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Mon, 15 December 2025

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ベルリン・フィル指揮者・山田和樹さんの呼吸から生まれる音楽

ベルリン・フィルデビュー記念インタビュー
指揮者・山田和樹さんの呼吸から生まれる音楽

今世界中のクラシックファンをとりこにしているバーミンガム市交響楽団の音楽監督、山田和樹さん。今年6月12日~14日にドイツで行われるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の公演で、客演指揮者としてデビューを果たす。日本人指揮者では故小澤征爾さん、佐渡裕さんに続く快挙だ。山田さんはベルリン・フィルのホールでどんな音楽を生み出すのか……公演を1カ月後に控えた5月中旬、マエストロにお話を聞いた。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

山田和樹さん

山田和樹さん

1979年生まれ。2009年にブザンソン国際指揮者コンクールで優勝し、国内外の楽団で活躍する。近年は、モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団やバーミンガム市交響楽団の音楽監督を務め、2026年に東京芸術劇場の芸術監督(音楽部門)、ベルリン・ドイツ交響楽団首席指揮者兼芸術監督に就任予定。ベルリン在住。
https://kazukiyamada.com

──いよいよベルリン・フィルのデビュー公演ですね!ずばり今のご心境は?

いや、緊張していますよ……。心づもりや準備はしなければいけないものの、考えると緊張するからあまり考えないようにしているというのが正直なところです。僕は日本で指揮を勉強して、海外に出たのはちょうど30歳のときでした。海外で仕事をするようになって、ベルリン・フィルとかウィーン・フィルの名前がおぼろげながらも頭に浮かんではいました。でもあくまで僕の目標は、指揮を続けること、音楽を続けること。だからこんなに早く自分にチャンスが来るとは思っていなくて、サプライズでしたね。ベルリン・フィルの指揮台に立てるのは、年間を通しても何十人もいるわけではないですし。まさに「まな板の鯉」です。

ベルリン・フィルは、技術力やアンサンブル力、オーケストラの機能性と全てにおいて洗練されていると思います。ウィーン・フィルが伝統に重きを置く一方で、ベルリン・フィルは伝統がありつつ革新的でもある。カラヤンと長く関係を築いてきて、ずっと世界のトップオーケストラだった。それが代々バトンタッチされながら、脈々と続いてきたという流れがあります。そんななか革新的な部分で象徴的だったのが、コロナ・パンデミックのときでした。2020年3月にロックダウンになりましたが、ベルリン・フィルは「それでも何か方法を見つけるんだ」といって立ち上がり、5月1日にはネット上で無観客公演をしたんですね。自分たちがやらなければ、ほかのオーケストラが追随できないという気構えを見せてくれた。まさに、今のクラシック界をリードする存在なんです。

──今回のプログラムが組まれた背景や、各作品の聴きどころについて教えてください。

デビュー公演ではありますが、僕の意見を取り入れてくれたプログラムになっています。僕は長年フランスのテリトリーでやってきたので、フランス音楽でデビューしたいという思いがありました。それでサン=サーンスの交響曲第3番という名曲をやらせてもらうんですけど、意外なことにベルリン・フィルは10年この曲をやっていないんです。だからこれはいい機会だと思いました。サン=サーンスはとても敬虔なクリスチャンで、この曲も宗教的な面が強くオルガンが入っている。そのオルガンとベルリン・フィルのサウンドでどんな表現になるのか、というのが聴きどころですね。

それから、フランス音楽のカラフルなサウンドに似ている作品として、イタリアの作曲家レスピーギの「ローマの噴水」を選びました。ローマ3部作のうちの一つで、一番地味と思われがちなんだけれど、僕はその中で最も好きな曲です。噴水の水が散ったりしぶきが上がったり、それが光に当たって色を放ったり。朝、昼と時が経過し、最後にたそがれていく。それがすごく感動的で、僕が思い浮かべる世の中の美しい音楽の10本の指に入る曲です。ベルリン・フィルの力でその色彩の豊かさを表現できたらいいなと思います。

そして、水のテーマのつながりから武満徹の「ウォーター・ドリーミング」が決まりました。日本を象徴する作曲家であり、彼の作品を紹介できるいい機会でもある。武満さん自身もフランス音楽にすごく影響されていたから、これもまた色彩豊かな曲です。だから、今回の公演はとてもカラフルなプログラムになったと思います。

──現在、音楽監督を務めるバーミンガム市交響楽団(CBSO)の演奏会では、山田さんのお茶目な姿を目にすることも多いですが、どんな楽団ですか?

バーミンガム市は2023年に財政破綻を宣言し、実は市からCBSOへの資金援助は一切ありません。そんな状況でも英国人の気質からなのか、CBSOの楽団員たちはとてもパワフルでポジティブ。一言でいうと、僕に音楽の楽しさを教えてくれる楽団です。クラシック音楽には、例えば楽譜通りに音符を伸ばさないといけないとか、ルールがたくさんありますよね。でもCBSOは、これをやっちゃいけないというルールを忘れさせてくれて、自由に音楽を楽しめる。今日どこでも演奏が録音されたりライブ配信されたり、そういう意味ではリスクは取りづらいのですが、リスクを一緒に取ってくれる仲間ともいえます。彼らがストレートに向き合ってくれるから、僕もストレートになれて楽しくなる。そうすると彼らも楽しくなって、僕ももっと楽しくなれる。「ハイリスク・ハイリターン」ではあるのですが、今のところ心配するどころか、ますます進化していると感じています。

CBSOのコンサートで指揮台に立つ山田さんCBSOのコンサートで指揮台に立つ山田さん

──今年4月、2026/27シーズンからベルリン・ドイツ交響楽団(DSO)の首席指揮者兼芸術監督に就任することが発表されました。どのようなお気持ちですか?

大変なことになりました。もちろんベルリン・フィルのデビューもものすごく大変なことなんだけれど、それはあくまで演奏会が一つあるということ。つまり演奏会を成功させることに集中すればいいんです。でもどこかのオーケストラの指揮者になるということは、1回の演奏会を成功させるだけではなくて、長い目で関わっていくということ。家族になるということでもあり、リーダーになるということでもある。指揮者は文字通り指し示す役割をしていて、100人の楽団員を引き連れて道案内をしなければいけないんです。道が二つに分かれていたら、どちらかを選ばなければならない。選んだ先にがけがあって、みんな死んじゃうかもしれない。だから、責任も勇気も必要なんですね。

ドイツのオーケストラでの芸術監督は、初めてのポスト。恥ずかしながらドイツ語ができないので、オファーをもらったとき、率直に「ドイツ語できなきゃダメだよね?」って聞いて。そしたらDSOの方は「今のままでいい、今のあなたに来てほしいんだから」みたいに言ってくれたんです。うれしかったですね。それから自分や家族が生活しているベルリンに仕事場ができるのはとても幸運なことで、この業界では珍しいこと。かのカラヤンでさえベルリンではホテル住まいで、家はザルツブルクでしたからね。指揮者にとっても、それは新しい世界になるのかなと思います。

もちろん音楽が一番大事で、演奏会にはたくさんのお客さんに来てもらって、感動してもらうことが僕の仕事です。そのことに責任の重さを感じていて、果たして自分にできるのだろうかと……。でもこういった話を受けて頑張れるパワーは10年後にはきっともうなくて、今の40代半ばがラストチャンスだと思っています。

──最後に、山田さんが指揮者として大切にされていることを教えてください。

指揮者は、コミュニケーションを通じて音楽をつくっていく職業。オーケストラは指揮棒で動いているわけではなくて、棒を通じた指揮者の呼吸が伝わって動きます。何事も極度に緊張していたりすると、難しい場面ってありますよね。オーケストラは見透かす能力が高いから、取り繕うとしてもバレちゃうんです。だからこそ自分の心をオープンにして、呼吸が通っていることが大切だと思います。

一つのオーケストラに出会うということは、一度に100人の人に出会うわけで、そこから物語が始まります。どう展開されるのか全く決まっていない白紙の物語です。今回のベルリン・フィルとの物語も、どうなるのか本当に分かりません。もちろんデビューが良くなかったら、2回目はない。これまでも1回で終わってしまったオーケストラがたくさんあります。でもたとえ1回きりだとしても、あまり先を考えすぎず、精一杯今の自分で向き合っていきたいですね。

「指揮者の呼吸がみんなと共有できたとき、うまくいくんです」(山田さん)「指揮者の呼吸がみんなと共有できたとき、うまくいくんです」(山田さん)

ベルリン・フィルのコンサート情報

日時: 6月12日(木)20:00、13日(金)20:00、14日(土)19:00
※現地時間
会場: ベルリン・フィルハーモニー
指揮: 山田和樹
演奏: ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
曲目: オットリーノ・レスピーギ 交響詩「ローマの噴水」
武満徹 ウォーター・ドリーミング
エマニュエル・パユ(フルート)
カミーユ・サン=サーンス
交響曲第3番ハ短調「オルガン付き」
セバスティアン・ハインドル(オルガン)
www.berliner-philharmoniker.de

14日はデジタル・コンサートホールでライブ配信予定!

英国からも同時配信でご覧いただけます。
詳しくはこちらから

 

知っているようで知らない英国の缶詰。

知っているようで知らない英国の缶詰。

英国に暮らしていると、スーパーマーケットの棚にずらりと並ぶ缶詰の種類の多さに驚かされる。実は英国は缶詰発祥の地であり、19世紀にはその保存性の高さから長期航海や戦地での食糧として重宝され、その後家庭の食卓へ並ぶ便利な食品として普及していった。本特集では、英国における缶詰の知られざる歴史をひもときつつ、代表的な缶詰も紹介する。
(文: 英国ニュースダイジェスト編集部、Illustration: ⒸKanako Amano)

参考: www.cannedfood.co.ukwww.tastesofhistory.co.ukwww.theguardian.comwww.express.co.ukほか

英国の缶詰

英国における缶詰の歴史

缶詰発祥の地

世界で初めて瓶詰の保存食が生まれたのは1810年、ナポレオン戦争下のフランスだった。兵士たちの食料確保のため、長期保存と携帯ができる方法を時の仏政府が一般に募集し、食品加工業者のニコラ・アペール(Nicolas Appert)が、ガラス瓶に詰めた食品を加熱密封する保存法を発明。この発明に刺激を受けたのが英国の商人ピーター・デュランド(Peter Durand)で、重くて割れやすいガラス瓶ではなくブリキ缶による食品保存法を開発し、特許を同年に英国で取得した。これが缶詰の起源だ。

この後、デュランドの特許は英食品会社の技術者ブライアン・ドンキン(Bryan Donkin)によって実用化され、ウェリントン公爵の勧めで13年には英国陸海軍向けに塩漬けの肉などの缶詰が納入された。また、大英帝国として世界中に植民地を広げると同時に、科学や地理的な探検や調査も活発に行っていたこの時代、ジョン・フランクリン(John Franklin)やエドワード・パリー(Edward Parry)のような極地探検家が缶詰を携行した。

ただし、当時の缶詰は厚手のブリキ缶で、開封にはハンマーやノミが必要だったほか、殺菌が不十分だった缶詰には腐敗や細菌汚染のリスクもあった。また、缶の接合部に鉛を使っていたことから、食品に鉛が溶け出し中毒を引き起こした記録も残っているなど、初期の缶詰にはさまざまな改善点があった。

缶切りの発明で一般家庭に普及

米国で開発された初期の缶切り米国で開発された初期の缶切り

やがて米国に渡った缶詰だが、同地の発明家エズラ・J・ワーナー(Ezra J. Warner)が1858年に缶切りを発明。しかし、初期の缶切りはまだ扱いが難しく危険を伴うもので、顧客は缶詰を購入した店でその場で開封してもらわなければならなかったという。70年には発明家のウィリアム・ライマン(William Lyman)が回転式ホイール缶切りを発明し、1925年にはさらに改良が加えられ、現在の缶切りの原型が出来あがった。それにより缶詰は一気に手軽な商品となり、一般家庭にも普及し始めた。

特に19世紀後半には、珍しい食材、デザイン性の高いラベル、低価格などを駆使した缶詰メーカー間の競争が激化し、缶詰食品の種類は飛躍的に増加した。20世紀に入ると第一次、第二次世界大戦中の政府の統制とキャンペーンを通じて、栄養と効率を両立させながら配給という形で消費された。

そして現代においても、缶詰は非常時における備えとして重宝されている。とりわけ2020年のコロナ禍では、英国全土で外出制限が始まった直後の3月、缶詰全体の売上は前年同月比で72.6パーセント増を記録。スーパーマーケットの棚からトマト缶やスープ、豆類が一斉に消えるなど、生活必需品としての存在感を改めて示した。

この傾向は一時的なパニック買いにとどまらず、その後も一定の需要を維持し、長期保存が可能で、調理も容易、さらに食品ロスの削減にもつながる缶詰は、手軽さと安心感を両立した食品として、物価高騰や景気不安といった社会状況の変化にも強い存在として再評価されている。缶切りの登場によって日常生活に浸透した缶詰は、戦時下を経て、パンデミックや経済危機といった時代の節目ごとに人々の暮らしを支え、その存在価値を更新し続けている。

英国で昔から食べられている缶詰12選

スーパーマーケットで気軽に購入できる商品を中心に、昔から英国人に愛されている缶詰12種類をえりすぐった。見たことはあっても食べたことのない商品が多いのではないだろうか。これを機会に英国ならではの味覚を試してみては?

* 価格は大手スーパーマーケットのオンライン・ショップを参照

Heinz Tinned Baked Beans
ベークド・ビーンズ

Heinz Tinned Baked Beans

英国の国民食ともいえるベークド・ビーンズ。ベークド・ビーンズといえば、誰もがハインツの缶詰を思い浮かべるだろう。もともと米国生まれのこの缶詰が、英国で初めて販売されたのは1886年、高級デパートのフォートナム&メイソンが最初だった。白インゲン豆をトマトソースで煮込んだ、イングリッシュ・ブレックファストに欠かせない存在。
£1/200g

Fray Bentos Meaty Puds
ステーキ&キドニー・パイ

Fray Bentos Meaty Puds

牛肉と腎臓(キドニー)をグレービー・ソースで煮込んだ具材を包んだパイが缶詰に。缶ごとオーブンか電子レンジに入れて焼くと、上に乗ったパイ皮がふくらむ。ステーキ&キドニーはマッシュ・ポテトなどと一緒に食すのも推奨されており、保存食兼コンフォート・フードとして、昔から一定の需要がある。キャンプなどでも使える。
£3.25/425g

Batchelors Mushy Peas
マッシー・ピーズ

Batchelors Mushy Peas

フィッシュ&チップスの副菜として定番の、潰したえんどう豆を柔らかく煮て塩味をつけたもの。北部イングランドでは、ロースト料理の付け合わせであるミント・ソースやミント・ゼリーにこのマッシー・ピーズを混ぜるスタイルも好まれる。また、同じく北部イングランドではマッシー・ピーズを直接パンにはさむことある。
£0.75/300g

Princes Corned Beef
コンビーフ

Princes Corned Beef

コンビーフの缶詰の起源は米国で、保存食として第二次世界大戦中に英国に広く普及した。牛肉を細かくほぐし塩漬けし加熱したもので、手軽なタンパク源として重宝された。現在もサンドイッチの具材や料理の素材として日常的に利用されている。サンドイッチでよくある食べ方は、ほぐしたコンビーフをパンに挟み、マスタードやピクルスと合わせる。
£3/200g

Pilchards in Tomato Sauce
ピルチャーズ・イン・トマト・ソース

Pilchards in Tomato Sauce

ピルチャードはイワシの一種で、やや大きめの小型魚。英南西部やコーンウォールなどで伝統的に漁獲され、英国では缶詰で親しまれている。1937年に南アフリカで創業されたグレンリック社のレトロな赤い缶詰は、手軽にタンパク質を摂れる保存食として昔から重宝されている一品。そのままパンに乗せたり、温めてジャガイモや野菜と一緒に。
£1.30/400g

Ambrosia Rice Pudding
ライス・プディング

Ambrosia Rice Pudding

ライス・プディングは英国で長年愛されているデザートの一つ。クリーミーでほんのり甘く、温めても冷やしても良い。アンブロージア社は英南西部デヴォンで初めて缶入りライス・プディングを作り、以来90年以上にわたって製造を続けている。もともとは乳児のための粉ミルクを作っていただけあり、ミルクの質にこだわりがあるという。
£2/400g

Baxters Royal Game Soup
ロイヤル・ゲーム・スープ

Baxters Royal Game Soup

鹿肉、キジ、根菜が入ったスープ。日本人にはなじみが薄いが、スパイスの香りが高くリッチな味わいのスコットランド風スープで、秋の味覚を感じることができる。低脂肪・高タンパク、添加物も入っていないヘルシーな一品だ。バクスターズ社は1929年にスコットランドで創業。ロイヤル・ゲーム以外にもスコットランドならではの缶詰を販売する。
£1.90/400g

Hunger Breaks The Full Monty
オール・デイ・ブレックファスト

Hunger Breaks The Full Monty

英国で1番おいしい食べ物は朝食、と冗談を言われるほど人気が高いイングリッシュ・ブレックファスト。ただし、ベーコン、ポーク・ソーセージ、ベークド・ビーンズ、トマトなど、いざ自分で用意すると種類が多くて面倒なことも確かだ。そんな方のためにあるのが缶詰。中に全てが入っているので、温めてトーストの上に乗せるのがお勧め。
£2.25/395g

Heinz Tinned Spaghetti
スパゲティー

Heinz Tinned Spaghetti

英国でスパゲティーやマカロニの缶詰を見てショックを受けた方は多いはず。どのような状況でどうやって食べるのか、ハインツ社のサイトによれば、「トーストに乗せても、ベークド・ポテトと一緒に食べてもおいしく、お子さまにも大人にもぴったり」とのこと。人工着色料、香料、保存料を一切使用しておらず、その点は安心だ。
£1.25/400g

John West Kippers in Sunflower Oil
キッパーズ

John West Kippers in Sunflower Oil

よくスーパーで見掛ける真空パックで売られている燻製にしんを、オイル漬けにして缶詰にしたもの。燻製にしんはもともと朝食としてパンや卵と一緒に食べられていたので、朝の手間を省くために考案された。ヴィクトリア時代は上流階級の人々の朝食だった燻製にしんを、極限までお手軽にした一品。白いご飯にも合いそう。
£2/145g

Spam Chopped Pork & Ham
スパム

Spam Chopped Pork & Ham

第二次世界大戦前に米国から世界に伝わった、ソーセージ肉の一種。特徴的な缶の形は、兵士が背負う背嚢に詰めやすいデザインにしたためだからだという。豚肉と塩、ジャガイモ由来のデンプンなどが主な原料。英国にも定着し、サンドイッチの具材になるほか、フィッシュ&チップスの店などでスパムの揚げ物が売られていることもある。
£2.80/200g

Grant’s Irish Stew
アイリッシュ・シチュー

Grant’s Irish Stew

アイルランドの伝統的な家庭料理で、羊肉、ジャガイモ、玉ねぎ、ニンジンなど手元にある材料をシンプルに煮込んだ、滋味深く素朴な味わいが特徴のシチュー。小麦粉などでとろみがついている。温めるだけでよいので、忙しいときや災害時などに便利。もともとはアイルランドの農家で生まれたそうで、さまざまなブランドから販売されている。
£1.95/400g

知ってた?缶詰にまつわるトリビア

1CanとTin
同じ缶でもその違い

英語で缶詰は、米国では主にCan、英国ではTinが使われる。特に英国では食品の缶詰にはTin、飲料にはCanを用いるのが一般的。元来Tinは缶の素材であるスズに由来する言葉だった。ちなみに、食品に関する文脈で「tinned」という語が初めて登場したのは1861年。料理研究家イザベラ・ビートン夫人による「ビートン夫人の家政読本」(Mrs Beeton’s Book of Household Management)に書かれたTinned Turtle、ウミガメの缶詰が最初だった。

「ビートン夫人の家政読本」の表紙「ビートン夫人の家政読本」の表紙

2北極まで行った
牛肉の缶詰

1824年、ウィリアム・エドワード・パリー卿はインドへの北西航路を探すため、牛肉とエンドウ豆のスープの缶詰を携行してHMSフューリー号で北極への航海に出発。その携行品の一部は57年、捜索遠征隊によって発見された。1939年に開封されたが、その当時でも食べることが可能で、栄養価も落ちていなかったという。高さ14センチ、幅18センチのこの牛肉の缶詰は、現存する最古の缶詰として今もロンドンの科学博物館に所蔵されている。

ウィリアム・エドワード・パリー卿ウィリアム・エドワード・パリー卿

3フレイ・ベントスの
コンビーフ缶が戦車に?

パイの缶詰で知られているフレイ・ベントス社だが、19世紀末はコンビーフが有名で、同社の名はコンビーフの代名詞だった。第一次世界大戦当時のこのコンビーフ人気はすさまじく、「フレイ・ベントス」という言葉が兵士の間で「良い」という意味の俗語として使われるほどだったとか。また、初期の英国産戦車の一つには「フレイ・ベントス」というあだ名が付けられたが、これは戦車内の兵士たちが缶詰の中のコンビーフのようにぎっしり詰まっていたからだという。

フレイ・ベントス社の初期の商標フレイ・ベントス社の初期の商標

4缶詰はどれくらい日持ちする?
保存方法を紹介

保存している缶詰は、安全のために改めて消費期限を見直そう。一般には18カ月~2年以内に使うべきだが、ジュース、トマト、ピクルスなど酸性の缶詰食品は、肉や野菜よりも早く劣化する傾向があるので注意が必要だ。缶詰は、調理器具やボイラー、直射日光を避け、涼しく乾燥した暗い場所に保管すること。湿気は缶を錆びさせ中の食品を腐らせる可能性があるほか、蓋が膨らんでいたり、へこんでいる場合は、内部が何らかの形で汚染された可能性がある。

ストックするばかりでなく消費期限にも注意ストックするばかりでなく消費期限にも注意

5ベークド・ビーンズ博物館が
一般市民の自宅に存在した

かつて「ベークド・ビーン・ミュージアム・オブ・エクセレンス」という私営の博物館がウェールズ南部のポート・タルボットに存在した。2023年に閉館したこの博物館は、09年にバリー・カーク氏によって同氏の公営住宅の居間、浴室、キッチンに開館。館内には、ベイクド・ビーンズ関連の缶詰、販促品が展示されていた。独立博物館協会にもきちんと登録され18年にはポート・タルボットで4番目に訪問者数の多い観光スポットでもあったとか。

静かなポート・タルボットの公営住宅群静かなポート・タルボットの公営住宅群

6おしゃれなツナ缶が
大事な日の贈り物に

バレンタイン・デーといえば、チョコレートや花などを贈るのが一般的。だが今年のバレンタインには魚の缶詰が贈り物のチョイスの一つになった。デザイン性が高く優れた品質のツナ缶が、1個20ポンドほどの値段で売られている状況だ。大手デパートのセルフリッジズは、クリスマス前の数週間でこうしたおしゃれなクラフト缶詰の売り上げが85パーセントも増加したと報告している。このトレンドを牽引しているのは、インフルエンサーや有名シェフたちだ。

良い缶詰は味も価格もあなどれない良い缶詰は味も価格もあなどれない

 

英国の多様な方言 - 地域ごとの特徴を紹介!

地域ごとの特徴を紹介!英国の多様な方言

「イギリス英語」と聞くと、発音がきれい、Rを発音しない、など一定のイメージを持っている人も多いだろう。だが、実際に英国で生活してみると、日本と同様に地域特有の方言が多く存在することに気が付くはずだ。今回は、そんな各地域の英語の特色や、実際に英国人がほかの地域の英語をどのように聞いているのか、生の声も紹介する。イギリス英語の奥深さを知るきっかけになったら幸いだ。
(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.studiocambridge.co.ukwww.britannica.comhttps://accentbiasbritain.org ほか

多様な言語

多様な方言が生まれた背景

英国は、英語圏の中でも特に多様な英語の方言があり、地域ごとに色濃い特徴がある。後に紹介する英国の伝統的な方言をはじめ、河口域英語(Estuary English)、英国アジア英語(British Asian English)、一般北部英語(General Northern English)などの比較的新しいものまで多岐にわたっており、どこの英語を話すかで話者の出身地域や社会階級、年齢、現在の職業の違いを表している。

このような違いが生まれたきっかけとして、多民族がブリテン島へ住み着いたことが挙げられる。5世紀、欧州大陸の北西部から来たゲルマン民族がブリテン島に定住を始めた際、母語であるゲルマン語の独特な方言を英国にもたらした。同じく欧州大陸にわたったアングル人は主にミッドランド地方と英東部に、ジュート人はケントと南海岸沿いに、サクソン人はテムズ川の南西の地域へと、各地域に多くの民族が移動した。そして時間の経過とともに古英語の異なる方言(ノーサンブリア語、マーシア語、ケント語、西サクソン語)が出現。現在のイギリス英語の異なるアクセントが生まれる礎が築かれた。

徐々に失われていく方言と保全活動

昔は使われていた表現が今は使われなくなったり、一方で新しい表現が生まれたりと、言語はその社会情勢に常に影響されるもの。特にインターネットが普及してから、さまざまな英語圏からの情報が入るようになり、地域に根差した言語が急速に使われなくなる、という現象も残念ながら起こっている。

代表的なものはコックニーの押韻スラングだ。若者が使うスラングの発達、ラップやヒップホップなどの影響、対面での会話を減らすテキスト・メッセージでのやり取りなどにより、コックニー独特の言い回しは衰退の一途をたどっている。この事態を受け、コックニーを後世に残すために、ロンドン東部の学校でコックニーを教えるなどの取り組みが進められている。

また、英北部のリーズ大学と五つの博物館からの資金提供を受け、特定の地域で話されている言語を幅広く残そうとする「方言と遺産プロジェクト」(The Dialect and Heritage Project)も進んでいる。今日のイングランドにおける方言の現状をデータ化しつつ、特定の地域で使われる独特な単語やフレーズ、またその発音を残すという試みで、言語変化の推移やアイデンティティーを探る資料として今後活用されていく予定だ。調査には出身地を問わず誰でも参加でき、「自分が知っている地域特有の言葉」を誰から教えてもらったか、その言葉にどのようなイメージがあるかをフォームに入力していく。興味のある方はぜひ以下のリンクからサイトをのぞいてほしい。

https://dialectandheritage.org.uk

アクセントや文法も異なる各地の英語の違い

日本で地域ごとに方言があるように、英国でもその地域で使われる独自の言い回しや単語が存在する。実際はこれから紹介するよく知られた地域ごとの訛りからさらに細分化されている。

英国の方言マップ

RP(Received Pronunciation) 容認発音

話されている地域:ロンドン、イングランド南東部

標準英語やクイーンズ・イングリッシュ、BBC英語などと呼ばれており、一般的にイギリス英語といえばこれを指す。英国では中流階級や上流階級の英語と関連付けられており、BBC ニュースなどでよく耳にする英語だ。元々はイングランド南部の教育を受けた人々の発音で、伝統的にパブリック・スクールやオックスフォード大学、ケンブリッジ大学といった場所で育まれてきた。また、RPの中でも、年配の世代や貴族階級に関連される保守的な発音から、BBCなどで聞かれるアクセントなどに分けられる。現在は地域的な特異性が最も少なく、全国的に話されている発音と考えられている。RPはその歴史から一般的に「権威のある英語」と思われがちだが、実際のところ過去の偶然により、このアクセントがたまたまその地位を獲得したわけで、どの方言にも優劣は決して存在しない。

発音の特徴
  • 単語の末尾の「R」音は発音しない。Rの後に母音が続く場合のみ発音する
  • 語頭の「H」は発音する

Cockney コックニー

話されている地域:ロンドン東部

伝統的にロンドンの労働者階級が話す英語の方言で、特にロンドン東部の言語を指す。特定の単語を押韻語または押韻表現に置き換え、それから一般的に押韻の要素を省略する押韻スラング(Rhyming Slang)が多数存在するのが特徴だ。例えば、「Apples and Pears」はコックニーでは「階段」(Stairs、ペアーズとステアーズの音が似ている)を意味するが、会話では、Apples and Pearsをそのまま当てがわずにさらに一部省略するのが特徴。「I'm going upstairs」(上階に行く)はコックニーでは「I’m going up the apples」になり、こういったフレーズや単語は少なくとも約150個は存在するという。このような特徴は19世紀半ばに、通行人に会話の内容を聞かれないための手段として生まれたと伝わっている。

発音の特徴
  • 母音の音が変化する。「Day」は「Die」、「Buy」は「Boy」のように発音する
  • 「T」は喉の奥で弱く発音される。「Better」は「be'uh」(ベア)のように聞こえる

Scouse スカウス

話されている地域:リヴァプール(イングランド北西部)

リヴァプール地域で話されている英語で、同地出身のバンドであるビートルズが話す方言として広く知られている。独特の音の変化やメロディーを持つイングランドでも特徴的な訛りの一つに挙げられている。リヴァプール出身者を意味するスカウサー(Scouser)は、「Police」(警察)を「Bizzies」(ビジーズ)、「Trousers」(ズボン)を「Kecks」(ケックス)、「Drink」(飲み物)を「Bevvy」(ベビー)など、独自の言葉を操る。

発音の特徴
  • 単語の終わりや途中に「T」がある場合、破裂音ではなく摩擦音で発音する(日本語の「つ」の発音に近い
  • 単語の終わりが「K」で終わる場合、喉の奥から出るような、締め付ける音になる
  • 「Th」の発音はDに近い発音になる。「Though」(ゾウ)→ドウ
  • 「-ing」の「G」の発音は落ちる。「Working」(ワーキング)→ワーキン
  • 「H」の発音は落ちる。「House」(ハウス)→アウス

Geordie ジョーディ

話されている地域:ニューカッスル・アポン・タイン(イングランド北東部)

主にイングランド北東部ニューカッスル・アポン・タインで使用されており、現在使われている方言のなかで最も古いものの一つとされている。スコティッシュ(後述)と共通する語彙があるものの、ジョーディはアングロ・サクソン時代までさかのぼることができ、その時代に使われていた古英語にルーツを持つ。なぜジョーディと呼ばれるかについては明らかになっていないものの、一説には同地域が18世紀に4人のジョージ王朝からなるハノーヴァー朝を支持していたことに由来すると考えられている。「Yes」(はい)はジョーディでは「Aye」(アイ)、「Child」(子ども、または自分より若い人)は「Bairn」(バーン)、喜びを表す言葉として「Belta」(「That was proper belta」)など、特徴的な語彙が数多く存在する。

発音の特徴
  • 「au, /aʊ/」(アウ)の二重母音の場合、「ウ」に近い発音になる。「Town」(タウン)→トゥーン
  • 「P」の前後に母音がある場合、声門停止(一時的に喉の空気の流れを止める)が起こる。「Jumper」(ジャンパー)→ジョンア(Pがミュートになる)

Brummie ブラミィ

話されている地域:バーミンガム(ウェスト・ミッドランズ)

イングランド中部バーミンガムとその周辺地域で話されているが、かなり局所的な範囲の言語として知られている。長年注目されることがなかった方言だったが、ドラマ・シリーズ「ピーキー・ブラインダーズ」で広く知られることになった。単調でドライな響きかつ同じ音程が続くのが特徴。ただし、アクセントを付けた単語は音が伸び、その後に音程の急激な上がり下がりが続くことがある。「Wonderful」「Brilliant」(素晴らしい)は「Bosting」(ボスティング)、パートナーやよく知っている人に対して使う「Babe」は「Bab」(バブ)、「Goodbye」(さようなら)は「Tara-a-bit」(タラー・ア・ビット)、もしくはタラ、と言う。

発音の特徴
  • 文末のイントネーションが下がる
  • 文頭の「H」が省略される
  • 母音の「i」はoyという発音に変化する

West Country English ウェスト・カントリー英語

話されている地域:イングランド南西部

イングランド南西部からウェールズ国境にかけて広く使われている。歴史は古く、中世に同地域や当時イングランドの首都であった英南部のウィンチェスターが含まれるウェセックス王国で使われていた言語。もし首都がロンドンに移転しなければ、ウェスト・カントリー英語が英国のスタンダードな英語になっていたかもしれない。デヴォン、コーンウォール、サマセットは、英国の主要な都市から離れた場所にあるため、昔の話し方や文法が今も残っており、「She」の代わりに「Her 」、「Him」の代わりに「He」を使うことがある。

発音の特徴
  • 単語の最後が母音で終わる場合、Lを追加する。この手法はBristol Lと呼ばれており、ブリストルは昔ブリストウ(Bristow)と呼ばれていたが、この発音が現在に残っている。「Idea」(アイデア)→アイディアル
  • 母音の後の「R」が発音される

Scottish スコティッシュ

話されている地域:スコットランド

スコットランドの一部の地域で話されていたゲール語とヴァイキングが使っていたノルウェー語の影響を強く受けている。18世紀ごろには現在のスコティッシュが同地域での標準英語として定着した。同方言は地域によってかなり差があり、エディンバラは比較的やわらか、グラスゴーはよりきついアクセントを話す。一方ハイランド地方は言語に詩的なリズムがあり、ゲール語の影響で北欧系の言語に響きが似ているといわれている。「Shy」「Bashful」(シャイな、内気な)は「Blate」(ブレート)、「Excellent」「Pleasant」(素晴らしい、楽しい)は「Braw」(ブラウ)など、他地域と同じように独特の単語も数多く存在する。

発音の特徴
  • 母音は長母音になる。「Face」(フェイス)→フェース(Fehce)
  • 「ow」は「oo」と発音する。「House」(ハウス)→ホース
  • 「eh」は「ee」と発音する。「Head」(ヘッド)→ヒード

Welsh English ウェールズ英語

話されている地域:ウェールズ

ウェールズに住む約25パーセントの人が同地域独自のウェールズ語を話すため、英語の方言はウェールズ語の影響を強く受けている。特に、家庭では英語が第二言語として使われることが多いウェールズ北部で、アクセントがより強く、同南部は、まるで歌うような音楽的な響きがある。また、単語の特定の音節を強調せず、例えば「Language」は通常Lan-にアクセントがあるが、ウェールズ英語では両方の音節を強調する。

Northern Irish English 北アイルランド英語

話されている地域:北アイルランド

北アイルランド英語はアルスター英語(Ulster English)とも呼ばれ、もともと同地に根付いていたアイルランド語に英語が取り込まれ、独自の進化を遂げた方言。スペルの通りに発音するのではなく、「Northern Irish」は「Nor’n Ir’sh」、「Cow」「Now」など「ow」(アウ)の発音をするときは、アイに近い発音になり、「カーイ」「ナイ」となる。発音以外にもFor to不定詞などの独自の文法を用いるほか、「Boggin」(とても汚い)、「Bout ye?」(お元気ですか?)などの単語やフレーズを使用する。

実際に聞いてみた!英国人同士で話してて
英語が分からないことってある?

他地域の英語を聞くと、英国人でもその違いに困惑することがあるのだろうか。ロンドン東部出身でコックニーを普段から話す英国人(以下Cさん)と、リヴァプール出身で今はロンドンに住んでいる英国人(同Lさん)のお二人に、英国の英語について話してもらった。

Lさん:リヴァプール出身、ロンドン在住
Cさん:ロンドン東部出身、コックニー話者

Lさん:リヴァプールからロンドンに引越して働き始めた会社で、「直して」というニュアンスではなかったけれど、「A」の発音について同僚に指摘されたことがあったかな。あと、発音で思い出すのは、リヴァプールにいたときに子どもと接する仕事をしていたんだけど、そこにランカシャー出身の子どもがいて。リヴァプールとランカシャーは地理的にもとても近い場所にあるんだけど、発音が全く違ったの。言葉としては問題なく伝わるけど、とにかく発音が違う、という感じ。親がどこ出身か、どの程度の強いアクセントあるかによって、同じ地域の子どもでも少しずつ違いがあるのは、日本も同じじゃないのかしら。

Cさん:僕はロンドン東部出身で、当時からいろいろなコミュニティーの人が住んでいたけど、人種に関係なくコックニー訛りがそこら中から聞こえていたね。ユダヤ系の人達がコックニーを話しているところも見たよ。ただ、今はそれぞれのコミュニティーが発達し、それに合った言語が話されているから、僕が住んでいた1950年代と今とでは、話す言語も雰囲気も結構違うかもしれない。あと、コックニーで不思議だと思うのは、独自のフレーズがあるからなのか、コックニー話者と話しても話が通じないときがあるんだよね。「この人は何言ってるんだ?」ってなってしまう(笑)。

Lさん:リヴァプール出身同士でその現象はなかったかなぁ(笑)。コックニーはその特異性からか、一般的に知られている言葉が多いというのもあって、引越した当時から聞き取りがすごく難しかったと思ったことはなかったわね。ちょっと分からない部分があったとしても、話の流れなどである程度推測しながら乗り切れたかな。

Cさん:僕がほかの地域でこりゃまいった、全然分からない、ってなったのはグラスゴーに旅行に行ったとき。道に迷ったときに親切に声をかけてくれた人がいて、「ここに行きたい」と伝えたらすごく丁寧に教えてくれたんだけど、もう全く理解できなかったの。でも申し訳なくて、分かったフリをしてお礼をしてその場を立ち去ったんだよね(笑)。アクセントが違うだけでなく、さらに話すスピードが速いなら、同じ英語でも「全然分からないな」と思っちゃう。でも、グラスゴーやリヴァプールの人はとてもフレンドリーな人が多いし、言語についての記憶より、人との温かな交流の方が記憶に残っているね。

Lさん:どの方言が良いとか悪いとか、そういったものは全く感じないわ。特にロンドンは本当にいろいろな場所から来た人が生活しているし、その方言やアクセントのどれもがとてもすてきだと思っている。英国人に関していえば、むしろその地域出身であることを誇りに思っている人が多いのではないかしら。今はロンドン生活が長くなったのもあって普段スカウスを使うことはあまりないけれど、同郷の人に会えばもちろん使う。話さないからもうロンドンに染まったんだ、なんて少しも思わないわね。

歴史あるウェールズ語(Welsh)はどんな言語?

ウェールズの旗

ウェールズに関連するウェブサイトを見ていると、言語変換の「Cymraeg」(カムライグ)という言語変換のボタンがある。カムライグはこの地域で話されている、英国最古の言語といわれているウェールズ語のことだ。ウェールズ語の歴史は4000年余りととても長く、インド・欧州語族とブリトン語族、またラテン語の影響を受けて今日まで残っている。

ウェールズ語は産業革命による住民の移動や諸外国との戦争、また過去500年にわたるウェールズ語への迫害により、存続の危機にさらされた時期があったが、20世紀に制定された教育法により、現在は学校でウェールズ語の授業が設けられ、その話者数を少しずつ増やしている。迫害されていた時代があったものの、「Bard」(吟遊詩人)、「Corgi」(コーギー)、「Flannel」(フランネル)、「Penguin」(ペンギン)などの言葉は英語として残り、ウェールズ語は歴史のどこかで英語に影響を与えたのは確かなようだ。

ウェールズの看板ウェールズのほとんどの道路標識は英語・ウェールズ語の併記。ウェールズの高速道路管理局は優先する言語を選択でき、ウェールズ南部の大部分は英語、ウェールズ北部はウェールズ語が優先

ウェールズ語には、多くの単語が文脈や疑問文によってさまざまに変化する、英語の「いいえ」に直接翻訳できる具体的な単語がない、など独自の文法や言語体系が存在する。また、最も長い町名に「Llanfairpwllgwyngyllgogerychwyrndrobwllllantysiliogogogoch」があり、ウェールズといえば、の話題によく出てくる。

ウェールズの駅読み方は「スランヴァイルプールグウィンギルゴゲリッヒルンドロブールスランティシリオゴゴゴッホ」(!)

簡単なウェールズ語
  • Bore da(ボレー・ダー) おはよう
  • Prynhawn da(プリナーウン・ダー) こんにちは
  • Nos da (ノース・ダー) おやすみ
  • Tafarn(タヴァーン) パブ
  • Diolch (ディーオークッ) ありがとう
 

ロンドンの進化する庭 - 緑を分かち合う社会へ

緑を分かち合う社会へロンドンの進化する庭

公園が多いといわれながらも、家の周辺や街路樹などの身近な居住空間、つまり日常的に利用できる緑地は減少傾向にあるというロンドン。そんなロンドンで近年、自然を育てることを目的にした、開かれた新しい形の庭が静かに育ちつつある。この特集では、人と自然の関係を問い直すような、庭の再定義に取り組む人々や場所を取り上げ、その共有と変化の可能性を見つめてみたい。
(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.nhm.ac.ukwww.culpeper.org.ukhttps://ideasforgood.jphttps://omvedgardens.com、BBC、The Guardian ほか

聖ポール大聖堂の隣にある屋上公共庭園、リフレクション・ガーデン聖ポール大聖堂の隣にある屋上公共庭園、リフレクション・ガーデン

市民の庭を再定義

庭を「自然を共有し育てていく場所」と定義し、それが地域の人や地球を癒やすことにつながると考えられている例を紹介する。

コミュニティー・ガーデン

公園が行政によって管理、運営されるのに対し、コミュニティー・ガーデンは、場所の選定から運営まで、地域住民が責任をもち自主的に担うことが特徴だ。始まりは1970年代の米国で、英国でも80年代から環境保護運動の高まりとともに整備が進んだ。欧州には古くから都市部で農地をリースし共有するアロットメント(市民農園)が存在しており、コミュニティー・ガーデンとの類似点もある。その違いとしては、アロットメントが個人や世帯が野菜の自家栽培目的で仕切られた区画を借りて使うのに対し、コミュニティー・ガーデンは野菜だけでなく花の栽培や憩いのスペースも含み、地域のつながりや教育、福祉、環境意識の向上などが目的の場所である。

ロンドン北部にあるカルペパー・コミュニティー・ガーデンは、誰にでも開かれた庭として、住宅地の真ん中に位置する。80年代に作られたこの場所は、都市化によって奪われた自然や居場所を、市民の手で取り戻す試みとして始まった。今では近隣住民やボランティア、身体や精神の健康を回復させる園芸療法のために通う人々など、さまざまな背景を持つ人々が植物を育て、空間を共有している。こうしたコミュニティー・ガーデンは、孤立、気候変動、メンタル・ヘルスの問題など、現在の都市が直面している課題に対する小さな答えの一つともいえる。

コミュニティー・ガーデン

未来を創る実験場に

一方、庭そのものがフィールド調査の場として活用される試みも始まっている。例えば、ロンドン自然史博物館が2024年に再整備した中庭を使った「アーバン・ネイチャー・プロジェクト」(Urban Nature Project)では、野生動物の生息環境としての庭の価値を再発見しようとしている。このプロジェクトでは、都市における生物の多様性を市民とともに調査、記録し、教育資源としても活用されている。庭は未来を創るための実験場でもある。その姿を記録し、公開し、次の世代へと継承することは、人と自然の関係性を問い直す持続的な活動となりつつある。

また、次世代に向けた自然教育の動きも活発化している。政府は25年9月から、中等教育修了資格の一つであるGCSEの新科目として自然史(Natural History)を導入する予定だ。これは、自然環境や気候危機、持続可能な生活についてを理論だけではなく実践で学ぶ新たな科目であり、教室の外、つまり庭や森といった実際の自然環境を学びの場として捉え直すものだ。10年以上にわたりこの導入を求めてきた博物学者メアリー・コルウェル氏は、「地元の自然に触れ、観察する力こそが、未来を考える基盤になる」と語る。庭は今、教育の最前線になろうとしている。

社会を耕す庭師たち

都市の緑を守り育ててきた、ファニー・ウィルキンソンとゲリラ・ガーデナーという、時代も立場も異なる庭師たちの活動に光を当てる。

英国初の女性庭師ファニー・ウィルキンソン

ファニー・ウィルキンソン(Fanny Wilkinson 1855~1951年)は、英国で初めてのプロフェッショナルな女性ランドスケープ・ガーデナーであり、ヴィクトリア朝時代のロンドンにおける都市緑化と女性の社会進出に大きく貢献した先駆者的存在だ。ウィルキンソンの活躍した19世紀後半のロンドンは、産業革命の影響で人口が爆発的に増加し住宅や工場が密集する一方で、緑地は次々と失われていた。特に労働者階級が暮らすロンドンの東部や南部では、公園や広場などの公共スペースがほとんど存在せず、人々は過密で不衛生な環境に置かれていた。

女性庭師の草分けファニー・ウィルキンソン女性庭師の草分けファニー・ウィルキンソン

このような背景のなか、ウィルキンソンはメトロポリタン公共庭園協会(MPGA)と共に、教会の墓地跡や空き地などを活用し、誰もが自由に使える緑地として公共庭園を都市の中に設けていった。それは単なる美観のためではなく、労働者の健康と精神のケアのための場所として機能することが重視されていた。ウィルキンソンは20年以上にわたり、労働者階級地域を中心に75以上の公共庭園を設計し整備。代表作には、ロンドン南部カンバーウェルのマイアッツ・フィールズ・パークや東部ベスナル・グリーンのミース・ガーデンズなどがある。

マンチェスターの裕福な家庭に生まれたウィルキンソンは、1882年にクリスタル・パレス園芸学校に、女性として初めて入学。ロンドン暮らしを始めたウィルキンソンの隣人は奇しくも著名な婦人参政権運動家ミリセント・ギャレット・フォーセットだった。園芸学校を卒業後、メトロポリタン公共庭園協会のランドスケープ・ガーデナーとして働き始め、86年には正式に報酬を得るプロフェッショナルな庭師としての地位を確立。87年までにはカイル協会(Kyrle Society)の造園家にもなっていた。カイル協会は、ナショナル・トラストを設立したオクタヴィア・ヒルの妹、ミランダ・ヒルにより作られ、過密な貧困地域に空間を確保し、公共庭園として整備することを目的としていた。そのような空間の一つが南部ヴォクソール・パークで、ウィルキンソンは開発業者から庭園を守るキャンペーンを成功させた。

また、ウィルキンソンは女性の権利向上にも尽力した。フォーセットの影響から女性参政権運動に関与し、スワンリー園芸大学の初代女性校長として女性の園芸教育を推進。さらに、第一次世界大戦中には女性農業・園芸国際連盟(Women’s Agricultural and Horticultural Union)の設立に関わり、女性農業労働者の育成に貢献した。ウィルキンソンの功績は長らく忘れられていたが、2022年にはロンドンのシャフツベリー・アベニューの旧居にイングリッシュ・ヘリテージによるブルー・プラークが設置され、25年7月には南部ワンズワースのコロネーション・ガーデンズに銅像が設置される予定になっている。

ファニー・ウィルキンソンブのブルー・プラーク2022年にやっとブルー・プラークが設置された

ゲリラ・ガーデナーたちの静かな抵抗

英国のゲリラ・ガーデナーは、公共空間や放置された土地に無許可で植物を植えることで都市環境に緑を取り戻そうとする活動家たちを指す。特定の団体ではなく、理念を共有する個人やグループによる緩やかなネットワークで構成されているのが特徴だ。このムーブメントが注目を集めるようになったのは2000年代初頭で、とりわけロンドン南部在住のリチャード・レイノルズ(Richard Reynolds)が04年に始めた活動が広く知られている。レイノルズはロンドン南部エレファント&キャッスルの放置花壇に、夜中にこっそり花を植えたことから、「モダン・ゲリラ・ガーデニング」として注目を浴びた。その後、ブログや書籍を通じて活動を広め、ゲリラ・ガーデニングは国際的にも知られるようになった。

反グローバリゼーション・デモ時のゲリラ・ガーデニング2000年にロンドンのパーラメント・スクエアで起きた、
反グローバリゼーション・デモ時のゲリラ・ガーデニング

現在では、地方議会の対策を待たずに自ら行動を起こす第二世代のゲリラ・ガーデナーたちが登場している。ここ数年の緊縮財政の影響で地方自治体は公共スペースの維持が難しくなり、しばしばそれらを民間に売却している。英国のシンクタンク「ニュー・エコノミクス・ファンデーション」の報告によれば、近年開発された住宅地域では、19世紀後半から20世紀初頭に建てられた住宅が多い地域と比べて、緑地の割合が最大40パーセントも少ないという。これは、まさにヴィクトリア朝時代の過密なロンドンで起きていた事態の再来ともいえる。現代においては、庭師ファニー・ウィルキンソンの役を務めているのは市民で、一般市民が街路樹の根元に球根を植えたり、路肩に在来種の野花をまいたり、空き地を区画してコミュニティー・ガーデンを作ったりと、小さなゲリラ戦士として行動している。

目立つ活動としては、ロンドン西部チズウィックで2010年に設立されたボランティア団体「アバンダンス・ロンドン」が、都市環境における自然保護と人々の自然とのつながりを取り戻す活動を行っている。主に植栽を中心とするが、カウンシルに許可を得ての活動と、時にゲリラ・ガーデニングによって、地域に新たな緑化空間を生み出そうと奮闘中だ。

庭にまつわるイベント3選

ロンドンで開催のさわやかな初夏の時期にふさわしいイベントを紹介。

1歴史から学ぶガーデニング Unearthed: The Power of Gardening

中世薬草学の写本「Old English Herbal」中世薬草学の写本「Old English Herbal」

大英図書館では、ガーデニングという行為がいかに人々に癒やしを与え健康を促し、地域のつながりを深めたり、見捨てられた空間を再生し、社会に変化をもたらすかを明らかにするエキシビションを開催中。園芸がどのように進化してきたのか、植物が大英帝国時代の植民地や自治領などから運ばれた経緯を探るほか、ガーデニングが気候変動による自然界への影響をいかに和らげることができるかという未来の可能性にも目を向ける。

また本展では、園芸がいかに社会的、政治的運動と関わってきたかにも焦点を当てる。例えば、イングランド内戦期(1642~51年)に囲い込み政策に抗議したディガーズ(Diggers)やトゥルー・レベラーズ(True Levellers)と呼ばれた農民たちの活動、20世紀初頭の都市計画運動であるガーデン・シティ運動、そして現代においては、種入りの爆弾(Seedbom)を使って放置された都市空間に花を植えるゲリラ・ガーデナーたちなどが紹介されている。ハイライトは、英国初の園芸マニュアル、ビーグル号の航海で植物標本を収集するために使用されたチャールズ・ダーウィンの導管、そして唯一現存するイラスト入りの「Old English Herbal」という中世薬草学の写本だ。

Info
Unearthed: The Power of Gardening
2025年8月10日(日)まで
月、水~金 9:30-18:00 火 9:30-20:00
土 9:30-17:00 日 11:00-17:00 
£15

British Library
96 Euston Road, London NW1 2DB
Tel: 01937 546 654
King's Cross St. Pancras / Euston
https://events.bl.uk

2秘密の花園に潜入できる London Open Gardens

テート・モダンの敷地内にあるコミュニティー・ガーデンテート・モダンの敷地内にあるコミュニティー・ガーデン

歴史的な建造物や優れたデザイン建築の内部が一般に公開される、毎年恒例のイベントに「オープン・ハウス・ロンドン」があるが、こちらはそのガーデン版。普段は非公開のロンドンの隠れた庭や緑地100カ所以上が一般公開される、2日間の特別なイベントだ。主催はチャリティー団体のロンドン・パークス&ガーデンズ(London Parks and Gardens)で、訪問者は歴史ある中庭や屋上庭園、コミュニティー・ガーデン、アロットメントなど、多様な緑地を巡ることができる。また、ガイド付きツアーやサイクリング・ツアーなども用意されているほか、庭園の管理者や専門家から直接話を聞く機会もある。首相官邸であるダウニング街10番地の裏庭など、特別な場所へのアクセスは残念ながら早期締め切りの抽選制だが、ほかにも魅力的な庭が多数公開される。

なお、このイベントの収益は、ロンドンの都市緑地の保護と維持活動に充てられる。庭を通じて、都市の歴史や文化、そして人々の生活とのつながりを再発見する貴重な機会となるはずだ。公式サイトでは、今年公開される庭園の基本情報が確認できるほか、あらかじめ予約しないと入場できない庭なども、同サイトから予約できる。

Info
London Open Gardens 2025
2025年6月7日(土)、8日(日)
£24(2日券のみ。事前予約ガイド・ツアーは別料金。
12~17歳は£10、11歳以下は無料)
https://londongardenstrust.org

3緑や庭の大切さを学ぶための新しい施設 OmVed Gardens

さまざまなイベントが開催予定のOmVed Gardensさまざまなイベントが開催予定のOmVed Gardens

ロンドン北部ハイゲートにあるOmVed Gardensは、5月31日、英国初の「食・エコロジー・創造性のためのセンター」を標榜した教育施設をオープンする。もともと地域住民のためのガーデン・センターだった土地が、大人も子どもも楽しみながら自然との共存を学べる場所に生まれ変わった。開館に先駆けて発表された2025年の年間プログラムは、「しなやかな回復力を育む」(Growing Resilience)をテーマに、先に述べたロンドン・オープン・ガーデンズや、都市に緑を増やすことの大切さを提唱するグロウ・アーバン・フェスティバル(6月7~15日)などと連携しながら、さまざまなイベントを展開していく予定だ。

このセンターでは、種まきから発芽、成長、収穫、そして食卓に上るまでの食用植物のライフサイクルを学べ、訪れる人々が五感を通して自然とつながる場となる。文字通り、そして比喩的にも「種をまく」ことを重視し、健やかな未来のために今できる小さな行動を育てていくことを目指す。プログラムは大きく三つの軸に分かれている。

「庭から学ぶ」ことをテーマにした体験型プログラムが並ぶ、ワイルド・ラーニング(Wild Learning)では、ガイド付きの庭園ツアー、生態観察、コンポストや種の保存、植物種の識別など、身近な自然の中にある複雑で繊細なつながりを探る。7月20日には、エコロジストのキラン・リー氏による「バタフライ・バイオブリッツ」が開催され、野生生物調査の機会を提供する。

ヘルシー・ハビッツ(Healthy Habits)では、「再生する庭」と題した全5回のワークショップ(6~11月)を通して、自然との関わりや持続可能な栽培法を学ぶ。また、8月30日には「家庭のハーバリズム」として、野草やハーブを安全に採取、栽培し、チンキやお茶などを作る方法を学ぶ実践講座も予定されている。

最後は、自然をインスピレーション源とした創作活動や対話の機会が設ける、ネイチャー・レッド・クリエイティビティー(Natureled Creativity)。「納屋の対話」(Barn Conversation)と題されたセッションでは、各回にアーティストのヴィヴィアン・シャディンスキー氏や研究者のヘレン・バーナード氏、造園家ポール・ガザーウィッツ氏らが登壇し、「自然とともに設計する」などのテーマで語り合う。

Info
OmVed Gardens
2025年5月31日(土)~ 詳細はウェブサイトを参照
1 Townsend Yard, London N6 5JF
https://omvedgardens.com
 

英国の風呂事情 - 温泉地もご紹介

温泉地もご紹介!英国の風呂事情

日本人にとって入浴行為は体の汚れを落とすだけでなく、心や身体をも癒やす大事な習慣だ。一方の英国では、実際にバスタブ付きの住宅は多いものの、湯船に浸かりながら髪や体を洗うなど、その使い方には異なる部分がある。今回は、英国の風呂文化の歴史やお勧めのスパ・タウンまで、お風呂にまつわる情報について調べてみた。
(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.independent.co.ukwww.historic-uk.comwww.english-heritage.org.uk ほか

英国の風呂事情

数字で見る英国の風呂事情

入浴はシャワー派57%
風呂派32%

シャワー派の約75%は水が溜まるのを待つ必要がなく、手早く浴びられるためにシャワーを好む

英国人は月に20回シャワーを浴び、
8回入浴する傾向がある

シャワーに費やす時間は9分20秒
入浴は25分4秒

シャワー派の41%が毎日シャワーを浴び、
入浴派は日曜日に入浴する傾向がある

シャワー派の約33%
入浴派の25%が最中に歌を歌う

28%が入浴の際に
体を洗わずに浸かるだけ

時短を好む男性はシャワー派
リラックスのために 女性の方が入浴をより好む

参照: ヴィクトリアン・プラミング社が委託した2000人の成人を対象とした調査、ソーク&スリープ社が行った2300人の成人を対象とした実態調査

水の量はシャワーも風呂も同じくらい?

水の効率的な利用と保全を推進する独立系非営利団体ウォーターワイズの調査によると、平均的なサイズの浴槽に並々と水を入れるとその容量は約180リットルになるが、実際の入浴時には約80リットルの水を使っているそう。シャワーの場合はタイプによるが、10分間使用すると120~150リットルを消費する。どちらを使用すると安いかに関しては水道代の請求がメーター制か否かによって変動するものの、シャワーや入浴などお風呂にかかわる水は、家庭における全水道代の33パーセントを占めているそうだ。

公衆浴場は古代からあった 英国と風呂の歴史

ローマ人が誇りを忘れないために導入

現在では昔ながらの公衆浴場を英国で見ることは難しいが、20世紀中ごろまでは存在していた。英国と公衆浴場の歴史には、古代ローマ人が深く関わっている。その中心地は英西部バース。43年にブリテン島に上陸したローマ人は、バース周辺に自軍の拠点を構えていた。その近くには、すでにこの地に住んでいたケルト系のブリトン人が崇拝する女神スリスの神殿としていた天然温泉があり、ローマ人はこの女神を自分たちが信仰する知恵、正義、芸術の神ミネルヴァに重ね合わせ、ブリトン人にスリス・ミネルヴァとして崇拝することを奨励した。この温泉地から、大規模な古代ローマの公衆浴場、テルマエ(Thermae)が作られたという。この時代の公衆浴場は、共有の浴槽と温度の異なる部屋を備えており、家族や友人、そして地域社会の人々の語らいの場として機能していた。ブリトン島全域では、大規模な公衆浴場からローマ人の上流階級の個人浴室まで、さまざまな形式の公衆浴場の遺跡が発見されている。基本的には、非ローマ人と差別化し「ローマ人であること」への意識付けのために、ローマ人のみが利用していたが、英西部のロクシター(Wroxeter)などには公営の大浴場があり、安い料金設定で一般の市民が利用できるように開放している場所もあった。

英北部チェスターに残る古代ローマ時代の浴場英北部チェスターに残る古代ローマ時代の浴場

バースにある冷水浴槽。火照った体を冷ますのに使われたバースにある冷水浴槽。火照った体を冷ますのに使われた

公衆衛生上の懸念

ローマ帝国崩壊後の英国の入浴事情に関する詳細な情報は残されていないが、1138年ごろの文献にイングランド全土から病人や癒やしを求めた人々がバースの温泉を訪れたことが記されている。また、カトリック教徒が英国国教会に反旗を翻す陰謀を企てることを恐れたヘンリー8世が公共温泉での入浴を禁止する令を1537年に出したが、74年にバースを訪れたエリザベス1世が温泉を再び市民に開放するよう宣言したことも、歴史の一端として現在に伝わっている。

こうした公衆浴場は1660~1815年に多数作られ、イングランドでは48以上の温泉施設が開業。その周囲には劇場や商店、宿屋などが立ち並び、訪れた観光客を楽しませた。この時代の浴場は貴族と庶民が等しく利用したが、一方で英国の温泉の原点ともいえるバースでは、富裕層や権力者がその恩恵を受けていた。やがて1846年に浴場と洗濯場法(Baths and Washhouses Act)が制定され、貧困層が洗濯できる公共施設のネットワークが整備されたことで状況は一変。この法は主に病気の撲滅を目的とし、同時により幅広い社会層に入浴の機会をもたらしたほか、公共プールが生まれるきっかけとなった。その後英国全土に公衆浴場やライド(遊泳施設)が見られるようになったが、1970年代後半以降、公共サービスの削減が進み、全国の公衆浴場は次々に閉鎖されていった。

かつて英東部マーゲートにあったライドのサインは今も残されているかつて英東部マーゲートにあったライドのサインは今も残されている

英国の風呂、温泉にまつわる豆知識

1. スパと温泉の違い

スパと温泉の違い

英国の温泉地はスパ(Spa)として知られ、水着を着用して男女兼用の温水・冷水のプールやジャクジーで楽しむことが基本。また、エステやマッサージなど、リラクゼーション効果を高めるための施設が併設されていることが多い。日本の一部の源泉は水温が100度を超えるが、英国は11~46度とかなりぬるめ。熱い湯に浸かる体験はできないものの、家族で一緒にプールに入り、疲れたらジャクジーやマッサージで心身を癒やすというレジャー的な楽しみ方ができる。なお、スパでは土足と裸足エリアが曖昧なので、気になる場合はサンダルなどを持参すると良い。

2. 風呂の入り方の違い

風呂の入り方の違い

英国のお風呂はシャワー・ブースのみ、浴槽付きなど住宅によってさまざま。日本式ならまず浴槽に入る前にシャワーで汚れを落とす洗い場があるが、このタイプの浴室はほとんど見られない。では、英国人はどこで体を洗うのか。個人差はあるものの、①お湯を張った浴槽の中で体を洗って水を抜き、シャワーを浴びて終了、②浴槽の中で体を洗って水を抜き、再度新しいお湯を張ってしばしリラックス。その後、シャワーを浴びて終了、というパターンがメジャーな模様。なお、体を洗った浴槽のお湯を抜かずに次の家族の誰かが使い回す、という場合もあるようだ……。

3. 英国発のLUSH

英国発のLUSH

日本でも人気のある、バス用品やハンドメイドの化粧品を取り扱うLUSH(ラッシュ)は英南部ドーセットで1995年に創業。店の主力商品であるバスボムは浴槽に入れて楽しむ入浴剤で、肌の調子を落ち着かせる効果があるほか、万華鏡のような鮮やかな色彩で五感を高揚させて入浴時間をより有意義なものにするために誕生した。開発のきっかけは解熱剤として使用される錠剤で、水に溶かすとシュワシュワと弾ける様子からインスピレーションを受けたそう。なお、この発砲がバスボムに配合されたエッセンシャル・オイルをお湯に溶かすのにベストな方法なのだとか。

4. 多様なお風呂スタイルが集結する英国

多様なお風呂スタイルが集結する英国

1940~50年にはまだ入浴設備が整っていない家庭も多く、簡易なブリキの風呂にお湯を溜めて入ったり、子どもならシンクで体を洗ったりと、まだまだ公衆浴場は必要とされていた。その後、風呂付きの新興住宅が開発されるに従い公衆浴場は姿を消していくが、このときにはすでに英国はロシアやトルコ、モロッコから多くの移民を受け入れており、多様な文化背景を持つ人々が共に暮らす社会へと移行していた。そうした影響もあり、ロンドンほか英国の都市部ではバーニャやハマムなど、各国の伝統的な浴場文化に根ざした公衆浴場が現在も利用できる。

英国にあるスパの街

バース Bath

バース Bath

英西部にある街で、46度の天然温泉の周りに築かれた史跡のローマ浴場(Roman Baths、見学のみ)とその神殿は必見。浴場はほぼ完全な状態で残っており、彫刻や貨幣、宝飾品、そして女神スリス・ミネルヴァのブロンズ像の頭部など貴重な遺物も展示されている。神殿の上階にある18世紀にできたポンプ・ルームはぜひ訪れたい。現在はカフェになっており、ジョージアン王朝時代の娯楽の中心地であったこの場所で、ドリンクや軽食を楽しむことができる。スパ体験を楽しむなら、テルマエ・バス・スパがお勧め。

行き方
ロンドンのPaddington駅からBath Spa駅まで約1時間20分

バクストン Buxton

バクストン Buxton

英中部ダービーシャーにある温泉地。古代ローマ人はこの地の天然の温泉に惹かれ、70年ごろにバクストン周辺に定住し、森の女神アルネ・メティアを祀る神殿と温泉浴場を建設した。その後、スチーム風呂を好んだ第5代デヴォンシャー公爵が1780年にジョージアン王朝様式で三日月状の建物を作り、そこにスパ・ホテルを建築。現在はバクストン・クレセント・ホテルと呼ばれ、化学処理を施していないミネラル豊富な水を注入した温水プールや、アロマのスチーム・ルームを楽しむことができる。

行き方
ロンドンのEuston駅からStockport駅で乗り換え、Buxton駅まで約3時間

グレート・マルヴァーン Great Malvern

Great Malvern

英中西部ウースターシャーにあり、マルヴァーン丘陵の岩で濾ろか過された湧き水を求め、フローレンス・ナイチンゲールやチャールズ・ダーウィンなど著名な人物も訪れた街。ヴィクトリア朝時代には、裸の状態で湧き水に浸したシーツにくるまり、冷たい風呂に横たわる「水療法」を求めて多くの人々が訪問したという。街は数多くの泉に囲まれており、そのうちの一つセント・アンズ・ウェル(St Ann’s Well)では飲泉も可能。また、ザ・マルヴァーン・スパには天然の湧き水を利用したスパ施設がある。

行き方
ロンドンのPaddington駅からGreat Malvern駅まで約2時間20分

ハロゲート Harrogate

Harrogate

1571年に硫黄泉が発見された街。1700年代までには、井戸や装飾的な浴場が数多く建設された。当時の裕福な湯地客は、現在博物館となっているロイヤル・ポンプ・ルーム(Royal Pump Room)という八角系の独特なデザインが目を引く建物で、ハロゲートの水を飲んでいたという。現在湯浴みを楽しむなら、1897年に開業した旧ロイヤル・バスの複合施設内にあるトルコ風呂がお勧め。ヴィクトリア朝時代のトルコ風呂は国内で七つしか残っておらず、その中でもここは特に保存状態が良好とされている。訪問には事前予約を。

行き方
ロンドンのKings Cross駅からHarrogate駅まで約2時間50分

 

和太鼓奏者TAKUYAさんインタビュー【後編】ロンドン和太鼓ソロ公演開催!

2025年5月23日(金)ロンドン 和太鼓ソロ公演

和太鼓=日本のクラシックを
欧州で広めたい
和太鼓奏者 TAKUYAさん インタビュー <後編>

和太鼓奏者、TAKUYAさん

5月23日(金)、ドイツ在住の和太鼓奏者のTAKUYAさんがロンドンのキングス・プレイスで公演する。1674号に続く今回のインタビューでは、TAKUYAさんが目標としていたオーケストラとの共演とその裏話、また和太鼓に対する熱い思いを伺った。
(取材・文: ニュースダイジェスト編集部 写真クレジット:JUMPEITAINAKA)

Information

Takuya Taniguchi: The Taikoist 2025年5月23日(金)
19:30~20:50(休憩なし)
£10~40(手数料別)
主催: Mu:Arts, Kings Place
助成: Great Britain Sasakawa Foundation
演出: JUMPEITAINAKA

Kings Place
90 York Way, London N1 9AG
Tel: 020 7520 1440
King’s Cross駅 / 地下鉄King’s Cross St. Pancras駅
www.kingsplace.co.uk/whats-on/contemporary/takuya-taniguchi-the-taikoist/

Profile

Takuya Taniguchi
谷口卓也

和太鼓奏者、TAKUYAさん

1983年生まれ。福井県出身で現在はドイツのミュンヘンに在住。3歳から和太鼓を始め、99年に「天龍太鼓」の指導者となる。2003年、和太鼓の第一人者、林英哲の主宰する「英哲風雲の会」のオーディションに合格し、プロ・デビュー。11年に渡独。プロ活動開始から訪れた国の数は24を超える。
https://taiko-ist-takuya.jp/en

─ 子どものころから作曲されていたそうですが、奏者が曲作りも行うことは和太鼓業界ではよくあることなんでしょうか。

とても珍しいことだと思います。地元北陸の太鼓には、御陣乗ごじんじょ太鼓と呼ばれる、一つの太鼓を二人で打つというスタイルの演奏があります。一人がベースで同じテンポのグルーヴを打ち続けて、もう一人が即興で打つ、というものです。通常はある程度練習してから即興に移っていくのですが、僕の場合、最初から、お前の好きなように打て、と言われていました。

ただ、僕に指導してくれたおじいちゃんの引退をきっかけに、即興のできないメンバーのために曲を作らなければいけない状況になりました。作曲未経験だった当時は頭で思い描いた音を覚えてメモを取り、絵を描くように構成を考えていました。その後プロになってからオーケストラと演奏することになり、譜面の読み方や書き方を学んでいきました。音楽理論を身に付けた上で作曲をする傍ら、即興にも柔軟に対応できるというのが僕自身の強みになっていると思います。

─ オーケストラとの共演を果たされていますが、その原動力は何だったのでしょう。

僕がなぜオーケストラと共演したいかというと、和太鼓を欧州で身近に感じてもらうためには、欧州に根付く伝統音楽であるクラシックに取り込んでもらうことが、その近道であると考えたためです。和太鼓という日本のクラシックをオーケストラという欧州のそれと合わせることによって両文化の融合を行い、和太鼓をもっと欧州に浸透させていけると思っています。実際、現地のオーケストラと合わせるのに、和太鼓の音量に対する懸念から、ミーティングやリハなどを積み重ねる必要があり、約2年の月日がかかりました。そのような状況でも、僕は必ず成功するという確信がありました。和太鼓の音は包み込むような音なので、オーケストラが奏でる壮大な曲に合います。僕自身が作曲するときにはオーケストラをイメージして、その壮麗な世界観を大切にした楽曲に仕上げたいという意識で取り組んでいます。ソリストだからこその感覚を研ぎ澄まし、僕にしかできない繊細な表現を磨くことで、現地のクラシックの音楽家の方々に認めていただけるレベルに上げていかなければならないと思っています。

そのために必要なことは何でも挑戦しなければなりません。例えばオーケストラとの共演用のばちは自分で作っています。昔「東急ハンズとお友達」と言っていましたが(笑)、ホームセンターで材料をそろえて作曲家の意向に合う音を追求できる撥を自作しています。ちなみに、過去に関わった舞台の音響担当者には、和太鼓とパイプオルガンの調整が最も大変だと言われました。それぐらい音が大きいことは確かです。ただ、実際に僕の太鼓を聴いてこんな繊細な音も出せるんだ、と驚かれた際には、努力が報われた感覚でうれしくなります。

─ オーケストラには指揮者がいますよね。しかしTAKUYAさんは指揮者に背を向けて演奏されていらっしゃいます。これはどういうことでしょうか?

そうなんです! 背を向けると見えないんですよ指揮者が……(笑)。なので小型のモニターを設置して確認しています。ただ、団員の方には指揮者の動きを気迫で感じているのかと聞かれたことがあり、いやそんな超能力はなくてちゃんとモニターで見てます! と答えました。どんな舞台でも僕はパフォーマンスを美しく魅せたい、という思いがあります。満月のような和太鼓が舞台の中央に置かれ、奏者が背中を向けて打つことで全てのシーンが絵になるように。プロであれば、舞台を限りなく理想に近い形にするにはどうすれば良いかを常に考えなければなりません。

現地の皆さんに日本の素晴らしさを伝えるためには妥協せず、本物を伝える術を常に見いだしていかなければなりません。それがどんな場面でもできる奏者であり続けたいと思っています。

2024年4月ブリッジ・オーケストラとの共演2024年4月ブリッジ・オーケストラとの共演

─ ドイツと日本で購入された和太鼓を使われていますが、打った感触など何か違いは感じますか。

どこで作られた楽器でも、手にした瞬間から「育てていく」必要があります。和太鼓はもともと強めに皮を張ってあるため、年月が経つにつれ、打ち込んでいくことで良質な音に変化していきます。自分が育てた音色で演奏したい思いが強いので、車で行ける場所には自ら運転して自分の楽器を運んでいます。僕にとって楽器は体の一部であり、何よりも大切なものです。

─ まもなく行われるロンドン公演に向けての意気込みをお聞かせください。

2011年にドイツに移住してから24カ国、100都市以上での公演を重ねてきました。僕が太鼓と共に歩んできた道がついにロンドンへとつながり、そして新たな道が開かれていくことに胸が躍っています。前例のない和太鼓ソリスト・コンサートをお届けしますので、ぜひお越しください。ロンドンの皆さまにお会いできるのを楽しみにしております。

 

和太鼓奏者TAKUYAさんインタビュー【前編】 ロンドン和太鼓ソロ公演開催!

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2025年5月23日(金)ロンドン 和太鼓ソロ公演

和太鼓・新時代の幕開け
無限の可能性に挑む
和太鼓奏者 TAKUYAさん インタビュー <前編>

和太鼓奏者、TAKUYAさん

5月23日(金)、ドイツ在住の和太鼓奏者のTAKUYAさんが英国デビュー公演をする。ロンドンではこれまで数々の和太鼓グループがパフォーマンスを行ってきたが、ソリストとしてのパフォーマンスはTAKUYAさんが初めてだ。日本人なら誰しもが和太鼓といえばグループでの演奏というイメージを持っていることが多いが、TAKUYAさんは和太鼓を「オーケストラの演奏ともよく合う」繊細な音が出せる楽器だと表現する。これまでの伝統的なイメージが良い意味で一蹴されることを願い、その可能性が無限であることをさらに人々に知ってもらうため、TAKUYAさんはドイツを拠点に日々精進している。本インタビューでは、舞台上での雄々しい姿とは異なる、温厚で柔和なTAKUYAさんの素顔や、「和太鼓を打つために生まれてきた」、といっても過言ではない和太鼓への熱い思いについて、2号に分けて紹介する。
(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

Information

Takuya Taniguchi: The Taikoist 2025年5月23日(金)
19:30~20:50(休憩なし)
£10~40(手数料別)
主催: Mu:Arts, Kings Place
助成: Great Britain Sasakawa Foundation
演出: JUMPEITAINAKA

Kings Place
90 York Way, London N1 9AG
Tel: 020 7520 1440
King’s Cross駅/地下鉄King’s Cross St. Pancras駅
www.kingsplace.co.uk/whats-on/contemporary/takuya-taniguchi-the-taikoist/

Profile

Takuya Taniguchi
谷口卓也

和太鼓奏者、TAKUYAさん

1983年生まれ。福井県出身で現在はドイツのミュンヘンに在住。3歳から和太鼓を始め、99年に「天龍太鼓」の指導者となる。2003年、和太鼓の第一人者、林英哲の主宰する「英哲風雲の会」のオーディションに合格し、プロ・デビュー。11年に渡独。プロ活動開始から訪れた国の数は24を超える。
https://taiko-ist-takuya.jp/en

2024年4月ブリッジ・オーケストラとの共演2024年4月ブリッジ・オーケストラとの共演

ソリストとしての意識

─ グループで演奏するイメージが和太鼓にはあるのですが、ソリストとして活躍するにはどんな素質が求められるのでしょうか。

僕は「Taikoist」(タイコイスト)として日々活動しています。この名義はピアニスト、ヴァイオリニストのように「太鼓のスペシャリストでありたい」という思いで、自分自身で作った言葉です。和太鼓のプロ奏者はそもそも数が少ないので、ソリストはさらに希少です。また、現在和太鼓のプロのソリストとして欧州で活動しているのは僕だけです。ソリストとして舞台をたった一人で80分やり遂げるというのは誤魔化しが一切効かないため、体も鍛えてパフォーマンスに説得力を持たせないといけませんし、舞台上の一つひとつの所作で観客に分かってもらえないといけません。19歳のときに師匠の林英哲はやしえいてつが主宰する「英哲風雲の会」のオーディションに合格してプロ奏者になりましたが、林英哲師匠と共に訪れた世界各地の一流の舞台で、その振る舞いを学ばせていただきました。今回のコンサートでは、演奏にことや笛も使用することで演奏の幅を広げ、日本舞踊や武道で培った日本の伝統的な所作を総合的に生かすことにより、一人での舞台を成立させることができると信じています。それはとても時間がかかるプロセスですが、日々研鑽していないと表現できないことだと思っています。

「太鼓奏者は音楽家であり、スポーツ選手であり、俳優である」と言い表されるくらい、ソリストには多くの要素を求められます。それを理解することがソリストとして持つべき意識だといえます。和太鼓というシンプルな楽器を使って、リズムだけではなくメロディーとして聴かせるには、音楽家としてのセンスも問われます。数回続く公演でも、毎回少しずつ向上させていきたい、という思いが積み重なって、唯一無二のソリストとしての活動ができていると思っています。

人生を賭けて和太鼓に打ち込む理由

─ 和太鼓との出会いについて教えてください。

和太鼓は3歳のときに始めました。最初、僕がお茶碗を箸で打っている姿を見た両親が、本物の和太鼓を買ってくれたのです。そのことが本格的な和太鼓を始めるきっかけとなりました。僕の故郷の福井県は和太鼓が盛んな地域で、太鼓を打っても周囲の迷惑にならない環境が整っていました。また、地元のお祭りで小学生が和太鼓を打つイベントがあり、僕は小さいときからそれを見て家で真似していたんですが、そのグループで教えていたおじいちゃんが、「お前うまいな!」と褒めてくれまして。子どもグループでの活動が終わった後も、自分はもっと太鼓が打ちたいと強く思ったため、そのおじいちゃんが主宰する「天龍太鼓」というグループに入りたいとお願いしました。結婚式などお酒の席での演奏が多かったため、当初は断られましたが、最終的には10代の僕をメンバーとして受け入れてくださり、そこから結婚式やお祭りを行脚する活動が始まりました。そういったさまざまな出会いや環境が整ったことで、僕は和太鼓の道に導かれました。それ以来、僕の人生はずっと和太鼓と共にあります。僕がまだ中学生だったころ、主宰者だったおじいちゃんの引退を機に、1999年に「天龍太鼓」の指導者になりました。僕の妹や弟、同世代の若いメンバーも加わり、僕が率いていく中で、子どもたちに教える楽曲を作り始めました。そういった作曲やグループへの指導経験が今の演奏活動にも生かされています。地元福井大学で建築を学び、大学卒業後は上京し、すぐに林英哲師匠の元で活動を始めました。

─ 2011年に渡独されましたが、その当時のことを教えてください。

僕がまだ福井にいたころ、ドイツのジャズ・トリオが福井で公演を行ったんですが、公演前にジャズと和太鼓のセッションはどうかと、主催の方から提案されました。そのセッションが成功し、その後も交流を続けて数年が経ったころ、メンバーの一人、ジャズ・ピアニストのワルター・ラング氏から日独交流150周年を記念して「友情」というCDを作ってツアーをしようと誘われました。当時プロになりたての僕は、二つ返事でお受けしました。そして2011年にドイツ・ミュンヘンを初訪問。到着してすぐ、何かの導きか、和太鼓を所有するドイツ人に出会いました。在独以来、家を自分で建てるなどドイツ人の器用さに驚かされていましたが、その方はさらに自分で和太鼓を作ると言い出しまして(笑)。それを聞いてとても面白いと感じ、「日本の文化にも興味を持ってくれているんだ」と知ったことが定住するきっかけになりました。日本で積み上げてきたキャリアをさらにレベルアップさせるためにも、海外でチャレンジしたいという思いに完全に火がついたのです。ミュンヘンでは、バイエルンで活躍するクラシックの作曲家とも出会う機会に恵まれ、和太鼓の曲を書いてくださることになりました。当時、すでにドイツでは和太鼓が流行していて、西部デュッセルドルフに「KAISER DRUMS」という太鼓専門店があることも分かりました。そこから買った大太鼓を前述のドイツ人の友人が貸してれまして、おかげで僕はドイツに来た当時からスタジオで和太鼓の練習ができました。今思うと、本当に幸運で数奇な出来事の連続だったと感じます。

2023年12月東京南青山MANDALAでのライブの様子2023年12月東京南青山MANDALAでのライブの様子

ロンドン公演について

─ 「ライブで和太鼓を聴く」魅力について教えてください。

和太鼓は「倍音」という、高い音と低い音が同時に鳴っている楽器なんです。実はこの音は心臓の音に似ているといわれていて、懐かしいと思われたり、涙が出るという方がいらっしゃいます。心音に似ているがゆえに、あれだけ大きい音であるにもかかわらず、しばらく聴いていると子どもが寝てしまうそうです。宇宙的で原始的、とてもシンプルでありながら心に強く響いてくる。太鼓はライブで聴くことで音の振動が直接体に伝わり、五感で楽しむことができます。しかし、CDにマスタリングする際は、この心地良い音域がカットされてしまうこともあります。CDももちろん良いのですが、やっぱり太鼓の本当の良さを知るには、生で直接聴いていただくのが最も理想的だと思います。和太鼓は木をくり抜いてそれに牛の皮を張って作った楽器なので、音は金属的なそれではなく、自然の音に限りなく近い。とても壮大で、何かインスピレーションを与えてくれる楽器だと思っています。今回のロンドン公演では、いろいろな種類の和太鼓を使って演者は僕一人で演奏し、表現します。

─ ロンドン公演は今回が初めてですよね。

ロンドンはレコーディングで来たことはありますが、公演は初めてです。僕の印象として、ロンドンは人々が礼儀正しく、文化や歴史もある。そして何よりも舞台人にとっての聖地だと思っています。舞台人が皆目指す場所。そこで前例のない和太鼓ソリストとして公演を行えることは非常に光栄で、それを僕ができる、ということの喜びを噛み締めつつ、皆さまの太鼓のイメージを刷新したいと思っています。また、ソリストとしてできる無限の太鼓の可能性、その証明を皆さまに体感していただく機会になると思っています。

─ 最後に、ロンドン公演への意気込みと読者の方々へメッセージをお願いいたします。

今回の公演タイトルが「阿吽あうん」なんですが、まさに繰り返す呼吸をするように、僕は人生を賭して太鼓を打ち続けてきました。太鼓は僕の体の一部なんです。今まで歩んできた道がロンドンにつながり、そしてこの公演の後にこれから歩む道がどうなっていくのか。その経過の大切なターニングポイントとなる今回のコンサートをぜひ会場で皆さまに見ていただきたいです。皆さまに太鼓を「音楽」として捉えて、五感で感じていただきたいです。そして和太鼓の可能性が無限に広がる瞬間を共有し、新たな時代の目撃者になっていただきたい、と強く願っています。

公演では、ドイツ在住の写真家であり演出家のアーティスト、JUMPEITAINAKA氏による視覚的な効果も盛り込む予定です。この演出は僕も初めての試みで、目の肥えたロンドンの皆さまに見ていただくのは緊張もありますが、とても楽しみですし、キングス・プレイスのような素晴らしい会場で公演ができるのは非常に光栄です。

 

ロンドンで観るHiroshige - 広重の描いた江戸末期の日本

ロンドンで観るHiroshige広重の描いた江戸末期の日本

木曽海道六十九次之内 洗馬木曽海道六十九次之内 洗馬 1830年代後半

ロンドンの大英博物館で5月1日から、江戸時代の浮世絵師である歌川広重の作品を中心に紹介する「Hiroshige artist of the open road」が開催される。日本美術に関してはその所蔵品の多さで定評のある同博物館が、2019年のマンガ展以降、久々に放つ大規模な日本美術展だ。今回は、広重作品の特徴や広重が欧州に与えた影響について紹介するほか、本展覧会のキュレーターであるアルフレッド・ハフト博士に、英国における広重の人気の秘密などについてお話を伺った。
(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.britishmuseum.orghttps://intojapanwaraku.comwww.hiroshige-tendo.jphttps://tokaido-hiroshige.jp ほか

Information

Hiroshige artist of the open road 2025年5月1日(木)~9月7日(日)
10:00-17:00(金は20:30まで)
£18~20
※6月30日(月)~7月4日(金)は作品入れ替えのためエキシビションは閉鎖

The British Museum
Room 35, Great Russel Street, London WC1B 3DG
Tel: 020 7323 8000
Tottenham Court Road/Holborn/Russel Square駅
www.britishmuseum.org

歌川広重
うたがわ・ひろしげ (1797~1858年)

「東海道五十三次」や「名所江戸百景」などで知られる、江戸時代後期の浮世絵師。江戸の町人文化と情緒あふれる風景表現を融合させた独自の画風で人気を博し、葛飾北斎と並び称される存在である。本名は安藤重右衛門。幼くして両親を亡くし、幕府の定火消同心の職を継いだが、絵への情熱を捨てきれず歌川豊広に入門。やがて浮世絵師として独立し、特に旅情や季節感を巧みにとらえた風景画で名声を得た。代表作「東海道五十三次」が版行されたのは1833年、広重30代半ばのころで、以後同シリーズをはじめとする風景画の名手として不動の地位を築く。56年には仏門に入り「一幽斎廣重」と号したが、その創作意欲は衰えず、死の直前まで絵筆を執っていた。58年、江戸でコレラが流行するなか、その病により死去。享年62*。広重の作品は幕末期から早くも海外に渡り、ジャポニスムの潮流のなかで印象派の画家たちに大きな影響を与えたことで、後世にその名を刻んでいる。

*広重の年齢は、数え年(生まれた年を1歳と数え、その後1月1日を迎えるごとに年をとる)で表示

消防士から浮世絵師に

広重は寛政9年(1797年)、江戸の八代洲河岸(現代の八重洲)に、定火消同心である安藤源右衛門の長男として誕生。定火消同心とは火消し、つまり幕府直轄の消防組織のことで、町人に限りなく近い下級武士の家庭だった。文化6年(1809年)に母を亡くし、父が隠居したことから、13歳で広重が火消同心の職を継ぐ。だが同年のうちに父も死去。幼いころから絵のうまかった広重は、これを機に絵師になることを決意し、歌川豊国の門に入ろうとする。しかし、役者絵や美人画で当時絶大な人気を誇っていた豊国の門は満員。やむを得ず、同じ歌川一門の豊広の門下生となる。豊広は人物画の多い歌川一門の中で風景画を多く手がけていた人物であり、これが後に「風景画家」広重の重要な素地となった。

定火消同心と浮世絵師という二足のわらじを続けていた広重だが、親戚の子どもが成人したことから家督を譲り、天保3年(1832年)に絵師として独立。豊広の門下となってから20年が経過しており、広重は30代半ばに達していた。だが広重の才能が開花するのはここからだ。翌年に発表した「東海道五十三次」シリーズが庶民の間で大ヒットとなった。

日本橋 東海道五十三次之内 朝之景 1833~35年ごろ日本橋 東海道五十三次之内 朝之景 1833~35年ごろ

旅行ブームと東海道五十三次

江戸時代中期以降、平和な時代が続き経済が発展し交通網が整備されたことから、庶民の間で旅行が楽しまれるようになった。特に人気だったのは、伊勢参りや善光寺詣で、金毘羅詣でなどの神社仏閣の参拝を名目としたもの。なかでも江戸と京都を結ぶ主要街道である東海道は、風光明媚な名所旧跡が多く点在しており、旅のルートとして非常に人気が高かった。街道沿いの宿場町はにぎわい、旅人のための名所案内の書物も盛んに出版された。

広重が1833年(天保4年)に発表した東海道五十三次シリーズも、まさにそうした旅行熱の高まりに応える形で生まれた。江戸の日本橋から京都の三条大橋まで東海道の全宿場を描いたこのシリーズは、現地に行った人にとっては旅の思い出として、行けない人にとっては旅の疑似体験ができるものとして人気を集めた。つまり、現代の絵葉書に似た機能を果たしていたのだ。出版を手掛けた保永堂は、こうした旅行ブームに乗る形で、庶民の興味を引く旅情豊かな作品群として広重のシリーズを大量に販売した。版画の利点は同じデザインを何枚も刷れることで、作品が手軽に購入できるのも人気の一つだった。

東都両国遊船之図 1832~4年東都両国遊船之図 1832~4年

六十余州名所図会 阿波 鳴門の風波 1855年六十余州名所図会 阿波 鳴門の風波 1855年

武陽金沢八勝夜景(雪月花之内 月) 1857年武陽金沢八勝夜景(雪月花之内 月) 1857年

詩情と記録が共存する名所江戸百景

広重の晩年の代表作である「名所江戸百景」は、安政3年(1856年)から翌年にかけて刊行された風景版画シリーズで、目録1点を含む全119点からなり、江戸の四季と名所を巡るように構成されている。このシリーズが特に評価されるのは、写実的な風景描写にとどまらず、広重ならではの詩情あふれる視点にある。例えば、「深川木場」の雪に沈む深川の町並みなど、単なる名所紹介ではなく、季節感や光の移ろいや人々の営みまでもが静かに語られる。

一方でこのシリーズは、江戸という都市が大きく変貌しようとしていた時代の記録画としての価値も持っている。安政の大地震(1855年)の直後に制作されたこともあり、「市中繁栄七夕祭」や「千駄木団子坂花屋敷」などで復興中の町や焼け跡を含む場所もあえて描かれている。度重なる大火に見舞われた江戸にあって、元定火消同心だった広重は、町の復興に敏感だったとされている。また、幕末の不安定な政情や海外との開国交渉が進むなかで、これまで続いてきた江戸の町が失われるかもしれない時代。そうしたなかで、広重は変わりゆく江戸の景色を積極的に意識的にとどめようとしたのではないかともいわれている。詩情と記録性という、一見相反する要素が共存しているのが名所江戸百景シリーズの魅力であり、現代においては芸術作品というだけではなく、文化的、歴史的資料としても見ることができる。

「紫苑に鶴」、「満月に雁」、「菊に雉」 全て1830年代初期左から「紫苑に鶴」、「満月に雁」、「菊に雉」 全て1830年代初期

隅田堤闇夜の桜 1847~8年隅田堤闇夜の桜 1847~8年

ゴッホが模写した広重作品

広重は名所江戸百景のシリーズを完成させることなく、安政5年(1858年)に当時流行していたコレラにより62歳で死去する。辞世の句は「東路あずまじへ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん」(江戸に筆を残して、死後は西方浄土の名所巡りをしてみたい)だった。広重が亡くなる3カ月前に日本と米国の間で修好通商条約が締結され、横浜や長崎などが開港。関税自主権の放棄によってインフレが起き、民衆の不満が高まるなど、国内は幕末の動乱期に突入していった。その一方で開国は、日本の産業や文化が広く西欧に紹介される機会でもあった。海を渡った浮世絵は「庶民が楽しむための斬新な構図を持つ高品質なフルカラーの印刷物」と欧州の人々に驚きと称賛をもって迎えられたという。特に広重や北斎の浮世絵に使われた鮮やかな青色は、「広重ブルー」「北斎ブルー」と称された。

広重に特に大きな影響を受けたのが、新しい絵画表現を模索していた欧州の芸術家たちだった。印象派の画家クロード・モネや、後期印象派の画家ヴァン・ゴッホ、さらにジェームズ・マクニール・ホイッスラーなどが熱心な浮世絵ファンであったことはよく知られている。ヴァン・ゴッホは構図を研究するだけではなく、名所江戸百景の「亀戸梅屋舗」や「大はしあたけの夕立」を実際に模写している。広重の描く風景は必ずしも写実ではなく、むしろ美しい瞬間を捉えた理想化された姿だった。現実の旅とは異なる点も、その魅力の一つだったといえる。開国後、浮世絵は文明開化に伴った西洋文化、戦争といったジャンルを扱い、文部省も教育目的の浮世絵を刊行しはじめた。やがて写真の台頭とも重なり、江戸庶民の愛したかつてのような浮世絵は終焉を迎えることになった。

名所江戸百景 亀戸梅屋舗 1857年名所江戸百景 亀戸梅屋舗 1857年

しかし江戸末期の日本を描き出した広重の影響は今も途絶えることはない。今回の展覧会では、ゴッホやホイッスラーの作品をはじめ、英国の現代アーティストであるジュリアン・オピーやエミリー・オールチャーチによるオマージュ作品も併せて展示。広重の風景は時代や場所を越え、なお新しい息吹を吹き込まれているのだ。

歌川広重とその時代に関する年表
1797年 歌川広重が江戸に誕生
1801年 【英国】グレート・ブリテンおよびアイルランド連合王国が成立
1811年 広重が定火消同心となる
1812年 歌川豊広に入門
1815年 【英国】ワーテルローの戦い
1820年 広重が本格的に浮世絵を発表し始める
1831年 葛飾北斎が「冨嶽三十六景」を刊行
1833年 広重「東海道五十三次」を刊行
1837年 【英国】ヴィクトリア女王が即位
1844年 広重「六十余州名所図会」を刊行
1849年 北斎が死去(90歳)。弘化の大火発生
1851年 【英国】ロンドンで万国博覧会が開催
1853年 ペリーが浦賀に来航
1854年 日英和親条約締結
1855年 安政の大地震
1856年 広重「名所江戸百景」を刊行開始
1858年 広重が62歳でコレラにより死去。 日米修好通商条約が締結

interview
江戸時代の人たちが感じていた自然や空気感広重展キュレーター:アルフレッド・ハフト博士

東海道秋月 武州神奈川台之図 1839年ごろ東海道秋月 武州神奈川台之図 1839年ごろ

今回、大英博物館の広重展キュレーターを務めるのは、同館の日本コレクションにかかわっているアルフレッド・ハフト博士(Dr. Alfred Haft)。広重の寄贈コレクションや、広重作品の魅力などについてお話を伺った。

Dr. Alfred Haft アルフレッド・ハフト博士 Dr. Alfred Haft

大英博物館の日本コレクションにおけるJTIプロジェクト・キュレーターであり、本展の主任キュレーター。研究テーマは日本の版画および版画史。主な著作には、「Hiroshige Artist of the open road」(2025年)、「Capturing Nature」(「Salon Culture in Japan」所収、2024年)、「Hokusai and Obuse: A Study of Cultural Mobility during the Late Edo Perio」(「Late Hokusai: Society, Thought, Technique, Legacy」所収、2023年)、「Utamaro and the Culture of the Floating World」(「Studies from Nature」所収、2019年)、および「Aesthetic Strategies of the Floating World」(2012年)がある。

─ 広重コレクターのアラン・メドー氏と、本展覧会との関係についてお聞かせください。

今回の展覧会は、1989年に設立された大英博物館の「米国友の会」(American Friends of the British Museum)に広重の版画35点をアラン・メドー氏(Alan Medaugh)が寄贈したことがきっかけで開催されることになりました。米国の広重コレクターであるメドー氏は、50年以上にわたって広重の作品だけを集めています。ご本人がじっくり研究を重ねながら、本当に質の高い作品ばかりを選び抜いてきたものばかりです。今回の寄贈作品には、美人画の三部作のほか、自然をテーマにしたものや団扇絵などが含まれています。

さらに、メドー氏はこの展覧会のために追加で82点もの作品を貸し出してくださったのですが、その多くは当館での公開が今回初めてとなります。なかには、世界に1点しか現存しないと考えられるものや、同じデザインの版画の中でも最高品質と評価されるものもあって、とても貴重な機会になっています。

─ 広重の作品の魅力は何だと思いますか。ほかの浮世絵師と異なる点についてお聞かせください。

広重の作品は、見ているだけでホッとするような安心感があると思います。それでいて、すごく心に響くものがある。広重の風景画の特徴は、そこに生きる人々と自然が調和しており、全体のバランスがとても良いこと。それに、雨が降りしきる様子や、霧に包まれたうっすらした月明かりのような、ちょっとした空気の変化をとらえるのが本当にうまくて素晴らしいです。また広重の作品には、ほかの浮世絵のような派手な演出や過剰なデフォルメがない代わりに、「日常を大切にする」という感覚があります。江戸の名所を描いても、あまり知られていない田舎の風景を描いても、どこか親しみが湧くのはそうした視点のおかげかもしれませんね。

─ 今回の展覧会のタイトルでもある「Hiroshige artist of the open road」の open road(開かれた道)は何を指しているのでしょう。

まず普通に考えると、「open road」は広重の代表的なテーマである東海道や、江戸時代の街道沿いの風景を指していることになるでしょう。でもそれだけではなくて、広重の作品に流れている「開かれた、包み込むような視点」も表しています。広重の風景画には、旅人や地元の人々、身分の違う人々が自然と共存していて、どこか時間がゆったり流れているような雰囲気があります。これは、当時の大都会である江戸を描いた作品でも同じことがいえます。広重は、せわしない日常の中のちょっとした静けさや落ち着きを見つけるのが本当にうまいと思います。広重の作品を見ていると、「忙しい都市の中にも、ふと気を抜ける瞬間があるんだな」と思わされますね。

─ 広重の作品に対して、個人的に特別な思いや思い出などがありましたら、お聞かせください。

繰り返しになるかもしれませんが、広重の作品はただ美しいだけじゃなくて、どこか記憶に残るものがあるんですよね。私自身、ある時間帯や天気の中で歩いていると、ふと「今の景色、広重の絵みたいだな」と思うことがあります。広重の描く風景って、すごくリアルといいますか、どの時代、どの場所にも共通する「何か」があるんですよ。だからこそ、見る人それぞれの経験や感覚と結びついて、より特別なものに感じられるのだと思います。

─ キュレーターとして、今回の展覧会の見どころを教えていただけますか。

今回の展示には、世界的にも最高クラスとされる広重の版画や、唯一現存する貴重な作品が並んでいます。例えば、「名所江戸百景」(1856~58年)の「飛鳥山北の眺望」や「吾妻橋金龍山遠望」は、広重の晩年の傑作として知られていますし、今回の展示でも重要な作品です。また、団扇絵の「東海道秋月 武州神奈川台之図」や「東海道晴嵐 三遠大井川之図」は、広重の風景表現の巧みさを感じられる作品で、個人的にもぜひ注目してほしい作品ですね。

それから、先ほども申しましたが広重の風景画も見どころの一つです。広重の作品には、当時の人々が感じていた「自然と詩のつながり」が表れていて、ただの風景画ではなく、そこに流れる感情や空気感まで伝わってくるのです。展示を通して、その魅力をじっくり感じてもらえたらうれしいですね。


 

時代区分から知る: 激動と変革のスチュアート朝時代

時代区分から知る 激動と変革のなかで スチュアート朝時代の英国

スチュアート朝時代は、政治的には王政と共和制の交替、名誉革命による立憲君主制の確立といった大きな変化があり、社会的にはペストやロンドン大火などの災害にも見舞われた。一方で、科学や文化の発展も著しく、アイザック・ニュートンの業績や、ロンドンの再建、劇場文化の復活など、近代への礎が築かれた時代でもあった。今回は激動のスチュアート朝時代を紹介する。
(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: https://walk.happily.nagoya/tag/stuartwww.english-heritage.org.uk/learn/story-of-england/stuartshttps://stuarts-online.com、 「イギリス社会史 1580-1680」キース・ライトソン著 ちくま学芸文庫、「ピューリタン 近代化の精神構造」大木英夫著 中公新書 ほか

バンケティング・ハウス前で行われたチャールズ1世の公開処刑の様子を描いたドイツの銅版画バンケティング・ハウス前で行われたチャールズ1世の公開処刑の様子を描いたドイツの銅版画

スチュアート朝時代とは

スチュアート朝時代(Stuart Era 1603~49年、1660~1707年)はチューダー朝時代に続く約100年を指す。スチュアート朝時代の名前の由来は、14世紀から続くスコットランド王家の姓から。1603年にスコットランド王のジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世を兼ねることで、イングランドとスコットランド両国を統治するスチュアート朝が成立した。以降、国王の処刑、共和制への移行、疫病、大火、革命、王政復古とドラマチックな出来事の連続だった。また、清教徒革命や名誉革命といった国王と議会の権力争いは、結果的に立憲君主制と議会主権が確立したため、現在の英国の国の形を決めた時代ともいえる。

*「Stewart」はスコットランドのつづりだが、フランス宮廷で育ったメアリー・スチュアート(Mary, Queen of Scots)がフランス風に「Stuart」とつづったため、以後この表記が定着

英国の時代区分

スチュアート朝時代という111年

目まぐるしく権力が変遷したスチュアート朝時代を、政治を中心に社会、文化の側面から光を当てる。

政治

王権神授説

1603年、エリザベス1世(在位1558-1603年)の死去により、スコットランド王のジェームズ6世が、ジェームズ1世としてイングランド王位を継承。イングランドとスコットランド、アイルランドは同じ君主のもとに統治されることになった。当時のイングランドはフランスなどの欧州大陸の絶対王政とは異なり議会が一定の力を持っており、国王が統治を行うにあたり、議会の承認が必要とされる慣習があった。また、1215年に制定されたマグナ・カルタ(大憲章)によって、国王の権力には一定の制限が設けられるべきだという意識もイングランドに根付いていた。しかし、ジェームズ1世はこの伝統を軽視し、スコットランド国王としての統治経験をもとに、王権神授説に基づく強力な君主権を主張。「君主の権力は神から授けられたものであり、議会の制約を受けるものではない」とする考え方は、従来のイングランドにおける国王と議会の関係と相容れず、たびたび対立を引き起こした。

13世紀に制定されたマグナ・カルタの複製13世紀に制定されたマグナ・カルタの複製

火薬陰謀事件

16世紀の宗教改革以来、イングランドではカトリックとプロテスタントの対立が続いていた。特にエリザベス1世の治世ではイングランド国教会が確立され、カトリックへの圧力が強まった。1603年にエリザベス1世が死去したことで、カトリック教徒の母を持つ次の国王ジェームズ1世が、宗教政策を緩和してくれるのではないかとカトリック教徒たちの期待は高まったが、政策は変わらず圧力は続いた。教徒たちの失望が高まるなか、カトリック急進派のロバート・ケイツビー(Robert Catesby)を中心とするグループが、カトリックの支配を回復しようと画策。1605年11月5日の国会開会式で国王と議員が集まる議事堂を爆破する計画を立てた。ガイ・フォークス(Guy Fawkes)は実行役として雇われ、地下室に火薬を仕掛けた。しかし、陰謀を密告する匿名の手紙によって計画は事前に露見。これによりカトリックへの監視と抑圧がさらに強化されることとなった。これは火薬陰謀事件(ガイ・フォークス事件)と名付けられ、陰謀が発覚した11月5日は今もガイ・フォークス・ナイトと呼ばれ、各地で花火が上がる。

一方ではより純粋なプロテスタントの教会を目指し、国教会の改革を求めるピューリタン(清教徒)らもおり、宗教的自由を求めた一部のピューリタンは、新天地を求めて1620年にメイフラワー号で北米へ向かった。

火薬陰謀事件火薬陰謀事件を計画したテロリストたち。ただ1人現行犯逮捕されたのがガイ・フォークス(右から3人目)だった

ジェームズ1世 / 6世 James I and VI

ジェームズ1世 / 6世
母親はメアリー・スチュアート

ジェームズ1世/スコットランド王ジェームズ6世(1566年6月19日~1625年3月27日、在位1603~25年)は、スチュアート朝時代のスコットランド、イングランド、アイルランドの国王。母親はカトリックを信仰するメアリー・スチュアート(Mary, Queen of Scots)。1歳でスコットランド国王になるが、イングランドのエリザベス1世に跡継ぎがいなかったことから、36歳でイングランド国王も兼任。以降、ジェームズ1世以後のイングランド君主、英国君主は全員ジェームズ1世と妻であるアン・オブ・デンマークの血を引く。

徳川家康と同時代人

ジェームズ1世と徳川家康は同時代人であり、英政府と幕府は外交関係を持っていた。日本にいる三浦按針から手紙をもらったジェームズ1世は、貿易船「クローブ号」を日本へ向かわせ、徳川家康、秀忠親子と交渉して1613年に平戸に英国商館を築いた。秀忠からは鎧などが贈られ、これは現在もロンドン塔に現存する。ジェームズ1世はこれにより日本に興味を持ち、クローブ号を指揮したジョン・セーリスの日本航海記を5回も読むほどだったらしい。

爵位を販売した

ジェームズ1世は、自分の味方を増やそうと有力貴族たちに気前良く恩賜を授け、多額な金品を支出した。さらに王妃アンの浪費によって逼迫ひっぱくした国家財政の要因を作った。アイルランド北部アルスター地方ではイングランドとスコットランドの入植者が土地を開拓していたが、先住のアイルランド人との対立が続き、反乱の危険もあった。そのため、ジェームズ1世は軍隊を維持するための財源確保と、新たな貴族層の創出を兼ねて、金銭で購入が可能な準男爵位を設け、富裕層に向け一般に販売した。

清教徒革命(イングランド内戦)

ジェームズ1世の後を継いだ息子のチャールズ1世も、父と同様かもしくはそれ以上に専制的な統治を進めた。度重なる宮廷の支出や外交政策のために財政難が深刻化し、議会に増税を求める場面が増えた。しかし議会側はこれに強く反発し審議が難航したため、チャールズ1世は議会の同意なしに税を徴収するなど、国民に不当な負担をかけた。これに対し、議会は権利の請願(Petition of Right)を提出して、国王の悪政に対抗した。権利の請願は、国王の独断による課税や不当な逮捕などの停止を要求した文書で、今ではマグナ・カルタや権利の章典とともに英国の3大法典の一つとされており、英国憲法の一部になっている。

清教徒革命は王権と議会の対立が頂点に達した結果として勃発した、イングランドで発生した内戦だが、直接の引き金は1642年にチャールズ1世が軍を率いて議会に乗り込んだことで始まった。貴族や伝統的な保守層による王党派と、ピューリタンを中心とする新興の商工業者や地方の地主層による議会派が戦った。当初拮抗した戦いは、政治家で軍人のオリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell)が率いる鉄騎隊の活躍によって議会派が優勢となり、46年にチャールズ1世は捕らえられた。その後、王党派の反乱が続くなか、議会内の急進派は国王処刑を決断。49年にチャールズ1世が処刑され、共和制(イングランド共和国)が樹立されるという英国の歴史の中でも特異な結末を迎えた。絶対王政に対する議会の勝利を象徴する出来事であり、のちの立憲君主制の確立へとつながる重要な転換点となった。清教徒革命、ピューリタン革命とも呼ばれるが、英国ではイングランド内戦と表記される。

議会派の勝利が決定した1645年のネイズビーの戦い議会派の勝利が決定した1645年のネイズビーの戦い

イングランド共和国の誕生

1649年、イングランドは共和制へと移行し、護国卿クロムウェルの指導のもとスコットランド、アイルランドを含むイングランド共和国(コモンウェルス)が誕生した。やがてクロムウェルは王党派だけではなく人民主権を唱える平等派議員も弾圧し、中流市民の権利や利益を擁護する姿勢を取るようになる。貴族や教会から没収した土地の再分配を行ったり、反議会派の拠点であるカトリックのアイルランドへ侵攻を始め、49年8月にダブリンに上陸。各地で住民の虐殺を行いアイルランドはイングランドの植民地的な存在となる。以降、クロムウェルの統治は独裁的になり、議会や国民の不満が高まるなか、58年にクロムウェルはインフルエンザで死亡。ウェストミンスター寺院に葬られた。跡を継いだ息子のリチャード・クロムウェルは翌59年に議会を召集したが、反議会派の反抗を抑えきれずまもなく引退し、イングランド共和国は11年の短い歴史に幕をおろした。

アイルランドの最後の戦いの場となった1651年のゴールウェイアイルランドの最後の戦いの場となった1651年のゴールウェイ

チャールズ1世 Charles I

Charles I
ジェームズ1世の次男

チャールズ1世(1600年11月19日~1649年1月30日、在位1625~49年)は、1600年、スコットランド王ジェームズ6世(イングランド王ジェームズ1世)と王妃アンの次男として生まれる。兄のヘンリー・フレデリックが18歳で急死したため、王位継承者となった。王太子の頃から政治に関わり始め、21歳で貴族議員に。25年にジェームズ1世が死去すると、チャールズ1世としてイングランド王に即位した。

熱心な芸術愛好家

チャールズ1世は熱心な芸術愛好家として知られ、英国史上有数の美術収集家の一人としても名を残している。ルーベンスやヴァン・ダイクといった北方フランドルの著名な画家を宮廷に招き、イングランドの宮廷文化の発展に貢献した。特に、フランドル出身のアンソニー・ヴァン・ダイクを宮廷画家に迎え、ヴァン・ダイクが描いたチャールズ1世の騎馬像や優雅な肖像画は、後世のチャールズ1世のイメージに強い影響を与えている。多くの美術品はクロムウェル政権によって売却されたが、一部は王政復古後のチャールズ2世の時代に取り戻され、ロイヤル・コレクションの重要な所蔵品となっている。

公開処刑された唯一の国王

チャールズ1世の処刑は1649年1月30日、通常のロンドン塔ではなくロンドン中心部のバンケティング・ハウス前で行われた。バンケティング・ハウスは、天井に父ジェームズ1世と王権神授説にまつわる絵画が描かれており、これはチャールズ1世自身がルーベンスに描かせたものだった。クロムウェルは人々に君主制の終焉を知らせる目的で、この場所を国王処刑の場として選んだという。チャールズ1世は寒さによる震えが処刑の恐怖に見えることを嫌い、厚手のシャツを2枚重ねにして臨んだといわれている。死後は、王党派と国教会の一派によって「チャールズ殉教王」として聖人に祭り上げられた。

王政復古による変化

1660年、イングランドにおいて11年間の共和制を経て王政が復活した。これは王政復古(Restoration)と呼ばれ、チャールズ1世の息子でフランスに亡命していたチャールズ2世がイングランド王として迎えられたところから始まる。だが王政復古は単なる国王の帰還ではなく、あらゆる側面で大きな変化をもたらした。まず、共和制時代にはさまざまなプロテスタント諸派が力を持っていたため、すっかり鳴りを潜めていた国教会がこれを機に復活。王政を支持する体制が再構築された。61年には議会も王党派が優勢となり、62年の統一法(Act of Uniformity)によって、国教会の礼拝様式を守ることが義務付けられた。これにより、ピューリタンやカトリックに対する弾圧が強まり、多くの非国教徒が公職を追われることとなった。

チャールズ2世は即位に際し、ブレダ宣言(Declaration of Breda)に基づいて、共和制政府に協力した者への恩赦を約束していたが、ブレダ宣言はチャールズ2世が無血でイングランド王位に復帰するために練り上げた政治的な宣言文に過ぎず、実際には父親チャールズ1世の処刑に関与した者たちは厳しく処罰された。さらに、1665年の大疫病(The Great Plague)や66年のロンドン大火(The Great Fire of London)といった大災害が続き、国は深刻な社会不安に見舞われた。経済面では、イングランドは対外進出を強め、60年に王立アフリカ会社(Royal African Company)が設立され、アフリカとの貿易が拡大。また、64年にはオランダとの間で第2次英蘭戦争が勃発し、北米のニューネーデルラント(現ニューヨーク)をイングランドが獲得するなど、海外植民地政策が推進された。

名誉革命と立憲君主制

チャールズ2世の死後、1685年に弟のジェームズ2世が即位した。するとジェームズ2世はカトリック信仰を公然と擁護する方向に舵を切り、これはプロテスタントの国教会を支持する議会にとって大きな懸念材料となった。もともとジェームズ2世は父であるチャールズ1世の処刑後、兄とともにフランスに亡命し同地でカトリックに感銘を受け改宗していた。チャールズ2世の存命中である79年にジェームズ2世の王位継承を阻止しようとする王位排除法案(Exclusion Bill)が議会から提出されたが、議会を解散することで成立は阻止された。こうして国王となったジェームズ2世は、信仰の自由を掲げてカトリックへの制約を緩和し、王権によって宗教政策を進める姿勢を強めた。87年には寛容令を発布し、カトリックや非国教徒への公職就任の道を開き、さらに、王は軍隊の要職にもカトリックを信仰する者を任命し、議会の意向を無視して独裁的な統治を試みた。

こうしたジェームズ2世の政策に対し、イングランド国内では反発が強まったが、決定的だったのは88年に生まれたジェームズ2世の息子ジェームズであった。それまで王位継承者と目されていたのはジェームズ2世のプロテスタントを支持した娘メアリーだったが、新たに生まれた男子が成長すれば、イングランドのカトリック支配が続く可能性が高まる。これを危惧した議会の指導者たちは、メアリーの夫でオランダ総督のオレンジ公ウィリアム3世に支援を求めた。ウィリアムはプロテスタントの擁護者として欧州での影響力を確立しており、この招きを受けて88年11月、軍を率いて英南西部へ上陸した。ジェームズ2世は軍を動員しようとしたが、軍人や貴族の多くがウィリアム側に寝返った。ジェームズ2世はフランスへ亡命し、事実上の退位となった。この出来事は、血を流さずに政権交代が実現したことから、名誉革命(Glorious Revolution)と呼ばれている。その後、議会は89年に権利の章典(Bill of Rights)を制定し、王権の制限を明確に定めた。これによりイングランドは立憲君主制への道を確立し、議会の権力が国王を上回る近代国家への一歩を踏み出すことになった。

1688年、オレンジ公ウィリアム3世とオランダ軍が英南西部ブリクサムに上陸1688年、オレンジ公ウィリアム3世とオランダ軍が英南西部ブリクサムに上陸

オリヴァー・クロムウェル Oliver Cromwell

Oliver Cromwell
英雄か暴君か

オリヴァー・クロムウェル(1599年4月25日~1658年9月3日、任期1653~58年)は、イングランドの政治家で軍人、イングランド共和国初代護国卿(Lord Protector)。英国の歴史の中でも英雄と暴君の両面を持つ、今も評価が分かれる人物。厳格なピューリタンであり、信仰に基づいた強い意志を持つ。個人的な生活は質素であり、華美なものを好まず、演劇やクリスマスの祝祭を禁じた。一方で、政治家や軍人としては、冷徹で目的のためには徹底的に行動する現実主義者。自らが神の摂理*に導かれていると確信していたため、自分の行動に迷いがなく、反対者に対しても容赦のない態度をとることが多かった。

* 神が世界の出来事や人間の運命を計画し導いているという、ピューリタンに広まる概念

議会政治の基礎を築いた

絶対王政に対抗し、国王チャールズ1世を処刑したことで、王権神授説を否定し、議会の力を強める礎を築いた。これは後の名誉革命や立憲君主制の発展につながった。「議会政治の父」としてロンドンのウェストミンスター宮殿前には19世紀に作られたクロムウェル像が立っている。軍事的な天才ともいわれ、鉄騎隊を率いイングランド内戦で勝利。また、軍の近代化を進め、実力がある者が昇進するシステムを導入した。しかし共和制を樹立したものの護国卿という称号を用い、自身が王に代わって事実上の独裁者となった。

アイルランド政策の残虐性

ユダヤ人のイングランド帰還を許可し、英国社会の多様化に貢献した一方で、カトリック、特にアイルランドに対しては非常に厳しい政策をとった。1649年のアイルランド遠征では、数千人のカトリック住民が虐殺され、土地が没収された。現代のアイルランドでは、「虐殺者」として強く嫌われている。

社会

ペストの大流行

1665~66年、ロンドンを中心にイングランドを襲ったペストの大流行(The Great Plague)は、14世紀の黒死病以来、英国で最も壊滅的な被害を出した疫病の一つだった。ペスト菌を媒介するノミがネズミを通じて人々に感染を広げたのが原因と考えられているが、当時のロンドンは衛生状態が極めて悪く、人口密集地では病気の蔓延まんえんが加速した。これによりロンドンの経済と社会は大混乱に陥った。富裕層や政府関係者は次々と都市を離れ、チャールズ2世や宮廷も英東部オックスフォードへ避難した。反対に貧しい人々は都市にとどまらざるを得ず、その多くが感染して命を落とした。

最初の感染者は65年4月ごろで、ロンドン東部で確認された。感染が最も早く広がったのは、当時はスラムのような場所だったウェストエンドのセント・ジャイルズ地区(St Giles-in-the-Fields)。貧しい労働者階級が密集して暮らす環境が病気の拡大を助長したとされている。

また、ロンドン東部の貧困層が住むスピタルフィールズ(Spitalfields)やホワイトチャペル(Whitechapel)でも広がった。この地域は港に近く、外国からの船が頻ひんぱん繁に出入りしており、疫病が侵入しやすい環境だったともいえる。やがて夏にはペストの感染がロンドン中心部に波及。8月には、毎週7000人以上が死亡するなど、ロンドンは完全に崩壊状態に陥った。死体が街中にあふれ、死者を運ぶペスト運搬人が遺体回収のために「Bring out your dead」(死者を出せ)と叫ぶ光景が日常となったという。死者の多さから、通常の墓地では埋葬が追いつかず、大規模なペスト集団墓地(Plague Pits)が作られた。代表的な埋葬地はフィンズベリー(Finsbury)やクラーケンウェル(Clerkenwell)などにあった。66年になると、冬の寒さも影響し、感染は次第に減少していった。しかし、ロンドンの人口の約20パーセントが死亡し、社会は大きな打撃を受けた。

ペストが蔓延し、往来にも死体が放置されたロンドンの街ペストが蔓延し、往来にも死体が放置されたロンドンの街

ロンドン大火

ペストの悪夢もまだ冷めやらない1666年9月2日に起きた大火事で、4日間にわたり燃え広がり、ロンドンの街は灰燼かいじんに帰した。火元はシティ内のプディング・レーン(Pudding Lane)にあるパン屋で、強風や乾燥した気候も災いし、火はすぐに木造建築が密集するロンドン市内へ広がり、聖ポール大聖堂を含む市内の大部分を焼き尽くした。火災は9月6日まで続き、約1万3200軒の家屋、87の教会が焼失し、死者は6人、家を失った市民は7万人(数字は諸説あり)、燃えた範囲はロンドンの5分の4に及び、金融や商業の中心地が壊滅した。市民も消化活動に協力したものの、当時は消火設備が未発達で、強風により延焼が早まった。最後の手段として建物を破壊し延焼を防ぐ方法が試みられ、最終的に火の勢いを抑えることができた。また、当時は火災の原因が分かっておらず、カトリック教徒や外国人による放火説が流れた。

この大火事により67年に再建法(Rebuilding Act)が設定され、木造家屋が禁止になりレンガや石造りの建物が推奨された。また、建築家クリストファー・レン(Christopher Wren)がロンドンの再建計画を提案し、新しい聖ポール大聖堂を含む50の教会の再建を指揮した。さらに、前年より猛威を奮っていたペストは、この火災でネズミやノミが激減したことで終息したという。

火に包まれたロンドン中心部と、避難する市民の群れ火に包まれたロンドン中心部と、避難する市民の群れ

チャールズ2世 Charles II

Charles II
若くして亡命暮らし

チャールズ2世(1630年5月29日~1685年2月6日、在位1660~85年)は、チャールズ1世と妻でフランス王ルイ13世の妹ヘンリエッタ・マリアの次男として生まれた。イングランド内戦の危険が高まったため、46年に母たちとフランスに亡命し、以降欧州各地を転々とする。やがてイングランドでクロムウェルの息子が護国卿の座を降りたことから、イングランドに戻り即位したのは1660年だった。

陽気な王様

清教徒革命の後、国民はクロムウェルによる厳格な宗教的価値観に疲れていた。そこへ亡命先のフランスから戻ってきたのがチャールズ2世だった。フランス宮廷の影響を受けたチャールズ2世は、個人の楽しみや娯楽、文化を重要視したため、世の中も活気づいた。社交的な性格で機知に富み、誰にでも寛容な態度を示すチャールズ2世は、陽気な王様(The Merry Monarch)と呼ばれ庶民からも愛された。1685年に死去するが、その際にも「I'm sorry, gentlemen, for being such a long time a-dying」(諸君、こんなに長く死にかけていて申し訳ない)というジョークを言ったとされる。

たくさんの愛人

チャールズ2世は多くの愛人を抱え、多くの庶子をもうけたことでも知られる。公式に認知された庶子は12人で、その母親の1人が女優として先駆者的存在のネル・グウィン(Nell Gwyn)だった。当時の軍人で作家のサミュエル・ピープスに「かわいくて機知に富んだネル」とも呼ばれたグウィンは、庶民から国王の愛人へと駆け上がったシンデレラ的な存在として語り継がれ、王政復古時代を象徴する人物の1人となった。グウィンはほかの愛人とは異なり、国王に贈り物や称号を要求せず、庶民的なユーモアを持ち続けたことから、国王と庶民をつなぐ架け橋のような存在であったとされる。

文化

文学・演劇

ジェームズ1世の時代は、エリザベス朝時代の文化的遺産を引き継ぎつつ、新たな発展を遂げた。シェイクスピアが後期の傑作「マクベス」「テンペスト」などを発表したほか、ジョン・ミルトンが英文学史上の大作といわれる「失楽園」を著した。

イングランド内戦の間は、ピューリタンの影響で演劇が禁止されるなど文化活動が制限されたが、王政復古後のチャールズ2世の時代には、王政復古演劇というジャンルが発展。女性が舞台に立つようになり、アフラ・ベーンのような女性劇作家も登場した。また、この時代は風刺文学が発展し、ジョン・ドライデンが活躍した。名誉革命を経て立憲君主制へと移行してからは、ジョン・ロックの「統治二論」が出版された。

建築

ジェームズ1世とチャールズ1世の時代、イニゴ・ジョーンズがルネサンス建築を英国に導入し、バンケティング・ハウスやグリニッジのクイーンズ・ハウスなどを手掛けた。王政復古後、クリストファー・レンがロンドン大火後に聖ポール大聖堂を再建し、英国バロック建築の代表となる。

グリニッジのクイーンズ・ハウスの内部、青い手すりの螺旋階段グリニッジのクイーンズ・ハウスの内部

科学

1660年に王立協会(Royal Society)が設立。科学の発展と普及を目的としたもので、多くの著名な科学者が関わった。アイザック・ニュートンもその1人で、「自然哲学の数学的原理(プリンキピア)」を出版。万有引力の法則を含むこの著作は、物理学の歴史において最も重要な書物の一つになった。

アイザック・ニュートンアイザック・ニュートン

出版

英国での新聞や雑誌文化がこの時代に発展。1665年に活版印刷の「ロンドン・ガゼット」紙(The London Gazette)が英国初の公式な新聞として発行される。同紙は政府公報として、王室の布告や政府の決定事項、法律の公布などを掲載。現在も発行が続く世界最古の新聞の一つである。それ以前、ニュースや公布は主に手書きの「ニュース・ブック」や、タウン・クライヤーなどから口頭で伝えられていた。

ロンドンの大火を報じる「ロンドン・ガゼット」紙ロンドンの大火を報じる「ロンドン・ガゼット」紙

娯楽・食

もともと演劇は庶民にも人気が高かったが、劇場の再開が認められた王政復古後は風刺劇や喜劇が流行した。そのほかは、見世物小屋、闘鶏、賭け事、酒場が庶民の娯楽の場だった。また、コーヒーハウスも流行し、知識人だけでなく商人や労働者の社交の場にもなった。最初のコーヒーハウスは1652年にオックスフォードで開業。当時の最新の飲料としてコーヒーが好まれただけではなく、情報交換や政治討論の場としても重要な位置を占めていた。紅茶は一歩遅れて輸入されたが、当時は貴族の飲むものだった。

王政復古後には貴族の間でフランス宮廷の影響を受けた洗練された料理が広まった。バターやワインを使ったソースを多用する料理が普及したほか、フランスの食卓マナーも導入され、ナイフとフォークを使う習慣が貴族の間で定着した。

ジェームズ2世 / 7世 James II and VII

James II and VII
チャールズ2世の弟

ジェームズ2世/スコットランド王ジェームズ7世(1633年10月14日~1701年9月16日、在位1685~88年)は、イングランド、スコットランド、アイルランドの国王。父親はチャールズ1世。兄のチャールズ2世の死後、51歳で王位を継承した。しかしカトリック政策が反発を招き、即位からわずか3年で名誉革命が起こりフランスへ亡命した。この後、国王は国教会の信者でなければならないとする法律が制定されたため、ジェームズ2世は英国で最後のカトリック国王となった。

海軍との関わり

ジェームズ2世は王位に就く前、ヨーク公ジェームズとして海軍を指揮していた。1660年代には総司令官として当時海軍省事務次官だったサミュエル・ピープスと共にイングランド海軍の再建に尽力。近代的な海軍の基礎を築いた。65年の第2次英蘭戦争では、実際に海戦に参加し、戦場での指揮経験もあった。ヨーク公の名にちなんで、米国のニュー・アムステルダムはニューヨークに改名された。ちなみに、兄のチャールズ2世はジェームズ2世をロンドン大火の消火活動の責任者に抜擢した。

カトリック信仰

熱心なカトリック教徒であったが、政情を考慮して10年にわたりこれを伏せていた。しかし、海軍総司令官としての職務を続けるにあたり、イングランド国教会への忠誠を誓う手続きが求められたため、これを拒否して辞職。これによって、ジェームズ2世のカトリック信仰は公然の秘密となった。1669年に正式にカトリックへ改宗し、その後は公の場でも信仰を貫いた。88年の名誉革命でイングランドを追われた後は、従兄弟にあたるフランスのルイ14世の庇護を受け、ヴェルサイユ宮殿で生活。一時期はアイルランドで軍隊を編成し、王位奪還を試みたが、晩年はフランスの修道院で過ごし、宗教に没頭した。


 

2025年に行くべき旅行先 イースト・アングリア East Anglia

2025年に行くべき旅行先East Angliaイースト・アングリア

英語圏で人気の旅行ガイドブック「ロンリー・プラネット」が「2025年に行くべき旅行先」として30の国と地域を選出し、英国からはイングランド南東部のイースト・アングリア地方が選ばれた。木とレンガや石を組みわせた16世紀ごろの家々、美しい海岸線などが「典型的な観光地がなくとも伝統的なイングランドの趣が感じられる」ことが評価され、国内各紙でも取り上げられ話題となった。今回は、イースト・アングリアを形成するケンブリッジシャー、エセックス、ノーフォーク、サフォークの訪れるべき都市とその魅力にせまる。
(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.lonelyplanet.comwww.independent.co.uk、各地域のカウンシル、観光局のウェブサイト

Map of East Anglis

大学都市と豊かな自然 Cambridgeshire
ケンブリッジシャー

Clare College

1974年に元のケンブリッジシャー、イーリー島、ハンティンドン、ピーターバラが合併してできた行政上の地域。ほとんどの地域が海抜ゼロと平坦な土地で、現在は自然保護区となっているホルム・フェンは海抜マイナス2.75メートルと英国で最も低い。イングランドの主要河川であるグレート・ウーズ川、ネン川があり、周辺地域では農業が盛んなほか、世界的に知られるケンブリッジ大学の本拠地でもある。
(写真:Ely / Cambridgeshire)

パンティングで穏やかな時間を Cambridge ケンブリッジ

Clare College

Clare College

オックスフォード大学と並び、世界最高峰の大学の一つとして知られるケンブリッジ大学がある。オックスフォードの学生と町民との暴力行為を伴う争いから逃れるため、13世紀初頭に学者たちがこの地に移り住んだことで、現在の大学都市としての礎が築かれた。街中にはキングス・カレッジ(King’s College)やセント・ジョンズ・カレッジ(St John’s College)、トリニティ・カレッジ(Trinity College)、クレア・カレッジ(Clare College)など、同大学を代表するカレッジが点在。また、フィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum)など大学付属の博物館もあり、1日では見切れないほどの観光スポットがある。天気が良ければ市内を横切るケム川でのボート体験、パンティング(Punting)もお勧めだ。また、市内や郊外を走るマウンテンバイクのコースも通の間で有名。

行き方
ロンドンのKing’s Cross駅からCambridge駅まで
約1時間5〜25分

ノルマン様式建築の大聖堂は必見 Peterboroughピーターバラ

Peterborough Cathedral

Peterborough Cathedral

大聖堂や先史時代の遺跡などがあり、歴史的にも重要な主教座聖堂都市。もともと「主教が教区を管理する」という都市の性質から、ケンブリッジシャーに組み込まれたのは20世紀に入ってから。ノルマン様式建築のピーターバラ大聖堂(Peterborough Cathedral)をはじめ、同地東部には約3500年前の青銅器時代の遺跡、フラッグ・フェン(Flag Fen)が、西部には自然豊かなフェリー・メドーズ・カントリー・パーク(Ferry Meadows Country Park)がある。また、市内北西部のウェリントン村(Werrington Village)にある400年前に建てられたかやぶきの家を利用したパブ・レストラン「チェリー・ハウス」(The Cherry House)も趣があることで知られる。周辺の田園地帯の風景を楽しむならネネ・ヴァレー鉄道(Nene Valley Railway)の蒸気機関車に乗るのがお勧め。

行き方
ロンドンのKing’s Cross駅からPeterborough駅まで
約40分〜1時間35分

穏やかな大聖堂の町 Elyイーリー

Ely Cathedral

Ely Cathedral

ケンブリッジシャー東部に位置する静かな町。かつては沼地に浮かぶ島であり、17世紀に排水事業が行われるまではウナギの産地として有名だった。一大観光スポットはイーリー大聖堂(Ely Cathedral)。設立は7世紀で、以後数世紀にわたり何度も荒廃、修繕を繰り返してきたためにイングランド・ゴシック様式、ロマネスク様式など、さまざまな時代の建築様式が見られるのが特徴だ。色鮮やかな内装はぜひ時間をとってゆっくり鑑賞したい。そのほか、イングランドの政治家、軍事指導者のオリヴァー・クロムウェルが住んでいた家(Oliver Cromwell’s House)や町の歴史がわかるイーリー博物館(Ely Museum)も見どころ。1760年代後半の建物を利用したアンティーク・センター(Waterside Antiques)やカフェなどもあり、日帰り旅行にぴったりの場所だ。

行き方
ロンドンのKing’s Cross駅、Liverpool Street駅からEly駅まで
約1時間15〜40分

田園地帯の宝石 St Ivesセント・アイヴス

St Ives Bridge

St Ives Bridge

グレート・ウーズ川のほとりに形成され、17〜19世紀半ばにかけてイースト・アングリアの重要な貿易拠点として栄えた町。歴史的建造物に囲まれた街並みや郊外の自然保護区など、英国の田園地帯を代表する美しい場所として知られている。見どころは1107年に木造で建造され、後に石造りになったセント・アイヴス橋と教会(St Ives Bridge and Chapel)。橋に礼拝堂を併設する様式は中世では珍しくはなかったが、イングランドで現存するものはここを入れて四つしかないのだそう。またイングランド内戦中には、オリヴァー・クロムウェルによって橋の一部に跳ね橋がかけられたりもした。町の中心部にはジョージアン、ヴィクトリア朝時代の建造物に囲まれたマーケット広場(Market Square)、南部には野生動物の楽園ホルト島自然保護区(Holt Island Nature Reserve)がある。

行き方
ロンドンのKing’s Cross駅からCambridge North駅まで
約1時間、同駅からバスで約30分

絵葉書のような田園風景 Essex
エセックス

Saffron Walden / Essex

ロンドンからの交通の便が良い上、原生林などの豊かな緑や長く続く海岸線など多くの自然環境が残されており、特定のスポーツやアクティビティーを楽しむ人にとっても人気のエリア。また、古代ローマ帝国による征服など、英国の歴史上重要な出来事にまつわる遺跡が数多く見られ、歴史好きの人も楽しめる。特にコルチェスターなどの都市部から離れると田園地帯が広がり、フォトジェニックな風景が広がる。
(写真:Saffron Walden / Essex)

記録に残る英国最古の都市 Colchesterコルチェスター

St Botolph’s Priory

St Botolph’s Priory

西暦49年、ローマ帝国時代のブリテン島で最初の町として発展し、古代ローマの作家によって記録された英国最古の都市として知られ、街中には西暦65〜80年の間に作られた城壁が今も残っている。中心部には、1076年に建造が始まり、1860年にはすでに博物館として活用されてきたコルチェスター城(Colchester Castle)や、英国最初の聖アウグスチノ修道会の修道院として建造された聖ボトルフ修道院(St Botolph’s Priory)の廃墟があり、中世の歴史や廃墟が好きな人は必見の場所だ。郊外には小さな町や村が点在しているが、なかでもデダム村(Dedham)やサフォークにまたがるデダム・ベール・ナショナル・ランドスケープ(Dedham Vale National Landscape)は画家ジョン・コンスタブルが愛し、絵画のように美しい景観が見られる場所として有名。

行き方
ロンドンのLiverpool Street駅からColchester駅まで
約50分〜1時間20分

静かな海辺のリゾート Southend-on-Seaサウスエンド・オン・シー

Thorpe Bay Beach

Thorpe Bay Beach

もともとは漁師小屋と農場が数軒あるだけといったのどかな場所だったが、ロンドンからのアクセスや海の水質が良かったために、次第に上流階級の人々を惹きつけ、「静かな海辺のリゾート」として名声を得た沿岸都市。広大な干潟のせいで満潮時でも水深が浅く、大型客船の停泊が困難だったために遊覧桟橋サウスエンド・ピア(Southend Pier)が作られた。同桟橋は全長約2.1キロと遊覧桟橋としては世界最長を誇る。1890年には桟橋上に乗客を輸送するための電気鉄道ができ、こちらは現在も稼働している。沿岸には海辺のアミューズメント・パーク、アドベンチャー・アイランド(Adventure Island)がある。また、より静かな海を楽しみたい人は、東部にあるソープ・ベイ・ビーチ(Thorpe Bay Beach)やシューベリー・イースト・ビーチ(Shoebury East Beach)がお勧め。

行き方
ロンドンのStratford駅からSouthend Victoria駅まで、 Fenchurch Street駅からSouthend Central駅まで
約1時間

のどかな田舎で見るかわいらしい建物 Saffron Waldenサフラン・ウォルデン

Castle Street

Castle Street

まるで絵本の中から飛び出してきたかのような、かわいらしい家々が並ぶ中世の町。1141年から市場が開かれた記録が残されており、現在も火・土曜日に新鮮な野菜や果物、魚、チーズやパンなどあらゆるものが売られるサフラン・ウォルデン・マーケット(Saffron Walden Market)が開催。有名シェフのジェイミー・オリバーも訪れることがあるのだとか。中心部には聖メアリー教会(St Mary’ s Church)があり、キャッスル・ストリート(Castle Street)とブリッジ・ストリート(Bridge Street)では壁から模様が浮き出ているかのように装飾する技法「パーゲティング」(pargetting)を施した家々を見ることができる。郊外には広大な敷地に美しい庭園を持つ17世紀初頭に作られた英国有数の邸宅オードリー・ エンド・ハウス&ガーデンズ(Audley End House&Gardens)がある。

行き方
Liverpool Street駅からAudley End駅まで約1時間、同駅からバスで約10分

芸術家が移り住んだ Great Bardfieldグレート・バードフィールド

High Street

High Street

かつては重要な馬の市場が開催され、全国から商人たちが馬を連れてきた場所で、通りの配置や特徴的な家屋やコテージが当時の歴史を物語っている。また、近隣ではセイタカセイヨウサクラソウ(Oxlip)という珍しい花が見られる。一見すると普通の小さな町だが、ここが良く知られているのは「グレート・バードフィールド・アーティスト」と呼ばれる芸術家のコミュニティーがあったから。1930〜70年代にかけて、同地とその周辺に住んでいた芸術家が中心となり、フィギュラティヴィズムという具象的な作品を多数残した。また、1950年代にアーティストたちが自宅を開放するオープン・ハウス式の展覧会を開催したこともコミュニティーが有名なった要因だった。この芸術運動の作品は、サフラン・ウォルデンにあるフライ・アート・ギャラリー(Fry Art Gallery)で見ることができる。

行き方
Liverpool Street駅からChelmsford駅まで約30分、同駅からバスで約1時間10分

英国らしい豪華な邸宅が点在 Norfolk
ノーフォーク

King’s Lynn / Norfolk

イースト・アングリアの北東部に位置する、豊かな田園地帯が広がる地域。チャールズ国王の邸宅サンドリンガム館があるほか、ドラマのロケで使用されたカントリー・ハウスが点在し、その多くが一般公開されている。北海に面している北側ではゼニガタアザラシに会うことができ、東部には多くの野生動物が生活するザ・ブローズ(後述)と呼ばれる国立公園があるなど豊かな自然環境が広がっている。
(写真:King’s Lynn / Norfolk)

中世の趣が感じられる Norwichノリッジ

The Royal Arcade

The Royal Arcade

イングランド初の地方図書館が開館し、ロンドン以外で最初の地方紙が発行されるなど、歴史的に芸術や文学、出版業と深い結び付きがある町。アートや文学に優れた都市として2012年にユネスコの文学都市に指定されている。「中世の都市」と呼ばれ、町中にはテレビや映画のロケ地に使用されたこともある、チューダー朝時代の建物が残る石畳のエルム・ヒル(Elm Hill)や、グレードI の指定建造物であるギルドホール(The Guildhall)、11世紀に建造され、後に石造りに改築されたノリッジ城(Norwich Castle)など、中世の息遣いが感じられる場所がたくさんある。また、グレードII指定のアール・ヌーヴォー様式で飾られた美しいショッピング・アーケードのザ・ロイヤル・アーケード(The Royal Arcade)など、後世に残したいさまざまな時代の建物に出合えるのも魅力。

行き方
ロンドンのLiverpool Street駅からNorwich駅まで約1時間45分

洗練された海上貿易の町 King’s Lynnキングズ・リン

Customs House

Customs House

12世紀にはすでにイングランドの主要な港の一つとして知られ、産業革命が終わるまで重要な海上貿易の拠点となっていた海事の町。「リン」という名前は、湖または池を意味するケルト語に由来していると考えられている。注目すべきは1683年に建造された川沿いに佇む税関(Customs House)。キングズ・リンが欧州の最先端を行く地であることを強調するため、ドリス式、イオニア式、コリント式の柱にキューポラやアーチを備えたさまざまな建築様式を融合させたデザインとなっている。また、現在はコンサート・ホールに改修されたかつてのトウモロコシ市場(King’s Lynn Corn Exchange)など、海外貿易時に使用されていた建物が残るほか、中世に作られた現存するギルドホールとしては最大規模を誇る聖ジョージズ・ギルドホール(St George’s Guildhall)がある。

行き方
ロンドンのKing’s Cross駅からKings Lynn駅まで約1時間50分

国立公園で自然と触れ合う The Broadsザ・ブローズ

Thurne Mill

Thurne Mill

ノーフォークとサフォークの間にあるザ・ブローズは、英国にある15の国立公園のうちの一つ。二つの州内の特定の地域を表すために、「ノーフォーク・ブローズ」(Norfolk Broads)、「サフォーク・ブローズ」(Suffolk Broads)と使い分けられているが、単にこの地域全体をノーフォーク・ブローズと呼ぶことも。かつて学者が「魂を癒やすための息抜きの空間」と表現したザ・ブローズには、アント川、ブレ川、チェット川、サーン川、ウェイヴニー川、ウェンサム川、ヤー川の七つの川が流れており、これらの川でカヌーやカヤック、セーリングなどが楽しめるほか、ウォーキングやサイクリングといったアクティビティーも充実している。美しい眺望はもちろんのこと、多くの野生動物に出合えるので、ゆったりとした時間を自然の中で過ごしたい人に特にお勧めしたい。

行き方
ロンドンのLiverpool Street駅からNorwich駅で乗り換え、Acle駅まで約2時間10分。駅から徒歩18分

18世紀に再建された町 Holtホルト

Byfords

Byfords

古英語で「森林」を意味するホルトが名前の由来といわれる町。1708年に発生した大火災によって中世の建物はほとんど焼失し、民家や教会なども甚大な被害を受けた。その後、当時流行していたジョージアン様式に建物が一新されたことで、同様式の街並みが統一された形で残されている。また、この火災から生き残り、現在はレストランと高級B&Bとして営業中の「バイフォーズ」(Byfords)の建物も見ることができる。隠れた小道を自分で発見するのも楽しいが、史跡を効率良く見て回るならフクロウの看板が目印のホルト・オウル・トレイルをたどってみよう。田舎の風景を満喫できるホルトとシェリンガム駅を蒸気機関車で結ぶノース・ノーフォーク鉄道(North Norfolk Railway)もお勧めで、鉄道の催行日ならシェリンガム駅からバスの代わりに利用するのも便利だ。

行き方
ロンドンのLiverpool Street駅からNorwich駅で乗り換え、Sheringham駅まで約3時間10分。同駅からバスで約15分

穏やかな雰囲気が広がる Suffolk
サフォーク

Lavenham / Suffolk

「南の民」を意味するサフォークは、田舎の美しい風景とビーチが広がり、農業で発展してきたエリアで、ゆったりとした休暇を求める人々に人気がある。アングロ・サクソン人の生活が分かる、考古学上の重要な発見があった場所として知られるほか、古くから記録に残る町が各地に点在している。また、この地域では「サフォーク・ピンク」と呼ばれるくすんだピンク色の外壁を持つ建物が多く見られる。
(写真:Lavenham / Suffolk)

新旧の建物に注目 Ipswichイプスウィッチ

Christchurch Mansion

Christchurch Mansion

オーウェル川の河口に位置する、イングランド最古の町の一つ。14〜17世紀には中欧、北欧の都市同盟であるハンザ同盟の拠点であり、かつては英国最大の港としてバルト海諸国への貿易に使用されていた。21世紀に入って町の再開発が進み、現在も大規模な建設工事が続けられている。町の中心部には1550年ごろに建てられたチューダー様式のレンガ造りの邸宅、クライストチャーチ・マンション(Christchurch Mansion)があり、1885年から博物館として市民を迎えてきた。画家ジョン・コンスタンブルやトーマス・ゲインズバラの絵画をはじめ、家具やおもちゃなどさまざまな展示がある。また、博物館周囲の公園も市民の憩いの場となっている。一方、ウォーターフロント・エリアにはサフォーク大学や高層ビル、新興住宅が立ち並び、歴史ある街並みとの対比が印象的だ。

行き方
ロンドンのLiverpool Street駅からIpswich駅まで約1時間5〜25分

チューダー様式の建物が並ぶ Lavenhamレイヴナム

The Crooked House

The Crooked House

サフォークの南西部にある15〜16世紀に羊毛貿易で繁栄した町。英国有数の裕福な町だったが、17世紀に安価な布地や衣類の普及に打撃を受け一気に衰退し、その後も家を建て替えるだけの資金がなかったため、1450〜1500年に建てられた家がそのままの姿で残っている稀有な場所だ。西部には、羊毛貿易での成功を裏付ける町の規模に不釣り合いなほど立派な1525年に建造された聖ペテロ &聖パウロ教会(Saint Peter and Saint Paul’s Church)があり、町は15分ほどあれば歩くことができる。また、チューダー朝時代に建てられたレイヴナム・ギルドホール(Lavenham Guildhall)は現在博物館として運営されている。ちなみに18世紀に詩人ジェーン・テイラーがここに住んでいたときに、童謡「きらきら星」の歌詞となった詩が生まれたと伝えられている。

行き方
ロンドンのLiverpool Street駅からColchester駅まで約50分、同駅からバスで約1時間20分。途中バスの乗り継ぎがある

アングロ・サクソン人の秘密を知る Woodbridgeウッドブリッジ

Woodbridge Tide Mill

Woodbridge Tide Mill

デベン川沿いにあり、「サフォークの宝石」と呼ばれている町。かわいらしい建物が並ぶ町中散策もお勧めだが、海岸沿いの、850年以上前に建てられ現在も稼働している潮力水車が見られるウッドブリッジ・タイド・ミル博物館(Woodbridge Tide Mill Museum)もぜひ訪れてみてほしい。また、この地域は6〜7世紀のアングロ・サクソンの遺跡、サットン・フー(Suton hoo)があることで有名。サットン・フーは独学で考古学を学んだバジル・ブラウンによって発掘されたアングロ・サクソンの王の船葬墓で、金銀や宝石でできたアクセサリー、儀式用のヘルメットなど、さまざまな副葬品が発掘され、英国の考古学上でも重要な発見となった。併設の博物館で発掘品の展示を見ることができるが、その中でも特に有名なヘルメットは大英博物館に寄贈されており、ここにはない。

行き方
ロンドンのLiverpool Street駅からIpswich駅で乗り換え、Woodbridge駅まで約1時間35分

農業で発展した東の拠点 Bury St Edmundsベリー・セント・エドマンズ

Bury St Edmunds Abbey

Bury St Edmunds Abbey

10世紀にアングロ・サクソン人によって形成され、ベリー・セント・エドマンズ修道院(Bury St Edmunds Abbey)を中心に発展した町。同修道院は1539年には役目を終えたが、当時は欧州で4番目に大きな修道院として重要な巡礼地だった。修道院がなくなった後は農業で発展し、現在も農業に関連する中世に建てられた建造物が残っている。町の中心部には1774年に新古典主義建築で建てられた劇場で現在はコミュニティー・スペースとして活用されているマーケット・クロス(Market Cross)や、1100年以上の歴史があるセント・エドマンズベリー大聖堂(St Edmundsbury Cathedral)などがある。また、パブ経営やビール醸造を行うグリーン・キングのウェストゲート醸造所(Westgate Brewery)ではビールの試飲ができるブリュワリー・ツアーを敢行している。

行き方
ロンドンのKing’s Cross駅からCambridge駅で乗り換え、Bury St Edmunds駅まで約1時間50分。Liverpool Street駅からもアクセス可

 
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