Hanacell
そのとき時代が変わった


社民・自民党連立政権の誕生 Die Sozial-liberale Koalition

1969年10月21日
連邦議会選挙で得票率2位の社会民主党(SPD)が、得票率3位の自由民主党(FDP)と連立して少数派政権を樹立。キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)は第1党に立ちながら野党へ下り、西ドイツは新しい時代の幕を開けた。

SPD飛躍のカギはFDP

最大の国民政党CDU・CSUが20年来守ってきた政権の座をSPDへ譲ることになるには、当然そこに至るまでの経過があった。

最も影響が大きかったのは、1959年にSPDがマルクス主義の階級闘争の理念を放棄し、中道左派へと転換を図ったことだ。これにより連邦レベルでのSPDの得票は、57年の31.8%から61年の36.2%、そして65年には39.3%へと拡大したのである。

それに反し、61年発足の第4次コンラート・アデナウアー(CDU)政権を途中で継いだルートヴィヒ・エアハルト首相(CDU)には、人気が出なかった。50年代に西ドイツに「経済の奇跡」をもたらした辣腕の経済相ではあったが、60年代に入って成長が鈍化する中、首相としての指導力に対して党内からも疑問の声が上がっていたのである。

しかし、決定的な役割を演じたのはFDPだった。65年発足の第2次エアハルト政権に入閣したFDPは増税案に抗議し、わずか1年後に閣僚4人を引き揚げてしまったのだ。こうしてエアハルトは辞任に追い込まれ、66年12月に新首相クルト=ゲオルク・キージンガー(CDU)によるSPDとの大連立政権が発足。副首相・外相にはSPDのヴィリー・ブラント党首が就任する。SPDにとっては、将来起こりうる政権樹立のための実習を始めたとも言えよう。

SPDの新星ヴィリー・ブラント

1949年に第1回連邦議会議員として政界入りし、50年から西ベルリン市議、57年から同市市長を務めたヴィリー・ブラント(1913~92)は、SPDの連邦首相候補として61年、65年とすでに2回、連邦議会選挙に臨んでいた。

本名ヘルベルト・フラーム。育ての親でもある継祖父の影響から17歳でSPDに入党し、ヒトラー政権下に北欧へ亡命、国籍を奪われた元ジャーナリストである。戦後ノルウェー国籍の特派員として帰国し、48年に西ドイツ国籍を再取得。使ってきた出生地リューベックの造船所に由来するペンネーム、ヴィリー・ブラントを正式名にしていた。

グスタフ・ハイネマン氏とヒルダ夫人
初のSPD出身の大統領、リベラル・人権派として一般庶民から
高い人気を得たグスタフ・ハイネマン氏(中)とヒルダ夫人
©AdsD-Archiv der sozialen Demokratie

初のSPD首相候補として臨んだ61年の連邦議会選挙で、対する85歳のCDU老宰相アデナウアーから「フラーム別名ブラント」と皮肉られたことは有名な話だ。CSUの党首フランス・ヨーゼフ・シュトラウスからは、母国が苦しんでいるときに亡命した裏切り者と責められた。父を知らない婚外子であることも、政敵にとっては攻撃材料になった。

ブラントは一切反撃しなかったが、「非常に辛かった」と後に語っている。彼の経歴が政治家のキャリアにとってマイナスだったことは否めない。しかし以後、“赤い海に囲まれた孤島”西ベルリンを率いる若く精悍な政治家として、ブラントは人気を集めていったのである。

前途多難な新政権の誕生

こうして迎えた1969年9月28日。連邦議会選挙の投票日である。SPDは3年前のエアハルト政権崩壊によって転がり込んだキージンガー政権との大連立によって、国政への自信をつけていた。数カ月前には追い風も吹いていた。反核人権派として尊敬を集める同党のグスタフ・ハイネマンが連邦大統領選に選ばれたのだ。それは、FDPが自党候補への票を最終的にハイネマンへ投じたためであった。

SPDの首相候補は3回目のブラント。開票の結果、5%得票条件を満たしたCDU・CSU(46.1%)とSPD(42.7%)、FDP(5.8%)が議会入りした。開票当日の夜、SPD幹部は全員一致でFDPとの連立交渉を決意。そしてFDPは、キージンガーCDU首相から有利な連立条件を提示されてはいたが、多数決でSPDとの連立を選んだ。当時のFDPはリベラルな中道左派が中核を握る政党だったのである。

そして選挙からわずか24日後の10月21日、首相ブラント、副首相・外相ヴァルター・シェール(FDP)によるSPD・FDP連立政権がボンの首相府に登場。「Mehr Demokratie wagen(もっと民主主義に挑もう)」をスローガンに掲げ、快調なスタートを切った。

しかし、連邦議会での与党SPD・FDPと不本意ながら野党に下ったCDU・CSUとの差はわずか12議席。採決で半数が反対にまわる可能性は大きい。しかもCDU・CSUは連邦参議院を否決の場として活用すると予告。新政権にとって前途多難な政治の季節が訪れようとしていた。

24 Juli 2009 Nr. 775

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:26
 

68年闘争 68er Bewegung

68年闘争 68er Bewegung
1968年は政治の季節と言われる。西ドイツで大 規模な反体制運動、フランスで五月革命、米国では激しいベトナム反戦運動が発生。チェコスロヴァキアでは「人間の顔をした社会主義」の試みが始まったが、ワルシャワ条約機構の戦車によって潰された。

反ファシズム・反核—改革思想の底流

日本で東大安田講堂占拠が起きたのもこの年である。反体制運動の経過は当事国の事情によって異なり、簡単に比較できない。たとえばフランスの大学紛争は労働組合と連帯してゼネストへと進んだが、西ドイツでの“闘争”は反共かつ巨大な労働組合から支持されず、学生と知識層のみの改革運動となった。彼らは「議会に真の野党はいない」と批判し、自らを議会外反対派(APO)と称した。

68年に至るまでの背景にも違いがある。西ドイツでは63年末にフランクフルトで始まったアウシュヴィッツ裁判を契機に、戦後世代が父親たちへの詰問を始めていた。ナチスにどの程度協力したのか、民族虐殺を知っていたのか。彼らにとって父親世代は、今も過去の認識から目をそらすファシストたちだった。

また米ソの軍拡競争により、冷戦の最前線に立つ西ドイツで特に核戦争への恐怖が広がったという事情もある。65年2月に米軍がベトナム戦争に直接介入し、66年に発足したキージンガー大連立政権(CDU・CSU&SPD)が防衛事態に対処するための「緊急事態法(Notstandsgesetze)」の成立を急ぐにおよび、異議申し立ての声は高まる一方だったのだ。

激化するデモと武力行使

67年6月2日、西ベルリンではドイツ全学連(SDS)が、イランに専制体制を敷くパーレビ国王の訪問に対する抗議デモを繰り広げていた。国王夫妻がリュプケ西ドイツ大統領に伴われてドイチェ・オーパーに入ったのは午後8時。まもなくデモ隊と警察隊の衝突が起こった。このときデモを見学していた26才の学生ベンノ・オーネゾルクが、警察官の発砲によって死亡。政府与党と大衆紙は学生の暴動を責め、警察官クーラスは正当防衛を認められて無罪放免となった。

激怒する“68年世代”の一部から、資本主義抑圧国家を武力で倒そうとする動きが生まれたのはこのときだ。オーネゾルク射殺の夜に、「アウシュヴィッツ世代とは議論できない」と叫んだグドルン・エンスリンが、アンドレアス・バーダーとともにフランクフルトのデパートを放火したのは68年4月2日。後にドイツ赤軍RAFを結成するメンバーである。

米大使館に対して抗議するルディ・ドゥチュケ
1968年2月5日、米大使館の前で権威の象徴である
同大使館に対して抗議するルディ・ドゥチュケ
©/AP/Press Association Images

一方、ビルト紙の反共キャンペーンに踊らされた塗装工が4月11日、全学連の指導者ルディ・ドゥチュケを狙撃したことで、議会外反対派の抗議デモも拡大していった。3万人が参加する緊急事態法反対集会がボンで開かれたのは5月13日。しかし同法は5月30日にあっさりと連邦議会を通過し、闘争テーマは大学民主化へと移った。

権威の象徴「大学」の民主化を

紛争の中心となった大学の1つに、フランクフルト大学社会学研究所がある。学生たちはマルクス主義を基盤にした理性批判を聴講するために集まり、と同時にそれを机上の空論であると批判。69年4月22日には、テオドール・アドルノ教授の前に女子学生3人が躍り出て裸の胸を示し、「現実を見よ!」と吊るし上げる事件まで起きた。

一方、全学連と大学助手会議が求めた大学民主化案のうち、教授に集中する権限を助手と学生にも分配する3等分権(Drittelparität)は違憲判決を受けて敗北。かたや州の宥和政策によって大学が次々に新設され、その教授職に68年世代の助手たちを淘汰せずに滑り込ませたことで、教授資格論文の廃止案も助教授ポストの独立案も立ち消えになった。

68年運動が遺したもの

結局、大学民主化闘争で実現したのは大学が増設されたことだけだった。教授になった元助手たちが既得権に胡坐をかいたため、内実はむしろ悪化したとの声もある。しかし68年世代から環境保護や反核、人権を訴える社会運動が生まれたことを忘れてはならない。使い捨てからエコロジーへと現代人の意識を変えた緑の党は、この世代の産物なのである。

なお最近、67年のオーネゾルク射殺に関する新事実が浮かび上がったことはご存知だろう。発砲した警察官カール=ハインツ・クーラスは実は東ドイツの諜報機関シュタージのスパイだった。武器フリークだったクーラス個人の逸脱行為だった可能性が高い。

当時を知る者は、たとえ東ドイツのスパイであることが暴露されていたとしても68年世代はすでに東ドイツの体制に失望していたので、闘争における方向性は変らなかっただろうと言う。しかしこの事実がわかっていたらクーラスは無罪にはならず、司法が修復不可能なまでに信頼を失うことはなかったのではないだろうか。42年前の歴史の見直しは今始まったばかりだ。

19 Juni 2009 Nr. 770

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:27
 

性革命 Sex Revolution

1967年
欧米の1960年代は改革の時代だった。ビートルズ、べトナム反戦、マリファナ、キング牧師、ヒッピー、ボブ・ディラン、長髪、ミニスカート — 戦中・戦後に生まれたベビーブーマーたちは既成の価値観と体制を激しく批判し、伝統文化に対抗するカウンターカルチャーを生み出していた。

禁欲から解放へ

公衆の性道徳が大きく変わったのもこの時代である。西ドイツで青少年向けの雑誌「BRAVO」が創刊されたのは1956年。雑誌には映画スターやミュージシャンなどの情報と並んで、医師とセラピストが性行動について読者の相談に乗るコーナーが設けられていた。このコーナーは後に、アドバイザーのペンネームが代名詞になるほどの人気シリーズになった。お近くの中高年男性に「Dr. Sommer」を知っているかと尋ねてみてほしい。ニヤリとした反応が返ってくるはずだ。

西欧社会の性道徳にはそれまで、キリスト教の性倫理が深く刻印されていた。夫婦の性行為は生殖との関係から神聖とみなされはしても、快楽を得るのは罪。特にプロテスタントの性倫理は禁欲的でさえあった。戦後、そこに風穴を開けた1人の女性が西ドイツにいたことを忘れてはならない。

その名はベアーテ・ウーゼ。現在、世界に進出するアダルトショップ「Beate Uhse」の生みの親である彼女は、敗戦の混乱期を生き抜くために「避妊解説書と性教則本とコンドーム」をセットにした商品を発売し、教会と法に真っ向から戦いを挑んだ女性であった。

一方でポルノの女王、他方で性の啓蒙者と呼ばれた彼女の功績によって、西ドイツ人の性モラルは徐々に罪の意識から離れ、経口避妊薬が西ドイツで61年、東ドイツで65年に許可された時、解放への道を一気に進み始めたのである。

サブカルチャーとして確立

オールヌードの後ろ姿をカメラに示し、壁の前に並ぶ男性4人、女性3人、幼い男の子が1人。彼らは壁に両手を付いて前かがみの身体を支え、端に立つ男の子だけがカメラの方を振り向いているーー。

この印象的な写真によって、67年1月12日に西ベルリンで設立されたヒッピー共同体「コミューン」は不滅の記憶を残すことになった。彼らは親世代の性道徳をナチズムの継承であると糾弾し、「フリーセックスによってファシズムとノイローゼを同時に克服しよう」と謳う。彼らは反権威、反秩序を叫ぶ挑発的なサブカルチャー集団だった。メンバーの中でもひときわ美貌のウシ・オーバーマイヤーは性革命のイコンとして脚光を浴び、後にフォトモデルとして活躍。ローリングストーンズのスーパーグルーピーとしても名を残している。

一方、キリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)と社会民主党(SPD)の大連立政権下で、ケーテ・シュトローベル保健相(SPD)が性科学映画を製作させたのも同じ67年だった。監督エリッヒ・F・ベンダー、タイトルは『HELGA』。主人公ヘルガの結婚、妊娠、出産を通して、男女の違い、受精、受胎、避妊、妊娠中の性生活、出産までの基本的な性知識を解説した作品で、ズーム撮影された出産シーンに男性観客が気を失ったことでも知られる。日本でも『女体の神秘』という邦題で大ヒット。西ドイツの国策映画が世界に先駆けた、きわめて珍しい事例と言えよう。

映画『Helga』の一幕
映画『Helga』の一幕。主人公ヘルガを演じるのは女優ルート・ガスマン
Bildquelle:Deutsches Filminstitut - DIF

国を挙げてのセックスウェーブ

ジャーナリストのオスヴァルト・コーレが制作した映画『Das Wunder der Liebe(結婚の創造)』の撮影も、この年に行われている。上映開始は68年2月。夫の早漏に妻が不満を募らせる夫婦や、建築家である夫が仕事のために妻と子どもをないがしろにする夫婦など、7組の夫婦の性生活をオムニバス形式で追ったこの映画は、保守層と教会から非合法のポルノ映画であるとして集中攻撃を受けることになった。

しかしそれが逆効果を生み、西ドイツでは600万人の観客を動員。オランダでは推薦映画に指定され、スイスでは上映を禁止した州から許可された州へ観客を乗せていくチャーターバスまで出現した。

前述のシュトローベル保健相が小中学校に性教育を導入するよう命じたのは、この翌年のことである。69年7月17日、本屋には全国統一の教科書となる「Sexualkunde-Atlas(身体の地図)」が一斉に並んだ。

そして71年、いまやカルトシリーズにも数えられる『Schulmädchen-Report(女子学生(秘)レポート)』の第1作が登場、素人演じる女子学生が性体験のエピソードと自慰について堂々と語るに及び、性革命はSexwelle(セックスウェーブ)の高波になった。

ひとたび必要性を認めれば官民が共同で事に当たり、科学的かつ組織的にそれを進めて後戻りしないーーそんな国民性は性解放にも発揮されたようである。

29 Mai 2009 Nr. 767

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:28
 

フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判 Der Frankfurter Auschwitz-Prozess

1963年12月20日~65年8月10日
経済復興を遂げ、サッカーのW杯ベルン大会で初優勝した1950年代の後半。西ドイツ人は失っていた自信を取り戻し、ナチス犯罪の過去を忘れようとしていた。

ナチ犯罪の重さ

敗戦から十余年。ナチスの主要指導者たちは敗戦直後のニュルンベルク国際軍事法廷ですでに裁かれ、ナチスを支持した知能犯たちも脱ナチ化法によって審判を受けていた。暴力的な実行犯に対する訴追は続いていたが、決め手となる証拠はなかなか集まらない。1950年に809件あった有罪認定は、58年にはわずか22件にまで減少する。

古傷には触るな̶̶。社会には暗黙の了解があっただろう。しかし追及の手をゆるめない人々がいた。バーデン=ヴュルテンベルク州のネルマン検事長とヘッセン州のバウアー検事長が中心となって、シュトゥットガルト近郊ルードヴィクスブルクにナチ犯罪追及センターが設立されたのは58年12月。最も重い謀殺罪の時効は7年後に迫っていた。

やがて60年、ユダヤ人根絶計画の実行責任者アドルフ・アイヒマンがイスラエルの諜報機関モサッドによって、潜伏地アルゼンチンから誘拐される。この件には、前述のフリッツ・バウアー検事長が先に居所を突き止め、訴追と身柄送検に必要な手続きを要請したが却下されたため、モサッドに情報を流すというプロローグがあった。

当時、司法内部にはナチ党員の活動歴を隠す裁判官や検事が数多く存在し、政治中枢も国内での裁判を望まなかったのである。こうして61年、アイヒマンがイェルサレムの法廷に立ったとき、西ドイツ国民は背負った過去の重さに圧倒されてしまった。

法廷の扉を開いた1通の手紙

アウシュヴィッツ強制収容所要員に対する裁判は63年12月、このような国民感情を背にフランクフルトで開廷する。世論調査では54%の国民が裁判に反対。新聞には、「もうたくさんだ」「異常な状況下での行為に罪を問うのか」などの投書が並んだ。

ヨゼフ・クレール
1963年12月20日、アウシュヴィッツ裁判の被告席に座るSSの
ヨゼフ・クレール。収容所に勤務した22人の内の1人だった。
©DPA DEUTSCHE PRESS-AGENTUR/DPA/PA Photos

原告団を率いたのは前述のバウアー検事長。ドイツ=ユダヤ人夫婦の間に生まれ、ナチス政権下でデンマーク、スウェーデンへと亡命、49年にクルト・シューマッハーSPD党首の呼びかけに応えて西ドイツへ戻り、56年からフランクフルトの検事を務めていた。

起訴への発端は59年1月、彼のもとに届いた1通の封書だった。差出人はフランクフルター・ルンドシャウ紙の記者トーマス・グニールカ。中には偶然見つけたという、1人の生還者がブレスラウ(現ポーランド領ウロツワフ)裁判所から“お土産”に持ち帰ったとされる書類が入っていた。アウシュヴィッツ強制収容所の殺人記録だった。バウアーはこの証拠書類を連邦最高裁判所に提出し、裁判をヘッセン州で開く許可を得た。

証言が暴いた真実と歴史認識の転換

被告は収容所に勤務した副官ロベルト・ムルカのほか、看守、衛生兵、親衛隊医師、歯科医、薬剤師、衣服担当ら22人。彼らは互いに罪を否定しあい、あるいは転嫁しあって自分の容疑から逃れ、いくら19カ国から召喚された359人の証人(アウシュヴィッツ生還者220人を含む)が被告らの残虐行為を生々しく語っても、過去を悔いる様子は微塵たりとも見せなかった。ヴィルヘルム・ボーガー被告は、法廷から退席する時にナチス式の敬礼さえする。高い横棒にユダヤ囚の膝を折って逆さに吊るす拷問方法を考え出し、アウシュヴィッツの野獣と呼ばれた親衛隊(SS)上官だった。

収容ブロックの棟長だった当時19歳のSSハンス・シュターク被告に対しては、1人の生還者が「ガス室へ送られる前の女性たちを壁の前に並ばせ、1人また1人と撃っては、立て!と狂ったように叫んでいました」と証言。あまりにも惨い出来事を思い出さなければならないために、言葉を失ってうずくまる証言者もいた。

判決では、ボーガーを含む被告6人に終身刑、3人に無罪、シュタークを含む11人に最長14年の懲役刑が言い渡された。裁判後、バウアー検事長は「加害者の口からせめて一言でも人間的な悔いの言葉を聞きたかった」と語った。

西ドイツではこの後も、責任追及派と終止符を求める声が対立した。そのプロセスを経て時効は2度延長され、3度目に廃止された。そして現在、歴史家はこの裁判を社会のターニング・ポイントだったと評価している。匿名だった民族虐殺の実行犯に初めて名前と顔がつき、この時から過去の検証が始まった。ドイツ人の歴史認識を変えたのは、勇気ある検事、裁判官、そして証言者たちだった。

17 April 2009 Nr. 761

最終更新 Mittwoch, 28 Januar 2015 17:26
 

100万人目のガストアルバイター Der millionste Gastarbeiter

1964年 Der millionste Gastarbeiter
戦後に1200万人もの難民が流入していても、高度経済成長期には労働力が不足していた。解決策は、外国人労働者を募集することだった。

19世紀後半の労働力流入

実を言うとドイツが外部から労働力を受け入れたのは、この時が初めてではない。産業革命が波及して工業用石炭の需要が高まった19世紀の後半、ルール地方の採掘現場に不足する労働者を、はるか東の地から募ったのである。

ビスマルクが統一したドイツ帝国の国土を思い出してほしい。当時バルト海に沿って東方へと広がり、東南方面へはオーデル川の源流地にまで延びていたその一帯は、ゲルマン系とスラブ系が混住する土地だった。そのうちのシレジア地方やマズール地方(東プロイセン南部)から、「ポーランド語を話す人々」がルール地方にやって来たのだ。

こうして同地方の人口は倍増。しかし、元からいた住民とカミンスキーやティルコフスキーといった姓を持つ新住民との間に大きな対立は起きなかった。なぜなら、彼ら“帰る予定のない”流入者たちは熱心にドイツ語を学び、ドイツ社会に“同化”してしまったのだ。そして第1次大戦後、ポーランドが独立して国籍選択が可能になった時、彼らのほとんどはドイツ国籍を保持したのだった。

「長居はしない」客人労働者

さて、これから述べる高度経済成長期における外国人労働者の募集が前述の労働移民と根本的に違うのは、“帰る”ことを前提にした点だ。非公式にGastarbeiter(客人労働者)と呼んだことでもお分かりになるだろう。Wanderarbeiter(出稼ぎ労働者)やナチス時代の Zwangsarbeiter(強制労働者)などの表現が持つネガティブなイメージを避けるために作られたこの造語には、もちろん“長居しない客”を望む当局の思惑がからんでいた。

「経済の奇跡」
「経済の奇跡」と呼ばれ、大量生産が推し進められた
高度経済成長期、工場の人員不足は深刻化する一方だった。
Foto: Museum Industriekultur, Nürnberg in Bayerischer Landesausstellung 2009
“Wiederaufbau und Wirtschaftswunder”

募集協定は、まず1955年にイタリアと結ばれた。西ドイツ政府は数年で労働者を交代させる方針を取り、中等教育レベルと健康を条件に、応募審査を現地当局に一任した。こうして簡単な読み書きと膝の屈伸ができれば合格になった最初のガストアルバイターが、主にイタリア南部からやって来た。そして60年にはスペイン、ギリシャとも協定を結び、外国人労働者の数が27万3000人に達した翌年の8月、ベルリンに壁が出現する。

長期的展望を欠いた受け入れ

東からの亡命者の労働力を当てにできなくなった西ドイツは、初めてヨーロッパ域外の国と募集協定を結ぶことにした。そこはかねてから労働者の供給をオファーしていたイスラム教の国。そう、閉鎖されて魅力を失った西ベルリンから多くの就労者が西ドイツへ流れてしまったその穴を、トルコからのガストアルバイターが埋めたのである。彼らの多くが実際は文盲であっても、トルコ国内で抑圧されたクルド人が混じっていても、ドイツ当局は将来起こりうる諸問題を想定するだけの長期的視野を持っていなかった。また、韓国とも63年に協定を結び、看護士たちがやって来て話題沸騰。そして64年、協定を結んだポルトガルから100万人目のガストアルバイターがケルン駅に到着した。

——「アルマンド・ロドリゲス!」通訳が叫んだ。ホームの端から男がおずおずと名乗りを上げた。「おめでとうございます。100万人目です!」そのポルトガル人はカメラのフラッシュに当惑しながら、賞品のモペットを受け取った。(ライニッシェ・ポスト紙)歓迎一色だった当時の様子が見て取れる。この後もチュネジア、モロッコ、ユーゴスラビアと協定を結び、オイルショックにより募集を停止した73年までに、外国人労働者の数は260万人に達していた。

残された課題——「統合」

現在ドイツに住む外国籍者は約730万人。ドイツ国籍のエスニックグループを含めると、“移民の背景を持つ”人口は1530万人に上る。当局が“帰る”と言い、本人たちも“いつかは帰る”と自答していたガストアルバイターたちは結局のところ帰らず、家族を呼び寄せて定住したのである。

そして最近の調査から、移民の背景を持つ住民の中でもトルコ系に際立って義務教育の中退率と失業率が高いことが明らかになった。統合を難しくしている要素は、出自によっても様々だろう。しかし最大の原因は、「帰る」という嘘を50年に渡ってつき続けたことだと指摘する人は多い。この嘘によって当局は移民政策を棚上げにし、外国人は「融合」への努力を怠ることができた。ドイツは、そのツケを今後払っていかなければならないのだ。

27 März 2009 Nr. 758

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:29
 

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