独断時評


難民受け入れに踏み切ったメルケル首相の英断

今ドイツに住む我々は、1989年のベルリンの壁崩壊にも匹敵する、歴史的な出来事を経験している。メルケル首相は、ハンガリーで足止めを食っていたシリアやイラクなどからの難民を、ドイツに受け入れることを発表したのだ。今年この国では、少なくとも80万人の外国人が亡命を申請すると予想されている。戦後最高の数である。

難民
ミュンヘン中央駅に到着したシリア難民たち(筆者撮影)

難民の顔に微笑みが戻った

私が住むミュンヘンの中央駅には、9月5日と6日の週末だけで約2万人の難民が到着した。ウィーンやブダペストからの長距離列車が着くたびに、リュックサックを背負った難民たちがプラットホームを埋める。彼らは、警官に守られて、駅の北側に向かう。

普段は、タクシーのたまり場になっている駅の北側の広場には、大きなテントが6個設置された。バイエルン州政府は、ここで難民の氏名などを登録する。難民受け入れゾーンは柵で仕切られているが、その外側には、数百人のミュンヘン市民が集まっている。彼らは、長旅で疲れ切ったシリア人たちを拍手で迎えた。「難民の皆さんを歓迎します」というプラカードが見える。花束を持ったドイツ人のお年寄りもいる。母親に手をひかれた難民の子どもに、ドイツ人がチョコレートや玩具を渡す。

ドイツ人から人形をもらった5歳くらいの少女が、嬉しそうな表情で飛び跳ねている。私は、このいたいけな少女が、戦場と化したシリアを脱出してミュンヘンにたどり着いたことを、心から嬉しく思った。柵越しに、難民の子どもを抱きしめる女性がいた。ドイツ人の拍手に対して、手を振って応える難民もいる。

私はこの時、1989年11月にベルリンの壁が崩壊した直後に見た光景を思い出した。当時西ベルリン市民たちは、徒歩や車で西側にやって来る東ドイツ人たちを拍手で迎えていた。当時の西ベルリンっ子たちは、東ドイツ人たちにビールやシャンペンを振る舞い、贈り物を渡した。この時の和やかな光景にそっくりだ。

登録を済ませてテントを出た難民たちは、駅の北側にずらりと並んだ送迎バスに次々と乗り込む。バスは、難民たちをバイエルン州内だけでなく、隣接した州に設けられた臨時の宿泊施設に運んでいく。

難民を歓迎する文化

私は、今回ドイツ人たちの難民に対する態度を間近に見て、感動した。今ドイツでは「Willkommenskultur」という言葉が流行っている。日本語では「歓迎する文化」だ。難民を拒否せず、温かく受け入れるという姿勢が、今ドイツ社会のメインストリームになっている。もちろん、ネオナチのように亡命申請者の宿舎に放火する愚か者もいるが、彼らは社会の主流派ではない。ドイツの決定は、超法規措置だ。EUが1997年に施行したダブリン協定によると、EU域外の国から来た難民は、最初に入ったEU加盟国で亡命を申請しなくてはならない。例えば、バルカン半島を経て欧州に入ったシリア人が最初に入る国はハンガリーである。このためこのシリア人は、本来ならばハンガリーで亡命申請手続きを取らなくてはならない。だがドイツは、ハンガリー政府が難民の受け入れに難色を示したことや、多くの難民がドイツ行きを希望している状況を見て、ドイツでの亡命申請を特別に認めたのだ。極めて寛容な措置である。

ドイツが難民の受け入れに積極的である背景には、ナチス・ドイツの暴虐に対する反省もある。ナチスはユダヤ人や周辺諸国の国民を徹底的に弾圧した。一部のユダヤ人や反体制派が生き延びることができたのは、スカンジナビア諸国やスイス、米国などが亡命申請者を受け入れたからである。例えば、1960年代から70年代に連邦首相を務めたヴィリー・ブラントは、ナチスに対する抵抗活動を行っていたため迫害されたが、ノルウェーに亡命し、一命を取り留めた。

ナチス時代の経験を教訓として、戦争や政治的迫害に苦しむ市民に手を差し伸べるというのが、ドイツの「理念」の1つなのだ。ドイツが受け入れている難民の数は、英仏に比べるとはるかに多い。今年6月にドイツが3万5000人の難民を受け入れたのに対し、英国は3000人、フランスは5600人である。

国家エゴよりも人道主義を優先したドイツ

もちろん、80万人もの難民を受け入れることは、豊かな国ドイツにとっても大変な負担だ。州政府からは、「もはや難民を泊まらせるところがない。我々は限界に近づきつつある」という悲鳴が聞こえてくる。連邦政府は、9月7日に難民対策のための予算を60億ユーロ(8400億円・1ユーロ=140円換算)増額することを決定した。欧州でドイツほど多くの難民を受け入れ、彼らを助けるためにドイツほど多額の予算をつぎ込んでいる国は、ほかに1つもない。

そこには、国家エゴよりも人道主義という公共利益を重視する、戦後のドイツ政府の基本方針が反映している。私は今年7月に上梓した「日本とドイツ ふたつの戦後」(集英社新書)の中で、戦後ドイツがナチス時代への反省から、モラル(道徳)と倫理性を重視する国になったと主張した。今回の難民危機でドイツが見せた態度にも、そのことがはっきりと表れている。

もちろん、ドイツは大変な試練を抱え込んだ。ゼロから異国での生活を始める難民たちの前にも多くの苦難が待ち受けている。それでも私は、予算や法律よりも人命救助を優先したメルケル首相の決断を、この国に住む一市民として、誇りに思う。

18 September 2015 Nr.1010

最終更新 Montag, 19 September 2016 12:59
 

亡命申請者急増とネオナチの暴挙

8月21日の夜、ザクセン州のハイデナウに、約120人の亡命申請者がバスで到着した。彼らが寝泊まりするのは、空き家になっていた建築資材店である。すると約150人の極右勢力がこの施設前に集まり、彼らを罵倒し、警備中の警察官には石を投げつけた。

メルケル首相の対応に遅れ

極右勢力は翌日夜にも、この施設を攻撃。警官隊は催涙ガスを使って暴徒を追い払い、難民収容施設の周辺を立ち入り禁止区域に指定しなくてはならなくなった。この事件で警察官30人余りが負傷したが、ネオナチ関係者は1人しか逮捕されていない。ザクセン州警察が直ちに現場の警察官を増員せず、暴徒を厳しく取り締まらなかったことについて批難されている。

亡命申請者の数が急増する中、1990年代と同じように極右勢力が過激な活動に走り始めている。しかし、それに対する政府の動きは後手に回っており、ハイデナウの事件をめぐっては、ドイツ国内でメルケル首相の対応の遅さを批判する声が高まっている。

メルケル氏は、難民収容施設の前で暴動が起きたことが報道されても、極右勢力を糾弾する声明を直ちに発表しなかった。首相が「ハイデナウの事件はドイツの恥だ」と発言したのは、事件から3日経った8月24日のことである。さらに、報道機関などから「メルケル首相の対応が遅い」という指摘が高まったため、首相は26日になってようやく現地を視察した。

23年前にも同じ状況

私も、政府の対応は遅かったと思っている。この国の治安当局者は、事態のエスカレートを十分予測できたはずだ。なぜなら、ドイツでの亡命申請者の増加に伴い、極右の暴力行為が増えたのは、今回が初めてではないからだ。

憲法擁護庁によると、ドイツの極右勢力の数は約2万人。人口の約0.03%に過ぎない。しかし、数は少なくても、極右勢力は外国人にとって危険な存在だ。

欧州を分断していた「鉄のカーテン」が崩壊し、ドイツ政府が統一とともに国境検査を緩和した結果、ルーマニアなど東欧からの亡命申請者が急激に押し寄せた。1992年には、約44万人がドイツに亡命を申請している。そういった時代背景にあった90年代の初めに、極右の暴力の嵐は吹き荒れたのだ。

極右勢力は、亡命申請者が増えたことを口実に、外国人に対する襲撃を開始。特に旧東独のロストックでは、極右勢力が亡命申請者の収容施設に放火、投石し、周辺の住民が喝采を送る模様がテレビで放映された。そのほかの町でも、難民収容施設が暴徒に襲撃され、92年11月には、旧西独のメルンで極右の若者がトルコ人の家族が住む家に放火し、女性と子ども3人が焼死。93年6月にも旧西独のゾーリンゲンで、極右思想を持つドイツ人が民家に火をつけ、トルコ人の女性と子ども5人が死亡した。92年に極右勢力が引き起こした暴力事件の数は、90年の8倍となる2285件にまで増加。ネオナチによる暴力によって、外国人ら17人が殺害された。

メルケル政権は、92年と93年の状況を考えれば、亡命申請者の急増が極右による暴力を活発化させるという事態を十分予測できたはずなのだ。ネオナチは、外国人の急増についてドイツ市民が抱く不安や懸念を利用して、外国人排斥の思想を広めようとする。

外国人排斥運動と現体制への不満

なぜ旧東独では、極右による暴力が後を絶たないのか。旧東独は統一から約25年経った今でも、経済的に自立できず、納税者が支払う「連帯税」によって支えられている。旧東独に本社を持つ企業は少なく、失業率は西側よりも高い。優秀な若者は、どんどん旧西独に移住している。ザクセン州の人口は、東西が再統一した1990年以来、約100万人も減った。人口減少には、今でも歯止めがかかっていない。東ドイツでは、国営企業や役所を中心とした集団主義が社会の根幹だったが、ドイツ統一によって、そうした社会構造が崩壊し、「自分は負け組になった」と感じている人は少なくない。

また、旧東独では外国人の比率は約2%で、西側に比べるとはるかに低い。90年以前に東ドイツを支配していた社会主義政権は、ナチス時代の過去と批判的に対決する教育を、西ドイツほど徹底的に行わなかった。このため旧東独では、外国人に対する偏見が西側よりも強いのだ。旧東独には、ネオナチ政党「ドイツ国家民主党(NPD)」が地方自治体の選挙で約20%の得票率を記録する場所すらある。つまり一部の旧東独人は、外国人排斥という、政府および社会の主流派にとって最も不快な運動を展開することで不満をぶちまけ、現体制に対する抗議活動を行っているのだ。

2014年10月には、旧東独のドレスデンで、「西洋のイスラム化に反対する愛国的な欧州人たち(PEGIDA)」という市民団体が結成され、一時は約2万人がデモに参加した。PEGIDAには極右関係者が深く関わっていたが、メルケル政権は当初この団体を厳しく糾弾しなかった。今年、ドイツでは約80万人の外国人が亡命を申請すると予想されている。1992年の1.8倍だ。欧州連合域内で亡命を申請する外国人の約43%が、ドイツに集中している。市町村からは、連邦政府に援助を求める声が強まっている。

外国人問題の舵取りを誤ると、メルケル氏に対する逆風が強まるかもしれない。連邦政府は亡命申請者対策のための予算を増やし、人員も増強するべきだ。

4 September 2015 Nr.1009

最終更新 Donnerstag, 20 April 2017 10:39
 

敗戦から70年目の日本と安保法制をめぐる議論

今から70年前の夏、日本とドイツは第2次世界大戦に破れ、主要な都市は連合軍の爆撃によって焦土と化していた。どちらの国も、勤勉さと物作りに強い土壌を生かして奇跡的な経済復興を果たし、今日、世界経済の中で重要な役割を演じる大国となった。

国会議事堂
東京都千代田区永田町にある国会議事堂

日独間の大きな違い

だが、敗戦から70年目の今年、2つの国が置かれた政治的な状況は大きく異なる。欧州連合(EU)の事実上のリーダーとなった。債務危機で意見の対立が尖鋭化したギリシャを除けば、ドイツは第2次世界大戦でナチス・ドイツが被害を与えた国から、一定の信頼を回復することに成功した。ウクライナ危機をきっかけに、ロシアとEUの関係が悪化する中、バルト三国やポーランドはドイツに対し、安全保障の面でも現在より大きな役割を果たすよう期待を寄せている。

これに対し、東アジアでは今なお緊張が続く。日本では集団的自衛権の行使を可能にする安全保障法制についての議論が行われた。7月15日には、衆議院特別委員会で自民党が安保法制に関する野党との議論を一方的に打ち切り、強行採決。法案は衆院本会議で可決された。

「戦後レジーム」からの脱却

戦後70年目に、集団的自衛権をめぐる議論が白熱していることには、歴史の巡り合わせを感じる。安倍首相が目指すのは、1945年に戦勝国から押し付けられた「戦後レジーム」、つまりポツダム体制からの脱却である。彼は「安全保障に関する自己負担」を増やすことによって、米国との協力関係を緊密にすることを狙っている。

この戦後レジームは、東西冷戦が続いていた間は、日本を超大国である米国の核の傘の下に保護し、日本が「国際政治では小人、経済では巨人」という道を歩むことを可能にした。日本経済は朝鮮戦争による特需で潤い、戦後は巨額の防衛予算や徴兵制を持つことなく、GDPの拡大に集中することができた。

だが東西冷戦が終わって、アジアの安全保障をめぐる状況は大きく変わりつつある。米国はアフガニスタンとイラクでの戦争に疲弊し、「世界の警察官」の役割を演じられなくなった。同国は巨額の公的債務と財政赤字を抱え、冷戦時代のように防衛に巨額の予算を投じることが難しくなりつつある。「民主主義を守るために外国に軍を送り、独裁者や非民主主義国と戦う」というスローガンは、もはや米国市民に理解されない。

米国が内向きになりつつある今、安倍首相は東アジアの将来に強い懸念を抱いている。その最大の焦点は、中国の軍備拡張と北朝鮮の動向である。一党独裁の政治体制を持つ中国は、議会制民主主義の国ではない。しかし、その国内総生産が米国を追い抜くのは、それほど遠い将来のことではない。過去において中国は、常に北方からの脅威に備えなくてはならなかった。そのことは、万里の長城や中ソ対立を見れば歴然とする。しかし、今や中国はロシアと友好関係を結ぶことに成功し、初めて北からの脅威を気にせずに「海洋国家」として南に進出することが可能となった。

中国と日本の最大の対立点である尖閣諸島問題、さらに中国が南沙諸島の暗礁を埋め立て、軍事基地を建設してフィリピンと対立している問題は、中国が海洋国家への関心を強めていることの表れである。日本政府は米国から、「軍事貢献を増やさなければ、米国は東アジアへの関与を減らす」と言われているのだろう。

強行採決が残したもの

現在、日本で安保法制が批判される最大の理由は、その手続きにある。集団的自衛権の行使は、戦後の防衛政策を根本的に変える問題だ。さらに国民、特に自衛隊員の生命と安全に直接関わる問題である。こうした重要な問題については、国民投票という形を取って議論を尽くすべきだった。政府による一方的な解釈変更、そして強行採決という強引なやり方は、「安倍政権は市民の懸念を無視した」という苦い後味を残した。首相自身、「集団的自衛権について国民の理解が十分深まったとは思えない」という感想を語っている。「集団的自衛権の行使は憲法違反だ」という意見は、市民だけでなく憲法学者の間でも上がっている。

ドイツは、過去50回以上にわたって憲法を改正してきた。彼らは、憲法が現実政治から乖離している状態を受け入れられないのだ。少なくとも、法律や裁判の結果などについて、連邦憲法裁判所からお墨付きを得ようとする。ドイツが集団安全保障の原則に基づいて武力行使を行う前提条件は、国連安全保障理事会の決議と、連邦議会の承認である。ドイツは1995年から2004年まで、国連決議に基づき、ボスニア・ヘルツェゴビナの停戦を監視する平和維持軍に参加した。

21世紀になると、ドイツは第2次世界大戦後初めて、本格的な地上戦に参加した。2001年に米国がアルカイダによる同時多発テロに襲われたため、北大西洋条約機構(NATO)は初めて「集団安全保障体制」に基づく防衛措置を発動。ドイツは2002年からアフガニスタンに地上軍を派遣し、タリバンと戦った。ドイツ連邦軍はアフガニスタンに約5000人の将兵を駐屯させ、55人が戦死した。ドイツにはこのことを問題視する動きはない。

もしも、ドイツ政府が安全保障に関する議論で、7月に起きた強行採決のような態度を取ったら、有権者が次の選挙で罰するだろう。日独間の、民主主義に関する態度の違いを強く感じざるを得ない。

21 August 2015 Nr.1008

最終更新 Montag, 19 September 2016 13:00
 

ギリシャ危機は終わらない

7月上旬の12日間、世界経済は再び欧州の小国ギリシャに振り回された。日本の新聞やテレビでも、ギリシャ危機がトップニュースとして扱われた。

•事実上の支払い不能状態

ギリシャ政府の過重債務が表面化した2009年末以来、ドイツをはじめとするユーロ圏加盟国はギリシャ救済に取り組んできた。しかし、ギリシャの債務をめぐる今回の危機は、過去5年間で最も深刻な事態を迎えた。ギリシャ政府がほかのユーロ圏加盟国が求めていた緊縮策や経済改革の実行を約束しなかったため、6月30日の深夜にギリシャへの第2次救済プログラムは失効した。このため、ギリシャ政府は6月30日までに国際通貨基金(IMF)に返済するべきだった債務約15億4000万ユーロ(2156億円、1ユーロ=140円換算)を返すことができなかった。これは、ギリシャが事実上の債務不履行状態(デフォルト)に陥ったことを意味した。IMFや格付け機関は、デフォルトを直ちに宣言しなかったが、ユーロ圏加盟国がIMFの債務返済を延滞したのは初めてのこと。

ギリシャのチプラス首相は、「緊縮策を受け入れるか否かについて、7月5日に国民投票を行う」と一方的に宣言。ドイツのメルケル首相や欧州委員会のユンケル委員長は、国民投票についてチプラス首相から事前に知らされておらず、「ギリシャ政府に対する信頼は完全に失われた」と強い口調で同国を批判した。

7月5日の国民投票では、ギリシャの有権者の61%が緊縮策を拒否した。これによって、ギリシャが正式にIMFなどからデフォルトを宣言され、ユーロ圏から脱退する可能性が一段と高くなった。ドイツのショイブレ財務相は、ギリシャ経済が回復するまで、少なくとも5年間はユーロ圏から離脱することを盛り込んだ提案を準備していた。当時ギリシャの財務相だったバルファキス氏も、ユーロと並行して旧通貨ドラクマを流通させる計画を密かに検討していた。

ギリシャで発行された2ユーロ硬貨
ギリシャで発行された2ユーロ硬貨

•銀行倒産の危機

ギリシャ政府の金庫は当時、実質的に空っぽの状態となり、ギリシャの銀行は、欧州中央銀行(ECB)の「緊急流動性援助(Emergency Liquidity Assistance=ELA)という短期融資によって、かろうじて生き長らえている状態だった。もしもECBがこの融資を停止したら、ギリシャの銀行は倒産することが確実だった。

このため、チプラス政権は6月28日に「資本移動規制」を発動し、市民や企業に外国への資金の持ち出しや振り込みを禁止し、さらに6月29日から1週間にわたり国内の銀行を休業させた。市民が銀行から預金を引き出す額も、1日につき60ユーロ(8400円)に制限した。

窮地に追い込まれたギリシャ政府は7月8日、ユーロ圏の緊急融資機関ESM(欧州安定メカニズム)に対し、第3次救援プログラムの発動を申請した。同国は正式な破綻を免れるために、ESMに対し3年間にわたって535億ユーロの融資を求めたのだ。だが、ほかのユーロ圏諸国は、チプラス政権が緊縮策や経済改革を実行することを確約しない限り、融資を行わないという態度を強調した。

このためチプラス政権は、国民が緊縮策に対して「ノー」と言ったにもかかわらず、部分的に債権国側の要求を受け入れた。7月9日、チプラス政権は欧州委員会に対し、緊縮策や経済改革を網羅した13ページの文書を提出。同政権は、国営企業の民営化や公的年金の受給開始年齢の67歳への引き上げ、観光業界に対する税制上の優遇措置の廃止、軍事予算の削減などを約束した。

7月12日、ユーロ圏加盟国の首脳は17時間にわたる緊急会議の結果、ギリシャが緊縮策と経済改革を実行することを条件に、第3次救援プログラムの発動を決定。ギリシャは最高860億ユーロ(12兆400億円)の追加融資を受けられることになった。

•ギリシャは債務を返せるのか?

この合意により、ギリシャのユーロ圏離脱の危機は当面遠のいた。だが私は、ギリシャ危機が終わったと考えるのは早過ぎると思う。この5年間、ギリシャ政府は何回も似たような緊縮策を約束し、部分的に法制化したものの、労働組合などの反対を受けて実行できていない。

これまで、ユーロ圏加盟諸国はギリシャに対して2400億ユーロ(33兆6000億円)の融資を与えたほか、2012年には民間の投資家の債権1070億ユーロを減免した。それにもかかわらず、ギリシャの公的債務残高の国内総生産に対する比率は、2010年の148%から2014年には175%に増加した。

フライブルク大学のL・フェルト教授は、7月14日付けの日刊紙フランクフルター・アルゲマイネ(FAZ)で、「ギリシャのチプラス政権は、ほかのユーロ圏加盟国の信頼を失った。このため、今後、同国が経済改革を実行するかどうか、慎重に見極める必要がある」と発言。

また、ドイツ連邦政府の経済諮問委員会を率いるC・シュミット委員長も、「ギリシャはまず、合意文書の内容を実行するためのメカニズムが機能するかどうかを、他国に証明しなくてはならない。ギリシャ政府が、今回の合意を実行できるかどうかについては、懐疑的にならざるを得ない」という慎重な見方を示した。

同国をめぐる危機は、まだ終わっていない。今後ユーロ圏加盟諸国は、数10年間にわたってギリシャを支援することを迫られるかもしれない。

7 August 2015 Nr.1007

最終更新 Montag, 19 September 2016 13:10
 

なぜドイツはサービス砂漠なのか?

私は毎年、少なくとも1度は日本に出張するが、その度に手厚いサービスを受けて感激する。

東京のあるホテルでは、ズボンのファスナーが壊れたため、「修理してくれる店を教えてくれませんか」と尋ねると、頼んでもいないのに無料で直してくれた。

日本の新幹線が、折り返し運転のために終着駅に停車する時間はわずか12分。その間、清掃チームはたった7分で掃除を終えるという。車内は、7分の清掃とは思えないほど清潔になる。日本のサービスの質の高さを象徴する早業である。

ある和菓子屋では、買った商品を紙袋に包んで手提げ袋に入れてくれるだけでなく、店員がわざわざカウンターの奥から店の前まで出て来て客に手提げ袋を手渡し、店先まで見送りをしてくれる。雨が降っているときには、紙の手提げ袋にビニール袋までかけてくれる。理髪店や美容院の中には、コーヒーや肩揉みをサービスする店もある。

ベルリンのカフェ
ベルリンのカフェの様子

•ドイツ人もサービスの悪さに驚く

読者の皆さんの中には、「おもてなし」を世界に誇る日本からドイツに来られて、商店などでの顧客サービスの悪さに強いショックを受けられた方もいらっしゃるのではないだろうか。

「サービス砂漠・ドイツ」に悩んでいるのは、われわれ日本人だけではない。私の知人で日本に長年勤務したドイツ人は、故郷に戻って来た直後、パン屋の店員の態度の悪さにショックを受けたという。彼は、日本の店員の丁寧な接客態度に慣れてしまっていたのである。あるレストランでは、食事をしながら日本から来た知人と話をしていたら、「食べ終わった後の皿を渡してくれ」とウエイトレスから指図された。レストランなどでナイフとフォークを平行に揃えておくことは、「食事が終わった」というサインだが、このウエイトレスはそのルールも知らなかった。

なぜドイツ人はサービスが不得意なのだろう。ドイツ語でサービスはDienstまたはDienstleistung だが、この言葉はdienen、つまり、誰かに仕えるという動詞からきている。dienenというドイツ語には、従属的な語感がある。自分が他者に対して、低い地位にいるような印象を与える。つまり、個人主義と独立性を重んじるドイツ人にとっては、イメージの悪い言葉だ。

したがって、ドイツではサービスが無料ではない。この国の企業や商店は、サービスを提供するためのコストを常に考慮する。サービスに掛かる費用が、収益に比べて高くなり過ぎると判断された場合には、サービスは提供しない。これは、日本とドイツの商習慣の最も大きな違いの1つだ。

もう1つ、サービス砂漠を象徴するものは、商店の営業時間の短さだ。これは「閉店法」という法律によるものだが、ドイツに初めてやって来た日本人の多くは、ほとんどの商店が日曜日や祝日に閉まっていることに戸惑う。日本では、コンビニエンス・ストアだけではなく、スーパーマーケットやデパートの中にも夜間営業を行う店が増えているが、ドイツでは考えられないことだ。

日本人は、「休日は多くの市民が買い物をする時間があるのだから、店を開けておけば売り上げが増えるではないか」と思うだろう。しかしドイツでは、週末に店を開けて売り上げを伸ばすよりも、休みを優先させる。「オフィスで働くサラリーマンだけではなく、商店で働く人々にも、家族との時間を楽しむ権利を保証するべき」という意見が有力だ。

•価格を抑えるためにサービスを節約?

一方で、ドイツの物価は日本に比べると割安である。その理由には、サービスを省略しているということもあるだろう。ドイツの商店やホテルが、日本のような、かゆいところに手が届くようなサービスを提供できない背景には、人件費が高いゆえに効率的に仕事をさせなくてはならないという事情がある。もしも、ドイツのホテルや商店で日本並みの水準のサービスを要求したら、請求書の金額はより高くなるだろう。

例えばドイツには、サービスは悪いが、割安なホテルがたくさんある。税金や社会保険料のために、ドイツの可処分所得は日本よりも低いので、市民にとっては細かいサービスよりも、安いことの方が重要なのだ。

ドイツのスーパーマーケットには、日本のように丁寧な態度をとる店員はめったにいない。あるスーパーでは、店員が商品を補充するために、品物を満載した運搬カートを通路のど真ん中に置いていた。カートが邪魔で客が通れなくて困っていても、店員はそ知らぬ顔である。ドイツの店員は、こうした点について全く気が利かない。

その代わり、この国の牛乳やヨーグルト、バター、パンなどの食料品の価格は、かなり安い。多数の安売りスーパーが激烈な価格競争を繰り広げていることも理由だが、ドイツの消費者が、良いサービスを商店やホテル、飲食店に期待せず、むしろ価格の安さを重視することが背景にある。ここに、「名を捨てて実を取る」というドイツ人の国民性が反映されている。サービスが行き届かないことに慣れてしまっていることが、ドイツのサービス砂漠がなかなか改善されない原因の1つである。

ただし、私がドイツに来た1990年頃に比べると、ドイツのサービスもやや改善した。営業時間の延長などはその1例である。顧客が気持ち良く買い物できるように、値段だけでなくサービスにも配慮してもらいたいものだ。

17 Juli 2015 Nr.1006

最終更新 Montag, 19 September 2016 13:09
 

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