軽油共に軒並み値上がりした10日のBPガソリンスタンドの様子。ロシアからの撤退を表明後、ガソリン、 軽油共に軒並み値上がりした

英市民が直接影響を受けた事例では、大手スーパーマーケットのコープとモリソンズが、当面の間ロシア産ウォッカを販売中止としたことが挙げられる。コープのスポークスマンによると、「ロシアで作られた商品が平然と売られている」ことに疑問を持ち、「ウクライナの人々との連帯の印として」商品の撤去を決めた。

スポーツ界でも大きな動きがあった。サッカー、イングランド・プレミアリーグの強豪クラブであるチェルシーを所有するロシア人実業家、ロマン・アブラモビッチ氏が、英政府から制裁対象とされ、資産凍結や英国への渡航の禁止、さらに予定していたクラブ売却案も凍結となった。これにより、同クラブは新しい選手の獲得や新規のチケット販売は禁止され、その余波を確実に受けている。

7日、ノッティング・フォレストFC対ハダースフィールド・タウンFCの試合では、 ウクライナの国旗がはためき、サポーターたちが平和を訴えた7日、ノッティング・フォレストFC対ハダースフィールド・タウンFCの試合では、 ウクライナの国旗がはためき、サポーターたちが平和を訴えた

ロシアや今回の侵攻を支持するベラルーシが出場するスポーツの大会についてはすでに厳しい制裁が下されている。イングランド・サッカー協会ではロシアとの試合は行わず、また、モータースポーツUKもロシア発行のライセンスを持つドライバーの英国内でのレース参加禁止を決定。さらに国際オリンピック委員会(IOC)は、両国の選手と役員の参加や招待を行わないよう各国のスポーツ連盟に勧告しているため、上記以外の多数のスポーツで出場停止の決定が今後も予想される。

 英国市民の動きもともとデモ活動が盛んな英国。反戦を訴えるためにさまざま手段が取られた

積極的な市民活動

市民も自分のできる範囲でさまざまな支援行動を起こしている。2月24日には数百人ものウクライナ人が母国の国旗である青と黄色のアイテムを身に付け、侵攻に抗議するためにロンドンの官邸街ダウニング・ストリートの前に集まりデモを行った。このときロンドンで働く若いロシア人たちも抗議に加わった。「ガーディアン」紙のインタビューによると、「ニュースで知って、朝同僚と目を合わせられなかった」と語ったロシア人女性がいたといい、自国の行為にショックを受けたロシア人も少なくない。この日を境に週末を中心に英国各地で抗議デモが行われており、ウクライナ国家を歌いながら、戦争をやめるよう呼びかけたり、さまざまなメッセージをプラカードに書いたりと、人々は自分たちがウクライナ市民と共にある旨を表明し、ロシアの軍事侵攻に対する怒りをあらわにしている。

10日、ロンドンのトラファルガー広場で反戦デモを行う市民たち10日、ロンドンのトラファルガー広場で反戦デモを行う市民たち

市民のなかには直接現地へ出向こうとする人もいる。ウクライナのゼレンスキー大統領が、ロシア軍と戦う国際義勇軍への参加を各国に呼び掛けた結果、3日までに英国からは元軍人から戦地を経験したことない者まで、6000人あまりが登録したという。ただ、英政府からウクライナへの渡航中止勧告が出ていることから、どのような形で入国するのかは明確にはされていない。

義勇軍へ参加する前に英国内で備品をそろえる在英のウクライナ人。義勇軍への参加は国を問わない義勇軍へ参加する前に英国内で備品をそろえる在英のウクライナ人。義勇軍への参加は国を問わない

爆弾が落とされた現地から、ソーシャル・メディアを通じてその悲惨さを届け、それをまた拡散するというネット上の活発な動きも見られる。若者世代を中心に、市民ができる支援の話やトーク・ショーなど、既存のメディアに左右されない生の声をオンタイムで共有できるようになってきている。しかしその反面、虚偽の映像や画像も出回っているため、良い面と悪い面があるようだ。

 英国が抱える難民受け入れの課題滞るウクライナ難民ビザ申請

先の項目で、英国はウクライナからの難民受け入れについて依然として消極的な態度を取っていると述べたが、実際多くの批判が世界各国から集まっている。現在、難民のうち約170万人はポーランドへ、そのほかハンガリーやスロバキア、モルドバなどに多数が避難し、こうした国々は滞在場所や現金、薬、食事などを与えて積極的に難民をサポートしている。一方英国が受け入れたのは、10日現在までに家族制度ビザ(family scheme)を利用した957人のみ。これは英国に住むウクライナ人が、母国にいる家族を呼べるという制度で、英語能力や収入の証明などは必要ないため通常のビザ申請に比べれば簡単に取得できるが、犯罪履歴の確認や指紋などの生体情報を提供するルールは依然として適用される。現在ウクライナのキエフにあるビザ申請センターは閉鎖中のため、これらの情報を提供するのに亡命先の国のビザ申請センターで手続きを行わなければならないという、難民には極めて過酷な制度となっている。

ウクライナを脱出し、ベルギーのブリュッセルにある申請センターで難民申請を待つ人々ウクライナを脱出し、ベルギーのブリュッセルにある申請センターで難民申請を待つ人々

上記のような対応について、政府は労働党から「軍事的なウクライナ侵攻の前に数週間の準備期間があったではないか」と激しく批判されている。これを受け、パテル内相は今月15日からパスポート所持者はオンラインでビザを申請が可能という新たな制度を急遽発表。該当者はビザ申請センターに行く必要がなくなり、より迅速なビザ発行が可能になった。これにより亡命先のビザ申請センターで手続きを行うのはパスポートを所持していない人限定となる。しかし同制度は英国に住むウクライナ人の近親者が対象となっている。やがて14日に政府は、「Homes for Ukrainescheme」を発表。血縁関係がない難民を呼び、最短6カ月から受け入れられるというもので、個人や企業などのグループで応募ができる。消極的な態度を酷評されようやく動き出した英政府だが、英国の難民ビザ論争はまだまだ続くと予想される。

 

ドーセットの謎多き地上絵 サーン・アバス・ジャイアント

ドーセットの謎多き地上絵
CERNE ABBAS GIANT
サーン・アバス・ジャイアント

サーン・アバス・ジャイアント

地上絵と言えば南米ペルーのナスカが有名だが、英国にも神秘に満ちた地上絵が数カ所あるのをご存知だろうか。正確には、英国では丘陵に描かれているため「ヒル・フィギュア」と呼ばれるが、中でも特に有名なのが、イングランド南西部ドーセットにある「サーン・アバス・ジャイアント」(Cerne AbbasGiant、サーン・アバスの巨人)。丘陵に残された裸の男性の強大な図形は、一体誰が、何の目的で作ったのか未だ多くの謎に包まれており、現在も調査が進められている。今回は世の中に知られているポッシュな英国のイメージとはかけ離れた不思議な観光スポットを紹介しよう。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.visit-dorset.com, www.nationaltrust.org.uk, www.telegraph.co.uk ほか

サーン・アバス・ジャイアント <CERNE ABBAS GIANT>

イングランド南西部ドーセットの小さな村、サーン・アバスに昔から存在するヒル・フィギュア(hill figure)で、サーン・ジャイアントとも呼ばれる。村の北部にある石灰岩の丘の中腹に描かれている、大きな棍棒と男性器を持つ裸の男性像は、頭から足まで180フィート(約55メートル)、肩幅45フィート(約14メートル)。ヒル・フィギュアをかたどる2フィート(約60センチ)の白亜の線は、斜面に溝が掘られ、そこにチョークが敷き詰められている。天候によって、遠くから明瞭に見えるときとそうでないときがあるようだ。

1920年から現在まで、歴史的建築物の保護を目的に設立された英機関ナショナル・トラストの管理下にある。なお、現在はナショナル・トラストの指導員とボランティアの手によって10年ごとにチョークの入れ替えが行われている。ヒル・フィギュアの近くまで丘を登ることはできるが、保存のため周りは柵に覆われており直接近付くことはできない。

サーン・アバス・ジャイアンントとは一体何なのか?

錯綜する制作年

ユーモアあふれる顔の表情に勃起した男性器という目を引く姿から、つい表面的な特徴に目を奪われがちだが、実際このヒル・フィギュアは英国の郷土・文化史を知る上で非常に重要な遺産であり、これまで長年研究の対象にされてきた。「鉄器時代に異教の偶像として作られた」、「ローマ時代のヘラクレスをイメージした」、「17世紀にオリヴァー・クロムウェルを侮辱するために作られた」など諸説唱えられてきたものの、調査のたびにそれまでの説は覆り、新たな仮説やさらなる疑問を生み、依然としてその起源は不確定なままだ。

長い間「中世ごろに作られた」といわれていたヒル・フィギュアに驚くべき発見があったのが2021年。ナショナル・トラスト、グロスターシャー大学、商業機関のアレン環境考古学が共同で資金提供し、最先端の堆積物分析調査が行われた結果、ナショナル・トラストの主任考古学者マーティン・パプワース氏は、サーン・アバス・ジャイアントはサクソン時代後期に制作されたと結論付けた。同じく作業に当たった地質考古学者のマイク・アレン氏は「多くの考古学者や歴史家は先史時代または中世後期に作られたと考えていたが実際は違った。誰もが間違っていた」と、その驚きを語っている。

ヒル・フィギュアの肘から足にかけた部分の地下1メートルほどの深部から採取したサンプル結果から、推定制作年は紀元700~1000年であることが判明した。つまり先史時代、またはローマ時代にあたる700年以前に作られたと定義するのは難しく、よってこれは後期サクソン人によって作られた可能性が高いのではないかと推測された。

だが、これで制作年が確定したわけではない。歴史的建造物の保存に携わる公共機関ヒストリック・イングランドと国の許可を得て行った過去のある調査によると、同ヒル・フィギュアについて初めて言及された史料は、1694年に教区を管理する人物による修繕の報告であった。当時ヒル・フィギュアの近くにあったサーン・アバス修道院は、最新の調査で分かった制作年の終盤に当たる987年ごろに設立。1536~41年にヘンリー8世が行った修道院解体により同修道院の大部分が破壊されたものの、生き残った文書には近くに大きいヒル・フィギュアがありながら、それについての言及は一切なかったのだ。

1891年に制作された地図にはしっかりとサーン・アバス・ジャイアントがいる1891年に制作された地図にはしっかりとサーン・アバス・ジャイアントがいる

失われた数百年の調査

ヒル・フィギュアはアングロ・サクソン時代後期に作られたものの、何らかの理由で数百年の間存在が知られていなかった。ナショナル・トラストのパプワース主任考古学者は、ヒル・フィギュアは生い茂る草によって長年隠されていたものの、日光不足などで草が枯れ、再び人の目に触れるようになった結果、先の修繕工事の報告がされたのではないか、という仮説を立てた。また、ヒル・フィギュアが意図的に隠されたという根拠は見つからなかったため、このヒル・フィギュアには政治的メッセージはなく、むしろ宗教的な意味合いがあったのではないか、という新たな見解も生まれた。ヒル・フィギュアが数百年草に覆われていたという仮説は正しいのか、大掛かりな調査は今後も続く予定だ。

オリジナルは裸に棍棒ではなかった?

裸に棍棒を持つ男性の姿はあくまでも現在見られる姿であり、過去には今はなきパーツがあったといわれている。またヒル・フィギュアそのもののイメージも、時代によって大きく異なっていたようだ。2021年の調査により、すでに否定されている説もあるものの、これまでの想像豊かな仮説は知るに値する。代表的な例を挙げてみよう。

  • 1764年、英医師で牧師のウィリアム・ステュークリは、「この地域の人々はジャイアントを『ヘリス』と呼んでいた」とし、へリスがヘラクレスの昔の呼び方であるヘテスキン(Hetethkin)から来ているのではないか
  • ローマ人が43年に上陸する前、同地にいたドゥロトリゲス族が崇拝していたケルト神話の神、ノドンス(Nodens)を表した。10~51年に近郊のホッド・ヒルから出土したフライパンの絵柄にデザインが似ている
  • 左腕にマントもしくは動物の皮をかけ、手に切断したウサギの頭部を持っていた狩りの神を表している。ただし動物の皮がヘラクレスのシンボルであったライオンの皮であれば1の可能性が高い
  • 17世紀にサーン・アバスの地主であったデンジル・ホリス卿が、当時敵対していたオリヴァー・クロムウェルを揶揄するために作らせた。ホリス卿が「英国のヘラクレス」をパロディー化した

特徴的な男性器部分については、時代によって草に覆われて輪郭がはっきりしないなどの理由で、文献やポストカードが作られた時期によりその有無が分かれる。ちなみに1890年ごろのポストカードにはへそとして扱われていた円が、1908年に整備された折に陰茎とつながったことで、現在の勃起しているような形態となった模様。2021年5月12日付「テレグラフ」紙によると、制作当初はベルト付きのズボンのようなものを履いており、男性器は17世紀ごろに意図的に追加された可能性が高いということが調査で分かった。つまり、4の17世紀は制作年ではなく、男性器が追加された時期としての可能性が高い。なお、20世紀には道徳的な観点から司教たちが1908年の整備作業時に男性器を取り除く提案をしたそうだが、結局残すことになり、その姿は現在まで続いている。

1764年発刊「ジェントルマンズ・マガジン」のサーン・アバス・ジャイアント左:1764年発刊「ジェントルマンズ・マガジン」のサーン・アバス・ジャイアント
右:1842年に描かれたイラストには男性器はない

ナショナル・トラストによる手厚い保護

1920年から100年以上にわたりサーン・アバス・ジャイアントの管理を任されているナショナル・トラストによると、同団体の指導員とボランティアが、溝に詰められているチョークを全て掘り出し、新たに17トンのチョークをヒル・フィギュアの輪郭に詰め直すという大規模な作業を約10年ごとに行っている。これは遠くからでもヒル・フィギュアを鮮明に見せるためなのだという。第二次世界大戦中は、爆撃の標的にならないよう、全て覆い隠されたこともあった。

また、風雨に吹きさらしの環境にあるため、毎年5、6月には羊を放牧して雑草を食べてもらったり、夏には大規模な草刈りをしたりと、年間を通しヒル・フィギュアが美しく見えるよう定期的な手入れも行われている。

羊のフンを拾うのは人間の仕事。観光シーズン到来を前に掃除を済ませる羊のフンを拾うのは人間の仕事。観光シーズン到来を前に掃除を済ませる

多数の広告に登場

インパクトのある見た目から、このヒル・フィギュアはこれまで数々のテレビCMや広告に活用されてきた。1998年、米ジーンズ・ブランドのビッグスミスがプラスチック製のジーンズを巨人に履かせ、2007年には米アニメ「シンプソン」の劇場版「ザ・シンプソンズ MOVIE」の宣伝として、大胆にもヒル・フィギュアの隣にホーマー・シンプソンを水性の塗料で描くなど、商業的に利用された。また、2013年に前立腺がんと精巣がんの意識を高めるキャンペーンとして、ナショナル・トラストはヒル・フィギュアに口ひげを付けさせるという大胆な試みを許可。さらに、サーン・アバス・ジャイアンと特定できないものの、Nintendo Switchのソフト「ポケットモンスター ソード・シールド」にも似たような景色が採用されている。

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ジャイアントの恩恵を受ける村

2009年に行われた調査によると、ヒル・フィギュアのある村、サーン・アバスに住む女性たちは生涯で1人あたり平均3人の子どもを産み、これは出産率としては全国1位の記録だそう。ちなみにロンドンのウェストミンスター地区は平均1.16人。調査年までの40年以上にわたり同地が出産率1位をキープし続けている理由に、このヒル・フィギュアが全く関係してないとは言い切れない、と「テレグラフ」紙は書いている。また、同地では毎年4、5月に古代遺跡のある風景の中で音楽や芸術、文学イベントを通し人類そのものを祝うイベント「サーン・ジャイアント・フェスティバル」が開催されており、昨年は数々のパフォーマンスや伝統的なモリス・ダンス、トークなどが行われた。2024年は4月13日(土)〜5月5日(日)。詳細はサイトをぜひチェックしてほしい。

FESTIVAL INFO
http://cernegiantfestival.uk
www.facebook.com/CerneGiantFestival

イベントがなくとも、村にあるショップではヒル・フィギュアをイメージしたお土産が購入できる。トートバッグ、Tシャツなどバラエティー豊かなアイテムがそろっているイベントがなくとも、村にあるショップではヒル・フィギュアをイメージしたお土産が購入できる。トートバッグ、Tシャツなどバラエティー豊かなアイテムがそろっている

SHOP
The Old Saddler
1 Duck Street, Cerne Abbas, Dorchester DT2 7LA
Tel: 0130 034 1238
火、木~土 10:30-17:00 水 10:30-15:30 日 11:30-14:00

ACCESS

丘陵地帯なので車で行くほうが便利。ドーチェスターの北へ約12キロ、シャーボーン(Sherbourne)の南約16キロのA352のすぐそばにある標識が目印。ビュー・ポイントは「Cerne Giant Viewpoint」(38 Acreman Street,Cerne Abbas, Dorchester DT2 7JX)。近くに駐車場があるのでそこに駐車して見に行こう。

電車
ナショナル・レール Maiden Newton駅から約9キロ。Dorchester West駅、Dorchester South駅から約12キロ

バス
平日限定でサウス・ウエスト・コーチズ・サービスのCR5番がドーチェスターとシャーボーンを結んでいる。Cerne Abbas, New Inn下車
www.southwestcoaches.co.uk/Bus-Timetables

詳しい行き方についてはwww.nationaltrust.org.uk/cerne-giantの「How to get here」を参照

まだある
英国の見るべきヒル・フィギュア

サーン・アバス・ジャイアントのほかにも、英国には数々のヒル・フィギュアが点在する。興味深いそれらを2点紹介すると共に、こうしたユニークな風景をテーマにした近日公開のエキシビション情報をお届けしよう。

斜面に浮かぶ顔なしの人
ウィルミントンのロングマン
The Long Man of Wilmington

ウィルミントンのロングマン

英南東部イースト・サセックスにあり、長さ約62メートルの人間(ロングマン)が両手にそれぞれ棒のようなものを持っているヒル・フュギュア。現在はヒストリック・イングランドの指定記念碑として保護されている。白い輪郭はサーン・アバス・ジャイアントのように石灰岩ではなく、保護のためコンクリート・ブロックでできている。

かつて地元の人から「グリーン・マン」とも呼ばれていたこのヒル・フィギュアが、いつ制作され、何を目的としているのかは現在も明確に分かっていない。先史時代やローマ時代に作られ、神の姿を表していたと長年信じられていたものの、近年の調査により16〜17世紀に作られた説がどうやら有力のようだ。

現在はオリジナルの図柄から大きく変化してきているのが特徴で、1779年に残された図では棒ではなく熊手と鎌をそれぞれ持っていた。また、1873年に修復される前は足の向きが片方は外側、もう片方は下向きと丘を下っているような姿だったそう。さらに1969年と96年の調査で、現在見えている輪郭が1873年以前のものとは異なることが判明しており、足はもっと長かったとされている。

サーン・アバス・ジャイアントは度々いたずらにあっているが、このヒル・フィギュアも例外ではない。2010年には、サーン・アバス・ジャイアントに対抗するかのように男性器が描かれたり、21年1月には何者かによってフェイス・マスクが付けられた。

ACCESS

The Street, Wilmington, Polegate, East Sussex BN26 5SL


イーストボーン(Eastbourne)の北西から約9.6キロにある。ポールゲート(Polegate)のA22との交差点の西約3キロ、ルイス(Lewes)の東約16キロ、ウィルミントン村(Wilmington)の南に位置するA27にある標識が目印

電車
ナショナル・レール Berwick駅から約4.8キロ、Polegate駅から約4キロ

バス
Cuckmere BusesとCompass TravelがBerwick〜Polegate駅を結んでいる。Thornwell Road下車
https://www.cuckmerebuses.org.uk/
https://www.compass-travel.co.uk/

今にも駆け出しそうな躍動感のある
アフィントンの白馬
Uffington White Horse

アフィントンの白馬

英南東部オックスフォードシャーの南西にある、まるで丘を飛び越えていきそうな、流れるようなデザインの白馬のヒル・フィギュア。右に頭を向けた馬は、体長約111メートル、高さ約40メートルで、口には特徴的なくちばしのような部分があり、調査によれば、これは時代ごとに大きく形が変わってきたことが分かっている。また、犬や虎などさまざまな動物だとも考えられていたが、11世紀ごろに馬ということで落ち着いた。鉄器〜青銅器時代後期に制作された説で有力で、これまで紹介したヒル・フィギュアのなかで最も起源がはっきりしている。世間一般には、ウィリアム1世(1066〜87年)の治世に周囲一帯が「ホワイト・ホース・ヒル」として知られるようになったという記録が残っている。

現在はナショナル・トラストの管理下にあるが、ホワイト・ホースは定期的に整備をしないとすぐ汚れて見えなくなってしまうため、以前は地元の人々が7年ごとに掃除を行なっていた。

周囲一帯には、イングランドの守護聖人である聖ゲオルギオス(聖ジョージ)が竜を退治した場所と伝えられている頂上が平らな丘「ドラゴン・ヒル」(Dragon Hill)や、巨人が歩いたかのように波状の特徴的な斜面を持つ谷「ザ・マンジャー」(The Manger)、海抜262メートルに位置し、アフィントン城(Uffington Castle)と呼ばれる鉄器時代の要塞「ヒル・フォート」(Hillfort)など、見応えのある景観が広がっている。

ACCESS

Uffington, Oxfordshire SN7 7UK


スウィンドン(Swindon)からオックスフォード(Oxford)へ行くA420に標識がある。アシュベリー(Ashbury)とウォンテージ(Wantage)へ行くB4507が近い。駐車場は2時間まで2ポンド、終日4ポンド。ナショナル・トラスト会員は無料。ナビにはSN7 7QJと入力。
www.nationaltrust.org.uk/white-horse-hill

電車
ナショナル・レールSwindon駅から約19キロ、Didcot駅から約24キロ

バス
周辺を走るバスはない

これまで語られることのなかった文化を表現する
Radical Landscapes

アフィントンの白馬

広大な斜面を大胆に使ったサーン・アバス・ジャイアントなど、ユニークな「風景」をテーマにしたエキシビションが5月からテート・リヴァプールで開催される。土地の保護と不法侵入、土地にまつわる神話など、英国の景観史を振りかえる150を超えるアートが展示される。注目はネオン管を使って同ヒル・フィギュアを作り出したジェレミー・デラーによるアート作品。春のお出かけ先として検討してみてはいかがだろうか。

2022年5月5日(木)〜9月4日(日)
£13.50
火〜日10:00-17:50
Tate Liverpool
Royal Albert Dock Liverpool, Liverpool L3 4BB
Tel: 0151 702 7400
Liverpool Central/James Street駅
www.tate.org.uk

 

英国が愛した BOB MARLEY(ボブ・マーリー)- 不毛な時代に希望を与えた伝道師

不毛な時代に希望を与えた伝道師
英国が愛した BOB MARLEY(ボブ・マーリー)

大麻の所持で起訴され、ロンドンのメリルボーン治安判事裁判所に出廷するボブ・マーリー大麻の所持で起訴され、ロンドンのメリルボーン治安判事裁判所に出廷するボブ・マーリー

西インド諸島ジャマイカ出身のミュージシャン、ボブ・マーリーは1981年に36歳の若さで死去したが、今もなお新しい世代にインスピレーションを与え続けている。かつて英国が「欧州の病人」と呼ばれ「英国病」を患っていた不毛な時代に、マーリーの曲は英国に暮らす人々の声を代弁していた。今回の特集ではジャマイカと英国の歴史をたどりつつ、マーリーが英国文化に意外なほど大きな影響を与えたといわれるその理由をひも解いていく。また、昨年はマーリーがこの世を去って40年ということで企画されつつも、コロナ禍のため延期されていたさまざまなイベントが今年になって開催。そのいくつかも併せてご紹介する。 (文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: When Bob Marley Came to Britain( BBC Documentary) ほか

ボブ・マーリー ROBERT NESTA MARLEY
1945年2月6日~81年5月11日

レゲエの先駆者といわれるジャマイカ出身のシンガー・ソングライター、ミュージシャン。特徴ある歌声と、宗教的かつ社会的な歌詞で知られ、1960年代〜80年代初頭に音楽のジャンルを超えた活躍をした。「Get Up, Stand Up」「No Woman, No Cry」「One Love / People Get Ready」「I shot the sheriff」などをはじめとする数々のヒット曲がある。当時の社会情勢にあって、多くの人に夢や希望を与え、ジャマイカ音楽の世界的な認知度を高めることに成功した。英国にも長期滞在し、ミュージック・シーンだけでなく、英国の若者文化にも大きな影響を与えた。悪性腫瘍のため36歳の若さで死去。

英国とジャマイカの関係

旧植民地からきた移民たち

ボブ・マーリーが初めて英国の地を踏んだのは1971年から72年にかけて。すでにジャマイカでミュージシャンとしてのキャリアを確立していたマーリーは、「ザ・ウェイラーズ」として、ジョニー・ナッシュ* と共に英国ツアーを行った。国内のみならず世界に向けて、音楽でメッセージを発したいと考えたマーリーだったが、かつてジャマイカを支配していた英国や西洋を快く思っておらず、熱心なラスタファリ運動(後述)の信奉者であったほかの2人のメンバーは、英国行きに乗り気ではなかったという。

海外ツアーに出始めたころのボブ・マーリー海外ツアーに出始めたころのボブ・マーリー

ここで英国とジャマイカの関係を簡単に振り返っておく必要があるだろう。ジャマイカは17世紀にオリヴァー・クロムウェルによって征服されて以来、1958年まで英国の植民地だった。西インド諸島最大の砂糖の産地だったことから、「三角貿易」と呼ばれる黒人奴隷貿易の舞台となったこともあった。つまりいってみれば現在ジャマイカに住む人々は、砂糖プランテーションの労働力として英国によってアフリカから連れてこられた奴隷の子孫なのである。

1962年、英南部サウサンプトン港に到着した西インド諸島からの移民たち1962年、英南部サウサンプトン港に到着した西インド諸島からの移民たち

また時代は下がって、英国は第二次世界大戦後に自国の労働力不足を補うため、ジャマイカをはじめとした西インド諸島から多くの移民を招き入れた。後に言われるウィンドラッシュ世代である。ウィンドラッシュは1948年に第一陣の移民を英国に運んだ船の名前から来ている。1971年以前に英国に定住した移民は50万人を超えるとも言われ、その多くがロンドンをはじめとした都市部に定住。鉄道やNHS(国民医療制度)といった人手不足の分野で職に就いた。しかし、国民が喜んで移民たちを迎えたかといえば、そうではなかった。新生活を夢見て海を渡った人々は、祖国と異なり太陽も照らない寒い国で、人種差別という問題に直面した。

*米ミュージシャン。後にレゲエ・シンガーとしてジャマイカに移住。代表曲は「I Can SeeClearly Now」

1970年代の英国社会

では、1970年代前半の英国はボブ・マーリーの音楽を受け入れる用意ができていたのだろうか。このころの英国は、戦後の産業保護政策のため、石炭、電力、ガス、鉄鋼、鉄道、運輸などの産業がことごとく国営化された。しかしそれとほぼ同時に国際競争力を失い始め、国際収支は悪化するばかりだった。第一次オイルショックも重なり、国内は炭鉱はもちろん、大学などあらゆる分野でストライキやデモが慢性化し、社会的活力も低下。ほかの欧州の国はこの状態を「英国病」と呼んだ。

1972年、当時教育科学相だったサッチャーの政策に反対する学生たち1972年、当時教育科学相だったサッチャーの政策に反対する学生たち

また、北アイルランド問題においても、暴力がもっとも激化した時代でもあり、こうした不安定な状況のまま膠こう着ちゃくする社会に、国民は不満を募らせていた。そして、苛立ちは第二次世界大戦後に急増した移民たちへと向かった。1967年に設立された極右政党「国民戦線」(British National Front)は1970年代に入り支持率が急上昇。移民排斥、白人至上主義をモットーとし、党員やそのシンパによる差別的な言動がきっかけで、街角で暴動が発生することもあった。

1977年にロンドン南部ルイシャムで示威運動をする国民戦線1977年にロンドン南部ルイシャムで示威運動をする国民戦線

そんな時代にあって、ボブ・マーリーの音楽に真っ先に飛び付いたのは、英国で生まれた黒人の若者たちだった。初期ウィンドラッシュ世代を両親に持つ第2世代が増加し始めており、政治色の強いマーリーの曲は、自分たちが置かれている理不尽な状況にぴったりだったのだ。「Get up, Stand Up」(目を覚ませ、立ち上がれ)と唄うマーリーの声は、多くの人々を勇気づけた。

黒人の平等な権利を訴えロンドンの街を行進する人々黒人の平等な権利を訴えロンドンの街を行進する人々

じわじわと白人層に浸透

先の英国ツアーではジャマイカ系英国人を魅了したザ・ウェイラーズだったが、英国全土に人気が広がったわけではなかった。だが1972年、名プロデューサーでもあるクリス・ブラックウェル率いるメジャーなアイランド・レコードと契約したことで、マーリーはスターの階段を登り始める。ブラックウェルがよりロック色の強いサウンドを望んだため、翌年発売されたアルバム「Catch a Fire」は、ロックやポップスに親しむ白人層にもアピールする音作りとなった。ブラックウェルの狙い通り、白人層はもちろん、英国ロックで育ったジャマイカやアフリカ系の黒人にも支持された。「Concrete Jungle」「Slave Driver」「Stir It Up」「Kinky Reggae」「No More Trouble」などが並ぶこのアルバムは大きな注目を浴び、英国の人気音楽テレビ番組、「オールド・グレイ・ホイッスル・テスト」への出演も果たした。

アルバム「Catch a Fire」のジャケットアルバム「Catch a Fire」のジャケット

そしてその半年後には早くもメジャー2作目のアルバム「Burnin'」を発表。「Get Up, Stand Up」「I Shot The Sheriff」「Burnin' And Lootin'」「Small Axe」「Rastaman Chant」など、マーリーの人気を決定づける1枚となった。特に、「I Shot The Sheriff」は翌年エリック・クラプトンのカバーが、全米ビルボード・チャート1位を獲得。ジャマイカ生まれのレゲエという音楽ジャンルとボブ・マーリーの名は世界に定着した。

英国での認知度が上がったボブ・マーリー英国での認知度が上がったボブ・マーリー

ラスタファリ運動とは

ラスタファリ運動のシンボルとされる「ユダのライオン」ラスタファリ運動のシンボルとされる「ユダのライオン」

アルバム「Burnin'」発表の直前、ウェイラーズのメンバーの一人で、厳格なラスタであるバニー・ウェイラーが、適切な自然食をとれないなどの理由から脱退を表明した。ラスタとは、1930年代にジャマイカの労働者階級と農民を中心にして発生した宗教的思想運動「ラスタファリズム」(Rastafarianism)のことで、その実践者をラスタと呼ぶ。ラスタファリ運動は一握りのエリートによって支配され、社会的に抑圧されたジャマイカ市民の抵抗運動という面を持つ。エチオピアを人類の起源としたアフリカ回帰運動を奨励し、エチオピア帝国最後の皇帝、ハイレ・セラシエ1世をジャー(イエスやエホバにあたる)の化身だと考える。また、菜食主義で、髪は切らずにドレッド・ヘア、大麻を神聖なものとして扱うなどの特徴があり、ボブ・マーリーの歌詞やファッションによって全世界に波及した。

レゲエとパンクの共闘

不況が続いて人々の心がささくれ立つなか、英国の若者たちは2つの異なる音楽を手にしていた。レゲエと1976年ごろから台頭してきたパンク。この二つはジャンルが全く異なるにもかかわらず、社会に対する主張が共通していた。差別や搾取などに対するプロテスト・ソングの多いレゲエは、黒人コミュニティーを団結させる役割を担っていた。そんな黒人たちの姿を見ていた白人の若者たちは、自分たちも音楽で権力に立ち向かうことで、現状を変えることができるのではないかと気付いたのだった。ザ・クラッシュなどをはじめとした英国のパンク・バンドにレゲエの要素が入り込んでいるのはこのためだ。

1979年、ザ・クラッシュのステージ1979年、ザ・クラッシュのステージ

当時放送禁止になった、シングル「God save the Queen」のジャケット当時放送禁止になった、シングル「God save the Queen」のジャケット

77年、アルバム「Exodus」制作のため再び英国に長期滞在していたボブ・マーリーもすぐにこうした動きに反応。ロンドンでパンクのコンサートに足を運ぶほか、セックス・ピストルズの「God save the Queen」の挑発的な歌詞が好きだと言い、アルバム未収録曲「Punky Reggae Party」を作った際、「パンクはレゲエに共鳴する」と語っている。当時の英国社会はラブ&ピースを語るには世知辛すぎたが、共闘、共鳴という形でレゲエとパンクが存在した。

2000人以上を収容できるロンドン中心部のライセウム劇場で行われたボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのコンサートは、全観客の半数が黒人で残りの半数が白人という、現代でもあまり見ることができないボーダーレスな客層だったという。

各地で熱いステージを繰り広げるボブ・マーリー各地で熱いステージを繰り広げるボブ・マーリー

ボブ・マーリーを知るための関連イベント

レゲエやボブ・マーリーの魅力にもっと触れてみたい、という方は下記のイベントはいかがだろうか。すでに開催中のものを含め、ここではエキシビション、ミュージカル、野外フェスティバルの三つを紹介しよう。

エキシビション

BOB MARLEY: ONE LOVE EXPERIENCE

ボブ・マーリーのライフスタイルに加え、音楽と政治にかける情熱とその影響力が分かる体験型エキシビション。マーリーの各時代の写真とメモラビリアが並ぶメイン・ルームのほかに、巨大なインスタレーションを通じてボブ・マーリーの功績を称えるワン・ラブ・ミュージック・ルームや、センサーを使った観客参加型のワン・ラブ・フォレスト、また、マーリーのヒット曲を聴くことができるソウル・シェイクダウン・スタジオも設置されている。本展はサーチ・ギャラリーのあと、さまざまな都市を巡回する予定だという。

父親は英国人。そのため肌の色が薄いのがコンプレックスだった父親は英国人。そのため肌の色が薄いのがコンプレックスだった

このエキシビションはマーリーの遺子たちが全面協力しているため、ミュージシャンとしてだけではない、プライベートな素顔がのぞける展示品も多く並ぶ。マーリーの娘であるセデラ・マーリーさんは公開に先立ち、「私たちは長年ボブ・マーリーの巡回展を立ち上げたいと思っていましたが、パパの心の中で非常に特別な場所であったロンドンで、それが最初に実現するのをうれしく思います」としている。

4月18日(月)まで
£18
10:00-18:00
Saatchi Gallery
Duke of York's HQ, King's Road, London SW3 4RY
Sloane Square駅
www.bobmarleyexp.com
www.ticketmaster.co.uk/bob-marley-one-love-experience-tickets

サッカー好きで、トッテナム・ホットスパーFCを応援していたサッカー好きで、トッテナム・ホットスパーFCを応援していた

特徴のあるマーリー・スマイル特徴のあるマーリー・スマイル

本展では英写真家デニス・モリスによる作品も見られる本展では英写真家デニス・モリスによる作品も見られる

野外フェスティバル

ONE LOVE FESTIVAL

英国で唯一のレゲエ、ダブ&エレクトリック・ミュージック・フェスとして人気を集める「ワン・ラブ・フェスティバル」。このフェスは、敵対し合うジャマイカの2大政党の党首をステージに上げ、2人を握手させたという逸話を持つ、1978年にジャマイカで開催されたボブ・マーリーの伝説的なコンサート「ワン・ラブ・ピース・コンサート」にヒントを得て始まった。各国から集まったアーティストたちが愛と平和の伝道師になり、会場が一つのコミュニティーとなる一体感は格別だ。出演者の詳細についてはサイトを参照。

8月12日(金)~14日(日)
£42.20~127.92
Weston Estate, Steyning, West Sussex BN44 3DD
https://onelovefestival.co.uk

ミュージカル

GET UP, STAND UP: THE BOB MARLEY MUSICAL

英国でも米国でもなく、ジャマイカという「第三世界」から生まれたスーパースター、ボブ・マーリー。マーリーを突き動かしていたその原動力は何だったのか。政治に対する考えやその心の内を、タイトルともなっている「Get Up, Stand Up」をはじめとしたマーリーのヒット曲と共に丁寧に描いたミュージカル。マーリーを演じるのは、子どものころマーリーがヒーローだったという、ナイジェリア出身の英俳優アリンゼ・ケニ。映画「リトル・ダンサー」や「ロケットマン」を手掛けたリー・ホールが脚本を担当している。

9月17日(土)まで 
火~土 19:30、日 19:00、土&日 マチネ14:30
£15~135 
The Lyric Theatre 
Shaftesbury Avenue, London W1D 7ES
Piccadilly Circus駅 
Tel: 0330 333 4812
https://getupstandupthemusical.com

 

祝プラチナ・ジュビリー - エリザベス女王在位70周年を祝う

祝プラチナ・ジュビリー
エリザベス女王在位70周年を祝う

バッキンガム宮殿からアドミラルティ・アーチをいくゴールデン・ジュビリーのパレードの様子バッキンガム宮殿からアドミラルティ・アーチをいくゴールデン・ジュビリーのパレードの様子

2022年2月6日で、エリザベス女王は在位70周年を迎える。世界で在位70周年を迎えた君主はタイの故ラーマ9世(2016年)ただ1人。この異例ともいえる長い在位期間は、英国君主ではもちろん初めてのことだ。これを祝い今年は1年にわたって祝賀行事「プラチナ・ジュビリー」(Platinum Jubilee)が英国や英連邦内各地で行われる。特に女王の公式誕生日のある6月には、4日間の盛大なお祝いイベントが開催される予定だ。今回はこれまでのジュビリーを振り返ると共に、今年のジュビリーについての最新情報を紹介したい。 (文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.royal.uk, www.royalmint.com, seishonyumon.com ほか

プラチナ・ジュビリーで盛り上がるロンドン(2022年5月撮影)

ジュビリー(Jubilee)とは?

ジュビリーとは君主の生涯とその治世を祝う祭典のことで、聖書に出てくる「ヨベルの年」に起源がある。ヨベルの年とは旧約聖書の中の1書「レビ記」に出てくる言葉で、土地を7年ごとに休ませる安息年が7回巡った次の年の50年目の年を指し、富の偏在が是正される「原状回復」を意味する年だ。ロイヤル・ジュビリーはその名の通り王室にまつわるジュビリーのことで、通常は25周年(シルバー)、40周年(ルビー)、50周年(ゴールデン)、60周年(ダイヤモンド)、65周年(サファイア)、70周年(プラチナ)を意味する。50年の治世を達成した英国の君主は長い歴史の中で数えるほどしかいない。

記録に残る大々的なイベントがあったのはジョージ3世(ゴールデン)、ヴィクトリア女王(ゴールデン&ダイヤモンド)、ジョージ5世(シルバー)、エリザベス女王(後述)。ヘンリー3世(在位1216~1272年)、エドワード3世(在位1327~1377年)、ジェームズ6世(在位1567~1625年)もゴールデン・ジュビリーを行なったはずだが、果たして50年の節目をどのように祝ったのかに関する記録は残念ながらほとんど残されていない。

これまでの「Jubilee(ジュビリー)」を振り返る

英国では節目ごとに国をあげての祝賀イベントが行われてきた。そうした華々しいジュビリーの歴史と共に、当時の王室の姿や世相をたどってみた。

1977年

25周年 シルバー・ジュビリー

1977年2月6日、女王は家族と共にウィンザー城で記念日の週末を過ごした。戦後初のジュビリーだったこともあり、同年夏には英国全土を訪問する大規模なツアーを敢行。計6回のツアーのスタートは5月17日に英北部グラスゴーで始まり、その後イングランドとウェールズへ向かった。途中の英北西部ランカシャーでは、女王を一目見ようと1日で100万人を超える人々が会場を訪れたという。後に西サモア、オーストラリア、ニュージーランド、トンガ、フィジー、タスマニア、パプアニューギニア、カナダ、西インド諸島などこれらの宗主国の君主として海外訪問も決行。この1年の女王の移動距離は、5万6000マイル(約9万キロメートル)を超えたといわれている。

シルバー・ジュビリー・ツアーで英中部ダービーシャーのリプリーを訪れたエリザベス女王シルバー・ジュビリー・ツアーで英中部ダービーシャーのリプリーを訪れたエリザベス女王

6月上旬にはお祝いムードが最高潮に達し、祝賀イベント当日の様子はテレビで世界中に放送され、約5億人もの人々がこの歴史的な瞬間をテレビの前で見守っていた。シルバー・ジュビリーで女王は、英議会でのスピーチで「国の統一こそジュビリーの真意である」と述べた。また、多くの市民に平等なチャンスを与えるため、若者を対象とした支援団体「シルバー・ジュビリー・アピール」を設立。若者自身への資金援助はもちろん、その若者たちが地域社会に奉仕することを奨励した。

本ジュビリーを記念して、ロンドン地下鉄にあるフリート線がジュビリー線に改名され、線を表す色もシルバーに近い明るい灰色に変更された。

バッキンガム宮殿のバルコニーから民衆に手を振るエリザベス女王と王室メンバーバッキンガム宮殿のバルコニーから民衆に手を振るエリザベス女王と王室メンバー

1992年

40周年 ルビー・ジュビリー

1992年11月にはロンドン中心部のギルドホールで、王室関係者と当時の首相ジョン・メジャーやロンドン市長など500人以上の昼食会が開催された。喜ばしいイベントの一方で、同年は長男であるチャールズ皇太子の事実上の結婚生活の崩壊やウィンザー城の火事など、女王の私生活としては苦難の年でもあった。この影響で世間も英王室に対しあまり良いとはいえない反応を示していたこともあり、前回のシルバー・ジュビリーのように大きな祝賀イベントは行われなかった。

2002年

50周年 ゴールデン・ジュビリー

ゴールデン・ジュビリーは、「祝賀」「コミュニティー」「奉仕」「過去と未来」「感謝」「連邦」という6つの主要テーマを基にさまざまなイベントが各地で開催された。2002年には姉のマーガレット王女、クイーン・マザーが相次いで亡くなるという女王にとっては辛い年になったものの、ルビー・ジュビリーと打って変わった華やかなイベントの数々が開催された。

ザ・マルにそってエリザベス女王とフィリップ殿下が進んでいく様子ザ・マルにそってエリザベス女王とフィリップ殿下が進んでいく様子

女王はシルバー・ジュビリーと同じく、フィリップ殿下と共に再び英国内や連邦国への訪問ツアーを行う。1万2000人以上の一般市民も参加したバッキンガム宮殿の庭園でのクラシック音楽コンサートからスタートした6月の大規模なイベントでは、ウィンザーの聖ジョージ礼拝堂、ロンドンの聖ポール大聖堂で礼拝があり、ポール・マッカートニー、ブライアン・アダムス、エルトン・ジョン、シャーリー・バッシーなどのパフォーマーによるコンサートがバッキンガム宮殿で開催され、夜には特大の花火も打ち上げられた。ジュビリーという厳格な伝統形式を守りつつも、大規模なミュージック・コンサートが立て続けに行われ、音楽とともに市民一人ひとりが女王を祝う、より自由な雰囲気が漂うジュビリーとなった。

バッキンガム宮殿の真上に上がる盛大なお祝いの花火バッキンガム宮殿の真上に上がる盛大なお祝いの花火

50周年という大きな節目を祝ったのは連邦国だけではなく、米ニューヨークのエンパイア・ステート・ビルディングでは、そのトップを高貴な女王をイメージした紫と金色にライトアップしたという。

2012年

60周年 ダイヤモンド・ジュビリー

2007年にフィリップ殿下との結婚60周年を祝った5年後、再びフィリップ殿下と共に全国的なツアーに出る。二人はイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドをくまなく旅し、ほかの王室メンバーは本ジュビリーと二人をサポートする形で、連邦国を訪問した。

ダイヤモンド・ジュビリー・ツアーの初日、キャサリン妃と談笑するエリザベス女王ダイヤモンド・ジュビリー・ツアーの初日、キャサリン妃と談笑するエリザベス女王

英国には日曜のランチまたはディナーにサンデー・ローストと呼ぶたっぷりとした食事を取る伝統があるが、6月のジュビリー週末では、「ビッグ・ジュビリー・ランチ」と銘打ち、近所の人や友人たちとランチを楽しむことが奨励された。人々はレストランでの食事はもちろん、家の前などの道路に長テーブルを出すストリート・パーティーも街のあちこちで開催された。

女王に敬意を示すため英国の施設や地域で改名が行われたのもこの年。ロンドン南西部キュー・ガーデンズは庭園の入り口の名前が「エリザベス・ゲート」になったほか、英国領南極地域の一部がクイーン・エリザベス・ランドと名付けられることを外務省が発表した。

また、女王に贈り物をしたい人からの寄付を受け取るために「ダイヤモンド・ジュビリー・トラスト」が設立。集められた資金は、英国のみならず連邦全体の若者を支援するために使用された。

ちなみに本ジュビリーは、ゴールデン・ジュビリー同様、税金の使用を極力抑えるよう計画が綿密に練られたのだとか。企業や市民からのドネーションもあり、結果的に大成功を収めた。

ストリート・パーティーを楽しむ市民たちストリート・パーティーを楽しむ市民たち

2017年

65周年 サファイア・ジュビリー

本ジュビリーはウェストミンスター寺院で鐘が鳴らされ、王立騎馬兵隊や砲兵隊な
どによる祝砲が上げられた程度で、先のような大規模の祝賀行事は行われなかった。2月6日当日の女王は、礼拝に参加した以外は、サンドリンガム・ハウスで公務に従事していたという。このジュビリーにちなみ、ロンドン東部ラムフォードに立てられたレジャー施設「サファイア・アイス&レジャー・センター」が誕生した。

2022年

70周年 プラチナ・ジュビリー

英国史上初のプラチナ・ジュビリーとあり、気合いの入ったイベントになりそうだ。特筆すべきは追加のバンク・ホリデーが設けられ、2022年6月2日(木)~5日(日)まで4連休となること。この4日間は地域レベル、国レベルでのイベント・ラッシュとなる。

その前哨戦として、女王に捧げる新しいお菓子を開発するための全国的なベーキング・コンテスト「プラチナ・プディング・コンペティション」がすでにエントリーを受け付けている。フォートナム&メイソン主催の本コンテストは、焼きプディング、ブレッド・プディング、などプディングと名のつくものなら対象になるそう。8歳以上の英国在住者であれば誰でも参加可能だ(詳細はwww.fortnumandmason.com/platinum-puddingを参照)。優勝したレシピは後に一般公開される予定。

6月2日には、1400人以上の兵士、200頭の馬、400人のミュージシャンが集まるトゥールピング・ザ・カラーと呼ばれる誕生日パレードが行われる。バッキンガム宮殿からスタートし、ザ・マルを通過するこのパレードは毎年人気だが、今年はさらなる混雑が予想される。一般観覧の抽選の申し込みはhttps://qbp.army.mod.ukからで、2月末までの応募となる。

プラチナ・ジュビリーのエンブレムはノッティンガムシャー出身の19歳のグラフィック・デザイン専攻の学生、エドワード・ロバーツさんがデザインしたプラチナ・ジュビリーのエンブレムはノッティンガムシャー出身の19歳のグラフィック・デザイン専攻の学生、エドワード・ロバーツさんがデザインした

3日は、聖ポール大聖堂で感謝の礼拝が行われ(詳細は近日発表)、4日は競馬の聖地と呼ばれるエプソム競馬場でダービーが開催。女王は王室メンバーと共に観戦予定だ。その後バッキンガム宮殿でライブ・コンサートがある。こちらも一般観覧可能で、詳細は2月に発表される予定だ。5日は、先に述べたビッグ・ジュビリー・ランチとしてストリート・パーティー、ピクニック、ガーデン・バーベキューなどを隣人や友人と楽しむ1日。また、英国および英連邦から集まった5000人以上のパフォーマーなどによる大規模なショー「プラチナ・ジュビリー・ページェント」が行われる。

6月の大イベントが終わっても、女王のジュエリーやドレスなど、今年しか見られないロイヤル・コレクション・トラスト主催の特別展が7月から始まる(www.rct.uk)。

ジュビリー記念品は見逃せない!

過去3世紀もの間、ジュビリーにちなんだ記念品が販売されてきた英国。17世紀のチャールズ2世のころから、市民の間で「王室記念グッズ」を集めることが流行していたようだ。近年は記念コインや切手をはじめ、ティーカップやマグカップ、プレートなどバラエティー豊かなアイテムが手に入るので、記念に購入してみてはいかがだろうか。すでに英王室公式オンライン・ショップのロイヤル・コレクション・ショップ(www.royalcollectionshop.co.uk)では紫と金色を取り入れたアイテム、英国造幣局ロイヤル・ミント(www.royalmint.com)では記念コインの販売を開始している。

ロイヤル・ミントから販売されている50ペンス記念コイン。馬に乗ったエリザベス女王と「70」の数字がデザインされているロイヤル・ミントから販売されている50ペンス記念コイン。馬に乗ったエリザベス女王と「70」の数字がデザインされている
シルバー・ジュビリー記念のマッチ箱シルバー・ジュビリー記念のマッチ箱
 

欧州と日本で活躍する12人に聞いた「今私たちが読むべき本」

さまざまなバックグラウンドをもつ12人に聞く世の中が変わるとき読む本

環境、人権、暮らし方など、当たり前と思われていた価値観が世界中でどんどん崩れ去り、特にコロナ禍以降は加速度的に人々の意識が大きく変わっている今、新たな指標となるものはあるのだろうか。2022年の英独新年号特集では、不安や希望を抱えて生きていく私たちのヒントになるような、新たな視点がつかめる本の数々をご紹介。英独を中心に欧州各国と日本、それぞれの空気を知るその道のプロフェッショナルに、「今私たちが読むべき本」を尋ねた。(文・取材: 英国・ドイツ・ニュースダイジェスト編集部)

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世の中が変わるとき読む本

2021年の英独の出版事情は?

コロナ禍で本を読む人が増加

2020年、新型コロナウイルスの感染拡大によって自宅で過ごす時間が増え、世界中で本の需要が増加した。英国も同様で、ロックダウン中は大部分の実店舗が閉鎖されたにもかかわらず、この年には2億冊以上の書籍(紙媒体)が販売された。これは12年以来の最高数だという。20年の英出版社の総売上高は64億ポンド(約9800億円)で、19年より2パーセント高くなった。また、今年は本を耳で楽しむオーディオブックの売り上げが急増し、1~6月は19年比で71パーセント・アップという数字が出た。

一方、ドイツで21年6月に行われたBitkomの調査によると、パンデミック以降ドイツ人の10人に4人(41パーセント)がより頻繁に本を手にするようになったと回答。またロックダウンにより書店が閉鎖された数週間の間に、ドイツでは電子書籍の売り上げが43.5パーセント増加したという。

英国とドイツではどんな本が読まれたか?

2021年になって、英国では相変わらず多くの人が娯楽のために本に目を向け、読書に費やす時間が2倍になった人もいたという。特に、古典文学、犯罪スリラー、セルフヘルプ、料理、趣味などのジャンルに人気が集まった。ドイツでは、「シュピーゲル」紙が20年末に発表した年間ベストセラーで、ノンフィクション部門の2位にコロナ禍における社会を論じた『Trotzdem』(Luchterhand)がランクイン。またホームスクールの影響もあり、子ども向けの本の人気が高まったほか、21年はメルケル首相の後任を決めるドイツ連邦議会選挙があったことから、政治関係の書籍が話題となる傾向も見られた。

出版業界にもサプライチェーンの問題

一方で、コロナ禍によって悪化する深刻なサプライチェーンの問題が、出版業界にも打撃を与えている。英国では、EU離脱(Brexit)も相まって、大手出版社は好調だが、インディペンデント出版社は苦戦という図式が見える。ドイツでも紙不足による印刷遅延が起きており、「シュピーゲル」紙によれば、出版社はこれまで4~5 日で手にできていた印刷物を、6~8週間、場合によってはそれ以上待たなくてはならない状況に陥っているという。

参考: theconversation(2020年10月14日)、thebookseller.com(2021年11月26日)、deutschland.de「Was die Deutschen lesen」(2020年10月9日)、buchreport「Das sind die SPIEGEL-Jahresbestseller」(2020年12月29日)、Spiegel「Buchverleger sorgen sich ums Weihnachtsgeschäft」(2021年10月18日)、zdf「Mehr Menschen greifen zum Buch-Lesend durch die Pandemie」(2021年10月18日)

欧州と日本で活躍する12人に聞いた「今私たちが読むべき本」

明日に希望を持つためのマニュアル4冊鴻上尚史

Shoji Kokami 鴻上尚史

Shoji Kokami 鴻上尚史

演出家・作家。早稲田大学在学中に劇団「第三舞台」を結成。現在はKOKAMI@network、虚構の劇団の二つを運営する。ラジオやTV司会、映画監督としても活躍。留学や舞台上演など英国とも縁が深い。

狂暴化した「世間」と闘う

まず僕の『同調圧力』について。日本に住み同調圧力に苦労してない人はいないでしょう。欧州にいると分かるでしょうが、日本には「社会」と反対のものとして「世間」があると思います。社会には見知らぬ他人がおり、世間は学校や会社など自分が属しているところ。日本人はこれまでは世間の中で暮らしていれば良かったのが、価値観の多様化や外国人の増加で、世間という物差しだけでは成立しなくなってきています。一方、コロナ禍で人々に寛容の心がなくなり、自粛警察のような形で世間の同調圧力がむき出しになりました。世間が新型コロナによって狂暴化したのです。SNSでの誹ひぼう謗中傷やライブハウスへの張り紙など、この状況は戦前戦中に住民同士が監視し合う隣組のシステムによく似ています。この本では人々を苦しめる世間の正体を明らかにし、同調圧力とどう闘うかを示したつもりです。

フェイク・ニュースを見極めよう

『歴史修正主義』は、フェイク・ニュースが世間に広がり、何が本当なのか分からなくなってしまった人に向け、歴史の専門家がアプローチ方法を分かりやすく教えてくれる本です。ホロコーストを題材にしていますが、従軍慰安婦などの問題を相似で考えられると思います。ホロコーストは年月がたって関係者が亡くなったこともあり、その存在を否定する人が出てきました。あれだけ記録フィルムや証言が残っている物事を否定するなどばかげていると、専門家たちは相手にしていませんでした。ところがこれが原因で、否定派は一般レベルでじわじわ浸透していき、気が付けば仏「ル・モンド」紙のような高級紙でも、「ホロコーストはあった派」と「なかった派」を両論併記で特集する事態になりました。特に今は、インターネットで自分の読みたい情報しか読まずに済ませることが可能で、フェイク・ニュースを信じやすい土壌が整っています。そんななか、あきらめず実証的に粘り強く検証していくことの重要性が説かれています。

明るい未来

『学校の「当たり前」をやめた。』は、ユニークな学校改革についてです。千代田区立麹町中学校の校長だった工藤さんは、服装検査から宿題に至るまで全てを廃しました。このような人が日本にもいるという事実に僕は大変驚き、対談もさせてもらいました。中学生に大事なのは勉強や社会に出る準備をすることで、規則を盲目的に守ることではありません。現在、ダイバーシティという社会的価値観から一番遠いところにあり、「世間」が最も色濃く残るシステムは学校と役所でしょう。学校は「社会」とシームレスにつながらなくてはいけないという工藤さんの考えは、日本の学校教育における希望の光です。最後に、『ザリガニの鳴くところ』は2020年のベストセラーですが、これは僕がコロナ禍で非常にしんどかったときに救われた本。作者が動物学者なので自然描写がきめ細かく素晴らしい。読んだ後に幸せな気持ちになること間違いなしの、おすすめの小説です。僕が選んだ4冊は、どれも希望が根底にあると思いますよ。

鴻上尚史さんおすすめの4冊

同調圧力 日本社会はなぜ息苦しいのか

同調圧力 日本社会はなぜ息苦しいのか

鴻上尚史、佐藤直樹 著
講談社現代新書

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新型コロナウイルスがあぶり出したのは、日本独自の「世間」だった。長年この問題と格闘してきた二人が、自粛、自己責任、忖度などの背後に潜む日本社会の「闇」を暴く。

学校の「当たり前」をやめた。― 生徒も教師も変わる!公立名門中学校長の改革 ―

学校の「当たり前」をやめた。― 生徒も教師も変わる!公立名門中学校長の改革 ―

工藤勇一 著
時事通信社

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次世代を担う子どもたちにとって必要な学校の形を追求した、区立麹町中学校の工藤勇一元校長による学校改革の理念とその全貌を追う。学校関連でアマゾン・ベストセラー第1位。

歴史修正主義 - ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで

歴史修正主義 - ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで

武井彩佳 著
中公新書

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1980年代以降に世界各地で噴出したホロコースト否定論をもとに、本書ではその主張がどのように生まれたかを検証。欧米の歴史修正主義の実態を追い、歴史とは何か、事実とは何かを問う。

ザリガニの鳴くところ

ザリガニの鳴くところ

ディーリア・オーエンズ 著、友廣純 訳、しらこ 挿画、早川書房デザイン室 装丁
早川書房

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2021年本屋大賞翻訳小説部門で第1位に輝いた作品。人種差別やジェンダー、環境など重層的なテーマをミステリーかつ少女の成長物語に落とし込んだ名作。原題は『Where the Crawdads Sing』。

「職業: ドイツ人」が選ぶドイツと日本の4冊マライ・メントライン

Marei Mentlein マライ・メントライン

Marei Mentlein マライ・メントライン

独北部キール出身で、日本在住14年目。ドイツにまつわる仕事なら何でもこなす「職業:ドイツ人」を自称し、翻訳・通訳や執筆、テレビ局プロデューサーなど、幅広い活動を展開している。

読書はドイツ語or日本語?

自分が楽しむ目的なら、ドイツ語の小説か、日本のマンガをよく読みます。日本語の本だとネイティブの3分の1くらいのスピードになりますが、一行一行丁寧に読むからこそ、じっくり内容が頭に入ってくる感じがします。また日本の出版社からドイツのミステリーを紹介する仕事をいただいたのがきっかけで、ミステリー小説を読むことが多いです。

新しい視点をくれる日独の4冊

『14歳、ぼくらの疾走』の主人公マイクとチックは、子どものピュアさが残りつつ、大人の社会に対して疑問を抱き始める14歳という年齢。旧東ドイツのエリアを車で走る二人の目を通して、さまざまな矛盾を抱える大人の社会が見事に描かれていて、大人が読んでも満足できる作品ですね。

社会実験的な演劇の戯曲として書かれた『テロ』では、ハイジャックされた飛行機を撃ち落とした独空軍少佐の裁判が展開されます。演劇のラストでは、観客自身が有罪か無罪に投票。その結果によってエンディングが変わるのですが、この作品がすごいのは、どちらでも納得のいく説明がされるところ。法律は絶対的なものではなく、グレーゾーンも存在する。法哲学とは何かを考えさせられます。

地球温暖化が進み人類末期なのに、ものすごく穏やかな世界を描いた『ヨコハマ買い出し紀行』。主人公はロボットだけど誰よりも人間的ですし、人が少ないからこその温かい人付き合いがあったり。実際、先進国では人口が減少しており、いずれ人類によって地球環境が破壊されてしまうかもしれません。もしそうなったら、私たちは「最後」とどう向き合うのか、どのようにソフトランディングできるのか。こんな世界の終わり方もあるのだと思わせてくれる、不思議で美しい物語です。

『超空気支配社会』の著者である辻田さんは、日本語でいうところの「是々非々」な方で、落ち着いた視点をお持ちです。この本は辻田さんのコラムなどを1冊にまとめたもので、メディアのあり方や、オリンピック、コロナなど、最近の社会的なテーマが出てきます。特に昨今のネット上の議論では、右がこう左がこう、といった極論のバトル状態になっていますが、そんななかで冷静なスタンスとは何かを分からせてくれる本だと思います。

日独をつなぐバランス感覚

私自身が発信するときは、日本とドイツそれぞれの良いところと悪いところについて、どちらかに偏らずにバランス良く紹介することを大切にしています。あと「ドイツ人は真面目」というイメージを持つ日本人が多いですが、実はおちゃめな人もたくさんいるし、ゆるいところもあるので、そういった面を積極的に伝えたい(笑)。また今はドイツのことを日本に紹介する仕事が多いですが、昨年の東京オリンピックの際にはドイツの公共放送で開会式のコメンテーターを務めました。ドイツの視聴者に向けて日本の社会や文化について解説するなかで、ドイツにもっと日本の面白いところなどを伝えたい、と改めて思い出して。今後はそういう機会も増やせればうれしいです。

マライ・メントラインさんおすすめの4冊

14歳、ぼくらの疾走: マイクとチック

14歳、ぼくらの疾走: マイクとチック

ヴォルフガング・ヘルンドルフ 著、木本栄 訳
小峰書店

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退屈な日々を過ごす、ギムナジウム8年生のマイク。破天荒な転校生のチックと出会ったことで、刺激的な一夏が幕を開ける。オンボロ車を無断で拝借し、二人は自由な旅に出るのだった。

テロ

テロ

フェルディナント・フォン・シーラッハ 著、酒寄 進一 訳
東京創元社

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ドイツ上空でハイジャックされた旅客機を独断で狙撃し、164人の乗客を殺して市民7万人を救った空軍少佐。彼は英雄か、殺人者か? 有罪と無罪、二通りの結末が用意された法廷劇。

ヨコハマ買い出し紀行(1)

ヨコハマ買い出し紀行(1)

芦奈野ひとし 著
講談社コミックス

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舞台は近未来の日本。地球温暖化によって水没しつつあるこの世界で、カフェを営むロボット・アルファさんを中心に、滅びゆく時代を緩やかに生きる人々の暮らしが描かれる。

超空気支配社会

超空気支配社会

辻田真佐憲 著
文藝春秋

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SNSの炎上やコロナ禍、オリンピックなど、「空気」の圧力が覆う現代日本を読み解く。何かと右と左に分類されがちな世の中で、どちらにも行き過ぎない筆者の冷静な立ち位置に注目。

リチャード・ロイド・パリー

Richard Lloyd-Parry リチャード・ロイド・パリー

Richard Lloyd-Parry リチャード・ロイド・パリー

英「タイムズ」紙のアジア編集長・東京支局長。1995年より東京在住。著書に東日本大震災被災者の内面に迫った『津波の霊たち: 3・11 死と生の物語』ほかがある。

本の新旧にかかわらず、今の時代に呼応する3冊を選びました。まず、冷戦時代に書かれたジョージ・オーウェルの『Nineteen Eighty-Four』は、全ての時代に当てはまる偉大な本です。この本に描かれた権力者が言語を駆使して現在と過去を操作するやり口は、グローバルな規模で新たな分裂が起きている現代にはとりわけ意味があり、世に警鐘を鳴らすものだと思います。

次に、テッド・ヒューズは英国で「自然の詩人」と呼ばれていますが、牧歌的なイメージとは程遠く、動物、鳥、自然界に関する強烈なイメージを持った作品です。それらが伝えるエネルギーは、自然自体が脅威にさらされている今こそ参考にすべきだといっていいでしょう。

最後に、南アフリカのノーベル賞作家J. M.クッツェーによる『Disgrace』は、現在の「文化的対立」が勃発するずっと以前に発表されました。ある女子学生と関係を持った白人の男性教授にもたらされる破滅を描いたこの小説は、権力、特権、搾取、人種など、今日議論されている多くの主題に正面から取り組んでいます。

リチャード・ロイド・パリーさんおすすめの3冊

Nineteen Eighty-Four

Nineteen Eighty-Four

George Orwell 著
Penguin Classics

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New and Selected Poems 1957-1994

New and Selected Poems 1957-1994

Ted Hughes 著
Faber and Faber Ltd.

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Disgrace

Disgrace

J. M. Coetzee 著
Vintage/Penguin

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石沢麻依

Mai Ishizawa 石沢麻依

Mai Ishizawa 石沢麻依

1980年、宮城県生まれ。東北大学大学院文学研究科修士課程修了。ドイツ美術史の研究のため、2015年からドイツ在住。昨年『貝に続く場所にて』(講談社)で第165回芥川賞を受賞した。

「越境」という言葉は空間だけではなく時間にも及び、常に断絶や連続の感覚と切り離せないのかもしれません。この主題を真摯に扱ってきた作家に、W・G・ゼーバルトがいます。『移民たち 四つの長い物語』は、移民もしくは亡命者の四人の人生を通して、土地と結びつく過去が描かれています。四人は異郷にあっても置き去りにされた過去が追いついてきて、記憶の中ではそこに戻ってしまうのです。

それとは逆に、ヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』で探し求められるのは、故郷や失われた土地ではなく、自分が自分らしく生きてゆける場所。その空間を得られなかった女性たちの生の姿、ウルフの生きた時代、さらに遠い先の社会へと連続性を紡ぎ、「共通の生」について扱っている本です。

そして、トーベ・ヤンソンの『ムーミン谷の冬』は、例年より早く冬眠から目覚めたムーミンが、冬という見知らぬ世界を巡る物語。見慣れた土地の見知らぬ姿に孤独にさいなまれますが、やがて世界が断絶しているのではなく、連続していることに気付きます。そのとき、彼は恐ろしく美しいものを見いだした越境者となるのです。

石沢麻依さんおすすめの3冊

移民たち 四つの長い物語

移民たち 四つの長い物語

W・G・ゼーバルト 著 鈴木仁子 訳
白水社

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自分ひとりの部屋

自分ひとりの部屋

ヴァージニア・ウルフ 著 片山亜紀 訳
平凡社

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ムーミン谷の冬

ムーミン谷の冬

トーベ・ヤンソン 著、山室静 訳
講談社

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中村真人

Masato Nakamura 中村真人

Masato Nakamura 中村真人

ライター。神奈川県横須賀市出身。早稲田大学第一文学部を卒業後、2000年よりベルリン在住。著書に『ベルリンガイドブック』(学研プラス)など。 http://berlinhbf.com

なかなか旅行ができないこのご時世、旅をテーマに選んでみました。『旅の終りは個室寝台車』は、私が小学3年のときに初めて親に買ってもらった鉄道紀行文。写真が1枚も使われていないにもかかわらず、ひなびた鈍行列車の車内から冬の北海道の荘厳な風景までもが脳裏に浮かんできます。宮脇さんの簡素な文体と味わい深い描写は今も私のお手本です。

『忘れられた日本人』は、著名な民俗学者の代表作。戦前の日本各地に住む老人や女性の声を丹念に拾い上げています。「単なる懐古としてではなく、現在につながる問題として、老人たちのはたして来た役割を考えて見たくなった」(あとがきより)という姿勢からは多くを学びました。

『転がる香港に苔は生えない』は、1997年の香港返還前夜の2年間を描いた記録。人への好奇心と洞察力がすごく、20世紀末に一度だけ旅したことのある自分には懐かしくもあり、同時に現在の香港への複雑な思いもよぎります。コロナ禍の最初の夏に電子書籍リーダーを購入して以来、読書時間が飛躍的に増えました。古典から最新刊、再読したい本までが一つに収まる電子書籍は私にとって革命的でした。

中村真人さんおすすめの3冊

旅の終りは個室寝台車

旅の終りは個室寝台車

宮脇俊三 著
河出文庫

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忘れられた日本人

忘れられた日本人

宮本常一 著
岩波文庫

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転がる香港に苔は生えない

転がる香港に苔は生えない

星野博美 著
文春文庫

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グレアム・ロレンス

Graeme Lawrence グレアム・ロレンス

Graeme Lawrence グレアム・ロレンス

複数の日系企業勤務、異文化コンサルタントを経て、現在社内通訳者・翻訳者。静岡県立大学国際関係学部卒。2019年のSOASビジネス日本語スピーチ・コンテスト優勝。

元FBI交渉人が書いた『Never Split the Difference』は、銀行強盗や誘拐事件で磨いた交渉術のトリセツ。学問的なアプローチではなく、著者の実体験に基づいた技を学べます。ビジネスと私生活の両方に役立つ内容です。

次の『The Culture Map』は、異文化理解のための素晴らしいマニュアル。私が日本留学時代から携わっている分野なので、うなずきながら読んでいたビジネス書です。世界中の人々とコミュニケーションを取る人におすすめです。

最後は『カーネギー名言集』。対人スキルを上げるプログラムを開発したデール・カーネギーのリーダシップ育成コースを受講したばかりなので、最近同氏の名作を数冊読み直しました。80年前に書かれた本ですが、不安が募っているコロナ時代の今だからこそ必要かもしれません。戦前の人々の知恵が満載の作品です。パンデミックになってから、電子書籍を以前よりたくさん読むようになりましたが、最近「紙」の良さを再発見しました。理由の一つは、電子書籍だと内容があまり記憶に残らないから。先日、1年半ぶりに本屋に入ったら「この空間がいいな」とつくづく感じました。

グレアム・ロレンスさんおすすめの3冊

Never Split the Difference: Negotiating as if Your Life Depended on It

Never Split the Difference: Negotiating as if Your Life Depended on It

Chris Voss、Tahl Raz 著
Random House Business/Penguin

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The Culture Map

The Culture Map

Erin Meyer 著
PublicAffairs

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新装版 カーネギー名言集

新装版 カーネギー名言集

ドロシー・カーネギー 編、神島 康 訳
創元社

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原サチコ

Sachiko Hara 原サチコ

Sachiko Hara 原サチコ

2001年ドイツに移住。04年東洋人として初めてウィーン・ブルク劇場の専属俳優に。以後、日本人唯一のドイツ語圏公立劇場専属女優として活躍中。現在ハンブルク・ドイツ劇場に所属。

ロックダウン中、私はスイスに住んでいて、『『ハイジ』の生まれた世界』を夢中になって読みました。この本では『アルプスの少女ハイジ』の作者、ヨハンナ・シュピーリの波乱万丈な人生、またハイジが生きた時代背景を掘り下げて解説しています。ドイツにまた戻ろうと決心した後にロックダウンが始まったので、この本を読んでまた違う角度からスイスを見ることができました。

身体的には野口晴哉先生の『整体入門』が役立ちました。実は幼い頃病弱だったのですが、野口整体のおかげで丈夫になった経験があります。特別な道具もいらず、自己治療力を高め、体も心も整えられるイメージですね。先生の考え方は今でも私の助けになっています。

お守り的な本としては、ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)が2017年にノーベル平和賞を受賞したときにスピーチをしたサーロー節子さんの『光に向かって這っていけ』。それ以前から私は広島原爆の記憶を伝える活動「ヒロシマ・サロン」を行っていますが、この本を読むと私の活動の意義を再確認することができ、勇気を与えてくれます。

原サチコさんおすすめの3冊

ハイジ』の生まれた世界: ヨハンナ・シュピーリと近代スイス

ハイジ』の生まれた世界: ヨハンナ・シュピーリと近代スイス

森田安一 著
教文館

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整体入門

整体入門

野口晴哉 著
ちくま文庫

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光に向かって這っていけ: 核なき世界を追い求めて

光に向かって這っていけ: 核なき世界を追い求めて

サーロー節子、金崎由美 著
岩波書店

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川合亮平

Ryohei Kawai 川合亮平

Ryohei Kawai 川合亮平

通訳者・翻訳者。著書に『なんでやねんを英語で言えますか?』(KADOKAWA)をはじめ、翻訳書などを多数出版。東京五輪のビジネス会議、俳優へのインタビューなど多岐にわたる通訳に携わる。

新型コロナの流行により、物語に現実逃避する重要性というのが増しました。なんだかよく分からないパンデミックな現実の傍らで、何もかも忘れて本の中のストーリーに没頭するのが、これまでにも増して個人的にとても重要な時間になりました。僕のおすすめは、アンソニー・ホロヴィッツの『The Word Is Murder』です。洋書ミステリーってこんなに面白いものなのかと衝撃を受けました。「洋書ミステリーを読む」という趣味以上の楽しみが増えるきっかけになった一冊です。

また村上春樹の「職業としての小説家」から、働くことに関してとても良い影響を受けました。それは僕が長らくフリーランスとして仕事をしており、人の仕事に対する姿勢、特にクリエイティブな仕事をしている方の仕事に対する日々のDiscipline(規律)に興味があるからです。

おなじみの人気シリーズより『Harry Potter and the Goblet of Fire』は、「血湧き肉躍る読書体験」というものを初めて味わった一冊です。それまで「そんなことホントにあるのかな?」と半信半疑でしたが、クライマックスまで本を置けませんでした。

川合亮平さんおすすめの3冊

The Word Is Murder

The Word Is Murder

Anthony Horowitz 著
Arrow/Penguin

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職業としての小説家

職業としての小説家

村上春樹 著
新潮社

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Harry Potter and the Goblet of Fire

Harry Potter and the Goblet of Fire

J.K. Rowling 著
Bloomsbury Publishing

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村上敦

Atsushi Murakami 村上敦

Atsushi Murakami 村上敦

ドイツ在住ジャーナリスト、環境コンサルタント。日本で土木工学部、ゼネコン勤務を経て、環境問題を意識し、フライブルクに留学。ドイツの環境・都市・エネルギー政策などを日本に紹介している。

伝説的な起業家であるピーター・ティールが母校スタンフォード大学で行った講義をまとめた『ゼロ・トゥ・ワン 君はゼロから何を生み出せるか』。そして、メルケル前独首相のアドバイザーとしても知られる文明評論家のジェレミー・リフキンによる『限界費用ゼロ社会』。この2冊は、気候変動・温暖化対策を推進する国際社会や、人口縮小社会に突入した日本において、過去に社会システムがどのような形で変革されてきたのかを考える際に参考になる本でした。今後の見通しについて、自身の意見を持ちやすくするための良書といえると思います。

また、1972年に地球の限界に警鐘を鳴らしたことで話題となった『成長の限界』は、私自身が環境・工学・科学系のジャーナリストとして活動していく際に、何度も初心に立ち返って読み返している本。未来のことは誰も正確には予測できませんが、確からしい情報を提供するという生業においては、バイブルのような存在です。

村上敦さんおすすめの3冊

ゼロ・トゥ・ワン 君はゼロから何を生み出せるか

ゼロ・トゥ・ワン 君はゼロから何を生み出せるか

ピーター・ティール、ブレイク・マスターズ 著瀧本哲史 序文、関美和 訳
NHK出版

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限界費用ゼロ社会〈モノのインターネット〉と共有型経済の台頭

限界費用ゼロ社会〈モノのインターネット〉と共有型経済の台頭

ジェレミー・リフキン 著、柴田裕之 訳
NHK出版

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成長の限界 - ローマ・クラブ「人類の危機」レポート

成長の限界 - ローマ・クラブ「人類の危機」レポート

D・H・メドウズほか 著、大来佐武郎 監訳
ダイヤモンド社

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関口涼子

Ryoko Sekiguchi 関口涼子

Ryoko Sekiguchi 関口涼子

1989年、第26回現代詩手帖賞受賞。1997年に渡仏し、自作のフランス語訳や日本文学書、マンガ作品の仏語訳も数多く手掛けている。2012年フランス政府から芸術文化勲章シュヴァリエを受章。

『料理と利他』はコロナ禍にオンラインで行われた、料理研究家と政治学者の対談。人とのつながりについて誰もが考え直す機会になった今だからこそ、人のために食べ物を作るとはどういうことかなど、日常に結びつく大事なテーマが掘り下げられています。

『最後の挨拶』は、シャーロック・ホームズの翻訳者だった父をもつ小林エリカが自らの家族をモデルに紡いだ物語です。コナン・ドイルと第一次世界大戦、広島の原爆投下、東日本大震災などがデリケートな線でつながれ、歴史における人々の死、そして個人にとっての死において、文学にできることが語られます。

『離れがたき二人』はシモーヌ・ド・ボーヴォワールの自伝的小説で、若き日に結んだ女性同士の友愛、自由への渇望、そして、女性が自分らしく生きようとすることの難しさが、みずみずしい筆致で描かれています。今から100年ほど前の物語ですが、現在でも女性が自分自身の人生を選び取ることがどれほど難しいかを考えると、この本は今なお、いや今だからこそ読まれる意義をもつと思います。

関口涼子さんおすすめの3冊

料理と利他

料理と利他

土井善晴、中島岳志 著
ミシマ社

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最後の挨拶

最後の挨拶

小林エリカ 著
講談社

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離れがたき二人

離れがたき二人

シモーヌ・ド・ボーヴォワール 著、関口涼子 訳、名久井直子 装丁
早川書房

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ペトル・ホリー

Petr Holy ペトル・ホリー

Petr Holy ペトル・ホリー

1997年カレル大学日本学科卒業後、国費留学生として日本へ。駐日チェコ共和国大使館一等書記官兼チェコセンター東京初代所長を経て、チェコ文化発信サイト「チェコ蔵」をオープン。

『シブヤで目覚めて』はチェコ文学新人賞を総なめした小説家アンナ・ツィマの鮮烈なデビュー作。自分の「想い」があらゆる場所に同時に存在し、プラハと東京が重なり合います。欧州と日本の両方を知って、住んでいる皆さんだからこそ読んでいただきたい新世代幻想ジャパネスク小説です。

『火の鳥ときつねのリシカ』は子どもの頃、祖父や母親によく読み聞かせてもらったチェコの童話や民話など24話が1冊になっている本。それに加えてチェコで活躍するイラストレーター、出久根育さんの挿絵もとってもすてきです。昔話は民族の知恵と勇気が詰まっているのでおすすめします。

そしてプラハで1920年代のプラハ美術の最先端の舞台美術を手がけていたチェコの建築家・美術家フォイエルシュタインについて書かれている『ベドジフ・フォイエルシュタインと日本』。彼は日本のモダニズム建築への貢献を果たし、チェコではジャポニスムの実践など、国際交流を通して驚くべき偉業を成し遂げました。このような交流が生み出す大切さを改めて感じることができる本です。

ペトル・ホリーさんおすすめの3冊

シブヤで目覚めて

シブヤで目覚めて

アンナ・ツィマ 著、阿部賢一、須藤輝彦 訳
河出書房新社

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火の鳥ときつねのリシカ

火の鳥ときつねのリシカ

出久根育 著・イラスト、木村有子 編集・訳
岩波書店

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ベドジフ・フォイエルシュタインと日本

ベドジフ・フォイエルシュタインと日本

ヘレナ・チャプコヴァー 著、阿部賢一 訳
成文社

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ふたりぱぱ みっつん

FutariPapa Mittsun ふたりぱぱ みっつん

FutariPapa Mittsun ふたりぱぱ みっつん

ブロガー、YouTuber、翻訳家。スウェーデン人の夫と同国の法律の下結婚し、その後、代理母出産により男児を授かる。スウェーデンの文化やLGBTQ、育児などについて発信している。

『チャックより愛をこめて』は、黒柳徹子さんが30代で全ての仕事をキャンセルし、1970年代の米ニューヨークへと1年間留学した時のエッセイです。当時の文化が爆発しているような独特なニューヨークの雰囲気が、徹子さんの純粋な目を通して生き生きと描かれます。

『深夜特急』は、著者の沢木耕太郎さんが香港からロンドンまで寄り合いバスで旅をするお話。1996〜98年に大沢たかおさん主演で制作されたドラマに、当時15歳くらいだった僕はぐいぐい引き込まれ、原作も一気に読みました。本の中では「また一つ自由になれた気がした」といった表現がよく出てくるのですが、30代でインドを旅した時はまさにそれを体感しましたね。若い頃は、これらの本を通して海外に憧れつつも、まさか自分が移住するとは思ってもみなかったので、今となっては不思議な感じです。

そして『RESPECT』は、10代の男の子向けに書かれた愛と性、性的同意についてのスウェーデンの本で、今回初めて邦訳を手掛けました。タイトルに「リスペクト」とあるように、相手の存在自体をリスペクトすることで、セックスの相手だけでなく、他者と共存していくために必要なスキルや考え方を改めて学ぶことができる一冊です。

ふたりぱぱ みっつんさんおすすめの3冊

チャックより愛をこめて

チャックより愛をこめて

黒柳徹子 著
文藝春秋

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深夜特急1 ―香港・マカオ―

深夜特急1 ―香港・マカオ―

沢木耕太郎 著
新潮社

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RESPECT 男の子が知っておきたいセックスのすべて

RESPECT 男の子が知っておきたいセックスのすべて

インティ・シャベス・ペレス 著、みっつん 訳
現代書館

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フォトコンテスト2021 受賞者発表!

ニュースダイジェスト主催 フォトコンテスト2021 受賞者発表!

毎回多くの力作が届くニュースダイジェスト主催のフォトコンテスト。第10回となる今年は新型コロナウイルスの影響で、これまでの生活が一変したり、何気ない日常のなかに新しい喜びを見いだしたりと、いつもとは違う思いで過ごした方々の作品が集まりました。その中から選び抜かれた、今年の受賞作を早速見ていきましょう! 

テーマ「コロナ禍の小さな幸せ」

大賞マチュア部門大賞

「早くコロナが収まりますように」 石川 佳里奈さん(英国)

「早くコロナが収まりますように」石川 佳里奈さん

コロナ禍で大学の卒業式もなくすぐに就職のため、レジデンスで過ごしていたあるとき、大雨の後に突然ロンドン市内に半円の大きな虹が出現。消える前に夢中で撮りました。英国では多くの人が「虹」の絵を描いて、NHS への感謝と希望の思いを窓に飾っていたことを思い出し、見ていると幸運が舞い込んで来るようでした。

審査員コメント

この作者のような機動力は大切ですね。美しい一瞬に出会ったとき、躊躇(ちゅうちょ)していればすぐに消えてしまうこともしばしばです。また、この写真は美しいだけではなく、自由に外に出られない状況で、ここに写っている窓の一つひとつに住民が住んでおり、大きく円を描く虹を皆がどこかで見ているという、人とつながっている希望も感じられる素晴らしい写真です。
by Canon Europe
Canon Europe

大賞 キッズ部門大賞

「白ウサギ捕まえたよ!」 渡辺 澪(みお)さん(4歳・英国)

「白ウサギ捕まえたよ!」渡辺 澪さん(4歳)

新型コロナの影響で海外に行きにくくなった分、英国内のいろいろな場所を巡った1年でした。この写真はロンドンの南西部にあるギルフォードで撮ったもので、アリスが捕まえ逃した白ウサギを捕まえて! と言うママの言葉を合図に、皆がポーズを取りました。

審査員コメント

2人の表情と対照的な銅像の少女2人をきちんと画面に入れているのがすごいです。「不思議の国のアリス」を想起させる女の子の服装にウサギの銅像。ルイス・キャロルの物語の世界にこのまま入っていきそうですね。
by Canon Europe
Canon Europe

マチュア部門入賞

「Bliss」 マッキー ぱぴさん(英国)

「Bliss」マッキー ぱぴさん

この写真は、コロナの影響で5カ月間、日本とスコットランドで離ればなれになってしまった私たち5人家族が、やっとまた一緒に生活を始めた最初の休みで行ったビーチでの1枚です。娘の躍動感がそのうれしさを体現しているようで家族の大好きな1枚です。その写真が気に入っていただけて、とてもうれしく思っています。

審査員コメント

真ん中に位置したスコットランドの遠景を境に、夢の世界を思わせる真っ白の雲と青い空が上半分、その雲と空の映った光沢感のある海が下半分と、絶妙に配置された芸術性の高い作品です。地球の表面にも見える海に浮かぶ女の子の軽やかな姿から、彼女の喜びと未来への希望が強く感じられます。
by Takara Shuzo
宝酒造

マチュア部門入賞

「電車鑑賞」 高山 美紀さん(英国)

「電車鑑賞」高山 美紀さん

なかなか遠出もできないなか、久しぶりのお出掛けをした帰りに駅のホームで撮った1枚です。黙って後ろに手を組み、大好きな電車を飽きることなく眺め続ける息子を見て、美術鑑賞をしているみたいだなぁと思い撮影しました。これからも、ささやかな日常の一コマを子どもの成長と共に撮っていきたいと思います。

審査員コメント

手を後ろに組んで、体をやや傾けながら、熱心に電車を見ている男の子の後ろ姿、本当にかわいらしい。皆マスクを着け、乗客もまばらですが、電車を間近に見られて、なによりの1日だったことがよく表現されています。まさにテーマの「コロナ禍の小さな幸せ」ですね。
by JSTV
JSTV

キッズ部門入賞

「手作りお菓子でちょっぴり幸せ」 橋本 衿香(えりか)さん(12歳・英国)

「手作りお菓子でちょっぴり幸せ」 橋本 衿香(えりか)さん(12歳)

賞をいただけると聞いて、とても喜んでいます。私はお菓子作りが趣味で、出来上がったお菓子を携帯電話のカメラで毎回記録しています。この日は天気が良かったので、焼いて丸めたばかりのラングドシャを庭で撮影することにしました。庭の緑を背景に、お菓子に夕日があたっているところが気に入っています。

審査員コメント

コロナ禍で在宅時間が増え、いつもと違う自宅での楽しみ方を見つけた方は多いですが、もともと好きなお菓子作りの腕もさぞ上がったことでしょう。自分の作ったお菓子を早く食べたい気持ちを抑えて撮ってくれた写真に感動しました。
by SAKAI Transeuro Ltd.
SAKAI Transeuro LTD.

審査員総評

今年も素晴らしい作品が勢ぞろいし、大変審査の難しいコンテストでした。コロナ禍にあって、例年より家族を題材にした作品が多く集まったのが今回の特徴ではないでしょうか。また、携帯電話のカメラの性能が向上したことも実感しました。瞬間を捉えるチャンスが増え、今後「写真」というイメージはますます進化していくのでしょう。

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英国 マチュア部門 次点作品

「小ちゃいのみーつけた!」サミュエル 菊美さん「小ちゃいのみーつけた!」サミュエル 菊美さん

「イギリスの夏」石崎 晴美さん「イギリスの夏」石崎 晴美さん

「我が家のペンキ職人」ミサ・ミードさん「我が家のペンキ職人」ミサ・ミードさん

 

英国のアール・デコ(ART DECO)建築と今 - 誰もが秀麗な建物を共有できた時代

誰もが秀麗な建物を共有できた時代
英国のアール・デコ建築と今

1920〜40年代にかけて建設され、1955年に完成したバタシー・パワー・ステーション。アール・デコの豪華な内装、外部の堅牢なデザインは「temple of power」(電力の聖堂)と賞賛された1920〜40年代にかけて建設され、1955年に完成したバタシー・パワー・ステーション。アール・デコの豪華な内装、外部の堅牢なデザインは「temple of power」(電力の聖堂)と賞賛された

英国における建物の価値は、古ければ古いほど上がるとされており、新しい建物が良しとされる日本とは正反対だ。短期間で花開いたアール・デコ建築はエリアを問わず新旧さまざまな建物が立ち並ぶロンドンの街に、今もひっそりと息づいている。今回は、ロンドンを中心に英国におけるアール・デコ建築の歴史と現存する建物、その保存法について調べてみた。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.english-heritage.org.uk, www-purcelluk-com, historicengland.org.uk, www.telegraph.co.uk, www.theguardian.com ほか

多様なデザインのアール・デコ

「アール・デコ」という言葉は頻繁に聞かれるワードだが、歴史の表舞台に登場し、世間をにぎわせたのは1910~30年代の30年余りと意外にも短い。しかしながら、これほどまでに知られているのは、いくつかの理由がある。まず、アール・デコが当時の米国、欧州地域の建築分野における新しい時代の象徴だったこと、アール・デコという単一のデザインは存在せず、異彩を放つさまざまなスタイルの総称だったため、我々が思うはるかに広い定義で人々に知れ渡っていたこと、そして建築のみならず家具やジュエリー、ファッション、自動車、公共交通機関など日常のあらゆるものに同様式が使われていたことが挙げられる。

19世紀末から20世紀初頭にかけて流行したアール・ヌーヴォー様式の建築から、よりモダンなデザインのアール・デコ様式へ移行が始まったのが第一次世界大戦ごろ。アール・デコは、1925年に開催されたパリ万国装飾美術博覧会「Exposition Internationale des Arts Décoratifs et Industriels modernes」の名称にちなんで「Art Déco」と呼ばれるようになり、米国や欧州を中心に広がっていった。「装飾美術」という意味の略語の通り、そのデザインは大まかに直線的、幾何学的、合理的なデザインが特徴。植物をモチーフにした、曲線的なアール・ヌーヴォーから離れ、当時の最新の土木時術を駆使し、鉄筋コンクリートを使った大規模な建物が作られていった。代表的な作品は、米ニューヨークのクライスラー・ビルディグやエンパイア・ステート・ビルディング、仏パリのシャンゼリゼ劇場などがある。

1930年に完成した米ニューヨークのクライスラー・ビルディング1930年に完成した米ニューヨークのクライスラー・ビルディング

未来を象徴する海辺の建築の盛衰

英国でのアール・デコ建築は1920~30年代にかけて、全土に広がりをみせた。アール・デコの基本コンセプトである「体積の大きさ、スペースの広さ」は特に海辺の商業施設に反映され、大きく開いたエントランス、開放的なルーフ・テラス、大きなガラス窓など、それまでの建築物になかった外部との広い接点を持つモダニズム建築として、実に多くの施設が誕生した。このときの英国は、第一次世界大戦が終結し、戦争には勝利したものの時代のムードとしては「再編」のとき。また、中産階級という新たな社会階級が生まれ、勢いを伸ばしていた時代でもあった。

ヴィクトリア朝時代の建物が多く残るなか、1930年代には、ライド(屋外プール)、パヴィリオン、ホテルなど娯楽にまつわる施設が続々と建設される。市井の人々は建物を通じて来たる明るい未来を想像し、そして高揚感をもってこれらの建物を歓迎した。

しかしながら、アール・デコのかじ取り役であった米国で世界恐慌が起こり、アール・デコの象徴であったモダニズムが1930年代から第二次世界大戦勃発前に衰退。一方英国ではそのような風潮に加え、観光施設でもあった海辺の施設が後に経営難に陥ったり、飛び込み台の高さや強度、プールの水深など時代によって厳しくなる安全上の都合から、改修工事または取り壊しを余儀なくされたりなどで、じりじりと姿を消していくことになる。

かつて英東部スカボローにあったノース・ベイ・バスィング・プール。2007年に閉鎖された後、住宅地用の道路を作るために取り壊されてしまったかつて英東部スカボローにあったノース・ベイ・バスィング・プール。2007年に閉鎖された後、住宅地用の道路を作るために取り壊されてしまった

コミュニティーに欠かせないデザイン

同時期のロンドンでも、商業施設や工場のデザイン、地下鉄、などさまざまなタイプの建物に同デザインが利用された。現在アール・デコ建築のGrade II* に指定されている1933年に作られたフーヴァー・ビルディング(Hoover Building)や、Grade IIに指定の1936年ごろに完成したリポールツ・ファクトリー(Ripaults Factory)、Grade II* のバタシー・パワー・ステーション(Battersea Power Station)など、当初の使い方ではなくなったり、オーナーが変わったりしても、何かしらの形で利用され、現存する建物は非常に多い。

前述のライドもそうだが、アール・デコ建築の大きな特徴は誰もが利用できる施設に多用されたデザインであったこと。映画館やシアターなど娯楽施設にデザイン性が加わることで、建物があるエリアの文化的要素もまた深めていき、人々に広く愛された。

ここではロンドン北部を中心にいくつかの有名な建物をみてみよう。

リポールツ・ファクトリーは現在工務店の店舗として使われているリポールツ・ファクトリーは現在工務店の店舗として使われている

映画館

PHOENIX CINEMA

Grade IIに指定されている、イースト・フィンチリーにある現役のコミュニティー・シネマ。1910年に建てられ、30年代にアール・デコ様式に再建された貴重な建物だ。外観のバルコニー、内装の装飾パネルなど美しいパーツが数多く残されている。

52 High Road N2 9PJ
地下鉄East Finchley駅

PHOENIX CINEMA

PHOENIX CINEMA

映画館

Everyman Barnet

現役の「エブリマン」系列の映画館で、Grade IIに指定されている。1930年代オープン当時はオデオン・シネマとして営業されていた。小規模ながら大理石の柱とバルコニー付きの豪奢なデザインで、かつてのチケット売り場など、当時の面影が残されている。

Great North Road EN5 1AB
地下鉄High Barnet駅

Everyman Barnet

Everyman Barnet

地下鉄駅

OAKWOOD UNDERGROUND STATION

1933年に開業したピカデリー線の駅。ロンドン地下鉄の駅舎デザインを担当したチャールズ・ホールデンによるもので、ホールは2階分の高さをもつ立方体を二つ横に並べた「ダブル・キューブ」と呼ばれる古典的なデザインが採用されている。

London N14 4UT
地下鉄Oakwood駅

OAKWOOD UNDERGROUND STATION

OAKWOOD UNDERGROUND STATIONでに

映画館

GAUMONT STATE CINEMA

1937年にオープンした映画館。建設当時、英国で最大の映画館であり、4004席の収容人数を誇った。120フィート(約36メートル)の高層タワーが特徴で、現在は建物の一部が宗教施設、コミュニティー・センターとして使用されている。

197 Kilburn High Road NW6 7HY
オーバーグラウンドKilburn High Road/Brondesbury駅

GAUMONT STATE CINEMA

住居

THE WHITE HOUSE

保健省(the Ministry of Health)の建築部門で働いていたチャールズ・エヴェリン・シモンズによって設計された6ベッドルームの住居。Grade II指定の建物は、カーブを描く窓が特徴。1930年代当時に作られた一般住居にしてはかなり大きかった。

72 Downage NW4 1HP
地下鉄Colindale/Mill Hill East駅

THE WHITE HOUSE

企業

DAILY TELEGRAPH BUILDING

1928年完成のビルで、現在はゴールドマンサックス銀行が所有している元デーリー・テレグラフの社屋。ポートランド・ストーンで作られた8階建ての建物は、アール・デコと崇高美を備えた新古典主義建築のデザインで、中央の大きな時計が印象的。

141 Fleet Street EC4A 2BJ
ナショナル・レールCity Thameslink駅

DAILY TELEGRAPH BUILDING

建築を守る仕組み

幸運にも現代まで生き残った建物が見られるロンドンだが、建物が本来の役目を終えてもその土地に残していきたい場合、近隣住民からの熱い声援だけでは到底不可能だ。英国には国にとって重要だと見なされた場合、建物を法律で守る「Listed Building」(指定建造物)という仕組みがある。これはモニュメント、橋などにも適応され、建物に限らない。

イングランド地域では政府の後援で活動している団体、ヒストリック・イングランド(Historic England、公式名はイングランド歴史的建造物・記念物委員会Historic Buildings and Monuments Commission for England)が、政府から地区のカウンシルに助言することにより、歴史的景観を守っている。現在の包括的なシステムは第二次世界大戦後に整えられたため、これ以前の貴重な遺産は残念ながら失われてしまっているケースも多い。登録方法はヒストリック・イングランドを通じて膨大な情報を書き込む必要書類をオンラインで提出し、審議されたのちデジタル・文化・メディア・スポーツ省の閣僚によって右記のように分けられる。

これらのプロセスを担当するのは、ヒストリック・イングランドだが、実際の管理は地方自治体に委ねられている。建物の申請には「1948年以前に建てられている」「現役で使用されていなければならない」「指定された建物は建物の解体、拡張、改修、また備品一つにいたるまで一切の変更は許されない」「勝手に工事を行った場合刑事犯罪扱いになる」など厳しい条件があり、リスト化されてもその後の管理は大変だ。

Grade I

buildings of exceptional interest(非常に重要性の高い建物)

Grade II*

particularly important buildings of more than special interest(特別重要度のあるもの以上の特に重要な建物)

Grade II

buildings that are of special interest, warranting every effort to preserve them.
(特別重要な建物で、それらを保存するためのあらゆる努力が必要)

アール・デコと親和したエジプトのデザイン
EGYPTIAN REVIVAL ARCHITECTURE(エジプトの復活建築)の秘密

アール・デコ建築の用と美を追求した幾何学的なデザインは、キュビズム、セルゲイ・ディアギレフの舞台芸術など、国・形を問わずあらゆる芸術の一端が多層的に合わさってできたとされている。少々捉えにくいアール・デコの概念だが、ここではそのなから古代エジプトのイメージを建築デザインに落とし込んだエジプトの復活建築について紹介してみたい。

リバイバルの「リバイバル」

「利益の100パーセントをホームレス減少のための事業に充てる」と明言しているコーヒーエジプトの復活建築はその名の通り、古代エジプトの建物やイメージからインスパイアされた建築デザインのこと。このリバイバルは、アール・デコ様式が生まれる以前の18世紀、ナポレオンのエジプト遠征によって正確な建物や遺産の記録が入手できるようになったことからすでに一度欧州地域で流行し、墓地や記念碑に使われたデザインだった。その後19世紀を境にエジプト・ブームは去り、表舞台に出てこなかったが、1922年にツタンカーメンの墓が発見されたことで、発掘された数多くの装飾品が世間の目に触れることになる。その美しさはもちろん神秘性からも、古代エジプトをモチーフにしたデザインは再び世間から脚光を浴びることになった。

ロンドン北部イズリントンのエセックス・ロードにあるカールトン・シネマ(1930年オープン)。外装、ロビーはエジプト風の装飾が施されているロンドン北部イズリントンのエセックス・ロードにあるカールトン・シネマ(1930年オープン)。外装、ロビーはエジプト風の装飾が施されている

エジプトの装飾美術とアール・デコの相性の良さ

建物や作品のスペースに何らかの装飾を敷き詰める、というエジプトの装飾芸術は、アール・デコの「一定のパターンを繰り返す」という技法と親和性が高く、そのデザインは建築に限らず家具や宝飾品など、さまざまなものに使われていった。また、古代エジプトという過去のデザインとモダニズムの組み合わせは、アール・デコに見られる特徴であり、ツタンカーメン王というかつて巨大な国を統治した「人類の頂点」という印象もまた、新たな建築物を作り出すにあたってのコンセプトとしては最適なイメージであった。

このリバイバルはあくまでもアール・デコのほんの一部の様式に過ぎないが、特に芸術分野に強いロンドンや米ニューヨークの劇場などの娯楽施設は、この影響を強く受けたといわれている。

ロンドンにある黒猫づくしの建物

ロンドンに数あるリバイバル建築のなかでも有名なのが、かつて「ブラック・キャット・シガレット」という愛称で親しまれていたたばこブランド、カレラス社の旧たばこ工場(Carreras Cigarette Factory)だ。北部モーニントン・クレセント近くにある同工場の外壁にはカラフルな装飾とたくさんの黒猫の顔が並び、正面エントランスには2匹の黒猫の彫像が見られる。もともと1928年に建てられたこの建物は、59年に工場が別の場所へ移転後、60年代に「時代遅れだから」という理由でこれらの装飾が取り外され、改装されてしまった。やがて1990年代に一度大きな修繕工事を経た際に、当初のデザインのディテールから少々変更があったものの、ほぼほぼ復原された。

現在はオフィスとなっている旧カレラス社のたばこ工場の正面エントランス。猫の彫像は1990年代の修繕工事の際に復活した現在はオフィスとなっている旧カレラス社のたばこ工場の正面エントランス。猫の彫像は1990年代の修繕工事の際に復活した

カレラス社と黒猫との関係は、実はこの建物が誕生する前からあったという。かつてタバコ・ショップがレスター・スクエアのそばにあったときに売られていたタバコの外装には黒猫が描かれており、猫好きのオーナーが大好きな飼い猫をモデルにしたそうだ。エジプトの復活建築が流行する前からすでに黒猫はブランドの一部だったので、気を利かせた建築家たちは猫モチーフを採用するのに抵抗はなかった。

現在はオフィスとして利用されており、中へ入ることはできないが、外からでも十分にその独創性を感じられるはずだ。

建物の上部に並ぶ黒猫の顔建物の上部に並ぶ黒猫の顔

Carreras Cigarette Factory

180 Hampstead Road NW1 7AW
地下鉄Mornington Crescent駅

 
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