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特集


100本の日本映画作品をフランクフルトで! 第24回ニッポン・コネクション日本映画祭
2024年5月28日(火)〜6月2日(日)

Nippon Connection

2024年も、5月28日(火)〜6月2日(日)まで6日間にわたって、日本映画と日本文化の祭典「ニッポン・コネクション」がフランクフルトで開催される。昨年は過去最高となる通算1万8500人が来場し、日本映画祭として世界最大規模を誇る同映画祭。24回目となるニッポン・コネクションの見どころをご紹介する。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

日本映画100本の上映、日本からも豪華ゲスト

第24回ニッポン・コネクション日本映画祭では、6日間でおよそ100本の日本の長編・短編映画が上映される。会場は、MousonturmとNAXOSをはじめとするフランクフルト市内の七つの施設。今年は「CROSSING BORDERS」(越境)を重点テーマとして、国際共同製作作品、海外で撮影された日本映画、日本で撮影された外国人監督による作品を上映し、日本映画と海外の関係性を探る。

また、一部作品は監督や俳優がゲストとして登壇。ホラー映画「みなに幸あれ」で主演を務める古川琴音が来独し、日本映画界の優れた若い才能に贈る「ニッポン・ライジングスター・アワード」が授与される。さらに、古川が主演するロマンスドラマ「言えない秘密」は、本映画祭での上映がワールドプレミアとなる。

古川琴音

2024年の注目作品は?

ドラマ、コメディ、アニメ、ドキュメンタリーと幅広いジャンルが楽しめるニッポン・コネクション。ワールドプレミア上映を含め、ドイツではなかなか見ることのできない日本作品を中心に、今年の注目作品をピックアップ!

河合勇人言えない秘密

トラウマを抱えた大学生・湊人(みなと)は、謎めいた雰囲気の雪乃(ゆきの)が奏でるピアノに導かれ、運命的な出会いを果たす。自然と惹かれ合い、かけがえのない日々を過ごす二人。しかし、雪乃は湊人の前から突然姿を消してしまう。ワールドプレミア上映で、主演の古川琴音が登壇予定。同映画祭の「ニッポン・シネマ賞」にもノミネートされている。

武内英樹翔んで埼玉 ~琵琶湖より愛をこめて~

「埼玉県人にはそこらへんの草でも食わせておけ!」など、埼玉県人の自虐ネタが痛快な「翔んで埼玉」の待望の続編。前作で自由と平和を手に入れた埼玉県人たちが、今度は東へ向かい全国を巻き込んでいく。ドイツの人々に埼玉ネタが通じるのだろうか……というツッコミはさておき、竹内秀樹監督のトーク付き上映をお見逃しなく!

八鍬新之介窓ぎわのトットちゃん

アニメーション作品もニッポン・コネクションの目玉の一つだ。特に注目したいのは、世界20言語に翻訳されている黒柳徹子の自伝的小説「窓ぎわのトットちゃん」の初の映画化作品。日本アニメ界のトップクリエイターが生み出す映像に加え、先生役に役所広司、父親役に小栗旬、母親役に杏など、豪華俳優陣が声優を務める。

アーノルド・ファンク新しき土

重点テーマ「CROSSING BORDERS」の注目作品の一つとして、1937年に製作された日本初の国際合作映画「新しき土」が上映される。ドイツの巨匠アーノルド・ファンクと伊丹万作が共同監督を務め、日本映画の黄金時代を代表する俳優・原節子が主演。上映当日は、東京外国語大学のイリス・ハウカンプ准教授による作品解説が予定されている。

アンドレアス・ハルトマン/森あらたJohatsu – Into Thin Air

「Johatsu – Into Thin Air」は、ドイツ人のアンドレアス・ハルトマンと日本人の森あらたによる国際合作ドキュメンタリー映画。日本で人間関係や借金、ヤクザからの脅迫などの理由で失踪する「蒸発者」に焦点を当て、当事者や残された人々の葛藤、和解への道のりを描いている。当日はハルトマン監督が登壇する予定だ。

ニッポン・カルチャー部門で日本を体験

ニッポン・コネクションのもう一つの魅力といえば、文化体験プログラム「ニッポン・カルチャー部門」。茶道、料理教室、パフォーマンス、展覧会、ワークショップ、レクチャー、パネルディスカッション、コンサートなど、50以上のプログラムが用意されている。

音楽プログラムでは、シンガーソングライターのヒグチアイ(5月29日)をはじめとしたコンサートを開催。また「Nippon Film Breakfast」として、映画「幸せのサンドウィッチ」を鑑賞しながら、朝食ブッフェが楽しめるイベントも企画されている。

さらにメイン会場のMousonturmとNAXOSでは、屋台やバーで日本料理が提供されるほか、雑貨や工芸品、映画祭オリジナルグッズなどの販売ブースも。無料で出入りできるので、映画やイベントの合間にぜひ立ち寄ってみよう

ニッポン・カルチャー部門で日本を体験

そのほか上映作品やニッポン・カルチャー部門のプログラム、チケット情報などは、映画祭ウェブサイトからチェック!

イベント情報
ニッポン・コネクション

ニッポン・コネクション Nippon Connection 開催期間: 2024年5月28日(火)〜6月2日(日) メイン会場: Künstler*innenhaus: Mousonturm Waldschmidtstr. 4, Frankfurt am Main
NAXOS: Waldschmidtstr. 19, Frankfurt am Main
https://nipponconnection.com/ja

最終更新 Montag, 13 Mai 2024 16:02
 

演劇作家・岡田利規さんインタビューホームオフィスから見つめ直す価値観

日本を代表する演劇作家・岡田利規さんの新作「Homeoffice」が、デュッセルドルフ・シャウシュピールハウス(D’haus)で上演中だ。コロナ禍を経て「ホームオフィス」(在宅勤務)は国を問わず多くの人が経験したが、そんな私たちに同作は面白おかしくもさまざまな疑問を投げかけてくる。作品の背景や制作過程について、岡田さんにお話を伺った。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

ホームオフィスから見つめ直す価値観

岡田利規さん

Toshiki Okada岡田 利規さん

1973年横浜生まれ、熊本在住。演劇作家、小説家、演劇ユニット「チェルフィッチュ」を主宰する。従来の演劇の概念を覆す活動は国内外で注目され、数々の賞を受賞。2026年に東京芸術劇場の芸術監督(舞台芸術部門)に就任予定。
https://chelfitsch.net

「ホームオフィス」は本当にいいものか?

とある企業のリモート会議。舞台上では、自宅やホテルなどそれぞれの場所から会議に参加する様子を7人の役者が演じる。会議中に途切れる回線、上半身だけスーツを着用……など、ホームオフィスを経験したことがある人なら誰しも覚えがある光景かもしれない。そんな「あるある」がちりばめられた作品「Homeoffice」の背景にあるのは、やはり2020年のコロナ・パンデミックだ。

「パンデミックの時、ホームオフィスをせざるを得ない状況でしたよね。ホームオフィスについて『とりあえず面白いし、いいんじゃない?』って、われわれは思おうとしていたと思うんですよ。通勤しないでいいし、終わったらもうここが家だしさ、みたいに。でも本当にそうなのか。自分はホームオフィスをどう思っているのか、もしかしたらよく分かっていないかもしれない。さらに、働くとはどういうことか、自分の仕事は何なのかをあらためて突きつけられた側面もある。そういうテーマを扱ってみたいと思ったんですね。しかもそれをオンライン上の演劇ではなく、『オンラインだけでつながっているという設定』を舞台上でやることが面白いんじゃないかと」

岡田さんは作品の出発点についてそう語る。舞台上に役者全員が常に見える状況は、同じ画面に全員が映るリモート会議とどこか似ているところもあるが、演劇では特殊なこと。俳優たちは自分のセリフがない場面でも常に演技し続ける必要があり、「役者さんは大変だったと思います」と岡田さん。

Homeoffice

また役者がPCに向かって話すという設定は、今までの演劇にはない新しい試みだったという。「オンライン上で話すとき、PC越しに誰かがいるからしゃべっているんだけど、実際はその空間には一人しかいない。それって独り言を言っているのと同じですよね。それでお客さんは気付くんです、『これは自分だ』って。舞台が鏡のような働きを持つのは演劇の面白い点の一つだと思っているのですが、その鏡の要素が大きい作品になったと思います」。「Homeoffice」には、そうした今では当たり前となってしまった習慣や感覚について、観る人にあらためて考えさせる場面が多々登場する。

デュッセルドルフならではの作品づくり

D’hausのレパートリー作品として、ドイツ語で制作された本作。すでにドイツで何作品も上演を重ねてきた岡田さんだが、作品を制作する上で特別にドイツを意識するわけではないと話す。「日本でもドイツでも自分の目標は変わらなくて、それは『僕がやりたいこと』を実現すること。でもそれを自分自身がやるわけではない。主には俳優ですけど、その人たちに『僕がやりたいこと』を分かってもらうことが重要で、それができるとうまくいくんですね」。

一方で、デュッセルドルフに住む日本人に劇場に来てもらいたいというD’hausの希望から、日本語字幕付き上演が実現した。さらに劇中、一人の役者が突然日本語で話し始めるシーンも。「モトジロウ役のトーマス・ハウザーはもともと日本語を勉強していて、本人から日本語のセリフを入れてほしいと言われて。そのリクエストがなかったら、そんなふうにはならなかった。僕は事前にこうするって何も考えていなくて、全部その場のノリで決めますね」と岡田さん。ちなみにハウザーさんは、過去にも岡田さんの作品に出演している。今回のキャスティングでは、すでに岡田さんを知っている役者がいるといいだろうという理由もあって、ハウザーさんの出演が決まったという。こうして「Homeoffice」は、日本にゆかりのあるデュッセルドルフならではの作品に仕上がった。

4月20日に行われた初演は大盛況で、直近では5月28日(火)と6月10日(月)に上演される予定だ。最後に「ドイツは演劇のプレゼンスが高いと感じる」と岡田さん。日本では観劇は敷居が高いと思われがちだが、ここドイツでは劇場が市民に開かれていて、演劇を身近に感じることが少なくない。演劇ファンはもちろん、家族や友人と初めての観劇に「Homeoffice」を観に行ってみてはいかがだろうか?

INFO

Homeoffice ホームオフィス

とある企業に務めるモトジロウは、自宅の台所でホームオフィスをしていた。同僚たちへのフラストレーションが溜まっていた彼は、一つの物語を執筆することで復讐劇を企てる。

作・演出:岡田利規
ドラマトゥルギー:マティアス・リリエンタール、山口真樹子、ローベルト・コアル
出演:ソニヤ・バイスヴェンガー、トーマス・ハウザーほか
www.dhaus.de/programm/a-z/homeoffice

最終更新 Mittwoch, 15 Mai 2024 11:22
 

ドイツの日本文化発信地として55年 ケルン日本文化会館の
過去・現在・未来

ケルンの中心地から少し離れた場所に、ヒロシマ・ナガサキパークと呼ばれる広大な公園がある。その一角にたたずむケルン日本文化会館は、西ドイツ時代から半世紀以上、ドイツにおける日本文化の発信地として存在してきた。なぜケルンに拠点を置いているのか、どんな使命をもって活動してきたのか、ケルン日本文化会館を取材した。
(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

取材協力:国際交流基金 ケルン日本文化会館
参考:『日本文化会館開館50周年記念誌』(国際交流基金 ケルン日本文化会館)

ケルン日本文化会館ケルン日本文化会館前には桜の木が植えられている

なぜケルンに日本文化会館?

ケルン日本文化会館の物語は、1960年代初頭、日本政府がドイツに日本文化会館の設立を決定したことに始まる。それに目を付けたのが、当時ケルン市の行政担当市長を務めていたマックス・アデナウアー氏だ。初代連邦首相コンラート・アデナウアー氏の息子で、日本美術のコレクターでもあった同氏は、ケルンが当時の首都ボンに近く、経済都市および文化都市として重要だったことに着目する。また、ケルン独日協会(1961年)やケルン市と京都市の姉妹都市提携(1963年)が生まれた時期でもあった。そうした背景から、ケルン市は日本文化会館の候補地として手を挙げたのである。

ケルン市への誘致には多くの日本関係者が携わっているが、とりわけマックス氏は1962年の訪日時に池田勇人首相(当時)と会談するなど、日本政府に積極的に働きかけた。さらにハインリヒ・リュプケ大統領(当時)、父であるアデナウアー首相(当時)の熱烈な支援もあり、翌年の1963年、すでに建設が決まっていた東アジア美術館の隣に日本文化会館を設立することが決定する。こうして1969年、ケルンに日本文化の発信地が誕生したのだった。

伝統文化からポップカルチャーまで

ケルン日本文化会館は、広々とした展示スペースのほか、211人を収容できるホール、蔵書数2万5000冊に上る図書室を完備し、開館当初には茶室や灯籠が設けられていた。また同館は、外務省が所轄する国際交流基金のドイツ唯一の海外事務所。事業の三つの柱として、①文化芸術交流、②日本語教育、③日本研究と国際対話を掲げ、活動を重ねてきた。

文化芸術の分野では、日本の伝統文化からポップカルチャーまで、さまざまな企画展のほか、講演会やイベントを開催。1996年および2008年には大江健三郎氏、2002年には村上春樹氏など日本を代表する作家の講演会も行われた。開館50周年の節目には、ケルン・フィルハーモニーを会場に梅若研能会による能・狂言のツアー公演を企画。立派な舞台が組まれ、外部との連携事業としても成功を収めた。また開館当初から続く映画上映は、日本作品に触れられる貴重な機会。とりわけ日本学を学ぶドイツの学生たちにとって、昔も今も日本文化会館は思い出深い場所であり続けている。

ケルン・フィルハーモニーでの能・狂言公演(2019年)ケルン・フィルハーモニーでの能・狂言公演(2019年)

日本語教育支援も会館の大きな事業の一つだ。コース開講のほか、日本文化を楽しむ体験講座、日本語ネイティブと実際に話せる場「日本語しゃべりーれん」を定期開催する。また、日本語教師の支援も行い、日本語を学ぶための環境づくりにも力を入れる。

さらに、ドイツ最大の日本フェス「日本デー」では、毎年ステージでトリを務める日本のアーティストを招へいしている。ほかにも日本映画祭「ニッポンコネクション」に上映作品の貸出や提供を行うなど、近年は日本文化会館の枠を越えた活動も増えてきた。

日本デー2022に招いたチャラン・ポ・ランタン(手前)日本デー2022に招いたチャラン・ポ・ランタン(手前)

次世代へバトンをつなぐために

昨今、ドイツにおける日本への興味関心は、ポップカルチャーを中心にますます広がりを見せている。また、外交上においてもドイツと日本は同じ価値を共有するパートナーとしてよりつながりを深めてきた。その上で、ケルン日本文化会館はこれまで丁寧に築いてきた豊かな人脈やネットワークを、これから国際関係を担う次世代へとつないでいくことを大きなビジョンとして掲げる。そのために、若い世代を対象とした事業展開に加え、ドイツ語圏広域での活動に力を入れていくという。

そのビジョンを体現する事業の一つとして、直近では6月5日から「オンライン日本映画祭2024」(JFF Online 2024)を開催予定だ。このようなオンライン事業が増えれば、ドイツ語圏での日本文化への興味関心はより一層広まるだろう。もちろん日本人としても、自国文化への理解を深め、日独交流のきっかけに、ぜひケルン日本文化会館を訪れてみてほしい。

ケルン日本文化会館
Japanisches Kulturinstitut Köln
(The Japan Foundation)

Universitätsstr. 98, 50674 Köln
Tel: 0221-9405580
Email: このメールアドレスは、スパムロボットから保護されています。アドレスを確認するにはJavaScriptを有効にしてください
https://co.jpf.go.jp/jp
Instagram: @jki_official

最終更新 Mittwoch, 08 Mai 2024 13:38
 

生誕300周年記念 現代に生き続けるカント哲学

プロイセンの哲学者イマヌエル・カントが誕生して今年で300年。カントは18世紀に啓蒙主義を形成し、世界的な平和秩序を唱え、人間を思考の中心に据えた近代哲学の先駆者だ。哲学史に残る名著を著したカントだが、一般人にとっては難解の文献は近寄りがたい存在であるのも事実……。そこで生誕300周年を機に、カントの生涯を振り返り、カントの哲学から現在に活かせる考え方を探ってみよう。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

イマヌエル・カント

参考文献:カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か』(光文社)、萱野稔人『NHK「100分de名著」ブックス カント 永遠平和のために: 悪を克服する哲学』(NHK出版)、西研『NHK「100分de名著」ブックス カント 純粋理性批判: 答えの出ない問いはどのように問われるべきか?』(NHK出版)、秋元康隆『いまを生きるカント倫理学』(集英社新書)、御子柴之『自分で考える勇気 カント哲学入門 』(岩波ジュニア新書)、田中正人『哲学用語図鑑』(プレジデント社)、ウィル・バッキンガム『哲学大図鑑』(三修社)、philosophie Magazin「300 Jahre Immanuel Kant」、Schwäbische「2024 wird der 300. Geburtstag von Immanuel Kant gefeiert」、Frankfurter Rundschau「Philosoph Immanuel Kant: Der Mann, der das Denken revolutionierte」

カントが重要な3つの理由

1啓蒙思想の哲学者

カントが生まれる前の欧州はキリスト教中心の世界であり、真理も善悪も全て神の教えのもとに判定されていた。しかし、カントは伝統的な権威に従って決めるのではなく、自らの知性を働かせて考えることを提唱。そして自由、批判的な大衆、民主主義、法の支配を支持した。

2近代の道徳を提唱

倫理学者として、近代における道徳の基礎を築いた。『人倫の形而上学の基礎づけ』 や『実践理性批判』で提示された「定言命法」は、今日でも多くの人々の道徳的指針となっている。

3認識論者として才覚を発揮

認識論とは、世界をどのように認識しているのかを考察すること。カントは、実像であるその物自体は認識できないけれど、人間の感性や理解の仕組みが対象を秩序づけ、認識を構成すると説いた。当時この考え方は全く革命的だったため、センセーションを巻き起こした。


カントの思想はどこから生まれたのか? キーワードでたどるカントの人生

1724年4月22日ケーニヒスベルクで誕生し、1804年まで生きたカント。18世紀にしては長寿であったカントの長い人生のなかで、何に影響を受けて独自の哲学を唱えるようになったのか、キーワードとなる歴史的背景や人物からひも解いてみよう。

ケーニヒスベルクに誕生

カントの像カリーニングラードにあるカントの像

1724年4月22日、ケーニヒスベルク(現在のロシア・カリーニングラード)で職人ヨハン・ゲオルク・カントとその妻アンナ・レジーナの第4子としてカントが誕生した。洗礼名はエマヌエル・カント(Emanuel Kant)だった。カントが「インマヌエル」(Immanuel)と改名したのは学生時代になってからのことで、ヘブライ語の原語をより正確に表現するためであった。父親は馬車の革の馬具を作る革細工の名人で、ギルドの一員として名誉ある階級に属していた。

KEYWORD 1
港町育ちがカントの世界を開いた

ケーニヒスベルクは海に面した街で、この「港町で育った」ことはカントの人生や哲学の基礎となっている。カントの生まれた時代のドイツ(プロイセン)はキリスト教世界で、神や教会に頼っていた。しかし、ケーニヒスベルクは異国の商人たちが次々とやってきて、彼らが自由に生きる姿を目の当たりにする。この商人たちとの交流を通して、カントは世界にはいろいろな見方や考え方があることを実感した。こうした経験から、カントは思い込みにとらわれない人間に成長したのだった。

ケーニヒスベルク

8歳から名門校に通い始める

カントが誕生後、次第に父の商売が衰退して一家は困窮していく。一方、並外れた才能と高い知性を持つカントは、8歳のときに叔父の援助により名門フリードリヒ学院(Collegium Fridericianum)に通い始めた。

厳しい学校生活だったが、愛情深い両親のもとで育ったカント。しかし、13歳のときに最愛の母が死去する。カントは後に「母は私の中に善の最初の種をまき、育ててくれた。母の教えは私の人生に永遠の癒しの影響を与えた」と述べている。

そして、16歳のときにケーニヒスベルク大学へ進学。数学、物理学、神学、哲学、古典ラテン文学を学び始めた。しかし22歳のときに父が死去し、カントは弟妹を養わなくてはならなくなった。大学を離れてケーニヒスベルク近郊の田舎(Judtschen)で、家庭教師として6年間働いた。ケーニヒスベルクで過ごさなかったのは、唯一この6年間だけである。

KEYWORD 2
厳し過ぎた!? フリードリヒ学院

カントの通っていたフリードリヒ学院は、朝7時から授業が始まり、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語などを学ぶ。下校時刻は午後4時だった。そんな学院の生活について、友人であるテオドール・ヒッペルはこのように振り返っている。「カントはあの若かりし頃の『奴隷の生活』を思い出すと、恐怖と不安に打ちひしがれたようだった」。学校制度そのものやカント家の日常生活も、ルターの信仰の再起を促した敬虔主義の影響を受けており、子どもだったカントには規律と服従が求められ、自主的な思考は奨励されなかったという。その生活が後のカントの思想、すなわち伝統的な権威から自分を解放する啓蒙思想へとつながっていく。

19世紀ごろのフリードリヒ学院19世紀ごろのフリードリヒ学院

ケーニヒスベルク大学で人気講師に

1754年、29歳になったカントはケーニヒスベルクに戻り、翌年に博士号を取得した。カントは最初の重要な著作である『天界の一般自然史と理論』を執筆しており、これによりケーニヒスベルク大学で教職に就けることになった。そして、論理学、形而上学、数学、物理学、地理学、鉱物学、機械学、実践哲学、倫理学、人間学、教育学とあらゆる学問について講義する。カントは商人との交流で得た情報を学生たちに伝えるなど、やがて人気講師に。講義室はいつも満席だったという。当時の学生は「私が講義に出席した9年間で、彼が授業に遅れたことや休講になったことは一度もありませんでした」と、カントの正確さと信頼性について語っている。

KEYWORD 3
ロシア国民として豪華な暮らしを経験

オーストリアとプロイセンが戦った七年戦争の過程で、ケーニヒスベルクはロシアに1758年からの4年半占領されていた。その間、カントはロシア国民であった。しかし「ロシア国民」としての生活は悪くはなかったようだ。カントは、ロシア人将校にさまざまな科目を個人授業することができた。そして何よりも、ロシアの貴族との社交生活も楽しんでいたという。30代だったカントは、フランス料理を楽しみ、仮面舞踏会に招かれるなど、プロイセンとは違うロシアの貴族の豪華な生活を送っていた。

40歳、ライフスタイルをがらりと変える

ケーニヒスベルクが再びドイツ領となり、40歳の誕生日を迎えるころ、それまで華やかだったカントのライフスタイルに変化が訪れる。より精神的健康を重視するようになり、より厳格な規則に従って日常生活をするようになったのだ。規則正しく生活するようになった理由は、生来身体が丈夫ではなかったこと、また親しい友人だった法学教授のヨハン・ダニエル・フンクが若くして亡くなったことが影響しているといわれている。

KEYWORD 4
議論相手だった商人ジョセフ・グリーン

カントは生涯旅行をせず、ケーニヒスベルク周辺を離れることはなかった。しかし、商人との交流によって、驚くほど世界の出来事に詳しかった。特に影響を与えたのは英国人商人ジョセフ・グリーンである。グリーンは厳格な規則に従って生活しており、カントも影響を受けたに違いない。二人は親しい間柄になり、毎日午後はグリーンと過ごすようになっていった。カントは『純粋理性批判』の全ての文章について彼と議論したといわれている。

「三批判書」の誕生

19世紀ごろのフリードリヒ学院カントと議論する仲間たち(1900年頃、エミール・デルストリング作)

ケーニヒスベルクが再びドイツ領となり、40歳の誕生日を迎えるころ、それまで華やかだったカントのライフスタイルに変化が訪れる。より精神的健康を重視するようになり、より厳格な規則に従って日常生活をするようになったのだ。規則正しく生活するようになった理由は、生来身体が丈夫ではなかったこと、また親しい友人だった法学教授のヨハン・ダニエル・フンクが若くして亡くなったことが影響しているといわれている。

「三批判書」ささっと解説!

カントよりも前の時代の認識論には、「イギリス経験論」と「大陸合理論」の二つがあった。イギリス経験論とは、何事も自分が経験しなければ物事を認識できないという考え方で、英国のロックやバークリー、ヒュームなどが唱えていた。一方、大陸合理論は人間には合理的に物事の真理を捉える知的能力が先天性に備わっているという考え方で、フランスのデカルトやオランダのスピノザ、ドイツのライプニッツなどが主張していた。カントは後者の考え方を支持していたが、後に両者の問題点を解き明かし、二つの論を統合。そうして生まれたのが、次の「三批判書」だ。

  • 1『純粋理性批判』(1781年)

    テーマ:人間は何を知ることができるのか、そして、私たちは何を知り得ないのか?

    従来の認識論では、外界の事物(対象)を、スケッチのようにそのまま写し取ることで認識すると考えられていた。しかしカントは対象自体は認識できないが、人間には共通の経験の仕方と理解の仕方が先天性に備わっていると考えた。例えば、机の上にコップがあるとしたら、以前はコップという対象をそのまま写し取って認識していた。しかし、カントは物自体は分からなくても、五感が対象を知覚し、人間が先天性的に持っている認識システムによって対象を読み取り、コップだと認識に至ると考えたのだ。

  • 2『実践理性批判』(1788年)

    テーマ:私たちは何をすべきか、逆に何をすべきでないのか?

    『実践理性批判』では道徳論を論じている。理性は動物にはなく、人間だからこそ備わっているものであり、道徳法則にのっとって皆が納得できるような善い行いをするべきだと主張した。本著に登場する言葉「汝なんじの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当するように行為せよ」(自分の意思を決める規則は、常に道徳法則にのっとって決めて行動せよ)は有名。さらにカントは、道徳は目的を達成するための手段になってはいけないとし、「〇〇せよ(べき)」と定言命法で表せることが真の道徳だといった。

  • 3『判断力批判』(1790年)

    テーマ:私たちは何を望むのか、何を望まないのか?

    純粋理性と実践理性を媒介するものとして判断力に注目し、両者を結びつけるために最後の批判書を発表した。主に美や芸術、美的判断などについて考察し、最初の部分にはカントの美学、第二部には目的論が書かれている。美しいということは、認識対象としての事物の中にあるのではなく、事物を美しいと判断する人間の「認識能力の働き」の中にあると唱えた。ただし、純粋に「美」を感じるためには、対象に利害関係が無いことが必要だという。『判断力批判』は、西洋美学史においていまだに参考にされている。

危険視されたカントの思想

1790年代、カントはフランスで激化した「フランス革命期における非キリスト教化運動」をプロイセンに導入する計画に夢中になっていた。カントの思想を警戒していたプロイセン王、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は、1792年にカントが教職に就くことを禁じた。しかしカントは折れることなく、自分の意見を放棄しなかった。

1793年には『たんなる理性の限界内の宗教』を出版し、道徳は宗教的要件から完全に独立していなければならないと主張。厳格な信者たちはカントの発言を聖書とキリスト教を軽視するものとみなし、批判した。1794年にカントに宛てられた国王の書簡では、「カントが哲学を悪用して、聖典とキリスト教の教えを歪め、品位を落としている」とされ、カントに対して宗教や神学に関する出版を禁止する勅令が出された。

KEYWORD 5
フランス革命から平和思想へ

ケーニヒスベルクではのんびりと歴史が進んでいたが、フランスでは君主制のような神が与えた政府形態が初めて疑問視され、1789年にはフランス革命が起きていた。カントは絶対王政が崩れ、国民国家が誕生したニュースに新しい時代の幕開けを感じ、強い関心を抱いていた。それは国家の新しい形が生まれたことによって、国家間の関係においても戦争の起こらない国際社会がつくれるのではないかと考えたのだ。

フランス革命フランス革命がカントを平和論へと導いた

平和を祈って亡くなったカント

国王など権力者から監視されていたカントだが、1795年には『永遠平和のために』を出版する。この本は後世に大きな影響を与えている(上記)。1800年になると、カントの精神力は徐々に衰え、友人たちに「諸君、私は年老いて弱っている」と話したという。カントの最後の楽しみは、毎年庭にやってくる鳥たちを観察することだった。

1804年2月11日、世話人から水を混ぜたワインをもらったカントは、「これでよい」と言い、これが彼の最後の言葉になった。そして翌日の2月12日、79歳で息を引き取った。葬儀の日は、ケーニヒスベルクにある全ての教会の鐘が街中に鳴り響いたという。

カリーニングラードにあるカントの墓カリーニングラードにあるカントの墓

意外な一面も? カントの素顔

ギャンブルに強かった

カントは素晴らしいビリヤードプレイヤーだったといわれている。彼の打撃は非常に正確だったので、カントに挑む人は誰もいなかった。また教え子のヨハン・ゴットフリート・ヘルダーによると、カントがポーカーをするときは常に「ポーカーフェイス」だったとか。しかし教え子たちは、ギャンブルのせいでカントが人生の軌道から外れつつあると心配していたという。

何十年も続いた規則正しい生活

カントが規則正しい生活を送っていたことは前述の通りだが、具体的な生活習慣は驚きだ。毎朝4時55分に起床し、紅茶を2杯飲む。7時に大学の講義を行い、15時30分になるとどんな天候でも1時間かけて同じ道を散歩する。正確さは近所の人にも有名で、カントが散歩するのを見て自分の時計の針を合わせる人もいたとか。夜は22時きっかりにベッドに入った。 何十年もの間、カントの一日は全く同じサイクルだった。

おしゃれでチャーミングな人柄

カントの身長はわずか157センチ(当時の平均身長は167センチ)だったが、常にファッショナブルな服装をしていたという。また髪は明るいブロンドだったと推測されている。彼は会話で相手を魅了し、大勢の人々を楽しませることができる人物だったとか。ちなみに生涯一度も結婚していないが、ケーニヒスベルクを訪れた女性と二度親しくなったことがある。ただし恥ずかしがり屋だったため、プロポーズには時間がかかり過ぎたようだ。

今こそ注目すべきカントの平和論

カントが『永遠平和のために』(1795年)を執筆してから200年以上経った現在でも世界では戦争が起こっており、皮肉なことにカントにとって身近な国だったロシアはウクライナ侵攻で国際的に非難されている。国際平和は本当に実現できるのか、最後にカントが考えた平和な世界について考える。

カントはロシアで好まれている?

カントが生まれたケーニヒスベルクは、第二次世界大戦後にロシアのカリーニングラードになったが、カントはいまだに街の誇りだ。市内には、カントの記念碑やゆかりの場所などが今も存在している。ロシアの国営通信社タス通信によると、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領はお気に入りの哲学者の一人にカントの名を挙げたこともある。

しかし今年2月、カリーニングラード州のアントン・アリカーノフ知事は地元の政治学フォーラムで、「カントは、われわれが現在直面している世界的な混乱と世界的な再編成に責任がある」とし、「現在のウクライナ戦争も直接カントの影響がある」と持論を展開した。同知事は、カントは道徳法則の道を切り開いたが、「あらゆる行為やあらゆる不正を正当化するために使われる無責任の倫理」を西側諸国に広めたと主張したのだ。この発言はドイツのメディアでも取り上げられ、同知事に対し批判的な意見が多くみられた。

積極的に平和をつくるために

カントが『永遠平和のために』を執筆したきっかけの一つに、1795年にフランスとプロイセン間において締結されたバーゼル平和条約がある。これは戦果を調整しただけの条約で、秘密条項が多く含まれ、戦争の再発を防止するものではなかった。そうした背景から、カントはこの条約を疑問視していたのだ。

『永遠平和のために』では、カントはそもそも人間は邪悪な存在だとし、戦争が起こるのが当たり前でむしろ平和な状態が奇跡的だと考えた。人間の悪は根絶できないものの、それと闘って制圧することはできるとし、平和状態は積極的につくるべきだと主張。さらに国家間の永続的な平和が可能かどうか、またどのようにして実現できるのかを考えた。

同著では、国家間の平和が長期的かつ持続的に可能となるために満たすべき条件として、❶戦争原因の排除、❷国家を物件にすることの禁止、❸常備軍の廃止、❹軍事国債の禁止、❺内政干渉の禁止、❻卑劣な敵対行為の禁止を唱えた。この本が出版された当初から、カントが理想とする平和のための国際組織の構想は熱い論争を呼んだ。 この構想をもとに、第一次世界大戦後に「国際連盟」が結成され、1945年に国連憲章が発効されたことで現在の「国際連合」が誕生した。

カントの平和論は2世紀を経た現在でも、その妥当性は全く失われていない。 二つの世界大戦、冷戦終結後の国際秩序に関する議論が再燃している今、あらためてカントの平和論に注目するべきだろう。

━ 永遠平和は、(中略)たんなる空虚な理念でもなく、実現すべき課題である。
『永遠平和のために/啓蒙とは何か』(光文社)より

1945年6月26日、国連憲章に署名をする各国の代表1945年6月26日、国連憲章に署名をする各国の代表

参考文献:RedaktionsNetzwerkes Deutschland「Die Russen streiten über „ihren“ Philosophen Kant」、Frankfurter Rundschau「Kaliningrads Gouverneur mit wilder These: Kant ist schuld am Ukraine-Krieg」、「Die russische Philosophie in Bezug auf Kant und die Moderne」

最終更新 Mittwoch, 24 April 2024 16:20
 

いつもご愛読ありがとうございます!ドイツニュースダイジェスト 創刊30周年

本誌ドイツニュースダイジェストは、2024年4月16日に創刊から30周年を迎えることができました。あらためまして、これまで支えてくださった広告主の皆様と読者の皆様に心より感謝を申し上げます。この節目に、ドイツニュースダイジェストが歩んできた30年の歴史を簡単にご紹介させていただきます。 (文:ドイツニュースダイジェスト編集部)
取材協力:見市知、参考:英国ニュースダイジェスト1443号「創刊30周年を迎えて」

ドイツニュースダイジェスト30年の歴史

ニュースダイジェストはスコットランド生まれ!

ニュースダイジェストの歴史がスタートしたのは1985年のこと。姉妹誌の英国ニュースダイジェストが、スコットランドにあるスターリング大学の日本語研究室で創刊されました。初代編集長の名は、ブライアン・ケイ。広島で3年にわたって技術者として働いた経歴の持ち主で、当時同大学の日本語研究室のコンサルタントを勤めていました。

その後、ロンドンにオフィスを移転。1992年にフランスニュースダイジェスト(現在は休刊)、1994年にドイツニュースダイジェストを創刊します。インターネットが普及する前の時代、現在よりも紙媒体の需要はもちろん、現地のニュースを日本語で読めるメディアは希少価値が高く、ニュースダイジェストは三国で愛されるフリーペーパーへと成長したのでした。

ドイツのニュースを日本語で社会運動にもいち早く注目

現在は月2回お届けしているドイツニュースダイジェストですが、創刊時から長らく「週刊新聞」として発行されていました。縦書きでまさに日本の新聞。ドイツ現地の新聞記事やテレビ報道から、選りすぐりのニュースを日本語で分かりやすく要約し、ワープロを使って記事を制作していました。また、現在も続いている掲示板「クラインアンツァイゲン」は創刊号から存在する長寿コーナー。昔も今も変わらず、在独邦人のビジネスや生活に役立つ情報が掲載されています。

さらにニュースや情報を発信するにとどまらず、メディアとして社会的な動きにもいち早く注目。例えば、創刊当時は世界各地の在外邦人が在外選挙権を求めて署名活動をしており、ドイツニュースダイジェストもたびたび読者にその実態を伝えていました。弊誌のこうした活動は小さな力ですが、そのような草の根のアクションが世界中でいくつも起こり、2000年に在外選挙権が認められるに至ったのです。

ドイツ・欧州生活者&ファンのためのメディアで在り続ける

創業者のケイ氏が2000年に死去した後、ニュースダイジェストは経営母体が何度か入れ替わり、2005年に現在の代表である森美江が発行人となりました。同年に横書きスタイルに変わり、欧州の日系フリーペーパーではどこよりも早くeBook版を公開。そして創刊から20周年を迎えた翌年の2015年、長年の実績とバランスの取れたコンテンツが評価され、「日本タウン誌・フリーペーパー大賞2015」の海外部門賞にて最優秀賞を獲得することができたのです。さらに時代の流れとともに、ウェブサイトやSNSの運営、デザイン制作や印刷手配、翻訳と事業を多様化させてきました。

2012年には、ドイツ語圏の日本ファンのための媒体として、ドイツ語フリーペーパー「JAPANDIGEST」を発行。現在は紙媒体の定期刊行とウェブサイトを運営し、ドイツ語で発信する日本メディアとして広く知られるようになりました。そうした経験と知見を活かして、近年は東京観光レップとしてドイツ市場を担当するなど、訪日インバウンド事業にも積極的に携わっています。

JAPANDIGEST Nr.23ドイツ語姉妹誌 JAPANDIGEST。最新号は2024年5月発行予定

ドイツニュースダイジェストは、常に在独邦人をはじめ欧州に住む日本人に寄り添い、日本にいるドイツ・欧州ファンの存在も見据えながら、どんな情報が必要か、注目すべきテーマは何かを考えながら制作を行ってきました。これからも読者の皆様に向けて役立つ情報を発信し続けるとともに、時代を先取りしながら新しい挑戦を続けていきます。

節目ごとに振り返るドイツニュースダイジェスト

1994年の創刊から30年。その間、時代は流れ、ドイツニュースダイジェストもその形を変え続けてきました。創刊号から最新号まで、マイルストーンとなる号の一面(表紙)を振り返ることで、移り変わりをまとめてみました。

19944.16 発行

創刊号

創刊号 記念すべきドイツニュースダイジェスト第1号。二色刷りで8面まであった 記念すべきドイツニュースダイジェスト第1号。二色刷りで8面まであった

20041.23 発行

500号

創刊号 10周年を迎える頃には全ページがカラー印刷になった 10周年を迎える頃には全ページがカラー印刷になった

200511.4 発行

585号

創刊号 リニューアルして記事は全て横書きになり、右綴じから左綴じに リニューアルして記事は全て横書きになり、右綴じから左綴じに

201210.5 発行

939号

創刊号 月2回発行となったタイミングに現在のデザインに変わった 月2回発行となったタイミングに現在のデザインに変わった

20244.19 発行

1216号

創刊号 最新号。ここから31年目がスタート! 最新号。ここから31年目がスタート!

最終更新 Dienstag, 16 April 2024 10:05
 

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