Hanacell
壁とベルリン


最終回 壁の向こうを想う

ベルリンの壁記録センターがあるベルナウアー通りには、約200メートルにわたって本物の壁が残されているが、その周辺は数カ月前から工事現場になっている。かつての壁の緩衝地帯ではブルドーザーが唸り声を上げ、コンクリートの壁の延長線上には茶褐色の鋼材の柱が並び始めた。

初めてここに来た人は、「また新たに壁でも造るのか?」と驚くかもしれない。

あながち間違ってはいない。壁崩壊20周年の記念行事は終わったが、今度は2011年8月13日の壁建設50周年に向けて、「ベルリンの壁 記憶の場所」の拡張工事が本格的に始まったのだ。

壁のあった時代、ベルナウアー通りは、東西の分断を象徴する場所の1つだった。1990年、すでにこの通りの壁の保存が決められていたが、通り全体のほぼ半分を「記憶の場所」とするプランが実行に至るまでには長い時間を要した。

分断時代、東西境界地点に位置したがゆえ、列車が停まることなくひたすら通過した、通称「幽霊駅」と呼ばれたSバーンの北駅を降りてみよう。目の前には、かつての緩衝地帯を利用した新しい公園や、11月にオープンしたばかりの茶褐色の情報パビリオンが見える。壁記録センターの向かい側の保存用の緩衝地帯には、最近オリジナルの監視塔が設置された。その向こうでは、壁と壁の緩衝地帯に位置していたため、東ドイツによって爆破された和解教会を偲ぶ「和解のチャペル」の見学も可能だ。将来的には、かつて通りに沿って建っていたアパートの土台部分が目に見える形で残されるという。昔ここに住んでいたが、西へ逃げようと試みたか、あるいは政府によって退去させられた東の住民を想う意味が込められている。

多くの観光客は記録センターと壁の遺構を見て帰ってしまうが、もし時間的に余裕があったら、東側のアッカー通りからゾフィーエン墓地に入ってみることをお薦めしたい。墓地の奥へと歩いて行くと、やがて先ほどの壁が姿を現す。ベルリンでは、見慣れた光景が角度を変えることでまったく別の風景に見えることがあるが、ここはその好例だ。私は初めてこの位置から西側の方を見た時、「私たち東ベルリンの人間にとって、西ベルリンは月よりも遠い」という言葉や、当時壁に描かれていた“Next Coke 10.000 km”という落書きを思い出した。

ベルナウアー通りに建設中の「壁」
ベルナウアー通りに建設中の「壁」。
物理的な壁、心の壁・・・・・・壁をめぐる問題は、
人間にとってアクチュアルであり続ける

イーストサイドギャラリーの代表者、カニ・アラヴィ氏は、現在あるプロジェクトのスポンサー探しのために奔走している。来年、朝鮮半島の南北の国境にイーストサイドギャラリーと同じ約1300メートルの人工的な「壁」を置き、約100人のアーティストに絵を描いてもらうというものだ。その「壁」を、ベルリンを経た後、南北キプロスの境、イスラエルとパレスチナの国境へと巡回させたいという。「その国の政府を挑発するのではなく、自由と人間の尊厳の価値を知るベルリンからのメッセージとして、このプロジェクトを実現したい」とアラヴィ氏は意気込む。ベルリンが30年かけていやおうなしに学んだことから、世界の現実に対して示せるものは決して少なくない。ベルナウアー通りの記憶の場所から、私はかなたの世界へと思いをはせた。

最終更新 Sonntag, 02 Oktober 2011 16:23
 

ゲッセマネ教会の英雄交響曲

11月2日、旧東側のプレンツラウアーベルク地区のゲッセマネ教会で、「非暴力への記念コンサート」と題する入場無料の公演が行われた。演奏は、ダニエル・バレンボイム指揮のシュターツカペレ・ベルリン。このコンサートは、20年前のある出来事を思い起こさせるものだった。

1989年の秋、ゲッセマネ教会は、平和と東独政府の改革を求める人々の牙城となっていた。50万人以上が集まったと言われる、11月4日のアレクサンダー広場でのデモのわずか翌日、緊迫した状況の中、シュターツカペレ・ベルリンがこのゲッセマネ教会で「非暴力コンサート」を行った。演奏されたのは、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」だった。

「寛容を要求するならば、まず自分が寛容でなければならない」というオーケストラのチェリスト(当時)、ホルスト・クラウゼの20年前のスピーチが、満員の聴衆の前で再び読み上げられた。「私が当時何を話したか、ほとんど何も思い出せないのですが、あの時感じた恐怖ははっきりと覚えています。前日に大きなデモがあったとはいえ、権力はまだ党の側にありました。その夜がどのような形で終わるか、誰にもわからなかったのです」。そういう状況下、指揮をしたロルフ・ロイターは聴衆に向かってこう言った。「壁はなくならなければならない!」。クラウゼは息が止まりそうになったという。11月9日の4日前にして、まだ誰も頭に描いていなかった言葉が発せられたのだ。

「このコンサートを指揮することは私にとって大変名誉なことです。なぜなら20年前のあのコンサートで、シュターツカペレのメンバーは象牙の塔にこもるのではなく、音楽を通して人を、そして世界を理解できることを示したからです」と挨拶したダニエル・バレンボイムによって、当時と同じ「英雄」の冒頭の2つの和音が力強く鳴り響いた。ベートーヴェンが旧体制からの打開を込めて書き上げたこのシンフォニーが、これほどの迫真をもって鳴り響いた例は、少なくとも私の中ではかつてなかったと思えるほど、感動的な演奏だった。

私の2列先にはヴァイツゼッカー元大統領が座っていた。教会の中を不思議な熱気と一体感が包んでいた。社会的な立場云々は問題ではなく、意思を持った人間が集まり体を寄せ合っている親密な空間。私は、直接には知らない20年前のコンサートを追体験しているような錯覚さえ抱いた。

ゲッセマネ教会の英雄交響曲
終演後、20年前のコンサートで指揮をしたロイターの未亡人に
花を手渡すクラウゼ。それを見つめるバレンボイム

2009年の今年、印象に残ったのは「平和革命」という言葉を目にすることがかつてないほど多かったことだ。89年を指すのにこれまで一般的だった「転換期」(Wende)という言葉をしのぐほど、人権主義者のみならず、学者やメディアの間でも頻繁に用いられるようになった。11月9日の記念式典では、政治家のスピーチとドミノ倒しに注目が集まったが、一方で旧東独の人権活動家も多く招待された。アレクサンダー広場の「平和革命展」にはすでに100万人以上が訪れ、来年10月までの公開延長が決まったという。

89年秋の出来事は転換ではなく、革命だった。ただ、ベートーヴェンが英雄交響曲を書くきっかけとなった、その200年前のフランス革命とは違って、非暴力の革命。「自由」は、ゴルバチョフやブッシュら政治指導者から与えられた贈り物ではなく、人々が自らの意思と勇気で勝ち取ったもの。派手なドミノ倒しは巨大なショーのようでもあったが、人々がこの価値ある事実を忘れなければ、大規模な20周年祭は意義があったと言えるのではないだろうか。

最終更新 Sonntag, 02 Oktober 2011 16:23
 

WISTAに見る東独の再生例

ベルリンの中心部からSバーンで約30分、旧東地域のアドラースホーフ(Adlershof)は初めて降りる駅だった。戦前からの古い駅舎と工事中の真新しい駅前とのコントラストが印象的だ。多くの学生が向かう方向に歩いて行くと、ヨアヒム・メルケ氏(70歳)が迎えてくれた。先日、あるコンサートでたまたま隣合わせになったことから知り合った同氏は、東独時代、科学アカデミーの広報担当として働いていた。東西統一後も科学ジャーナリストとして活躍した彼が、「東独再生の最大の成功例の1つ」と語ったアドラースホーフのWISTAに私が興味を示したところ、案内していただけることになったのだ。

WISTAとは、「科学・経済の所在地アドラースホーフ」の略語。4,2平方キロメートルの敷地の中に、410の科学系企業、147のメディア関連会社、フンボルト大学の自然科学系の6つの研究所、それ以外の研究機関などが並び、約1万4200もの人々がここで働いている、ドイツでも最大級の学術・テクノロジーパークである。

メルケ氏の車で、WISTAの敷地内を回った。とにかく広いことに驚く。私は日本の学術都市のような人工的な街を想像していたのだが、建物のスタイルが多種多様で、決して無機的ではない。その理由は、この場所の歴史を紐解いてみると見えてくる。

そもそもの出発点は1909年、この敷地にヨハニスタール飛行場が建設され、飛行機の組み立てと整備が行われる重要な基地となったことだ。ナチスが台頭してからは、軍用機開発と戦争の準備のための施設へと姿を変える。第2次世界大戦末期の45年4月23日には、制圧したロシア軍がまさにここから80万もの砲弾を市内に向けて打ち込み、その数日後にベルリンは陥落した。

東独時代は、科学アカデミーの研究センター、国営放送局、シュタージの保安部隊など機密度の高い重要施設が建ち並んだ。物理学者だったアンゲラ・メルケル首相が、かつて勤務していたのもここだ。

東西統一後、ベルリン市がこのテクノロジーパークの開発に2億ユーロ以上を投資して以来、注目すべき成果を次々と生み出し、アドラースホーフは学術都市としてドイツ内外にその名を知られるようになった。敷地内を巡ると、カラフルなガラス張りの建築がある一方、飛行場時代のレンガ造りの格納庫や、ナチス時代に飛行機の落下を測定するために建てられた石造りの塔が保存されていて、ドイツの技術史を垣間見る思いだ。東独時代に国営放送局があった場所はメディアセンターに生まれ変わり、今年9月の総選挙直前に行われたメルケル首相とシュタインマイヤー外相のテレビ討論もここが舞台だった。

「アカデミーの乳房」
東独時代、科学アカデミー物理研究所のシンボルだった通称
「アカデミーの乳房」。メルケル首相も、かつてこの場所に
勤務していた

メルケ氏によると、壁の崩壊後、科学アカデミーの解体と再編に伴って、職を失い路頭に迷った人も少なからずいた。だが、そこから注目すべき成功例も生まれているという。

「ゼンテック(SENTECH)」の創始者アルブレヒト・クリューガー氏もその1人だ。1990年、科学アカデミーの物理学者だったクリューガー氏は、ちょうどアメリカ系の会社を解雇されたばかりの西独出身のヘルムート・ヴィテク氏と出会い、光学式の薄膜測定装置を販売する同社を創業した。「ヴィテク氏がマーケティングを担当して私は製品の開発と、役割分担は当初から決まっていました。それは今もうまく機能しています」。いわば東西のコラボレーションから生まれた企業ゼンテック。現在、従業員50人を抱える企業に成長し、その装置は世界中の研究所で愛用されている。

最終更新 Sonntag, 02 Oktober 2011 16:23
 

復活する壁ギャラリー

「イースト・サイド・ギャラリー」、今も残る壁の遺構の中で最も知られたものだろう。まだ壁が崩壊して数カ月後の1990年1月、イギリス大使館の元文化担当官クリス・マクリーンが発起人となって、21カ国118人のアーティストが壁に沿って絵を描いた。オーバーバウム橋から東駅まで全長1300メートルにわたって続く壁は、やがて世界最長のオープンギャラリーとして保存されることになったのである。

時の経過とともに、排気ガスや観光客の落書きによる壁と絵の破損はひどくなり、もはやギャラリーとは呼べない状態が続いていた。それでも市内に残る最長の壁ゆえ、観光客の流れが途絶えることはなかった。

先日、久々にイースト・サイド・ギャラリーに沿って歩いてみた。今までと様子が違う。ぼろぼろの壁がある一方で、まっさらな状態に戻された壁もあれば、描かれたばかりの鮮やかな絵もある。壁崩壊20周年の今年、壁に沿った105枚の絵がかつてのアーティストによって元の姿のまま描き直されることになったのだ。

イースト・サイド・ギャラリーを運営する芸術家団体が、宝くじ基金や連邦や州からの援助を通じて250万ユーロの資金を集め、今回の修復が実現した。最初に80℃の蒸気で壁面からすべての色を取り除き、むき出しの壁にコンクリートが強化された。その上に、今度は風化にも耐えられるよう、特殊な絵の具を使って描かれるという。ただ、アーティストには3000ユーロの製作に関する手当が支払われるのみで、ギャラは出ない。そのことに対して不満の声もあったようだ。

ソ連のブレジネフと東ドイツのホーネッカーがキスをするシーンを描いた「兄弟キス」も、ロシア人作家ドミトリー・ヴルーベリによって製作が終わったばかり。この絵は絵ハガキやマグカップのモチーフにしばしば用いられ、ヴルーベリはそれによって有名になった。だが、「ドイツでは公共の場に描かれたイラストレーションは著作権の対象外になるため、自分のもとには一銭も入ってこないのだ」と彼はシュピーゲル誌のインタビューで答えている。

ドイツ統一をテーマに描くアーティスト、シャミル・ジマイェフ
ドイツ統一をテーマに描くアーティスト、シャミル・ジマイェフ
(Schamil Gimajev)氏の姿も見られた

また、トラバントが壁を突き抜けて飛び込んでくるビルギット・キンダーの「Test the Best」や、富士山と五重塔をモチーフにしたトーマス・クリンゲンシュタインの「日本への迂回路」も同様に蘇った。人々を分断し続けた壁に描かれただけあって、「自由」や「ユートピア」をテーマにした作品が多く並ぶ。19年前に描いた時と、どのような心境の変化があったのか、彼らに直接聞いてみたい気がする。

10月までに絵の修復はすべて終わり、壁崩壊記念日の翌11月10日にオープニング式典が行われる予定だ。イースト・サイド・ギャラリーの芸術家団体は、ヴォーヴェライト市長の傘下で、同所を「ドイツ統一のシンボル、ヨーロッパの歴史の重要な証言者」として、世界遺産登録の申請を開始した。

最終更新 Sonntag, 02 Oktober 2011 16:23
 

16歳、亡命への道

自宅の玄関の扉を開けると、初老の男性が待っていた。ゲルハルト・メシングさん(63)。筆者の知人の中に父親が壁を越えた体験を持つという方がおり、ご好意により当時の現場に行って話を聞かせていただくことになったのである。

現場に向かう車の中で、メシングさんは自身の来歴について語ってくれた。両親は東プロイセンのメールザック(現ポーランド)に住んでいたが、第2次大戦末期の1945年3月、お腹に自分を抱えた母親は子ども2人を連れてデンマークに逃れて来た(父親は出兵中で、後に戦争捕虜となる)。終戦の年の8月31日、メシングさんはそこで生まれる。ブランデンブルク州のヴォリンに5年間住んだ後、東ベルリンのトレプトウ地区にあるアルト・グリニケに越して来た。

50年代当時はまだ東西ベルリン間の行き来が可能で、メシングさん自身西側の隣町ルードウに買い物に行ったり、映画を観に出かけたりしていたという(毎週日曜は東の50ペニヒで映画を観られたそうだ)。オレンジ類や牛肉は手に入らなかったが、ひもじい思いはしなかった。ただ、連日4千、5千もの人々が西側に逃れている事態をRIAS(西ベルリンのラジオ局)が盛んに伝えていたことはよく覚えている。

61年8月13日、状況は急変する。自宅のある通りAm Kiesbergの向こうに、突然鉄条網が張り巡らされた。メシングさんは亡命を決意。だが、この月末に16歳の誕生日が来るのを待った。なぜか?16歳以下の者は、たとえ亡命に成功しても、未成年者として再び東側に連れ戻されてしまったからである。

当初はもう1人の同級生と実行するつもりだったが、直前に近くの運河を泳いで渡ろうとした人が射殺されたニュースを聞き、彼は怖気づいてしまった。メシングさんが1人で鉄条網(この時点ではまだ壁ではなかった)を越えようと試みたのは、9月7日の深夜である。

Am Kiesbergの道が途切れる場所からは野原が広がっている。あれからほぼ半世紀が経とうとしているが、メシングさんは当時の状況をリアルに語ってくれた。「ここに小さな詰め所があって、衛兵が立っていました。そこから向こうは立ち入り禁止だったんです」。森までは約100メートル。その間に2本の鉄条網が立ち構え、ロープでつながれた番犬がうなっていた。見張り台はサーチライトを照らしていたが、メシングさんは数日前からすべての位置を確認して、死角を見つけていた。父親からこっそり持って来た溶接用の大きな手袋をはめて鉄条網をこじ開け、ケガをすることなく丘の上を越えることに成功した。

悪天候の夜だった。西側のルードウにたどり着くと、雨でずぶぬれになったメシングさんを見つけた警官が「泳いで来たのか?」と聞いてきた。「これからどこに行けばいいのかわかるか?」「はい」。警官は彼を車で最寄りのバス停まで連れて行き、自分の財布からバス代50ペニヒを渡して去った。向かったのはマリーエンフェルデにある臨時収容施設。「私はほかに東ドイツの身分証明書しか持っていなかったので、この50ペニヒからすべてが始まったのです。亡命のことは両親にも伝えていませんでした。ただ、西ベルリンの親戚を通じて、私の無事は知ったようです。両親にその後初めて会ったのは、定年になった父親が西ベルリンを訪問する自由を得た69年のことです」。頭では理解していても、平和な日本で育った私にはなかなか実感できない。

ゲルハルト・メシングさん
「まだ残っていた!」。壁よりも古い鉄条網の鉄骨跡を見つけて
指し示すゲルハルト・メシングさん

メシングさんが亡命を試みた一番の理由は、「自分が行きたい場所に行く自由のため」。14歳のときに、学校の地理の時間で日本のことを学び、いつか行ってみたいという思いを抱き続けていた。西ドイツに亡命した後、ハンブルクで船員学校に通い、東京オリンピックの64年に船乗りとして初めて日本に渡った。やがて日本人の夫人と出会い、現在に至る。

「人生のモットーは?」と聞くと、“Leben und leben lassen“という答えが返ってきた。「生きたいように生き、他人にもまた干渉しない」という意味になるだろうか。

最終更新 Sonntag, 02 Oktober 2011 16:23
 

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