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ミヒャエル・バラック

ミヒャエル・バラック Michael Ballack
1976年9月26日ザクセン州ゲアリッツ生まれ。英チェルシー所属のサッカー選手。
(写真 ©PETR DAVID JOSEK/AP/PA Photos)

最愛の女性ジモーネさんと事実婚を続けて9年。可愛い息子3人にも恵まれた。その彼女とついに7月15日、ミュンヘン近郊シュターンベルク湖畔にて正式に結婚。さらには教会でも終世の愛を誓い、ファンから盛大な祝福を受けた。

5歳からサッカーを始め、ケムニッツ市のスポーツ・ギムナジウムでアビトゥアを取得。1995年に同市のサッカークラブからプロの世界へ入った。巧みなヘディングで注目の選手になり、97年にカイザースラウターン、99年にバイヤー・レヴァークーゼン、2002年にバイエルン・ミュンヘンへと移籍。司令塔としての働きぶりから、指揮者カラヤンにちなんで「ヘルベルト」と呼ばれたことも。02、03、05年と年間最優秀選手に選ばれ、04年からはドイツ代表のキャプテンとして、若い選手たちをまとめている。

06年に英プレミアリーグのチェルシーへ移籍したのは、「(バイエルンの)ブンデスリーガ優勝には刺激を感じなくなり、新しい挑戦をしたかったから」。英国のサッカーに慣れた昨年に実力を発揮したが、チームはプレミアリーグ決勝、さらには欧州チャンピオンズリーグ決勝の双方でマンチェスター・ユナイテッドに惜敗。ドイツ代表として臨んだ今年の欧州選手権の決勝でもスペインに勝ちを譲って、今度は万年2位のジンクスに泣くことに。

今は10年の世界選手権優勝を心に誓う。理想のスポーツ選手は元F1ドライバーのミヒャエル・シューマッハー。彼のようにさらりと引退したいそうだ。

最終更新 Freitag, 02 September 2011 11:18
 

ロジャー・クッシュ

ロジャー・クッシュ Dr. Roger Kusch
1954年8月19日シュトゥットガルト生まれ。元CDU。元ハンブルク法務大臣。(写真 ©Bild:WDR/Ziebe)

「積極的な死のほう助」合法化を求め、自分の名前を冠した自殺ほう助協会を設立。6月末、重病ではないが死を望む79歳女性の自殺を実際にほう助し、世論を敵に回した。

2001年までは司法界の人だった。出発は故郷バーデン=ヴュルテンベルク州少年刑務所の司法官。やがてカールスルーエ少年裁判所の裁判官になり、連邦法務省に勤務後、シュトゥットガルト検察庁に入庁、00年には連邦最高裁の検事正に昇る。これで司法キャリア組の有望な未来は決まったようなものだった。

しかし転機が01年10月に訪れる。ハンブルクで新政権を樹立したオーレ・フォン=ボイスト(キリスト教民主同盟=CDU)市長に請われて法務大臣に就任し、強行な保守改革を始めたのだ。わざわざ米国アリゾナ州まで少年刑務所の視察に出かけ、帰国後、少年刑の廃止を要求。外国人犯罪者を即退去させる法改正も唱える。

こうした一連の提案は、当時連立を組んでいた新右派党の副市長ロナルド・シルも同調するものだったが、03年、市長と対立したシルの口から「フォン=ボイストとクッシュの関係の実態を明かす」との脅し文句が飛び出して、致し方なく同性愛のカミングアウト。以後、世論を騒がす挑発的なスタイルがこの人のキャラクターになった。

今回も死の責任を追求されると、「私はほう助を依頼された人物、殺人者ではない」と馬耳東風。尊厳死法の制定を話し合うきっかけを作ったことは事実だが、人物評価には赤信号が灯ったかもしれない。

最終更新 Freitag, 02 September 2011 11:18
 

グレゴール・ギジ

グレゴール・ギジ Gregor Gysi
1948年1月16日ベルリン生まれ。弁護士。左派党リンケ連邦議会議員団の団長。
写真 ©FRITZ REISS/AP/PA Photos

氏はシュタージ(旧東ドイツ諜報機関)に反体制分子ローベルト・ハーベマン(化学者)についての情報を意図的に流した── シュタージ文書解読機関のビアトラー長官が行ったこの発言は事実無根であるとして、5月22日に同発言を放送したZDF局を訴えたが、7月2日、ハンブルク地裁から却下されてしまい、大きな打撃を受けている。

曾祖母はロシア人貴族、ナチ時代を匿われて生き伸びた父クラウスは後に東ドイツ文化大臣、英国人である義理の伯母ドリス・レッシングは昨年のノーベル文学賞作家、実妹ガブリエレは女優と、親族にそうそうたる顔が並ぶ。

本人が有名になったのは、壁崩壊を直前にした1989年11月4日。東ドイツを内部から建て直そうとする左派グループ「新フォーラム」のベルリン集会で、自由選挙を要求した時だ。丸眼鏡をかけたユダヤ系の弁護士会会長(当時)は、その雄弁さでたちまちカリスマ的な政治家になった。SED(社会主義統一党)を改名したPDS(民主社会党)の党首に選ばれたのは、その直後。以後は短期の降板を除き、連邦政界に身を置いて いる。

シュタージのIM(非公式協力者)疑惑には何度も悩まされてきたが、否認と訴訟で対抗。1979年に密告されたとする故ハーベマンの次男ですら、「弁護人が依頼人のためにした情報操作をIM行為と言えるだろうか」と弁護する。しかしこれを監視体制における灰色の部分として社会が容認できるかどうか。意見の分かれるところだろう。

最終更新 Freitag, 02 September 2011 11:18
 

コニー・ライマンとその家族

コニー・ライマン Konny Reimann
機械整備工。生まれも育ちもハンブルク。2004年 7月に米テキサス州へ移民。
(写真 ©Vox/Dagmar Vetter}

ドイツ人家族の外国移住体験をソープなドキュメントで紹介するテレビ番組 「Goodbye Deutschland! Die Auswanderer」(VOX局)に初回シリーズから登場し、その楽天的な性格とドイツ的勤勉さ、かつ、いかにもプロレタリアート的な言動で人気を獲得。先月の番組枠では、この春3年半ぶりに訪れた故郷ハンブルクで街行く人々から声をかけられる様子まで放送され、スター並みの有名人になっている。

家族4人で米テキサス州Gainesvilleへ移住したのは2004年7月。妻マヌエラ(当時36歳)が抽選でグリーンカードを当てたからだった。テキサスの土地を踏んですぐ、当時49歳の機械整備工は空調会社に溶接工として就職。英語を覚えた妻もカジノに職を見つけ、高校に転入した娘と息子は友だちと交流を始める。これで移民の体験談は終わるはずだった。

ところが家長コニーはさらなる西部を追求。近くのモス湖岸に土地を購入し、自分で家を建て始めたのだ。その様子がテレビで放送されて物見遊山のドイツ人が私有地に入り込んでくると、それを逆手にゲストハウスの開設を企て、無給(宿泊食事付き)で建築に協力してくれるドイツ人職人を募集。その顛末まで放送されることになった。

故に、失敗した元移民からの嫉妬も強いが、「ただ待っていてもダメなのはドイツでも同じ」と一喝。「元手の資金がない人、これまでの生活と二股をかけたい人に移住は難しい」とも。空手の黒帯コニーはドイツを脱出したい人々の模範になった。

最終更新 Freitag, 02 September 2011 11:18
 

ゲジーネ・シュヴァン

ゲジーネ・シュヴァン Prof.Dr. Gesine Schwan
1943年5月22日ベルリン生まれ。政治学者。SPD党員。フランクフルト・アン・デア・オーデルのヴィアドリーナ欧州大学学長。
写真 ©Markus Schreiber/AP/PA Photos

来年5月の連邦大統領選挙に、先ごろ自ら立候補の名乗りを挙げ、躊躇する社会民主党(SPD)幹部を説得、党の独自候補として擁立されることになった。すでに再選出馬を表明したケーラー大統領に国民の85%が満足しているとの調査があっても、「見込みが全くなければ出ない」と笑顔で対応。左派党からの票を否定していないため、大連立を組むキリスト教民主・社会同盟(CDU/ CSU)からは警戒心、SPD党内からは戸惑いが起きている。

戦時下のベルリンに生まれ、西ベルリンで育ち、ナチス時代にユダヤ人少女を匿っていた父親から反独裁の意識を教えられた。ベルリン自由大学で政治学を学び、ワルシャワ大学に留学。以後、ポーランドの民主化闘争を支援し、現在もドイツと東欧・ロシアの青少年文化交流を推進している。

2004年に続く2度目の対立相手となる現職のケーラー大統領に対しては、尊大に構えない姿勢を高く評価しながらも、「大統領が具体的な国政に介入するのは間違いだし、危険ですらある」と批判。一方、自分に対する“饒舌家”の評には、短く話すこともできますよ、と高笑い。この笑顔と独特のヘアスタイルがトレードマークになった。

1989年に看取った夫アレクサンダー・シュヴァンは政治学教授、04年に再婚したペーター・アイゲンは汚職・腐敗防止のためのNGOトランスペアレンシー・インターナショナルの創始者、かつ法学教授。所詮象牙の塔の住人と言われても笑うだろうか。

最終更新 Freitag, 02 September 2011 11:18
 

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