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ドイツゼクト物語 - シャンパンとの接点を探して 岩本順子

最終回 ブッサルト9 伝統を継ぐシュロス・ヴァッカーバート

ドイツ再統一後、ザクセン州政府は地元の醸造所やブドウ栽培農家の経営の安定と、ザクセン地方のワインの伝統の復興に力を注いだ。シュロス・ヴァッカーバート醸造所は、地元のワインの販売と情報発信の拠点として積極的な活動を開始した。
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30. ブッサルト8 伝統製法への道のり

ブッサルト社を吸収したラーデボイル醸造所は、70年代に繁栄期を迎え、旧東ドイツ独自のゼクト文化を育んだ。しかしブッサルト・ブランドの伝統製法のゼクトの生産は保留にした。ようやく生産が開始されたのは、市場が成熟した80年代だった
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29. ブッサルト7 ヘレンゲデックの流行

シャルマ製法をいち早く採用した先駆的なラーデボイル醸造所は、1970年代半ば、同醸造所とは対照的に伝統製法を守り続けるブッサルト社と手をつなぐことになった。この頃、旧東ドイツではビールとゼクトのカクテル「ヘレンゲデック」が誕生し、人気を博した
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28. ブッサルト6 ゼクト生産再開

1955年、旧ブッサルト・ゼクトケラー ライのセラーで、約10年ぶりにゼクトの生産が再開した。新生ブッサルトはゼクトケラーライ・ブッサルト・フォイグト& Co.KGといった。パートナーには人民公社ロートケプヒェン・フライブルクなどが名を連ねていた。
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27. ブッサルト5 二つの世界大戦を経て

ゼクトの生産技術は、20世紀初頭にほぼ完璧なものになったといわれる。問題の一つはボトルの品質だった。19世紀半ばごろまでは、瓶内二次発酵中のボトルが大量に破裂していた。1910年代にはボトルの破裂は数パーセントに抑えられるようになった
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26. ブッサルト4 王家に愛されたゼクト

ブッサルト社は自社ゼクトをザクセン王室に売り込むなどして、ドイツ産ゼクトのトップブランドに成長させた。ゼクトの多くは宮廷のほか、海軍将校らが出入りするカジノなどで消費された。同社が最も力を入れていたゼクトが「キュヴェ・ロイアル」だった
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25. ブッサルト3 シャンパニアからゼクトへ

1836年にスタートを切った「スパークリングワイン工場」は波乱万丈の社史を持つ。だが、危機に直面するたびに窮地を救ってくれるパートナーが現れた。社名やオーナーが幾度も変わったが、ゼクト造りは継続され、伝統は今日に至るまで守られた。
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24. ブッサルト2 二人のフランス人

19世紀は、スパークリングワインが世界各地で贅沢な飲み物として徐々に流行し始めた世紀である。ドイツでもゼクトの生産は確実に利益が得られるビジネスだった。「ケスラー・ゼクト」や「グリューンベルガー・ゼクト」はピルグリムらの良きお手本であった。
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23. ブッサルト1 ゼクトブームの波に乗る

1836年にザクセン地方レスニッツで創業した「スパークリングワイン工場」は「ゼクトケラーライ・ブッサルト」の前身で、ケスラー・ゼクトに次いで古いゼクトメーカーといわれる。現在はシュロス・ ヴァッカーバート醸造所が、その伝統を継承している。
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22. ドイツ・ゼクトのパイオニアたち

「ケスラー・ゼクト」の社史を調べるうちに、同社の創業年である1826年以前にも、あちこちでゼクトが造られていたことが分かった。最古のゼクトは1783年に造られたと伝えられている。最古の醸造所は1824年創業の「W.F.ブルガー&ゾーン」だった
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21. ケスラー・ゼクト15:継承されるケスラーの理念

20世紀初頭、C.G. ケスラー&カンパニーは、エスリンゲン市でいち早く電灯と電話回線を導入したほどの先端企業だった。同社は2つの大戦時も辛うじてゼクトを生産し続け、創業125年を迎えた1951年には年間10万本を生産するまでに復興した。
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20. ケスラー・ゼクト14 ケスラーの死

1841年10月30日は、ケスラーの生涯において最も誇らしい日であった。彼はシュトゥットガルトでの王室の祝事に招かれ、ヴュルテンベルク王ヴィルヘルム1世から騎士十字勲章を与えられたほか、貴族の称号を得て「フォン・ケスラー」と名乗ることになった
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19. ケスラー・ゼクト13 ケスラーのゼクト、世界へ

G.C.ケスラー&カンパニーのゼクトの品質の良さとおいしさは、ファースト・ヴィンテージから、ワイン品質改善協会が絶賛するほどのレベルだったようだ。ケスラーのゼクトは、ヴーヴ・クリコのシャンパンに勝るとも劣らぬ商品だったのである。
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18. ケスラー・ゼクト12 ドイツ産「シャンパン」誕生!

1826年7月、ドイツ初の「シャンパン」醸造所G.C.ケスラー&カンパニーが、エスリンゲンの旧シトー会療養院カイスハイマー・プレーグホーフで誕生した。建物を提供したのは、ケスラーのビジネスパートナー、ゲオルギだった。
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17. ケスラー・ゼクト11 ドイツ初の「シャンパン」を目指して

ドイツ初の「シャンパン」の生産を夢見て、ケスラーは兄ハインリッヒをスタッフに迎え、基幹となるテキスタイル工場の基盤を家族で固めた。王国長官だった義父、クリスチャン・ルードヴィヒ・フォン・フェルナーゲルは、ケスラーの人脈を広げてくれた。
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16. ケスラー・ゼクト10 ドイツでの再出発

ヴーヴ・クリコ=ポンサルダン社が、ドイツでテキスタイル工場の立ち上げに着手したのは1823年。しかし、多額の投資は同社にとって年々重い負担となっていた。ドイツにおけるビジネスの軌道修正は、その後、思いがけない形で起こった。
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15. ケスラー・ゼクト9 悲しみの1825年

1825年はケスラーにとって深い悲しみの年となった。ランスに移住して18年、結婚して6年、ヴーヴ・クリコ=ポンサルダン社の銀行部門のトップに就任して3年。地元の経済界に着実に地位を築きつつあった矢先に、娘と妻を相次いで亡くしたのである。
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14. ケスラー・ゼクト8 ケスラーの結婚

シャンパーニュで活躍していたドイツ人たちは、自らの名前をフランス読みに変更していた。フランス人女性と結婚したり、フランスに帰化して、永住するケースも多かった。ケスラーも1819年にフランス人女性と結婚し、永住を視野に入れていた。
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13. ケスラー・ゼクト7 銀行業の再開

1821年、ヴーヴ・クリコ=ポンサルダン社(以下VCP社)のシャンパン生産量は年間27万本に達したが、1820年代初頭は、シャンパンビジネスに陰りが見えはじめた時期でもあった。1822年、VCP社は銀行業を再開し、危機を乗り越えようとした。
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12. ケスラー・ゼクト6 マダム・クリコの戦略

1810年、ロシア帝国が大陸封鎖令を破り、英国と通商を再開すると、露仏関係は悪化した。1812年にナポレオン1世がロシアに侵攻すると、アレクサンドル1世は直ちにフランス製品の禁輸措置を取る。半年に渡るロシア戦役の後、ナポレオンは敗退した。
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岩本順子(いわもとじゅんこ) 翻訳者、ライター。ハンブルク在住。ドイツとブラジルを往復しながら、主に両国の食生活、ワイン造り、生活習慣などを取材中。著書に「おいしいワインが出来た!」(講談社文庫)、「ドイツワイン、偉大なる造り手たちの肖像」(新宿書房)他。www.junkoiwamoto.com
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