Hanacell
特集


渋谷慶一郎 - アンドロイド・オペラがドイツで上演

人間の感情と価値観を揺さぶる
アンドロイド・オペラ
渋谷慶一郎さん

今年3月13日、デュッセルドルフのロベルト・シューマン・ザールで、一風変わった「アンドロイド・オペラ」が欧州で初演された。今まで見たことのないその光景に、恐怖を抱く人もいれば、感動で涙を流す人も……。この人類史上初のオペラをプロデュースし、作曲を手がけたのは、音楽家の渋谷慶一郎さん。本公演のため来独中だった同氏に、作品の舞台裏について話を聞いた。(Text:編集部)

黒船

Keiichiro Shibuya

Keiichiro Shibuya 1973年生まれ。東京藝術大学作曲科卒業。2002年に音楽レーベルATAKを設立し、国内外の先鋭的な電子音楽作品を数多くリリースしてきた。映画音楽なども手がけるほか、2012年で初音ミク主演によるボーカロイド・オペラ「THE END」を発表し、世界各地で公演して話題となった。
http://atak.jp

オーケストラのなかで美しく響く電子音。英語歌詞がつけられたメロディをうたい、指揮しているのは、アンドロイド「オルタ3」だ。ライトが当たり青白く光るオルタ3の顔は、笑っているようにも悲しんでいるようにも見える。音楽が最高潮に達すると、オルタ3の動きも激しさを増し、その喜びを表現しているようだった。このアンドロイド・オペラを見て、どこか「気持ち悪さ」を感じずにはいられなかった。

芸術にも気持ち悪さや
不完全さがあっていい

近年テクノロジーを使ったアートが盛んですが、人が見て楽しかったり気持ちがいいだけのものや、エンターテインメントのほうに流れやすいと感じています。それは、パーソナル・テクノロジーが人間を快適にするという前提の上に成り立っているからで、アートにもその前提が及んでいるという、やや安直な結果だと思うんです。僕自身は、テクノロジーを使ったエンタメよりももっとパーソナルなアートに結実させたい。これはある種の困難なんですけど、そこに気持ち悪さや不完全さは必然的にあるものだと思っています。

人間のコンサートの場合、歌手が一生懸命うたったらみんな一体となって感動しますよね。でも、僕はそういう共感で生まれる感動が嫌いで(笑)。今回のオペラでは、アンドロイドを見てかっこいいと言う人もいれば、その隣で怖がっている人もいる。観客はそれぞれ違うことを感じるんです。実際、僕の友だちは泣いていて、なぜ泣いているか分からないと言う。アンドロイドは、今まで自分の中に眠っていた感情を引き出すのかもしれません。

今回のオペラの背景に、初音ミク*1とコラボレーションしたボーカロイド・オペラ「THE END(ジ・エンド)」がある。2013年のパリのシャトレ座での公演は、3日間とも完売になるほど大盛況だった。

帰国前にシャトレ座の支配人と会ったとき、「このあと、お前は何をするんだ?」と聞かれたんですね。公演後でとても疲れていたので、特に何も考えていなかったんだけど、とっさに「アンドロイドのオペラをつくってみたいです」と言ってしまって。そしたら、それはすばらしいと、仕事場を提供してくれるという話にまでなって、本当にやらなきゃいけなくなったんです(笑)。でも、フランス政府の文化予算がカットされることになり、一度とん挫することに。それが2015年頃でしたね。

ただ、アイデアとしては良いと思っていました。アンドロイド・オペラは、それ自体がなんなのか、1行ですべてを説明している。ボーカロイド・オペラもそうだったように、そういうものは絶対にうまくいくと思っています。そうこうしているうちに、大阪大学のロボット研究者である石黒浩さんと友だちになって、パリのパレ・ド・トーキョーで一度石黒さんのアンドロイドと共演したことがありました。でも、アンドロイドの動きが不完全でうまくいかなかった。そこで、元々友人ですでにコラボレーションしていた東京大学で複雑系科学と人工生命を研究している池上高志さんに協力をお願いしました。それで、やっとアンドロイドも動いてきて、プロジェクトがまた盛り上がってきたんです。

*1 ヤマハが開発した歌声を合成する技術であるボーカロイドを使用したDTM(デクストップ・ミュージック)ソフトウエア、およびそのキャラクター名

人類最後の歌をうたう
生命のないアンドロイド

Scary Beautyそうして、誕生したのがアンドロイド・オペラ「Scary Beauty(スケアリー・ビューティ)」。指揮と歌を担当するアンドロイド、オーケストラ、そしてピアノとコンピュータの演奏は渋谷さん自身だ。舞台演出では、LED照明やプロジェクションマッピングの技術がふんだんに使われている。現時点でそれぞれが完結する5曲で構成され、伝統的な「オペラ」の形式とは違う。

イメージは、伝統的なオペラの指揮者というよりはフランク・シナトラ*2やビョーク*3のようにオーケストラやバンドを指揮しながらうたう、あれに近いんですよね。それを生命観のないアンドロイドにやらせるというのは、設定としてそもそも難易度が高い。それで人工知能(AI)を搭載して、数種類の人工生命のプログラムをアンドロイドに走らせました。それと、実際の音楽の構成プログラムの掛け合わせなんです。その2つのせめぎ合いだから、アンドロイドが暴走することもあるし、そこから生まれる音楽は毎回違います。

作品は、例えばアンドロイドが「人類最後の7つの言葉」を歌うとしたら? というような設定で、歌詞になるテクストも厳選しています。人間とは何か? というような真意に迫ったある種ストレンジな作家や哲学者のテクストを僕が抜粋して英訳のバージョンを歌わせています。作品タイトルの「Scary Beauty」は、フランス人作家のミシェル・ウエルベックの『ある島の可能性』から抜粋したラブソングのようなテクストが使われていて、使用に際しては彼に直接お願いしました。それから、哲学者のヴィトゲンシュタインの遺作も選んでいます。遺作というのは混乱していたり散らかっているんですよね。そういうある種の揺れや不安定さはAIではまだつくれない。そうしたテクストをアンドロイドがうたうのは、面白いと思っています。あと3作品つくるつもりだけど、遺作から抜粋するのはいいかもしれません。

*2 1915生まれの米国の歌手・映画俳優。ヒット曲に「マイウェイ」など。1998年没
*3 1965年生まれのアイスランド出身のロック・ミュージシャン。映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でも知られる

アンドロイドが指揮をするなら、複雑な現代音楽は向かない、と渋谷さん。音楽はあえて美しかったり、起承転結がある形に仕上げられている。そのなかで、アンドロイドのテンポやロジックが揺れ、狂ったような動きをするから面白いのだと言う。

最初は、オーケストラとアンドロイドがなかなか合いませんでした。指揮でカウントを取るときは、やっぱり人間のほうが動きがしなやかで分かりやすい。でも何かの偶然で肩を上げ下げするような動きをアンドロイドに足したんです。そしたら一発でオーケストラの人が「これなら一緒にやれます」と。というのも、アンドロイドが呼吸しているように見えたんですよね。例えば相手と話しているとき、バンドで合わせるときって相手の呼吸を見る。それって、つまりコミュニケーションなんです。それまではどう分かりやすくカウントを出すかにこだわっていたんだけど、人間にとって当たり前のことを忘れていたんですよね。だから、アンドロイドというメディアは、人間を理解するのにすごく有効だと思います。

独創的なアイデアで
西洋音楽に挑む

デュッセルドルフでのコンサートは欧州初演であると同時に、Tanzhaus NRW主催のフェスティバル「Hi, Robot!」の一環でも。昨年8月に、東京の日本科学未来館で同作品が公演されたのと違うのは、アンドロイドが新モデル「オルタ3」になったこと。

オルタ2に比べて飛躍的に運動能力や音楽能力が向上したので、それをフルにやると壊れることが多くて。ドイツに来る直前なんかは、2日に1回のペースでどこか壊れていて、結構ビビってたんですよ。それから、オルタ2は200キロ以上あって分解できないつくりだったけど、オルタ3はいくつかのパーツに分割できるので、スタッフで手分けしてスーツケースで持ってきました。

実は公演の依頼は世界中からたくさん来ていて、欧州初演がデュッセルドルフに決まったのは、今回のフェスティバルのディレクターが一番最初に声をかけてくれたから。彼女は日本に来ていたことがあって、僕のコンサートも見に来てくれました。今年中に欧州のどこかでまた公演するという話になっていて、これから世界中を巡業する予定です。

自分が面白いと思ったことをやるのが、渋谷さんの生き方だ。しかし、わざわざオペラを選んだのは、やはり西洋を意識しているからだと話す。

日本人がいくらロックやヒップホップをやっても欧米人には勝てない。でも、オペラのように典型的に西洋がオリジナルのフォーマットのなかで、西洋人も思いつかないようなことをやるのは面白いと思っているんです。愛情とか人間固有だと思っていた感情が、実は人間同士じゃなくても有効だってことは、希望だと思います。そういうことを考えている人は世界でもあんまりいないだろうなと思って。だから、今回の作品に関しても欧州の人たちの反応は楽しみなんです。

人間を揺さぶる
テクノロジーの力

渋谷さんが電子音楽の世界に入ったのも、やはりテクノロジーの登場がきっかけだった。90年代にアップルがPowerBook G3を発売して、作曲から音の生成、はたまた事務仕事まで1つのコンピューターでできることに衝撃を受けたという。そして、それまでやってきたことをすべて捨てることに。

大きなターニングポイントだったと思うんです。あのときに生まれた電子音楽ってすごいエキサイティングで、音楽のルールなんて関係ない。聴いたこともないような音楽ができるのは、とても新鮮でした。でも、割とすぐに普通の音楽に回収されていったんですよね。本来、テクノロジーというのはもっと狂暴で危険、そして人の価値観や意識を揺らすもので、僕はそこにずっとこだわっています。

最近AIに人間の仕事が取られると騒がれているけど、僕はそうは思っていません。ただ、テクノロジーに支配されている、と感じることはあります。例えば、こうやって話している間にスマホを見ている人がいるし、仕事後にSNSをチェックしますよね。これらはここ10年で変わったことで、人間の体がその間に変化したかというと、明らかに何も変わっていない。知らない間に過剰なエネルギーを使っているわけだから、人間はテクノロジーに支配、侵食されているというのは間違いではないですよね。

日々進化していくテクノロジーとうまく付き合いながら、これまでも創作活動を続けてきた渋谷さん。今後どんなビジョンを描いているのだろうか。

僕が死ぬまでに残るだろうなと思う音楽のジャンルの1つに、「THE END」や「Scary Beauty」のような舞台音楽や劇場音楽があります。劇場作品はいろいろなジャンルの人間が集まって1つのものをつくり上げるから、すごく生々しくて実感がある。やっていて、めちゃくちゃ面白いです。それから、今というこの瞬間に、こんな面倒くさくて変なことをやろうとしてる人はほかに誰もいないだろうなと思えることを、これからもやり続けたいですね。

独創的なアイデアとテクノロジーを駆使して生まれた「Scary Beauty」。見る者に今まで経験したことのない感情や発見をもたらし、先日の公演の様子を報じた地元紙Rheinische Postでも、「人間たらしめるものは何か」、「芸術は『人工的』なものから生まれない」などの議論が巻き起こっていた。渋谷さんの作品はもうすでに、人間の価値観を揺さぶるテクノロジーのような存在と言えるのかもしれない。

最終更新 Donnerstag, 02 Mai 2019 14:52
 

黒船 - ジャズ×日本の伝統音楽 - 日本デーに出演!

5月25日(土)21:40~ 日本デー
Burgplatz メインステージ出演

黒船黒船
スペシャル
インタビュー

「ジャズ×日本の伝統音楽」を融合したスタイルで、新たな音楽ジャンルを確立するバンド、黒船。「日本デー」を目前に控えた彼らに話を聞きました。今回は、リーダー兼ベースの関谷友貴さんと津軽三味線の白藤ひかりさんが、バンド結成の秘話や最新アルバムについて語ります。

黒船

KUROFUNE PROFIL ジャズと日本の伝統音楽である津軽三味線、奄美の島唄を融合した、新感覚のミクスチャーサウンドを奏でる5人組バンド。2013年にTRI4THのベーシストとして活躍する関谷友貴を中心に結成された。メンバーは、大河ドラマ「西郷どん」のメインテーマを歌った「奄美の歌姫」里アンナ、津軽三味線で最年少日本一となり自身のユニット輝&輝としても活動する白藤ひかり、TRI4THのピアニスト竹内大輔 、Nautilusのドラマー佐々木俊之からなる。昨年10月にはメジャーデビューアルバム「Journey」がリリースされた。
www.universal-music.co.jp/kurofune
https://twitter.com/kurofunemusic
www.facebook.com/kurofunemusic

新たなアプローチができるのが黒船

今回の「日本デー」への出演が決まった際の心境はいかがでしたか?

関谷:出演オファーをいただいた日がちょうど僕の誕生日だったので、素敵な誕生日プレゼントをもらった気分でした。

ドイツにはどのような印象をお持ちですか?

関谷:学生の頃に米国のボストンに留学していたのですが、そのときのクラスメイトがジャズのミュージシャンとしてドイツで活動しています。なので、ジャズや音楽に対して寛容な国というイメージがありますね。また、個人的にジャーマンメタルも好きなんです。

バンドの結成について教えてください。

関谷:元々は僕が主催していた音楽プロジェクトが始まりでした。これは、ロックギタリストやクラシックチェリストなど、各ジャンルで活躍するミュージシャンと一夜限りでライブを行い、同時にライブ録音をするという内容でした。そのなかでも、ジャズと三味線を組み合わせた音楽が予想以上に反響があって……。その後、奄美の島唄を歌う里アンナさんとの出会いもあり、「もしかしたら、新しい音楽が生み出せるかも」と思ったんです。北の伝統音楽である津軽三味線と、南の伝統音楽である奄美の島唄、その2つをジャズの上で融合する音楽に、チャレンジしたいと思い、バンドとして本格的にスタートしました。

「ジャズ×津軽三味線×奄美の島唄」。異なる音楽ジャンルを1曲に落とし込むことは試行錯誤の連続だと思いますが、どのように共通点を見つけていきましたか?

関谷:津軽三味線や奄美の島唄は口頭伝承のスタイルで、ジャズは譜面を使いその場でセッションする音楽。国も文化も歴史も言語も違う音楽に最初は共通する部分が見つけられずにいました。そんななか、ファーストアルバムのリリース後、奄美でツアーをした際に現地のシンガーの方と話す機会があり、実は島唄の「島」には「村」という意味があり、その村ごとに歌い方に違いがあることを知りました。アドリブで曲が作られていくのも、ジャズに通ずるものがあるんじゃないかなと、共通する部分を発見したんです。

白藤:実は津軽三味線もアドリブが多いです。元々は盲目の人々のための音楽なので、それこそ譜面はなく、決まったスタイルもありません。

関谷:最近さらに気づいたことがあるのですが、「西郷どん」で奄美が薩摩藩に侵略されるシーンが描かれていて、そこで奄美の人々は過酷な労働を強いられていました。その歴史はジャズのルーツであるブルースにリンクしたんです。強制労働は辛いけど、頑張って生きていく。そんな物悲しさを感じさせます。

白藤:津軽三味線もそのルーツを辿ると、奄美の島唄やジャズに通ずるものがありますね。津軽は農作物が収穫できない土地だったので、追いやられた人々がたどり着く場所。そのため、どこか暗いんです。ですが、隣の秋田県はお米がおいしくお酒もあるので民謡が明るい。異なる音楽がたくさん存在するなかで、よくこの3つが一緒になったなって……不思議ですよね。

日本の伝統音楽を
現代のスタイルで発信していきたい

ドイツ公演でも演奏が予定されているニューアルバム「Journey(ジャーニー)」のなかで、思い入れのある楽曲を教えてください。

関谷:黒船の音楽には、「奄美の島唄にジャズのエッセンスを加えてアレンジするもの」、「ジャズのスタンダードを日本の伝統芸能で表現するもの」、「一からオリジナルでつくるもの」の3つの軸があります。その点で「Promised Land(プロミスト・ランド)」は、それぞれの見せ場があり、黒船らしいオリジナル曲になりました。

白藤:私は「CARAVAN(キャラバン)」ですね。ジャズの曲に津軽三味線のフレーズが生きていて、歌は島唄という。これも、黒船が目指していたことが表現されています。

今後、国内外でどのように黒船の音楽を発信していきたいですか?

白藤:海外で津軽三味線を演奏させていただく機会がありますが、言葉はなくとも曲が盛り上がれば拍手してくれたり、声援を送ってくれます。ほかの国の初めて聞く音色でも、届けることができる音楽ってすごいなって思いますね。なので、私は日本の伝統音楽の良さをそのまま伝えるのみです。

関谷:敷居が高いイメージがある伝統音楽をジャズと掛け合わせることで、より身近な存在にできればと思います。日本の伝統音楽を新しい形で、多くの人に発信していきたいです。

日本デーでの出演

日時:5月25日(土)21:40~
場所:Burgplatz メインステージ
www.japantag-duesseldorf-nrw.de/jp/

その他の出演情報

ワンマンライブ
日時:5月11日(土)19:30開演
場所:渋谷LOFT HEAVEN
www.loft-prj.co.jp

www.jki.deドイツ・ケルン公演
日時:5月24日(金)19:00開演
場所:ケルン日本文化会館
※入場無料
www.jki.de/veranstaltungen/konzert-theater/kurofune.html

最終更新 Freitag, 03 Mai 2019 10:43
 

バウハウス創立100周年 1. 基本情報 - ドイツ・デザインの歴史を紐解く

バウハウス創立100周年 ドイツ・デザインの歴史を紐解く

Tadashi Okochi © Pen Magazine, 2010, Stiftung Bauhaus Dessau

第一次世界大戦終戦から間もない1919年。ヴァイマル共和政期のドイツで、芸術の総合的教育機関「バウハウス」が誕生した。性別や年齢に関係なくアートやデザインを学べる場として、ここには世界各国から芸術家の卵や著名な講師陣が集まった。後に多くのアーティストを輩出するバウハウスを取り巻く環境や人々から、その歴史を紐解く。 (Text:編集部)

バウハウス造形学校の略年表

1902年 アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデがバウハウスの前身「私立ヴァイマル工業ゼミナール」設立
1907年 「大公立美術工芸学校」に名称変更
1919年 ヴァイマル共和国成立。ヴァイマルの「大公立工芸学校」と1915年に閉校になった「ヴァイマル美術学校」が合併し、「国立バウハウス・ヴァイマル」設立
初代校長はヴァルター・グロピウスが務めた
1925年 デッサウに移転「市立バウハウス・デッサウ」設立
1932年 ベルリンに移転「私立バウハウス・ベルリン」設立
1933年 ナチスの台頭により閉校
1976年 戦争時に破壊された建物の一部が修復される
1996年 デッサウとヴァイマルの「バウハウス関連遺跡群」が世界文化遺産に登録

バウハウスを知るQ&A

Q1 バウハウスが誕生したきっかけは?

1880年代に英国で始まった、アーツ・アンド・クラフツ運動※の影響や流れをくむ動きがドイツでも起こる。当時のドイツは産業革命による工業化によって、職人を育成するシステムが一度廃止されていたため、工芸品などが大量生産されている時代だった。そんななか、工芸品の品位を高めることを目的に活動する「ドイツ工作連盟」が1907年に誕生する。この団体にはヘルマン・ムテジウスやアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデを中心に建築家やデザイナー、アート関係者が参加したという。しかし、1914年にムテジウスとヴェルデが仲たがいをしたことで、ヴェルデはドイツを去ることに。ヴェルデが1902年に設立したヴァイマル工芸ゼミナールを、同連盟に参加していたヴァルター・グロピウスに託したのが、バウハウスの始まりだった。

※19世紀後半に英国で盛んになった造形芸術運動。その後、欧州をはじめ世界各国に影響を及ぼした。

Q2 バウハウスって建築の学校?

バウハウスは絵画や彫刻、工芸品や写真、建築などのさまざまな芸術分野の総合的造形教育を行う機関として設立された。創設者であるヴァルター・グロピウスの「建築家、彫刻家、画家……われわれはみな、手工業に立ち返らなければならない。芸術家と職人の間に本質的な違いはない。芸術家は崇高な職人なのである」という理念のもと、画家のリオネル・ファイニンガー、画家で芸術家のヨハネス・イッテン、そして彫刻家のゲルハルト・マルクスらが教員として招集された。初期は金・銀・銅製品の工芸、製本、グラフィックプリントのコースがあり、独立した建築コースも開催された。バウハウスの中核を担っていた建築が学科として立ち上げられたのは、デッサウに移転してからの1927年のことだった。

バウハウスのデッサウ校舎から撮影に応じる生徒たちバウハウスのデッサウ校舎から撮影に応じる生徒たち

Q3 バウハウス出身の著名人は?

前衛的なファッションやヘアスタイルに身を包むバウハウスの学生たちは、当時「バウハウス人」と呼ばれていたという。日本からは建築家で写真家の山脇巌や、教育者の水谷武彦らが留学していた。写真家でグラフィックデザイナーのヘルベルト・バイヤーはバウハウスで学んだ後、教師としても活躍。ほかにも建築家のアルフレート・アルント、建築家で家具デザイナーのマルセル・ブロイヤー(下写真)、画家・版画家のゲオルク・ムッへ、美術家のヨゼフ・アルバース、彫刻家のヨースト・シュミット、建築・彫刻・絵画・グラフィックデザインなど、多分野にわたって活躍したクリエイターのマックス・ビルがいる。また、テキスタイルデザイナーのグンタ・シュテルツルやア二・アルバースら、さまざまなアーティストを輩出した。

マルセル・ブロイヤーと女学生たちマルセル・ブロイヤーと女学生たち

Q4 バウハウスが閉校したのはなぜ?

20世紀以降の芸術・建築史に大きな影響を与えたバウハウスは、時代に翻弄された。バウハウスが閉校したのは1933年。ヒトラー率いるナチスが権力を掌握すると、国内の芸術活動が制限されるようになる。バウハウスも退廃芸術として弾圧されたことで、閉校を余儀なくされたのだった。活動自体は終了したが、現代でも数多くの建築物や作品がドイツ国内をはじめ、世界中に残っている。1996年にはデッサウとヴァイマルの「バウハウス関連遺跡群」 が世界文化遺産に登録されるなど、その記憶や歴史は現代にもしっかりと受け継がれている。

Q5 バウハウスの精神はどこへ?

バウハウスが閉校すると、多くの芸術家たちはドイツから逃れることを選択した。建築家のミース・ファン・デル・ローエやヴァルター・グロピウスは、亡命先である米国でも著名な建築家として活躍し、多くの作品を残している。また、バウハウスで講師として活動した美術家のラースロー・モホイ=ナジは、シカゴ芸術産業協会からの招聘に応じて、米国に「ニュー・バウハウス・アメリカン・スクール・オブ・デザイン」を開校した。後にイリノイ工科大学に吸収され、現在はイリノイ工科大学デザイン大学院として多くの学生が学ぶ。また、ドイツには総合芸術大学としてバウハウス大学ヴァイマルが設立された。このように100年経った今でも、ドイツ国内外でバウハウスの精神は多様な形で継承されている。

最終更新 Dienstag, 09 April 2019 09:37
 

バウハウス創立100周年 2. バウハウスの立役者、ミースとグロピウス、女性アーティスト

バウハウス創立100周年 ドイツ・デザインの歴史を紐解く

第一次世界大戦終戦から間もない1919年。ヴァイマル共和政期のドイツで、芸術の総合的教育機関「バウハウス」が誕生した。性別や年齢に関係なくアートやデザインを学べる場として、ここには世界各国から芸術家の卵や著名な講師陣が集まった。後に多くのアーティストを輩出するバウハウスを取り巻く環境や人々から、その歴史を紐解く。(Text:編集部)

バウハウスの立役者、ミースとグロピウス

20世紀を代表する近代建築の四大巨匠といえば、ル・コルビュジエにフランク・ロイド・ライト、そしてドイツ出身のミース・ファン・デル・ローエとヴァルター・グロピウスだ。彼らは建築家として活躍し、バウハウスの校長を務め、米国に移住するなど、時代に翻弄されながらも多くの功績を残した。今年没後50年を迎えた2人の人生を辿る。

ミース・ファン・デル・ローエ

シンプルと機能性を世界に広めた建築家 ミース・ファン・デル・ローエ
Mies van der Rohe

名言

Less is more.
(より少ないことは、より豊かである。)

生年月日

1886年3月27日 ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州アーヘン生まれ
1969年8月17日 米国イリノイ州シカゴ没

バウハウスで校長を務めた年月

1930〜1932年(バウハウス・デッサウ)
1932〜1933年(バウハウス・ベルリン)

代表作

● ヴァイセンホーフ・ジードルンク(ドイツ・シュトゥットガルト)
● バルセロナ万博 ドイツ館(スペイン・バルセロナ)
● ファンズワース邸(米国・シカゴ)
● トゥーゲントハット邸(チェコ・ブルノ)
● 新ナショナルギャラリー(ドイツ・ベルリン)
など

生い立ち・キャリア

5人兄弟の末っ子として生まれたミースは、地元の工業学校に進学し、製図工の職業訓練を受ける。1906年に設計事務所に所属し、翌年には建築家ペーター・ベーレンスのもとで本格的に建築について学ぶ。1913年にリヒターフェルドに自身の建築事務所を設立。1927年にはペーター・ベーレンス、ヴァルター・グロピウス、ル・コルビュジエ、ブルーノ・タウトらとともにシュトゥットガルトに集合住宅ヴァイセンホーフ・ジードルンクを設計した。1929年に建設した、バルセロナ・パビリオンは、モダニズム建築の最高峰として高い評価を受ける。バウハウス後期の1930年から閉校まで校長を務めた。

バウハウス閉校後

1937年に祖国であるドイツを離れた後、米国のイリノイ工科大学にて建築学科長に就任する。米国へ移住後は、シカゴを中心に活動。イリノイ工科大学のホールのような学校関係の建物、ファンズワース邸に代表される住居、シーグラム・ビルディングのようなオフィスビルの設計に携わった。そんな彼のスタイルは後の米国で文化教育機関から大企業までが取り入れる代表的な建築様式となる。また、内部空間を事前に限定せず自由に使えるように配慮したユニバーサル・スペースという理念も世に広めた。

ヴァルター・グロピウス

教育者としてもアート界に貢献した建築家 ヴァルター・グロピウス
Walter Gropius

名言

The Bauhaus fights imitation, inferior craftsmanship and artistic dilettantism.
(バウハウスは模倣、粗悪な職人技、芸術を道楽にする人々と戦う。)

生年月日

1883年5月18日ドイツ・ベルリン生まれ
1969年7月5日米国マサチューセッツ州ボストン没

バウハウスで校長を務めた年月

1919(設立)〜1925年(バウハウス・ヴァイマル)
1925〜1928年(バウハウス・デッサウ)

代表作

● ファグスの靴型工場(ドイツ・アルフェルト)
● バウハウス・デッサウ校舎(ドイツ・デッサウ)
● ベルリンのモダニズム集合住宅(ドイツ・ベルリン)
など
※上記すべて世界文化遺産に登録

生い立ち・キャリア

建築家の息子として生まれたグロピウスは、父親と同じ道を歩むべくミュンヘンとベルリンの工科大学で建築を学ぶ。大学卒業後の1907年に、ベルリンの建築家ペーター・ベーレンスに師事し、ベーレンスから多大な影響を受ける。1910年に彼の元を離れてからは、ドイツ工作連盟に加わるなど、建築やアートを促進する活動に積極的に参加。1911年、後に初期モダニズム建築を代表する作品として注目を集めるファグスの靴型工場を手がける。1915年にドイツ工作連盟で慕っていたアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデからヴァイマルの工芸学校を託され、1919年にバウハウスを創設、初代校長に就任する。バウハウスに関する作品も多数残しており、バウハウス校長室のインテリア(1923年)やデッサウの校舎(1926年)を手がけた。

バウハウス閉校後

1934年にミースよりも一足先に祖国であるドイツを離れ、英国に3年間暮らす。その後、ハーバード大学から招かれる形で1937年に米国に渡り、ハーバード大学デザイン大学院で教鞭を執るように。晩年はマサチューセッツ工科大学の客員委員として活躍。1946年には若き建築家たちをサポートする建築家共同設計体(TAC)を設立し、若手の育成にも尽力した。

近代建築家は家具のデザインもお好き⁉

モダニズム建築家たちは、家具のデザインにも携わっていた。バルセロナ万博ドイツ館を手がけたミースは、この建物に合う椅子として、「バルセロナチェア」をデザインしている。「造形活動の最終的な目的は建築である」という言葉を残したグロピウスも、「アームチェアD51」など椅子を手がけている。彼らだけでなく、ル・コルビュジエ、イサム・ノグチ、アルヴァ・アアルトなど世界各国を代表する著名な建築が家具をデザインするのが一般的だった。

ミースとグロピウスを繋いだ建築家

ミースとグロピウスは、1907年に奇しくも同じ建築家のもとで働いていた。それがドイツのモダニズム建築や工業建築の分野で多くの建築家に影響を与えた、ペーター・ベーレンスだ。ベーレンスは、電機メーカーAEGのデザイン顧問を担当し、同社タービン工場の設計を手がけた人物。インダストリアルデザイナーとしても活躍し、ガス給湯器や照明器具などもデザインした。多才だった彼の元には、近代建築の巨匠の1人、ル・コルビュジエも師事している。

バウハウスで才能を開花させた女性たち

女性参政権の獲得が実現したばかりの1919年に設立されたバウハウス。男女平等の兆しが見えてきたこの時代に、芸術の世界で生きる女性たちを取り巻く環境はどのようなものだったのか。バウハウスに関わりのある女性アーティストの活躍に焦点を当てながら考察する。

フリードル・ディッカー

Friedl Dicker
フリードル・ディッカー

1889年オーストリア・ウィーン生まれ。1919〜1923年まで学生として在籍。入学前はヨハネス・イッテンが設立したウィーンの芸術学校で学ぶ。バウハウスでは、製本やリソグラフィーのワークショップに参加。パウル・クレーの作品に影響を受け、彼の講義には毎回出席していたという。バウハウス卒業後、1925年に故郷ウィーンへ戻り製本や織物のスタジオを開設。1931年からは幼稚園の先生として子どもたちに芸術を教えるように。しかし、ユダヤ系だった彼女はナチスの迫害により、1944年アウシュビッツ強制収容所で亡くなった。

マリアンヌ・ブラント

Marianne Brandt
マリアンヌ・ブラント

1893年ケムニッツ生まれ。1923〜1928年にかけて学生として在籍。卒業後は1929年まで金属工房の所長代理を務める。1911年にヴァイマルの私立美術学校で彫刻や絵画を学んだ後、バウハウスに入学。金属工房に所属し、1926年にはデッサウ校舎の最初の照明器具の設計に携わる。バウハウスを離れた後は、カールスルーエのダマーストック住宅団地のインテリアデザインなどを手がけた。

Marianne Brandt

グンタ・シュテルツル

Gunta Stölzl
グンタ・シュテルツル

1897年スイス・チューリヒ生まれ。1919〜1925年まで学生として在籍し、1925〜1931年まで織物工房のマイスターとして活躍。バウハウス入学前はミュンヘンでアートを学ぶ。1919〜1929年までガラスペイントや壁塗装のワークショップに、1921〜1925年にかけて織物のワークショップで学ぶ。マルセル・ブロイヤーが設計したデッサウ校の家具のテキスタイルカバーをデザイン。バウハウスを離れた後はスイスで暮らし、手織り会社を立ち上げる。1968年にはバウハウス50周年展覧会にも参加した。

Gunta Stölzl

ロッテ・ベーゼ

Lotte Beese
ロッテ・ベーゼ

1903年ドイツ領シレジア(現ポーランド・ロキトキ)生まれ。1928〜1932年までバウハウスの学生として在籍。デッサウ校で建築を学んだ最初の女性でもある。ハンス・マイヤーのもとで知識と技術を積んだ彼女は、建築に加えて都市計画の基礎も学んだ。1929年、ベルリンに移りマイヤーの事務所で働きながら、ドイツ労働組合総同盟の国立大学建築計画を共同で担当する。1935年、パートナーのマート・スタムとともにアムステルダムへ移住し、自身の建築事務所を設立。都市開発にも関わる建築家として活躍した。

アルマ・ブッシャー

Alma Buscher
アルマ・ブッシャー

1899年クロイツタール生まれ。1922〜1927年まで学生として在籍。彼女が考案したおもちゃ「Kleines Schiffbauspiel(小さな船の創造ゲーム)」は、現在でも愛され続けている作品だ。ベルリンの芸術系研修機関で学んだ後、バウハウスに入学。ワシリー・カンディンスキーやパウル・クレーなどの授業に参加した後、1923年から木工を学ぶ。 同年に開催された展示会で、子ども部屋の家具や「Kleines Schiffbauspiel」を含めた子ども用おもちゃのデザインを発表した。

リリー・ライヒ

Lilly Reich
リリー・ライヒ

1885年ベルリン生まれ。1932〜1933年まで建築部門のディレクター、製織工房長を務める。1908年工業刺繍の技術を学んだ後、ウィーンのヨゼフ・ホフマンの工房で働き始める。1911年にベルリンに戻り、翌年ドイツ工作連盟のメンバーに加入。1920年には女性初の理事となる。1926年にミース・ファン・デル・ローエと出会い、1928年にシュトゥットガルトで開催されたドイツ工作連盟による展覧会のプロジェクトを協働。このプロジェクトの成功により、1929年のバルセロナ万博ドイツ・パビリオンの芸術監督に任命された。

アニ・アルバース

Anni Albers
アニ・アルバース

1899年ベルリン生まれ。1922〜1928年まで学生として在籍し、1928〜1929年、1930〜1931年まで織物工房の所長代理を務める。最初は画家志望だったが、テキスタイルデザインの才能を開花し、織物の多様な可能性を探求する。バウハウスを離れた後、1933年に米国へ渡り、製織のパターンやテクニックを研究。1949年、ニューヨーク近代美術館で個展を開催した最初の女性テキスタイルアーティストとなる。

Anni Albers

バウハウスで学ぶ女性たちを取り巻く環境

初代校長、ヴァルター・グロピウスが掲げた「年齢、性別に関係なく、誰もがバウハウスで学ぶ権利を要する」というマニュフェストは、高い志を持つ若者たちにとって革新的だった。バウハウスは女性にもアートの可能性を切り開くチャンスを与えてくれる場所になるはずだったが、現実はそう簡単ではなかった。女性の入学希望者が半数を超えると、グロピウスは評判を損なうのではという危機感を抱いたという。多くの女性たちが自ら望んだ学科に参加することが難しく、織物を学ぶコースへの所属となった。閉校までに460人以上の女性が在籍していたが、評価されたのはほんの一握り。バウハウスには女性が過小評価されていたという影の部分が存在していたのも事実だ。

参考資料:deut schland.de„Gelernt haben wir nix“,Da s Er st e「Fr auen am Bauhaus – Die unt er schä t zt en Meist erinnen」,100 jahr e bauhaus

最終更新 Mittwoch, 26 Februar 2020 15:20
 

バウハウス創立100周年 3. ドイツ各地の記念イベント

バウハウス創立100周年 ドイツ・デザインの歴史を紐解く

第一次世界大戦終戦から間もない1919年。ヴァイマル共和政期のドイツで、芸術の総合的教育機関「バウハウス」が誕生した。性別や年齢に関係なくアートやデザインを学べる場として、ここには世界各国から芸術家の卵や著名な講師陣が集まった。後に多くのアーティストを輩出するバウハウスを取り巻く環境や人々から、その歴史を紐解く。 (Text:編集部)

バウハウスを体感しよう!

創立100周年を記念して、バウハウスの拠点となったヴァイマル、デッサウ、ベルリンの3都市を中心に、ドイツ各地でイベントが盛りだくさん。ニューオープンの施設もあるので、実際に足を運んでバウハウスを体感してみよう。
https://www.bauhaus100.de

Weimar ヴァイマル
博物館「Bauhaus-Museum Weimar」がオープン!

Bauhaus-Museum Weimar

バウハウス発祥の地、ヴァイマルでは、4月6日「バウハウス・ミュージアム・ヴァイマル」がオープンしたばかり。日本でも活動していた建築家のヘイケ・ハナダ氏が手がけた、キューブ型のミニマムなデザインが印象的な博物館だ。ここでは、バウハウス初期の貴重な作品を所蔵。9月26日からは3週にわたりにヴァイマル、デッサウ、ベルリンで「Triennale of Modernism: THE BAUHAUS VISION」と題したイベントの開催も予定している。 www.bauhausmuseumweimar.de

Dessau デッサウ
博物館「Bauhaus Museum Dessau」がオープン予定

Bauhaus Museum Dessau

スペインはバルセロナの若手建築家集団González Hinz Zabalaが設計を手がける「バウハウス・ミュージアム・デッサウ」が、9月8日にニューオープン予定。ここでは、バウハウス・デッサウ財団が所蔵する4万9000点ほどの作品が展示されることになっている。オープンと同時に「Versuchsstätte Bauhaus」と題した展示会や、デッサウに点在するバウハウスの建築をめぐるワークショップなども開催される。
イベント情報 www.bauhaus-dessau.de

Berlin ベルリン
各所でさまざまなイベントが開催中

Bauhaus Museum Dessau

バウハウス最後の拠点となったベルリンは、最も多くのコレクションが残されている場所だ。現在ミュージアムは100周年による資料拡大のために増築中。8月31日から9月8日まではErnst-Reuter-Platzにて「Bauhauswoche Berlin 2019」が、9月6日からはBerlinische Galerieにて「Original Bauhaus Jubiläumsausstellung」などのイベントが開催される。8月下旬から9月上旬にかけては、ベルリンを訪れてみては?
イベント情報 www.bauhaus100.de/programm

Hamburg ハンブルク
フィルムプログラム
「Neues zum Film am Bauhaus」

映像を通じてバウハウスを考察するプロジェクト。「革命運動としてのバウハウス」や「世界中のバウハウスのアイデア」など、さまざまな視点でバウハウスについて紹介していく。
2019年8月30日まで開催中
https://www.bauhaus100.de/programm/veranstaltungsdetails/659/

München ミュンヘン
展覧会「Reflex Bauhaus」

歴史的造形物40作品と5人のアーティストの作品を連動させた展覧会。アニ・アルバースやグンタ・シュテルツルなど、女性アーティストの作品も多数展示されている。
2020年2月2日まで開催中
https://www.pinakothek.de/ausstellungen/reflex-bauhaus-40-objects-5-conversations

Frankfurt am Main フランクフルト
展覧会「Neuer Mensch, Neue Wohnung」

バウハウス100周年を記念した展覧会。常に最先端をいきモダニズムを体感する大都市、フランクフルトの建築や文化を改めて考える内容になっている。
2019年8月18日まで開催中
https://www.bauhaus100.de/programm/veranstaltungsdetails/206/

Oberhausen オーバーハウゼン
展覧会「Peter Behrens - Kunst und Technik」

ヴァルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエに多大な影響を与えたペーター・ベーレンス。建築家で工業デザイナーでもある彼の作品を展示している。
2022年12月31日まで開催中
https://www.bauhaus100.de/programm/veranstaltungsdetails/171/

Dresden ドレスデン
展覧会「Zukunftsräume.」

1920年代のドレスデンのコレクションを紹介。バウハウスで活躍した、ワシリー・カンディンスキー、パウル・クレーなどの作品から前衛的な芸術について考察する。
2019年6月2日まで開催中
https://www.bauhaus100.de/programm/veranstaltungsdetails/1506/

Halle (Saale) ハレ(ザーレ)
展覧会「Wege der Moderne. Kunst in Deutschland im 20. Jahrhundert」

4つのセクションに分かれた本展覧会。その1つとしてバウハウスが牽引した1919〜1933年までのドイツにおけるアートシーンの歴史が垣間見られる内容になっている。
2022年1月9日まで開催中
https://www.bauhaus100.de/programm/veranstaltungsdetails/388/

最終更新 Montag, 08 April 2019 10:42
 

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