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時代とともに変わる愛のカタチ ドイツに生きるいろいろ家族

時代とともに変わる愛のカタチドイツに生きるいろいろ家族

今日、ドイツでも世界でも「家族」のあり方が多様化している。「男と女」という性別による社会的役割が見直されつつあることに加え、ドイツでは移民国家化によって日常的に二つ以上の文化の中で生活する人が増えたり、2017年には同性婚が合法化されたりと、さまざまな形の家族が増えている。そんなドイツの「家族」の変遷をたどるとともに、ドイツで多様な家族を支援する人々に話を聞いた。(文: ドイツニュースダイジェスト編集部)

ドイツに生きるいろいろ家族

ドイツと家族のこれまでとこれから

「家族」はいつ生まれたの?

そもそも「家族」(Familie)という概念が登場するのは18世紀ごろであり、それまでドイツ語には親子関係を示す言葉はなかった。それ以前は「家」(Haus)という言葉が一般的に使われ、家父と家母が共同で建物とそこに住む人々を管理し、また親族や召使いなども含めたより広い範囲を意味していた。またドイツを含む欧州の多くで、キリスト教の普及前は「結婚」とは家長が花嫁を花婿に引き渡すことであり、当事者同士の意志に基づくものではなかった。その後の宗教革命をはじめ、カントやヘーゲルなどの啓蒙主義に影響を受け、「結婚」は教会から国家によって管理されるものへと変化。ヘーゲルは特に、家族とは愛(Liebe)を基盤とするものであると考え、結婚を人々の精神的・道徳的な関係として捉えた。

そして18〜19世紀の近代化に伴って分業が進むと、夫が働きに出て、妻が家庭を管理し子どもを育てるという、いわゆる「近代家族」が都市部のブルジョア市民の間で普及していく。1900年に施行されたドイツ民法典では、ドイツにおける「家族」が初めて制度として確立。この法典では、家族生活のあらゆる決定権を夫が持ち、妻の役割は「3K=子ども(Kind)、台所(Küche)、教会(Kirche)」とされ、この家族観はワイマール憲法にも引き継がれた。その後ナチスが政権を掌握すると、人種差別的かつ強制的な人口政策を開始。女性の義務は子どもを産み育て、国家・民族共同体の一員として送り出すことであるとされたほか、戦争へ行く父や息子たちに代わって重要な労働力ともされた。

戦後復興の象徴だった理想的な「家族」

第二次世界大戦後、戦地から帰還した男性たちが労働市場に復活すると、それまで働きに出ていた女性たちは再び家庭に戻ることに。そして戦後復興を経て、安定的な経済成長に支えられながら生活水準や居住環境などが改善され、60年代前半をピークとして結婚者数が増加。男女ともに働きに出ることが求められた東ドイツに比べて、特に西ドイツでは、サラリーマンの夫が仕事に行き、専業主婦の妻が子どもたちを愛情をもって育てるという、ある種理想化された「家族」の形が一気に普及していった。

マスコミやテレビ、広告などでも、この「理想的な家族」のイメージが多用された マスコミやテレビ、広告などでも、この「理想的な家族」のイメージが多用された

しかしドイツでは、この家族観がそう長く続くことはなかった。60年代末、学生運動や反体制運動など、権利平等を求める運動が次々と現れるなかで、男性を中心とした社会に対して女性たちも声を上げた。この運動は第二波フェミニズムとして世界各地でムーブメントとなり、ドイツでは1976年の婚姻法や家族法の改正が実現。婚姻における男女同権や、苗字の選択制の採用、妻の家庭外での就業が権利として認められると同時に、家事が夫婦双方の義務として位置付けられることになった。また同時期には、人種差別への抗議や性的マイノリティーの人々の社会的な権利の獲得に向けてさまざまな活動が展開。2017年にはドイツでも同性婚が合法化され、「全ての人のための結婚」が法の下でも認められた。

社会とともに多様化する「家族」

そして今日、従来の家族のあり方に拘束されない、より対等で自由な関係性が追求されている。制度的な結婚の手続きに囚われないパートナーシップをはじめ、ひとり親家庭やパッチワークファミリー(P10)、養子縁組や里親制度を利用する家族も増加。さらに、移民国家化が進むドイツではさまざまな文化的背景を持つ家族が暮らすほか、血の繋がりやパートナー関係にとらわれない共同生活や、逆に同居を前提としない家族なども。人々のライフスタイルの変化と共に、「家族」のあり方もどんどん多様になっているのだ。

子ども向けの絵本でも、多様な文化や性、 家族のあり方を紹介する作品が増加している 子ども向けの絵本でも、多様な文化や性、 家族のあり方を紹介する作品が増加している
『Du Gehörst Dazu』
著者:Mary Hoffman イラスト:Ros Asquith
発行元:S. Fischer Verlage

ただしドイツでも、伝統的なジェンダーや家族に対するイメージには未だに偏りがあり、それによって多様な家族が差別的な目線を向けられることが無いとはいえない。また家族政策や社会制度の面では、子どもがいる夫婦などの特定の家族モデルに寄り添ったものが多く、ひとり親世帯や同性婚の家族、移民を背景とする家族などが同等な支援を受けることが難しい場合も。社会が変わることで家族にも大きな変化が訪れ、そして今また、多くの家族が幸せに暮らしていくためにさまざまな制度や支援に変化が求められているのだ。

参考:Hildegard Kriwet「Familie im Wandel」、Bundeszentrale für politische Bildung「Mutter, Vater, Kind: Was heißt Familie heute?」「Vielfalt der Familie」、Zukunftsforum familie e.V.「Vielfalt Familie」、斎藤真緒「近代家族的母ー子の歴史的系譜ー戦後西ドイツの家族変動を中心としてー」

多文化・パッチワーク・レインボーファミリーにインタビューわが家だけの家族のカタチを探して

ドイツで今日ますます多様化する家族のカタチ。その家族のあり方によって、日常生活や抱える問題、そして幸せを感じる瞬間はまさに十人十色といえるだろう。ここでは特に多文化ファミリー、パッチワークファミリー、レインボーファミリーに注目し、それぞれの当事者であり専門家でもある人々に話を聞いた。

「国境を越えた愛」のその先を支援

お話を聞いた人

マリア・リングラーさん

多文化ファミリー&パートナーシップ協会
Verband binationaler Familien und Partnerschaften
www.verband-binationaler.de

同協会は1972年に設立され、全国に23の支部を持つ 同協会は1972年に設立され、全国に23の支部を持つ

異なる文化に触れることで人生が豊かに

多文化ファミリー(Binationale Familie)とは、異なる文化を持つパートナーや結婚のことだけでなく、日常生活で二つ以上の文化に触れながら生活する家族のこと。現在ドイツにおける3歳未満の子どもの35%は、移民を背景に持つ家庭で育っているといわれている。「多文化ファミリーとして生活することは、とても豊かなことだと思います。お互いの文化から多くを学ぶことができるし、異なる価値観に対して寛容になれますから」。そう語るのは、1992年から多文化ファミリー&パートナーシップ協会で働いているリングラーさん。彼女自身もかつて、多文化パートナーシップに関する相談のため同協会を訪れた。「当時、アフガニスタン出身のパートナーがいたのですが、両親は私たちの関係を受け入れてくれませんでした。そのため、どのように家族の理解を得るか、また彼のドイツ滞在に関わる問題について相談しに訪れました。そこで自分と同じような志を持つ家族やカップルと出会ったことがきっかけで、多文化ファミリーへの支援が私のライフワークとなったのです」。

多文化家族の「一緒にいたい」を叶える

移民国家ドイツにおいても、移民を背景に持つ家族は、そうでない家族よりも貧困にさらされるリスクが2倍といわれる。また、結婚や引っ越し、ビザの手続き、多言語での教育、価値観の違いによる衝突など、生活する上での悩みは尽きない。「多文化ファミリーは居住権や家族法、異文化理解、教育の機会の不平等など、さまざまなハードルに直面しています。しかしパートナーの自由な選択は、保障されるべき人権のはず。国籍や文化の違いによって隔てられることなく、ただ『一緒に暮らしたい』という家族の願いに寄り添うのが私たちの仕事です」。そのため同協会では、異文化理解を深めるためのイベントやワークショップの開催のほか、多文化ファミリーの自由を隔てる法律や制度の改変を求める活動なども積極的に行っている。「多文化に対する理解やフレキシブルさ、多言語を話す能力など、多文化ファミリーが持っている特別なリソースは、今後社会のさまざまな分野で認識されていくでしょう」。そう語るリングラーさんは、多文化ファミリーが適切な支援を受けられるようにすることで、社会全体の豊かさにつながっていくと確信しているという。

自身の経験からママパパにアドバイス

お話を聞いた人

カタリーナ・グリューネヴァルトさん(心理学者)

パッチワークファミリー相談室
Beratung für Patchworkfamilien
www.patchworkfamilien.com

グリューネヴァルトさん(左から2番目)のご家族 グリューネヴァルトさん(左から2番目)のご家族

血縁関係のない親子の間にトラブルが多い

日本ではステップファミリーとして知られている「パッチワークファミリー」は、再婚や事実婚によって、血縁関係のない親子が存在する家庭を指す。例えば、子連れの母親が新たなパートナーと再婚した場合だ。さらに、再婚後に子どもが誕生すれば、連れ子とは異父兄弟となる。パッチワークファミリーの歴史は長く、大半は死別によってそうした家庭が生まれた。一方現代では離婚率が高くなり、背景も多様化している。現在ドイツの全家庭の7〜13%がこのパッチワークファミリーに該当し、実際にはもっと多いと推定される。

「多くのメディアでは、パッチワークファミリーは幸せそうな家庭として紹介されます。でもそれは一部です」と心理学者であるグリューネヴァルトさんはいう。グリューネヴァルトさんはケルンにあるパッチワークファミリー相談室で、当事者のカウンセリングや相談員の研修を行っている。「パッチワークファミリーで問題を引き起こす典型的な原因は、血の繋がりのない親子関係の難しさにあります」。そう話す彼女も当事者であり、夫の連れ子2人と夫との間に生まれた実子2人の計4人の子どもがいる。特に夫の息子には公衆の面前で「この人は僕のママじゃない!」と叫ばれてしまったこともあり、関係性を築くのに苦労した面も。「お互いを慎重に知り合うことが大事でした。そのために何か遊びをしようと思いついたんです。そこで一緒に料理をしてゆっくり話をしたのですが、お互いがどういう人なのか理解できたと思います」。

ママパパのセルフケアも大切!

「多くの継母や継父は全てを『正しく』行おうとします。特に継母は自分の時間ややりたいことを犠牲にしてしまい、その努力の見返りを求める傾向に。ですから、私のカウンセリングではセルフケアを推奨しています。親が良い状態にあることが、ほかの家族の負担を和らげることにつながるのです」とグリューネヴァルトさん。また、自分のパートナーが継母・継父である場合、パートナーのために居場所を作ることで、血縁関係のない親子間での衝突を防ぐことができるという。理想ばかりにとらわれず、相手だけでなく自分自身も大切にすること。パッチワークファミリーのみならず、いろいろな家族にとって幸せに暮らしていくためのヒントとなりそうだ。

LGBTQカップルと子どもたちをつなぐ

お話を聞いた人

シュテファニー・ヴォルフラムさん

レインボーファミリーセンター
Regenbogenfamilienzentrum
https://berlin.lsvd.de

2013年に設立されたドイツ初のレインボーファミリーセンター 2013年に設立されたドイツ初のレインボーファミリーセンター

2017年に勝ち取った「全ての人のための結婚」

レインボーファミリーとは、カップルのうち少なくとも一人がLGBTQ*を自認している人がいる家族のこと。現在ドイツには、子育てをしているレインボーファミリーがおよそ1万2000世帯あり、レインボーファミリーセンターのヴォルフラムさんもまた、当事者として暮らしている。しかし、そこに至るまでには長い道のりがあった。「ナチス政権が同性愛者を迫害したことは有名ですが、その根拠となっていた刑法175条は、戦後の西ドイツにも引き継がれました。1969年まで男性同性愛を違法とし、投獄も行っていたのです」。ドイツにおけるLGBTQムーブメントは、まさにこの法律の撤廃に向けて加速し、最終的には2017年に同性婚の合法化が実現。しかし依然として、「子ども」という選択肢はLGBTQの人にとって制度的・金銭的なハードルが高い場合が多い。「同センターでは、子どもが欲しいと考えているLGBTQカップルのカウンセリングをはじめ、養子縁組や里親制度を利用するための法的なアドバイス、出産準備コースなども提供しています」と、ヴォルフラムさんは話す。

レインボーファミリーの幸せのかたち

ドイツに住むレインボーファミリーの90%以上は、家族のあり方を周囲にもオープンにしている。「まず、親の性別が子どもの成長や幸福度に影響しないということは、多くの研究で証明されています。また、レインボーファミリーには性別的役割分業がないので、家族同士の関係性やコミュニケーションも型にはまらない。そのことが、子どもたちの高い自尊心や自律性を育むことにつながっていると思います」。さらに、レインボーファミリーだという理由で差別的な経験をしたことがある子どもは、およそ半数程度(両親の視点から63%、子どもの視点から53%)。ヴォルフラムさんは、子どもたちが差別的な経験をした時に、親がどのようなサポートをするかが重要だと考えている。「子どもたちは、自分が生まれた家族を受け入れ、それを当たり前の『家族』の形だと認識します。一方で、全ての子どもたちと同じように、自分がなぜ生まれ、どこから来たのかを知りたがるでしょう。その時は、『あなたがどれほど望まれてこの家族にやって来たか、それをどんな人たちが手助けしてくれたか』を伝えてあげてほしいと思います」と、アドバイスを送ってくれた。

*レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クィアの頭文字を取った性的マイノリティーの総称の一つ

コロナ禍の気になる恋愛事情

カップルにとって試練の1年だった!?

コロナ禍の厳しい制限のなかでは、誰もが何かしらの問題を抱えている。それは、一見幸せそうに見えるカップルにも同じことがいえる。マッチングサイトParshipが今年2〜3月に実施した調査では、4人に1人が昨年パートナーと問題があったと回答。また、自分が望むよりも長い時間をパートナーと過ごしたと答えた人は、男性が27%、女性が20%だった。ドイツではこの1年でおよそ10人に1人がパートナーと別れることを選択したという。

「愛には親密さも必要ですが、自由も必要です」。そう話すのは、心理療法士のヴォルフガング・クリューガー氏だ。小さなアパートに一緒に住んでいる場合でも、自分が興味のあることに目を向け、意識的に一人でいる時間を作るべきだという。同氏は、何か創作に打ち込むことがパートナーとの関係を良好に保つための秘訣であると語る。例えば文章を書く、絵を描く、外国語を学ぶなど、各々が自分のために時間を使うことをすすめている。まだ終わりの見えないコロナ禍、パートナーとの関係に悩んでいたら、一つの選択肢として試してみるといいかもしれない。

パートナー探しに「出会い系」が人気急上昇

一方、シングルの人々の間では孤独が問題となっており、「コロナうつ」はここドイツでも深刻化している。こうした状況下で、パートナーを求める人があとを絶たず、マッチングアプリの利用者が急増しているという。

前述のParshipでは、2020年の利用者数は前年比で10%増加。またメッセージのやり取りは前年より20%多くなり、昨年のロックダウン直後には5時間以上ビデオデートをしたユーザーも珍しくなく、最長で15時間に及んだという。気の合う相手を見つけたら、次は散歩に出かけるのが定番コースだ。実際に70%の人々が直接会い、そのうち3分の1の人は接触制限を超える1.5メートル以内に近づいたと告白している。またいわゆる「出会い系アプリ」として知られるTinderのユーザーも爆発的に増加。昨年の第一四半期には有料ユーザーは603万人で、3年前の190万人を大きく上回った。

意見調査会社Civeyが昨年8月に実施した調査では、3人に1人はコロナ禍に肉体関係を持つことに不安を抱いていることが明らかになった。そういった背景からも、カジュアルなデートより、相手をよく知ることのできるオンラインデートを求める傾向にあるという。また、マッチングアプリBumbleの調査では、回答者の半数がロックダウン解除後もオンラインデートを続けたいと答えた。一方でマッチングアプリ自体も、さまざまなニーズに合わせて日々進化中。例えばprtnr.meのプロフィール欄では、子どもが欲しいかどうか、ヴィーガンかどうか、などの情報を公開することができ、将来的に家庭を築きたいユーザーのニーズにも答えている。今後もパートナー探しの選択肢の一つとして、オンラインデートは浸透していきそうだ。

参考:Münstersche Zeitung「So geht es Paaren nach einem Jahr Corona」、Frankfurter Rundschau「Online-Dating: Flirten in Zeiten der Corona-Pandemie」、nordbayern「Verlieben in Corona-Zeiten: So kann die Partnersuche laufen」、mdr「Online-Dating in Corona-Zeiten: Sehnsucht Schlägt Sicherheit」、ICONIST「Sie hatte zehn Dates, vier Mal wurde es intim – trotz Corona」、Business Insider「Diese neue Dating-App soll die Partnersuche erleichtern — und sie hat ein verstecktes Feature für Hochbegabte」

最終更新 Dienstag, 15 Juni 2021 09:24
 

バウハウスから現代へと受け継がれる機能美から生まれたドイツデザイン家具

バウハウスから現代へと受け継がれる
機能美から生まれたドイツデザイン家具

コロナ禍で家具の需要が伸び、空前の家具ブームが続く今、改めてドイツ生まれの家具が注目されているという。その秘密は、バウハウスの精神を継ぐドイツデザインの特徴にあるようだ。本特集では、建築家・和田徹さんにお話を伺い、家具におけるドイツデザインの原点を探るとともに、ドイツ家具の魅力に迫る。(Text:編集部)

ドイツデザイン家具

ドイツデザインの原点はバウハウスにあり!

お話を聞いた人

和田 徹さん

スイス・バーゼル在住の建築家。スイスと日本を拠点に、建築や空間デザイン、アート、グラフィック、プロダクト、編集、教育、観光の分野でなど幅広く活動する。ドイツのデザイン史についても造詣が深く、自身の仕事もバウハウスをはじめとするドイツデザインからの影響を受けている。世界中の家具をコレクションするヴィトラ・デザインミュージアムで日本語ガイドも務めている。
アトリエ・トオルワダ:www.ateliertoruwada.com

「装飾美」から「機能美」へ

産業革命以前までの欧州の家具は、国ごとに大きな違いはなく、装飾が多いことが特徴でした。一つひとつ職人によって作られた家具は、何世代にもわたって受け継がれていき、そうした文化は現代でも残っています。産業革命が起こると、家具製造の分野も次第に工業化されていきました。それによっていろいろな新しい技術や素材が登場し、家具職人たちは装飾ではなく、次第に機能性に目を向けるようになります。

さらに20世紀に入ると、手工業の伝統を守りつつ、どのように工業化させ、新しいものを取り入れていくか、ということが職人たちの間で話し合われるようになります。そのためには教育が必要だ、という流れから1919年に誕生したのが、総合的教育機関「バウハウス」でした。バウハウス初代校長で建築家のヴァルター・グロピウスは、建築はさまざまな分野とつながっており、それらをもう一度見直して、建物や家具のデザインに反映していこうという理念を掲げていました。そのため、学生たちは建築だけでなく、色彩や造形などさまざまな科目を学んだのです。こうしたバウハウスというムーブメントのなかで、いわゆる「ドイツデザイン」が誕生します。その主な特徴は以下の3点です。

ドイツデザインの三つの特徴
  • 機能美を重視する
  • 合理性と新しいテクノロジーを重視する
  • 装飾を排除しミニマルを重視する

バウハウスの幾何学的なデザインは、こうした要素から成り立っています。また色彩学に基づいて配色されるなど、全て理にかなったものをデザインに取り入れているんですね。その代表例は右に挙げているような家具です。しかし、バウハウスによって確立されたドイツデザインは、1933年のバウハウスの閉校、つまりナチスが政権を握ってから第二次世界大戦が終わるまで、暗黒時代を迎えることになりました。

進化を続けるドイツデザイン家具

戦後間もなくして、ドイツデザインの先駆者といわれる工業デザイナーのディーター・ラムスが登場します。彼はバウハウスで確立されたドイツデザインの思想を再び取り上げて、自分のデザインに反映しました。バウハウスの時代と違うのは、電化製品もデザインするようになったこと。ますます機能美を追求したドイツデザインは、実はAppleの創始者であるスティーブ・ジョブズからも注目されていました。ジョブズは初代Macのデザインを、ドイツの工業デザイナーであるハルトムート・エスリンガーに依頼しているんです。今のApple製品を見ても、機能美を重視していることが分かりますよね。

家具メーカーの多くは専属のデザイナーがいるわけではなく、プロダクトごとにデザイナーに依頼します。いろいろな人とコラボレーションしながら家具をつくるというのが主流。ラムスやエスリンガーをはじめとする戦後のデザイナーたちによって、バウハウスの精神を原点とするドイツデザインが、さまざまな家具メーカーの製品として受け継がれてきたのです。

コロナ禍で家具が売れているのには、それなりに理由があります。人々が自宅で仕事をすることになり、それに適したデスクがないといけない。家族が多いと、スペースを取る大型家具を置くわけにもいかない。そういった状況下で、形や用途を変えられて、いろいろな環境に対応できる家具のニーズが高まってきているんですね。長時間快適に座っていられる椅子や何年も使える家具など、ドイツデザインの重視する「機能美」が今改めて注目されているといえます。以下では、ドイツデザインをベースにしながらも、常に新しい家具を生み出してきた作り手をご紹介します。

バウハウスの代表的な家具

Clubsessel B 3 ワシリーチェア

ワシリーチェア

建築家マルセル・ブロイヤーによるこの椅子の通名は、バウハウスで教鞭を執った画家ワシリー・カンディンスキーの名にちなむ。直線と弧と円で構成され、新しい素材として鉄パイプを使用している

Satztische ネスティングテーブル

ネスティングテーブル

美術家ヨゼフ・アルバースのデザインで、異なる大きさの四つのテーブルにもなり、一つにまとめることもできる。使い勝手が良いのはもちろんのこと、収納性にも優れている

Bauhaus-Wiege ゆりかご

ゆりかご

建築家ペーター・ケレルによるデザイン。三角と丸を使った幾何学的な要素で構成され、配色も色彩学の理論に基づいてなされている。バウハウスの典型的なデザインの一つ

ドイツが誇る家具ブランド&デザイナー

機能美や柔軟性を重視するドイツデザインの家具は、世界中に愛用者が存在する。そんなドイツ家具は、どんなメーカーやデザイナーによって世に広められ、進化を遂げてきたのか。それぞれの代表的な家具にスポットを当てながら、その魅力をさらに深掘りする。気に入った家具があれば、購入を検討してみては?

曲木技術のパイオニアThonet
トーネット社

Thonet

欧州の老舗カフェでよく見かける曲木椅子。この特殊な技術を生み出したのが、トーネット社の創設者であるミヒャエル・トーネットだ。ボッパルト・アム・ラインで、トーネットは曲木技術を用いてエレガントな椅子を作っていた。それに目をつけた旧オーストリア州首相の計らいで、1849年にウィーンに拠点を移すことに。

そして1859年に誕生したのが、ウィーンのカフェ文化を象徴する曲木椅子「Nr.14」(現在は214)だ。無垢の木を曲げて作られたこの椅子は、36個の部品に分解でき、大量生産を実現させた。世界中に送り出されたこの椅子は160年以上も愛され続け、2021年のドイツサステナビリティ賞デザイン部門を受賞している。バウハウスにも影響を受けた同社は伝統を守りながら、ドイツデザインを世界に広める立役者ともなった。

創業年:1819年
創業場所:ボッパルト・アム・ライン
www.thonet.de

座り心地を追求したソファが自慢Brühl
ブリュール社

Brühl ブリュール社

ブリュ―ル社は環境に優しい素材を用い、高品質で長持ちするソファを得意としている。「生きた多様性」を掲げ、豊かな想像力にあふれたデザインによって、座り心地や多機能性を重視した家具を製作。生活におけるさまざまな変化やニーズに対応してくれる。

現在クリエイティブ・ディレクターを務めるのは、創業者の娘であるカティ・マイヤー・ブュ―ル。デッサウのバウハウス校で学んだほか、コペンハーゲンやロンドン、ニューヨークでも経験を積み、国際的にも高く評価されている。ドイツの建築デザイン賞Iconic Award2021を受賞したeasy pieces foreverも、彼女が手掛けたソファー。その名の通り、ベースフレームと優雅なクッションのみでシンプルに構成されているが、部屋や用途に合わせて自在に組み替えることができる。

創業年:1948年
創業場所:バート・シュテーベン
https://bruehl.com

バウハウスの名品を復刻Tecta
テクタ社

Tecta テクタ社

建築家のハンス・ケーネッケによって創設された「Tecta」は、ラテン語で「形作る」という意味の家具メーカー。1972年に東ドイツから亡命してきたヴェルナー・ブルッフホイザーと息子のアクセルによって引き継がれた。アクセルは、当時まだ存命だったバウハウスの巨匠たち、マルセル・ブロイヤーやヴァルター・グロピウスなどと交流し、名作家具の生産を実現していった。

Tecta テクタ社

そんなテクタの代名詞ともいえるのが、キャンチレバー構造の椅子(Krangstuhl)だ。キャンチレバーとは、曲線パイプによって片側だけでバランスを取る構造。バウハウスでは脚の構造に弱点があったが、テクタ社独自の特許技術で復刻が可能になった。2020年に発表されたキャンチレバーチェアの新作D9は、一筆書きのような曲線のフレームと、身体をしっかりホールドしてくれるボリュームのある背もたれが特徴だ。

創業年:1956年
創業場所:ラウエンフェルデ
www.tecta.de

自然も人も優しく支える木製家具Hülsta
ヒュルスタ

Hülsta ヒュルスタ

創業者のヒュルスと、創業場所であるシュタットローンを掛け合わせて名付けられた「ヒュルスタ」。小さな家具工房としてスタートしたが、創業者の息子であるカールが、ドイツで最も有名な家具ブランドの一つへと成長させた。職人たちが伝統的な家具作りに励む一方で、1968年には世界で初めて「システム家具」の理論を打ち出したほか、220以上の技術で特許を取得。また、自然保護の観点から熱帯雨林の木材を使用せず、自然にも人にも優しい木材を厳選している。

Hülsta ヒュルス

そんなヒュルスタの家具の中でも、今まさにおすすめしたいのが無垢材を使った「HOME OFFICE - SolitärSchreibtisch」。在宅勤務をイメージしたこの机は、パソコンなどを使った作業にも十分なスペースがあるだけでなく、棚も付いているため機能性が抜群だ。

創業年:1940年
創業場所:シュタットローン
www.huelsta.com

ドイツを代表する工業デザイナーDieter Rams
ディーター・ラムス (1932-)

Dieter Rams ディーター・ラムス (1932-)

戦後、ドイツデザインに再び息を吹き込んだディーター・ラムス。工業デザインという分野を切り開き、長年家電メーカーのブラウンの専属デザイナーも務めていた。機能美を追求したラムスのデザインは、バウハウス時代の色彩はないものの、金属やプラスチックなどの素材をそのまま活かしたシンプルさが特徴だ。

そんな彼を代表する家具は、Regalsystem 606。1960年につくられたこの棚は、自由にレイアウトできる、システム化された初の家具である。従来の決まった大きさや形をした棚では、各々のニーズに合わないことに目を付けたラムスは、棚のシステム化を思いついたという。設置の仕方は、壁にトラックを取り付け、あとは好きな位置に棚板を取り付けるだけ。和田さんも愛用する家具の一つだ。ラムスがデザインした電化製品やモダン家具は、世界中の美術館に展示されている。

時代を先取りする現役デザイナーKonstantin Grcic
コンスタンティン・グルチッチ (1965- )

Konstantin Grcic  コンスタンティン・グルチッチ (1965- )

ロンドンで学んだ後、工業デザイナーとして花開いたコンスタンティン・グルチッチは、現在はベルリンを拠点として活躍している。グルチッチの家具は、ドイツデザインの機能美やシンプルさが取り入れられながらも、遊び心のある柔軟なデザインが特徴だ。数々のデザイン賞を受賞しており、一部の家具はニューヨーク近代美術館(MoMA)にも所蔵されている。

2016年にヴィトラから発売されたStool-Toolは、コロナ禍でも注目される家具の一つ。椅子とテーブルを組み合わせたこの家具は、そのまま座ることはもちろん、またいで座ることで背の部分をテーブルにすることもできる。キャスター付きで重ねて収納できるので、家庭だけでなくオフィスの共有スペースなどとも相性が良い。ニューノーマルを生み出すグルチッチのデザインは、今後も進化を続けていくだろう。

家具デザインの歴史をもっと知りたい人に ヴィトラ・デザインミュージアム

ヴィトラ・デザインミュージアム

ヴィトラは、1935年にスイス・バーゼルで創業した家具ブランドだ。米国のデザイナーであるイームズ夫妻の家具を欧州で広めた企業としても知られる。理念に「多様性」を掲げ、ドイツのデザイナーはもちろん、多くのクリエイターとコラボレーションしながら、数多くの家具を作り続けてきた。国境を挟んだドイツのヴァイル・アム・ラインに工場があり、1989年に同じ敷地内にデザインミュージアムをオープンさせた。

ヴィトラ・デザインミュージアム

世界中の家具がコレクションされた常設展のほか、テーマごとに深堀りする展覧会はマニアにも定評あり。現在会期中の展覧会「Deutsches Design 1949–1989」(開催中~9月15日まで)では、戦後40年のドイツデザイン史を知ることができ、ディーター・ラムスのデザイン製品も展示されている。工場見学と合わせて1日たっぷり過ごすプランがおすすめだ。和田さんの日本語ガイドはメール( このメールアドレスは、スパムロボットから保護されています。アドレスを確認するにはJavaScriptを有効にしてください )で予約可能。

Vitra Design Museum
Charles-Eames-Str. 2, 79576 Weil am Rhein
www.design-museum.de
※新型コロナウイルス感染症の影響により、チケットは要予約。最新情報はウェブサイトにてご確認ください。

最終更新 Mittwoch, 26 Mai 2021 16:54
 

生誕100年 ヨーゼフ・ボイスの終わりなき革命 - 戦後の芸術史を変えた「社会を彫刻するアーティスト」

今年で生誕100年戦後の芸術史を変えた「社会を彫刻するアーティスト」ヨーゼフ・ボイスの終わりなき革命

「全ての人は芸術家である」。この力強い言葉とともに、人々の創造性によって社会を変えようとしたヨーゼフ・ボイス(1921-1986)。今日のアートに最も影響を与えた芸術家の一人であるだけでなく、政治や経済、環境などについてもメッセージを発信し、センセーションを巻き起こした。そんなボイスが目指した、「芸術」や「社会」とは? 生誕100年を記念し、ボイスの人生や作品、そしてドイツや日本における彼の足跡をたどる。(Text:編集部)

参考:Reinhard Ermen『Joseph Beuys』、Marc Gundel『Beuys für Alle!』、ART Das Kunstmagazin「100 Jahre Joseph Beuys:Der Befreier, ein ganzes Heft über Deutschlands visionärsten Künstler」、水戸芸術館現代美術センター編『BEUYS IN JAPAN ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命』

ヨーゼフ・ボイス Joseph Beuys(1921-1986)

旧西ドイツ出身の現代美術アーティストで、フェルトの帽子とフィッシャーマンベストがトレードマーク。アンディー・ウォーホル(1928-1987)と並んで、当時のアート界のスーパースターとして注目される。アトリエで作品制作にいそしむ従来のアーティスト像とは異なり、社会問題をクリエイティブに解決していくことが新しいアートの役割だと熱く説き、社会問題にも積極的に関与した。

生誕100周年を記念して、ドイツ各地で展覧会・関連イベントが開催中。生誕100周年を記念して、ドイツ各地で展覧会・関連イベントが開催中。
詳しくは https://beuys2021.de にて

ヨーゼフ・ボイスーその人生と作品

クレーヴェで過ごした少年時代

ヨーゼフ・ボイスは1921年5月12日、デュッセルドルフの北西にある街、クレーフェルトで生まれた。その年の秋に、一家はライン川下流域の産業都市クレーヴェに引っ越し、そこで少年時代を過ごす。ボイスは自然科学に興味を持ち、医学の道を志す一方で、ピアノとチェロを弾き、絵の才能も発揮していたという。

1933年5月19日、ボイスが通っていた州立ギムナジウムの中庭で、ナチスによる焚書が行われた。この時ボイスは、積み重ねられた本の中から、スウェーデンの博物館学者カール・フォン・リンネの著書『自然の体系』(1735)を取り出して隠したという。その後、青少年のヒトラーユーゲントへの参加が義務付けられると、15歳だったボイスも加入し、ニュルンベルクでのナチス党党大会にも参加した。後にボイスは「誰もが教会に行くように、当時は誰もがヒトラーユーゲントに行った」と語っている。また当時、ナチスによって「退廃芸術家」の烙印を押されていたドイツ表現主義の彫刻家ヴィルヘルム・レームブルック(1881-1919)の作品集を見て衝撃を受け、ボイスは彫刻家になることを決心した。

21歳ころのボイス。この世代以上のドイツ人とって、ナチスへの加担は避けられない問題だ21歳ころのボイス。この世代以上のドイツ人とって、ナチスへの加担は避けられない問題だ

第二次世界大戦とタタール神話

1941年の春、ボイスはドイツ国防軍に志願し、無線通信士としての訓練を受ける。その後、ボイスはクリミア半島最大の要塞都市セヴァストポリの空中戦に参加。彼は両親に宛てた手紙で「戦争後は芸術家になりたい」と書き、駐留先でも多くのスケッチや絵を描いて過ごしていた。

1944年3月16日、ボイスが乗っていた急降下爆撃機がソ連の追撃に遭い、クリミア半島で不時着。パイロットは亡くなり、ボイスは頭蓋骨や肋骨、脚、鼻などを骨折するという重症を負った。ボイスは墜落した際に、同地の遊牧民であるタタール人に助けられたという逸話を語っている。タタール人たちはボイスの体温が下がらないようにフェルトで8日間温め、傷には動物性脂肪を塗ったというのだ。しかし、タタール人集落は当時のクリミアには存在せず、墜落した翌日からボイスが移動軍病院に入院していたという記録も。そのためこのタタール神話は、彼の作り話といわれる。

ボイスは傷が回復すると8月には西部戦線に移され、パラシュート部隊に配属された。大戦中には5度負傷し、ナチスからは金の戦傷章を授与されたという。そしてドイツが降伏した1945年5月8日、ボイスはニーダーザクセン州のクックスハーフェンで英国軍の捕虜に。その後8月に解放され、心身共に深い傷を負ったボイスはクレーヴェへと戻ったのだった。

ボイス作品を紐解くキーワード

フェルトと脂肪 Filz und Fett

フェルトや脂肪を使ってタタール人に助けられたというボイスの体験は、その真偽こそ定かではないものの、彼の芸術家としてのアイデンティティーを形成する上で重要な役割を果たしている。ボイスは自身の彫刻作品に、いわゆる伝統的な彫刻で使われる石や金属などの無機物ではなく、フェルトや脂肪、蜜ろうなど、熱を保持し、熱によって形が変化する有機的な素材を好んで用いた。ボイスにとって「熱」は変化や生命を意味し、熱エネルギーによって不定形のものを秩序ある形に変える、という独自の彫刻理論を形成。この考え方はやがて芸術の領域を飛び出し、どのように社会の形を変えるかに焦点を移していく。

フェルトで作られたスーツ「Filzanzug」(1970)フェルトで作られたスーツ「Filzanzug」(1970)

およそ20トンにもおよぶ動物性脂肪を使ったインスタレーション「Unschlitt / Tallow」(1977)およそ20トンにもおよぶ動物性脂肪を使ったインスタレーション「Unschlitt / Tallow」(1977)

芸術家としての人生をスタート

戦争から帰ったボイスは、傷を癒しながら地元の芸術家グループに加わって活動。そして23歳の時にデュッセルドルフ芸術アカデミーに入学した。はじめは古典的な彫刻のクラスで学んでいたが、3学期の終わりに前衛芸術家のエーヴァルト・マタレー(1887-1965)のクラスへと移る。マタレーもまた、戦時中に退廃芸術家として弾圧された人物であり、ボイスは彼から多大な影響を受けた。

1953年に32歳でマスタークラスを卒業したボイスは、戦争時のトラウマによって苦しめられ、一時は深刻なうつ状態に陥った。一方でこの頃、自然科学などの文献を読み漁り、ジェームズ・ジョイスやノヴァーリスの文学、ルドルフ・シュタイナーの教育学などを集中的に研究。私生活では1958年に動物学者の娘で美術教師をしていたエーファと出会い、翌年に結婚した。

そして1961年、危機の時代を脱したボイスはデュッセルドルフ芸術アカデミーの記念碑彫刻の教授に就任。週末や休暇中も含めてほぼ毎日大学へ行き、常にオープンな姿勢で学生たちと議論を交わした。「教師であるということは、私にとって最大の芸術作品です」という題名でボイスが文章を書いているように、ボイスにとって大学で教えることは、自身の芸術実践の一部だったのだ。またこの頃、ボイスは米国で活躍したアーティスト、ナム・ジュン・パイクらと知り合う。パイクらが参加する前衛芸術運動の「フルクサス」に加わり、ボイスは次々とパフォーマンスを発表していった。

ボイス作品を紐解くキーワード

アクション Aktion

フルクサスは、1960年代に欧米各地で行われた芸術運動。日常空間を異化するような「イベント」や「ハプニング」と呼ばれる一度限りのアートパフォーマンスを展開した。ボイスは1963年に「フルクサス・フェスティバル」に参加し、初めて自らが「アクション」と呼ぶパフォーマンスを行った。こうしたアクションの際にボイスはフェルト帽とフィッシャーマンベストを着用し、それが後にトレードマークとなる。アクションの内容は、動物とのコミュニケーションや、宗教や文化をテーマとするもの、自然保護活動、討論などさまざまだが、次第にボイスにとっての芸術作品と社会活動の境界が線引きされるものではなくなっていく。

フルクサスの「ハプニング」終了後のボイス。乱入した学生に殴られたフルクサスの「ハプニング」終了後のボイス。乱入した学生に殴られた

学生たちと展覧会を訪れるボイス学生たちと展覧会を訪れるボイス

国際的な活躍と芸術アカデミーとの衝突

国際的な存在感を高めていったボイスは、カッセルで5年に1度開催される国際芸術祭「ドクメンタ」に1964年に初めて招聘される。また1965年には、デュッセルドルフにあるアルフレッド・シュメラギャラリーで個展を開催し、頭に金箔やはちみつを塗ったボイスが、ウサギの死体に絵を触らせるアクション「死んだウサギに絵を説明する方法」を行った。1974年に行った米国のルネ・ブロックギャラリーでのアクション「コヨーテ/私はアメリカが好き、アメリカも私が好き」では、ボイスが米国の空港から救急車でギャラリーへと直行し、1週間コヨーテと暮らした後に再度ドイツへ出発。米国人とは一切接触せず、先住民の象徴的存在であるコヨーテとの行動を強調し、現代の米国社会の抑圧を批判した。

「コヨーテ/私はアメリカが好き、アメリカも私が好き」(1974)「コヨーテ/私はアメリカが好き、アメリカも私が好き」(1974)

センセーショナルな作品によって時の人となる一方で、ボイスは芸術アカデミーとの衝突も抱えていた。ボイスはまず、1967年に入学試験の廃止を提案。1971年には、大学定員のために入学できなかった142人を自分のクラスに受け入れると主張し、入学者数の制限は基本的権利に反するとして、17人の入学希望者と共にアカデミーの事務局を占拠した。その後も論争は続き、1972年に予告なしに教授職を解雇される。ボイスは学生たちを味方につけてを訴訟を起こし、1978年に勝訴した。教授には戻れなかったが、かつての教室を使うことが許され、ボイスはそこを自らが主宰する教育機関「自由国際大学」(FIU)のオフィスとしたのだった。

教授職の解雇に対し、学生と共に抗議するボイス教授職の解雇に対し、学生と共に抗議するボイス

政治活動と「社会彫刻」

ボイスは自身の芸術活動を通して、あらゆる人間は自らの創造性によって幸福に寄与し、未来に向けて社会を彫刻しうると考えた。この理論をもとに、「社会彫刻」という独自の芸術概念を発展させていく。1972年のドクメンタ5では、「直接民主主義組織のための100日間情報センター」を開設。訪れる人々と黒板に図解を書きながら話し合い、反原発や人権に関わるワーキンググループと議論を行った。その後、教育者として対話集会を世界各地で行ったり、1982年のドクメンタ7における「7000本の樫の木」プロジェクトでは、カッセルの街に5年がかりで7000本の木と石柱を植えたりと、芸術と社会との関わりを深めさせていった。

カールスルーエで開催された緑の党の創設党大会に参加するボイスカールスルーエで開催された緑の党の創設党大会に参加するボイス

また、1976年の連邦議会選挙で「独立したドイツ人の運動連合」の候補として出馬。この組織は後に緑の党(1979年に設立)に合流し、1979年にボイスは緑の党の欧州議会議員候補として立候補した。政治や経済の改革に乗り出そうとしたが、結果は落選だった。ボイスは緑の党のためにテレビ討論やイベント、選挙活動を盛んに行ったが、1983年に再び連邦議会に立候補しようとした際に、緑の党はボイスを候補者リストの上位に置くことを拒否。ボイスは立候補を取りやめた。

1985年、ボイスは肺疾患と診断され、夏にはナポリで静養した。そして1986年1月12日にデュイスブルク市からヴィルヘルム・レームブルック賞を受賞した直後の23日、ボイスは心不全で亡くなった。彼の遺灰は北海に撒かれたのだった。

尊敬するレームブルックの名が冠された賞を受賞尊敬するレームブルックの名が冠された賞を受賞

ボイス作品を紐解くキーワード

社会彫刻 Sozial Plastik

ボイスは「全ての人は芸術家である」という信念のもと、「自ら考え、決断し、行動せよ」と人々に社会参加を呼び掛けた。ここでいう「芸術」とは、絵画や彫刻、音楽などだけでなく、教育や環境保護、政治活動などのあらゆる創造的な行為も含む。そうして生まれる社会が、みんなで作った大きな芸術作品(=社会彫刻)だというのだ。ボイスの思想は当時あまりに独特で過激だったが、今日ではさまざまな芸術家が、社会に関与するアートを実践。またアート界に限らず、環境デモや人種差別への訴えなど、社会問題にアクションし、共に考えようという声が強まっている。ボイスが起こそうとした革命は、今も続いているのかもしれない。

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ヨーゼフ・ボイスは挑発する

ヨーゼフ・ボイスは挑発する

「今は民主主義がない、だから俺は挑発する!」ーフェルト帽を被った一人の芸術家は、テレビの討論番組でいら立ちを隠さずに叫ぶ。膨大な映像資料と、関係者へのインタビューを通して、ボイスが目指した芸術と、彼が抱える「傷」に迫るドキュメンタリー。エネルギーに溢れたボイスの肉声やパフォーマンス映像は必見だ。

公開年:2017年
監督・脚本:アンドレス・ファイエル
配給・宣伝:アップリンク
上映時間:107分
言語:ドイツ語

芸術の街でボイスゆかりの地をめぐる!ボイスとアート散歩 in デュッセルドルフ

ノルトライン=ヴェストファーレン州の州都デュッセルドルフは、経済の中心地としてだけでなく、数多くの美術館やギャラリーがあり、有名アーティストを輩出してきた芸術の街としても知られる。ボイスもまた人生の大半をこの街で過ごし、その痕跡は今も街に残されている。そんなデュッセルドルフでボイスゆかりの場所をめぐる、ちょっぴりマニアックなアート散歩に出かけよう。

※新型コロナウイルス感染症の影響により、展覧会等の開催に変動がある可能性があります。最新情報は各館のウェブサイトにてご確認ください。

参考:Dieter Schönhoff『Mit Beyus durch Düsseldorf』、Frankfurter Allgemeine「Galerie Hans Mayer Good-bye, nicht Adieu」、Westdeutsche Zeitung「Haus von Beuys steht zum Verkauf」

1998年、ライン川岸の遊歩道にヨーゼフ・ボイスの名が付けられた❼ 1998年、ライン川岸の遊歩道にヨーゼフ・ボイスの名が付けられた

デュッセルドルフにも植えられた
❶ 「7000本の樫の木」プロジェクトの樫の木
Haroldstr.4, 40213

ボイスがカッセルで実施した社会彫刻プロジェクト「7000本の樫の木」。このプロジェクトでは、1本の樫の木と1本の石柱がセットとしてカッセルの街中に植えられ、成長する樫の木は「生」、形を変えない石は「死」を象徴。ボイスはこの二つの要素によって世界が構成されていると暗示した。実は、その木がここデュッセルドルフにも1本だけある。この木は1983年に当時の西ドイツ銀行頭取が、州の経産大臣であったレイムート・ヨキムセンの50歳の誕生日に送ったものだという。ボイスは1972年に当時の州文科省大臣によって芸術アカデミーの教授職を解雇されて訴訟で争っていたが、後にヨキムセンが文科省大臣に就いていた1978年に、この訴訟は和解に至った。

「7000本の樫の木」プロジェクトの樫の木

建物の外からも楽しめるアート
❷ クンストハレ Kunsthalle
Grabbepl. 4, 40213

クンストハレ Kunsthalle

1967年に建てられた、コンクリートの立方体のような建築が印象的なクンストハレ。独自のコレクションを持たず、ボイスをはじめとする地元のアーティストの作品発表はもちろん、国際的なアートイベントが実施されてきた場所だ。アート散歩で注目すべきは、建物の周囲にある作品の数々。入口から向かって右側の外壁から突き出しているストーブのパイプのようなものは、ボイスが1981年に展示した「煙突パイプ」という作品(写真右下)。また玄関口の右側には、建物の上から下へと水滴が垂れ たような赤い線がある。これは、ボイスと親交があったジェームズ・リー・ビアスによる「涙」という作品で、ボイスが亡くなった1986年に彼へのオマージュとして制作された(写真左下)。

クンストハレ Kunsthalle

生誕100周年の記念展が開催中!
❸ K20 Kunst Sammlung Nordrhein-Westfahren
Grabbepl. 5, 40213

クンストハレの北側正面に位置するのは、主に20世紀の芸術を扱う州立美術館のK20。同館では、ボイス生誕100周年のハイライトともいえる展覧会「Jeder ensch ist ein Künstler - Kosmopolitische Übungen mit Joseph Beuys」が開催中だ。ボイスの有名な言葉「全ての人は芸術家である」をテーマに、社会を根本から刷新しようとしたボイスと共に、現代のアーティストたちも作品を展示する。K20で20世紀美術を堪能した後は、21世紀の芸術をメインとする美術館K21も訪れてみよう。

展覧会情報

Jeder Mensch ist ein Künstler.
Kosmopolitische Übungen mit Joseph Beuys
会期:開催中~8月15日(日)
www.kunstsammlung.de

K20 Kunst Sammlung Nordrhein-Westfahren

ボイスが学び、教鞭を執った
❹ デュッセルドルフ芸術アカデミー
Eiskellerstr. 1, 40213

1762年設立の名門芸術アカデミー。ボイスのほかにも、ベッヒャー夫妻、ゲルハルト・リヒター、アンゼルム・キーファーなど、20世紀以降の美術における主要人物たちが学んだり教鞭を執ったりした。毎年2月に開催される学内展「Rundgang」は、デュッセルドルフの冬の風物詩ともいわれ、アート関係者だけでなく大勢の市民が訪れる。同アカデミーの付属ギャラリー(右記参照)では、ボイスの生誕100周年を祝った展覧会を開催中。ボイスが師事したエーヴァルト・マタレーと、教え子であるヨルグ・インメンドルフの作品と共に、初期のドローイングや彫刻、木版画などが展示されている。

展覧会情報

Mataré+Beuys+Immendorf
Begegnung der Werke von Lehrer und Schüler
住所:Burgpl. 1, 40213
会期:開催中~6月20日(日)
www.kunstakademie-duesseldorf.de

デュッセルドルフ芸術アカデミー

デュッセルドルフ芸術アカデミー

ボイスと学生たちの行きつけカフェ
❺ オーメ・ユップ Ohme Jupp
Ratinger Str. 19, 40213

アカデミーからすぐ近くのラーティンガー通りには、アート散歩にもってこいのレストランやカフェが点在している。オーメ・ユップは、ボイスが1967年まで学生と一緒に午前と午後に1時間ずつコーヒー休憩に訪れていた場所。しかしある日、ボイスが店内でもフェルト帽を被ったままでいることに客の一人が怒った。店主がそのことをボイスに伝えると、ボイスたちは同店を去り、1年ほど来なくなったという(その後、また訪れるようになった)。オーメ・ユップでの一件の後、ボイスたちは新しいコーヒー休憩所として、ここからすぐ近くに位置するレストラン「Zur Uel」に通った。

オーメ・ユップ Ohme Jupp

アート界の時代の寵児2人を出会わせた
❻ ハンス・マイヤーギャラリー
Mutter-Ey-Str. 3, 40213(旧アルフレッド・シュメラギャラリー)

創業50年以上のハンス・マイヤーギャラリーは、戦後の欧州と米国のアートが行き交った美術史上も重要な場所であり、個展のため来独中だったアンディー・ウォーホルとボイスを引き合わせたことでも有名。これをきっかけに、2人の交流はその後も続いた。1971年からグラッベ広場にあったハンス・マイヤーギャラリーは、2020年9月に移転。引っ越し先は、これまたボイスと関わりが深いデュッセルドルフの伝説的な画廊、アルフレッド・シュメラギャラリーの跡地だ。ボイス生誕100年に際し、同ギャラリーでは、ウォーホルとボイスが出会った当時の展覧会に関するビデオや写真、プレス資料などが展示される。

展覧会情報

12.05.1921 – 12.05.2021
会期:5月12日(水)~16日(日)
www.galeriehansmayer.de

ハンス・マイヤーギャラリー

KASSEL ボイスとアート散歩 in カッセル
ドクメンタが作ったボイスのキャリア

ボイスの名を一躍世に知らしめたのは、ヘッセン州カッセルで5年に1度開催されている国際芸術祭「ドクメンタ」と言っても過言ではない。ドクメンタは世界最大規模の現代美術展であり、最新の現代アートの動向を知る上で「ヴェネツィア・ビエンナーレ」と並んで重要とされている。もとは第二次世界大戦の被害を大きく受けたカッセルの復興、そしてナチスによって排斥された前衛芸術の名誉回復を目的に始められた。

こうした背景もあり、ドクメンタで展示される作品は、社会に挑戦するような鋭いテーマ性のものが多い。賛否両論あるにせよ非常に話題性が高く、アート界への影響力も大きいのだ。ボイスは1964年以来、7回(うち2回は没後)にわたって参加。ドクメンタ5での「直接民主主義組織のための100日間情報センター」、ドクメンタ6での「作業場のミツバチポンプ」、ドクメンタ7での「7000本の樫の木」などは、ボイスの代名詞ともいえる大規模なプロジェクトだ。ボイスは5年がかりの「7000本の樫の木」プロジェクトの途中で死去し、彼の息子のヴェンツェル・ボイスがドクメンタ8の期間中である1987年6月12日に7000本目の木を植えた。

ボイスとアート散歩 in カッセル

TOKIO ボイスとアート散歩 in 東京
ボイスが過ごした日本での8日間

ボイスは1984年に8日間だけ日本に滞在した。西武美術館での展覧会をはじめ、短い期間で展覧会やパフォーマンス、レクチャー、学生との対話集会などを展開。当時日本でも熱狂的な人気を誇っていたボイスは、ニッカウヰスキーのテレビコマーシャルにも出演し、その出演料は「7000本の樫の木」プロジェクトの資金に充てられた。

東京藝術大学の体育館で開かれた対話集会では、ボイスは同大学の学生を中心とした観客1000人あまりと3時間にわたって議論。この対話集会の実行委員会には、アーティストの宮島達夫やキュレーターの長谷川裕子など、今日の日本の現代アート界を率いるそうそうたるメンバーが集っていた。一方で、ここでの議論は必ずしもボイスと学生の間で噛み合っていなかったという。学生たちは、ボイスの芸術概念である「社会彫刻」をよく理解しているとはいえず、あるいは「有名アーティストを言い負かしてやろう」という気負いに満ちた質問も少なくなかったのだ。ボイスはそのことに落胆といら立ちを隠すことなく、「学生たちは古い芸術にとらわれている」と挑発。黒板にダイアグラムなどを描きながら、粘り強く「社会彫刻」の核心に触れさせようとした。

ボイスとアート散歩 in 東京

最終更新 Dienstag, 11 Mai 2021 18:21
 

電動キックボード(Eスクーター)とは?環境に良い?ドイツで検証!

都市の交通を変える?話題の近未来型モビリティー EスクーターのABC

2019年7月にドイツで解禁され、日本でもついにサービスが開始した電動キックボード。ドイツでは「Eスクーター」と呼ばれる、エコでモダンな街づくりのために開発された、新しいタイプの乗り物だ。街ゆくEスクーターの軽快な走りに「乗ってみたい!」と憧れつつ、あちこちで事故が発生し、ちょっと乗るのが怖い……という人もいるだろう。今回は、そんなEスクーターの実態を紹介しながら、乗り方や交通ルールを解説する。(Text:編集部)

Eスクーター

そもそも「Eスクーター」って?

電動アシスト機能付きキックスクーターのこと。従来の「キックボード」のように地面を蹴って進むのではなく、電動で自走するため、体力を使わずに坂道も登ることができる。300ユーロ代から販売もされているが、乗り捨て可能なシェアリングサービスの利用が主流。

  • メリット ・体力を使わない
    ・バス停や駅までの短距離移動がラク
    ・渋滞に巻き込まれない
  • デメリット ・ほかの移動手段に比べて割高
    ・長距離移動には不向き
    ・都市交通にまだなじんでいない

米国生まれのパーソナルモビリティー

ドイツ国内でEスクーターが登場したのは、2019年7月のこと。当時、その目新しさで人々の注目を集めると同時に、新聞やテレビではEスクーターによる事故のニュースも目立つようになった。それにもかかわらず、購入するには何カ月も先まで待たなければならないほどの人気ぶりで、Eスクーターのシェアリング企業は次々と国内の都市に事業を展開している。

そもそもEスクーターは、「パーソナルモビリティー」の1つとして米国で誕生。パーソナルモビリティーとは、街中での近距離移動を想定した1~2人乗りの小型電動コンセプトカーなどを指す未来型の乗り物だ。昨今、自動車メーカーが徐々にガソリン車やディーゼル車を廃止。プラグイン・ハイブリッドや電気自動車が主流になろうとしている一方で、二酸化炭素(CO2)排出量が少ないといわれるEスクーターは、都市部での新しい移動手段として現在欧米を中心に急速にシェアが拡大している。

2017年の登場以降、瞬く間に人気を博し、パリやイスラエルの首都・テルアビブにも米国発のE スクーターシェアリングの企業Limeが参入。やがてドイツもそれに目をつけ、交通・デジタルインフラ相のアンドレアス・ショイアー氏(CSU)は、Eスクーターが「非常に大きな将来の可能性」を秘めているとして、国内でEスクーターを解禁することを決定。同氏は「私たちの都市は、近代的で環境に優しく、クリーンな移動手段を求めていた」と話し、「(Eスクーターは)車に代わって、駅やバス停から自宅、職場までのラストマイルにとって理想的だ」と述べた。

駅やバス停から自宅などの目的地までのことで、比喩的に「マイル(約1.6キロ)」という言葉が用いられている

「環境に良い」はウソだった?

ドイツでは、2019年6月15日にEスクーターの一般道路使用に関する規制が発行され、7月15日から公道を走ることが法律で認められた。Limeやベルリン発のTierをはじめ、シェアリングタイプのEスクーターが突然街中を走り始めたことは、記憶に新しいだろう。しかし、実際に蓋を開けてみると、多くのドイツ人が予想していたようにEスクーターによる事故が発生し、その安全性について疑問の声が上がった。交通ルールを知らずに利用する人が多く、飲酒運転や交通違反も後を絶たない。また、歩道に駐車されたEスクーターが車椅子利用者や視覚障がいのある人々の通行の妨げになっていることも指摘されている。それどころか、本当は環境に良くない、という専門家まで登場した。

都市ごとのE スクーター総数(2019年7月15日)3企業とも人口が密集する都市を中心に展開。
人口の少ない地域に参入するかどうかは、今後の課題となりそう

IOP Publishingで公開された米国の研究報告によると、1キロメートルあたり自動車が257グラムのCO2を排出しているのに比べ、Eスクーターは126グラムと少ない。しかし、電動自転車の25グラムやディーゼルバスの51グラムと比較すると、より多くのCO2を排出していることが分かる。そこには、Eスクーターの製造過程、充電のための回収作業などで発生するCO2排出量も含まれるからだ。

Eスクーターの今後の課題

こういった批判にさらされながらも、Eスクーターシェアリングを展開する企業は着々と前進しているという印象だ。本当のエコフレンドリーを実現するために、企業の共通課題として、再生可能エネルギーのシェアを100%にすること、現在数カ月と言われるE スクーターの寿命をできるだけ延ばすこと、集配距離を短縮し効率化を図ることなどが挙げられる。また、Tierの共同設立者であるユリアン・ブレージン氏は、ビジネスサイトGründerszeneのインタビューで、Eスクーターは車やバイクに比べてはるかに事故が少ないことを指摘。事故件数を減らすために、Tierではアプリを通じて安全トレーニングを実施しているという。さらにデンマークでは、広い自転車道のおかげでE スクーターによる事故件数が少ないため、ドイツにおける都市のインフラ整備も必要があると語った。

全体的に辛口の意見が多いドイツだが、Eスクーターの導入が成功か失敗か、判断を下すのは時期尚早と言えそうだ。むしろ、より良い都市生活の実現のために、市民を巻き込みながら試行錯誤している段階と言えるかもしれない。そのなかで一人ひとりができることは、ルールを守り安全運転を心がけること。まずは、この近未来的な乗り物に試しに乗ってみるところから始めてみるのはいかがだろうか。

参考:Tagesspiegel「Entscheidung zu Elektromobilität / Regierung macht Weg frei für E-Scooter」(2019年4月3日)、Forbes JAPAN「eスクーターは便利でも賛否両論 欧州の都会から見る危険性と事例」(2019年7月14日)、Süddeutsche Zeitung「Viele Unfälle und wenig Umweltnutzen」」(2019年8月10日)、Gründerszene「Tier-Mobility-Gründer „Leider ist die E-Scooter-Debatte oft recht einseitig“」(2019年8月10日)

編集部スタッフが実際に体験!
初心者のためのEスクーターガイド

ドイツの主要都市でシェアリング事業を展開するTierのEスクーターに、編集部スタッフが初挑戦。安全にEスクーターに乗るためのポイントや、実際の乗り心地をレポートする。じっくりシミュレーションして、Eスクーターを楽しんで!

TIER

Tier

Tier

2018年10月にベルリンでスタートアップしたEスクーターの会社。オリジナルのEスクーターを開発し、ドイツの17都市をはじめ、欧州各地や中東でシェアリングサービスを展開している。www.tier.app

ドイツ国内:ベルリン、ビーレフェルト、ボーフム、ボン、ケルン、デュッセルドルフ、フランクフルト、ハンブルク、ハノーファー、ハイデルベルク、インゴルシュタット、ルートヴィヒスハーフェン、マインツ、マンハイム、ミュンヘン、ミュンスター、ヴィースバーデン(2019年8月現在)

Tier利用料の目安
1ユーロ(ロック解除料)+0.15~0.19ユーロ/分(都市によって異なる)
※1回の利用料の目安は3~4ユーロ(10分程度)

5つのSTEPで乗ってみよう!

1アプリをダウンロードする

アプリをダウンロード

まずは、スマートフォンでTierのアプリをダウンロードし、ユーザー登録をする。

名前やクレジットカード情報を入力するだけなので、5分ほどで登録が完了する。一度登録すれば、利用料は自動引き落としなので、スマホさえあればいつでも利用可能。

2Eスクーターを探す

Eスクーターを探す

アプリで近くにあるEスクーターを探す。Eスクーターを見つけたら、QRコードをスキャンするか、アプリ内のEスクーターIDをタップしてロック解除。

乗る前にここをチェック!
□ ブレーキは利くか?
□ ライトはつくか?
□ タイヤはパンクしていないか?

3片足を乗せて、さあ出発!

片足を乗せて

片足をボードに乗せて、両手でハンドルをしっかり握る。地面についている方の足で、3~4回地面を蹴って出発!スピードに乗ってきたら、両足をボードの上に乗せる。

操作に慣れるため、まずは公園の中など広い場所で練習するのがおすすめ。ボードの幅が狭いので、特にガタガタした道はバランスを取るのが難しいことも。

4スピードアップする

スピードアップする

右手側のスピードレバーを使ってスピードアップ。自転車と同じように両サイドについたブレーキでスピードダウン(古いタイプの車種はボードに足ブレーキがついているので注意)。

スピードレバーを一気に押しすぎると急進してしまうため、少しずつ加速すると◎。スピードに乗ってどんなに気持ちよくても、周囲の交通状況に注意して。

5目的地に到着!駐車して完了

駐車して完了

目的地に到着したら、Eスクーターを駐車。駐車可能なエリアは、アプリの指示に従う。通行の妨げにならないように、駐車場所には配慮すること。「Fahrt beenden(乗車終了)」をタップして完了。

待ち合わせなどで急いでいるときに、なかなかバスやトラムが来なかったり、乗り損ねてしまった場合に利用すると、時間を短縮できて便利そう!

楽しく安全に乗るためのQ&A

Q: どこを走ってもいいの?
A: 原則的に自転車道だけ

自転車専用道のない場合だけ車道走行が認められている。歩道は走行禁止で罰金あり。また、対向車線を走らないように注意して。

Q: 速度制限はある?
A: 時速20キロまで

都市ごとに定められている最高速度(ドイツでは一般的に時速20キロ)を超えないように注意する。また、下り坂ではスピードを十分に落として走行すること。

Q: 子どもは乗っていいの?
A: 14歳以上から使用可能

ドイツでは14歳以上がEスクーターを使用可能。なお、TierのEスクーターを借りられるのは、18歳以上から。運転免許証は不要。

Q: ヘルメットはいらない?
A: 着用するのがベター

ヘルメット着用の義務はないが、各地で事故が発生していることから、着用が推奨されている。実際に、事故で怪我をする人はヘルメットを被っていないことが多いそう。

Q: お酒を飲んでも運転できる?
A: 飲酒運転は禁止

車やバイクの場合と同じように飲酒運転は禁止。特に夜間は視界が悪くなるため、飲酒していなくても注意して運転することが必要だ。

最終更新 Montag, 26 April 2021 10:23
 

ドイツで始めるバードウォッチング - 会いたい野鳥を探しに出かけよう!

会いたい野鳥を探しに出かけよう!ドイツで始めるバードウォッチング

コロナ禍でにわかにブームとなっているのが、バードウォッチングだ。窓辺や庭に遊びに来た野鳥を眺めたり、森の中で見たことのない種類を発見したり、ロックダウン中でも気軽に楽しめることから、野鳥観察を始める人が増えたのだとか。ここドイツでは19世紀から野鳥を保護してきた歴史があり、さまざまな種類の野鳥を身近で観察することができる。今回は、そんなドイツでバードウォッチングに出かけたくなる魅力とヒントをお届けする。(Text:編集部)

ドイツで始めるバードウォッチング

鳥類保護120年の歴史 野鳥を大切にしてきたドイツ

参考:NABU公式ホームページ、浅田進史「書評:帝政期ドイツにおける『自然保護』の近代」

鳥類保護は自然保護の原点

ドイツは「自然保護の国」というイメージが強いが、その歴史は18世紀にまで遡る。ドイツでは18世紀以降の林業の合理化によって、森の木々は収益性の高い種類だけとなり、人々が慣れ親しんだ景観が大きく変化。合理主義に対抗するロマン主義的な傾向を強めることになった。19〜20世紀のドイツで自然保護運動が盛んになったのには、こうした背景がある。

1837年、自然保護団体としてドイツ初の動物保護協会がシュトゥットガルトに生まれた。その後、各地で同じような協会が設立され、鳥類保護の必要性も訴えられるようになる。そして1899年に、全国的な組織として「鳥類保護同盟」(BfV)が創設された。会員は貴族や知識層が中心で、その数は発足から1年で3500人まで増加している。

BfV創立者のリナ・ヘーンレは、実業家の妻であり6人の子の母だった。「容赦ない自然搾取をこれ以上見ていられない」ことが、協会設立のきっかけだったという。当時、害虫を駆除する益鳥を守ることが鳥類保護の主な動機だったが、狩猟による渡り鳥の大量殺害や羽飾りのついた帽子を被るような行為に対して闘うことも重要であると、BfVの規約で明確にされた。さらに、野鳥に巣を作る機会や冬の餌を与えることで、ドイツ固有の益鳥の保護に貢献することが同協会の目的となっていた。

BfVは巣箱の設置や冬の餌の調達、自然保護地域の土地を購入するなど、着実に鳥類保護の活動を進めていった。また鳥類の個体数が減るという最悪のシナリオを提示し、自分たちの美しい故郷の自然を守ろうと呼びかけ、人々が自然や野鳥の保護に関心を寄せるきっかけを積極的に作った。そうして会員数は拡大し、1914年には4万人以上の団体へと成長する。

環境保護団体へと成長

ナチス政権下では、BfVは「帝国鳥類保護連盟」として政府の管轄に置かれた。第二次世界大戦中は物資が不足しながらも、巣箱の設置や冬の餌やりが続けられたという。戦後はBfVとして再スタートを切り、1965年に「ドイツ鳥類保護連盟」(DBV)に改名。1970年代には、工業化や農薬などによって汚染された環境、つまり野鳥の生息地を保護することもDBVの大きなテーマとなっていく。

1971年、DBVは絶滅に瀕していたハヤブサを「バード・オブ・ザ・イヤー」(今年の鳥)に決定した。このキャンペーンは、絶滅危惧種や身近な野鳥を選出するもので、現在に至るまで毎年続けられている。またそうした種の保存に関する活動で印象的な出来事の一つに、1974年のツバメの救出作戦がある。例年よりも早く冬が到来したため、弱って南へ飛び損ねた100万羽のツバメを飛行機や電車で輸送するという大掛かりなものだった。

1981年には規約の改正に伴い、全ての生き物や植物を保護の対象とすることを明確にした。間口を広げたことにより、その年の会員数は10万人に達する。さらに、1986年のチェルノブイリ原発事故後には反原子力の立場を取るようになるなど、政治的な活動も活発になっていった。そして1990年に東西ドイツが再統一され、鳥類にとどまらず全ての生き物、環境を保護する包括的な組織「ドイツ自然保護連盟」(NABU)が誕生したのだった。

NABUが育ててきた野鳥への愛

現在NABUを支えるのは、82万人を超える会員とサポーターで、全国約2000の地域ごとや専門家のグループが活動している。会報「Naturschutz heute」は年4回、合計40万部が発行され、最も発行部数の多い環境雑誌としても知られる。会員は会費を支払い、国内に5000カ所以上ある保護地域の保全活動に協力したり、環境教育の一環としてイベントなどに参加したりすることが可能だ。

全国各地にあるNABUの自然保護センターには観測塔が設置されている全国各地にあるNABUの自然保護センターには観測塔が設置されている

前述の「今年の鳥」は、鳥類保護を前身とするNABUの代表的なキャンペーンの一つ。2021年は45万人以上が投票し、ヨーロッパコマドリが選ばれた。候補の野鳥たちにはそれぞれ選挙ポスターがあり、ヨーロッパコマドリのスローガンは「もっと庭に多様性を!」。ちなみに、ヨーロッパコマドリは1992年にも今年の鳥に選ばれている。

ヨーロッパコマドリの選挙ポスターヨーロッパコマドリの選挙ポスター

こうして一つひとつ積み重ねてきたNABUの活動は、ドイツの人々により自然を身近に感じさせ、それらを守ろうという意識を広めてきた。この国に住む野鳥たちは、そうした人々の愛があってこそ、私たちにとって身近な存在であり続ているのだろう。そんなドイツの野鳥たちに出会うためのヒントをご紹介する。

NABU公式ホームページ:www.nabu.de

バードウォッチング初心者のためのヒント

むくむくと野鳥への興味が湧いてきたところで、いよいよバードウォッチングへ出発! その前に何を用意すれば? どんなことに注意したら? 初心者でも気軽に楽しめるよう、自他共に認める(!?)バードウォッチャーである守屋健さんとキーツマン智香さんのおふたりに、野鳥観察のヒントを伝授していただいた。

お話を聞いた人

守屋健さん

ベルリン在住のライター。小学5年生のとき、近所で野生のキジを見たのをきっかけに日本野鳥の会に入り、日本各地の野鳥を観察してきた。ドイツで出会ってみたい野鳥はフクロウ(夜行性のため鳴き声しか聞いたことがない)。本誌では「私の街のレポーター」に隔月で寄稿中。

キーツマン智香さん

ブランデンブルク州在住の元翻訳者。旅行先のパナマでハチドリを間近で見たことから、野鳥観察に夢中になる。ドイツで出会ってみたい野鳥はニシコウライウグイス(DDRのガソリンスタンドのマスコットキャラクターだった)。ホームページでドイツの野鳥観察に関する情報を発信中。https://chikatravel.com

野鳥観察に出かける準備

野鳥観察に出かける準備

服装

長袖長ズボンが基本。アウトドアでは遭難対策で派手な色のジャケットなどを着用することをすすめられるが、バードウォッチングでは野鳥に警戒されないように風景に溶け込むカーキ色などが◎。同じ理由で、ナイロンなど動くとカサカサと音がするような生地の服ではなく、ウールやコットンなどを着るのがベター。

双眼鏡

野鳥観察では、双眼鏡の倍率は7~10倍くらいが適している。また、レンズの大きさは30ミリ前後を目安に用意しよう。双眼鏡の倍率が高すぎると、かえって鳥を探しにくくなってしまうので注意。防水機能が付いたものであれば、雨が降った時でも安心だ。使うときのコツは、野鳥を目視した状態で、その姿勢のまま双眼鏡を目元に持っていくこと。

トレッキングシューズがベストだが、履きなれた靴であればOK。湿地帯などを歩く場合は、防水性の高い靴にしよう。

アプリ

NABUが監修したアプリ「Vogelwelt」(鳥の世界)は、無料でダウンロード可。よく見る307種類の野鳥が収められており、初心者にもおすすめ(ドイツ語のみ)。有料版では1000種類に数が増え、鳴き声や卵の大きさを確認することもできる。手元に図鑑がない時も気軽に利用できて便利。また世界中のユーザーと野鳥観察の記録をシェアできる「eBird」というアプリ(英語)もある。

フィールドノート

あとで野鳥の種類などを図鑑で調べるために、特徴などを素早くメモするノート。例えば、見た目、鳴き声(擬音語)、巣の有無、枝への止まり方などを書き留めておく。スマートフォンでメモすることも可能だが、ささっと絵を描くこともできるので、ノート愛用者も多い。さまざまなデザインのものがあり、日付や季節ごとに見られる野鳥のイラストなどが付いている場合も。

フィールドノートキーツマンさんのフィールドノート(写真:ご本人提供)

図鑑

自然科学をはじめとした図鑑を数多く出版しているKosmos社。同社の『Welcher Vogel ist das?』(あれはどの鳥?)のシリーズはNABUのお墨付き図鑑で、愛用する人も多い。ドイツに生息する野鳥の特徴や生息地が、美しいイラストと共に収められている。

野鳥に出会うためのコツ

いそうな場所を狙ってみる

川や湖に行ったら水の上や水辺の木の上に注目したり、タカやワシなどの猛禽類であれば視界が開けた場所を見たりするなど、いそうな場所を探してみよう。事前に図鑑などで、見たい野鳥がどんな場所に生息しているのかを調べておくのも一案だ。むやみやたらに上ばかり向いていると、首が疲れてしまうのでご注意!

音を聞いてみる

歩く時は、大きな音を立てないようにして耳を澄ませよう。鳴き声はもちろん、落ち葉の上を「カサッカサッ」と歩く音が聞こえてくるかもしれない。例えば、キツツキはドラミング(木をつつく音)をする前、木を調べるように1~2回「コンコンコン」と音を出している。その音が聞こえる方に、そっと視線を移してみて。

定点観測をしてみる

お決まりの散歩コースがあれば、定点観測がおすすめ。何度も歩いているうちに、湖には〇〇がいる、原っぱには△△がいる……など、だんだんと野鳥の縄張りが分かるようになってくる。今の季節であれば、巣を作っている→ひなが生まれる→ひなが巣立ちをする、など定点観察しているからこその面白さがある。

巣箱や餌台を設置してみる

庭がある場合は巣箱や餌台を設置してみよう。なかなか間近で見ることはできない野鳥が顔を見せてくれる。専用カメラ(安価なもので100ユーロ前後)を取り付ければ、アプリを通じてリアルタイムでの観察が可能。定期的に動画や静止画を撮影してくれるので、時間の空いた時に様子を確認するなど、毎日の楽しみも増えるはず。

バードウォッチャーおすすめ野鳥図鑑

引き続き守屋さんとキーツマンさんに、ドイツでよく見られる種類やイチオシの野鳥を教えていただいた。会いたいと思う野鳥を見つけたら、図鑑片手に探しに出かけてみよう。見慣れていた散歩の風景が、きっといつもと違って見えるはず。鳴き声を聞きたい方は、NABU-Vogelporträts をチェックしてみて。

参考:NABU-Vogelporträts

庭によく来る野鳥トップ ※NABUの統計より

1位イエスズメ Haussperling
スズメ目スズメ科/体長14~16cm

いわゆるスズメ(Feldsperling)とは違い、頬に黒い斑点がない。雌雄の違いがはっきりしており、オスは頭が灰色で、メスは目の横に黄土色の線が入っているのが特徴。日本には生息していないが、欧州では都市部でもよく見られる。害鳥と見なされていた19世紀、20羽ごとに「スズメ税」が課されていたこともあるとか。

イエスズメ Haussperling

2位クロウタドリ Amsel
スズメ目ツグミ科/体長23〜29cm

黄色いくちばしと真っ黒の羽毛で見た目は地味だが、冬の終わりごろから6月にかけてよくさえずり、多彩な鳴き声を発するのが魅力。特に求愛時のオスの歌声はメロディックである。地中にいる虫を食べるため、地面を動き回っていることが多い。オートミールやレーズンなども好むため、餌台がある人はぜひ置いてみよう。

クロウタドリ Amsel守屋さんのイチオシ野鳥

3位シジュウカラ Kohlmeise
スズメ目シジュウカラ科/体長13.5~15cm

1年中、庭や公園、森林など、緑が多い場所で見られる。カラフルな羽毛が魅力のシジュウカラは、欧州ではお腹が黄色いのが特徴で、日本ではこれが白とやや見た目が違う。夏場は虫を食べるが、冬場は種子などを食す。巣箱や餌台を設置すると、喜んでやってくる。春に苔や羊毛で巣を作るため、近くに素材を置いてあげても。

シジュウカラ Kohlmeise

初心者でも見つけやすい野鳥

カササギ Elster
スズメ目カラス科/40~51cm

カラスよりも少し小さいが、白と黒の羽毛と長い尾羽が特徴で、木の上や原っぱですぐに見つけることができる。光反射によって黒い羽毛がメタルブルーに見えることがある。日本のカササギも見た目が同じ。地中に食べ物を隠したり、しばしばほかの野鳥から食べ物を奪ったりするため、ずる賢いことでも知られている。

カササギ Elster

マガモ Stockente
カモ目カモ科/体長50~60cm

「バードウォッチング!」と気合を入れなくても出会える水鳥。オスは緑色の頭と黄色のくちばし、メスは茶系の羽毛とオレンジ色のくちばしが特徴。通常はペアで行動するが、春はメスがひなを連れている姿が見られる。餌やりをする場合、パンには塩や防腐剤が入っているため、専用の餌や穀物をあげるようにしよう。

マガモ Stockente

ツバメ Rauchschwalbe
スズメ目ツバメ科/17〜 19cm

夏鳥といえばツバメ。ドイツでは4〜10月に見ることができ、冬はアフリカへ渡る。人間の生活空間に巣を作ることを好むため、見かける機会も多い。毎秒20メートルで颯爽と飛び、飛行中に餌となる虫などを捕らえる。「ツバメが低く飛ぶ」のは雨が降る予兆といわれ、低気圧のために地上に近い虫を追いかけるからだとか。

ツバメ Rauchschwalbe

欧州だから見られる野鳥

ゴシキヒワ Stieglitz
スズメ目アトリ科/体長12〜13.5cm

日本には生息していない野鳥で、赤と黄色と黒のカラフルな羽毛が特徴。ゴシキヒワは苦悩を和らげるためにキリストの皮膚からトゲを引き抜き、聖なる血を頭に塗ったという言い伝えがある。虫はほとんど食べず種子などを好むため、畑や休閑地、果樹園などでよく見られる。繁殖期以外は基本的に群れで行動する。

ゴシキヒワ Stieglitz

クマゲラ Schwarzspecht
キツツキ目キツツキ科/体長40〜46cm

赤い帽子を被ったような見た目で、オスよりメスの方が赤い部分が小さい。そしてなんと言っても、のみのように鋭いくちばしで木を高速でつつくドラミングが最大の特徴だ。日本では北海道と東北地方の一部の地域でしか見られないが、ドイツでは全国的に生息している。樹齢80年以上の古い木がある森林でよく見られる。

クマゲラ Schwarzspechtキーツマンさんのイチオシ野鳥

コウノトリ Weißstorch
コウノトリ目コウノトリ科/体長95~110cm

渡り鳥で、冬はアフリカに滞在するが、近年西側に生息するコウノトリはイベリア半島で越冬する。湿った牧草地を好み、大空を旋回する姿がよく見られる。煙突や教会の塔に巣を作ることもあり、この時期は子育て中のコウノトリが見られるチャンスも多い。絶滅危惧種でドイツ国内には6240ペアのみが生息している(2019年)。

コウノトリ Weißstorch

最終更新 Dienstag, 27 April 2021 11:41
 

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