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細貝萌インタビュー

細貝萌インタビュー

細貝萌インタビュー

2013年からブンデスリーガのヘルタ・ベルリンに所属する細貝萌選手は、体を張ったプレーとチームへの献身的な姿勢などが評価され、主軸として活躍中だ。プロサッカー選手として異国の地で成功すべく、「強くありたい」と努力し続ける一方、家族やファンへの思いやりも忘れない、繊細で優しい人間性も顔をのぞかせる。ベルリンのクーダム近くで行ったインタビューは、ドイツでの日々からサッカー観、ファンとの交流まで多岐に及んだ。 (取材・文:中村真人)


HAJIME HOSOGAI

1986年、群馬県前橋市生まれ。前橋育英高校卒業後、2005年に浦和レッズ入団。ボランチとしてレギュラーに定着する。11年、ドイツ・ブンデスリーガのレヴァークーゼンに移籍し、アウグスブルクにレンタル移籍。主力として1部残留に貢献し、12/13シーズンにレヴァークーゼンに復帰した。13/14シーズンからはヘルタ・ベルリンでプレー。2010年9月のパラグアイ戦でのA代表デビュー以降、日本代表でも活躍している。

兄たちの背中を見ながら

2014年を振り返ってみて、細貝選手にとって大きな出来事の1つは、ワールドカップ(W杯)ブラジル大会日本代表に落選したことだったのではないでしょうか。先日、そのことを取り上げたテレビのドキュメンタリー番組を拝見しました。細貝選手がそこで、無念の気持ちだけでなく、家族やファンへの感謝の気持ちを言葉にされていたのが印象的でした。

僕自身は、代表に選ばれなかったのは実力不足によるもので、「仕方ないな」と思っていました。しかし、ヘルタ・ベルリンでプレーしていると、練習場やスタジアムに大勢のファンの方が足を運んで応援してくれて、ワールドカップの応援メッセージもたくさんいただきました。家族、妻、両親、ファンの方たち…… 周りにいる人の気持ちや期待に応えられなかったことが申し訳ないと思ったし、それが悔しくて悲しかった一番の理由です。

細貝選手は群馬県前橋市出身。どのような家庭環境の下で育ったのですか?

両親には、自由にさせてもらいました。当時は気付きませんでしたが、プロ生活を送っていると、練習の送り迎えなど、両親は僕がサッカーを楽しくできるように、よくサポートしてくれていたなと思います。サッカーをやっていた2人の兄の影響もとても大きいですね。3つ上の双子なので、誕生日も入学式も七五三も、何をするのも当然一緒。僕は小さかったので、よく分からなかったんです。なぜ2人は誕生日も一緒で、服も同じなんだろう、なぜ自分だけ違うんだろうと思っていました。3つ離れているので、運動能力は自分より高く、サッカーも上手でした。それが悔しくて、兄たちの背中を見ながら、どうにかして彼らに付いていきたいという気持ちが強かったですね。

細貝選手
インタビューに答える細貝選手の言葉の端々から、
その誠実な人柄が垣間見られた

ドイツへの道のり

前橋育英高校を卒業して、2005年に浦和レッズに入団されました。

浦和には6シーズン在籍し、2011年にドイツに来ました。最初はレヴァークーゼンと契約したのですが、当時、レヴァーク―ゼンの同じポジションには代表クラスの選手がたくさんいました。レンタルを考えてほかのチームとコンタクトを取っている際に、FCアウグスブルクのヨス・ルフカイ監督が僕の映像を観て、「ぜひ欲しい」と言ってくださったのです。そして、そのままスムーズにレンタル移籍が決まりました。

もともと、海外でプレーしたいという強い想いを持っていたのですか?

はい。高校を卒業して浦和レッズと契約する段階から、「将来的には海外に行きたいので、チャンスがあれば行かせてほしい」と伝えていました。当時はまだ現実的ではありませんでしたが、気持ちは強かったですね。

ドイツを選んだ理由は?

とにかく欧州、その中でもレベルの高いイタリア、ドイツ、イングランド、スペインのリーグのいずれかでプレーしたいと思っていました。2010年にドイツからオファーの話をいただき、年齢的なこともあったので、これを逃したら行けないと思って決意しました。

そして、FCアウグスブルクのチームの一員になります。

2011年1月のアジアカップ後にドイツへ渡り、ブンデスリーガ2部の後半戦からアウグスブルクに合流しました。クラブは2部で2位につけており、そのまま進めば昇格できるというところでした。幸い1部に昇格し、次のシーズンを戦いました。アウグスブルクがクラブ史上初めて1部入りしたシーズンだったので、どうにか頑張って残留しようという目標があったし、それに貢献したいと強く思いましたね。その時、まさに今僕がいるヘルタ・ベルリンとの残留争いに勝ってアウグスブルクは1部に残りましたが、ヘルタは降格したんですよ。まさか自分がベルリンに来ることになるとは、当時は思いもしませんでした。

アウグスブルクでの生活はいかがでしたか?

まず、ドイツ語を覚えるのが大変でした。数字はなんとか1から10まで言えるぐらいで、選手との会話も、簡単な英語と片言のドイツ語。話し掛けてくれても、何を言っているのかが分からないという時期が長く、辛かったですね。でも、言葉が上達しないからといって日本に帰りたいというのはなかったです。自分が生まれ育った日本の環境とは全く違うので、何もかもが新鮮で充実していました。ただ、ドイツに来たのは1月後半だったので、本当に寒かったのを覚えています。

食事の面で苦労されたことはありませんか?

最初の頃は、アウグスブルクで日本人が経営している日本食レストランに毎日のように通っていました(笑)。行くと、まかないのようなものを作ってくださるんです。そこで昼食を食べて練習に行き、また夜にそこでご飯を食べてから家に帰るというのが日課でした。お店のスタッフの皆さんは、日本人選手がアウグスブルクに来るなど、思いも寄らなかったようで、喜んでくれていましたが、僕はそこに皆さんがいてくれて良かったと感謝しています。その間に妻と入籍し、ドイツに来て間もない頃から食事のサポートなどをしてくれているので、とても助かっています。

今は、ドイツ語にも大分慣れてきたのではないでしょうか。

上手い下手は別にして、何か問題があるときには電話をして解決できるぐらいにはなり、今は普段の生活で困ることはあまりないかな。マッサージをしてくれる方とけがについて話したり、監督とミーティングをしたり……。昨シーズンは全く勉強していませんでしたが、またやらなければと思い、今、ドイツ人の家庭教師の下で勉強しています。週に1、2回、時間をみてやるという感じですが、せっかくドイツにいるので、もっと困ることのないようにと思って。

ブンデスリーガには、世界各国から優秀な選手が集まっていますよね。

今、自分が所属するヘルタ・ベルリンのメンバー構成も、ドイツ、チュニジア、スロヴァキア、ノルウェー、ブラジル、オランダ、アメリカ、カメルーン、コートジボワールなど多国籍です。いろいろな国の選手と話すので、その国の状況を聞いたり、プライベートな話をするのも楽しいですね。仲の良い選手もいますよ。

ヘルタ・ベルリンへ

少し話を戻して、ヘルタ・ベルリンに来ることになった経緯を聞かせてください。

アウグスブルクが1部に残留した後、レヴァークーゼンで1シーズン、プレーしました。そして、2013/14シーズンに合わせてヘルタに来て、現在2シーズン目です。ヘルタに移籍できたのは、アウグスブルク時代のルフカイ監督のおかげと言えます。ベルリンへ行きたいと思っても、監督が僕のことを知らなかったら、そこで終わっていたでしょうから。

昨シーズンのヘルタは、前半戦は好調でしたが、後半戦はなかなか勝てませんでした。

結果的に11位でした。後半をスムーズに戦えていれば、もっと良い結果が出たはずです。今(2014年11月時点)もあまり良い状況ではありませんが、ウィンターブレイク明けは雰囲気が変わるので、逆に後半戦、良い流れに乗っていける可能性もあります。まずはそれまでの間、1つでも試合に勝つことで勝ち点を積み重ねていきたいです。チームがアウェーに弱いということは、もちろん選手自身も分かっているのですが、なかなか結果が出せないのが現状で……。

私が細貝選手に注目するようになったきっかけは、『Number』誌(2011年2月発行771号)で紹介されていたメンタルコントロールの記事でした。当時に比べると精神的にもタフになったと感じていますか?

ピッチに立つ時間が長くなり、充実した時間を過ごせています。日本からドイツに来てプレーする中で、自分でも精神的には間違いなく強くなったと思いますし、そう信じてやっています。

その記事の中で印象に残ったのが、試合中にミスをしてしまったら、心の中にそれを「パーキング(駐車)」するという対処法です。

上手くいく試合もいかない試合もありますが、ミスをしても、ふと「パーキング」を思い出せるときは、精神的にも落ち着いている証拠なのかなと思います。スポーツ心理学の齊藤茂さんに、そういうやり方があることを教えていただきました。今も定期的にメールで連絡を取り合っていて、「こうした方が良い」ではなく、「こういう方法もあるよ」という形でアドバイスをいただいています。いくつかの選択肢や方向性を提示され、その中から自分に合ったものを見付けていくという感じです。齊藤さんには昔からお世話になっていて、高校生のとき、試合前の寝られない夜などに、「1回シャワーを浴びてみたら?」「目を閉じているだけでも精神的には違うよ」といったアドバイスをもらい、時間は掛かりましたが、寝られるようになりました。克服したというか強くなった証拠だと思います。

細貝選手
惜しくも0-1で勝利を逃したものの、フル出場し、
攻守に貢献した昨年11月29日の対バイエルン戦

ボランチというポジション

細貝選手は、今でこそボランチというポジションに定着していますが、昔はそうではなかったそうですね。

高校時代は、ボランチよりもう1つ前のトップ下などでプレーすることが多く、ボランチもやるけれど、攻撃が好きな選手でした。プレースタイルは今と全く違いましたね。今はまず守備をしっかりして、チームのバランスを整えることを考えています。長いサッカー生活を経て、このスタイルが選手として一番活きる方法だと思いましたし、いろいろな監督や選手と出会う中で、自ずとそういう風になっていきました。

相手の攻撃の芽を潰すのに長けているという評価が高いですが、その能力はどのように身に付けてきたのですか?

感覚ですね。危機察知能力と言われますが、これは鍛えようとして鍛えられるものではありません。だからこそ評価していただけるのは嬉しいですし、評価してもらえるように頑張りたいです。自分がアシストやゴールをするよりも、泥臭くチームのために働いて勝つのが嬉しい。それが自分の色だと思っていますし、そこで勝負していきたいという気持ちは強いです。

以前、女子サッカーの大儀見優季選手にインタビューした際、「ドイツのサッカーは1対1の戦いを重視し、それに勝ってこそ評価される」と仰っていましたが、やはりそうですか?

まさにその通りで、ドイツ語のツヴァイカンプフ、1対1の重要性というのは感じています。現時点でチームが結果を出せていない原因の1つは、チームも自分も球際で戦うことができていないからではないかと思います。ボランチはチームの真ん中の位置にいるので、そこで勝ってこそチームを勝利の方向に近付けられる。失点するときというのは、やむを得ない場合もありますが、基本的には課題が確実に出るもので、細かい点が勝負を分けてしまうというのは感じていますね。

記憶に新しいのは、昨年のW杯の日本対コートジボワール戦です。後半同じパターンで立て続けに点を奪われました。

試合を観ていただけの自分よりも、実際にプレーしていた選手の方が、当然悔しい思いをしているはずです。僕はあのW杯で代表に入った選手全員の性格も知っていますから。コートジボワールの選手のクロスに対して、「あのポジションを取っておけば良かった」と後悔している選手もいると思います。あともう少し、どうにかして相手の体の前に入るというところなんです。ただ、そういった課題は、ゴールが入らなければ時間とともに忘れられてしまいがちで、ゴールを入れられたからこそ、「あの時、ああしておけば!」と思うもの。結果論なのですが、結果から見えることは何よりも大きいのです。

次のW杯は2018年ロシア大会。まだ先です。

もちろんロシアには行きたいですが、重要なのはやはり今。目の前のことをしっかりとやれば、日本代表に選ばれたり、本大会に行ける可能性が上がる。結果は後から付いてくるものだと思っています。そういう意味では、ヘルタでのキャリアは一番重要ですね。毎年毎年が勝負ですが、自分自身の状態は良いので、今しっかりとやることで、この先の状況が変わると思っています。

現在28歳。サッカー選手としても、円熟期に入ってきましたね。

もう上から数えた方が早い世代ですが、この年齢になったからこそ分かることもあります。歳だからできないということはないし、歳と経験を重ねた分できることがあると思っています。

先ほど1対1の話になりましたが、Jリーグとブンデスリーガでプレーして、日独のプレースタイルにどのような違いがあると感じますか?

日本はどちらかというと、細かくパスを繋いでゆっくりと攻めていきますが、ドイツはチャンスがあれば縦に速く、力強く攻撃していくというスタイルですね。僕は日本でプレーするよりもこちらの方がやりやすいし、より自分らしさが出せると思っています。だから、ドイツに来て本当に良かったですし、もっともっと長くプレーしたいです。ヘルタを引っ張っていく存在になりたい。まだ契約は残っているので、まずはこのベルリンで長くプレーできるように頑張りたいですね。

ドイツに来て特に衝撃を受けたサッカー選手は?

バイエルン・ミュンヘンのバスティアン・シュヴァインシュタイガー選手です。日本にいたときはそれほど惹かれませんでしたが、こちらで対戦相手として一緒にプレーをしたり、毎試合のハイライトを観ると、さすがはドイツ代表、バイエルンの主役として活躍するレベルだなと思います。強いし、ポジショニングも良いし、前に行こうと思えば行けるし、本当にすべてにおいてクオリティーが高い。「あんな選手がチームにいてくれたら、周りの選手は助かるだろうな」と思うようなプレーをします。今後はドイツ代表でもキャプテンマークを付けるでしょうし、チームの精神的な支柱です。

バイエルン戦では、距離的にも同選手と近いところでプレーするのですか?

目の前にいることはありますが、プレー中に対峙する時間が長いのは、彼より前の位置にいるマリオ・ゲッツェやトーマス・ミュラー、昨シーズンまでだったらトニ・クロース(現レアル・マドリード)らです。当然、彼らも皆レベルの高い選手たち(笑)。大変なのですが、そのようなチームと戦える環境にいるというのは、恵まれています。親善試合や練習試合とは違って、球際の接戦を感じますね。

バイエルンと下位チームが引き分けることがもあるのも、ブンデスリーガの面白さです。

バイエルンが実力的に頭1つ抜きんでている状況ではありますが、順位は毎回分かりませんし、チャンピオンズリーグに出たチームが降格争いをすることもあり得ます。だからこそ、ヘルタにも上へ行くチャンスはあるし、選手のレベルもブンデスリーガの中で決して低い方ではない。ここから良い流れに持っていきたいですね。もちろんほかのチームの選手もそう思っていますが、相手よりも強い気持ちがないと勝てません。チームのために自分は何ができるのかを常に考えながらプレーしたいです。

ベルリンでの生活とファンのこと

普段の生活について教えてください。

試合は週末に行われ、翌日はクールダウン。その次の日がオフですが、僕はオフの日も練習場に行って体をほぐしたり、トレーニングしたりして過ごしています。基本的には規則正しい生活で、毎日同じサイクルで過ごしている感じです。家で過ごす時間は自然と長くなりますが、リラックスできるし、心も落ち着きますね。

ベルリンという街については、どのような印象をお持ちですか?

ベルリンには悲しい歴史が多いですが、せっかく住んでいるので、もっとこの街について学びたいという気持ちはあります。日本にいた頃からベルリンの壁のことは知っていましたが、写真で見るのと、実際にその場で見て感じることは違います。サッカー選手としては、90分の試合に、ベルリンの壁に関する知識の有無は正直関係ありませんが、細貝萌という1人の人として歴史を知らなければいけない、知りたいという気持ちはありますね。(ナチス時代の)ユダヤ人の強制輸送など、今では考えられないじゃないですか。自分でインターネットなどで調べようとすると、結構難しいこともあるので、例えば関連映画を観たりしながらベルリンのことをもっと知りたいです。

細貝選手はファンをとても大事にされています。今シーズンの開幕前、ヘルタファンの少年にユニフォームをプレゼントして、少年が感動して泣いてしまった話がインターネットで話題になりました。

あの日は練習試合で、試合前から「細貝選手、ユニフォームをください」というボードを持った男の子がいることには気付いていて、「ありがとう」って合図したんです。自分の交代後、その子がベンチの目の前までやって来て、ボードを出しながら「くれませんか?」と。小さな声で、すごく頑張って来たという感じでした。僕の方こそ「こんなに応援してくれているんだ」と思って嬉しくて、迷うことなくユニフォームを渡しました。交代直後だったので汗びっしょりでしたが(笑)。その2日後ぐらいに、泣いているその子をお父さんが抱いている写真が地元紙のウェブサイトに出ていたんですよ。その時は、ただユニフォームを渡しただけでしたが、そこまで喜んでくれていたんだと、後から知って本当に嬉しかったですね。

最終更新 Dienstag, 02 Juli 2019 10:50
 

新春エッセイ・終戦70周年によせて 父と戦争

終戦70周年によせて 父と戦争

イラスト: ©Maki Shimizu 福田 直子
プロフィール
東京生まれ、コラムニスト。雑誌編集者を経てフリーに。 ミュンヘン在住。著書に、『大真面目に休む国ドイツ』『休むために働くドイツ人、働くために休む日本人』『日本はどう報じられているか』(共著)など。現在、戦争記念碑 に関する本を執筆中。

昨年亡くなった父は、大の「海軍マニア」だった。 大正生まれの父は、太平洋戦争の終戦間際、学徒 動員で海軍に入隊。職業軍人ではないが、帝国大学生向けの「短期に限って現役(通称「短現)」という期間限定のプログラムで勤務し、海軍主計、士官幹部候補生となった。そのときの軍隊での経験は、相当強烈だったそうだ。私にとって戦争の時代は、父の青春と重なる。

海軍にまつわる話は、子どもの頃から父にあれこれ聞かされた。遅刻したら往復びんたをくらったとか、船の甲板から滑って海へ落ち、もがいているうちに泳げるようになったとか(そのせいで私も幼少時に海やプールに落とされ、逆に水が怖くて泳げなくなった)。私が子どもの頃は毎朝、家中に父の起床号令「そーよーこーし」(そう聞こえた)が鳴り響いた。これが軍隊の起床命令である「総員起こし」であると知ったのは、随分後のことである。「総員」といっても、我が家には子どもが2人しかいなかったのに……。

父が元気な頃は、弱音を吐くたびに「貴様の精神を叩き直してやる!」と、よく叱咤激励された。いかにも不条理なこの「精神論」は、海軍で受けた「洗礼」による。精神力だけで戦争に勝てるはずはないが、日本があれだけ厳しい戦争に耐えられたのも、若者への徹底的な軍隊教育があったからに違いない。勉強が大好きだった父と違って学校があまり好きではなかった私が、今日はお腹が痛いから学校を休みたい」と弱音を吐けば、「学校を休むとは何事だ! 這ってでも行け!」と怒鳴られ、仕方なく学校へ行き、保健室で休んでいたこともある。

父の海軍の先輩には、作家の阿川弘之氏がおられる。娘である作家の阿川佐和子氏も、ちょっと文句を言っただけで、「誰のおかげでメシを食っていると思っているんだ!」と怒鳴られたとか。この世代の日本男児を父に持てば、娘と言えどもお構いなし。幸か不幸か、こういう父親の下では不登校や引きこもりになどなっていられない。彼らの中には、戦死した同胞たちの分も生きなければ申し訳ないという気持ちが強かったのだ。

イラスト: ©Maki Shimizu
イラスト: ©Maki Shimizu

戦争にまつわる悲惨な話も、たくさん聞かされた。ある同級生は特別任務を命ぜられ、日本からマダガスカルまでの片道分のみの燃料を積んだ1人乗りの潜水艦で諜報活動に行かされた(一体、調査内容を本土にどのように報告していたのだろうか)、硫黄島行きを命じられた同級生が顔面蒼白となっていたこと(硫黄島では戦死率が極めて高かった)、東南アジアの山奥でひどい目に遭った陸軍の同級生のことなど。「ああ、また戦争の話か」と、大抵の場合は聞き流していた。私の同級生の親が体験したのは学童疎開がせいぜいで、戦争に行ったという人はいなかったこともあり、「うちの親は年を取っていてどこか変だ」と内心ずっと思っていたのだ。しかし今になって、もっと真剣に聞いてあげれば良かったかなと、少し後悔している。

父は、「後ろ向きになってはいかん。前進あるのみ!」と、繰り返し言っていた。戦争を体験した世代には、芯の強い人が多かったようだ。それでも、父をはじめとする戦中世代は、「日本がなぜ米国のような大国と戦争状態に突入したのか」という命題に、生涯付きまとわれた。父が自ら希望し、かつての敵国であった米国への駐在が決まったとき、我が家は飛行機の中継地のハワイで真珠湾メモリアルに、赴任先の首都ワシントンに着いたときは真夏の炎天下、真っ先に戦没者が眠るアーリントン墓地の硫黄島記念碑を見に行った。まだ1ドルが360円だった頃の話である。父とはよく戦争映画も一緒に観た。私がいまだに話題の戦争映画を見逃さないのは、父の刷り込み教育による。

一方、父は旧制高校時代にドイツ語を第1外国語として学び、大のドイツびいきでもあった。父は会社に勤めてからもずっとドイツ語会話のレッスンを続け、ドイツと名の付くものにはすべて関心を示した。銀座のドイツ料理レストランへ行くたびに、黒パンを買って帰るのが好きだった。引退してからは、ボランティアで日独協会のニュースレター編集委員を務め、これを生きがいとしていた。そんな父の影響からか、私が大学卒業後に「ドイツに留学したい」と言うと、父は「ミサイルが飛んでくるぞ」と言った。無理もない。時代は冷戦の真っただ中で、私が住んだドイツの大学町では春の軍事演習で寮近辺を戦車が走っていた。その轟きに、欧州には、日本にない緊張感があるものだと感じた。それでも、平和な時代に生まれた者としては、戦争に対するリアルな認識に欠けていたように思う。すっかりドイツかぶれになって帰って来た私が夕食時に、食卓にろうそくを灯すと、父に「(灯火管制の頃の)戦時中を思い出すからやめてくれ」と言われた。一事が万事、とにかく父にあっては、何から何までが戦争と結び付いているようだった。

現在、再びドイツに住むようになって実感するのは、この国の戦後もまだ終わっていないということだ。ドイツの著名な言論人が、「テレビでナチス・ドイツの犯罪が放送されるたびに目を背けたくなる」とコメントしていたが、外国人の私でさえ“またか”と思うほど、日本人が想像する以上に戦争やナチスに関する報道が多い。しかし、ドイツが戦後、長い時間を掛けて欧州社会に溶け込もうと努力し、いかにナチスによる被害を受けた国々との和解に尽力してきたかについて、日本には十分に伝わっていない。その証拠に近年、日本では「ナチスの罪は日本と同等ではない」という論理が横行し、時代はなんだか逆行しているようにさえ感じられる。

今年は戦後70年。日本もドイツも、戦争を体験した世代がすっかり減った。戦争の悲惨さを語ってくれる人間が身近にいなくなるにつれ、生々しい戦争の記憶も遠ざかっていく。最近はすっかり平成生まれの人が増え、そのうち「昭和生まれ」というだけで年寄り扱いされることになりそうだ。はたして、昭和の時代から学ぶべきものは何なのか。願わくば、「平成」という名にふさわしい時代となるよう、新しい世代の活躍に期待したい。

最終更新 Dienstag, 02 Juli 2019 11:07
 

「ベルリン・読書テーブル」ドイツの慈善事業活動を追跡

人生の早い時期から本に接することで豊かな想像力や感性が育まれる「ベルリン・読書テーブル」

誰もが子どもの頃、本を読んで、言葉の背後に広がるファンタジーの世界に胸躍らせた経験を持っているだろう。しかし、様々な事情によってこの当たり前のことを体験できずに幼少期を過ごす人が、ドイツには大勢いる。「Berliner Büchertisch(ベルリン・読書テーブル)」は、どんな環境であっても、読書によって得られる貴重な体験を、できるだけ多くの人にしてもらいたいと、読書促進活動に励む団体。運営者の1人、コーネリア・テメスヴァリさんに団体の活動内容と意義についてうかがった。

Berliner Büchertischとは?

Berliner Büchertisch2006年にベルリン・クロイツベルク地区で設立された非営利団体。本を買う余裕がない人々に本に接する機会を持ってもらうことを目的に、市民から寄付された古本を同地区と隣接のフリードリヒスハイン地区の3店舗で低価格で販売しているほか、ベルリン市内とブランデンブルク州の学校図書館や託児所などに寄贈する活動を行っている。ベルリン・ブランデンブルク州学校図書館共同体会員として、優良な図書館を表彰する「学校図書館賞」を主催。
buechertisch.org

1人の母親の思い付きから生まれた自助活動

第2次世界大戦後の復興とその後の高度経済成長期、西ドイツは好景気に沸く一方で、深刻な労働力不足を抱えていた。そこで受け入れたのが、「ガストアルバイター」と呼ばれる外国人労働者。南欧やトルコなどから来た働き盛りの男性たちは、建設作業などのきつい労働をこなした。当初彼らはドイツ社会から、当地での仕事が終われば母国へ帰る「客人」とみなされていたが、やがて家族を呼び寄せて定住し、独自の生活インフラを築き、それが2、3世へと受け継がれていく。クロイツベルクは、そんな移民たちが集中するエリア。そこでは、どうしても格差や貧困などの社会問題が深く根を下ろしてしまう。特に移民の出自を背景に持つ子どもたちの教育は、自治体の悩みの種。そこで「ベルリン・読書テーブル」は、読書の促進を通して地域の教育レベルの向上に一役買っている。

創設者はアンナ・リヒトヴェアさん。大学を中退し、無職で2人の子どもを抱え、将来の展望も持てず途方に暮れていた彼女は、あるとき家の中を見回して、もう読まない本が溢れていることに気付く。そこでふと、「要らない本を抱えている人はほかにもいるはず!」と思い立ち、自転車でベルリン市内の家々を回って古本を集め始めたのだ。

「彼女は小さな店舗を借りて、道行く人々にチャリティー団体への参加を募り、寄付を呼び掛けました。集まったのは主に失業者や経済的に困窮している人、精神的な問題を抱えている人たちで、設立当初は自助団体の性格が強かったと言えます」。その後、団体は徐々に規模を拡大し、今では約30人のメンバーを抱える。過去に薬物・アルコール中毒だった人、複雑な家庭環境の下で育った人、障がい者作業施設で働いていた人のほか、学生や民間企業での勤務経験を持つ人もいる。「同じ悩みや問題を抱える人と、いわゆる普通の人が混在するチャリティー団体は、ドイツでは珍しいですね。私自身、ここに所属する前は大学の研究員でした。ここでは、大学卒のようにエリートばかりではなく、様々な背景を持つ人が一緒になって社会的、政治的に意義深いことをしているという実感が持てます」

読書を、学校だけでする行為にとどめない

同団体が実施している活動の柱は大きく分けて3本。うち2つが、「Ein Kind, ein Buch(子ども1人、本1冊)」と「Berliner Lesetroll(ベルリン読書トロリー)」という子ども向けのプロジェクトだ。クロイツベルクとフリードリヒスハインの3店舗で販売している古本を、子どもなら誰でも1日1冊、無料で持ち帰ることができるというのが「子ども1人、本1冊」の仕組み。「もちろん、本は学校や地域の図書館でも借りられますが、ここの本は『自分のもの』にできます。読み終わったら友達に貸したり、あげたりすることもできますしね」。無償で本が手に入ることを知り、頻繁に書店を訪れるようになる子どもは多いそうだ。

一方、読書トロリーはクロイツベルクの店舗に地区の小学校の1クラスを集め、小さなキャリーバッグ(トロリー)に本やDVD、CD、おもちゃなどを詰め込んで学校へ持ち帰り、クラス内で回し読みをするというもの。トロリーの本は家に持ち帰って、家族と一緒に読んでも良い。子どもたちにとって、「読書」を学校で行うものにとどめず、家庭へ広げていくことが狙いだ。貸与されたトロリーは、1年後に書店に戻される。人気が高いのは冒険小説や少年探偵もの、海賊や騎士などをテーマにした本だという。

そして第3の柱は、寄付された本を近隣の施設に寄贈するというもの。対象は主に学校図書館だが、刑務所内の図書館や難民受け入れ施設などもそこに含まれ、これまでに本を寄贈した施設は約230カ所に上る。さらにはオンライン販売や、問い合わせがあれば国外発送も行うなど、まさに世界を股にかけた活動を展開している。

「社会的焦点」で、子どもの可能性を広げる

コーネリア・テメスヴァリさん
大学研究員時代に活動に参加し、現在はプレス
担当としてフルタイムで勤務する
コーネリア・テメスヴァリさん

同団体が読書普及活動を行う背景には、クロイツベルクやフリードリヒスハインが市内でも特に多くの貧困層の集中する「社会的焦点(Sozialer Brennpunkt)」で、子どもに本を買い与えることができなかったり、親が読書を教育の優先順位に置いていなかったりする社会構造がある。現在では、停滞地域に高級層が移り住むことで一帯が豊かになる「ジェントリフィケーション」も一部では起きているが、子どもに読書をさせる余裕がない家庭があるのは事実。加えて、学校図書館の本不足がこの問題に追い打ちを掛けている。ドイツの学校図書館は長年、本不足に悩まされており、閉鎖を余儀なくされているところもある。図書館への公的助成金給付は皆無で、設置する本の大部分を寄付に頼っているためだ。教科書を除いて、休み時間や放課後に読める本は、図書館がなければ親に買ってもらうほかないが、それがかなわない子どもは多い。同団体は、そのような子どもたちに読書の機会を積極的に与え、言語教育の面でも一役買うことに存在意義を見出している。

 「クロイツベルクには移民や伝統的な労働者階級が多く、十分な教育を受けられずに育つ子どもたちが大勢います。親が子どもにちゃんとした教育を施したいと思っても、社会や行政、法制度がそれを阻んでいるケースが多いのです。また、教師もそれらの子どもたちを教育からは縁遠い生徒とみなし、はなから『大学進学を目指すギムナジウムへの入学は無理』と決め付けてしまうことがあります。小学校4年生の段階で将来の進路選択を迫るドイツの教育制度において、学校を卒業していなかったり、職業訓練を修了していない親の元で育つ子どもの将来の可能性は極端に狭められるという研究結果も出ています。だからこそ、彼らへの支援が必要なのです」

同団体はまた、インターネットの普及と利用者層の低年齢化に伴う「本離れ」も危惧している。子どもたちがコンピューターの前で過ごす時間が格段に増えている現代、本がそこに入り込む余地は限られつつある。ただそれは、本が消滅することと同じではない。団体のメンバーは活動を通して、子どもたちに本と接する機会を与えさえすれば、彼らはたちまち本の虫になることを実感している。

「読書トロリーを体験した生徒のフィードバックを聞いていると、妹弟に読み聞かせたり、クラスの友達と読んだ本の感想を語り合ったりする中で、彼らが特にけんかをしたときの仲直りの仕方や障がい者への接し方など、コミュニケーションや仲間意識、道徳に関する知識を自ずと学んでいるのだと分かります。ドイツ語とトルコ語、ドイツ語とイタリア語など、2カ国語表記の本を希望する声も多いんですよ。クラスメイトに外国語を話す子がいれば、読み比べるという楽しみ方もできますからね。これらは、1人でコンピューターに向かっているだけでは絶対に得られない体験です。本はデジタル技術が発達した今日なお、子どもたちを喜ばせる大きな魅力を備えていると信じています」

本が、地域住民の交流の活性剤に

「読書トロリー」
クラスの皆で本の回し読みをする「読書トロリー」は
子どもたちに大好評。「来年もやりたい!」という声が
絶えないのだとか

書店には日々、児童書から専門書、小説、アート作品集、写真集まで、ありとあらゆるジャンルの本が持ち込まれるが、それらを古本市場の相場と照らし合わせつつ、1ユーロからの廉価で販売している。レアなものは優先的にオンラインで販売するなどして、できる限り売れ残らないよう工夫。売り上げを職員の報酬や読書促進プロジェクトの運営費に充てるほか、一部を学校図書館に寄付している。

同団体は読書の促進のほかに、団体の活動に携わるメンバーに職業面で展望を与えることを目的にしている。しかし、最大の困難もまたここにある。つまり資金繰りの大変さだ。職員の多くはパートタイムだが、本を回収し、どの施設に何を送るかを考えて仕分けるというシステムはかなり煩雑で、「可能ならフルタイムの職員をもっと増やし、報酬も引き上げたい」というのがメンバーの本音だ。

運営の難しさは、それだけではない。設立以降、団体はたびたび活動中止の危機に見舞われた。数年前、クロイツベルクの店舗付近で大規模な火災が発生し、中の本がほぼ全焼した際は、近隣住民がボランティアとして駆け付け、再建を手伝ってくれた。また、約1年前に創設者のリヒトヴェア氏の引退が決まった際も存続が危ぶまれたが、メンバー全員が協同組合を立ち上げる方針で一致し、難を乗り切った。そして今は、近隣住民にとって、読む喜びを味わいに来る心のオアシスとなっている。

現在、団体は読書トロリーを幼稚園に普及させようとしている。「本に触れるのに時期尚早ということはありません。できるだけ人生の早い段階から本に慣れ親しむことで、豊かな想像力や感性が育まれるのです」。テメスヴァリさんの言葉には、読書の楽しみを幼い子に届けたいとの思いが溢れている。このほか、通りや区役所に力車や書棚を置いて、誰もがそこに不要となった本を置き、そこから持ち帰ることができる「プレゼント用の本の棚(Bücherverschenkregal)」や、地域で面白い社会活動に携わる人を紹介すべく、彼らに実際に料理を作ってもらいながらその素顔に迫るレシピ付きポートレイト『クロイツベルク・クッキング(Kreuzberg kocht)』『フリードリヒスハイン・クッキング(Friedrichshain kocht)』を発行するなど、本を軸に活動の幅を広げている。また、今年試験的に始めたプロジェクト「読む場所(Ein Ort zum Lesen)」も今後、軌道に乗せたいという。これは、1933年にナチス・ドイツによって行われた焚書を記憶し、犠牲となった作家を追悼する、ベルリン市共催の読書・朗読会で、子どもたちに歴史に対する意識を喚起することを目指している。

「私たちの引き出しにはアイデアがいっぱい詰まっていますが、すべてに手を付けるわけにはいきません。資源は限られていますから」と話すテメスヴァリさん。チャリティーである以上、資金の問題は常にメンバーの頭をもたげる。その打開策の1つとして、公的支援を得ることが今の目標だ。難関だが、越えられない壁ではないはず。なぜなら、少しでも多くの人を本の中の壮大な世界へ誘うという崇高な使命と、賛同者の熱意に支えられているのだから。

ドイツのチャリティー事情

ドイツ連邦統計局によれば、同国内の昨年の寄付金総額は約74億ユーロ(政治目的のもの、税控除の対象とならない寄付を除く)。うち3分の1が特定の団体や活動に繰り返し送金する定期寄付で、寄付という行為が市民に広く根付いていることがうかがえる。

大規模なチャリティー団体としては、難病を抱えていたり、経済的に困窮している子どもの支援のために寄付を募る大衆紙「ビルト」主宰の「子どもたちのためのハート(Ein Herz für Kinder)」や、世界の災害・伝染病の発生地域、貧困地域を支援する「ドイツは助ける(Aktion Deutschland hilft)」などが有名。過去には、「ドイツ音楽ケア支援協会(Hilfsbund für Musikpflege)」という音楽の国ドイツならではの団体も存在した。これはハンガリー系ユダヤ人ヴァイオリニストで音楽教育者のカール・フレッシュが第1次世界大戦後の1920年に、音楽をする環境が失われたドイツの音楽家たちを助けるために、ベルリンに設立した団体で、36年6月にナチス・ドイツに活動を禁止されるまで、貧困にあえぐ音楽家を支援した。

ドイツと言えば、今や環境大国としても世界的に認知されており、自然を尊ぶ精神はチャリティー活動の形でも表れている。その1つが、「Plant for the Planet」というプロジェクト。始まりは、2007年にバイエルン州に住むフェリックス君(当時9歳)が学校で行ったプレゼンテーションで、彼はアフリカで30年間に3000万本の木を植えたという人物にヒントを得て、世界中の子どもたちが自分たちの住む土地に100万本の木を植えることを提案。これが国連環境計画(UNEP)によって評価され、地球の緑化プロジェクトとして発動。3年後にはドイツ国内で100万本の植樹が達成され、現在では、子どもたち自身が、ほかの子どもたちに環境保護の意識を喚起するための講演を行うなど、環境チャリティー団体としての地位を確立している。

 
最終更新 Donnerstag, 08 Januar 2015 16:14
 

フォトコンテスト2014 受賞者発表!

独・仏・英 ニュースダイジェスト主催
フォトコンテスト2014
受賞者発表 !

既に遠い記憶となりかけた思い出が、まざまざとよみがえってくる。
いつも見慣れているはずの何げない光景が、違った輝きを見せる。
海外生活を送る独・仏・英ニュースダイジェストの読者の皆様と、
写真を撮ることの楽しさを共有したいとの願いから始まった
フォトコンテストは、4回目を迎えました。
今年も力作がそろった数々の写真の中から、受賞作品を発表いたします。

マチュア部門大賞

「アリゾナの夕焼け」
ルグラン 青木祐子 さんフランス

「アリゾナの夕焼け」 ルグラン青木祐子さん

まさか自分の作品が大賞に選ばれるなんて、初めて知らせを聞いたときには信じられませんでした。本当にうれしいです。この写真は2014年8月に米国アリゾナ州セドナ市で開催されたツアーに参加したときに撮りました。スピリチュアルな場所なので、そうした特別な雰囲気が感じられるよう背景を意識してシャッターを押したことを覚えています。また重いカメラを使用していたので、カメラを落としてしまわないように気をつけました。写真のモデルとなったツアー・ガイドのサラさんが、大自然と一体になって写っているところが気に入っています。

審査員コメント旅の思い出を扱った主題が秀逸です。写真に写った光が美しい。構図のバランスもきちんと取れています。さらに、夕陽を眺めている被写体がつくり出す、何とも言えない雰囲気が素晴らしいと思います。雰囲気を写真で捉えるというのは、非常に難しいですよね。世の中には「雰囲気を捉えた写真」が確実に存在するにも関わらず、どうすればそのような写真を撮ることができるかを説明するのは難しい。どんな雰囲気を残したいのか、その雰囲気を捉えるためにはどんな構図にすればいいか。それを考えながら、何度も撮り続けるしか他に方法はないのかもしれません。 by Canon Europe

キッズ部門大賞

「妹」
クネル翔音 さん(10歳)フランス 

「妹」クネル 翔音 さん(10歳)

今年の夏、インドネシアのバリ島の海岸で散歩をしていたときに、妹が気持ち良さそうに海岸を走っていたので、写真を撮りました。その際に心掛けたのは、太陽の光がカメラのレンズの中に入りすぎないようにすること。出来栄えとしては、妹が「走っている」という感じをよく捉えることができたと思います。私が写真を撮るときに普段使用しているのは、お母さんが昔使っていたカメラ。来年の夏は日本に行く予定なので、日本でしか撮ることのできない、日本らしい写真をいっぱい撮りたいです。

審査員コメント子供が楽しそうに遊んでいる姿をうまく捉えていますね。何よりも海に反射する光が美しい。空と海をバランス良く入れ込んだ構図も素晴らしいです。前方には走る子供と太陽の光の反射、中央やや後方に波、そして遠景には水平線と空。よく見れば、この写真は幾つもの異なる層によって構成されていることが分かります。遠方まで広がる景色を撮る際には、前方に何を置くかが重要です。前方に何もなければ、退屈な写真になってしまう恐れがあるからです。本作品は、遠くの景色と前方のモデルのバランスが取れたまさにお手本のような写真ですね。by Canon Europe

マチュア部門特別賞

「ラベンダー畑」
稲葉政文 さんイギリス 

「ラベンダー畑」稲葉政文さん

8月下旬にロンドン郊外サットンのラベンダー畑に出掛けたときに撮影した写真です。ラベンダー自体は既に花が枯れているものが多く、満開とはいきませんでしたが、天気が良くて暖かい日の光がちょうど良い具合に入ってきました。娘が動き回るので、いろいろなことに気を遣う時間はありませんでしたが、とにかく構図だけには気をつけて、娘、花、そして空がうまく収まるよう心掛けました。娘の服装がラベンダー畑にマッチしているのと、不思議そうに自分の手を見つめているところが自分でも気に入っています。

審査員コメント写真に写っている子供の顔に注目してください。子供がカメラのレンズではなく、ほかのものに興味を示している瞬間を捉えたという点にこの写真の最大の特徴があります。周囲のものに多大な関心を払っているということが如実に分かる表情ですね。画面に縦と横をそれぞれ3分割する線を設定し、その線が交わる点上に被写体を置くという「3分割法」に則った構図も完璧です。また子供と同じ低い視点から撮影しているという点にも工夫を感じます。こうして低い位置で撮るというのは、写真に「気持ち」を吹き込みたい場合に有効なテクニックです。 by Canon Europe

「もしもし こちらアザラシ」
一柳絵美 さんドイツ

「もしもし こちらアザラシ」一柳絵美 さん

9月にヘルゴラント島という北海に浮かぶ小さな島を訪れた際、海岸沿いで何十頭もの野生のアザラシが、気持ち良さそうに昼寝をしている姿を目にしました。その中に、寝ぼけまなこで電話に出ているかのような格好の1頭を発見。あまりの可愛らしさに感激し、その表情を逃すまいと、できるだけズームインして、たくさん撮影したうちの1枚がこの写真です。受賞できるとは全く考えていなかったので、とてもうれしいです。動物が好きなので、これからも自然な表情を浮かべる動物の写真を撮っていきたいと思います。

審査員コメント野生動物の一瞬の動きを捉えており、タイトルとマッチした、ユーモラスでインパクトのある作品だと思います。アザラシののんびりした表情や、「もしもし?」と電話をしているかのような可愛らしいしぐさ。しかし、その首の傷跡からは野生生活の厳しさが垣間見られます。このアザラシの人生までも写し出しているかのようです。今回の応募作品には、ポストカードになりそうな奇麗なものが多かったのですが、その中で最も動きを感じられる作品でした。「もしもし?」の後に続くアザラシの言葉が何であるかは、見る人の想像力によって違ってくるのでしょうね。 by Steigenberger Frankfurter Hof THE SPA

「白鳥の湖」
ジャンフランソワ・ジェニー さんフランス 

「白鳥の湖」ジャンフランソワ・ジェニー さん

娘の夏休みを利用し、7月下旬に家族皆でマレーシアにて夏のヴァカンスを過ごしました。クアラルンプール滞在中にバード・パークに行き、そこで数羽の水鳥が湖上に浮かんでいる姿を見て、あまりの美しさに魅了されシャッターを切りました。それぞれの水鳥の動きが異なるので、全体のバランスを取り、優雅な雰囲気が表現できるように気を付けました。チャイコフスキーの「白鳥の湖」を連想し、あたかもダンスをしているかのような水鳥の姿が美しく撮れたところが気に入っています。これからは言葉では表現できない自然の美しさを撮りたいと思っています。

審査員コメントどこにでもあるような池の風景ですが、そこに鏡のように池に映り込んだ自分を見ている右上の水鳥の姿が印象的です。経済、宗教、人種間での民族主義の台頭、さまざまな理由で少しずつ世の中がまたおかしくなりつつあるのを実感する時代となりました。そんな時代にあって、この一つの限られた空間の池の中で、いろいろな方向を向きながら、群れの中で睦まじく暮らす一家。そして鏡のように自分に問い掛けている一羽の鳥を見て、一つのメッセージを含む写真なのでは?と感じました。自分の子供たちの次の世代が平和であればいいのですが。 by GUILOGUILO

「Trackstand」
斉藤真大 さんイギリス

「Trackstand」斉藤真大 さん

入賞という思いもよらない結果に驚いたと同時に、うれしい気持ちでいっぱいです。この写真は、夏休みに友達が僕の住む町に来て、自転車に乗ったり、写真を撮ったりしながら遊んでいたときに撮影したものです。自転車の骨組みと、背景と人物のバランスを考え、友達がかっこよく見えるように撮ろうと心掛けました。友達をいつもよりずっとかっこよく撮れたことがうれしかったです。普段から一眼レフカメラで風景や人々を、またスクーターやスケートボードの動画を撮ったりしています。今後はスポーツに関する写真と動画をもっと撮りたいです。

審査員コメントグレーの地面と茶色いレンガの背景が、主人公の青年と自転車をくっきりと、そして鮮やかに引き立てており、構図の取り方も絶妙です。さらに手前の最下部において水平に引かれたラインによって、写真の奥行きと立体感が強まっていると思います。全体の落ち着いたトーンに、庭の花木の色合いがほのかなスパイスとして加わっているあたりにもセンスを感じますね。曇り空の下に広がる何げない日常を、柔らかく、そして温かく感じることができる1枚です。 by 宝酒造株式会社

キッズ部門入賞

「秋のコロッセウム」
今村颯輝 さん(11歳)ドイツ 

「秋のコロッセウム」 今村颯輝 さん

10月12日にクサンテンという町で撮った写真なのですが、雲一つない天気で気持ち良い日でした。そのとき、コロッセウムの中をおばあさんが孫を連れて歩いていたのです。日本にいる祖母とは今は遠く離れているので「おばあちゃんと散歩できていいな」と思いながら撮りました。僕は高いところが好きなので、高い位置から撮ろうと、自分の視線より高く撮れるよう手を頭の上まで伸ばしてコロッセウム全体が入るようにしました。普段、写真を撮るのは家族で出掛けて気が向いたときくらいです。ドイツでは、日本にはない建物や風景を撮りたいと思っています。

審査員コメント広いコロッセウムの中で、おばあさんとその孫と思われる2人が仲良く手をつないで歩いている姿が、とてもほのぼのとしていて印象に残りました。撮影された方は、この写真に写った2人のように、コロッセウムの真ん中に家族と一緒に立ったらどんなに楽しいことがあるだろう、果たしてどのような景色が見えるのだろう……と、きっといろいろなことを想像しながら撮ったのではないかと思います。写真を通じて家族の絆を感じさせてくれたところが、入賞作品として選んだ決め手となりました。 by Paris Miki International GmbH

キッズ部門入賞

「猫ちゃんは可愛かった」
伊藤雅珠 さん(6歳)フランス

「猫ちゃんは可愛かった」伊藤雅珠 さん

この写真は、学校の帰りに仲良しのお友達と公園に行ったときに撮ったものです。お友達がダイジェストのコンテストに応募するというので一緒に応募したくてお花をたくさん撮っていたら、猫ちゃんが来て、可愛かったので撮りました。自由にしている猫ちゃんを撮りたかったので、そこを注意して撮りました。猫ちゃんのポーズと目の表情が気に入っています。使ったのはママのカメラ。普段は貸してもらえないけれど、このときは応募したくてお願いをして貸してもらい、たくさん撮ることができました。本当はもっともっと毎日撮りたいです。

審査員コメントまず、猫の意志のある目が良いと感じました。大人だとなかなかこのような構図は撮らないのではないでしょうか。子供だからこそ撮れた写真であり、そのときの雰囲気がよく伝わる、とても素敵な写真です。今回の応募のために、お母さんからカメラを借りて写真を撮ったということですが、せっかく入賞されたので、これからも続けて写真を撮っていただきたいですね。周りにあるさまざまなものをよく観察し、そのときにしかない時間を写真に残していってください。これからのますますの成長を応援しております。 by BOOK OFF

キッズ部門入賞

「雨の日のクモの巣」
ヘインズ朋樹 さん(7歳)イギリス 

「雨の日のクモの巣」」ヘインズ朋樹 さん

僕の写真が入賞したことを、お母さんから教えてもらいました。とてもびっくりしましたが、うれしいです。写真を撮ったのは、学校から帰る途中の道。雨がやんだ後にできたクモの巣にたくさん付いている水滴とクモを見つけました。クモが逃げてしまわないように、そしてクモの巣や木に触って水滴が落ちないように気をつけました。きれいな形をしたクモの巣に、水滴がキラキラ光ってきれいなところを上手く撮ることができたと思います。普段は家族、旅行の風景、庭の鳥や花、自分で作ったレゴや絵の記録を撮るのが好きです。これからは動物も撮りたいと思っています。

審査員コメントまるで宝石のように光る雨滴と、カラフルなクモの存在感が際立っています。またクモの巣の背景に広がる緑いっぱいの自然が、手前に見える雨水の瑞々しさとクモの生命感をより一層引き立てているようにも思えます。暗くそして雨続きであるがゆえに、ともすると陰鬱な気分になりがちな英国特有の天気の中で、日常的な風景の中からこのような美しい自然を発見してしまう子供らしい視線が素晴らしいと感じたため、入賞作品として選ばせていただきました。 by JP Books

審査員総評

今年も水準の高い作品がそろいました。本コンテストは今年で第4回を迎えましたが、作品の水準が回を追うごとに向上していくのがはっきりと分かります。このため、秀作ぞろいの応募作品の中から大賞や入賞作品を選び出すという作業も年々難しくなってきており、審査員も頭を悩ますことが次第に多くなってきました。一例を挙げますと、本コンテストにおいては、これまで被写体を反射的に撮影したいわゆるスナップ写真が応募作品の中に多く見られました。ところが今回集まったのは、構図を練ったり、タイミングを計ったりと撮影に時間を掛けたとうかがえる写真ばかり。またカメラの機能が進化していることも、作品の水準が高まっていることの一因となっているのかもしれません。一方で、写真を撮影する際にその出来栄えを左右するのはカメラの機能ではなく、あくまでも撮影者の腕です。一体どんな写真を撮りたいのかを自身に問い掛けながら撮るのが、写真撮影を上達させるためのコツと言えます。 by Canon Europe

From News Digest

仏・英・独のニュースダイジェスト主催フォトコンテスト2014に数多くのご応募をいただきまして、誠にありがとうございました。本企画は、読者の皆様からの参加に大きく依存する構成となっております。大切な思い出を写した写真を共有していただいた応募者の方々、またお忙しい中、コメントの提供などご対応いただいた大賞・入賞受賞者の方々、そして賞品を提供してくださったスポンサー企業の皆様に、社員一同、心より感謝申し上げます。

当選までの流れとしましては、例年と同様、まずはニュースダイジェスト社内で一次審査を実施。「審査員総評」でも紹介されていましたが、今年は各作品とも非常に凝ったものが多く、一次審査から難航しました。その後、各国審査員による最終選考を実施。大賞作品、審査員特別賞作品、各国入賞作品が決定しました。  

応募作品の中には、プロの手によるものと見紛うほどの高い水準に達した写真が数多くありました。一方で、実際に写真撮影の仕事を経験された方というのはほとんどいらっしゃらなかったようです。受賞後の感想をうかがった大賞・入賞の受賞者の方々が、口をそろえたように「まさか自分が受賞するとは思ってもみなかった」と仰っていたのが印象的でした。また受賞者の皆様は、普段から写真を撮るのが好きという方が多かったようです。撮ることにはそれほど自信はないけれども、写真展に行くのが好きと仰る方もいらっしゃいました。「好きこそものの上手なれ」という言葉の意味を、再認識したような気がします。

受賞者と賞品

    マチュア部門

  • 大賞: ルグラン 青木祐子さん
    Canon Europeより Canon EOS 100D Digital SLR Camera
  • マチュア部門特別賞: 稲葉政文さん
    Canon EuropeよりCanon PIXMA MG6450
  • 英国入賞: 斉藤真大さん
    宝酒造株式会社より清酒・焼酎・みりんのセット(200ポンド相当)
  • ドイツ入賞: 一柳絵美さん
    Steigenberger Frankfurter Hof より THE SPAのご利用券(250ユーロ相当)
  • フランス入賞: ジャンフランソワ・ジェニーさん
    新割烹のレストランGUILOGUILOよりお食事券 (200ユーロ相当)
  • キッズ部門

  • 大賞: クネル翔音さん
    Canon EuropeよりCanon IXUS 145
  • 英国入賞: ヘインズ朋樹さん
    JP Booksよりバウチャー(50ポンド相当)
  • ドイツ入賞: 今村颯輝さん
    Paris Miki International GmbH より 「Ray-Ban」キッズ用サングラス(70ユーロ相当)
  • フランス入賞: 伊藤雅珠さん
    BOOK OFFよりバウチャー(60ユーロ相当)

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最終更新 Freitag, 05 Dezember 2014 10:24
 

ベルリンの壁崩壊から25周年、記念式典開催

ベルリンの壁崩壊から25周年

ベルリンの壁崩壊から25周年東西冷戦の象徴だった「ベルリンの壁」 が1989年に崩壊して、今年で25周年を迎えた。

四半世紀前、世界は東と西、共産主義圏と資本主義圏に分かれ、今とは異なる国境が世界地図の上に引かれていた。その境界が引き直されるという劇的な変化を経験した20~40代の世代に、それぞれのパーソナルヒストリーを話していただいた。

旧東ドイツ市民の生の声を通して、ベルリンの壁崩壊の歴史的瞬間を振り返る。
(インタビュー・構成:見市 知)


ヨアヒム・ガウク牧師が率いるデモに参加

キルステン・ヘルマンさん (1972年生まれ、当時16歳)
Kirsten Hermann

スタイリスト・ギャラリー経営者 / 当時ロストック、現ベルリン在住

キルステン・ヘルマンさんベルリンの壁が崩壊したというニュースを耳にしたとき、私の頭の中は空っぽになり、ただただ泣くことしかできませんでした。16歳の高校生の目から見たとき、東ドイツは自分の意見を人前で言うことに不安を感じたり、たとえ良い成績を挙げても大学に進学できなかったり、西ドイツにいる親戚を自由に訪ねることができなかったり……という社会でした。そういったことから解放され、いきなり新たな世界が私の目の前に広がったのです。

忘れられない思い出は、ベルリンの壁崩壊前の10月19日、ロストックで当時反体制派の牧師だったヨアヒム・ガウク氏(現連邦大統領)が指揮するデモに、友人たちと一緒に出掛けたことです。しかし、そのとき友人の1人がデモに参加することを直前になって躊躇しました。彼はその少し前に、西ドイツに住む祖母を訪ねるために当局に出国申請を出したばかりだったんですね。私ともう1人の友人は彼を説得しました。「今一緒に来れば、もうすぐ出国申請を出す必要はなくなるんだ。自分たちの行きたいところへ行き、住みたいところに住めるようになるんだよ」ってね。そして、ロストック市内のシュタージ(秘密警察)本部へ向かって行進したのですが、途中、通りに面した家々の窓に、デモへの賛同を示すロウソクの灯りがきらめいていたのを覚えています。

個人的には、東西ドイツ統一によって生じた「良いこと」の方が多く思い浮かびますが、今もロストックにいる友人知人の中には現状に不満を感じ、東ドイツ時代を懐かしむ人たちが少なくありません。しかし私は、そんな彼らとも心情的に通い合うものがあります。あの時代をともに経験した人にしか通じない「共通言語」があるんですよね。


壁が崩壊したとき、生まれて1日目だった

マクダレーナ・ブレーデマンさん(1989年生まれ、当時0歳)
Magdalena Bredemann

NPO職員 / 当時ドレスデン、現ライプツィヒ在住

マクダレーナ・ブレーデマンさんベルリンの壁が崩壊したとき、何を真っ先に考えたかですって? 私は、生まれてから1日しか経っていなかったんですよ。だから、あまり多くのことを考えることはできませんでした(笑)。

東ドイツのことについて聞かれても、私自身は体制が崩壊する前のたった1日しかそこに生きていなかったわけですから、人から聞いた話や本、メディアを通して得た知識でしか話せないのです。ですから、東ドイツの歴史について、たやすく断罪するようなことはしたくありません。

ただ、もし今もベルリンの壁があり、自分が東ドイツに暮らしていたとしたら……。旅行や言論の自由がない社会、個人的にも様々な制約がある中で生きなければならないのだと考えると、ぞっとしますね。

今、私は自分がどこへ向かうのかを自分で決められる社会、そして次の瞬間にもそれをフレキシブルに変更することができる社会に生きているわけで、そのことに対しては大変な満足感を覚えています。


国境や制約から解放され、自由に生きる幸せを感じる

クリスティアン・メアシュテット=ベルレットさん
Christian Meerstedt-Berlet(1979年生まれ、当時10歳)

イベント設営技師 / 当時ポツダム、現ベルリン在住

クリスティアン・メアシュテット=ベルレットさんベルリンの壁が開いた日のことは、実はよく覚えていません。ただ、翌日学校へ行ったら、欠席しているクラスメイトが何人もいました。後で聞いたら、皆家族で西ベルリンへ出掛けていたようです。当時、僕はベルリンの壁があること、その向こうに別の国があることは知っていました。そして、その国を訪れることができないということも。

初めて西ベルリンを訪れたときのことは、よく覚えています。スーパーマーケットに溢れる色とりどりの商品、マクドナルド……。それらを見たときのワクワクするような感覚は、その後、大人になってから初めてニューヨークを訪れたときにも覚えました。

東西ドイツ統一直後、僕の両親は失業し、3人の子どもを抱えて新たな仕事を探さなければならず、苦労したようです。しかし当時、僕ら子どもたちはそんなことを知らずにいました。ぜいたくな暮らしはできなかったけれど、何ら不足を感じたことはありません。

今の自分が当時の東ドイツに生きていたとしたら……。体制に反発を覚えてシュタージに監視されていたんじゃないかと思います。それに僕はテクノ音楽が好きなので、東ドイツで禁止されていたテクノのコンサートに出掛けて行って、問題を起こしたんじゃないかな。でも、家族を置いて西ドイツへ行こうとはしなかったと思いますね。

今、僕はベルリンの旧西エリアに住んでいて、毎日のように旧国境を越えて旧東エリアにある会社に通っています。僕の妻は旧西ドイツのケルン出身です。このように、かつてあった国境や制約から解放されて自由に生きられることを幸せに感じます。


旧東の失業問題は、今に至るまで深刻な問題

クリスティアーネ・ザイドラーさん(1969年生まれ、当時20歳)
Christiane Seidler

公務員(年金局勤務) / 当時ロストック、現エッセン在住

クリスティアーネ・ザイドラーさん家で両親とテレビを観ていたら、急にベルリンの壁崩壊のニュースが飛び込んできたのを覚えています。最初は信じられませんでしたね。それから、そのことが事実だと分かった後も、すぐに当局が軍事力を行使して事態をひっくり返すのではないかと思いました。

実感できるようになったのは、西側へ旅行できるようになったり、東ドイツ時代には見掛けることのなかったバナナが手に入るようになった頃からでしょうか。1年後には、自家用車をトラバントから日産に買い換えました。

当時、私は国営企業に勤めながらアビトゥア(大学入学試験)を受験していたのですが、私の勤めていた会社もその他の国営企業と同様、東西ドイツ統一によって閉鎖を余儀なくされました。私は運良くそのタイミングで大学に進学できましたが、多くの同僚が失業し、その中には再就職先を見付けられた人もいれば、方向性を見失ってしまった人もいました。失業問題は当時から今に至るまで、旧東ドイツ地域の深刻な問題なのです。

その後、私は年金局に就職し、15年来ノルトライン=ヴェストファーレン州のエッセンに住んでいます。旧東ドイツ出身の私が旧西ドイツで暮らしているわけですが、疎外感を感じることはありません。ここは人々の気質が開放的で暮らしやすく、気に入っています。

もし今もベルリンの壁があって、あのまま東ドイツで暮らしていたとしたら? 今も同じ国営企業で働いていたかもしれません。極めて地味な発想ですが、ほかに選択肢がないというのは、つまりそういうことなのです。社会主義国家の中で、淡々と暮らしていたのかな……と思います。

 

1989年の歴史的場面をたどるスポット

ボルンホルマー通り最初に開いたベルリンの壁
ボルンホルマー通り(Bornholmer Str.)

1989年11月9日に開かれた記者会見の席で、ギュンター・シャボウスキー政治局員が東ドイツ市民に対して旅行の自由を認めることを発表。「いつからですか?」という記者の質問に対し、「私の認識では今すぐ、即座にだ」と回答。この発表を受けて多数の東ベルリン市民が国境検問所に押し寄せた。当局からの正式な指令を待たずに、ボルンホルマー通りの検問所が開いたのが22:30。これに続いて、ほかの検問所も開放された。

ヤノヴィッツ・ブリュッケ28年間閉鎖されていた「幽霊駅」
ヤノヴィッツ・ブリュッケ
(U8 Jannowitzbrücke)

ベルリンの地下鉄U6とU8は、西を出発して東を抜け、また西へ出るという路線。これが東西分断時代は西ベルリンの地下鉄として使われていた。東エリアにある地下鉄駅はすべて閉鎖され、この区間を電車はノンストップで通り過ぎていたのだという。そんな不気味な経緯のある「幽霊駅」の中でもU8のヤノヴィッツ・ブリュッケ駅は、ベルリンの壁崩壊2日後の11月11日には東から西に行く際の駅として、いち早く復活した。

ライプツィヒ・ニコライ教会平和革命を起こした教会
ライプツィヒ・ニコライ教会(Nikolaikirche Leipzig)

ベルリンの壁崩壊への大きな流れを作った民主化要求デモは、ライプツィヒから始まった。もともとは1980年代からニコライ教会で行われていた毎週月曜日の「平和のためのお祈り会」が、デモへと発展していったという経緯がある。ベルリンの壁が開く1カ月前の10月9日には約7万人が参加し、市街を埋め尽くした。教会の入り口スペースでは、民主化要求デモに至る同教会の歴史を紹介するパネル展示が行われている。

ベルナウアー通りオリジナルのベルリンの壁
ベルナウアー通り(Bernauer Str.)

東西分断当時のままの壁が残る場所がベルナウアー通り。ここを訪れると、大概の人が「ベルリンの壁って意外に低かったんですね」という印象を口にする。「死の立ち入り禁止地帯(Todesstreifen)」を挟んで立つ二重の壁は、東側が約3メートル、西側が3.6メートルの高さ。棒高跳びの選手なら乗り越えられそうな気がする。しかし、東西分断の象徴として「半永久的にそこにあるだろう」と人々に思わせた威圧感の名残りを、ここでは感じられる。


1989 年「壁崩壊」までの流れ

5月2日

ハンガリー政府がオーストリアとの国境に設けていた鉄条網の撤去を開始。この頃、東ドイツから当局に正式な出国申請を行っていた待機者の数は10万人以上。夏休みの始まりとともに、ハンガリー、オーストリア国境経由で西ドイツを目指す人の流れが加速。

9月10日

ハンガリー政府が東ドイツ市民に対しても、オーストリア国境を正式に開放。これを受け、東ドイツ市民に対してチェコからハンガリーへと抜ける国境通過が禁止される。9月末には、1万人に上る東ドイツ市民が出国を求めてプラハの西ドイツ大使館を占拠。

10月17日

東ドイツのエーリッヒ・ホーネッカー書記長が退任。後任にはエゴン・クレンツ氏が就任。東ドイツ各地で自由選挙と反体制派の容認、旅行の自由を求めて数十万人がデモを実施。

11月9日

東ドイツ当局が市民に対し、「旅行の自由」を認めると発表。ベルリンの壁が崩壊。
※東ドイツ市民に対しては当時、チェコやハンガリー、ポーランドなど旧共産圏諸国への旅行は、一定の条件下で認められていた。


最終更新 Freitag, 21 November 2014 16:41
 

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