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Tue, 16 December 2025

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コメディアン、BJ フォックス - 英日の文化の違いを笑いに昇華

新春特集 - 2019年を楽しむために

英日の文化の違いを笑いに昇華して、
親しみやすいコメディーを目指す
BJ FOX コメディアン / 俳優

BJ フォックスさんは、NHK ワールドのドラマ「Home Sweet Tokyo」で、主演・脚本を務めた英スタンダップ・コメディアン。同ドラマのシーズン2が昨年12月に放映されたばかりで、コメディーを中心に多方面で活躍している。BJ フォックスさんの人気の理由は、英国と日本の違いをただ揶揄することで笑わせるのではなく、日本人ですら気が付かなかった一歩先のオチで、観客の笑いのツボを刺激するからだ。そんな英日の笑いに精通したBJ フォックスさんに、英日のコメディーについて話を伺ってみた。

BJ FOX

BJ フォックス 1981年、ロンドン西部ヒリンドン生まれ。日本でスタンダップ・コメディアン、俳優として活躍中。日本語のお笑いライブ「おコメディ焼き!LIVE」を主催する。英国人が日本人の妻、娘、義父との同居に奮闘しながら日本文化を学んでいくNHKワールドのドラマ「Home Sweet Tokyo」で主演・脚本を担当。

日本人も気付かない、ささいな出来事に着目

BJ フォックスさんが初めて来日したのは、17歳のときの静岡県浜松市でのホームステイだった。その後、東京の大学へ1年の留学、卒業後に英語教師として再び来日。それから一旦ロンドンで働いたものの、シンガポール駐在を経て東京へ転勤となった、日本と強い縁で結ばれた人物だ。スタンダップ・コメディーとの運命の出合いは、シンガポール駐在時。飛び入りで参加する機会があり、そのときからお笑いに魅せられていったという。そんなBJ フォックスさんの笑いは、自身の経験を通じて緻密に練り上げたものだ。

「日本での生活で面白いと思ったこと、矛盾しているなと思ったことをネタにしています。自分では気付いていないのに、言われてみると『あるある!』という事柄に笑いを見出しています。僕はただ違うとか、おかしい、と言うだけではコメディアンとしては未完成だと思っていて、これが違って、あれがおかしくて、そしてその一歩先にオチがあり、そのオチが一体何なのか、その延長線を探すことが重要だと思っています」。

ブラック・ユーモアはポジティブ効果だらけ?

英国の笑いと言えば、皮肉で笑いを取る「ブラック・ユーモア」で認知されている。日本人には一見とっつきにくいユーモアの形態だが、英国出身のBJ フォックスさんにとってそれは、単なる笑いを超えた意外な効果があると言う。

「悲しい出来事があっても、あえてブラック・ユーモアを使うことで状況を理解したり、受け入れたりすることがイギリスの国民性の一つと言えるかもしれません。最近、ローワン・アトキンソンが主演した第一次大戦の戦場を舞台にしたコメディー・シリーズ『ブラックアダー・ゴーズ・フォース』を改めて観ましたが、ラストの悲しいシーンですらユーモアいっぱいに表現していました。

ユーモアやコメディーは、難しい概念を分かりやすく説明する素晴らしいツールであり、特にイギリスで人気のある政治や時事的なコメディー・ショーで、この面を強く感じますね。BBCのパネル・ショー『ハブ・アイ・ゴット・ニュース・フォー・ユー』は、1990年から毎年放送されている超人気番組です。

一方で、近年視聴率を獲得しているのはBBCの『ミセス・ブラウンズ・ボーイズ』です。男性のコメディアンが母親役を演じるファミリー・ドラマで、内容はシンプルで下品ですが、ハートウォーミングな面もあり大変人気があります。イギリスのユーモアは多種多様になってきていると言えますね」。

海を越えて繋がる笑いのスタイルとは

英国人が好む有名人や政治家をからかうスタイルは、日本人には少し引かれてしまうときもあると語るBJ フォックスさん。「批判に抵抗がある」と独自に分析する日本の笑いは、一見英国のそれとは一線を画しているように見える。しかし、様々なコメディーを見てきて、数々のステージでパフォーマンスをした結果、BJ フォックスさんは意外にも共通点が多いと話す。

「日本のお笑いは、ボケとツッコミのコンビがメジャーですが、イギリスでも1970年~1980年代にかけて人気を博したコメディアンのモーカム&ワイズとリトル&ラージに同じような雰囲気を感じますね。実体験から言うと、ドラマ『Home Sweet Tokyo』で、僕が演じる主人公のブライアンが『ノリツッコミ』を紹介するシーンがあるのですが、収録時にその単語の意味が分からなかった僕に、監督が『おかしい状況でも否定せず我慢し、我慢し続けたら、急に激しく否定する』と丁寧に説明してくれました。これってイギリスのモンティ・パイソンの有名な『死んだオウム』の掛け合いをほうふつとさせるんです。このコントは『Dead Parrot』でYouTubeにアップされているので、ぜひ見比べてみて下さい」。

コメディアンから俳優、そして脚本家へ

スタンダップ・コメディアンとして活躍するかたわら、近年はその才能を生かし、NHKワールドのドラマ「Home Sweet Tokyo」で主演及び脚本を務めた。ドラマには日本で暮らす外国人ならではの視点を盛り込み、その違いを決して否定的ではなく、ソフトな印象で面白おかしく視聴者に伝えた。

シーズン1では、視聴者にとって一番分かりやすい形で、まずは日本に興味を持ってもらえそうなテーマを選びました。したがって、『安全性』『お風呂』『お弁当』などになったわけです。シーズン1の評価が良かったため2018年12月に続編の放送が決定したので、より自信を持ってアプローチでき、結果としてマイナーな、しかし興味深い日本文化を紹介することができました。

例えば日本のバレンタイン・デーにおける義理チョコは、英国と共通しているけれど、もっとジャパナイズされている面白さがあるので、僕にとってはマストで取り上げたいネタでしたね。また、同エピソードで、イギリス英語では『サッカー』ではなく『フットボール』と言うことなど、英国精神あふれる細かい部分まで紹介させていただきました。それから『断捨離』というコンセプトも。シーズン2のエピソードは色々な意味で奥が深いのではないかなと思います。

ドラマ制作は非常に素晴らしい経験でした。今回の制作にあたってハプニングがたくさんあったんです。真っ先に浮かんだのは、お寺・神社に関するもの!温泉のシーン(シーズン2エピソード3:One Night at the Onsen)でお化けが出てくるため、日本のテレビ業界の慣わしで、撮影開始前に主要スタッフがそろって神社に行き、撮影が無事に進行するようお祓いをしました。

また、最後のエピソードは、娘の七五三のお祝いで家族で神社に行くシーンがあったのですが、リハーサルのときに、手水舎で手を清めたあと、水で口をすすいだとき、間違えて飲んでしまいました! 娘役のアイラちゃんも妻・いつき役の木村佳乃さんも笑い出し、おかげで『日本のマナーがわかってないなぁ』というシーンを自然に撮ることができました。一瞬、演じているブライアンと僕が一つになった感覚でした」。

国際色豊かな笑いに取り組みたい

「お笑い」という括りのなかで自由に活動を広げるBJフォックスさん。最後に今後取り組もうと思っていることついて聞いてみた。

「2020年の東京オリンピックに向けて、世界中から日本への注目が高まる中、『Home Sweet Tokyo』を始め、ユーモアを通じて更に日本のことを紹介していきたいと思います。もしくは、グローバル化して行く日本に対して、あえて逆パターンにもチャレンジしたいと考えています。日本語でイギリス風なブラック・コメディー番組なんていうのはどうかな。英国ニュースダイジェストの読者の皆さんに、どちらに興味をもっていただけるか気になりますね!」。

●「Home Sweet Tokyo」はこちらから視聴できます。
NHK World「Home Sweet Tokyo」https://www.nhk.or.jp/homesweettokyo/

 

英国・ドイツ・フランスの「笑い」を大解剖!

新春特集 - 2019年を楽しむために

英国・ドイツ・フランスの「笑い」を大解剖!

あらゆる場を盛り上げ、会話の潤滑油となるユーモア。しかし、世界各国における文化の違いがあるように、笑いの感覚も国ごとに微妙に異なるのではないだろうか。そこで今回は英国・ドイツ・フランスの「笑い」の特徴を、現地編集部が調査した。3国共通で浮かび上がってきた「政治」というキーワードを検証するのに加え、国別の笑いを楽しむコツなどをご紹介。「初笑い」というにはちょっと真面目な欧州の笑いを大解剖する。
(英・独編集部、沖島景)

欧州の笑いの始まり
中世では笑ってはいけなかった?

21世紀の現在、「笑い」と聞くと肯定的な要素が思い浮かぶが、時代や国によって「笑い」に対する評価が変わってくる。近年、中世の笑いが大きく話題になったのは全世界でベストセラーを記録したウンベルト・エーコの小説「薔薇の名前」だろう。この作品は、北イタリアのカトリック修道院で起こる謎の連続殺人事件を解明する物語で、その事件の鍵は「笑い」だ。舞台は14世紀初頭、欧州で笑いが抑制されていた時代。古代ギリシアの哲学者アリストテレスが喜劇について論じた著作を手に入れた修道士ウィリアムは、老修道士ホルヘと「笑い」について論戦を展開する。ホルヘは笑いによって神、教会の権威が失墜することを疑惧し、「笑いは私たちの肉体の弱点であり、退廃であり、失われた味だ」、「笑いは愚かさの徴(しるし)」と言い放つー。実際、12世紀にアリストテレスの著作が再発見されてからは、笑いについての解釈が議論されるようになった。「薔薇の名前」はこの時代を舞台にした物語である。

フランスの中世史家、ジャック・ルゴフによれば、笑いは3つの時期に分けられるという。第1期は4~10世紀ごろで、笑いは悪魔の表現であると考えられ、笑いは抑制されていた。第2期には宗教的良心を判断する神学、決議論が成立し、笑いの適法性と笑い方が問いただされる。そして第3期は「解放された笑い」の到来だ。

現在の笑いとは違う概念であった第1期。4世紀以前にも笑いの倫理について述べられている書物はあったが、ふざけた卑猥な話は禁じるが笑い自体は許されていた。4世紀になると修道院で笑いについて問題視され始め、5世紀の神学者、説教者であるヨアンネス・クリュソストモスは笑うことを禁じた。それはエペソ人への手紙で「卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくないことである。それよりは、むしろ感謝をささげなさい」と述べられているからだ。そして「イエスは決して笑わなかった」ということからも、笑いは次第に糾弾されるようになった。例えば中世ドイツ人聖職者のヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098年~1179年)は、笑いを悪魔の象徴とし、災いを招くと指摘していた。人間に意味のない音を出させることは人間を動物レベルに落とすとし、また笑いは体液の変化を起こし、バランスが崩れることで病気が生じるとも主張していた。

「人間は笑う力を授けられた唯一の動物だ」と言われているが、歴史を紐解くと時代によって、その授かった力を抑えつけなくてはならない厄介な存在だったことが分かる。

参考文献:「薔薇の名前」(東京創元社)、「図解 笑いの中世史」(原書房)、「キリスト教と笑い」(岩波新書)

英国・ドイツ・フランスの「笑い」の特徴

英国・ドイツ・フランスの人々は、いったいどんな笑いを好むのか。似ているようで微妙に異なる3国の笑いのツボや、その国らしいお笑いを楽しむ方法をご紹介しよう。

UK英国

ブラックな笑いで権威を批判し自らの立場を主張する

英国の笑いと聞いてまず思いつくのは、王室や政治家などの権力を持つ人間や、自国の社会制度を批判した、風刺(Satire)や皮肉(Irony)、そして嫌味(Sarcasm)を含むブラックな笑いではないだろうか。英劇作家のウィリアム・シェイクスピアは「リア王」の中で、王に辛辣な言葉を浴びせる道化を登場させたが、ほかの登場人物が王に対して面と向かって言うことのできない真実を、道化は易々と「笑いを提供する者」という立場を利用して伝えている。ここではユーモアは、都合の悪い事実を暴き出す道具として使われているのだ。

時代が移り、シェイクスピアの子孫である現代英国のコメディアンたちも、ジョークやコメディーを通し、世の中の様々な矛盾に物申している。移民の両親を持つコメディアンは英国人が持つ外国人に対する偏見をネタにし、フェミニストや性的少数者も自分の置かれた立場を笑いで表現。質の良いブラック・コメディーは政治や社会問題などつまらないと思っている人々の目を開く役割を果たしてくれる。今、最も時代が必要としているもの、それはブラックなお笑いかもしれない。

ドイツドイツ

真面目なドイツ人の笑いの歴史は国民性と政治にあり

「真面目なドイツ人」という認識は、万国共通と言えるだろう。ドイツを代表する詩人・ゲーテはかつて、「ドイツ人の演劇は真面目な国民性にふさわしく、たちまち道徳的な傾向に転じた」と述べており、ドイツにおいて質実な国民性が喜劇的な内容に対して不利に作用していることについて言及している。また、劇作家のブレヒトも「我々ドイツ人は真面目さを大いに鼻にかけている」と、すべてを真剣に捉える自国民に対して疑問を呈している。しかしながら、多才なコメディアン、ロリオー(Loriot)のようにそんなドイツの国民性を皮肉って笑いに昇華させるアーティストが受け入れられていることも事実だ。

また、ドイツにおける笑いには歴史的な背景も色濃く現れている。その中で最も象徴的なのが、独裁政治を行ったナチス・ドイツの例。ナチスは自身に向けられるジョークに対して我慢ができなかったとされ、政府を風刺して笑った者は、処罰の対象となったというエピソードだ。裏を返せば、笑いは権力者に立ち向かうための武器になることをドイツ人が知っていたということだろう。

フランスフランス

ブラック・ユーモアも受け入れるフランス革命から続く精神

フランスで日本の漫才や落語のような「お笑い」に相当するものといえば、ワンマン・ショーだろう。ワンマン・ショーは政治家や有名人を揶やゆ揄したり、モノマネをしたりすることが多い。ときには人種差別などの社会的な問題を笑いに変えて訴える手法も見られるが、その多くはコメディアン自身がアフリカ系フランス人などの場合で、自ら体験したことを笑いで伝えている。フランスでは他国とはまた違う表現の自由があり、あらゆる権威を笑い飛ばし、批判していくことが許されている社会である。それは絶対王政を倒したフランス革命から続く共和国の建国の精神。他国から見ると眉をひそめるユーモアもあるだろう。しかし、特定の人を中傷することや差別的発言、戦争の犯罪を称賛しない限り、公の場でも風刺画という手段を使っても比較的許される風潮があるのがフランスの特徴だ。

フランスの世論調査会社BVA が調査した日常の笑いについての統計によると、フランス人が笑いの中でどのジャンルを好むかという質問では、80%が言葉遊びが好きなことが判明。56%がジョークや面白い話を好むが、モノマネは25%しか支持を得なかった。

三国三様!英・独・仏の人々はいったいどんなところでコメディーを楽しんでいる?

UK英国

ビールを片手にパブでスタンダップ・コメディーを

1人の話し手が観客の前に立ち、マイク片手にとっておきのジョークを次々と浴びせていくスタンダップ・コメディーは、英国のお笑いの王道スタイル。ステージを併設したパブや、コメディー・クラブと呼ばれる劇場などで、話し手は何年もの歳月をかけて練り上げたネタを繰り返し演じることも多いが、日によってアドリブや観客との掛け合いが展開されることも。特に手ごろでお勧めなのは、コメディーを楽しめるパブ。入場料はだいたい5ポンド(約720円)からと敷居も低く、ビールを飲みながら気軽にステージを楽しめる。ベテランの芸を観ることはもちろん、新人コメディアンの発掘の場としても存在する。一方、コメディー・クラブにも大抵バーが付属しており、結局のところ、英国のお笑いは常にアルコールとともにあるといっても過言ではない。

英国で人気のコメディー 登場人物にはこと欠かない

1980年~1990年代に民放局ITVで放送され、英国ばかりか海外でも人気を博した風刺人形劇「スピッティング・イメージ」。王室メンバーや国内外の政治家などのグロテスクなまでにデフォルメされた人形が登場し、時事にまつわる風刺劇が繰り広げられる。現在この番組が復活するという噂がある。

スピッティング・イメージ人形劇「スピッティング・イメージ」のサッチャー元首相(写真右)

ドイツドイツ

映画を見れば、ドイツ人の笑いのツボが分かるかも?

ドイツの笑いは政治や国民性などをネタにしたものが多く、日本人にはドイツ人の笑いのツボが分からないこともある。しかし、悲喜劇と呼ばれるジャンルの映画では、比較的分かりやすいドイツの笑いが楽しめる。例えば、「グッバイ・レーニン!」はベルリンの壁によって生き別れた家族を描く悲しい物語だが、思わず笑ってしまうシーンも多々登場する。近年日本でも公開された「ありがとう、トニ・エルドマン」や「はじめてのおもてなし」などもまた、含み笑いを誘いつつ、観る人に考えさせちゃっかり泣かせるところが、いかにもドイツらしい。また「帰ってきたヒトラー」は、現代にタイムスリップしたヒトラーがモノマネ芸人としてデビューを果たすという内容。自国の歴史やメッセージを込めて笑いに変える手法は、現代のドイツならではだ。

ドイツで人気のコメディアン 秀逸な自虐的笑い

ドイツ人なら誰もが知っているコメディアン、ロリオーに代表されるような自国民の性質を皮肉った笑い、その系譜を受け継いでいるのがドイツを拠点に活動する26歳のスイス人、ヘーゼル・ブラッガー(Hazel Brugger)。淡々とした話し口調で、時折ブラックなユーモアを投げかけ観衆の心をわしづかみにする。

ロリオー自身が監督を務めた映画「Pappa ante Portas」に主演するロリオー

フランスフランス

フランスで笑いを楽しむなら劇場へ

ジャン=ピエール・ジュネの映画「アメリ」に出演したジャメル・ドゥブーズは人気コメディアンで、フランス国内で毎年ワンマン・ショーを行っている。また若いコメディアンが世に出ていくことを支援し、パリの10区(42 Boulevard de Bonne Nouvelle)に劇場を構えてショーやオーディションを開催。新人コメディアンのショーを満喫できる。古典喜劇を堪能するならルイ14世が発足させた「王立劇団コメディー・フランセーズ」へ。別名「モリエールの家」という名の通り、上演作品のレパートリーにもモリエールの作品がある。ただこの劇団はモリエール劇団と悲劇を得意とする劇団とを統合させた背景を持ち、演目によっては悲劇であることもあるのでご注意。また19世紀に広まった人形劇「ギニョール」(Guignol)でも笑いを楽しめる。

フランスで人気のコメディアン 辛辣なユーモアが人気

20世紀の喜劇俳優としては映画「大追跡」(1965年)などで活躍したルイ・ド・フュネス、またバイク事故により死亡したコリューシュが不朽の人気。コリューシュは差別や偏見といった題材を扱い辛辣なユーモアで知られていた。現在人気が高い女性のコメディアンは、フローレンス・フォレスティ。

フローレンス・フォレスティワンマン・ショーで人気を博すフローレンス・フォレスティ

笑いが社会に与えた影響からお勧めのコメディーまで
6つの「笑い」のエピソード

英国エディンバラ・フリンジはコメディアンたちの出発点!

毎年8月にスコットランドで開催されるエディンバラ・フェスティバル・フリンジは、演劇やコメディーを中心としたフェスで、申請すれば誰でも参加が可能。そのため、このフェスに出演することで注目を集め、一旗揚げようとする野心旺盛なコメディアンたちが殺到する。その昔、若きローワン・アトキンソン(Mr. ビーン)やスティーブン・フライなども出演した。出演のための審査がないことから、通常のイベントでは考えられない前衛的なネタを披露するコメディアンもいるのだとか。

英国笑えない? 英国流のきついジョーク

第二次大戦時、広島と長崎で相次いで被爆し、後に93歳で亡くなった日本人男性を「世界一運が悪い男」と紹介したのが、2012年に放映されたBBCのお笑いクイズ番組「QI」の司会者スティーブン・フライ。ゲスト回答者たちが「93歳まで長生きしたなら、不幸ではないかも」「原爆が落ちた翌日に列車が走るとは、英国では考えられない」などと発言した。そのため、この映像を不快に感じた在英邦人らが日本大使館へ連絡をし、BBCと番組制作会社は、連名で謝罪声明を発表するに至った。

ドイツ際どい政治ネタで風刺するローゼンモンタークのカーニバル

普段はどんなにビールをあおっても礼儀正しく真面目なドイツ人が、年に一度ハメを外して楽しむ日が、2月のローゼンモンターク(バラの月曜日)に開催されるカーニバル。 特にドイツ西部のマインツ、ケルン、デュッセルドルフのカーニバルは大規模で、多くの山車が街中を練り歩く。その中でも目を引くのが政治風刺をテーマにした山車。国内政治批判に関わるものから、国外に向けたメッセージなど多岐にわたる。笑いにあふれるカーニバルでもシニカルな要素を盛り込むのがドイツ流。

ドイツドイツ人になるための本、笑われている本人たちも爆笑?

在独英国人、アダム・フレッチャー氏の英独バイリンガル本「ドイツ人になる方法(How to be German)」(C.H.Beck刊行)では、海外から見たクスッと笑えるドイツ人の姿がシニカルに描かれる。例えば「ドイツにおける3つのP(計画・準備・プロセスの頭文字)を身に着けるため、数年先まで休暇の予約を取ろう。そのプロセスを簡素化するなら毎年マヨルカ島(ドイツ人定番の休暇先)への旅行がお勧め」と皮肉りながらも、的を得た内容を展開。ドイツ人にもウケが良くシリーズ化されている。

フランス日仏の「笑い」の感覚の違いが明らかに

ブラック・ジョークを好むフランス人だが、日本人には到底理解できない事柄もある。例えば風刺人形劇でニュースを伝える「レ・ギニョール・ド・ランフォ」が2011年の東日本大震災の後に放送したニュースでは、震災で被害を受けた仙台の町並みと第二次大戦後の広島の写真と比べて「日本は60年間も復興に向けた努力をしていない」とコメント。更に福島第一原発の周辺の現場で復旧作業に当たる作業員をスーパーマリオに見立てるなどし、在フランス日本大使館が抗議をする事態に発展した。

フランス「笑い」が襲撃事件に発展 シャルリー・エブド

過激な風刺画のイラストを多用する「シャルリー・エブド」紙がイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載したことが悲劇を引き起こした。2015年1月7日、武装したテロリストが同社に侵入し乱射、12人を射殺。フランスでは各新聞で政治や社会的問題を風刺画で表現する風習があるが、同紙の絵が「笑い」の限度を超えているかどうかも含めて意見が飛び交った。同社は以前から複数のイスラム系団体から訴えを起こされていたが、政教分離の国、フランスの裁判所は無罪を言い渡していた。

 

川村元気(映画プロデューサー/小説家/絵本作家) インタビュー

映画プロデューサー/小説家/絵本作家 川村元気

川村元気

ロンドンではテート・モダンに行ったりと、
アート鑑賞を楽しみました

ベストセラーとなったシュールな寓話小説「世界から猫が消えたなら」の英語版、「If Cats Disappeared from the World」の刊行(Picador社)で、2018年の秋にチェルトナム文学祭*1から招待を受けた川村元気さん。最新作や英国滞在時のことなどについて、お話を伺った。(協力: 国際交流基金)

*1 英西部チェルトナムで毎年10月に開催される文学の祭典。2018年はフェスティバル内にEast Meets Westというプログラムがあり、川村元気さんを始めとした日本や韓国の作家が招待された

Genki Kawamura 1979年横浜市生まれ。上智大学文学部新聞学科卒業。映画「電車男」「告白」「悪人」「モテキ」「君の名は。」など数々のヒット作を世に送り出す。初めての小説「世界から猫が消えたなら」はベストセラーになり、英語を含む15カ国語に翻訳される。2019年には、認知症と記憶をテーマにした小説「百花」が出版予定。2020年に開催される東京五輪の開会式・閉会式プランニング・チームのメンバーに就任している。

2019年は、文芸春秋で連載されていた小説「百花」が出版されますが、この作品におけるテーマは、どのようなものでしょう。

認知症になり様々なことを忘れていくシングルマザーと、その一人息子の愛と記憶の物語です。

いつも作品作りの前に取材を敢行され、とても多くの人にお話を聞かれるそうですが、どうしてそのような方法を?

ノンフィクションの世界には、フィクションでは決して思いつかないような言葉や出来事があり、そういうものを少しでも物語の中に取り込んでいきたいと思っているからです。

2018年の10月に英国に滞在されたときのことについてお聞かせください。

「世界から猫が消えたなら」の英語版出版を機会に、チェルトナム文学祭で講演をしました。イギリスの読者とのQ& Aでは非常に興味深い意見が出て面白かったです。夏目漱石を始めとして、日本の小説が「猫」をテーマとするものが多いということに関した質問や、本作の中で「携帯電話」が消えることについて*2、インターネットやスマートフォンが我々の生き方をどう変えたのか、などの議論が活発に行われました。

*2 悪魔に「世界からひとつ何かを消すと、1日寿命が伸びる」と囁かれた主人公は、まず携帯電話を消すことにする

短い滞在だったとは思いますが、空いた時間は何をされていましたか。

ロンドンではテート・モダンや、フリーズ・アート・フェア*3に立ち寄ったり、アーティストのダミアン・ハーストの作品が展示されているレストランに行ったりと、主にアートを楽しみました。

*3 毎年ロンドンで開催される大規模な現代アート・フェア。ロンドンの美術誌「フリーズ」が主催している

これまでの川村さんの作品のファンや、英語版「世界から猫が消えたなら」で新たに読者になった英国在住者に向けて、一言いただけますか。

イギリスで「世界から猫が消えたなら」がどんな方に読まれ、どんな感想が出てくるのか、楽しみにしています。何かが「無い」という状態を想像することで、そこに「ある」ものを感じるというのは日本的な発想だと思っていますが、きっと世界中の誰もが共有できる感覚でもあると思っています。

 

英国の女性参政権運動を支えた日本の柔術 - サフラジェットとイーディス・ガラッド

英国の女性参政権運動を支えた日本の柔術 サフラジェットとイーディス・ガラッド Jiu-jitsu Suffragettes and Edith Garrud

2018年は英国で女性参政権が認められて100周年。今年はロンドンの国会議事堂前広場に、参政権運動を率いたミリセント・ギャレット・フォーセットの銅像が建立されたほか、博物館で特別展が企画されるなど、国内で様々な記念の催しが開催され、サフラジェットを始めとする当時の女性参政権活動家たちに改めて注目が集まりました。しかし、英国の女性参政権運動を日本の「柔術」が陰で支えていたことはあまり知られていません。今回は、女性活動家たちに護身術として柔術を教えた一人の女性、イーディス・ガラッドを通して、サフラジェットと柔術の関係をご紹介しましょう。(文: 清水 健)

柔術の実演柔術の実演で警官役の男性の動きを制するサフラジェット(写真左)

英国の女性参政権運動について

女性参政権活動家は「サフラジスト」(Suffragist)と呼ばれるのに対し、戦闘的な女性社会政治連合(WSPU)はこれをもじって「サフラジェット」(Suffragette)と人々から揶揄されたが、WSPU のメンバーはむしろこれを誇らしげに名乗った。なお、当時ロンドンで活躍していた日本人画家の牧野義雄も、女性参政権運動を支援していたことを自伝に記しており、ロンドン博物館には牧野がサフラジェットたちと記念撮影した写真が保管されている。

1918年2月6日に一部の女性が投票権を獲得。11月21日には21歳以上のすべての女性に被選挙権が与えられた。ただし、男女を問わず21歳以上の国民すべてが選挙権を持つには、10年後である1928年の普通選挙法制定を待たなければならなかった。

知られざるイーディス・ガラッド

2012年6月30日、ロンドンのイズリントン区にあるソーンヒル・スクエア60番地で、1971年に99歳で死去したイーディス・ガラッドを称える銘板の除幕式が行われました。同区が市民の選ぶ偉人を顕彰する「イズリントン・ピープルズ・プラーク」の一人として選ばれたのです。英国初の女性指導者としてサフラジェットたちに柔術を教えたイーディスは、ここに1880年代から1925年まで住んでいました。

この銘板の実現に尽力した格闘家のトニー・ウォルフ氏は、2009年にイーディス・ガラッドの伝記を刊行し、これまでにサフラジェットの活躍を描いたドキュメンタリー番組や劇画を監修していますが、「イーディスがいなかったら、女子の格闘技はこれほど広まっていなかっただろう」と語っています。また、サフラジェットを描いた2015年の映画「未来を花束にして」(原題: The Suffragettes)では、イーディス役の人物は登場しませんが、出演女優の一人、ヘレナ・ボナム・カーターは自ら演じる活動家の役名をイーディスへ変えてもらい、イーディス・ガラッドへの敬意を表しています。女性は男性に庇護される存在であるというヴィクトリア朝の考え方を打ち破り、女性が精神的にも身体的にも自立する力を与えたイーディスの功績が再評価されつつあります。

イーディスを顕彰するピープルズ・プラークイズリントン区に掲げられた、イーディスを顕彰するピープルズ・プラーク

警察と衝突する活動家たち

イーディスが誕生した1872年当時の英国は、1867年の第2回選挙法改正によって都市の労働者にも選挙権が拡大されていました。しかしこれは男性に限られ、女性に関しては参政権を認める修正案が提出されたものの否決されています。それまでにも女性参政権を求める運動はありましたが、ウェールズで育ったイーディスが格闘家のウィリアム・ガラッドとの結婚を機にロンドンへ移ったころには、参政権運動は再び高まりをみせていました。当時、女性の大学就学に力を入れていたミリセント・ギャレット・フォーセットを会長に、1897年、女性参政権協会全国連合(NUWSS)が結成され、イングランド北西部にはマンチェスターで活動していたエメリン・パンクハーストの主導で、1903年に女性社会政治連合(WSPU)が結成されています。

NUWSSは財産を持つ中流階級の女性に参政権を与えることを目指して活動し、政治集会や小冊子の発行、署名活動などを通して国会議員へ働きかけました。しかしこうした穏健で合法的な活動ではなかなか進展が見られず、痺れを切らした急進派のWSPUは、演説妨害や器物損壊など暴力的な活動を展開し、投石、放火など闘争を激化させていきます。

やがて過激化するサフラジェットに対して警察も高圧的になり、女性たちを腕力で排除するようになります。こうした動きに対しエメリンの次女シルビア・パンクハーストは、「私たち女性も男性と同じように柔術を習わなくてはなりません」と演説し、護身術の必要性を仲間たちに説きました。では、サフラジェットはなぜ護身術に日本の柔術を選んだのでしょうか。

英国と柔術との出会い

19世紀末の英国では、暴漢から身を守るための護身術に対する関心が高まっていました。特に柔術は、攻撃してくる者の力と体重を利用して相手を制する原理と、身体の鍛錬により精神の修養に努めるという理念から、紳士にふさわしい護身術であると見なされていたのです。

英国における柔術の始まりは、1895年に鉱山技師として日本に滞在していた英国人エドワード・ウィリアム・バートン=ライトが、教育者の嘉納治五郎(かのうじごろう)が創始した講道館などで柔道を習った経験を生かして考案した、バートン流柔術「バーティツ」(Bartitu)という護身術でした。バートン=ライトは1898年に英国に帰国すると、ロンドンの繁華街シャフツベリー・アベニューに道場を開きます。

バートン流柔術「バーティツ」エドワード・ウィリアム・バートン=ライト(中央)と バーティツの技

バートン=ライトの護身術は、1899年に当時広く読まれていた月刊誌「ピアソンズ・マガジン」の特集記事で紹介され、英国中に広く知られるようになります。探偵小説「シャーロック・ホームズ」の作者アーサー・コナン・ドイルは同記事に発想を得て、ホームズが宿敵モリアーティ教授と決闘した際、日本の格闘技バリツ(バーティツ)の心得があったおかげで助かったと書いています。

バーティツ道場では日本から招かれた柔術家の上西貞一や谷幸雄らが指導に当たりましたが、やがてこの道場が1903年に閉鎖されると、上西と谷はそれぞれ英国で自分の道場を開設しました。小柄な日本人が巨躯の英国人を投げ飛ばす姿や、1905年に日露戦争で日本が大国ロシアに勝利したこととも相まって、柔術の人気は一般にも広まり、道場は盛況となります。

やがて1908年末に上西が日本へ帰国すると、弟子のウィリアム・ガラッドが道場を引き継ぎますが、ここで女性や子供に柔術を指導していたのが、その妻のイーディス・ガラッドでした。

ジュウジュツ・サフラジェット

1909年5月にロンドンでWSPUの大会が開催されたとき、ガラッド夫妻は柔術の演技を依頼されます。壇上に上がったイーディスは身長約150センチと小柄にもかかわらず、180センチはある警官役の男性を軽々と投げ飛ばし、参加者から歓声が上がりました。政府や警察という強大な相手に対して、力の弱い女性でも戦えるという勇気をサフラジェットたちに与えたのです。これを機にイーディスはサフラジェットに柔術を指導するようになり、それはサフラジュツと呼ばれ始めます。柔術の「柔よく剛を制す」は、警官の暴力的な扱いに対して、まさに女性らしい反撃の方法であると見なされました。

以後、イーディスはWSPUの活動に積極的に関わり始めました。警察の標的となっていたエメリン・パンクハーストら指導者たちを守るため、WSPUは25人ほどからなる女性のボディーガード集団、親衛隊を組織。イーディスの指導した親衛隊は、「ジュウジュツ・サフラジェット」と呼ばれて畏怖されるようになります。1910年7月には風刺雑誌「パンチ」にイーディスが警官を次々と投げ飛ばしている姿が掲載され有名になりました。またイーディスの道場はロンドン市内で投石して警察に追われたサフラジェットたちの避難所になっていました。

「パンチ」誌「パンチ」誌に掲載されたイーディスの姿を描いた挿絵

しかし、サフラジェットと警察の暴力的な闘争は、1914年に第一次大戦が始まることで一気に終息を迎えます。サフラジェットが女性参政権運動から離れて戦争への協力姿勢を示したことで、政府は収監されていたサフラジェットに恩赦を与え、エメリン・パンクハーストも戦闘的な活動を終了させました。

そして、第一次大戦中の女性の社会貢献もあり、ついに1918年、30歳以上の女性に参政権が与えられることとなります。

それから100年。サフラジェットを始めとした当時の女性参政権活動団体の奮闘のおかげで、英国の女性たちがいくつもの権利を勝ち取り、現在も更なる歩みを進めているのは誰もが知るところです。

エメリン・パンクハースト警官に取り押さえられるエメリン・パンクハースト(写真右から2人目)

語り継がれるガラッドの功績

後年、柔術指導者として女性参政権運動を支えたイーディス・ガラッドは、93歳の誕生日にある雑誌のインタビューに応じています。小柄で柔和な老婦人でありながら、その立ち居振る舞いはかくしゃくとしており「彼女の精神はイングリッシュ・オークの木のように高くそびえている」と記者を感嘆させました。そして幸福と健康の秘訣を問われて、柔術により自己鍛錬が身についているおかげです、と答えています。イーディスは英国初の女性首相が誕生する8年前にあたる、1971年に99歳で永眠しました。その人生は常に英国における女性の権利の歩みと共にあったと言えるかもしれません。

ヴィクトリア朝の女性と護身術についての研究で博士号を取得したエメリン・ゴドフリーさんは、イーディス・ガラッドはもっと評価されるべきであると語ります。「パンクハースト母娘と親衛隊の表立った活躍に比べて、イーディス・ガラッドの功績はこれまで見過ごされてきました。しかし柔術によって女性も自らの力で身を守ることができると教えたイーディスは、現代の#MeToo運動時代の女性にも力強いメッセージを伝えているのではないでしょうか」。

 

会田誠 インタビュー

実験的な作品を世に送り出し、
鑑賞者の内なる感情を引き出す
会田誠現代美術家

10月、ロンドンで開催された国際交流基金主催のトーク・イベントに登壇した現代美術家の会田誠氏。美術の教科書に載る「あぜ道」のような絵画から、文部科学省に対する不平不満をぶちまけた立体作品「檄」まで、良くも悪くも話題になるアートを生み出し続ける人物だ。世間に衝撃を与え続けてきたイメージが強いが、インタビュー時のご本人は驚くほど気さくで、質問に対して丁寧に言葉を紡いでいく姿が印象的だった。(インタビュー・文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

会田誠
MAKOTO AIDA 1965年10月4日生まれ。新潟県出身。1991年東京藝術大学大学院美術研究科修了。絵画だけでなく、写真、立体、映像、マンガ、小説など表現方法は多岐に渡る。国内外で展示を行い、近年の主な個展は「天才でごめんなさい」(森美術館、2012年-2013年)、「考えない人」(仏ブルターニュ公爵城、2014年)、「GROUND NO PLAN」(青山クリスタルビル、2018年)など。

奥座敷のような作品が面白い

ロンドンに来る前、パリで開催されたアートフェア「Asia Now Paris」でインスタレーションを発表した会田氏。これまでにも数多くの作品を海外で展示してきたが、制作過程では「海外からの目」は気にしていないという。

僕は日本で暮らし、国内で作ることを方針としています。多少の例外はありますが、最初から海外の人たちが理解しやすい作品にする、ということはしていません。それでも面白いと感じてくれるなら海外でも展示します、というスタンスです。僕の作品には、背景になるネタを知らないと分かりにくいものが多数ありますが、時間と労力をかけて相手がそれを理解してくれるということは、国際交流的にも意義があると思っているのです。例えば僕の作品の一つに画家の平山郁夫*を知らないと面白がれないものがあります。海外の人が僕の作品をきっかけに、それまで知らなかった平山や、ひいては現代日本文化のイビツな成り立ちを知ることができたら、僕は見せた甲斐があったなと思います。例えるなら奥座敷みたいに、表玄関からぐいぐい奥まで入ってもらわないと分からない、という方が作品として面白いと思うのです。

*日本画家。作品制作活動のかたわら、東京藝術大学学長を務め、海外での文化財保護活動にも大きく貢献した。2009年没。

しかし、ときに作品は作者の意図したものから離れ、批判に晒されることもある。かつて女性をグロテスクに描いた作品群は賛否両論を巻き起こしたが、会田氏はそれも含め意図したことであり、世間に対する挑戦でもあったという。

海外での成功を第一の目標にしていたら、「ジューサーミキサー」(2001年)のように女の人があんな残酷な目に遭っている絵は描きません。この作品は米ニューヨークに半年滞在しているときに描いたものですが、時代はフェミニズムやPC(ポリティカル・コレクトネス)などの思想が渦巻いてる最中。嫌われるためにやったようなものでした。偉そうに言えば、すんなり受け入れられて成功してもうれしくないのです。分かりにくいネタや、欧米社会でアウトとされているネタを使ってもっとハードルの高いことをやった方が、達成感をより感じられます。

ジレンマと矛盾を埋め込む、
それが創作動機の中心

結果として会田氏はセンセーショナルな作品を次々と生むことになるが、その過程で自身の新たなスタイルを発見する。近年の作品では、福島の原発問題に対する大衆のツイートを扱った「MONUMENT FOR NOTHING Ⅳ」(2012年)がそれだ。原発反対派、推進派の意見を大量に壁に貼り付けることで、互いの意見が別方向に引っ張り合い、力が均衡して動きが停止する―その状態を表現した作品だった。

僕は以前、ツイッターで「自分は作品にジレンマと矛盾を埋め込む、それが創作動機の中心。(一部抜粋)」とつぶやきました。ジレンマや矛盾、つまりある緊張状態で固まり停止しているものを作品として見せたいんです。反原発にせよ原発推進にせよ、それは「ある一方向の意志」ですよね。僕はそれ自体を作品にしたいとは思っていません。最近ではソーシャリー・エンゲージド・アートという言葉も出てきて、アーティストと社会活動家の区別がつかないような動きがあります。それはそれで良いと思いますが、僕はそれをやったらアートじゃなくなるという考えがあるんですね。そこは古い頑固者です。

© AIDA Makoto, Courtesy of Mizuma Art Gallery福島の原発に関するツイートを大量に貼り付けた「MONUMENT FOR NOTHING IV」は、会田氏が考えるジレンマや矛盾を表した作品だ

鑑賞者の内なる考えを引き出す会田氏の作品を始め、派手さはないが重要な作品を作る現代美術家は数多く存在する。題材や技法は、時代の変化とともに進化していくものだろうが、果たして既存の枠組みは、最先端のアートの存在に耐えうるだろうか。

僕は最近「アートは滅びるときが近付いている」という発言をする機会が多いのですが、それは第一に、19世紀ヨーロッパで形作られた「近代」という日本も明治以降に便乗した枠組みが、崩壊しつつあるという認識があるためです。アートも「近代」と密接に結びついたものですから、例えば富裕層だけが支える極端な構造のアート・マーケットや、今年バンクシーが自身の作品をシュレッダーにかけた事件などを見ても、それらは今までのアートの枠組みにおける末期状態の具体例であると僕には感じられます。また、インターネットによる社会の変化も、この認識を裏付ける決定的なものだと思っています。

 

フォトコンテスト2018 受賞者発表!

ニュースダイジェスト主催 フォトコンテスト2018 受賞者発表!

カメラかけがえのない旅の思い出から何気ない日常のふとした発見まで、今年も多くの力作が届いた、ニュースダイジェスト主催のフォトコンテスト2018。いよいよ栄えある受賞作品の発表です。今年は家族を被写体にした作品が数多く寄せられました。それでは、受賞者の皆さんによる思いのこもった写真を見ていきましょう!

テーマ「2017〜2018年の思い出」

王冠マチュア部門大賞

「ハイジ」
藤岡 聖陽さん 英国

「ハイジ」藤岡 聖陽(きよはる)さん

夏に家族でスイスへ行った際に撮影しました。マッターホルンを前に、息子が大好きなブランコで遊んでいる様子を残したくて、角度やタイミングを変えて何度もシャッターを切りました。2歳の息子が山をしっかり見ている点が特に気に入っています。まさか大賞を貰えるとは思いませんでした。応募を強く勧めてくれた妻に感謝です。

審査員コメント

遠近法を効果的に使った素晴らしい作品です。小さな子供を雄大なマッターホルンの前に配置し、しかもその山を子供が見下ろしているように撮影。青い空に子供が浮かんでいる構図も良いです。まさにタイトル通り、「ハイジ」のオープニングに出てくるようなユニークな、そしてよく考えられた写真ですね。

王冠 キッズ部門大賞

「いちごだいすきおにいちゃん」
加藤 立佳さん(6歳)英国 

「いちごだいすきおにいちゃん」加藤 立佳さん(6歳)

今年の5月に家族みんなで車に乗っていちご狩りにいきました。とっても大きないちごがいっぱい採れました。真っ赤で、甘くて、すごくおいしかったです。いつもはあんまり笑わないおにいちゃんも、いちごが大好きだから「うれしい」ってにこにこしていたので、写真を撮りました。

審査員コメント

本当にいちごが大好きな様子が男の子の表情から分かりますね。こんなにいっぱい収穫したという達成感にあふれた満足げな笑顔が、うまく切り取られています。これを撮影したのが妹さんというのも興味深いです。家族ならではのリラックスした表情と親密な時間が作品から伝わってきます。

「世界で最も美しい町」
佐藤 祐平さん イギリス 

「世界で最も美しい町」佐藤 祐平さん

チェコの南ボヘミア州に位置するチェスキー・クルムロフは町そのものが世界遺産。爽やかな夏空と鮮やかな森林に囲まれたルネッサンス時代の雰囲気が色濃く残る町並みを、目一杯ファインダーに閉じ込めてシャッターを切りました。「世界で最も美しい町」と称される場所の雰囲気が少しでも見る人に伝わればと思います。

審査員コメント

「世界で最も美しい町」の言葉そのものの完成度の高い写真です。空の青色を鮮やかに再現し、眼下に広がる家々を広角レンズで撮影することで緑に囲まれた町を強調。日中のコントラストの強い時間帯に撮影することで、夏の日差しが強調され、川の流れから爽やかな夏の風までも感じられるようです。 by JSTV

「Watching From Above」
アブドウラヒモフ 彩子さん イギリス

「Watching From Above」アブドウラヒモフ 彩子さん

片道約2時間の山登りの末たどり着いたノルウェーのプレーケストーレン、ここから見るフィヨルドは絶景でした。同宿のイギリス人夫婦がこの日ボート・ツアーに参加すると言っていたので、あれかなぁと思いながら撮りました。今夏一番感動した景色なので、このような形で思い出に残せて本当に嬉しいです。

審査員コメント

断崖絶壁、弧を描く船、そして撮影者の立っている位置。この3つのロケーションによって写真の距離感が表現されている、素晴らしい構図の写真ですね。また、旅行の一コマに見られる、それぞれの位置にいる人たちのそれぞれのストーリーが、何気なく語られているのも面白いと思いました。by KOTOHA

「X’mas illumination in London」
渡邉 一正さん 英国

「X’mas illumination in London」渡邉 一正さん

3年連続入賞ありがとうございます。宝酒造で乾杯予定です(笑)。毎年年末になるとLondon の大通りはX'mas イルミネーションで一気に輝き、別次元の美しさになりますよね。通りを歩いているだけで毎日感動です。それを会社帰りに撮りました。普段からいつもカメラを持ち歩き、そういった感動を記録するようにしています。

審査員コメント

昼が終わり、夜が始まる都会のわくわくする時間帯が青色のトーンで幻想的に表現されています。大通りのデコレーションが手前にくっきりと浮かび上がって不思議な遠近感が生まれ、赤信号やバスのブレーキ・ランプ、タクシーのヘッドライトが鮮やかなアクセントとなったモダンな作品ですね。 by Takara Shuzo

キッズ部門入賞

「じーじばーば、CHEESE!!」
ピラヤ なおみさん(11歳)英国 

「じーじばーば、CHEESE!!」ピラヤ なおみさん(11歳)

夏休みに日本に帰ったときに、鳴門の渦潮を見に行きました。そこでコンテストに応募する写真を撮っていたら、すごい風に吹かれてばーばの髪の毛がぼさぼさになったのが面白かったので、それを撮ろうとしたら後ろからじーじが覗いてきました。本当は一番になりたかったけど、いい写真が撮れたからうれしかったです。

審査員コメント

離れて暮らす孫に会えたうれしさ、カメラを持てるくらいまで育った孫に成長を感じた喜び、そんなじーじとばーばの愛情が感じることができました。サングラス越しにもじーじのほころぶ目元が容易に想像できます。お孫さんでなければ撮れないであろう、まさにキッズ部門に相応しい作品だと思います。by SAKAI Kuwahara Moving Service UK Ltd.

キッズ部門入賞

「下から見てみた」
森川 桜希さん(10歳)英国 

「下から見てみた」
森川 桜希さん(10歳)

受賞できてとてもうれしいです。夏休みにフランスのモネの家の庭で、花を下から撮ってみました。形のきれいな花を選び、周りに人がいないことに注意しながら撮りました。花びらが透き通って見えるところが気に入っています。僕は旅行で写真を撮るのが好きです。これからも景色の写真をたくさん撮りたいです。

審査員コメント

バランスや色も美しく、茎を長めに見せることで可憐な花をとてもよく表現できていると思います。花を裏側から見るという視点にも驚きました。見慣れている角度からではなく、視点を変えるという柔軟性をこれからも持ち続けて欲しいです。1本の花からも様々な発見があると教えられる一枚です。by WA café

キッズ部門入賞

「つばめの子」
ヘインズ 朋樹さん(11歳)イギリス 

「つばめの子」ヘインズ 朋樹さん(11歳)

入賞できてうれしいです。5月の終わりごろ家族とフランスに行ったときに撮りました。毎年同じ納屋でつばめが巣を作っています。大きくなった子供が巣からはみ出て落ちそうだったので、驚かさないようにゆっくり動きながら撮りました。つばめの表情がかわいくて好きです。これからも色々な写真を撮っていきたいです。

審査員コメント

つばめが巣を作るような高いところに登って撮影されたのですね。かなり近寄りストロボも発光されています。こちらを見ている愛くるしい目、そして私たちが普段見られない動物の生態を、これ以上ない撮影方法で切り取ったショットです。これからもどんどん撮影にチャレンジしてください。 by Paris Miki

キッズ部門入賞

「すてきな山」
吉田 美咲さん(11歳)英国 

「すてきな山」吉田 美咲さん(11歳)

賞をもらえたと知ったときは本当にびっくりしたけど、とてもうれしかったです。 この写真は、今年の夏休みにスイス旅行したときのもので、ハイキングの休憩時に寝転がって撮りました。手前の草がぼやけているのに遠くの山が奇麗に写っている所が気に入っています。絵はがきみたいな風景写真をもっと撮っていきたいです。

審査員コメント

立った姿勢で撮影されたものではなく、まるで植物の間に生息している昆虫のような視点で撮影されているところが新鮮に映りました。ダイナミックな景色を前にすると、視点が広がる風景にいきがちですが、そこに咲いている植物にも目を向けたところが面白いと思います。by Paris Miki

審査員総評

今年も素晴らしい作品が勢ぞろいし、大変審査の難しいコンテストでした。マチュア部門では構図の決め方を含め技術的に洗練されたハイレベルな作品が集まりました。キッズ部門についても大人とは異なるピュアな視点で切り取られた、勢いのある作品が多かったです。

受賞作品は日本語テレビ局JSTVで、2019年1月3週目より順次放送予定


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キヤノンヨーロッパ / 宝酒造株式会社 / NHK Cosmomedia (Europe) Ltd.
KOTOHA / WA Café / Paris Miki / SAKAI KUWAHARA MOVING SERVICE UK LTD


「UK Red Arrows @RIAT 2018」
前谷 恩頼人さん「UK Red Arrows @RIAT 2018」 前谷恩頼人さん

「White Water」
ウォング 彪悟さん「White Water」 ウォング彪悟さん

「変わらない海の中」
西尾 嶺さん「変わらない海の中」 西尾嶺さん

「白と灰色の世界」
石井 潤美さん 「白と灰色の世界」 石井潤美さん

「夕焼けのプロポーズ」関根 英輝さん 「夕焼けのプロポーズ」 関根英輝さん

 

福川伸陽:ホルンという楽器の可能性を極限まで追求する音楽家

福川伸陽

ホルンという楽器の可能性を
極限まで追求する音楽家
福川伸陽

ホルンというのはオーケストラではおなじみの金管楽器だが、単独で聴く機会は意外に少ない。そうしたなか、2019年1月に気鋭の日本人ホルン奏者の福川伸陽氏がロンドンの名門ウィグモア・ホールに登場、ソロ・ホルンの多様な可能性を追求した野心的なプログラムでデビュー・リサイタルを飾る。ロンドンに留学の経験もある福川氏は、現在NHK交響楽団の首席ホルン奏者を務めながら、ソリスト、また室内楽奏者としても多彩な活動を展開し、注目を浴びている。そんな福川氏にホルンとの出合い、楽器の魅力、そして本リサイタルについて話を伺った。
(インタビュー・文: 後藤菜穂子)

Nobuaki Fukukawa 神奈川県出身。2008年に第77回日本音楽コンクール・ホルン部門第1位受賞。2013年からNHK交響楽団首席ホルン奏者。ソリストとしては、パドヴァ・ヴェネト管弦楽団、京都市交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団、N響メンバーによる室内オーケストラ、横浜シンフォニエッタ、兵庫芸術文化センター管弦楽団、東京ユニバーサル・フィルハーモニー管弦楽団ほかと共演している。日本各地や米国・欧州などに数多く招かれており、「べネチア・ビエンナーレ」を始め、「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」「東京・春・音楽祭」など多数の音楽祭にもソリストとして多数出演。ソロCD「Rhapsody in Horn」シリーズがキングレコードより発売中。

ホルンとの出合い

中学生のときに吹奏楽部でホルンを始めたそうですが、幼少のころから音楽に親しんでいたのでしょうか。

音楽好きの父親のもとに生まれ育ったので、幼いときからクラシック音楽は結構聴いていました。父がかけていたLPレコードで、米作曲家ルロイ・アンダーソンやモーツァルト、ロマン派までひと通り聴いて育ちました。

ピアノは4歳から習い始めました。記憶にはないのですが、ピアノを習いたいと自分で言ったようです。当時はヤマハの音楽教室に通っていましたが、練習はあまり好きな方ではなく、ある程度は弾けるようになったものの中学受験をきっかけにやめてしまいました。

中学の吹奏楽部では本当はトランペットをやりたかったけれど、志望者が多くて、ジャンケンで負けてホルンになったと聞きました。そのときにお父様がホルンの魅力を教えてくださったそうですね。

はい、当時好きだった映画音楽の影響でトランペットがいいなと思っていたため、それまでホルンという楽器を注意して聴いたことがありませんでした。ホルン担当が決まったとき、「ホルンならこんな曲もいいよ」、と父が色々なクラシックの曲を聴かせてくれたのです。今でも覚えているのは、マーラーの「大地の歌」やモーツァルトのホルン協奏曲。それを聴いて本当に色々な音がする良い楽器だなと思いました。

福川さん 中学の吹奏楽部でジャンケンに負けたことがホルンを選ぶきっかけになったと語る福川さん

ほどなくホルンにのめりこんでいかれたのですか。

そうですね。楽器を始めて数カ月もたたないうちに自分でモーツァルトのホルン協奏曲の楽譜を買って吹いていました。友だちにピアノで伴奏を弾いてもらって。実は吹奏楽のホルン・パートというのは目立つソロもさほどなくて、あまりやりがいがないんですよ。たぶん吹奏楽だけだったら途中で飽きていたと思います。だから自分でホルンのソロの曲を吹いていました。例えば、音が良く響く学校の階段の踊り場でソリスト気分で吹いてみたり(笑)。楽しかったですね。

ホルンを本格的に学ぶようになったのはいつでしょうか。

中学3年生の終わりごろに、ホルン奏者の丸山勉さんのリサイタルを聴いて感動し、サイン会に並んで弟子にしてくださいとお願いして、レッスンを受け始めました。そのころから、自分も上手になって音楽で食べていけるようになれたらいいなと思うようになったのです。

ただ、ピアノもそんなに好きではないし、勉強も長続きしない。日々練習しなければならない音楽家のような職業には向いていないのではないかと、その当時両親から言われました。後から聞いた話では、音楽好きの父親は内心うれしかったようなのですが、僕が怠けやすい性格であることを知っているので、表向きは簡単には賛成してくれなかったですね。それを思うと、今の僕は本当によくホルンを練習しています。練習しない日があるとすごく罪悪感がありますし、家族旅行にも楽器を持って行き、練習できないとそわそわします(笑)。

その後、東京の音楽大学に進まれましたが、中退して20歳でオーケストラのオーディションに受かり、プロの音楽家としての道を歩み始めます。もし音楽家になっていなければ、どんな道に進んでいたと思いますか。

音楽家でなければ、考古学者になりたかったです。これは米映画の「インディー・ジョーンズ」からの影響ですが(笑)。考古学にはロマンがあると思います。数少ない証拠から、当時何があったかを推測するというのはおもしろい職業ですよね。考えてみればクラシック音楽も、作られた当時の曲がどんな風だったか、少ない資料から想像して自分の中で作品を組み立てていくので、その点では考古学にも通じるものがあるかもしれません。

レパートリーを
広げるということはすごく大切

福川さんは、日本フィルハーモニー交響楽団の首席ホルン奏者を経て、現在はNHK交響楽団(N響)の首席ホルン奏者を務めていらっしゃいますが、その一方でソリストとしての演奏活動にも力を入れておられますね。

オーケストラに入ってからもソロや室内楽は絶対続けたいというのは、大学生のころから思っていました。80人~100人のオーケストラの一員として演奏するのも素晴らしいのですが、その一方で僕は、職人的な奏者にはなりたくなかったのです。オーケストラでは指揮者がいるので、どうしても主体性が少なくなります。ですから、オーケストラと同時に、室内楽やソロを車輪の片方としてやっていかないと、音楽家としてつまらなくなってしまう、ということを感じていました。

ホルン奏者には、トランペットやトロンボーンほど知られたソロ奏者がいないようにも思うのですが、有名なホルン奏者といえばどんな方がいますか。

伝説的なホルン奏者といえば、英国人のデニス・ブレイン(1921年~1957年)が挙げられますが、残念ながら若くして自動車事故で亡くなってしまいました。今回のロンドンでのリサイタルでは、ブレインのために書かれた作品も取り上げます。

ホルン奏者は割合い保守的な人が多いためか、「現代音楽がすごく得意なホルン奏者」というのは少ないのです。これは自説なのですが、トランペットやトロンボーンに比べて、協奏曲や室内楽曲など、それなりにソロのレパートリーに恵まれているので、新しい曲に挑戦しようという気持ちがあまり生まれないのではないかと思っています。でも僕自身はレパートリーを広げるということはすごく大事だと感じていて、現代の気鋭の作曲家たちに積極的に委嘱活動をしています。

金管楽器というのは唇への負担が大きいので、練習時間が限られると聞いたことがあるのですが、ホルンはどのくらい練習するものなのでしょうか。

1日3時間が限界と書いてある教則本もありますが、個人的には3時間では足りないと思います。オーケストラのホルン奏者だけの方はそれでも良いかもしれませんが、例えば今回のリサイタルでも演奏する藤倉大さんの曲をマスターするには1日3時間の練習では足りないです。ソロ・リサイタルというのは、2時間近くずっと1人で吹かなければならないので、そのためのスタミナ作りも重要です。

ホルンを演奏する上で男女差というのはありますか。

差はあると思います。女性は豊かで大きな音が出しづらい傾向があり、逆に男性は小さくて美しいフレーズを出すのが苦手なことが多いので、一長一短ですね。日本ではまだ女性奏者はオーケストラに採用されにくい傾向はありますが、最近では神奈川フィル、名古屋フィル、山形交響楽団などで女性奏者が活躍し始めています。世界的にはベルリン・フィルのサラ・ウィリスさんやロンドンのオーケストラにも上手な女性奏者がいますし、これから増えていくだろうと思います。私自身、教えるときはもちろん平等に扱いますし、上手な子がいたら男性でも女性でもうまく育っていってほしいですね。

ロンドンの留学時代の思い出

福川さんは10年ほど前にロンドンに留学されていたそうですね。

はい、2006年~2007年に、日本のオーケストラから1年間お休みをもらい、当時ロンドン交響楽団の首席ホルン奏者だったデービッド・パイアット先生(現在はロンドン・フィルの首席)のレッスンを受けに行きました。留学中はレッスンのほかにも、ワレリー・ゲルギエフ指揮のロンドン交響楽団の演奏会にも参加させて頂き、ロンドンのオーケストラを実地で経験することもできました。また、あれだけ演奏会やオペラ、博物館や美術館に行ける時間というのはそれまでなかったので、本当に楽しい留学生活でした。

パイアット先生からはどんなことを学びましたか。

パイアット先生に師事したのは、彼がオーケストラだけではなく、ソロや室内楽でも活躍していて、僕自身もソロもオーケストラもできる奏者になりたいという目標を持っていたからです。彼からはオーケストラで吹くときにはこういう音を出すべきだ、ということも教えてもらいましたし、また協奏曲ではどんなことを大事に考えながら演奏しているかなども学びました。僕もたくさん質問しましたし、たくさん答えてもらいましたね。

その当時はロンドンのどちらにお住まいでしたか。家でホルンの練習はできましたか。

地下鉄ノーザン線のウッドサイド・パークに住んでいました。アイルランド人の大家さんを、「僕は将来世界で1番上手な奏者になるんだから、僕に貸しておけば後に自慢の種になりますよ」と騙して借りたのです(笑)。試しに大家さんの前で吹いてみて、家で練習しても大丈夫と許可をもらえたので、心ゆくまで練習できました。

昨年は、現在所属されているN響の海外公演でロンドンにいらっしゃいましたね。

ええ、本当に久しぶりのロンドンでした。ロイヤル・フェスティバル・ホールでマーラーの「交響曲第6番」を演奏したのですが、相変わらずロンドンのホールの音響はドライだと感じました(笑)。でも実はホールの音響がドライだからこそ、ロンドンのオーケストラのホルン・セクションは柔らかくて豊かな音をしているのです。ホールの響きに頼れないから、自分たちでそういう音を作り出しているんですね。そうやってオーケストラのサウンドというのは作られていくのだと実感しました。1月に演奏するウィグモア・ホールはとてもすばらしい音響なので、その心配はありませんが。

ロンドンでの初リサイタルについて

1月にはロンドンの名門ウィグモア・ホールで初のリサイタルを行いますが、プログラムについてお聞かせください。

今回のプログラムは、英国及び僕と繋がりのある作品というコンセプトで組み立ててみました。前半はホルンのみで演奏、後半はピアノ伴奏でお贈りします。

まずは英国の20世紀を代表する作曲家ベンジャミン・ブリテンの「セレナード」の「プロローグ」で幕を開けます。ブリテンの「セレナード」は本当に英国らしさのある名曲です。その次に英国在住でこれまでも何度もコラボレーションをしている藤倉大さんの最新作「はらはら」を演奏します。後半はホルン・ソナタを2曲。ドイツの作曲家パウル・ヒンデミットのソナタは、先ほど述べたホルンの名手デニス・ブレインが得意とした曲です。アカデミックな面白さがあって、英国で勉強してから良いレパートリーだと思えるようになってきました。英国の作曲家ヨーク・ボーエンのソナタは普段なかなか取り上げられない曲ですが、ピアノとホルンが対等な構成で、内容もしっかりした曲です。既に日本で何回も演奏していますが、英国の聴衆の前で演奏させて頂くのをとても楽しみにしています。

ホルンという楽器の可能性を極限まで追求したエキサイティングなプログラムだと思います。リサイタル、本当に楽しみにしています。ありがとうございました。

福川伸陽ソロもオーケストラもできる奏者を目指してきた

ホルン豆知識

ホルンの形状 金管楽器のホルンは、複雑に曲がりくねった管を持ち、音の出る円錐状に開いた部分(ベル)が後ろ向きについているのが特徴。その形は19世紀に、狩猟時に馬上で吹く角笛から発展した。角笛のベルは後方の仲間に音が届くよう後ろ向きになったといわれるが、それを利用したホルンは、ステージの後ろの壁に反射した音を観客に聴かせている。そのため、ホールの奥行や壁の材質に大きな影響を受ける。

ホルンの魅力 1つの指使いで20余りの音が出せるホルンは、世界で1番演奏が難しい楽器としてギネス・ブックに掲載されているそう。唇のわずかな開け閉めや、ベルに入れる右手の使い方一つで、暖かな音から金属的な音まで幅広い音域が出せる。その万能振りに、独作曲家のシューマンはホルンを「オーケストラの魂」と呼んだそう。

ロンドン公演

Nobuaki Fukukawa Horn Recital
福川伸陽(ホルン)、竹沢絵里子(ピアノ)

2019年1月5日(土)13:00開演
チケット: £18(学生 £12)

会場: Wigmore Hall
36 Wigmore Street W1U 2BP
最寄駅: Bond Street

チケットお問い合わせ先
Tel: 020 7935 2141 
https://wigmore-hall.org.uk

コンサートに関する問い合わせ先
エイベックス・クラシックス・インターナショナル
www.avexrecitalseries.com

プログラム

ベンジャミン・ブリテン: セレナード 作品31より「プロローグ」
藤倉大: はらはら *英国初演
細川俊夫: 小さな花
オリヴィエ・メシアン: 「峡谷から星たちへ」より「恒星の呼び声」
イェルク・ヴィトマン: Air
狭間美帆: Letter from Saturn
パウル・ヒンデミット: ホルン・ソナタ
ヨーク・ボーエン: ホルン・ソナタ

※止むを得ない事情により曲目・曲順等が変更になる場合がございます

 

第一次世界大戦はなぜ起きたのか?教科書には載ってないエピソードも

第一次世界大戦を簡単に解説英国・ドイツ・フランスから見る
第一次世界大戦

1914年のサライェヴォ事件を発端に勃発した第一次世界大戦。欧州を中心に世界を巻き込んだ未曽有の大戦では、4年間で軍人と一般市民をあわせて1500万人以上の死者が出たと言われる。また、その後の第二次世界大戦を始めとした現代史にも大きな影響を与えた出来事でもあった。近代化の道を進んでいた日本が、日英同盟をもとにドイツへ宣戦布告し、中国進出への布石を打った大戦としても、注目すべき転換点だ。まずは、第一次世界大戦とはどんな戦争だったのか、その歴史をポイントごとにおさらいしていこう。
(Text:英国ニュースダイジェスト・ドイツニュースダイジェスト編集部) 
参考文献:『詳説世界史B』(山川出版社)、『世界史B』(実教出版)

第一次世界大戦 年表

1908年 オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合
1912年 第一次バルカン戦争
1913年 第二次バルカン戦争
1914年 6月28日 サライェヴォ事件
7月28日 第一次世界大戦勃発
8月26日 タンネンベルクの戦い(ドイツvs ロシア)
9月5日 マルヌの戦い(フランスvsドイツ)
1916年 2月~12月 ヴェルダンの戦い(フランスvsドイツ)
6月~11月 ソンムの戦い(英国・フランスvsドイツ)
1917年 2月 ドイツが無制限潜水艦作戦を宣言
3月・11月 ロシア革命
1918年 11月 ドイツ革命
11月11日 第一次世界大戦終結
1919年 パリ講和会議

第一次世界大戦の背景
「ヨーロッパの火薬庫」だった
バルカン半島

20世紀初頭、欧州の帝国主義列強諸国の間では、バルカン諸国とオスマン帝国の動向に関心が集まっていた。特にオーストリアは国内のスラブ系民族による分離・自治運動が激化することを恐れ、セルビアなどのバルカン地域の台頭を抑えこもうとした。1908年、オーストリアはスラブ系民族の多いボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合 。しかし、スラブ系民族主義者はこの併合に強く反対した。

一方、ロシアはオーストリアの進出に対抗して、セルビアなどの4カ国をバルカン同盟として結束させた。その後、対オスマン帝国の第一次バルカン戦争、同盟内で争った第二次バルカン戦争が勃発。各列強が特定のバルカン諸国と結びついていたため、列強諸国の関係は更に緊張が高まり、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるようになった。

逮捕されるセルビア人男性オーストリア帝位継承者夫妻を襲撃し、逮捕されるセルビア人男性

第一次世界大戦の勃発
大戦の引き金となった
サライェヴォ事件

1914年6月28日、ボスニアの州都・サライェヴォを訪問中だったオーストリア帝位継承者夫妻が、セルビア人に暗殺されるサライェヴォ事件が起こった。オーストリアはこれをスラブ系民族運動を抑えるチャンスと捉え、7月28日にドイツの支持を得てセルビアに宣戦を布告し、第一次世界大戦が勃発した。オーストリア側にドイツ、セルビア側にロシアが参戦したことから、英仏露の三国協商により、英国とフランスもドイツに宣戦した。

結果的に、ドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ブルガリアの4カ国からなる同盟国と、英国、フランス、ロシアなどの27カ国の連合国が参加する大戦争へと発展した。

第一次バルカン戦争で進軍するオスマン帝国の兵士たち第一次バルカン戦争で進軍するオスマン帝国の兵士たち

第一次世界大戦の終結
平和構築を目指し、
国際連盟が誕生

1917年、ドイツは連合国側の物資輸入を困難にするため、無制限潜水艦作戦と称し、潜水艦で無差別に船舶を攻撃。これにより、連合国側と結びついていた米国がドイツに宣戦した。その後、ドイツは不利な状況に追い込まれ、1918年の秋に同盟国側が相次いで降伏する事態に。同年11月11日、ドイツの臨時政府が休戦条約に調印し、戦争が終結した 。

1919年、英国、フランス、米国、イタリア、日本が中心となってパリ講和会議が開かれた。その結果、ドイツの戦争責任や軍事制限を取り決めたヴェルサイユ条約などから作られた国際秩序を、ヴェルサイユ体制と呼ぶ。また、同会議内で平和維持を目的に国際連盟が設立された。

パリ講和会議にて、米ウィルソン大統領ら三巨頭を含む国際連盟委員会パリ講和会議にて、米ウィルソン大統領ら三巨頭を含む国際連盟委員会

第一次世界大戦の戦禍
長期化した塹壕戦と
新兵器の投入

戦争はドイツのベルギー侵入から始まった。しかし、マルヌの戦いでフランス軍がドイツ軍を阻止。それ以後、西部戦線では両軍とも塹壕に立てこもる膠着状態となり、長期にわたる持久戦となる。一方、東部戦線ではタンネンベルクの戦いでドイツ軍がロシア軍を破ったものの、やはり膠着状態に。西部戦線では更に、ヴェルダンの戦いやソンムの戦いなどの激戦があったが、勝敗は決まらなかった。

この大戦では、航空機、毒ガス、戦車などの新兵器が使われるようになった。その開発と大量生産能力は、各国の工業力によっていたため経済戦争とも言われる。また、多くの人員と物資を動員した総力戦であり、英国やフランスは自国の植民地から労働力や兵員、物資を補った。

フランスの西部戦線に配置された英軍の戦車フランスの西部戦線に配置された英軍の戦車

第一次世界大戦の影響
国民の不満が革命に繋がった

総力戦となったことで、交戦国では経済統制や食料配給制度が実行され、その結果として各国の社会と国民に大きな変動をもたらした。特にロシアとドイツでは食料暴動や反戦ストライキなどが多発し、国民の不満はやがて革命へと繋がっていく。1918年3月と11月に起こったロシア革命によりソヴィエトが、終戦直前に起こったドイツ革命により1919年にヴァイマル共和国が誕生。古い政治体制は終焉を迎えた。

この大戦は、非ヨーロッパ諸地域の人々の自立への自覚と期待を高めることにもなり、特に、アジアでは独立運動や民族運動などが盛んになった。

ロシアの革命ロシア二月(別称、三月)革命(ロシア歴2月)で起こった女性参政権を求める運動

教科書には載っていない
第一次世界大戦の逸話

ここでは第一次世界大戦を更に詳しく知るために、英国・ドイツ・フランスにまつわる10のトピックスを軍事・芸術・エピソードの3つのカテゴリーに分けて紹介する。

軍事

フランス仏北東部には人が住めない地域
「ゾーン・ルージュ」が存在する

第一次世界大戦中、300日にも及ぶ最長の紛争となったフランス軍とドイツ軍による「ヴェルダンの戦い」。その昔、農耕地として小さな村が点在していたフランス北東部ムーズ川周辺の地域で勃発したこの戦いがきっかけとなり、戦後100年が経過した現在も人々が住むことができない危険地域「ゾーン・ルージュ(レッド・ゾーン)」が生まれた。

このゾーン・ルージュには、1914年に第一次世界大戦が始まり、ヴェルダンの戦いが終わるまでの間、フランス軍とドイツ軍が大量に弾薬や銃などの兵器をこの地に投入したことで環境が破壊され、今も約170平方キロメートルが立ち入り禁止区域として制限されている。

ゾーン・ルージュ戦争で使用したであろう兵器の残骸が現在も残る

当時、フランス政府がこの地域の対処を検討したものの、弾薬や銃弾をすべて取り除くことは難しいと判断し、1919年にここを危険地域「ゾーン・ルージュ」に指定。半強制的に住人を退去させることが決定したのだった。

現在もこの地域には戦闘の爪痕が残り、不発弾などが埋まっている。ゾーン・ルージュの取材に赴くジャーナリストや、この地域近郊を訪れる観光客、制限区間外で暮らす近隣の人々は常に危険にさらされている状況だ。

参考資料:National Geographic「France’s Zone Rouge is a lingering reminder of World War I」

ドイツ人々の夢と希望を乗せた「ツェッペリン飛行船」が軍事用に使われていた

戦争に利用されていたツェッペリン飛行船戦争に利用されていたツェッペリン飛行船

元ドイツの陸軍将校であったフェルナンド・フォン・ツェッペリン伯爵が開発した硬式飛行船「ツェッペリン」。1900年に最初の飛行を成功させた後、第一次世界大戦が始まるまで1500回以上の飛行で約3万5000人を乗せた。しかし、戦時中には英国に対する爆撃用としてツェッペリンが利用されることになる。1914年~1918年の間にドイツの陸軍と海軍に貢献した123機の飛行船のうち、101機がツェッペリン社製だったと言われる。戦後は再び旅客船として復帰するが、1930年代に相次いで事故が発生したため製造が中止された。ちなみに、ツェッペリン伯爵は第一次世界大戦の終戦を見届けることなく1917年に死去した。

参考資料:Die Welt「GESCHICHTE ERSTER WELTKRIEG Ein Zeppelin eröffnete den Luftkrieg gegen London」、BBC「world war one」、History「Zeppelin führt Luftschiff vor」

英国前線で任務に就くため大量の動物たちが動員された

船で前線に送られるロバ船で前線に送られるロバ

第一次世界大戦では1600万頭以上の動物が動員され、様々な任務を担った。自動車やトラックが発明されたばかりだった大戦初期には、部隊の移動に使うための馬を前線に大量に投入。その数は800万頭とも言われ、地方の農村ばかりか同盟国や植民地からも供出が行われたそう。また、ロバやラクダも武器・食糧・医薬品の輸送に使われ、犬と鳩は伝令に、猫は塹壕のネズミ退治に、カナリアは生きた毒ガス探知機として、人間のためにそれぞれ命の危険を冒した。更に動物たちはときとして兵士たちを慰めるマスコットとしての任務を果たしたという。

参考資料:IWM「15 ANIMALS THAT WENT TO WAR」

芸術

ドイツ詩人ヘルマン・ヘッセが新聞に戦争批判を寄稿していた

「車輪の下」や「少年の日の思い出」などで知られるドイツ南部ヴュルテンベルク王国(現バーデン=ヴュルテンベルク州)カルフ出身の作家、ヘルマン・ヘッセ(1877年~1962年)。20世紀を代表するドイツ文学の雄である彼の著者は60以上の言語に翻訳され、現在でも世代を越えて親しまれている。

激動の時代に生きたヘルマン・ヘッセは、1912年にスイスのベルンに移住した後、第一次世界大戦中にはドイツ人の戦争捕虜を救出する活動を行っていた。彼は自身をあくまでも詩人であるとし、政治的な職務に関する申し出があった際は常に拒絶していたと言われる。第一次世界大戦中には、2ダースにもなる戦争を批判する文章をドイツ語の新聞に発表した。また1917年、とある手紙に政治的な職務に対して積極的になれない理由を述べている記述が残っている。「私は政治的な事柄には全然向いていないのです。さもなければ、私はとうに革命家になっていたでしょう」。

ヘルマン・ヘッセ激動の時代を生きたヘルマン・ヘッセは常に平和を祈った

第一次世界大戦後に出版された「デーミアン」、「東方への旅」により知名度は上がり、そして第二次世界大戦後の1946年、晩年に書き上げた作品「ガラス玉遊戯」でノーベル賞を受賞した。

また、ヘルマン・ヘッセは早い段階からナチズムを批判していたとされており、常に平和を訴え、人間性について問う詩人であった。

参考資料:ヘルマン・ヘッセ財団 文学、生涯の道のり、政治についての記事より

フランス作曲家モーリス・ラヴェルは戦死した友人のために作曲した

モーリス・ラヴェル戦死した友人に向けた曲を作ったモーリス・ラヴェル(写真奥)

バレエ音楽「ボレロ」などで知られる、フランスを代表する近代音楽の作曲家、モーリス・ラヴェル。第一次世界大戦中は自身も従軍し、多くの友人を亡くした。1914年~1917年にかけて作られたピアノ曲「クープランの墓(Le Tombeau)」は、戦争で命を落とした友人に捧げられた6曲からなる。戦禍とは裏腹に、この曲の明るい響きはラヴェルの反戦の意思が込められているのかもしれない。また、戦後10年以上経ってから、第一次世界大戦で右腕を失ったウィーンのピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタインのために「左手のためのピアノ協奏曲(Concerto pour la main gauche)」も作曲している。

参考資料:音楽之友社「ラヴェル ピアノ曲集Ⅶ」「ラヴェル ピアノ協奏曲 ト長調/左手のためのピアノ協奏曲」内容紹介より

英国画家ノーマン・ウィルキンソンが戦艦の塗装「ダズル迷彩」を発案

通常、迷彩(カモフラージュ)柄は、自分の姿を周囲の環境に溶け込ませ、目立たなくさせるためのものだが、海軍兵でもあった海洋画家のノーマン・ウィルキンソン(1878年~1971年)が考案した迷彩柄は、激しい幾何学模様で目立つデザインだった。ドイツの潜水艦U ボートに次々と沈められていく英艦船に心を痛めたウィルキンソンは、そもそも海上で戦艦を「目立たなくさせる」のは不可能だとし、代わりに戦艦の種類や速度、そして進行方向を見誤らせるような、敵を惑わす(ダズル)デザインを考案するに至った。効果のほどはともかく、兵士には好まれ戦意高揚に役立ったという。

参考資料:IWM「5 FACTS ABOUT CAMOUFLAGE IN THE FIRST WORLD WAR」

カモフラージュモーリス・ラヴェル派手なカモフラージュの模様で敵を欺く戦艦(絵画はウィルキンソン作)

エピソード

英国&ドイツ英独兵士が祝った一度きりのクリスマス休戦

約4年という長期にわたる過酷な戦いとなった第一次世界大戦。1914年7月の開戦当初は誰もが「クリスマスまでには終わっているだろう」と想定したが、戦況は混迷し各地で泥沼の持久戦が続いた。西部戦線でにらみ合う英独両軍の兵士たちは、当時の最新兵器である機関銃の弾幕から身を守るため、それぞれの塹壕で冬を迎えた。

クリスマス休戦敵・味方関係なくクリスマスを祝った英独の兵士たち

1914年12月24日、いつものように塹壕で夜を明かそうとしていた英兵たちは、ドイツ語で歌われる「きよしこの夜」を耳にする。その歌声は、遠く離れた暗闇の、ドイツ軍の塹壕から聞こえていた。英兵たちが続けて英語で同曲を歌うと、ドイツ軍から歓声が上がった。戦争に疲れ切っていた両軍の兵士は、武器を置き、塹壕から顔を出す。そしてお互いの距離を縮め、ついにはクリスマスを共に祝い始めたのだ。兵士たちは無人地帯に戦友の遺体を共同で埋葬し、たばこの火を交わし、更にパンや缶詰めなどの貴重な食料の交換まで始めた。英独の兵士によってサッカーの試合が行われたという話もある。この休戦は、西部戦線の各地に広がり、一部では数日間にわたって非公式の休戦が実現したとされる。

参考資料:WM「THE REAL STORY OF THE CHRISTMAS TRUCE」、IWM「VOICES OF THE FIRST WORLD WAR: THE CHRISTMAS TRUCE」、BBC「What really happened in the Christmas truce of 1914?」

英国&ドイツ独ヴィルヘルム2世と英ジョージ5世はいとこ同士

独ヴィルヘルム2世、英ジョージ5世(写真左)左)独ヴィルヘルム2世 右)英ジョージ5世(写真左)

エリザベス女王の祖父ジョージ5世(1865年~1936年)と、ドイツ最後の皇帝、ヴィルヘルム2世(1859年~1941年)はいとこ同士。2人ともビクトリア女王の孫に当たる。ビクトリア女王の夫アルバートがドイツ人であることから、2人は英独の血を同じように受け継いでおり、容姿も似通っていた。そんな2人が王座に就いていたときに第一次世界大戦が勃発する。親戚ながら敵同士になってしまったジョージとヴィルヘルム。ジョージは自国民の反独感情を考慮し、祖父アルバートから継いだ家名ザクセン=コーブルク=ゴータを捨て、当時の王室の住まいにちなんだウィンザー家に改称した。一方、ヴィルヘルムはドイツ革命がもとでオランダに亡命し、ドイツ帝国は共和制に移行した。

参考資料:The Telegraph「How German is the Queen?」、Brookings「The Family Relationships that Couldn’t Stop World War I」

フランス戦う兵士にワインを振る舞ったフランス軍

第一次世界大戦中、フランス軍から配給されるワインが重要な役目を果たしていたという。戦争が長引くなか、1914年には1人当たり1日1/4ℓ、1916年には1/2ℓ、1918年には3/4~1ℓと、年々ワインの消費量が増加。当時のフランスでは、ワインは特に高級なものではなく、品質を楽しむという習慣もなかったが、ワインを嗜む文化は根付いていた。祖国を思い出したり、仲間の死を乗り越えたり、家族に会えない悲しみを忘れるためにワインを飲んでいたと考えられている。終戦後もワインを飲み続けた元兵士たちによって、フランスでは更にワインがポピュラーとなり、ビールやシードルが主流だった地域にもワインが広まっていった。

参考資料:France24「Grande Guerre : quand le pinard était une arme pour la France」、Le Point 「Le vin en 14-18, indispensable compagnon du Poilu」、Larvf「Le vin dans l'Histoire:le vin de la Grande guerre」

英国英国の人々の胸を彩る追悼の赤いポピー

英国では、毎年10月ごろから、紙でできた赤い花の飾りを服に付けた人々を見かけるようになる。一般に「ポピー」と呼ばれるこの花は、第一次世界大戦終了直後の欧州大陸で、荒廃した戦場を真っ赤に埋めるように咲いていたという。以降、この花は命を落とした兵士たちが払った犠牲を象徴するものとなった。人々は第一次世界大戦はもちろん、すべての戦いに倒れた兵士への追悼の意を込めポピーを胸に飾る。終戦から100年を記念する今年は、英国各地でポピーをモチーフにしたアート・イベントも開催されている。

ポピー・アピールリバプール・ストリート駅での募金活動

 

ドクターマーチンの歴史から紐解く英国文化 - ユース・カルチャー発展の立役者

ユース・カルチャー発展の立役者
ドクターマーチンの
歴史から紐解く
英国文化

おしゃれな英国ファッション・アイテムとして有名な靴ブランド「ドクターマーチン」。今やオックスフォード英語辞典にも載るほど知名度の高いブランドだが、その栄光を手にするまでには長い道のりがあった。戦後の少ない物資のなか、考案者たちの情熱によって誕生。やがて英経済を土台から支える労働者と、人生を謳歌する若者たちを鼓舞し続ける存在になった、ドクターマーチンの光と影に迫る。(文: ニュースダイジェスト編集部)

ドクターマーチンを履いた若者 1979年、ロンドンのショップ「ボーイ」の前に立つパンクたち

誕生のきっかけは足首の負傷だった

英国ブランドとして世間に知られているドクターマーチンだが、実は1945年のドイツで生まれ、立ち位置も現在のようなファッション・アイテムとは異なるものだった。考案者は独軍医のクラウス・マルテンス。スキー中に足首を負傷してしまったマルテンスは、それまで履いていたミリタリー・ブーツが痛めた足には硬すぎたため、歩行の際の衝撃を和らげ、足が疲れないソールを作ることにした。材料は、戦後の混乱に乗じて手に入れた廃材や皮革などを利用したという。こうして第二次大戦直後のミュンヘンで生まれた「エア・クッション・ソール」は、ドクターマーチン誕生の大きな一歩となった。ブランドの始まりは、意外にもマルテンスに起きた個人的な出来事だったわけだが、これが後に英国へ進出するキー・ポイントとなる。

マルテンスは若いときに靴の修理工として働いた経験があったものの、製作にはより精密な技術や専門的な知識が必要となったため、大学時代の旧友で、機械工学の知識を持つヘルベルト・フンクを訪ね、2人で協力して商品化を目指した。そして2年後の1947年、エア・クッション・ソールを搭載した靴の販売を開始。それまでミリタリー・ブーツしか履くものがなかった労働者階級の男性や主婦たちに大ヒットし、2人の靴は瞬く間に知名度を上げ、業績はうなぎ上りだった。

転機が訪れたのは1959年。2人はもっと大きな市場での流通を目指し、海外へ視野を向ける。早速、英国の靴業界専門誌に広告を出した。これに目をつけたのが、英中部ウォラストンで家族経営の製靴業を営んでいたグリッグス家のビル・グリッグス。同家は1901年の創業以来、丈夫なワーク・ブーツを作る老舗として知られており、ビル・グリッグスはこの革新的なソールに興味をそそられた。2人の新たなスタートには最高のパートナーだったといえるだろう。

クラウス・マルテンス、ヘルベルト・フンク、ビル・グリッグス 左)スキーを楽しむクラウス・マルテンス(写真右)とヘルベルト・フンク(同左) 
右)ドクターマーチンを英国にもたらしたビル・グリッグス

エア・クッション・ソールのプロトタイプエア・クッション・ソールのプロトタイプ

1930年代のコブスレーン工場1930年代に撮影されたグリッグス家のコブスレーン工場

アイコンとなった「1460」

グリッグスは、マルテンスとフンクが開発したエア・クッション・ソールの製造特許を獲得し、製作に取り掛かる。エア・クッション・ソールの考案者、マルテンスを英語読みにした「ドクターマーチン」は、8つのレース・ホールを持ち、濃い赤色のオックスブラッドのブーツとして、1960年4月1日から正式に生産をスタート。日付にちなみ、このモデルは「1460」と名付けられた。商品化にあたり、ソールに改良を加えたほか、丸みを帯びたフォルム、靴の周りを一周する黄色のステッチ、履き口に取り付けられた黒と黄色がポイントのヒール・ループ、ツートンの溝付きソール・エッジなどのアレンジを加え、特徴となるソールを「エアウェアAirwair」と呼び、キャッチ・フレーズ「ウィズ・バウンシング・ソールズWith Bouncing Soles (弾む履き心地のソール)」とともに、世に送り出した。

発売後の数年間は、「頑丈で、そこまで高額ではない靴」として、ドイツと同じく労働者階級の男性を中心に飛ぶように売れ、特に警察官、工場従事者、郵便局員たちの間にいち早く浸透していった。また、発売額が2ポンド(現在の約40ポンド)と手ごろだったのも売り上げを後押した要因だった。ちなみに、当初はロンドン東部の魚市場で働く人へ向けて、靴をオイル仕上げにして販売する予定だったが、加工なしでも耐久性に差がなく、またマットでラフな感じが逆にアピール・ポイントになったため、結局その過程は省略されたという。

やがて「ドクDocs」「DMs」などの愛称で幅広く親しまれていったこの靴が、ただのワーキング・ブーツの枠から飛び出すのにそう時間はかからなかった。労働者階級の便利な靴が、しだいに英国のカルチャー・シーンに必要不可欠なアイテムになっていくのである。

ドクターマーチン1460モデル左)1460モデル。現在は柔らかいレザーを使っている 
右)1960年代に使われたドクターマーチンの広告

英国の文化、社会に与えた影響

第二次大戦後、英経済が軌道に乗るに従い、英国の若者たちは給料をファッション・アイテムにつぎ込むようになり、1950年代後半から主にロンドンに住む中流階級の間で誕生した(諸説あり)「モッズ」が世間をにぎわせ始める。モッズは、細身の3つボタン・スーツにミリタリー・パーカを身に纏い、音楽をこよなく愛し、スクーターで街を移動する若者のこと。労働者階級のモッズたちは、懐に余裕があるときにスーツを購入していたようで、普段はワーキング・ブーツやミリタリー・ブーツを履き、ボタンダウン・シャツにストレートのリーバイスなど、実用的なアイテムを身に付けていることが多かったという。このスタイルは、1960年代後半から「スキンヘッド(スキンズ)」と名を変えて独自のスタイルを築いていくことになる。思想により、スキンズ内で名称は細分化するのだが、いずれにせよ、生まれたてのスキンズは、自身の階級の誇りを表すアイテムとして、ドクターマーチンを選んだ。

このように、アイデンティティーを主張する手助けとなったドクターマーチンだが、その名を世に知らしめ、また英国を代表するブランドに躍進させた最も重要な立役者は「ミュージシャン」であった。

1967年、英ロック・バンド、ザ・フーのピート・タウンゼントは、英北部のとあるショップで、ライブのためにドクターマーチンのブーツを購入。派手なステージ、パフォーマンスで知られるタウンゼントは、そのステージでも、ドクターマーチンを履いて自由に跳ね回った。もちろんブーツはカメラマンが捉えた印象的なシーンにことごとく写り込み、ファンの目に飛び込むのに時間はかからなかった。また、タウンゼントはブーツについて「柔らかさと、足へのなじみの良さを兼ね備えたこのタフなブーツが、自分のパフォーマンスをより高みへ導いた」と、絶賛したという。タウンゼントはドクターマーチンを早期に履いた有名アーティストの1人であるが、その後もパンク・バンド、ザ・クラッシュのジョー・ストラマー、スカ・バンドのマッドネス、ロック・バンド、ザ・スミスのボーカル、モリッシーなど、数え切れないほどのミュージシャンたちが愛用。また、ファンたちもこぞってファッションを真似することで、愛用者を着実に増やしていった。こうしてドクターマーチンは、偶然に助けられながらも、英国のユース・カルチャーを支える必須アイテムとして君臨したのである。

ピート・タウンゼントライブでドクターマーチンを履いたピート・タウンゼント

ロンドンのキングス・ロード1983年、ロンドンのキングス・ロードに集まるパンクたち

ノーザン・ソウルでダイナミックに踊る若者たちノーザン・ソウルでダイナミックに踊る若者たち

マッドネスコベント・ガーデンのショップを訪れたマッドネス

政治家も愛用した

血気盛んな若者たちに履かれていたドクターマーチン。だが、公の改まった場所にも登場したこともあった。労働党員として47年間下院議員を務めたトニー・ベン(1925年~2014年)は、父から受け継いだ上院議員の地位を捨て、戦後の英国の労働運動を積極的に後押しした政治家。ベンはよくドクターマーチンの靴を履いて議会に登院していたため、一般の見解としては労働者階級との団結を表現していた、と言われている。しかし、かつて「ガーディアン」紙のインタビューで、そのとき履いていた黒のドクターマーチンについて聞かれ、「1970年代ごろ、息子からこの靴のことを教えてもらい、試しに履いてみたらとても履きやすかった。以来ずっと履いています」と答えた。

トニー・ベン 英国の政治家、トニー・ベン

業績不振からの飛躍

様々な階級の人たちに受け入れられ、売り上げを伸ばしていったドクターマーチンのエアウェア社だが、2000年代に入る直前、その勢いに陰りが見え始める。原因は、国内ではなく「米国市場での売り上げ減少による財政難」。状況は非常に悪く、建て直すどころか倒産の危機まで迫ったため、2003年、国内の工場を1つだけ残し、生産拠点を中国とタイへ移転するという苦渋の決断を下す。結果として、1000人以上が職を失うことになった。追い込まれた同社が考えた策は、ジミー・チュウやビビアン・ウェストウッドなど名のあるファッション・ブランドとコラボレーションし、ファッション好きの若者を惹きつけること。こうして当座を凌ぎ、事業再生へのめどをつけた同社は、4年後の2007年、英中部ウォラストンにあるコブスレーン工場で、昔ながらの製法で作った「ビンテージ」コレクションの製作を開始。ブランド・イメージの名誉挽回である。使用するレザーは「キュイロンQuilon」と呼ばれる厚みのある非常に硬いもので、履き始めはとにかく痛い。しかし、かつてのファンは、この分厚いレザーこそドクターマーチンだ、と復活を喜んだそう。その後も国内外で次々とショップをオープンさせ、ドクターマーチンは名実ともに完全復活を遂げた。

現在は東アジアを含む海外市場での売り上げが好調で、他社とのコラボレーションも引き続き積極的に行っている。2018年には英美術館テート・ギャラリーとタッグを組み、英画家の作品をプリントするなどの斬新な挑戦も試みている。

発売当初に比べると、ブランドの持つとがった雰囲気は薄くなりつつあるが、英コメディアン兼作家のアレクセイ・セイルの歌「ドクターマーチン・ブーツ」の、「階級もイデオロギーも関係ない、(中略)履けば誰もが自由になれるんだ」という歌詞の通り、これからも多くの人を魅了し続けていくことに変わりはないだろう。

60年代のロゴと、ニューオーダーのジャケットがプリントされたドクターマーチン英国のロック・バンド、ニュー・オーダーとコラボし、アルバム「テクニック」のジャケットをプリント

知られざるエピソード

2007年広告事件

2007年、契約していた広告代理店「サーチ・アンド・サーチ(S&S)」がとんでもない広告を作ってしまった。ニルバーナのカート・コバーン、ザ・クラッシュのジョー・ストラマー、セックス・ピストルズのシド・ビシャス、ラモーンズのジョーイ・ラモーンら今は亡きミュージシャンたちが、ドクターマーチンの靴を履いて雲の上に佇むというビジュアルで、まるで4人を神様のように見立てたものだったという。S&Sが勝手に作業を進めたのに加え、遺族の許可も取っていなかったため、広告を見た遺族たちが声明を出す事態になった。ドクターマーチンを販売するエアウェア社は、この一連の騒動について遺族に謝罪し、S&Sとの契約を打ち切ることにした。

好調なアジア市場とファンの本音

2013年、投資ファンドのペルミラと組み、更なる市場拡大を目指したドクターマーチン。そのかいあって、日本を含む東アジア市場での売り上げが好調のようだ。また、重くてゴツい従来のブーツを3分の1に軽量化し、よりスマートな見た目へチェンジした「DM's Lite」という新ラインは、ティーンエイジャーを中心にヒットした。このように近年はファッション性重視の傾向が感じられるが、昔からのファンはどう受け止めているのだろうか? 「ガーディアン」紙に寄せられた意見では、新しい開発を好意的に受け止める人がいる一方、「時代が変わって、昔のパンクやスキンズみたいに、社会に対して反逆する子供たちはもういなくなったのだろうか」「品質が下がってから履かなくなってしまった」「私は現在60歳で、少し高かったけど、丈夫な英国産のドクターマーチンを買ったわ。私より長生きするんじゃないかしら」など、ノスタルジーに浸る人々も少なからずいるようだ。

ドクターマーチン

 

映画監督・映像作家 関根光才さん インタビュー

映画監督・映像作家 関根光才さん

関根光才
KOSAI SEKINE 1976年東京生まれ。映画、広告映像、ミュージック・ビデオ、インスタレーション・アートなどをベースとした映像の演出を手掛ける。2005年に短編映画「RIGHT PLACE」でカンヌ国際広告祭のヤング・ディレクターズ・アワードにてグランプリを受賞。また2011年の福島原発事故を受け発足した、アートプロジェクト「NOddIN(ノディン)」に参加するほか、2018年秋には初の長編劇場映画監督作品となる「生きてるだけで、愛。」や長編ドキュメンタリー映画「太陽の塔」が公開される。

ローカルであると同時に
コスモポリタンな表現を

様々な映像作品を手掛けてこられた関根監督ですが、今回の「生きてるだけで、愛。」が初の長編劇場映画監督作品ですね。しかも、日本に先駆け、レインダンス・フェスティバルがワールド・プレミアとのこと。この作品に対する思い入れなどお聞かせいただけますか。

長編映画はずっとやりたかったことなので、ともかく映画が完成して皆さんにお披露目できることが何よりも嬉しく、また同時にやっとスタート・ラインに立ったという思いです。映画は世界の様々な環境や地域で作られていますが、それぞれの文化性や独自の価値観があってこそユニークになるもの。その意味でローカルであることは大事ですが、それだけではダメで、同時に普遍的でコスモポリタンなテーマでないといけないと思っています。このような点から、日本独自の空気の中で、もがきながら生きる若者たちの葛藤を描いた「生きてるだけで、愛。」も、主人公たちのストーリーのなかで見えてくるテーマは普遍的なもので、世界各地で形は違えど人間の心の奥底にあるものだと思います。レインダンス・フェスティバルでこの映画を見て頂く皆さんにも響くものであることを祈っています。

今回、劇作家で女優でもある本谷(もとや)有希子さんの小説「生きてるだけで、愛。」を映画化しようと思ったきっかけは何だったのでしょう。

本谷さんの書く文体は非常に独特。「人間味」を煮詰めてそのインクで文章を書いているような濃いものです。なかでも、初期の作品である本作は、若いころの彼女の疾走感に満ちていて、そのエネルギーに魅了されました。彼女の小説自体は、若いときの社会に対する恨みや罵詈雑言を書き殴っている感じで、それがある種のキュートなコメディーになっているのですが、僕はそれを、近代社会のシステムを破壊し突き抜けようとする、人間の生命力だとか狂おしい情念というものに転化させて、大人の人間劇として描きたいなと思い、そのアプローチがプロデューサーの甲斐さんの意見と一致し、映画化をオファーしたのです。

監督はCM製作を経て、アートプロジェクト「NOddIN」、ドキュメンタリー「太陽の塔」など、社会や政治にダイレクトに関わる作品を作っておられますね。今回の「生きてるだけで、愛。」は、それとはうって変わって、個人の内面へと向かった作品のように見えますが。

そうですね、例えばアート作品にまつわる長編ドキュメンタリー「太陽の塔」とは180度違う映画に感じられるかもしれません。「太陽の塔」は非常に思索的で、哲学的で、情報量も多くビジュアリゼーションに富んだ映画です。その内容は人間とアートとか、現代社会の構造への疑問、果ては宇宙観にまで発展する「マクロ」な映画です。対して「生きてるだけで、愛。」は、非常にパーソナルで、内面的で、「ミクロ」なものです。取るに足らないあるカップルのささいな出来事をテーマにしているように思えますが、実はこの2作品は共通することが無いとは言えないのです。「生きてるだけで、愛。」の主人公たちの、身につまされるような痛々しいエピソードや状況は、やはりこの現代社会からもたらされた抑圧の結果であって、双方ともに、この抑圧的な状況に抗う、あるいは抗うべき人間の姿をテーマにしていると僕は思っているのです。その中で、マクロは個人の内面を問うミクロに達し、ミクロは愛そのものを問うマクロに達します。実は遠いところで繋がっていると、言えなくもないのだと思います。

過去の各紙インタビューで、「作る前のコンセプトを明確にする」「自分の作品の作り方はアイデア・ベース」とおっしゃっていますが、次回作は決定していますか。今後どのような作品を作っていきたいですか。

次回作はまだ決まっていません!アイデアはいろいろとあるのですが、自分の性格上どうも壮大なテーマを扱う傾向にあり、つい巨大なアイデアを考えてしまうので、もう少し小さい規模のものから始めようと考えています。僕は新しい発想や切り口で、「人間とはいったい何なのか」を問いかけるような映画が好きなので、そういったアプローチの作品を作り続けたいと思っています。

好きな映画監督、映像アーティストは誰でしょうか。

たくさんいますが、ヴィム・ヴェンダース、テオ・アンゲロプロス、エミール・クストリッツァ、クシシュトフ・キェシロフスキ……なかなか現代の監督がいませんね(笑)。映像アーティストだと、アピチャッポン・ウィーラセタクン*はすごく刺激的ですよね。日本だとなかなか目にする機会がないのですが。あとは、昔グレゴリー・コルベール**が撮った「Ashes and Snow」は展示の仕方も含めてすごく圧倒されました。

*タイ出身の映画監督・映像作家。「ブンミおじさんの森」で 2010年のカンヌ映画祭パルムドールを受賞
** カナダ出身の映像アーティスト。自らの写真・映像展「Ashes and Snow」のためにノマディック(移動式)美術館も制作した

ロンドン滞在中に特に行きたいところ、やってみたいことはありますか。

旧友に会いたいなと思っています。あとは、昔ロンドンのレバノン料理屋に行ったらローカルのカラオケ大会に巻き込まれて大騒ぎになり、すごく笑える経験をしたので、チャンスがあればもう一度行ってみたいですね。

関根光才監督作品「生きてるだけで、愛。」が
レインダンス・フィルム・フェスティバルで上映

生きてるだけで、愛。監督: 関根光才
出演: 趣里、菅田将暉、仲里依紗ほか

9月26日~10月7日にロンドンで開催の、レインダンス・フィルム・フェスティバル。インディペンデント作品の発掘に力を入れる同フェスティバルで関根監督の「生きてるだけで、愛。」(英題「Love At Least」)も上映されている。

 
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