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ベルリン国際映画祭:史上初のダブル受賞!映画「37セカンズ」HIKARI監督インタビュー

ベルリン国際映画祭70年史 社会とともに歩み続けるベルリナーレ

今年で第70回を迎える、ベルリン国際映画祭(ベルリナーレ)。社会派の作品が多く集まることで知られるこの映画祭では、これまでドイツや世界が直面する問題をさまざまな視点で切り取り、社会に対して問いを投げかけてきた。映画という「社会の鏡」を通して、私たちは未来に何を見出すことができるだろうか?ベルリナーレ70年の歩みを歴史とともに振り返ってみよう。(Text:編集部)

ベルリン国際映画祭で史上初のダブル受賞! 映画「37セカンズ」
HIKARI監督インタビュー

昨年のベルリン国際映画祭で史上初のダブル受賞を果たした映画「37セカンズ」が、ドイツをはじめ欧米で1月31日(金)からNetflixで配信、日本では2月7日(金)から劇場公開される。脚本・監督を務めたのは、米国・ロサンゼルスを拠点に活動するHIKARIさん。彼女が作品へ込める思い、そして映画を撮る理由を聞いた。

37セカンズ

HIKARIHIKARI 大阪市出身。脚本家、映画監督。幼少のころからミュージカルやオペラなどで舞台に立ち、18歳で単身渡米。女優、カメラマン、アーティストとして活躍後、南カリフォルニア大学院(USC)映画芸術学部にて映画・テレビ制作を学ぶ。現在はロサンゼルスを拠点に、精力的に活動している。https://www.hikarifilms.com

「障がい者の映画」ではなく「私の物語」

2019年2月。ベルリナーレのパノラマ部門に「37セカンズ」(作品紹介はP12)が出品され、ベルリンに滞在していたHIKARI監督。そこに、本作が「パノラマ観客賞」と「国際アートシアター連盟賞」を受賞したとの連絡があった。

「いやー、驚きましたね。これは、ほんまに私の人生変わるな、と。あれだけ飛び上がったことはないってくらい大喜びしました。それと同時に、この作品を受け入れてくれる人がいた、ということが本当にうれしくて。感謝しかなかったですね」

史上初のダブル受賞を成し遂げ、もともと5回の上映予定だったところ、最終的には9回上映された。チケットも毎回ソールドアウトに。上映後のQ&Aでは観客からさまざまな質問や感想を受けたが、そのなかで1番多かったのが「障がい者の映画だと思って構えてきたけど、全然違った」というコメントだった。

「ベルリナーレは社会的な問題を扱う映画祭ですし、本作は『障がい者』が主役の物語。いろんな意味で身構えている人が多かったと思います。でも、いざ映画が始まってみたら、みんな大笑いしていて。主人公・ユマはたまたま車イスに乗っているというだけで、私が描いたのは、ある1人の女性の冒険と成長。観客の方々はそのことを自然に受け止めてくれました」

上映中はところどころで大爆笑が起こるとともに、感動して涙を流す人も。ユマが精一杯自分の人生を歩もうとする姿は、「障がい者」という他者ではなく、多くの人の目に「自分の物語」として映ったのだ。

37セカンズベルリナーレを訪れたHIKARI監督(赤い服の方)とキャスト・スタッフの方々

やりたいことを全部やったら映画監督に

子どものころから「何かを表現したい、人を笑かしたい」という意思が強かったというHIKARI監督。高校3年生のときに女優を目指して単身渡米し、女優やカメラマン、音楽など、多彩なキャリアを積んだ。とにかく自分の勘を信じて、やりたいと思うことをやり続けてきたというHIKARI監督だったが、大学院の卒業制作である短編映画「Tsuyako」が数々の世界映画祭に招待されたことをきっかけに、「映画監督」としての人生に大きく舵を切ることに。

「『Tsuyako』は戦後間もない日本を舞台に、レズビアンの女性の恋愛を描いたもの。ある映画祭でこの作品を観た50代のイタリア人男性は、『僕はこれから母に、(自分がゲイであることを)カミングアウトしようと思う。ありがとう』と私に伝えてくれて。あぁ、この人は50年以上も待ってたんや。私の映画がこの人の人生をこれから変えていくんだ……と思ったときに、私がやるべきことはこれかもしれないと感じました」

そんなHIKARI監督が「37セカンズ」の着想を得たのは2015年ごろ。米国を訪れていた熊篠慶彦(くましのよしひこ)さん*1らとともにセックス・セラピストの女性医師へインタビューしたのがきっかけだ。インタビューを通して、女性は下半身不随でも自然分娩できることなどを知り、人間の身体や脳の働き、そして生まれてくる命の素晴らしさに感銘を受けたという。そこから、障がいのある女性やその家族などにインタビューを行ったり、自ら車イスをレンタルし、その生活を体感したりしながら、アイデアを膨らませていった。

*1 特定非営利活動法人ノアール理事長。出生時より脳性麻痺による四肢の痙性麻痺がある。障がい者の性に関する支援活動を精力的に行っている

映画に介在するリアル

それから3年ほど経ち、HIKARI監督はついにユマ役の佳山明(かやまめい)さんと出会う。当初はヒロインに健常者の俳優の起用を考えていたが、健常者が障がい者の役を演じることに疑問を抱き、一般オーディションを開催。100人近いヒロイン候補と面談し、その最後に現れたのが佳山さんだった。彼女がオーディションで冒頭のセリフを発した瞬間、HIKARI監督は「この子だ」と直感した。

「もともとは下半身不随の女の子が主人公で、物語としてもラブストーリーや性体験がメインでした。でも、明ちゃんは一見高校生かと思うほど見た目が若く、全然そういうものと結びつかない。すでに構想したストーリーのなかに無理やり彼女を入れ込むのではなく、彼女が生きるリアルを映像にしたいと思ったんです」

この出会いによって、脚本を大幅に修正。主人公の設定も、佳山さんと同じ脳性麻痺に変えた。タイトルの「37セカンズ」は、佳山さん自身の体験がもとになっている。また、熊篠さんが自身をモデルにした役で出演するなど、登場人物たちのリアルが幾重にも交差している。そうすることで現実とファンタジーの溝が埋められ、それぞれのシーンが有機的に繋がっていった。

37セカンズ

「見えない壁」を壊すこと

本作の特徴は、車イスの高さからのカメラワーク。観客は、ユマが普段見ている目線(=世界)を体感できる。さらにHIKARI監督は、ユマを美しく撮ることにこだわった。

「日本では障がい者と健常者の間に、どうしても隔たりのようなものがあると感じます。障がい者の人が静かに大人しく生きなきゃならない雰囲気を、周囲が作り出している。ユマの心の成長を美しく捉えることで、健常者と障がい者の間にある『見えない壁』を壊したかったんです」

HIKARI監督の本作への思いが実を結び、「37セカンズ」はベルリナーレでの受賞を皮切りに各国の映画祭で絶賛。現在、彼女のもとにはハリウッドからさまざまなオファーが舞い込んでいる。

「すでにいくつか走り出している作品がありますが、自分が監督・脚本をする作品では、ポジティブに生きようと思ってもらえるようなメッセージを込めたい。たくさん笑って、みんながハッピーに生きていける社会のための足掛かりになるような作品をつくっていきたいです」

そう語るHIKARI監督の笑顔は、明るいエネルギーと優しさに満ちていた。「恐れ」や「不安」のなかで立ち止まってしまいそうなとき、彼女の作品は私たちの手をぐっと引いて、一歩踏み出す勇気をくれるだろう。

37セカンズ

最終更新 Dienstag, 11 Februar 2020 02:58
 

ベートーヴェン生誕250周年記念 - 私たちが知らないベートーヴェンの素顔

ベートーヴェン生誕250周年記念 私たちが知らない
ベートーヴェンの素顔

2020年はベートーヴェンが誕生して250周年という記念年。ドイツのみならず世界中でこのベートーヴェンイヤーをお祝いしようと、すでに昨年から各地でコンサートやイベントが開催されている。この貴重な節目に、より多くの読者の方にベートーヴェンの魅力をお伝えすべく、ベートーヴェンの素顔に迫った。ベートーヴェンが作曲した9つの交響曲にちなみ、9つの逸話をご紹介するほか、影響を受けた人々の言葉を取り上げながら、ベートーヴェンがいかに神格化されてきたかを探る。(Text:編集部)

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
Ludwig van Beethoven
1770~1827

ハイドン、モーツァルトと並び、ウィーン古典派を代表する作曲家。宮廷音楽家ではなく、貴族から援助を受けてフリーランスとして活躍。聴覚を失うなどの苦難を克服し、傑作を数多く残した。その後現代に至るまで、多くの音楽家に影響を与え続けている。

ベートーヴェンの人生

*グレーの文字は世の中の動き

1770 12月16日ごろ、ボンに生まれる
1778 ケルンでコンサートデビューする
1786 ウィーンへ旅行し、モーツァルトのレッスンを受ける
1789 フランス革命が勃発する
1792 ウィーンへ移り、ハイドンの弟子になる
1794 フランス軍がボンを占領する
1796 プラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ベルリンへ演奏旅行
1799 フランス新政府樹立(フランス革命の終焉)
1802 ハイリゲンシュタットの遺書を書く
1804 ナポレオンが皇帝に即位する
1805 フランス軍がウィーンを占領する
1812 「不滅の恋人」に宛てた手紙を書く
1814 ウィーン会議が開かれる
1818 難聴のため完全に筆談となる
1824 交響曲第9番が初演される
1827 3月26日、ウィーンで亡くなる

ベートーヴェンの人生を知る9つのエピソード

神童、天才音楽家、苦悩の人……ベートーヴェンにどのようなイメージを抱いているだろうか。ここでは、ベートーヴェンの素顔に迫るため、彼の人生にまつわる9つの逸話を紹介する。これまで知らなかったベートーヴェンの一面が発見できるかも?

参考:Beethoven-Haus Bonn「Beethoven für Kinder」、ロマン・ロラン『ベートーヴェンの生涯』(岩波文庫)illustrations ©Sayuri Nakamura

1スパルタで酒癖の悪い父親に
育てられた「神童」

1770年12月16日ごろ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンはボンの宮廷音楽家のヨハンと宮廷料理人の娘のマリア・マグダレーナの間に生まれた。幼い頃よりスパルタな父親から音楽教育を受けていたベートーヴェンは、楽器と一緒に部屋に閉じ込められたり、夜遅くまで練習させられたこともしばしば。また、ピアノのほかにオルガン、ヴァイオリン、ヴィオラなども演奏できたという。コンサートデビューしたのは実際には7歳のときだったが、父は息子をより「神童」に見立てるため6歳と年齢を偽わり、ベートーヴェン自身もそう信じていたという逸話も。父親はパーティー好きの浪費家で、酒癖も悪かった。一方、優しかった母親はベートーヴェンが16歳のときに死去。母親の死後、家族を支えたのはベートーヴェンだった。

ベートーヴェンハウス故郷ボンの生家
Beethoven-Haus Bonn
ベートーヴェンハウス

ベートーヴェンの故郷ボンに残っている生家が、現在は博物館として公開されいてる。実際に使用していた楽器や楽譜が展示されているほか、音楽ホールも設備。生誕250周年を機に、昨年12月に新しいエリアがオープンしたばかりだ。

10:00~18:00 
※閉館日はウェブサイト要確認
入場料:9ユーロ ※各種割引あり
Bonngasse 20, 53111 Bonn
0228-98175-25
https://www.beethoven.de

2自由と平等を愛した
本の虫

ベートーヴェンは学校に行く時間がほとんどなく、子ども時代をほぼ音楽だけに捧げていた。しかし、音楽以外にもさまざまなことに興味を持ち、1789年からボン大学の哲学科の講義を受けたり、友人たちとボンの書店に通い、政治や芸術の本を読んだという。フランス革命(1789-1799)の起こったこの時代に、ベートーヴェンは自由と平等に価値を見出したといわれる。1792年にウィーンに移った後も本に囲まれた生活を送り、生涯にわたってさまざまな分野で知見を広めた。ある日の日記には「5時半から朝食までの時間はいつも勉強」と書き残している。

3隠し子の噂も?
恋多きベートーヴェン

生涯独身だったことで知られるベートーヴェンだが、実はずっと家族をもつことを夢見ており、女性関係についてはさまざまな逸話が残っている。30歳のときに恋をしたジュリエッタ・グイチャルディは、ピアノ曲「月光ソナタ(ピアノソナタ第14番)」(1801年)を捧げたことで有名だ。また最も知られている「エリーゼのために」(1810年)の「エリーゼ」は、39歳のときに婚約したテレーゼ・マルファッティではないかといわれる。そして、ベートーヴェンは「不滅の恋人(Unsterbliche Geliebte)」に宛てた手紙を書いており、その人物は一体誰なのか、ベートーヴェン最大の謎の1つである。ピアノを教えていたヨゼフィーネ・ブルンスヴィックという説が最も有力で、彼女との間には隠し子がいたという噂も……。いずれにしても、現在に至るまで真相は分かっていない。

「月光ソナタ」の譜面「月光ソナタ」の譜面

431歳、ハイリゲンシュタットで
遺書を書く

1802年、ウィーン近郊のハイリゲンシュタットに住んでいたとき、かの有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」が書かれた。ベートーヴェンが31歳のときである。すでに患っていた難聴が回復する見込みはなく、挙句の果てに最愛のジェリエッタ(前述)が別の男性と結婚したことで絶望のどん底に突き落とされ、ベートーヴェンは死を覚悟したのだった。遺書は2人の弟に宛てたもので「私の死後に読み、私の意志通り取り計らってくれ」と記されていた。しかし、ベートーヴェンは遺書をポストに投函することはなく、死後に机の引き出しの中から見つかっている。遺書には、自分の才能を十分に発揮する機会がなかったことを悔やみ、死がもう少し遅く訪れることを望んでいる旨も書かれており、結局は生き続けたいという気持ちが勝ったようだ。

ハイリゲンシュタットの遺書1802年に書かれたハイリゲンシュタットの遺書

遺書が書かれた家
Beethoven Museum
ベートーヴェン博物館

ベートーヴェン博物館

1802年に遺書を書いた家が博物館として保存されている。2017年のリニューアルオープンで展示面積が2倍以上に拡張され、さらに見応えのある展示に。ワイン産地として有名なこのエリアにある、「ベートーヴェンの散歩道」を散策するのもおすすめ。

火曜~日曜・祝日 10:00~13:00、14:00~18:00 ※閉館日はウェブサイト要確認
入場料:7ユーロ(割引5ユーロ)、19歳以下無料
Probusgasse 6, 1190 Wien
+43 (0)664 889 50 801
https://www.wienmuseum.at

5「超」が付くほどの
かんしゃく持ち?

ベートーヴェンベートーヴェンはその気難しそうな見た目からも、気性が荒く短気なことで知られている。使用人が少しでも気に入らないことをすると、怒りで本や食べ物を投げつけることもあり、しばしば使用人たちを解雇したという。そんなベートーヴェンの性格がよく分かる有名なエピソードがある。共和主義を目指したナポレオン・ボナパルトをたたえ、ベートーヴェンは交響曲を「ボナパルト」と名付けた。ところが、ナポレオンが皇帝に即位したことを知って激怒し、表紙を破り捨ててしまったのだ。それが「英雄(エロイカ)」と名前を変えた交響曲第3番(1804年)。しかしこれは作り話という説もあり、本当のところは分からない。そんなベートーヴェンだが、意外にも友だちは多かったそう。もちろん、友人たちもベートーヴェンから怒りをぶつけられることがあり、扱い方に困っていたようだ。

6引越しは34年間で
少なくとも52回

ベートーヴェンが生きた時代は、頻繁に引越すことは今日よりも一般的で、住宅は家具付きが基本だった。とはいえ、ウィーンに暮らした34年の間に、分かっているだけでも街中で24軒、夏場を過ごす郊外では29軒の家に移り住んだというのは、異常である。理由は定かではないが、ベートーヴェンは田舎や自然を愛していたため、5~10月はウィーンではなく郊外の村や小さな街に行き、毎年違う家に滞在したという。田舎の美しい風景が描かれた交響曲第6番「田園」(1808年)は、自然豊かなハイリゲンシュタットに住んでいる間に作曲された傑作だ。

ベートーヴェンの肖像画1901年に描かれた、田舎道を散歩するベートーヴェンの肖像画

7病的なほどワインと
コーヒーが好き

ドイツといえばビールだが、ベートーヴェンがよく飲んでいたのはワイン。ベートーヴェンは、ワインの酸味が強かったり甘味が少ないと酢酸鉛を入れていたそう。というのも、本物の砂糖は高価だったのだ。もちろん鉛は体に悪いため、ベートーヴェンの数々の不調はワインの飲み過ぎが原因ではないかともいわれている。また、もう1つお気に入りだった飲み物がコーヒー。こだわりの強かったベートーヴェンは、カップ1杯分のためにご丁寧に豆を60粒数え、専用のコーヒー器具を使って自分自身で入れていた。ところがあるとき、健康のためにコーヒーはドクターストップがかかってしまったという。

8基本的に
いつも不健康

ベートーヴェンが完全に耳が聞こえなくなったのがいつであるのかは分かっていない。難聴の症状が出始めたのは1801年ころといわれており、耳鳴りが絶えず、次第に楽器の音や歌声が聞こえなくなっていった。しかし、ベートーヴェンは1806年までそれを隠し通そうと必死だった。さまざまな治療や当時登場したばかりの補聴器なども試したが、回復することはなくますます悪化してしまう。交響曲第9番(1824年)を作ったときは全く耳は聞こえなかったが、初演では自身が指揮をし、大喝采を浴びたことに気づかなかったという逸話もある。また、聴覚以外にも健康に問題があり、慢性的な頭痛や腹痛、リュウマチなども患っていた。

ベートーヴェンのラッパ型補聴器ベートーヴェンのラッパ型補聴器

9葬式に
2万人が参列

1826年秋、ベートーヴェンは肺炎を患い、肝臓にも問題を抱えていた。肝臓病の原因は、ワインの飲みすぎではないかと指摘されている。やがてお腹に水腫ができ、何度か手術をして水を抜き取ったものの一時的に痛みがなくなっただけで、ベートーヴェンはどんどん衰弱していった。そして、1827年3月26日の午後、ベートーヴェンは56歳で息を引き取った。葬式はその3日後だったにもかかわらず、各人に招待状が送られ、当日は学校も閉鎖された。参列者の数は2万人に上ったといわれており、新聞でも大きく報じられたという。日の目を見ることなく一生を終える作曲家もいるが、ベートーヴェンは同じ時代を生きた人々にとっても偉大な音楽家であり、当時その死がどれほどセンセーショナルな出来事だったかが伝わってくるエピソードだ。

ベートーヴェンのデスマスクベートーヴェンのデスマスク

最終更新 Mittwoch, 15 Dezember 2021 11:16
 

ベートーヴェン生誕250周年記念 - ベートーヴェン神話をつくった人々

ベートーヴェン生誕250周年記念 私たちが知らない
ベートーヴェンの素顔

2020年はベートーヴェンが誕生して250周年という記念年。ドイツのみならず世界中でこのベートーヴェンイヤーをお祝いしようと、すでに昨年から各地でコンサートやイベントが開催されている。この貴重な節目に、より多くの読者の方にベートーヴェンの魅力をお伝えすべく、ベートーヴェンの素顔に迫った。ベートーヴェンが作曲した9つの交響曲にちなみ、9つの逸話をご紹介するほか、影響を受けた人々の言葉を取り上げながら、ベートーヴェンがいかに神格化されてきたかを探る。(Text:編集部)

ベートーヴェン神話を
つくった人々

生誕から250年経つ今なお、多大な影響力をもつベートーヴェン。難聴という絶望の淵から這い上がり、数々の名曲を生み出した「楽聖」の物語は、なぜこれほど世界中に浸透したのだろうか? ベートーヴェンを愛し、恐れ、利用し、そして翻弄された人々の言葉から、ベートーヴェン神話形成の歴史をたどる。
illustrations ©Sayuri Nakamura

ある日のベートーヴェンは、私に第1楽章の楽想を説明してみせた。「運命はこのように扉を叩くのだ」

アントン・フェリックス・シンドラー

音楽家・ベートーヴェンの秘書
Anton Felix Schindler
アントン・フェリックス・シンドラー
(1795-1864)

ベートーヴェンの秘書シンドラーが書き残したこのエピソードがもとになり、交響曲第5番は「運命」の俗称で呼ばれるようになった。しかし後に、シンドラーがベートーヴェンの会話帳の改ざんなどに手を染めていたことが発覚。今やすっかり悪者扱いのシンドラーだが、その捏造行為の根底には「ベートーヴェンを社会に向けてどうプロデュースすべきか」という使命感があったのかもしれない。
出典:Anton Schindler『Biographie von Ludwig van Beethoven』(Aschendorff)

交響曲の作曲なんかできやしない!いつも背後から巨人(ベートーヴェン)が行進してくる音を聴きながら、そんな勇気が持てるものか。

ヨハネス・ブラームス

音楽家
Johannes Brahms
ヨハネス・ブラームス
(1833-1897)

ベートーヴェンの死後、「ベートーヴェンの交響曲を受け継ぐ作品」の登場が期待されていた。しかし当時の作曲家らはこの困難に直面し、ブラームスも友人に宛てた手紙でこのような弱音を吐露。最初の交響曲の着想から完成までに、なんと21年の歳月を要した。そうして完成した交響曲第1番は、指揮者のハンス・フォン・ビューロー(1830-1894)に「ベートーヴェンの交響曲第10番」と評された。
出典:Max Kalbeck『Johannes Brahms』(Severus Verlag)

ドイツ精神が人類を深い屈辱から解放するということが、今こそベートーヴェンの音楽によって証明されるだろう。彼(の音楽)は、すべての人類にとって最も純粋な言葉で我々に語りかける。

リヒャルト・ワーグナー

音楽家・思想家
Richard Wagner
リヒャルト・ワーグナー
(1813-1883)

音楽家としてだけでなく、ベートーヴェン研究も盛んに行ったワーグナーは、ベートーヴェンの生誕100周年行事(1870年)に際して論文を発表した。この論文では、普仏戦争(1870-1871)でのプロイセンの勝利はドイツ精神の勝利であり、そしてベートーヴェンの勝利である、と論を展開。ドイツ音楽とナショナリズムを結び付けたこの思想は、後にナチスによって利用されることになる。
出典:Richard Wagner「Beethoven」

彼は、悩み戦っている人々の最大最善の友である。世の悲惨によって我々の心が悲しめられているときに、ベートーヴェンは我々の傍へ来る。

ロマン・ロラン

作家・平和主義者
Romain Rolland
ロマン・ロラン
(1866-1944)

ノーベル文学賞作家のロマン・ロランは、ベートーヴェンの音楽を人生の支えとしていた。彼の著書『ベートーヴェンの生涯』では、ベートーヴェンが「魂の救済者」として描かれ、ロランの理想主義的ヒューマニズムが強く投影されている。第一次世界大戦前の混沌とした欧州で反響を呼ぶが、ドイツの音楽家を賛辞したため、当時ドイツと対立していた母国フランスでは非難を受けることに。
出典:ロマン・ロラン(片山敏彦訳)『ベートーヴェンの生涯』(岩波文庫)

「交響曲第9番」とは、まるで死の境界線だ。そこを越えようとする者は、必ず死を迎える。第9番を作曲した人々は、彼岸に近づき過ぎたのだ。

アルノルト・シェーンベルク

音楽家
Arnold Schönberg
アルノルト・シェーンベルク
(1874-1951)

「交響曲第9番を作曲すると死ぬ」というジンクスをご存じだろうか? ベートーヴェンが第10番の作曲途中で死去したことに端を発する。作曲家のマーラーはこの「第九の呪い」を恐れ、9作目にはあえて番号を付けず「大地の歌」としたとされるが、次に作曲した第9番の完成翌年に亡くなった。マーラーの友人で作曲家のシェーンベルクは、マーラーとの思い出を回想してこう記している。
出典:Hans-Jürgen Schaal「Der Mythos der Neunten:Wie Schillers Verse eine Gattung veränderten」

ベートーヴェンはきわめて孤独な人間であった。しかしながら、まさに彼の作品が共同体形成の最大の力を宿している。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラ

指揮者・作曲家
Wilhelm Furtwängler
ヴィルヘルム・フルトヴェングラ
(1886-1954)

20世紀最高の指揮者の1人とされるフルトヴェングラーは、ナチス支配下でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者を務めた。ナチス政府はプロパガンダとして、ベートーヴェンの音楽とフルトヴェングラーの知名度を巧みに利用。ナチスを嫌い、ドイツ音楽界を守るために自らドイツに残ったフルトヴェングラーだったが、戦後はナチスへの協力を疑われて演奏禁止処分を受けたことも。
出典:中川右介『第九:ベートーヴェン最大の交響曲の神話』(幻冬舎新書)

交響曲第9番の賛歌をヨーロッパの国歌として提案したいのですが、(中略)慎重な判断が必要と考えています。この件に関しまして、ご意見をいただければ幸いです。

リヒャルト・N. "栄次郎" クーデンホーフ=カレルギー伯爵

政治活動家・国際汎ヨーロッパ連合主催者
Richard Nikolaus Eijiro Coudenhove-Kalergi
リヒャルト・N. "栄次郎" クーデンホーフ=カレルギー伯爵
(1894-1972)

オーストリア人の父と日本人の母の間に生まれたカレルギーは、戦後の欧州連合(EU)設立に大きく貢献した人物。彼は、1949年に設立された欧州評議会に手紙(1955年)で、将来のEU国歌としてベートーヴェンの交響曲第9番の「歓喜の歌」を提案した。今日では「欧州の歌」としてEUの公式行事等で演奏されているが、昨年7月の欧州議会では英ブレグジット党員が演奏時に背を向けたことが話題に。
出典: Richard Coudenhove-Kalergi「UNION PANEUROPÉENNE」(Council of Europe)

最終更新 Montag, 20 Januar 2020 18:02
 

ベートーヴェン生誕250周年記念 - ベートーヴェン記念イベント

ベートーヴェン生誕250周年記念 私たちが知らない
ベートーヴェンの素顔

2020年はベートーヴェンが誕生して250周年という記念年。ドイツのみならず世界中でこのベートーヴェンイヤーをお祝いしようと、すでに昨年から各地でコンサートやイベントが開催されている。この貴重な節目に、より多くの読者の方にベートーヴェンの魅力をお伝えすべく、ベートーヴェンの素顔に迫った。ベートーヴェンが作曲した9つの交響曲にちなみ、9つの逸話をご紹介するほか、影響を受けた人々の言葉を取り上げながら、ベートーヴェンがいかに神格化されてきたかを探る。(Text:編集部)

ベートーヴェン
記念イベント in ボン

ベートーヴェン音楽祭
Beethovenfest Bonn 2020

ベートーヴェン音楽祭

毎年9月のベートーヴェン音楽祭が、今年は春・秋2回の特別開催! ベートーヴェンの9つの交響曲はもちろん、ケルン大聖堂で演奏される「ミサ・ソレムニス」、ベートーヴェンに影響を受けて作曲されたマーラーの交響曲第2番「復活」など、聴きどころ満載だ。チケットは完売必至なので、今からチェックしておこう。

春期:2020年3月13日(金)~22日(日)
秋期:2020年9月4日(金)~27日(日)
https://www.beethovenfest.de

展覧会「ベートーヴェン - 世界、市民、そして音楽」Beethoven – Welt. Bürger.Musik

ベートーヴェン - 世界、市民、そして音楽

ベートーヴェンハウス(P10)の協力のもと開催される、大規模な特別展。ベートーヴェンの音楽作品と結び付けつつ、彼の人生を年代順にたどる。「孤独な天才」や「世界最初のフリーランス・アーティスト」など、現代でも定着しているベートーヴェン像に疑問を呈す形で、数々の貴重な資料をもとにベートーヴェン本来の姿を探っていく。

2020年4月26日(日)まで
Bundeskunsthalle Helmut-Kohl-Allee 4, 53113 Bonn
https://www.bundeskunsthalle.de/

現代音楽 「♯bebeethoven」

♯bebeethoven

「21世紀のベートーヴェン」をコンセプトにした、これからの音楽の未来を考える実験的なプログラム。ベートーヴェンがクラシック音楽界の革命的な存在であったように、12人の若手アーティストらがメディア、テクノロジー、グローバル化など、さまざまな視点から新しい音楽のあり方を切り開こうと試みる。期間中に開催されるコンサートやワークショップを通して、音楽の「現在地」を体感しよう!

プログラム詳細:https://bebeethoven2020.com


ベートーヴェン記念イベント in ウィーン

展覧会「ベートーヴェンと250年」
250 Jahre Beethoven

ベートーヴェンと250年

音楽・音の世界をテーマにした体験型音楽博物館「音楽の家」で、ベートーヴェンの生活と仕事に焦点を当てた特別展が開催。なかでも「補聴器ステーション」では、ベートーヴェンが徐々に聴覚を失っていった苦しみを追体験できる。建物内にはウィーン・フィルハーモニー博物館や、日常から大気圏までさまざまな音を集めたサウンドギャラリーも。

2020年4月26日(日)まで
Haus der Musik
Seilerstätte 30, A-1010 Wien
https://www.hausdermusik.com

セセッション館「ベートーヴェン・フリーズ」
Gustav Klimt, Beethovenfries

セセッション館「ベートーヴェン・フリーズ」

音楽・音の世界をテーマにした体験型音楽博物館「音楽の家」で、ベートーヴェンの生活と仕事に焦点を当てた特別展が開催。なかでも「補聴器ステーション」では、ベートーヴェンが徐々に聴覚を失っていった苦しみを追体験できる。建物内にはウィーン・フィルハーモニー博物館や、日常から大気圏までさまざまな音を集めたサウンドギャラリーも。

2020年12月31日(木)まで
Secession Friedrichstr.12, 1010 Wien
https://www.secession.at

野外コンサート「歓喜の祭り」
Fest der Freude 2020

野外コンサート「歓喜の祭り」

1945年5月8日、ナチスドイツは同盟国に無条件降伏し、オーストリアに解放が訪れた。ウィーン中心部の英雄広場では、毎年この日を記念して無料の野外コンサート「Fest der Freude」が開催されている。2020年は第二次世界大戦終結75周年でもあり、ベートーヴェンをはじめとする多彩な音楽で、街が祝祭的な雰囲気に包まれる。

2020年5月8日(金)
Heldenplatz, 1010 Wien
https://www.festderfreude.at

最終更新 Montag, 20 Januar 2020 20:41
 

東京2020 オリンピック・パラリンピック - 東京大会で登場する新競技・追加種目

未来に何を残せるか? レガシーから見る 東京2020 オリンピック・パラリンピック特集

2020年、いよいよ東京でオリンピックとパラリンピックが開催される。この東京大会はスポーツ競技だけではなく、社会にポジティブな改革をもたらすきっかけとなる役割も担っているという。本号では、東京大会の基本コンセプト3本を解説するとともに、それを実現するための具体的な取り組みを紹介する。また、スケートボードやスポーツ・クライミングなどの東京大会から新たに加わる競技にも注目。オリンピックに向けて練習に励む、選手へのインタビューもお届けする。(Text: 英・独ニュースダイジェスト編集部)

開催期間

オリンピック 7月24日(金)~8月9日(日)
パラリンピック 8月25日(火)~9月6日(日)

参考: 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会HP、サイボーグ社公式HP、プライドハウス東京公式HP、経済産業省HP ほか

次世代へつなぐスポーツの方向性東京大会で登場する新競技・追加種目

オリンピック33競技339種目、パラリンピック22競技540種目の史上最多の種目数となる東京大会。正式に採用された新競技・新種目のほかに、本オリンピック大会から開催都市が追加種目を提案できるようになり、スケートボードをはじめとした追加種目5競技18種目の開催が決定した。アーバン・スポーツやパラ競技をさらに充実させ、スポーツ界の未来を変える競技の一部をここで紹介しよう。

オリンピック追加種目遊び倒した選手が優勝? トリックを決めて高得点を狙う スケートボード

4つのウィール(車輪)が付いたデッキ(板)に乗り、滑走しながらトリック(技)やスピードを見せる。1940年代に米国で木の板に鉄道の車輪を付ける遊びとして始まり、その後スケート・パークの建設や新しいトリックの誕生によって、時代ごとにプレイ・スタイルが大きく変化してきた。また、競技スタイルにも幅があり、ランプと呼ばれるハーフパイプを滑って空中技を競う「バーチカル」、平地で技を競い合う「フリースタイル」などがあるが、今回オリンピック種目に選ばれたのは「ストリート」と「パーク」の2種目。前者は階段や手すりなど、街中にある障害物を再現したコースを、後者は椀状の窪地を複雑に組み合わせたコースを滑る。

どちらの種目も、いかにコースを自分のものにして滑り、障害物の上や空中へ勢いよく飛び出す瞬間に、より難易度の高いトリックを決められるかが評価の判断基準となるが、現時点で具体的な採点ルールは未発表だ。しかし音楽やアートと結びついた「遊び」として始まった経緯から、スケーターたちは大会のことを「コンテスト」と呼び、にぎやかな声援が飛び交うリラックスしたムードの中で行うのが常。オリンピックに競技として登場した際には、どのような雰囲気になるのかにも注目したい。

強豪国として米国やブラジルなどが挙げられるが、近年の「パーク女子」は日本人選手が上位を独占し、大躍進中だ。

欧州の注目選手

スカイ・ブラウン Sky Brown

スカイ・ブラウン Sky Brown (英国)

2008年生まれ、宮崎県出身。7歳でプロ・スケートボーダーになる。空中で2回転する720°など、高度なトリックも難なくこなす。英国人の父親と日本人の母親の間に生まれ、どちらの国の代表として出場するかが注目された。

オリンピック追加種目波がなければフェスになる、独特の競技日程が話題 サーフィン

1つとして同じではない波の動きを瞬時に読み取り、サーフボードと自分の身一つでスプレー(水しぶき)を飛ばしながら技を決めるサーフィン。風や海底の地形によって簡単に形状を変化させる波と真っ向から対峙し、自然と密に関わっていくスポーツだ。競技日が厳密に設定されるオリンピックにおいて、7月26日から8月2日の間で波のコンディションの良い4日間だけ行い、競技のない日は音楽イベントなどを含む「オリンピックサーフィンフェスティバル(仮称)」を開催する、というイレギュラーな形態が採用される。

サーフィンで使うボードは、長さ9フィート(約274センチ)以上のロングボードと1970年前後に登場した長さ6フィート前後(約183センチ)のショートボードがあるが、東京大会で採用されたのはショートボード。波の上を飛んだり跳ねたり自由自在に動き回れるのが特徴で、一般的に思い描くサーフィン像がこれに当たる。2〜5人ずつで競い合うトーナメント方式で、判定はライディング(波に乗る)をいかにスムーズに行うか、ダイナミックな技が展開できるかなど、技の数より総合的な質で評価される。ただし、あらかじめ技を披露する順番が決まっているわけではなく、崩れる波の頂上である「ピーク」に最も近い選手が優先的に波に乗ることができるので、ベストな位置を正確に把握する勘も重要になってくる。

欧州の注目選手

ジェレミー・フローレス Jérémy Florès

ジェレミー・フローレス Jérémy Florès (フランス)

1988年生まれ。インド洋に浮かぶフランス領のレユニオン島出身で、3歳からサーフィンを始めたベテラン選手。2019年10月に行われたワールド・サーフ・リーグ(WSL)主催のレース、チャンピオンシップ・ツアーで優勝した。

パラリンピック新競技スピーディーな試合展開に釘付け バドミントン

1998年、オランダで第1回世界選手権が行われてからアジア・欧州を中心に競技人口を着実に増やしてきたパラバドミントン。大きく「車いす」と「立位」の2つのカテゴリーがあり、上肢、下肢、低身長など障がいの種類や程度によって車いす2クラス、立位4クラスの全6クラスに分けられる。

使用するコートや道具は一般的なバドミントンと同じだが、障がいのクラスによってコートの面積や攻守のスタイル、戦法が大きく変わる。定められたコートをフルに使い、相手を前後に揺さぶる車いすクラスでは、フェイントを駆使してコートの隙間にシャトルを打ち、敵をあざむく心理戦が繰り広げられる。また、強いスマッシュが見られる立位上肢障がいクラスは、オリンピックと変わらないスピーディーな試合展開に目が離せない。競技の歴史も長いので、どのクラスも選手層が厚いのが特徴だ。

バドミントン

パラリンピック新競技選手同士がフィジカルにぶつかり合う テコンドー

テコンドーは「足のボクシング」と称されるほど激しい蹴り技が繰り出される、韓国発祥のスポーツだ。パラテコンドーは上肢に切断や機能障がいのある選手を対象にしたキョルギ(組手)と知的障がいのある選手を対象にしたプムセ(型)の2種目があるが、東京大会ではキョルギのみの実施となる。男女別の体重階級制で、障がいの程度によって4つのクラス(東京大会は1クラスのみ実施)に分けられる。

基本ルールはオリンピックとほとんど同じだが、頭部への蹴りは禁止で、胴部への足技だけが有効な攻撃となる。通常の前蹴りは1回2点で、180度の回転が加わった後ろ蹴りは3点、後ろ蹴りから軸足を入れ替えて計360度の回転蹴りは4点。同じクラスでも選手の腕の長さは微妙に異なるため、どちらの腕で蹴り技を防御するかなど、身体の使い方にも個性や工夫が見られる。戦略に富む試合展開に注目したい。

テコンドー

先に述べたスケートボード、サーフィンのほか、開催都市提案の追加種目にスポーツ・クライミング、野球・ソフトボール、空手が決定した。野球・ソフトボールは1つの競技として復活し、男子が野球、女子がソフトボールに分かれてプレイする。流派が多く開催は困難とされてきた空手もオリンピックの舞台に登場。また、スポーツ・クライミングに加え、今大会から新種目となるジャンプ台を使ってテクニックを披露する自転車のBMXフリースタイル、ストリート発祥の3人制バスケットボールの3×3(スリー・エックス・スリー)など、ファッション性のある現代らしいアクティビティーが採用された。これらの種目を通じて、選手、観客共に若者を積極的に巻き込むような東京大会を目指している。

最終更新 Dienstag, 28 Januar 2020 11:14
 

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