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特集


ドイツの医療現場に笑いを届けるコメディアン、エッカート・フォン・ヒルシュハウゼン

新春特集 - 2019年を楽しむために

ユーモアと健康の関係を探り続け
ドイツの医療現場に笑いを届ける
医療コメディアン Dr. med.
Eckart von Hirschhausen
エッカート・フォン・ヒルシュハウゼン

「笑うことは最高の薬」と話すのは、ドイツ各地の病院にたくさんの赤鼻ピエロを派遣してきた「ユーモア・ヒルフト・ハイレン(HUMOR HILFT HEILEN)」創設者のエッカート・フォン・ヒルシュハウゼンさん。笑いが健康に良いことが科学的にも立証されつつある今日、どのようにして医療の現場にユーモアを持ち込めるかを長年試行錯誤してきた。2018年に創立から10周年を迎えた団体の取り組みに加え、ドイツの笑いについて詳しくお話を聞いた。

Dr. med. 
Eckart von Hirschhausen 
エッカート・フォン・ヒルシュハウゼン

エッカート・フォン・ヒルシュハウゼン 1967年フランクフルト生まれ、西ベルリン育ち。1995年まで小児神経科の医師を務めた後、医療コメディアンとしてテレビなどにも出演してきた。2008年にユーモア・医療財団「HUMOR HILFT HEILEN」を設立した。ドイツ語の著書多数。ロリオーの大ファン。

笑いで奇跡を起こした赤鼻ピエロ

即興音楽や寸劇で小児病棟の子どもたちを笑わせる赤い鼻のピエロ。彼らはユーモア・ヒルフト・ハイレン(以下HHH)でトレーニングを受けた「ホスピタル・クラウン」(Klinikclown)だ。HHH創設者のヒルシュハウゼンさんは、病気の子どもたちにとって笑うことがいかに重要であるかを身をもって体験したと話す。

「もう何年も前のことです。とある体育館で医師としてマジック・ショーをしたとき、心身症専門の小児科医がショーの間に起きたことを話してくれました。当時彼が担当していた場面かん黙症*で人前で話せない男の子が、なんと周りの子どもたちと一緒に笑ったり、驚いたりしていたと言うのです。そのときから、私はユーモアや音楽、芸術は治療の役目を果たすのではないかと考えるようになり、それがHHH誕生のきっかけになりました」。

*家庭では話せるが、学校や職場など特定の場所で全く話せなくなる精神的な症状

ドイツ医療業界で広がるユーモアの輪

その後、ヒルシュハウゼンさんは財団を立ち上げ、何年もかけてドイツ各地に自身のプロジェクトを広めていった。現在では、HHHのホスピタル・クラウンは小児科を訪れるだけではなく、高齢者施設などでの緩和ケアも行っている。

「ホスピタル・クラウンの派遣は、私たちの活動の一部に過ぎません。優秀なユーモア・トレーナーとユーモア・セラピストと協力し、より専門性のあるホスピタル・クラウンの養成に努めています。また、看護師や看護学校での教育のために特別なモジュールを開発し、すでに全国で1万人以上の看護師が実践しました。現在は、より多くの人がこのモジュールを実践できるよう、アプリの開発も進めています」。

また一方で、HHHは健康とユーモアの関係性を研究する機関でもある。これまで、笑いが病気の治療に有効であることを科学的にも立証してきた。

「ポジティブな感情が心身にもたらす効果については、すでにいくつかの研究がされています。例えば、小児科の手術室にホスピタル・クラウンが患者に同行するという検証では、信頼性を強めるホルモン『オキシトシン』の分泌が増えることが確認されました」。

ユーモアのないドイツ人……はウソ

笑いを専門的に研究するヒルシュハウゼンさんだが、世間で語られる「ドイツ人はユーモアがない」ことについて尋ねてみると、それはただの固定観念でしかない、と答えた。

「ドイツ人にユーモアがないと言われる所以の一つに、『仕事が第一』という炭鉱夫の精神が考えられます。鉱山には全くと言っていいほど、楽しみというものがなかったのです。しかしながら、今日はもちろんそんなことはありません。むしろ、笑いは健康的なことで科学であるということの方が、現代のドイツ人の間では知られていると思います。

2017年に、健康科学と心理学の研究におけるアプローチ方法に大きな変化が起こりました。それまでは、何が人間を病気にするのかということだけが研究されていたのが、何が人間を健康にするのか、何が人間を精神的ストレスから守るのかということも注目されるようになったのです。ユーモアの強みは、まさに人間をストレスから守ることです。ドイツ人の国民病でもある、うつ病や肥満なども気分の変化と大きく関係していることが分かっており、心理療法の分野でも研究が進んでいます」。

今後はより多くの医療関係者にユーモアが持つ力について知ってほしい、と話すヒルシュハウゼンさん。最後はこんなジョークで締めくくった。「病院に持ち込むべきたった一つの『病原体』は、ずばり感染力の高い『笑い』です! 」。

最終更新 Montag, 07 Januar 2019 14:45
 

ドクターマーチンの歴史 - 第二次世界大戦後のドイツで誕生

第二次世界大戦後のドイツで誕生
ユース・カルチャー発展の立役者

ドクターマーチンの
歴史

おしゃれな英国ファッション・アイテムとして有名な靴ブランド「ドクターマーチン」。その生みの親は、実はドイツ人だった。ドイツから英国に渡り、今や世界的に知名度の高いブランドへと成長したが、その栄光を手にするまでには長い道のりがあった。第二次世界大戦後の少ない物資のなか、考案者たちの情熱によって誕生。やがて英国経済を土台から支える労働者と、 人生を謳歌する若者たちを鼓舞し続ける存在になった、ドクターマーチンの光と影に迫る。(文: ニュースダイジェスト編集部)

ドクターマーチンを履いた若者 1979年、ロンドンのショップ「ボーイ」の前に立つパンクたち

誕生のきっかけは足首の負傷だった

英国ブランドとして世間に知られているドクターマーチンだが、実は1945年にドイツで生まれ、立ち位置も現在のようなファッション・アイテムとは異なるものだった。考案者は独軍医のクラウス・マルテンス。スキー中に足首を負傷したマルテンスは、それまで履いていたミリタリー・ブーツが痛めた足には硬すぎたため、歩行の際の衝撃を和らげ、足が疲れないソール(靴底)を作ることにした。材料は、戦後の混乱に乗じて手に入れた廃材や皮革などを利用したという。こうして第二次世界大戦直後のミュンヘンで生まれた「エア・クッション・ソール」は、ドクターマーチン誕生の大きな一歩となった。ブランドの始まりは、意外にもマルテンスに起きた個人的な出来事だったわけだが、これが後に英国へ進出するキーポイントとなる。

マルテンスは若いときに靴の修理工として働いた経験があったものの、製作にはより精密な技術や専門的な知識が必要となったため、大学時代の旧友で、機械工学の知識を持つヘルベルト・フンクを訪ね、2人で協力して商品化を目指した。そして2年後の1947年、エア・クッション・ソールを搭載した靴の販売を開始。それまでミリタリー・ブーツしか履くものがなかった労働者階級の男性や主婦たちに大ヒットし、2人の靴は瞬く間に知名度を上げ、業績はうなぎ上りだった。

転機が訪れたのは1959年。2人はもっと大きな市場での流通を目指し、海外へ視野を向ける。早速、英国の靴業界専門誌に広告を出した。これに目をつけたのが、英中部ウォラストンで家族経営の製靴業を営んでいたグリッグス家のビル・グリッグス。同家は1901年の創業以来、丈夫なワーク・ブーツを作る老舗として知られており、ビル・グリッグスはこの革新的なソールに興味をそそられた。2人の新たなスタートには最高のパートナーだったと言えるだろう。

クラウス・マルテンス、ヘルベルト・フンク、ビル・グリッグス 左)スキーを楽しむクラウス・マルテンス(写真右)とヘルベルト・フンク(同左) 
右)ドクターマーチンを英国にもたらしたビル・グリッグス

エア・クッション・ソールのプロトタイプエア・クッション・ソールのプロトタイプ

1930年代のコブスレーン工場1930年代に撮影されたグリッグス家のコブスレーン工場

アイコンとなった「1460」

グリッグスは、マルテンスとフンクが開発したエア・クッション・ソールの製造特許を獲得し、製作に取り掛かる。エア・クッション・ソールの考案者、マルテンスを英語読みにした「ドクターマーチン」は、8つのレース・ホールを持ち、濃い赤色のオックスブラッドのブーツとして、1960年4月1日から正式に生産をスタート。日付にちなみ、このモデルは「1460」と名付けられた。商品化にあたり、ソールに改良を加えたほか、丸みを帯びたフォルム、靴の周りを一周する黄色のステッチ、履き口に取り付けられた黒と黄色がポイントのヒール・ループ、ツートンの溝付きソール・エッジなどのアレンジを加え、特徴となるソールを「エアウェアAirwair」と呼び、キャッチ・フレーズ「ウィズ・バウンシング・ソールズWith Bouncing Soles (弾む履き心地のソール)」とともに、世に送り出した。

発売後の数年間は、「頑丈で、そこまで高額ではない靴」として、ドイツと同じく労働者階級の男性を中心に飛ぶように売れ、特に警察官、工場従事者、郵便局員たちの間にいち早く浸透していった。また、発売額が2ポンド(現在の約40ポンド)と手ごろだったのも売り上げを後押した要因だった。ちなみに、当初はロンドン東部の魚市場で働く人へ向けて、靴をオイル仕上げにして販売する予定だったが、加工なしでも耐久性に差がなく、またマットでラフな感じが逆にアピール・ポイントになったため、結局その過程は省略されたという。

やがて「ドクDocs」「DMs」などの愛称で幅広く親しまれていったこの靴が、ただのワーキング・ブーツの枠から飛び出すのにそう時間はかからなかった。労働者階級の便利な靴が、次第に英国のカルチャー・シーンに必要不可欠なアイテムになっていくのである。

ドクターマーチン1460モデル左)1460モデル。現在は柔らかいレザーを使っている 
右)1960年代に使われたドクターマーチンの広告

英国の文化、社会に与えた影響

第二次世界大戦後、英経済が軌道に乗るに従い、若者たちは給料をファッション・アイテムにつぎ込むようになり、1950年代後半から主にロンドンに住む中流階級の間で誕生した(諸説あり)「モッズ」が世間をにぎわせはじめる。モッズは細身の3つボタン・スーツにミリタリー・パーカを身にまとい、音楽をこよなく愛し、スクーターで街を移動する若者のこと。労働者階級のモッズたちは、懐に余裕があるときにスーツを購入していたようで、普段はワーキング・ブーツやミリタリー・ブーツを履き、ボタンダウン・シャツにストレートのリーバイスなど、実用的なアイテムを身に付けていることが多かったという。このスタイルは、1960年代後半から「スキンヘッド(スキンズ)」と名を変えて独自のスタイルを築いていくことになる。思想により、スキンズ内で名称は細分化するのだが、いずれにせよ、生まれたてのスキンズは、自身の階級の誇りを表すアイテムとして、ドクターマーチンを選んだ。

このように、アイデンティティーを主張する手助けとなったドクターマーチンだが、その名を世に知らしめ、また英国を代表するブランドに躍進させた最も重要な立役者は「ミュージシャン」であった。

このように、アイデンティティーを主張する手助けとなったドクターマーチンだが、その名を世に知らしめ、また英国を代表するブランドに躍進させた最も重要な立役者は「ミュージシャン」であった。

967年、英ロック・バンド、ザ・フーのピート・タウンゼントは、英北部のとあるショップで、ライブのためにドクターマーチンのブーツを購入。派手なステージ、パフォーマンスで知られるタウンゼントは、そのステージでも、ドクターマーチンを履いて自由に跳ね回った。もちろんブーツはカメラマンが捉えた印象的なシーンにことごとく写り込み、ファンの目に飛び込むのに時間はかからなかった。また、タウンゼントはブーツについて「柔らかさと、足へのなじみの良さを兼ね備えたこのタフなブーツが、自分のパフォーマンスをより高みへ導いた」と、絶賛したという。タウンゼントはドクターマーチンを早期に履いた有名アーティストの1人であるが、その後もパンク・バンド、ザ・クラッシュのジョー・ストラマー、スカ・バンドのマッドネス、ロック・バンド、ザ・スミスのボーカル、モリッシーなど、数え切れないほどのミュージシャンたちが愛用。また、ファンたちもこぞってファッションを真似することで、愛用者を着実に増やしていった。こうしてドクターマーチンは、偶然に助けられながらも、英国のユース・カルチャーを支える必須アイテムとして君臨したのである。

ピート・タウンゼントライブでドクターマーチンを履いたピート・タウンゼント

ロンドンのキングス・ロード1983年、ロンドンのキングス・ロードに集まるパンクたち

ノーザン・ソウルでダイナミックに踊る若者たちノーザン・ソウルでダイナミックに踊る若者たち

マッドネスコベント・ガーデンのショップを訪れたマッドネス

政治家も愛用した

血気盛んな若者たちに履かれていたドクターマーチン。だが、公の改まった場所にも登場したこともあった。労働党員として47年間下院議員を務めたトニー・ベン(1925-2014)は、父から受け継いだ上院議員の地位を捨て、戦後の英国の労働運動を積極的に後押しした政治家。ベンはよくドクターマーチンの靴を履いて議会に登院していたため、一般の見解としては労働者階級との団結を表現していた、と言われている。しかし、かつて「ガーディアン」紙のインタビューで、そのとき履いていた黒のドクターマーチンについて聞かれ、「1970年代ごろ、息子からこの靴のことを教えてもらい、試しに履いてみたらとても履きやすかった。以来ずっと履いています」と答えた。

トニー・ベン 英政治家のトニー・ベン

業績不振からの飛躍

さまざまな階級の人たちに受け入れられ、売り上げを伸ばしていったドクターマーチンのエアウェア社だが、2000年代に入る直前、その勢いに陰りが見えはじめる。原因は、国内ではなく「米国市場での売り上げ減少による財政難」。状況は非常に悪く、建て直すどころか倒産の危機まで迫ったため、2003年、国内の工場を1つだけ残し、生産拠点を中国とタイへ移転するという苦渋の決断を下す。結果として、1000人以上が職を失うことになった。追い込まれた同社が考えた策は、ジミー・チュウやヴィヴィアン・ウェストウッドなど名のあるファッション・ブランドとコラボレーションし、ファッション好きの若者を惹きつけること。こうして当座を凌ぎ、事業再生へのめどをつけた同社は、4年後の2007年、英中部ウォラストンにあるコブスレーン工場で、昔ながらの製法で作った「ビンテージ」コレクションの製作を開始。ブランド・イメージの名誉挽回である。使用するレザーは「キュイロンQuilon」と呼ばれる厚みのある非常に硬いもので、履きはじめはとにかく痛い。かつてのファンは、この分厚いレザーこそドクターマーチンだと復活を喜んだそう。その後も国内外で次々とショップをオープンさせ、名実ともに完全復活を遂げた。

現在は東アジアを含む海外市場での売り上げが好調で、他社とのコラボレーションも引き続き積極的に行っている。2018年には英美術館テート・ギャラリーとタッグを組み、英画家の作品をプリントするなどの斬新な挑戦も試みている。

発売当初に比べると、ブランドの持つとがった雰囲気は薄くなりつつあるが、英コメディアン兼作家のアレクセイ・セイルの歌「ドクターマーチン・ブーツ」の、「階級もイデオロギーも関係ない、(中略)履けば誰もが自由になれるんだ」という歌詞の通り、これからも多くの人を魅了し続けていくことに変わりはないだろう。

60年代のロゴと、ニューオーダーのジャケットがプリントされたドクターマーチン英国のロック・バンド、ニュー・オーダーとコラボし、アルバム「テクニック」のジャケットをプリント

知られざるエピソード

2007年広告事件

2007年、契約していた広告代理店「サーチ・アンド・サーチ(S&S)」がとんでもない広告を作ってしまった。ニルバーナのカート・コバーン、ザ・クラッシュのジョー・ストラマー、セックス・ピストルズのシド・ビシャス、ラモーンズのジョーイ・ラモーンら今は亡きミュージシャンたちが、ドクターマーチンの靴を履いて雲の上に佇むというビジュアルで、まるで4人を神様のように見立てたものだったという。S&Sが勝手に作業を進めたのに加え、遺族の許可も取っていなかったため、広告を見た遺族たちが声明を出す事態になった。ドクターマーチンを販売するエアウェア社は、この一連の騒動について遺族に謝罪し、S&Sとの契約を打ち切ることにした。

好調なアジア市場とファンの本音

2013年、投資ファンドのペルミラと組み、さらなる市場拡大を目指したドクターマーチン。そのかいあって、日本を含む東アジア市場での売り上げが好調のようだ。また、重くてゴツい従来のブーツを3分の1に軽量化し、よりスマートな見た目へチェンジした「DM's Lite」という新ラインは、ティーンエイジャーを中心にヒット。このように近年はファッション性重視の傾向が感じられるが、昔からのファンはどう受け止めているのだろうか? 「ガーディアン」紙に寄せられた意見では、新しい開発を好意的に受け止める人がいる一方、「時代が変わって、昔のパンクやスキンズみたいに、社会に対して反逆する子どもたちはもういなくなったのだろうか」「品質が下がってから履かなくなってしまった」「私は現在60歳で、少し高かったけど、丈夫な英国産のドクターマーチンを買ったわ。私より長生きするんじゃないかしら」など、ノスタルジーに浸る人々も少なからずいるようだ。

ドクターマーチン

最終更新 Montag, 24 Dezember 2018 10:39
 

フォトコンテスト2018受賞者発表!

ニュースダイジェスト主催 フォトコンテスト2018 受賞者発表!

カメラかけがえのない旅の思い出から何気ない日常のふとした発見まで、今年も多くの力作が届いた、ニュースダイジェスト主催のフォトコンテスト2018。いよいよ栄えある受賞作品の発表です。今年は家族を被写体にした作品が数多く寄せられました。それでは、受賞者の皆さんによる思いのこもった写真を見ていきましょう!

テーマ「2017〜2018年の思い出」

王冠マチュア部門大賞

「ハイジ」
藤岡 聖陽さん 英国

「ハイジ」藤岡 聖陽さん

夏に家族でスイスへ行った際に撮影しました。マッターホルンを前に、息子が大好きなブランコで遊んでいる様子を残したくて、角度やタイミングを変えて何度もシャッターを切りました。2歳の息子が山をしっかり見ている点が特に気に入っています。まさか大賞を貰えるとは思いませんでした。応募を強く勧めてくれた妻に感謝です。

審査員コメント

遠近法を効果的に使った素晴らしい作品です。小さな子供を雄大なマッターホルンの前に配置し、しかもその山を子供が見下ろしているように撮影。青い空に子供が浮かんでいる構図も良いです。まさにタイトル通り、「ハイジ」のオープニングに出てくるようなユニークな、そしてよく考えられた写真ですね。

王冠 キッズ部門大賞

「いちごだいすきおにいちゃん」
加藤 立佳さん(6歳)英国 

「いちごだいすきおにいちゃん」加藤 立佳さん(6歳)

今年の5月に家族みんなで車に乗っていちご狩りにいきました。とっても大きないちごがいっぱい採れました。真っ赤で、甘くて、すごくおいしかったです。いつもはあんまり笑わないおにいちゃんも、いちごが大好きだから「うれしい」ってにこにこしていたので、写真を撮りました。

審査員コメント

本当にいちごが大好きな様子が男の子の表情から分かりますね。こんなにいっぱい収穫したという達成感にあふれた満足げな笑顔が、うまく切り取られています。これを撮影したのが妹さんというのも興味深いです。家族ならではのリラックスした表情と親密な時間が作品から伝わってきます。

「絆」
坂本 知美さん ドイツ 

「絆」
坂本 知美さん

この写真は、12月に訪れた北海に浮かぶノルダーナイ島で撮影しました。引き潮後、太陽の光が海と砂浜に反射してキラキラ輝くなか、犬と飼い主が楽しそうに散歩する姿は映画のワンシーンのようでした。広大な景色でも主役の存在感を写真に収められた点が気に入っています。

審査員コメント

映画のワンシーンのような、物語を感じさせる、本当に美しい 一枚です。犬を連れて散歩する人のシルエットがそこに写って いるのは奇跡のようです。全体的にモノトーンな印象のなかで、 光が瞬間的に見せてくれる美しさ、そこに現れる静かな色彩。 完成された一枚の絵を感じます。by JSTV

「初めての夏」
伊藤 優香さん ドイツ

「初めての夏」
伊藤 優香さん

息子が生まれてから写真を撮るようになりました。今年は異常気象で、北ドイツでも長い暑い夏。生まれて初めて夏を経験する息子と海やプールで遊びました。でも1番良いお顔は、お風呂上がりに遊んだ何でもない日に撮れました。これからたくさんの思い出を写真に残していきたいです。

審査員コメント

この作品に写っている赤ちゃんを見て、すぐに撮影者であるお母さんが赤ちゃんを愛おしく思う気持ちが伝わってきました。言うなれば、被写体とは鏡に映った自分を撮るようなものです。被写体から撮影した人の気持ちが伝わってくる写真は、良い写真である紛れもない証だと思います。by 佐藤製薬

「短い夏の過ごし方」
三塩 佑子さん ドイツ

「短い夏の過ごし方」
三塩 佑子さん

今年の猛暑で、フィンランドでも珍しく夏が長く感じられました。毎日のようにピクニックに行ったり湖に行ったりして、そんな夏のひとときを撮った一枚です。フィンランドでは冬が長い分、夏はみんな外に出て思う存分1日を満喫します。今年は私にとってベルリン移住前最後のフィンランドでの夏だったので、この一枚が入賞できたことをうれしく思います。

審査員コメント

繊細な影絵アニメーションの1コマのような、一目見た瞬間に幻想の世界に連れて行ってくれる美しい作品です。まるで、北欧の短い夏の一日が終わる前の景色と水面に足を入れたとき、その音が聞こえてきそうな静けさを切り取ったような一枚です。木の枝や葉、草、女性たちの美しい体のフォルムと湖面に映るその影、構図がとても素晴らしいです。 by Steigenberger Frankfurter Hof

キッズ部門入賞

「出発式」
林 令惟さん(2歳)ドイツ 

「出発式」
林 令惟さん(2歳)

ママから初めて大きなカメラを持たせてもらったときに撮れた写真だよ。ママと一緒にブロックで作った大好きな汽車を写してみたんだ。もうすぐ始まる幼稚園にわくわくしていた、夏休みの頃の思い出だよ。この写真を撮ったとき、「新しい旅へ、出発!」という気持ちだったんだ。

審査員コメント

お部屋の中で夢中になって遊んでいるときの、ワクワク感と楽しい気持ちがいっぱい詰まった写真です。写っているブロックの作品は、ママと一緒に作ったのでしょうか。人形がちょこんと乗ったカラフルな汽車や、それを追いかける小さな亀が、見ていて今にも動き出しそうです。by BOOKstore NIPPON

キッズ部門入賞

「明日に向かって走れ!」
加藤 大惺さん(12歳)ドイツ 

「明日に向かって走れ!」
加藤 大惺さん(12歳)

近所の公園で妹と弟のような犬が走っているところを撮りました。元々外に出るのが苦手なおじいちゃんに近い年齢の犬ですが、妹につられて公園中を元気に走り回っていたのが思い出です。偶然、太陽の光が良い感じに写ったので「、明日へ向かって走れ!」という言葉が合う気がしてタイトルにしました。

審査員コメント

広々とした芝生の上を思いっきり駆けていく、女の子とわんちゃんの元気な仲良しコンビに、大きなパワーをもらって感謝! です。躍動感あふれる写真で、見ているこちらも思わず一緒に駆け出したくなります。画面いっぱいの緑色で、写真から5月の暖かい陽気も感じられました。 by 日本航空フランクフルト

受賞者と賞品

大賞・特別賞

  • マチュア部門大賞 : 「ハイジ」藤岡聖陽さん(英国)
    Canon Europe より
    ミラーレスカメラ Canon EOS M50 / レンズ:EF-M 15-45mm / IS STM
  • キッズ部門大賞:いちごだいすきおにいちゃん」 加藤立佳さん(ドイツ)
    Canon Europe より
    コンパクトフォトプリンター Canon SELPHY CP1300

ドイツマチュア部門入賞

  • 「絆」坂本知美さん
    NHK Cosmomedia (Europe) Ltd. より
    JSTV無料視聴 €100相当
  • 「初めての夏」伊藤優香さん
    Sato Pharmaceutical Co., Ltd. Europe Office より
    ユンケル黄帝液20本&ユンケル・グリーンラベル20本
  • 「短い夏の過ごし方」三塩佑子さん
    Steigenberger Frankfurter Hof より
    THE SPAのご利用券

ドイツキッズ部門入賞

  • 「出発式」林令惟さん
    BOOKstore NIPPON より
    オススメ児童書・折り紙セット
  • 「明日に向かって走れ!」加藤大惺さん
    Japan Airlines より
    もらって嬉しいJALの福袋セット

審査員総評

今年も素晴らしい作品が勢ぞろいし、大変審査の難しいコンテストでした。マチュア部門では構図の決め方を含め、技術的に洗練されたハイレベルな作品が集まりました。キッズ部門についても大人とは異なるピュアな視点で切り取られた、勢いのある作品が多かったです。

受賞作品は日本語テレビ局JSTVで、2019年1月3週目より順次放送予定

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最終更新 Donnerstag, 06 Dezember 2018 14:12
 

ドイツのクリスマスを楽しもう!

クリスマス今年はひと味違う過ごし方を
ドイツの
クリスマスを楽しもう!

11月に入り街はクリスマス飾りでおめかしし、通りでプレゼントを抱えて歩く人を見かけたり、クリスマスもすぐそこですね。ドイツには、日本とは違うクリスマスのお楽しみが満載です。ドイツのクリスマスのことをもっと知って、いつもとひと味違うクリスマスを楽しんでみませんか?
(Text:編集部)

24 fakten zur Weihnachten in Deutschland
ドイツのクリスマスにまつわる24の事実

  • 1ドイツには「世界最古」のドレスデン、「世界一有名」なニュルンベルク、「世界最大」のシュトゥットガルトの3大クリスマスマーケットがある(編集部調べ)
  • 2毎年約370万人の来場者が訪れ、約300もの屋台が軒を連ねるドルトムントが「最も多くの人が訪れる」クリスマスマーケット(SAT.1 Gold:12 KURIOSE UND INTERESSANTE FAKTEN ÜBER WEIHNACHTEN)
  • 3世界最古となるドレスデンのクリスマスマーケットは、1434年にザクセン選帝侯フリードリヒ2世によって設立された(Geschichte des Dresdner Striezelmarkts)
  • 4クリスマスマーケットの予算は一人平均約30ユーロ(SAT.1 Gold:12 KURIOSE UND INTERESSANTE FAKTEN ÜBER WEIHNACHTEN)
  • 5出生率が最も高いのは9月。つまりクリスマスシーズンに子どもを授かる人が多い(SAT.1 Gold:12 KURIOSE UND INTERESSANTE FAKTEN ÜBER WEIHNACHTEN)
  • 6クリスマス時期の体重増加は平均でわずか約370g(SAT.1 Gold:12 KURIOSE UND INTERESSANTE FAKTEN ÜBER WEIHNACHTEN)
  • 7ドイツのアルコール消費量は12月に36%増加する (SAT.1 Gold:12 KURIOSE UND INTERESSANTE FAKTEN ÜBER WEIHNACHTEN)
  • 8世界で最も長いライベクーヘンは1052.3m (FloraQueen:10 interessante und lustige Fakten über Weihnachten)
  • 9クリスマスには約41%のドイツ人が携帯電話やMP3プレイヤーなど、電子機器を贈る (Seitenwaelzer:10 fantastische Fakten über Weihnachten)
  • 10ドイツ人の40%がクリスマスプレゼントを購入する。平均して5人にプレゼントを送る(Seitenwaelzer:10 fantastische Fakten über Weihnachten)
  • 11ドイツ全土で毎年約7690万ユーロがクリスマスギフトに費やされている(Seitenwaelzer:10 fantastische Fakten über Weihnachten)
  • 12ドイツの平均的なクリスマスツリーは164cm。クリスマスシーズンには約2800万本の針葉樹林が発売される(Seitenwaelzer:10 fantastische Fakten über Weihnachten)
  • 13男性の34.4%が電化製品類、女性の28%が香水やクーポンをクリスマスプレゼントのウィッシュリストに挙げている(FloraQueen:10 interessante und lustige Fakten über Weihnachten)
  • 14親が子どもに贈るプレゼントの予算は平均131ユーロ(myToys-Umfrage:Eltern geben pro Kind 131 Euro für Weihnachtsgeschenke aus)
  • 151535年にマルティン・ルターがクリスマスプレゼントを贈る習慣を考え出した(WE STYLE:24 Fakten Zur Weihnachtszeit)
  • 16ドイツ全土にイエスという名前の人物が約390人いる(WE STYLE:24 Fakten Zur Weihnachtszeit)
  • 1740%のドイツ人がクリスマスイブにソーセージとポテトサラダを食している(Mammheimer Morgen: Hohe Kauflaune bei großer Zuversicht)
  • 1845%の子どもたちがサンタクロースがプレゼントを運んでくると思っている(Allianz:O du fröhliche)
  • 1968%の人が店舗でプレゼントを購入することを好み、12%の人がインターネットで購入することを好んでいる(Mammheimer Morgen: Hohe Kauflaune bei großer Zuversicht
  • 20ドイツにはクリスマスポストが7つある(WE STYLE:24 Fakten Zur Weihnachtszeit)
  • 2138%のドイツ人が贈り物が気に入らない場合でも正直に言えない (Allianz:O du fröhliche)
  • 2237%のドイツ人がパートナーにクリスマスプレゼントを贈っている (Allianz:O du fröhliche)
  • 2346%の人が10~11月の間にクリスマスプレゼントを用意する (EY:Weihnachtsgeschenke 2016)
  • 24ドイツ人の81%がクリスマスを楽しみにしている (Presentationload:Infografiken zu Weihnachten)

ドイツのクリスマス、どう過ごしてる?
わが家のクリスマスの迎え方

お子さんのいるご家庭を中心にアンケートにご協力いただき、それぞれのクリスマスの過ごし方を教えてもらいました。今年のクリスマスを迎えるヒントにぜひ!

アンケートに協力してくれた人

国本隆史さん国本隆史さん
滞在都市:ブラウンシュヴァイク
ドイツ在住歴:6年
今年のプラン:ドイツのおばあちゃんと一緒に手作りクッキー食べながら、プレゼントを交換する。

MさんMさん
滞在都市:ベルリン
ドイツ在住歴:10年
今年のプラン:幼稚園だけでなく、わが家でももみの木の飾りつけをしてみたい。

クニコさんクニコさん
滞在都市:デュッセルドルフ
ドイツ在住歴:23年
今年のプラン:窓をきれいに拭いて完全清掃して、お正月のようにクリスマスを迎える。

Megumi.TさんMegumi.Tさん
滞在都市:デュッセルドルフ
ドイツ在住歴:12年
今年のプラン:子どもが少しずつ字を書けるようになってきたので、一緒にサンタさんへ手紙を書きたい。

M.K.さんM.K.さん
滞在都市:デュッセルドルフ
ドイツ在住歴:5年以上
今年のプラン:子どもを連れて、ケルンのクリスマスマーケット巡りを計画中。

デコレーション

クリスマスの飾りつけ

早いところでは、10月初旬にはクリスマス飾りが売られはじめるドイツ。部屋の中を思い思いに飾って、クリスマスを迎える準備をしましょう。

アドベント
待降節のこと。イエス=キリストの降誕にそなえる準備期間で、11月30日に最も近い日曜日からクリスマス・イブまでの期間がそれに当たる。毎日曜は第一アドベント、第二アドベント、第三アドベント、第四アドベントと呼ばれ、アドベントを迎えるごとに四つのろうそくが立てられたリース「アドベントクランツ」のろうそくに1本ずつ火を灯す習慣がある。2018 年は12月2日(日)が第一アドベント。

クニコさんアドベントクランツを手作りで

第一アドベントの前に、アドベントクランツ(写真下)を作ります。数種類のモミの葉をリースに巻き付け、乾燥オレンジやりんご、秋に集めておいた木の実や苔むした枝、ガラス玉などを飾ります。アドベントを迎えるごとに火を灯していくのは、キリスト教徒でなくても厳かで、クリスマスを楽しみにする気持ちを高揚させてくれます。(クニコさん)

アドベントクランツ

Mさんクリスマスマーケットで飾りを購入

アドベントが始まる頃になると、クリスマスマーケットで購入したちょっとしたものを部屋に飾ります。アドベントクランツは購入したり手作りするなどして、毎年欠かさず飾っています。(Mさん)

Megumi.Tアドベント中もツリーを楽しむ

ドイツでは12月24日にツリーを飾り付ける家庭が多いですが、わが家のツリーはアドベント期間中もすでにデコレーション済み。年によっては日本に一時帰国するため、クリスマス当日にドイツにいなくてもその雰囲気を味わえます。日照時間が少ないので少しでも明るくピカピカさせて、気持ちを盛り上げています。(Megumi.Tさん)

Megumi.T旅のお土産もデコレーションに

欧州各地を旅行したときに、お土産で買ったミニチュアの街並み(写真下)を飾ります。毎年一つずつ購入し、日本の家族にプレゼントもしています。(Megumi.Tさん)

ミニチュアの街並み

クニコさんツリーの飾りはテーマを決めて

クリスマスの数日前にもみの木を買い、今まで集めた飾りでデコレーションします。娘と飾りのテーマを決めるのが、毎年の恒例行事。例えば、「山小屋風」なら赤い球とギンガムチェックのリボン、「お菓子の国」ならパステルカラーを基調に、布やフェルトでできたマフィンやクッキーを飾ります。(クニコさん)

国本隆史さん大切なコレクションも飾りつけ

12月の週末にわが家に友だちが集まり、大量にクッキーを焼くのですが、その日までにツリーの飾りつけをしておくのが理想です。リヤカーを持ってもみの木を買いに行きます。パートナーが子どもの頃から大事にしてきた天使や雪、星などの飾りや、子どもたちが幼稚園で作ってきたものをみんなで飾り付けます。(国本隆史さん)

アドベントカレンダーアドベントカレンダー

12月1日から毎日1から24までの数字が振られた窓を一つずつ開けていく、お馴染みのアドベントカレンダー。子どもがいる家庭では、毎日小さなプレゼントを贈ることもあります。

Megumi.Tさんお菓子なしのおもちゃカレンダー

お菓子をもらう機会が多い季節でもあるので、わが家のアドベントカレンダーは甘いものは入れず、小さなおもちゃなどで作ります。手作りできなかった年は、プラモデルやブロックのパーツがセットになったカレンダーを購入。手作りよりも、完成度の高いおもちゃのほうが喜ばれることも。子どもは手作りから愛を図ったりしないのです。(Megumi.Tさん)

国本隆史さんお菓子や実用品をバランスよく

わが家のアドベントカレンダーの内訳は次の通り。小さなチョコレートやグミが3割、絵本が3割、ヘアゴムや自転車のライトなど実用的なものが3割、あとはおもちゃです。(国本隆史さん)

M.K.さん定番のお菓子入りカレンダー

チョコレートなどの小さなお菓子が入った市販のアドベントカレンダーを用意します。スーパーやドラッグストアで売られているものでも、喜んでくれます。(M.K.さん)

クニコさん娘の成長に合わせてコスメなども

子どもが小さかった頃は、24個のポケットがついた壁掛けに文具やおもちゃ、ビーズのアクセサリーなどを入れていました。娘が少し大きくなってからは、マニキュアやリップスティックなどのコスメも。プレゼントをこっそり買い溜めるのが楽しくもあり、大変でもあり……。(クニコさん)

クリスマスのお祝い

待ちに待ったクリスマス。家族や友人など大切な人たちと集まって、おいしいもの囲み、ゲームで遊んだり……。わが家の恒例行事も聞いてみました。

クニコさんクリスマスに家族みんなの好物「手巻き寿司」

ドイツ生まれ育ちの子どもたちはクリスマスをドイツで過ごしたがるため、この時期に一時帰国することはありません。そこで、日本に帰らない友人たちと集まって、忘年会代わりに会食します。家族みんなが大好きな手巻き寿司をすることが多く、丸鶏を焼くことも。とっておきのワインを開けて、ボードゲームも全員参加です。(クニコさん)

国本隆史さんミサに出かけたらプレゼントタイム

わが家でよく食べるのは、スイスのチーズケーキであるラクレット、それから鴨ですね。クリスマスの日は、午後2時ごろ教会のミサに行き、家に帰ってきたらツリーの下に置いてあるプレゼントを開けます。あとは、アドベント期間中に大量に焼いたクッキーを食べます。(国本隆史さん)

Megumi.Tさんやっぱり食べたい生クリームのケーキ

チキンや鴨肉など、鶏がメインの料理が多いです。ドイツのクリスマスケーキと言えばシュトレンですが、やっぱり生クリームたっぷりのケーキが食べたくなるので、毎年お菓子作りが趣味の夫が用意してくれます(写真下)。(Megumi.Tさん)

生クリームのケーキ

M.K.さん「もみの木」をドイツ語で大合唱

わが家のメインディッシュはロブスターです。クリスマス当日は毎年教会へ。クリスマスの歌「もみの木(O Tannenbaum)」をドイツ語で大声で、繰り返し歌い続けたり、家族で楽しく過ごしています。(M.K.さん)

Mさん日本風に鍋を囲んでパーティー

特に決まった過ごし方はありませんが、家族や友人と鍋パーティーをする……など日本風です。別の街に旅行することも。クリスマス前に、ドイツ人の知人宅でその時期ならではのお菓子をいただいたり、ツリーの飾りつけを見せていただいたりもしています。(Mさん)

サンタわが家のサンタさん事情

ドイツには、日本式のサンタさんはやってくるのでしょうか?それぞれの家庭で苦労があるようです。

Mさんサンタさん、気づいてもらえず……

昨年初めて日本式に、枕元にサンタさんからとプレゼントを置きました。しかし、翌朝本人は全く気付かず、なんとか誘導してプレゼントに気付かせたのですが、唖然とした様子。今年はサンタさんにお願いしたいものがあるようです。(Mさん)

Megumi.Tさんわが家にサンタさんは来る? 来ない?

クリスマスの登場人物が豊富なドイツ。わが家にはニコラウスは来ない、と取捨選択するのも一苦労。日本で育った夫婦間でも見解の不一致があり、24日の夜に枕元に置くという方針に落ち着くまで、いろいろと考えを巡らせました。(Megumi.Tさん)

クニコさん努力が報われなかったサンタさん

数年前、娘が欲しがったのは勉強机用の椅子。こっそり椅子を買い、地下室へ隠し、夜中に組み立て……。翌朝、娘が目を覚まして包み紙を破く音がしたのもつかの間、「IKEAのシールが貼ってある!」の一声が。大失敗でした。(クニコさん)

ドイツのクリスマスを彩る
個性豊かなキャラクター図鑑

聖ニコラウス Saint NicholasSaint Nicholas
サンタクロースの起源 聖ニコラウス

真っ赤な衣装に恰幅の良い姿、たっぷり蓄えられた白いひげが印象的なサンタクロースは、ドイツには存在しない。ドイツではサンタクロースの起源と言われているギリシャ人司教、聖ニコラウスがその役割を果たす。3〜4世紀に生きたとされており、生前は慈悲深い司教として貧しい人々の生活を支えたことから人々に慕われていたという。家計に苦しむ3姉妹の家の煙突に金品の入った袋を投げ入れ、それがたまたま暖炉横に吊るしてあった靴下の中に入ったことで、靴下の中にプレゼントを入れるという習慣が始まったというエピソードもある。聖ニコラウスが亡くなった12月6日を「聖ニコラウスの日」として、ドイツではこの日に小さなプレゼントが渡される。各地のクリスマスマーケットでも司教の帽子を被った聖ニコラウスが練り歩くことも。クネヒト・ループレヒト(下)という従者とともにやってくる。

Knecht Ruprecht
聖ニコラウスの助手 クネヒト・ループレヒト

クネヒト・ループレヒト Knecht Ruprecht

聖ニコラウスと行動をともにするクネヒト・ループレヒトは、「黒いサンタクロース」とも呼ばれている。1年間良い行いをした子どもにはご褒美としてジンジャーブレッドなどをプレゼントするが、悪い行いをした子どもには罰としてお仕置きをして懲らしめるという役割が。欧州にはクネヒト・ループレヒト以外にもさまざまな「聖ニコラウスの同伴者」が存在し、ドイツのザールラントやバーデン=ヴュルテンベルクの周辺で知られるBelsnickelなどがいる。また、ドイツ各地でクネヒト・ループレヒトに相当する存在は、Hans RuprechtやRumpknechtなど、たくさん存在している。

Christkind
ドイツ南部のクリスマスの天使 クリストキント

クリストキント Christkind

主にドイツ南部やオーストリア、スイスなどに伝わるクリスマスの天使。ドイツにおいては、「世界で最も有名」なニュルンベルクのクリスマスマーケットのビッグイベントとして、2年に一度クリストキントを決定するコンテストが行われる。コンテストで選ばれた人物はゴールドとホワイトの衣装を身にまとい、金髪の巻き髪のかつらをつけるのが伝統として受け継がれている。名前は「幼いキリスト」だが、そのイメージは女性の姿として想像されており、この地域ではサンタクロースと同じ役割を持つとしてクリストキントが12月24日にプレゼントを持ってくると言われている。

Nussknacker
さまざまな種類に出会える くるみ割り人形

くるみ割り人形 Nussknacker

欧米で現代でも愛され続けているクリスマスを舞台にしたバレエ「くるみ割り人形」。1816年にドイツのE.T.A. ホフマンによって発表された「くるみ割り人形とねずみの王様」が原作となっており、ドイツにもゆかりがある。くるみ割り人形は文字通りくるみを割るために使う道具のことで、ドイツではアドベントの時期に民芸品としてさまざまな種類のくるみ割り人形をクリスマスマーケットやデパートなどで見ることができる。現在ではオリジナルの用途のほかにも装飾用やドイツ土産としてもニーズが。コレクションしたくなるような大小さまざまなスタイルが特徴。

Krampus
バイエルン州の「なまはげ」 クランプス

クランプス Krampus

ヤギのような風貌で二足歩行する、クランプスは、欧州中部の国で伝わる伝説の生き物。ドイツでは主に南部のバイエルン州で知られており、ミュンヘンのクリスマスマーケットでは期間中2回に渡って街を練り歩く。親の言うことを聞かない悪い子どもには、手に持っているムチで罰を与えるというのが伝統。リアリティーのあるマスクは羊の皮や角を使って製作されている。子どもの頃に見たらトラウマになること必至。アメリカではクランプスを題材にしたダークファンタジー映画があったり、日本ではクランプスジャパンという団体が主催するパレードが行われるなど、世界的な知名度を誇る。

番外編

Gingerbread man
ドイツでは人型じゃない ジンジャーブレッド

ジンジャーブレッド Gingerbread man

人型クッキーに愛らしい表情がアイシングされているジンジャーブレッドマンもクリスマスを代表するキャラクター。しかし、ドイツにおけるジンジャーブレッドは、「レープクーヘン(Lebkuchen)」と呼ばれる円盤型のお菓子(写真右)を指す。レープクーヘンが特産品となっているドイツ南部のニュルンベルクでは、エリーゼンレープクーヘンと称されている。

ヴェックマン WeckmannWeckmann
クリスマス前に登場する ヴェックマン

ドイツの菓子パン「ヴェックマン」はアドベント期間にもパン屋などで売られるため、クリスマスのキャラクターと思われがち。実はマルティン・ルターの誕生日(11月10日)から聖ニコラウスの日(12月6日)にかけて出回るだけで、クリスマスとは直接関係がない。片手にパイプを持っているのが一般的だが、表情や姿形はさまざまで、チョコやレーズン入りなどもある。


最終更新 Freitag, 02 Dezember 2022 17:52
 

第一次世界大戦終結から100年 - 英国・ドイツ・フランスで語り継がれる大戦の逸話

終戦から100年英国・ドイツ・フランスから見る
第一次世界大戦

1918年11月11日に第一次世界大戦が終結してから、ちょうど100年。欧州を中心に世界を巻き込んだ未曽有の大戦では、4年間で軍人と一般市民をあわせて1500万人以上の死者が出たと言われる。また、その後の第二次世界大戦をはじめとした現代史にも大きな影響を与えた出来事でもあった。この100年という節目に、ニュースダイジェストでは私たちが暮らす欧州、特に英国・ドイツ・フランスの3カ国にまつわる第一次世界大戦の逸話を集めることにした。まずは、第一次世界大戦とはどんな戦争だったのか、その歴史をポイントごとにおさらいする。
(Text:英国ニュースダイジェスト・ドイツニュースダイジェスト編集部) 
参考文献:『詳説世界史B』(山川出版社)、『世界史B』(実教出版)

第一次世界大戦 年表

1908年 オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合
1912年 第一次バルカン戦争
1913年 第二次バルカン戦争
1914年 6月28日 サライェヴォ事件
7月28日 第一次世界大戦勃発
8月26日 タンネンベルクの戦い(ドイツvs ロシア)
9月5日 マルヌの戦い(フランスvsドイツ)
1916年 2月~12月 ヴェルダンの戦い(フランスvsドイツ)
6月~11月 ソンムの戦い(英国・フランスvsドイツ)
1917年 2月 ドイツが無制限潜水艦作戦を宣言
3月・11月 ロシア革命
1918年 11月 ドイツ革命
11月11日 第一次世界大戦終結
1919年 パリ講和会議

第一次世界大戦の背景
「ヨーロッパの火薬庫」だった
バルカン半島

20世紀初頭、欧州の帝国主義列強諸国の間では、バルカン諸国とオスマン帝国の動向に関心が集まっていた。特にオーストリアは国内のスラブ系民族による分離・自治運動が激化することを恐れ、セルビアなどのバルカン地域の台頭を抑えこもうとした。1908年、オーストリアはスラブ系民族の多いボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合 。しかし、スラブ系民族主義者はこの併合に強く反対した。

一方、ロシアはオーストリアの進出に対抗して、セルビアなどの4カ国をバルカン同盟として結束させた。その後、対オスマン帝国の第一次バルカン戦争、同盟内で争った第二次バルカン戦争が勃発。各列強が特定のバルカン諸国と結びついていたため、列強諸国の関係はさらに緊張が高まり、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるようになった。

逮捕されるセルビア人男性オーストリア皇太子を殺害し、逮捕されるセルビア人男性

第一次世界大戦の勃発
大戦の引き金となった
サライェヴォ事件

1914年6月28日、ボスニアの州都・サライェヴォを訪問中だったオーストリア帝位継承者夫妻が、セルビア人に暗殺されるサライェヴォ事件が起こった。オーストリアはこれをスラブ系民族運動を抑えるチャンスと捉え、7月28日にドイツの支持を得てセルビアに宣戦を布告し、第一次世界大戦が勃発した。オーストリア側にドイツ、セルビア側にロシアが参戦したことから、英仏露の三国協商により、英国とフランスもドイツに宣戦した。

結果的に、ドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ブルガリアの4カ国からなる同盟国と、英国、フランス、ロシアなどの27カ国の連合国が参加する大戦争へと発展した。

第一次バルカン戦争で進軍するオスマン帝国の兵士たち第一次バルカン戦争で進軍するオスマン帝国の兵士たち

第一次世界大戦の戦禍
長期化した塹壕戦と
新兵器の投入

戦争はドイツのベルギー侵入から始まった。しかし、マルヌの戦いでフランス軍がドイツ軍を阻止した。それ以後、西部戦線では両軍とも塹壕にたてこもる膠着状態となり、長期にわたる持久戦となる。一方、東部戦線ではタンネンベルクの戦いでドイツ軍がロシア軍を破ったものの、やはり膠着状態に。西部戦線ではさらに、ヴェルダンの戦いやソンムの戦いなどの激戦があったものの、勝敗は決まらなかった。

この大戦では、航空機、毒ガス、戦車などの新兵器が使われるようになった。その開発と大量生産能力は、各国の工業力によっていたため経済戦争ともいわれる。また、多くの人と物資を動員した総力戦であり、英国やフランスは自国の植民地から労働力や兵員、物資を補った。

フランスの西部戦線に配置された英軍の戦車フランスの西部戦線に配置された英軍の戦車

第一次世界大戦の終結
平和構築を目指し、
国際連盟が誕生

1917年、ドイツは連合国側の物資輸入を困難にするため、無制限潜水艦作戦と称し、潜水艦で船舶を攻撃。これにより、連合国側と結びついていた米国がドイツに宣戦した。その後、ドイツは不利な状況に追い込まれ、1918年の秋に同盟国側が相次いで降伏する事態に。同年11月11日、ドイツの臨時政府が休戦条約に調印し、戦争が終結した。

1919年、英国、フランス、米国、イタリア、日本が中心となってパリ講和会議が開かれた。その結果、ドイツの戦争責任や軍事制限を取り決めたヴェルサイユ条約などからつくられた国際秩序を、ヴェルサイユ体制と呼ぶ。また、同会議内で平和維持を目的に国際連盟が設立された。

パリ講和会議にて、米ウィルソン大統領ら三巨頭を含む国際連盟委員会パリ講和会議にて、米ウィルソン大統領ら三巨頭を含む国際連盟委員会

第一次世界大戦の影響
国民の不満が革命につながった

総力戦となったことで、交戦国では経済統制や食料配給制度が実行され、その結果として各国の社会と国民に大きな変動をもたらした。特にロシアとドイツでは食料暴動や反戦ストライキなどが多発し、国民の不満はやがて革命へとつながった。1918年3月と11月に起こったロシア革命 によりソヴィエトが、終戦直前に起こったドイツ革命により1919年にヴァイマル共和国が誕生した。

この大戦は、非ヨーロッパ諸地域の人々の自立への自覚と期待を高めることにつながった。とくに、アジアでは独立運動や民族運動などが盛んになった。

ロシアの革命ロシア二月(別称、三月)革命(ロシア歴2月)で起こった女性参政権を求める運動

教科書には載っていない
第一次世界大戦の逸話

ここでは第一次世界大戦をさらに詳しく知るために、英国・ドイツ・フランスにまつわる10のトピックスを軍事・芸術・エピソードの3つのカテゴリーに分けて紹介する。

軍事

フランス仏北東部には人が住めない地域
「ゾーン・ルージュ」が存在する

第一次世界大戦中、300日にも及ぶ最長の紛争となったフランス軍とドイツ軍による「ヴェルダンの戦い」。その昔、農耕地として小さな村が点在していたフランス北東部ムーズ川周辺の地域で勃発したこの戦いがきっかけとなり、戦後100年が経過した現在も人々が住むことができない危険地域「ゾーン・ルージュ(レッド・ゾーン)」が生まれた。

このゾーン・ルージュには、1914年に第一次世界大戦が始まり、ヴェルダンの戦いが終わるまでの間、フランス軍とドイツ軍が大量に弾薬や銃などの兵器をこの地に投入したことで環境が破壊され、今も約170km²が立ち入り禁止区域として制限されている。

ゾーン・ルージュ戦争で使用したであろう兵器の残骸が現在も残る

当時、フランス政府がこの地域の対処を検討したものの、弾薬や銃弾をすべて取り除くことは難しいと判断し、1919年に危険地域「ゾーン・ルージュ」を指定。半強制的に住人を退去させることが決定したのだった。

現在もこの地域には戦闘の爪痕が残り、不発弾などが埋まっている。ゾーン・ルージュの取材に赴くジャーナリストや、この地域近郊を訪れる観光客、制限区間外で暮らす近隣の人々は常に危険にさらされている状況だ。

参考資料:National Geographic「France’s Zone Rouge is a lingering reminder of World War I」

ドイツ人々の夢と希望をのせた「ツェッペリン飛行船」が軍事用に使われていた

戦争に利用されていたツェッペリン飛行船戦争に利用されていたツェッペリン飛行船

元ドイツの陸軍将校であったフェルナンド・フォン・ツェッペリン伯爵が開発した硬式飛行船「ツェッペリン」。1900年に最初の飛行を成功させた後、第一次世界大戦が始まるまで1500回以上の飛行で約3万5000人を乗せた。しかし、戦時中には英国に対する爆撃用としてツェッペリンが利用されることになる。1914~1918年の間にドイツの陸軍と海軍に貢献した123機の飛行船のうち、101機がツェッペリン社製だったと言われる。戦後は再び旅客船として復帰するが、1930年代に相次いで事故が発生したため製造が中止された。ちなみに、ツェッペリン伯爵は第一次世界大戦の終戦を見届けることなく1917年に死去した。

参考資料:Die Welt「GESCHICHTE ERSTER WELTKRIEG Ein Zeppelin eröffnete den Luftkrieg gegen London」、BBC「world war one」、History「Zeppelin führt Luftschiff vor」

英国前線で任務に就くため大量の動物たちが動員された

船で前線に送られるロバ船で前線に送られるロバ

第一次世界大戦では1600万頭以上の動物が動員され、さまざまな任務を担った。自動車やトラックが発明されたばかりだった大戦初期には、部隊の移動に使うための馬を前線に大量に投入。その数は800万頭とも言われ、地方の農村ばかりか同盟国や植民地からも供出が行われたそう。また、ロバやラクダも武器・食糧・医薬品の輸送に使われ、犬と鳩は伝令に、猫は塹壕のネズミ退治に、カナリアは生きた毒ガス探知機として、人間のためにそれぞれ命の危険を冒した。さらに動物たちはときとして兵士たちを慰めるマスコットとしても任務を果たしたという。

参考資料:IWM「15 ANIMALS THAT WENT TO WAR」

芸術

ドイツ詩人ヘルマン・ヘッセが新聞に戦争批判を寄稿していた

『車輪の下』や『少年の日の思い出』などで知られるドイツ南部ヴュルテンベルク王国(現バーデン=ヴュルテンベルク州)カルフ出身の作家、ヘルマン・ヘッセ(1877~1962年)。20世紀を代表するドイツ文学の雄である彼の著者は60以上の言語に翻訳され、現在でも世代を越えて親しまれている。

激動の時代に生きたヘルマン・ヘッセは、1912年にスイスのベルンに移住した後、第一次世界大戦中にはドイツ人の戦争捕虜を救出する活動を行っていた。彼は自身をあくまでも詩人であるとし、政治的な職務に関する申し出があった際は常に拒絶していたと言われる。第一次世界大戦中には、2ダースにもなる量の戦争を批判する文章をドイツ語の新聞に発表し続けた。1917年、とある手紙に政治的な職務に対して積極的になれない理由を述べている記述が残っている。「私は政治的な事柄には全然向いていないのです。さもなければ、私はとうに革命家になっていたでしょう」。

ヘルマン・ヘッセ激動の時代を生きたヘルマン・ヘッセは常に平和を祈った

第一次世界大戦後に出版された『デーミアン』、『東方への旅』により知名度は上がり、そして第二次世界大戦後の1946年、晩年に書き上げた作品『ガラス玉遊戯』でノーベル賞を受賞した。

また、ヘルマン・ヘッセは早い段階からナチズムを批判していたとされており、常に平和を訴え、人間性について問う詩人であったことが分かる。

参考資料:ヘルマン・ヘッセ財団 文学、生涯の道のり、政治についての記事より

フランス作曲家モーリス・ラヴェルは戦死した友人のために作曲した

モーリス・ラヴェル戦死した友人に向けた曲を作ったモーリス・ラヴェル(写真奥)

バレエ音楽「ボレロ」などで知られる、フランスを代表する近代音楽の作曲家、モーリス・ラヴェル。第一次世界大戦中は自身も従軍し、多くの友人を亡くした。1914~1917年にかけて作られたピアノ曲「クープランの墓(Le Tombeau)」は、戦争で命を落とした友人に捧げられた6曲からなる。戦禍とは裏腹に、この曲の明るい響きはラヴェルの反戦の意思が込められているのかもしれない。また、戦後10年以上経ってから、第一次世界大戦で右腕を失ったウィーンのピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタインのために「左手のためのピアノ協奏曲(Concerto pour la main gauche)」も作曲している。

参考資料:音楽之友社「ラヴェル ピアノ曲集Ⅶ」「ラヴェル ピアノ協奏曲 ト長調/左手のためのピアノ協奏曲」内容紹介より

英国画家ノーマン・ウィルキンソンが戦艦の塗装「ダズル迷彩」を発案

通常、迷彩(カモフラージュ)柄は、自分の姿を周囲の環境に溶け込ませ、目立たなくさせるためのものだが、海軍兵でもあった海洋画家のノーマン・ウィルキンソン(1878~1971年)が考案した迷彩柄は、激しい幾何学模様で目立つデザインだった。ドイツの潜水艦U ボートに次々と沈められていく英艦船に心を痛めたウィルキンソンは、そもそも海上で戦艦を「目立たなくさせる」のは不可能だとし、代わりに戦艦の種類や速度、そして進行方向を見誤らせるような、敵を惑わす(ダズル)デザインを考案するに至った。効果のほどはともかく、兵士には好まれ戦意高揚に役立ったという。

参考資料:IWM「5 FACTS ABOUT CAMOUFLAGE IN THE FIRST WORLD WAR」

カモフラージュモーリス・ラヴェル派手なカモフラージュの模様で敵を欺く戦艦(絵画はウィルキンソン作)

エピソード

英国&ドイツ英独兵士が祝った一度きりのクリスマス休戦

犠牲者1500万人とも推定される第一次世界大戦は、過酷な戦いは約4年という長期にわたった。1914年7月の開戦当初は誰もが「クリスマスまでには終わっているだろう」と想定したが、戦況は混迷し各地で泥沼の持久戦が続く。西部戦線でにらみ合う英独両軍の兵士たちは、当時の最新兵器である機関銃の弾幕から身を守るため、それぞれの塹壕で冬を迎えた。

クリスマス休戦敵・味方関係なくクリスマスを祝った英独の兵士たち

1914年12月24日、いつものように塹壕で夜を明かそうとしていた英兵たちは、ドイツ語で歌われる「きよしこの夜」を耳にする。その歌声は、遠く離れた暗闇の、ドイツ軍の塹壕から聞こえていた。英兵たちが続けて英語で同曲を歌うと、ドイツ軍から歓声が上がった。戦争に疲れきっていた両軍の兵士は、武器を置き、塹壕から顔を出す。そしてお互いの距離を縮め、ついには一時的な非公式の休戦が実現したのだ。兵士たちは無人地帯に戦友の遺体を共同で埋葬し、たばこの火を交わし、さらにパンや缶詰めなどの貴重な食料の交換まで始めた。英独の兵士によってサッカーの試合が行われたという話もある。この休戦は、西部戦線の各地に広がり、一部では数日間にわたって非公式に休戦したとされる。

参考資料:WM「THE REAL STORY OF THE CHRISTMAS TRUCE」、IWM「VOICES OF THE FIRST WORLD WAR: THE CHRISTMAS TRUCE」、BBC「What really happened in the Christmas truce of 1914?」

英国&ドイツ独ヴィルヘルム2世と英ジョージ5世はいとこ同士

独ヴィルヘルム2世、英ジョージ5世(写真左)左)独ヴィルヘルム2世 右)英ジョージ5世(写真左)

エリザベス女王の祖父ジョージ5世(1865~1936年)と、ドイツ最後の皇帝、ヴィルヘルム2世(1859~1941年)はいとこ同士。2人ともヴィクトリア女王の孫に当たる。ヴィクトリア女王の夫アルバートがドイツ人であることから、2人は英独の血を同じように受け継いでおり、容姿も似通っていた。そんな2人が王座に就いていたときに第一次世界大戦が勃発する。親戚ながら敵同士になってしまったジョージとヴィルヘルム。ジョージは自国民の反独感情を考慮し、祖父アルバートから継いだ家名ザクセン=コーブルク=ゴータを捨て、当時の王室の住まいにちなんだウィンザー家に改称した。一方、ヴィルヘルムはドイツ革命(p11参照)がもとでオランダに亡命し、ドイツ帝国は共和制に移行した。

参考資料:The Telegraph「How German is the Queen?」、Brookings「The Family Relationships that Couldn’t Stop World War I」

フランス戦う兵士にワインを振る舞ったフランス軍

第一次世界大戦中、フランス軍から配給されるワインが重要な役目を果たしていたという。戦争が長引くなか、1914年には1人当たり1日1/4ℓ、1916年には1/2ℓ、1918年には3/4~1ℓと、年々ワインの消費量が増加。当時のフランスでは、ワインは特に高級なものではなく、品質を楽しむという習慣もなかったが、ワインを嗜む文化は根付いていた。祖国を思い出したり、仲間の死を乗り越えたり、家族に会えない悲しみを忘れるためにワインを飲んでいたと考えられている。終戦後もワインを飲み続けた元兵士たちによって、フランスではさらにワインがポピュラーとなり、ビールやシードルが主流だった地域にもワインが広まっていった。

参考資料:France24「Grande Guerre : quand le pinard était une arme pour la France」、Le Point 「Le vin en 14-18, indispensable compagnon du Poilu」、Larvf「Le vin dans l'Histoire:le vin de la Grande guerre」

英国英国の人々の胸を彩る追悼の赤いポピー

英国では、毎年10月ごろから、紙でできた赤い花の飾りを服に付けた人々を見かけるようになる。一般に「ポピー」と呼ばれるこの花は、第一次世界大戦終了直後の欧州大陸で、荒廃した戦場を真っ赤に埋めるように咲いていたという。以降、この花は命を落とした兵士たちが払った犠牲を象徴するものとなった。人々は第一次世界大戦はもちろん、すべての戦いに倒れた兵士への追悼の意を込めポピーを胸に飾る。終戦から100年を記念する今年は、英国各地でポピーをモチーフにしたアート・イベントも開催されている。

最終更新 Montag, 05 November 2018 16:26
 

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