Hanacell
壁とベルリン


「平和革命 1989/90」展がスタート

5月7日、壁崩壊20周年に関連したベルリン市の記念行事で中心的な位置を占める野外展示が、アレクサンダー広場で始まった。テーマは「平和革命1989/90」。市民の主導で成功させ、壁の崩壊に導いた東ドイツの非暴力革命を700点もの写真と記録物で振り返る大規模な展示会だ。世界時計の近くの円形のパビリオンからいくつもの展示パネルが放射状に広がり、通りの両側に並べられた透明な金属プレートには、「われわれこそが人民だ」「非暴力」「民主主義と人権」など89年秋に東独市民がデモの際に基本理念として掲げた言葉が刻まれている。

この5月7日という日付は、象徴的な意味を持っている。20年前のこの日、東ドイツで5年に1度の統一地方選挙が行われた。ホーネッカー率いる社会主義統一党は得票率98%の圧勝と報じたが、開票結果に疑問を抱いたいくつもの市民団体が独自の調査によって開票集計の歪曲を暴いた。そのことが西側の報道を通じて東独市民の間にも広まり、党中央部への失望感は増大。以降、毎月7日には若者を中心としてアレクサンダー広場で抗議行動が起こるようになり、多くの人々は国を去る決心をした。東ドイツ終焉への序章となった日なのである。

展示は「出発」「革命」「統一」の3つの部分から構成されており、時系列に並んでいる。かなりのボリュームになるが、やはり順番に見ることをおすすめしたい。

第1部「出発」では、80年代の東ドイツのサブカルチャーや環境運動、ポーランドから始まった東欧の民主化運動などが詳しく紹介されている。東ドイツの環境汚染の実態を告発した市民団体の写真や、空爆直後のように荒れ果てたポツダム旧市街の街並みには衝撃を受けた。東ベルリンのシオン教会で続けられた「環境図書館」の地道な活動は、シュタージから圧力を受けるものの、その勇気ある行動が後へとつながっていった。

さまざまな伏線があった上で、第2部「革命」で89年の平和革命の年に至る。ここでは特に、写真が与えるインパクトが強烈で、壁崩壊に至る道筋がわかりやすく示されている。特に重要な出来事に関しては当時のニュース映像や市民がとらえた記録映像などが流れ、10月9日のライプツィヒのデモ、11月4日の東ドイツ建国以来最大の規模と言われたこのアレクサンダー広場でのデモの様子は、3D効果によって、まるで歴史の現場に居合わせているかのような臨場感と興奮を味わえる。

展示会場となっているアレクサンダー広場
展示会場となっているアレクサンダー広場

この展示会は、あくまで市民が実現させた平和革命という視点から構成されており、ドイツ再統一までの道のりを描いた第3部は、扱いがやや淡々としている印象も受けた。

この野外展示がすばらしいのは、11月14日まで24時間いつでも観覧できることだろう。展示は全て独英表記なので、観光客も大勢足を止めて見入っていた。小さな活動が積み重なり、いつしか巨大に膨れ上がった市民のエネルギーを体感できる野外展示だ。壁イヤー必見のひとつに数えられるだろう。

最終更新 Sonntag, 02 Oktober 2011 16:23
 

壁崩壊から20年

「もう」なのか、「ようやく」なのか。2009年、ベルリンの壁崩壊から20年を迎えての感慨は、人によって、あるいは視点の置き方によって様々だろう。

壁の時代は遠くになりにけりと私が感じるのは、市内にごくわずかに残る本物の壁の前に立った時だ。表面のコンクリートはガリガリに削り取られ、錆付いた鉄骨がむき出しになって向こう側が透けて見えることもある。にもかかわらず、今日も世界中の観光客が絶えることなく訪れ、その前でにこやかに記念撮影をしている。壁はいまや、ベルリンを代表する観光アトラクションになった。

金融危機の世の中だが、ベルリンを訪れる観光客の数は右肩上がりだそうだ。団体ツアーには必ず壁跡を巡るコースが含まれているし、壁を見たいと言ってやって来る個人旅行者も少なくない。市内に残る最長の壁、全長1.3キロの「イーストサイドギャラリー」は今年全面的に修復され、その表面にアーティストが新たにペインティングをすることになっている。そもそも負の遺産であるコンクリート製の壁が、なぜ人々をそんなにも引き寄せるのだろうかと、時々ふと思う。

ポツダム広場の壁の前
今日も観光客の流れが絶えないポツダム広場の壁の前

風化し、錆び付いていく一方の本物の壁とは対照的に、ベルリンの町は見事なまでに生まれ変わった。とはいえ、ベルリンを隅々まで歩くと、20年という歳月は傷だらけ の大都市を完全に復興させるには決して十分な時間ではないことを感じる。壁によって東西が分断されていたのは28年間だが、第2次世界大戦の惨禍と壁建設に至るまでの平穏でない年月を含めると、ベルリンはほぼ半世紀もの間、1つの都市としての成長過程から阻害されていた。ポツダム広場は確かに新生ベルリンの象徴と言えるかもしれないが、中心部にまだこれだけ空き地や廃墟が存在する大都市も珍しい。ベルリンはこれからも変わり続けるだろう。「ようやく」始まったばかりなのだ。

私はベルリンの壁を直接には知らない。分断時代、西から東へ行く際の検問所の手続きがいかにわずらわしいものだったかとか、当時のベルリンにしかなかった重苦しさ、焦燥感、刹那的な雰囲気、そのコントラストとしての自由な空気といったものを、実感を持って語ることはできない。だが、ちょうど世界の地理と歴史の授業を受けていた中学生時代、遭遇した壁崩壊のニュースは、鮮やかな記憶をもって、今も脳裏に浮かんでくる。何となく普遍的な事柄のように思っていた教科書の太文字の用語が書き換えられることなどありえるのかと知ったのは、生まれて初めてのことだった。あの時、テレビの画面を通して感じたドイツの人々の歓喜とうねりは、その後の現実が痛みを伴うものであったとしても、私の中で は不思議と色あせることがない。

今年、ベルリン市は「Mauerfall 2009」を掛け声に、壁崩壊年を回顧する大小さまざまな企画を予定している。そのような取り組みを紹介しながら、壁があった時代とは何だったのかを改めて振り返ってみたいと思う。

最終更新 Sonntag, 02 Oktober 2011 16:24
 

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