Hanacell
輝け、原石たち


サッカーの魅力を子どもたちに伝える 松岡賢史さん

松岡賢史さん 松岡賢史さん
1980年 埼玉県比企郡川島町生まれ
2003年 東京農業大学 農学部卒業
2003年~ ワーキングホリデーを利用し、渡独。
ハンブルクのサッカーチームに所属
2004年 Deutsche Sporthochschule Kölnの語学コースで大学 入学の準備を始める
2006年 Deutsche Sporthochschule Köln入学
2008年 ケルン在住、S.C. Fortuna Köln所属
サッカーの指導者C級ライセンス取得を目指して大学で学ぶ。所属するサッカーチーム「Fortuna Köln」で選手としてプレーをする傍ら、小学生チームのコーチとして研修中。

「サッカーが自分をここまで連れてきてくれた」という松岡賢史さんは、自身がサッカーを通して感じてきたこと、得てきたものを子どもたちに伝える挑戦を始めた。

サッカーのコーチをしていた父の影響で小学3年生の頃からサッカーボールを蹴り始めた松岡さんは、ゴールを揺らす快感、ボール1つから広がる人との出会いを重ね、サッカーをしていると楽しいことがたくさんあると感じるようになったという。ドイツでプレーをするに至る経緯もまさにサッカーが繋いだ人脈の賜物だ。大学生の頃、地元埼玉に独日スポーツ交流のために16~20歳のサッカー少年たちがハンブルクからやってきた。その時に受け入れ側の団体に所属し、彼らと交友を深めた。大学を卒業する頃、ドイツでサッカーをしたいと考えた時、当時知り合った少年たちに連絡をとると、すぐにハンブルクのサッカーチームを紹介してもらえるという話しがまとまり、念願叶ってドイツでプレーする機会を与えられる。

ハンブルクで1年間プレーをした後に指導者への道を目指したのは、「サッカー」に感謝する気持ちが生まれたから。もはやサッカーボールがなかったら自分の人生はドイツまで転がってこなかったと言う彼は、これからボールに触れる子どもたちにも、サッカーを通していろんな経験をさせてあげられたらと語る。

サッカーの魅力は何かと尋ねると「フィールドの上は予想外なことの連続」と目を輝かせた。フィールドはキャンバスでゴールまでの道のりをどう描くかは自由、各プレーヤーによって全然違う絵になるし、絶対に成功する描き方もない、そこが面白いという。

今後の目標は、「サッカーを始めたばかりの子どもたちに試合の面白さを味合わせてあげたい、まずは1勝すること!」と、子どもたちとの二人三脚の戦いは始まったばかり。

(編集部:高橋萌)

子供たちも真剣そのもの
ボールの蹴り方から教える。子どもたちも真剣そのもの

年の差も国の違いも関係ない
フィールドの上では年の差も国の違いも関係ない

スタミナと技術でドイツ人との体格の差 を埋める
スタミナと技術でドイツ人との体格の差を埋める
Information

S.C. Fortuna Kölnは1948年にケルンで創設されたチーム。過去にはブンデスリーガ1部に昇格したこともあり、2000年までは同2部に所属していた実績を持つ、伝統あるサッカーチームの1つ。現在 S.C. Fortuna Köln1軍はNRWリーガ、松岡さんがプレーをする2軍はKreisリーガAで活躍している。チームは他に女子チームやジュニアチームも所有している。ケルンのSüdstadionがホームスタジアム。

S.C. Fortuna KölnS.C. Fortuna Köln
TEL: 0221-3604241
住所: Am Vorgebirgstor 2, 50969 Köln
www.fortuna-koeln.de

最終更新 Freitag, 09 Dezember 2011 18:47
 

時計職人 下田直宣さん

下田直宣さん
1972年 神奈川県鎌倉市生まれ
1998年 武蔵工業大学大学院工学研究科卒業
1998年 日欧産業協力センターの企業研修プログラムに参加、ドイツ・ポツダム造船研究所で1年間の研修
2000年 須藤オルガン工房で3年間の修行
2006年 渡独し、時計の職業訓練学校卒業、職人資格取得
2007年 マイスター準備学校に通いながら手工業会議所で学び、マイスター資格取得
2007年9月~ Junghans Uhren GmbH、高級ブランド「Erhard Junghans」の設計部に勤務。シュランベルク在住。
もの作りをしたいとの決意からオルガン工房の門を叩き修行に入るも、もっと緻密な手仕事を求め時計職人の道を選ぶ。

部品の中で一番小さいネジは0.5ミリ。ミリ単位の部品を扱う時計職人の世界、その緻密なもの作りの世界で活躍するのが下田直宣さん。小さな部品の一つひとつを3時間~5時間かけて磨き上げることもあるという。

「部品を磨く作業には、自分の器用さの限界にチャレンジしているという側面がある。ほんと疲れちゃうんですけど、だからって汚いものを作るわけにはいかない」

気の遠くなりそうな作業だが、手間と時間をかけないと良いものは作れないと下田さんは言う。職人としてのもの作りへのこだわりが言葉の端々からにじみ出る。

「時計職人としては、本当に最高に幸せな仕事をさせてもらっています」

下田さんの仕事は設計から始まる。どういう部品を使って、どういう動きかたをする時計にするかをゼロから考える。そして、その設計図を元に制作するのも彼の仕事。この、設計と手仕事の両方に携われるところが職人としては嬉しいこと、完成品はまさに自分で作った時計と実感できるという。

時を計測する道具としての時計、下田さんが作る機械式時計にはその機能に限界がある。それこそ、デジタル時計や電波時計などの方が正確に時を刻むことができる。しかし、デジタル化が進む今の時代に機械式時計が生き残っているのは、時計が道具ではなく工芸品でもあるから。工芸品として美しい、魅力ある時計を作っていくことが現在の目標でもある。

彼の所属する高級ブランド部門は昨年立ち上がったばかり。今は部品からなにから試行錯誤の途中。道具や作業システムなども一から作り上げている。「時計を作る」という過程に関しては全てを任されている、これは面白い。まだまだここで腕を磨いていきたいという下田さんの作り上げる時計、次回作にも期待がかかる。

(編集部:高橋萌)

工具を作成している下田さん
工具を作成している下田さん

双眼拡大鏡でメカの動きをチェック
双眼拡大鏡でメカの動きをチェック

部品
時計「Erhard Junghans 1」の構成部品
Information

黒い森の中にあるJunghans Uhren GmbHは1861年創業 の老舗時計会社。「Junghans」 「Erhard Junghans」という2 つのブランドを持つ。高級機 械式時計のみを扱う「Erhard Junghans」に在籍する下田さんが設計に携わった時計の 名は「Erhard Junghans 1」とブランド名を冠し、同ブラン ド第1号の時計であった。今年4月にスイス・バーゼルで行 われた国際時計見本市で発表された。

Junghans Uhren GmbH
TEL: 07422-18888
住所: Geißhaldenstrasse 49, 78713 SCHRAMBERG
www.erhard-junghans.de/html/pages/de_index.htm

最終更新 Freitag, 09 Dezember 2011 18:50
 

障害者乗馬の普及を目指す 佐久川未来さん

佐久川未来さん 佐久川未来さん
1977年 東京都立川市生まれ
1999年 日本獣医畜産大学 獣医畜産学部卒業
(現日本獣医動物応用科学大学)
1999年〜 ヤマハつま恋乗馬クラブに乗馬指導員として就職、その間ドイツにて3カ月の障害者乗馬の実地研修を受ける
2004年〜 ドイツ国際平和村で1年間の研修
2006年〜 Fachschule des Sozialwesens在学、
デュッセルドルフ在住
現在、Heilerziehungspflegerinという、教育と介護の両面から障害者をケアする資格を取るために専門学校に通う。2年間の教育課程を終え、この夏から1年間のインターンが始まる。

「馬と子どもと私がいる、その輪が好き。人と馬との関係の中でたくさんのことを学べるし、何よりとっても楽しいんです」と、穏やかな口調の中に情熱を込めて語る。

佐久川未来さんが目指す「障害者乗馬」、中でも心理療法と教育を目的とした分野は日本ではあまり知られていない。知的障害や自閉症を持つ人が馬というパートナーを得て、馬との触れ合いを通してコミュニケーション能力や自制心を養ったり、乗馬しながら、右・左、信号機の色の意味など日常生活に応用できる様々な認識を学んでいく。

「人間だったら、障害者だから……という目で見てしまいがちだけど、馬にはそんなことは関係ない」

叩いたら暴れるし、可愛がれば、その分の愛情が自分に返ってくる。馬の反応から「なんでだろうね?」と自分の行動を省みるよう促すのが教育者の役目。そこから自制することを学ぶし、馬との関係が親密になるにつれて、やってあげたいという心が育つ。

大学の講義の中でたまたま障害者乗馬について知り、「これだ!」と思ったという。卒業後は乗馬クラブの指導員として働く。しかし、当時は障害者を馬に乗せているだけで知識や技術が伴っていなかったため、資格制度が整っているヨーロッパで勉強したいとの思いを強くする。

念願叶ってドイツで3カ月間の研修を受け、障害者乗馬の技術と理論を学び本格的にこの道を進み始めようとした矢先、突然、病魔に襲われた。背中にボルトを入れる大手術をして、一時はまったく歩けなかったという。その後、リハビリを経て日本で介護の仕事を始めた彼女は、やはり夢をあきらめることができず、ドイツ国際平和村の研修生としてドイツに戻って来た。そして再度、一から障害者乗馬の専門家への道を目指す。

「数年前の私には途方もない夢物語だったけど、やっと近づいてきた!」1年間のインターンを終えると障害者乗馬の資格取得、夢の実現まであと一歩。

(編集部:高橋萌)

レッスン風景
身体・知的障害を持つ生徒とのレッスン風景

馬たち
左)ポニーは子どもたちの人気者
右)調教、世話をしていた馬の角二郎とのツーショット
Information

障害者乗馬とは・・・・・・

障害を持つ人が乗馬を通してリハビリなどを行うこと。ドイツ語では「Therapeutisches Reiten」と呼ばれる。主に以下の3つの分野に分かれている

① スポーツとしての乗馬
「ドレッサージ」「カドリール」「軽乗」など、パラリンピックの正式種目でもある競技としての乗馬

② 理学療法としての乗馬
身体の機能改善・維持のために行うリハビリ。乗馬することにより筋肉や神経を刺激する。医療行為としての乗馬

③ 心理療法・教育を馬を介して行う分野
乗馬、もしくは馬との関わり、馬の世話を通して行う心理療法。馬の上でゲームをしたり遊んだりしながら、コミュニケーション能力や認識能力の向上などを目指す教育的なアプローチも行われる

最終更新 Freitag, 09 Dezember 2011 18:57
 

菓子職人 古井和也さん

古井和也さん古井和也さん
1979年 大阪府大阪市生まれ
1997年 東淀工業高校機械科卒業
1998年 大阪あべの辻調理師専門学校卒業
1999年 大阪あべの辻製菓専門学校卒業
2000年 イタリア料理店「トラットリアラスピーガ」でシェフ パティシエになる
2003年 渡独。菓子職人の職人プログラムに参加する
2005年 ゲゼレ職人試験に合格
2006年 ゴッピンゲン在住。その町の菓子屋「Café Berner」の菓子職人になる
2年間のプログラムはデュアルシステムで、週に1日の授業と、残りの4日はケルン近郊のケルペンで実習を行った。

「新しいお菓子文化を創るための歯車になれたらと思っています。日本人がドイツ文化の発展を後押しするっていうのも面白いじゃないですか(笑)」と、野心を覗かせる古井和也さんは、中学生の頃に料理人になりたいという夢を抱き始めたが、親からの勧めもあり高校は機械科へ進学。 しかし、機械と向き合う中で料理に携わる仕事がしたいという気持ちを強くする。

高校卒業後に通った調理師専門学校で皿盛りというデザートで皿を彩る芸術に出会い、きれいなものを作りたいという衝動が菓子作りと結びついた。その後、製菓学校に入学し、念願の菓子職人の道を歩み始める。

卒業後はイタリアンレストランでシェフパティシエとして働いていたが、経験不足を実感したという。本当に美味しいと思えるお菓子を作りたいという情熱がドイツでの菓子職人プログラムへの参加を決意させた。

「日本のお菓子は見た目重視。でも、もっと味を追及したいと思った。そこでお菓子の原点ってなんだろう。それがドイツで作られている古典菓子だったんですよ」

ゲゼレ職人試験での実習の得点は1.0、最高の評価を受けた。絶対に負けたくないライバルの存在、見習い実習先の仲間の存在が大きかったという。卒業後はルクセンブルクの店で1年間働いた。ルクセンブルクではフランス流の美しいお菓子作りが主流。求められる技術は高く、厳しい職場だったが、その分得たものも大きかった。その後、ドイツのゴッピンゲンのお菓子屋さんに移った。

「ドイツに戻ってきて、お菓子文化が発展していないんじゃないかと思うようになりました。お客さんが求めないという面もあるんですけどね。でも、ぼくはそこを変えていきたい。もっと華のあるドイツ菓子を作りたい」

今後の目標は、各国で学んできた技術を次の世代に伝えていくことだいう。自身も若い職人の一人、しかし、その目はすでにずっと先を見据えている。

(編集部:高橋萌)

ケーキ
左)結婚式用のデコレーションケーキ。中身は一段一段違うケーキで構成されている
右)お客さんからのリクエストで、ミツバチマーヤの誕生日ケーキ

ケーキ
左)イチゴとチョコ レートのデザート 
右)ベネチアンマスクをかたどったチョコレート
Information

カフェ・ベルナーシュトゥットガルト近郊の町ゴッピンゲンに古井さんが働くお菓子屋さん「カフェ・ ベルナー(Café Berner)」がある。ここは創業70年の老舗で、町で唯一のお菓子屋さん。アイスやトルテ、クーヘンなど、すべて職人の手作り。週代わりのケーキもあり、お客を飽きさせないこだわりの店。古井さんが考えた新しいレシピが店頭に並ぶこともあるという。

Conditorei-Café Berner
TEL:07161-73563
住所:Lange Straße 26 , 73033 Göppingen
Websitewww.cafe-berner.de

最終更新 Freitag, 09 Dezember 2011 19:00
 

プロ卓球選手 岸川聖也さん&水谷隼さん

水谷選手と岸川選手

五輪出場権を獲得した水谷隼選手(左)と岸川聖也選手

岸川聖也さん
1987年5月21日 福岡県生まれ
2006年3月 仙台育英学園高校 卒業
2008年現在 卓球ブンデスリーガ1部ヴェルダー・ブレーメン所属、デュッセルドルフ在住
水谷隼さん
1989年6月9日 静岡県生まれ
2008年3月 青森山田高校 卒業
2008年4月 明治大学政治経済学部経済学科 入学
2008年現在 卓球ブンデスリーガ1部ボルシア・デュッセルドルフ所属、デュッセルドルフ在住

2007、08年全日本選手権ダブルス(岸川・水谷ペア)、シングル(水谷)2連覇を成し遂げ、08年世界選手権では団体戦で日本に銅メダルをもたらした立役者。北京五輪代表に選ばれ、メダル獲得に期待がかかっている。

「日本の義務教育制のもとでは、朝から午後に掛けて練習する時間が取れないんですよ。卓球に専念したかったので、ドイツに来ることを決めました」(水谷選手:以下(水))

岸川、水谷両選手とも、ドイツにトレーニングの拠点を移したのは中学生の頃。世界に通用するトップアスリートになるために、卓球に全てを捧げる覚悟が決まっていた。

「ドイツのブンデスリーガでは毎週試合があるんです。しかも世界中から強い選手が集まっていて、いろんな経験が積める。そこがドイツのいいところですね。試合を多くした方が強くなれるから」(岸川選手:以下(岸))

水谷選手
抜群の卓球センスでラリーを制する水谷選手
岸川選手
豪快なバックハンドドライブが持ち味の岸川選手

彼らが日本で試合に出るのは年に1度か2度、全日本選手権のような大きな大会だけだ。しかし、そこは絶対に負けられない試合。世界選手権やオリンピックの選考に影響を与えるからだ。大きな試合に向けては、納得するまで練習し、あらゆる不安材料を排除すべく心身、技術、道具の調整を行う。結果を出すためには自らに妥協を許さない。

「(ダブルスを組むようになって)かなり長いので、隼とだとやりやすいですね。いろんな試合も経験したし、結果も出してきたので、コートに入ればすごく信頼し合えるし、解り合えるパートナー」(岸)

二人で組むことで実力以上の力を引き出せるという、実績に裏打ちされた自信もある。

「ブンデスリーガでは、自分より格上の選手とペアを組ませてもらってるんですけど、格下の選手に負けることもあって、でも岸川さんとなら格上のペア相手にも勝てる」(水)

五輪出場は子どもの頃からの夢だったという二人。しかし、代表に選ばれた今は、「出て勝ちたい、勝たなきゃ意味がないっていう意識に変わってきました。金メダルを目指すスタート地点にやっと立てたという感じです」(水)

五輪出場という一つの目標を達成した喜びをバネに、より高い目標をすでに見据えている。

「代表に選ばれることが難しい大会なので、出場が決まって本当に嬉しい。でも、そこで満足していてはだめなので、中国、韓国などの強豪国にどう勝っていくかということを一番に考えています」(岸)

出るからには、やはり優勝を目指す。北京五輪からダブルスの代わりに3人編成のチームで戦う団体戦が採用された。「団体戦は日本のために戦っているという意識が高まるし、みんなで盛り上がれる。だからこそ、特に団体戦でメダルがほしい」(岸)

男子卓球界では、両選手を筆頭に若手の活躍が目立つ。アジアだけではなく欧州など世界中に強豪がうずめいている、その中で、世界を相手に戦える選手が育ってきているのだ。「福原愛選手など卓球は女子が有名だけど、男子の卓球にも注目してください」(水)。「これからの卓球は男子の時代です」(岸)

さぁ、北京五輪まであと2カ月ちょっと!!がんばれ日本!!!!

(文:編集部・高橋萌、写真提供:日本卓球協会)

最終更新 Freitag, 09 Dezember 2011 19:06
 

<< 最初 < 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 > 最後 >>
9 / 10 ページ
  • このエントリーをはてなブックマークに追加


Nippon Express ドイツ・デュッセルドルフのオートジャパン 車のことなら任せて安心 習い事&スクールガイド バナー

デザイン制作
ウェブ制作