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ロンドンのゲストハウス
Mi. 20. Nov. 2019

ドイツゼクト物語 - シャンパンとの接点を探して 岩本順子

19. ケスラー・ゼクト13 ケスラーのゼクト、世界へ

G.C.ケスラー&カンパニーのゼクトの品質の良さとおいしさは、ファースト・ヴィンテージから、ワイン品質改善協会が絶賛するほどのレベルだったようだ。ケスラーのゼクトは、ヴーヴ・クリコのシャンパンに勝るとも劣らぬ商品だったのである。
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18. ケスラー・ゼクト12 ドイツ産「シャンパン」誕生!

1826年7月、ドイツ初の「シャンパン」醸造所G.C.ケスラー&カンパニーが、エスリンゲンの旧シトー会療養院カイスハイマー・プレーグホーフで誕生した。建物を提供したのは、ケスラーのビジネスパートナー、ゲオルギだった。
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17. ケスラー・ゼクト11 ドイツ初の「シャンパン」を目指して

ドイツ初の「シャンパン」の生産を夢見て、ケスラーは兄ハインリッヒをスタッフに迎え、基幹となるテキスタイル工場の基盤を家族で固めた。王国長官だった義父、クリスチャン・ルードヴィヒ・フォン・フェルナーゲルは、ケスラーの人脈を広げてくれた。
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16. ケスラー・ゼクト10 ドイツでの再出発

ヴーヴ・クリコ=ポンサルダン社が、ドイツでテキスタイル工場の立ち上げに着手したのは1823年。しかし、多額の投資は同社にとって年々重い負担となっていた。ドイツにおけるビジネスの軌道修正は、その後、思いがけない形で起こった。
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15. ケスラー・ゼクト9 悲しみの1825年

1825年はケスラーにとって深い悲しみの年となった。ランスに移住して18年、結婚して6年、ヴーヴ・クリコ=ポンサルダン社の銀行部門のトップに就任して3年。地元の経済界に着実に地位を築きつつあった矢先に、娘と妻を相次いで亡くしたのである。
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14. ケスラー・ゼクト8 ケスラーの結婚

シャンパーニュで活躍していたドイツ人たちは、自らの名前をフランス読みに変更していた。フランス人女性と結婚したり、フランスに帰化して、永住するケースも多かった。ケスラーも1819年にフランス人女性と結婚し、永住を視野に入れていた。
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13. ケスラー・ゼクト7 銀行業の再開

1821年、ヴーヴ・クリコ=ポンサルダン社(以下VCP社)のシャンパン生産量は年間27万本に達したが、1820年代初頭は、シャンパンビジネスに陰りが見えはじめた時期でもあった。1822年、VCP社は銀行業を再開し、危機を乗り越えようとした。
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12. ケスラー・ゼクト6 マダム・クリコの戦略

1810年、ロシア帝国が大陸封鎖令を破り、英国と通商を再開すると、露仏関係は悪化した。1812年にナポレオン1世がロシアに侵攻すると、アレクサンドル1世は直ちにフランス製品の禁輸措置を取る。半年に渡るロシア戦役の後、ナポレオンは敗退した。
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11. ケスラー・ゼクト5 ケスラーの出世

1810年代初頭のクリコ社は、長期化するナポレオン戦争の影響で経営難に直面したが、マダム・クリコを筆頭に、複数のドイツ人社員が奮闘した。中でもケスラーは1810年に共同経営者に就任、マダムの片腕となった。その翌年は大彗星ヴィンテージだった。
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10. ケスラー・ゼクト4 シャンパン品質革命!

17世紀末以降、ガラスボトルとコルク栓が徐々に普及するようになり、ワイン産業は新たな発展段階に入った。しかし、シャンパンの製造技術はいまだ発展途上にあった。製造方法は17世紀後半にわかっていたが、品質の向上にはさらなる考案が必要だった。
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9. ケスラー・ゼクト3 ランスでの新たなスタート

1807年の夏、20歳のケスラーはマインツから郵便馬車で10日かけてランスに辿り着いた。ランスは繊維産業の中心地だったが、革命以来、遠征という名\b0の断続的な戦争状態が続き、輸出業は\b0不安定だった。シャンパン産業が興隆したのはそのような時代だった。
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8. ケスラー・ゼクト 2

ケスラー青年は、ノイヴィートの小売商での職業訓練を終えると、フランス領だったマインツの皮革商にまず就職し、その後、シャンパーニュの名門クリコ社に転職した。その経緯は想像の域を出ないが、予てからのフランス移住の夢は実現した。
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7. ケスラー・ゼクト 1

エスリンゲンのケスラー・ゼクト社は、現存するドイツ最古のゼクト醸造所だ。創業者は誰もが知っているシャンパン・メゾン、ヴーヴ・クリコ社で活躍したドイツ人。激動の時代にドイツとフランスを行き来した彼の生涯を追ってみたい。
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6. ベルサイユ条約が禁じた「シャンパン」の名称

シャンパンの製法はフランスから世界各地に伝わり、ドイツだけでなく、スペインや遥かブラジルでも泡立つワインが生産されるようになった。今日のゼクト、カバ、エスプマンテなどは、かつてその多くが「シャンパン」と呼ばれていた。
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5. 海軍の資金源となるゼクト

統一を達成したドイツは、フランスの「シャンパン」には見向きもせず、「ゼクト」の生産量は増大する一方だった。帝国主義の時代が到来し、ドイツ皇帝は、ゼクトに課税し、帝国の軍事費を捻出することを思いついた。
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4. シャンパンのライバルとなるゼクト

フランス占領時代から解放され、ライン川という大動脈を手に入れたウイーン体制下のドイツでは、統一への基盤が整いつつあった。1848年革命以後の経済は好転し、ドイツのゼクトはフランスのシャンパンと市場を競い合っていた。
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3. フランス革命後、フランス色に染まるドイツ

ドイツ人がフランスに渡ってシャンパン業界で活躍し、ドイツにゼクト醸造所が開業しはじめる19世紀初頭はどんな時代だったのだろう。フランス革命を経て、ナポレオン1世に翻弄された時代のドイツ人の意識に少しだけ近づいてみた。
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2. 19世紀はゼクト製造業の起業ブーム

ドイツのゼクト史は、フランスのシャンパーニュで活躍した一人のドイツ人、ゲオルグ・クリスチャン=ケスラーが母国に戻ったことで始まったと言ってもいい。19世紀の動乱の中で、彼と、彼に続こうとした意欲的な人々が立ち上げたゼクト醸造所の多くは、今なお健在だ。
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1. シャンパーニュに移動したドイツ人たち

かつてドイツ人はシャンパンの発展に貢献し、今やフランス人がドイツでゼクトを造る時代となった。連載では2つのワインの交流史の片りんをドイツ側からたどる。
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岩本順子(いわもとじゅんこ) 翻訳者、ライター。ハンブルク在住。ドイツとブラジルを往復しながら、主に両国の食生活、ワイン造り、生活習慣などを取材中。著書に「おいしいワインが出来た!」(講談社文庫)、「ドイツワイン、偉大なる造り手たちの肖像」(新宿書房)他。www.junkoiwamoto.com
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