独断時評


独仏和解に想う


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ドイツとフランスは約60年前、犬猿の仲だった。両国民は普仏戦争、第1次世界大戦、第2次世界大戦で殺し合い、お互いに深い憎しみを抱いていた。

だが今年11月にベルリンとパリで行われた2つの式典は、両国の間の結び付きがいかに深くなっているかを浮き彫りにした。フランスのサルコジ大統領は11月9日にベルリンで行われた壁崩壊20周年を祝う式典で、「Wir sind alle Brüder, wir sind Berliner (我々はみんな兄弟だ。我々はベルリン市民だ)」とドイツ語で語り、ドイツ人にエールを送った。彼はフェイスブックの自身のページに、1989年11月にベルリンの壁の前に立っている自分の写真を掲載し、壁が崩壊した直後のベルリンにいたことを強調している。当時フランス政府がドイツ統一について批判的だったことなど、忘れたかのようである。

一方メルケル首相は、11月11日にパリで開かれた第1次世界大戦の対独戦勝記念式典に、ドイツの首相として初めて参加した。この日はアルミスティスと呼ばれるフランスの祝日だが、昨年第1次世界大戦に従軍した最後の生き残りが死去したため、従軍兵士が参加しない初めての式典となった。

サルコジ大統領は、「戦争の惨禍を忘れることは決してない」としながらも、この祝日が将来は仏独の宥和を強調するものに変わるべきだとも主張。彼はこの日を「仏独友好の日」に変えることを希望している(国内には国防省を中心に反対意見も根強い)。

メルケル首相は、「起きてしまった悲劇を否定することはできない。しかし、独仏の間には宥和しようとする力がある」と述べ、未来に目を向けたフランス政府の姿勢に感謝した。彼女はフランス語で「Vive la France, vive l'Allemagne, vive l'amitiéfrancoallemande( フランス万歳、ドイツ万歳、仏独の友好関係、万歳)」と発言し、聴衆の拍手を浴びた。

1998年に当時のシュレーダー首相が、当時フランス大統領だったシラク氏から第1次世界大戦終結80周年の式典に招かれた時、参加を断ったことを考ると、今回の式典は両国の和解が一層深まったことを示すと言えるだろう。

かつての宿敵は、過去半世紀にわたって恩讐を乗り越えるために、様々な努力を続けてきた。ドイツとフランスの間では、若者たちにお互いの国を訪問させて理解を深めさせる交流プロジェクト(Deutsch- Französisches Jugendwerk)が何十年も前から行われている。両国は独仏合同旅団という共同の戦闘部隊も持っている。また2つの国の間には、同じ番組をドイツ語とフランス語で放送するARTEという公共放送局もある。独仏の学者が執筆した共同の歴史教科書も出版されている。さらに現在フランスとドイツは、両国政府間の情報交換をこれまで以上に緊密にするために共通のフランス・ドイツ担当大臣というポストを設けることまで検討している。

私は今回の式典の映像を見て、1984年にコール首相とミッテラン大統領(ともに当時)が第1次世界大戦の激戦地ベルダンで手をつないで戦死者を追悼している写真を思い出した。サルコジ氏とメルケル氏という次の世代も独仏和解の精神を確実に受け継いでいる。血と涙に彩られることが多かった欧州の歴史の中で、希望の光を投げかける1ページである。

日本はいつの日か、かつてのアジアの交戦国と独仏ほど深い友好関係を結ぶことができるだろうか?

11 Dezember 2009 Nr. 795

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 10:53
 

大型減税は実現できるか?


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スタートを切ったばかりの保守中道政権の内部で、早くも深刻な不協和音が響き始めている。CDU・CSU(キリスト教民主・社会同盟)とFDP(自由民主党)は、連立合意書の中で240億ユーロ(3兆2400億円)に上る減税を実行すると確約した。国民の税負担を減らすことによって可処分所得を増やし、冷え込んでいる内需を拡大するためである。

私は常々、「金融危機と不況のために政府が膨大な財政赤字を抱えているのに、本当にこれだけの規模の減税を行えるのだろうか」と不思議に思っていた。新政権で財務大臣に就任したヴォルフガング・ショイブレ氏(CDU)も同じ意見のようで、「国の金庫は空なのだから、2013年まで大規模な減税はあり得ない」と断言した。

ショイブレ大臣が大型減税を否定したことは、発足からわずか1カ月足らずの間に、閣内で深刻な意見の対立が生じたことを示している。特にFDPのギド・ヴェスターヴェレ党首は、面目をつぶされたようなものだ。彼は大幅な減税を約束したために連邦議会選挙の勝者となり、政権に参加することができたからである。FDPの支持者には、企業経営者や自営業者が多いが、彼らは「大型減税は選挙に勝つための口約束にすぎなかったのか」と大いに失望するだろう。

ショイブレ氏に援護射撃をするかのように、政府の諮問機関である経済専門家評議会は、11月に発表した経済情勢についての報告書の中で、「財政赤字と公共債務を減らす努力を始めるべきだ」と提言している。

この報告書の中で経済学者たちは、「メルケル政権が今後4年間に取り組むべき最大の課題は財政赤字の削減である。そのためには歳出を少なくとも370億ユーロ(4兆9950億円)減らす必要がある」と主張している。

ユーロ圏に加盟している国は、財政赤字の国内総生産(GDP)に対する比率を、3%未満に抑えることを義務付けられている。2009年にはドイツの財政赤字比率は3%ぴったりだったが、2010年には5.1%と大幅に増えると予想されている。

また報告書では、「来年の失業者数が今年よりも50万人増え、400万人に近づく」と予想されている。失業率の上昇は税収を減らし、地方自治体の負担を増加させる。

ドイツは今年、金融危機と不況の影響で、マイナス5%という史上最悪の経済成長率を記録した。来年は1.6%とプラスに転じると予想されているが、回復基調はまだ弱々しい。米国の不動産バブル崩壊によって、銀行のバランスシートに刻み込まれた深い傷はまだ癒えていない。こう考えると、メルケル政権に減税の余裕がないことは火を見るよりも明らかだ。公約通り減税を実現するただ1つの道は、国債を増発して借金でまかなうことだ。メルケル首相は、「経済状況はまだ不安定だ」として、公共債務を増やす方針を示唆しているが、経済学者の間では借金をしながら減税をすることについて強い批判が出ている。

特に、政府が財政赤字と公共債務の削減について具体的なスケジュールを公表しないことは、大きな問題である。ほかのユーロ圏加盟国も同じように借金経営を続けていることは、ユーロの安定性に大きな影を落としかねない。メルケル政権は、国民を納得させるような政策を打ち出すことができるだろうか。

4 Dezember 2009 Nr. 794

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 10:53
 

ロベルト・エンケの死

11月10日の夕刻、ニーダーザクセン州の小さな町で、1人のサッカー選手が線路に横たわり鉄道自殺を遂げた。ロベルト・エンケ、32歳。ブンデスリーガだけでなく、ドイツ・ナショナル・チームでも活躍し、国民に人気があった名ゴールキーパーである。

このニュースはドイツ市民にとって、今年最も強いショックと悲しみを与えた出来事であろう。11月15日にハノーファーのサッカー競技場で行われた追悼式に4万人もの市民が参加したことは、ヒーローの死が人々に与えた衝撃を浮き彫りにしている。

エンケの死後、人々は彼が2003年からうつ病の治療を受けていたことを初めて知った。この事実を知っていたのは、家族と医師だけだった。エンケは「自分がうつ病であることが世間に知れたら、サッカー選手としての経歴は終わりだ」と思い込んでいたのである。このため彼は治療を受けている事実を世間に対して隠し通した。

妻や心理療法のセラピストである父親は、エンケを救うために必死の努力をした。「サッカーだけが人生ではない。ほかの事をやっても生きていけるではないか」という言葉も、追いつめられたエンケを救うことはできなかった。幼い娘が心臓病で亡くなったことも、彼の絶望感に追い打ちをかけた。

“Wir dachten halt auch, mit Liebe geht das. Aber man schafft es doch nicht immer.”(私たちは愛情があればうまくいくと思っていました。しかし、うまくいかないこともあるのです)という妻の言葉は、人々の涙を誘った。

ドイツではエンケの死をきっかけに、うつ病についての議論も活発に行われるようになった。この国では年間約400万人がうつ病に悩んでおり、その内、約4%が自ら死を選ぶといわれている。うつ病の患者が増える背景には、社会のプレッシャーの増大がある。学校や職場でも競争は激しくなる一方で、短時間で具体的な成果を出すことが求められる。ITの普及によって仕事の効率が高まったことは事実だが、勤労者のストレスは増大する傾向にあるのだ。

また、経済のグローバル化によって職場の安定感も失われ、いつリストラが行われるか、いつ自分の会社が他社に買収されるかわからない。先行きの不透明感は高まる一方だ。

ある医師は、「うつ病は特殊な病気ではなく、誰でもかかる可能性がある。したがって、そうした症状があることを隠さずに、治療を受けるべきだ」と言う。有名なスポーツ選手は映画スターと同じで、常にマスコミとファンから注目されている。「失敗してはいけない」「病気であることが知られてはならない」という重圧感が、エンケを袋小路に追い込んでいった可能性がある。彼は完全主義者だったのかもしれない。うつ病を防ぐには、「これに失敗しても別の道がある」「自分はこれができなくても、別のことは得意だ」という楽観的な気持ちを持つことも重要だ。問題に直面したら「これは自分への挑戦であり、必ず解決方法がある」と前向きに考えよう。

ドイツでは昨年、9331人が自殺した。日本では、1998年から毎年3万人を超える市民が自ら死を選んでいる。OECD(経済開発協力機構)加盟国の中で、日本の自殺率(10万人当たりの自殺者数)は最も高い。エンケを死に追い込んだプレッシャーは、すべての市民にとって他人事ではない。

27 November 2009 Nr. 793

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 10:54
 

ベルリンの壁崩壊20年(下)


©Toru Kumagai
ブランデンブルク門の前で行われたベルリンの壁崩壊20周年記念式典で、メルケル首相は居並ぶ各国の首脳たちを前に「1989年11月9日は、ドイツの現代史の中で最も幸運な日でした。ドイツを支援してくれた国々への感謝の心を忘れません」と述べた。

だが壁崩壊とドイツ統一がもたらしたのは、希望と喜びだけではなかった。1990年7月、当時首相だったコール氏は「東独経済は、やがて花咲く原野のように繁栄するでしょう」と予言した。だが統一から19年経った今でも、旧東独は経済的に自立しておらず、市民が毎月支払う連帯税によって支えられている。

社会主義時代の国営企業は閉鎖、もしくは民営化されたため、中高年の勤労者を中心に250万人が失業。ピーク時の2005年には旧東独の失業率が20.6%に達した。現在、失業率は改善に向かっているものの、それでも14.7%と西側の2倍近い。

旧東独では、賃金水準が旧西独の80%近くまで引き上げられたが、生産性は旧西独よりも大幅に低い。このため西側企業は、生産拠点を旧東独ではなく、人件費が安いポーランドやルーマニアなどの中東欧諸国に作る例が多いのだ。また、旧東独に本社を持つ企業は、旧西独に比べるとはるかに少ない。

旧東独の住民1人当たりの国内総生産(GDP)は、旧西独を31%も下回っている。連邦政府は毎年生み出される国内総生産の内、約5%を今も旧東独に注ぎ込み、その額は、2007年までに1兆1000億ユーロ(148兆5000億円・1ユーロ= 135円換算)に達している。これほどの金額を投入しているのに、いまだに東西間に大きな経済格差があるというのは、驚くべきことである。この結果、優秀でやる気のある旧東独の若者は、どんどん西側に移住している。旧東独が西側の水準に達するためには、まだ何十年もかかると見られているからだ。私の知り合いの中にも、ミュンヘンに来て人生を謳歌している旧東独人がたくさんいる。中には、東西統一直後にミュンヘンの大企業に入社し、平社員からまたたく間に出世して、取締役になった旧東独人もいる。

旧東独にとってこのような頭脳流出は深刻な問題だ。旧東独の人口は毎年減り続けており、平均年齢は高まる一方だ。私も旧東独で空き家が並ぶゴーストタウンのような町を見たことがある。現在のままでは、旧東独がイタリア南部のように、政府からの支援によって生き延びる過疎地域(メッツォジョルノ)になる恐れがあると指摘する経済学者もいる。

「花咲く原野」は実現しなかった。コール元首相も「自分の見通しは甘かった。社会主義時代の東独の経済状況は、西独政府が予想した以上にひどかった。企業の投資も思うように進まなかった」と述べて、予測が誤っていたことを認めている。ミュンヘンのIFO経済研究所のハンス・ヴェルナー・ズィン所長は、「統一は政治的には成功したが、経済的には失敗した」と断言した。

SED(社会主義ドイツ統一党)の流れをくむ左派政党リンケが現在、旧東独で高い支持率を得ている背景には、旧東独の人々が統一後のドイツに抱く不満がある。「心の中の壁」は取り除かれていないのだ。ドイツ人が20年前の壁崩壊の喜びを噛み締める気持ちは、理解できる。だが統一は決して完遂されたわけではなく、政府が取り組むべき課題はまだ残っている。(写真は筆者撮影)

20 November 2009 Nr. 792

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 10:54
 

ベルリンの壁崩壊20年(上)


©Foto:Toru Kumagai
1989年の11月、NHKのワシントン特派員だった私は、壁が崩壊した直後のベルリンに派遣された。寒風が吹き付けるポツダム広場では壁の一部が撤去され、東独市民たちが徒歩や車で次々に西ベルリンに入ってくる。人々がハンマーやのみで、町を長年にわたって分断していた壁を叩き、破片を集めている。涙を流しながら壁を叩いている女性もいる。時折ハンマーから飛び散る火花が、壁崩壊という歴史的な出来事を祝う花火のように見えた。ベルリン全体が異様な興奮に酔っていた。(写真は筆者撮影)

西独で80年代の初めに「壁が崩壊する」と言ったら、その人は笑い飛ばされ、夢想家扱いされたに違いない。東独の最高指導者ホーネッカーは、「壁は100年間持ち応える」と豪語していた。その壁があっけなく崩壊した。当時ドイツ人から最も頻繁に聞かれた言葉は「Wahnsinn!(とても信じられない、ありえない)」だった。

私は壁で分断されたベルリンを何度も訪れていた。89年にも8月に番組の取材のためにベルリンの壁の前でビデオ撮影を行ったばかりだった。それだけに、壁崩壊の衝撃はひとしお強かった。「ヨーロッパはこれから大きく変わる」。私は歴史が音を立てて動く現場を見て、こう確信した。

壁崩壊から1年足らずの間に東独は消滅し、当時首相だったコールは悲願のドイツ統一を実現する。分断の歴史にピリオドが打たれ、ドイツは国家主権を回復したのだ。コールが「自由の勝利」と呼ぶ統一がこれほど早く実現した裏には、様々な要素が働いている。

まず、ハンガリー政府が89年の夏にオーストリアに通じる鉄条網を切り、国境を開放して東独市民の亡命を許したことも、壁崩壊に繋がる重要な出来事だった。これ以降、多数の東独市民たちがハンガリーとチェコを通じて西側に亡命したことは、東独政府を弱体化させ、国内の不満を高める大きな原因となった。

さらに、ライプツィヒやドレスデンで東独市民が警察の弾圧を恐れずに、大規模なデモを繰り返したこと。彼らの勇気は社会主義政権を動揺させた。さらに市民が非暴力の姿勢を貫いたことも、無血革命が実現した理由の1つである。

また、当時ソ連の指導者が社会主義体制の改革を進めたゴルバチョフだったことも重要である。コールは回想録の中で「ベルリンの壁が崩壊したとき、武力衝突や流血は一切なかった。これは奇跡だ」と述べている。53年6月に東独の労働者たちが自由を求めて蜂起した時、ソ連軍は戦車を出動させて市民に発砲し、多数の死傷者が出た。このことを考えると、89年の東独革命で、ソ連が軍を出動させて市民を弾圧しなかったことは大きな幸いだった。ホーネッカーに批判的だったゴルバチョフは、暴力で東独政府を救おうとはしなかったのである。

一方で、当時米国の大統領だったブッシュ(父)が、西独政府の統一政策を強く支援したことも見逃せない。英仏など周辺諸国が統一に強い警戒感を持っていたのに対し、米国だけはコールを支持した。彼は今も敬意を込めてブッシュ氏を「私の友人」と呼んでいる。

だが、統一には影の面もある。ドイツ統一は政治的には成功したが、経済的には失敗した。次回はその点についてお伝えしよう。(この項続く)

13 November 2009 Nr. 791

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 10:55
 

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