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ドイツゼクト物語 - シャンパンとの接点を探して 岩本順子

24. ブッサルト2 二人のフランス人

Deutsche Sekt-Geschichte

19世紀は、スパークリングワインが世界各地で贅沢な飲み物として徐々に流行し始めた世紀である。ドイツでもゼクトの生産は確実に利益が得られるビジネスだった。「ケスラー・ゼクト」や「グリューンベルガー・ゼクト」はピルグリムらの良きお手本であった。

建設中のセラーの倒壊事故に見舞われたものの、「スパークリングワイン工場」は稼働し始めた。停滞気味だったザクセン地方のワイン産業にとって、新規の生産者が増えたことは朗報だった。しかし1832年に、ピルグリムらが助言を得ていたエーレンライヒ・フォン・ブレドフが亡くなってからは、代わりを務めることができるアドバイザーがなかなか見つからなかった。ゼクトの醸造に通じた、熟練したケラーマイスターを国内に見つけることも容易なことではなかったのだ。

フランスワインの取引にも携わり、ザクセン王国宮廷にシャンパンを販売していたピルグリムはある時、本場フランスから技術者を招くことを思い付く。彼は、懇意にしているライプツィヒのシャンパン商人の紹介で、ランス出身のヨハン=ヨゼフ・ムゾンと出会い、彼をスペシャリストとして迎えることにした。ムゾンはすでにシャンパーニュでケラーマイスターとして活躍しており、アッサンブラージュにはじまり、瓶内二次発酵、ルミュアージュ、デゴルジュマンに至るあらゆるディテールにおいて、十分な経験を積んでいた。

1837年、ムゾンは一家でシャンパーニュからレスニッツに移住、工場初のケラーマイスターに就任し、最新のシャンパン醸造技術を指導した。ザクセン地方においてシャンパーニュ出身の技術者がゼクトを生産したのは、彼が初めてだった。セラー倒壊事故に加え、大量のボトルの破裂というトラブルに見舞われたものの、初年には約4万本を生産した。使われたブドウ品種は地元産のシュペートブルグンダーだった。初期の頃は、毎年およそ3万本を生産していたが、徐々に増産が可能になり、社名も「シャンパニア工場ニーダーレスニッツ(Campagnerfabrik Niederlößnitz)」に変更された。「シャンパン」は当時スパークリングワインの一般的な呼称として、世界各地の国々で使われていた。

1840年10月に行われたワイン祭りで、ムゾンは行列の山車に7人の職人たちと一緒に乗り込み、沿道の人々にデゴルジュマンの方法を披露したという。それは馬車が引く移動中の舞台上で、実際に二次発酵を終えたボトルを開栓し、コルクを打つまでの工程をデモンストレーションするという大掛かりなものだった。彼は1848年まで シャンパニア工場に勤務し、異国の地で亡くなった。ムゾン家の墓は現在もラーデボイルの平和教会の墓地にある。

ピルグリムらは、1848年にムゾンの後継者として2人目のフランス人技術者を招いた。ムッシュ・カミュゼと呼ばれるケラーマイスターである。彼は定年までシャンパニア工場で働き、老後は故郷のフランスへ戻り、95歳まで生きたという。

1840年ごろのザクセン地方のブドウ畑シュロ ス・ヴァッカーバートの光景1840年ごろのザクセン地方のブドウ畑シュロ ス・ヴァッカーバートの光景

 
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岩本順子(いわもとじゅんこ) 翻訳者、ライター。ハンブルク在住。ドイツとブラジルを往復しながら、主に両国の食生活、ワイン造り、生活習慣などを取材中。著書に「おいしいワインが出来た!」(講談社文庫)、「ドイツワイン、偉大なる造り手たちの肖像」(新宿書房)他。www.junkoiwamoto.com
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