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ヘンドリック・トーマ インタビュー ソムリエからワイン・エンターテイナーへ

ヘンドリック・トーマ ソムリエからワインエンターテイナーへ

2009年夏にスタートし、好評を博しているインターネット・ワイン情報番組「TVINO(ティーヴィノ)」。ハンブルク近郊トルネッシュのワイン商社、Hawesko社のオンラインショップが提供するこの番組のパーソナリティーを務めているのが、マスター・ソムリエ(Master Sommelier)のヘンドリック・トーマ(Hendrik Thoma)だ。中でも醸造家やワイン関係者をゲストに迎えてのトークショーは、肩肘張らず、視聴者もおしゃべりに同席しているような気分にさせてくれる。20余年のソムリエ経験を活かしつつ、ワインジャーナリスト、そしてエンターテイナーとして活躍の幅を広げ始めた彼に、ソムリエになった経緯やドイツワインの可能性などについて聞いた。(インタビュー・構成:岩本 順子)


© tvino.de
ヘンドリック・トーマ Hendrik Thoma
1967年ノルトライン=ヴェストファーレン州ギュータースロー生まれ。ドイツおよび米国で料理人修業を経た後、ハイデルベルク・ホテル専門学校のソムリエコースを終了。ハンブルクのレストラン、ルイ・C・ヤコブ(ミシュラン1つ星)にて長年シェフ・ソムリエを勤め、その間にマスター・ソムリエ資格を取得した。現在は独立し、ジャーナリズム、プレセンテーション、コンサルタント分野で活躍中。
www.hendrikthoma.de
www.tvino.de

初めて飲んだワインは、マテウス・ロゼのはず

あなたのご両親は、ワインがお好きでしたか?

僕の出身地は非常にプロテスタント色の濃い地域で、ワインは特別な日の飲み物。伝統的にビール、コルンなどのシュナップス、ブランデーが飲まれている地方なんだ。僕の両親は標準的なドイツ人で、特にワインに興味を持っているわけではなかった。そんな彼らが、たまに食事時に飲んでいたワインがポルトガル産のマテウス・ロゼ(Mateus Rosé)だった。これが僕が初めて飲んだワインのはずだよ。当時はこのワインのように、甘口が主流だったんだ。ドイツ人は昔から輸入ワインが好きだった。エキゾチックで旅情を誘われるワインがね。そういえば、僕の父は時々ボルドーの赤を買って来て、自慢していたことがあったな。そうそう、彼が南アフリカ・ステレンボッシュ(Stellenbosch)地方にあるブラーウクリッペン(Blaauwklippen)醸造所のカベルネソーヴィニヨンを買って来た時のことはよく覚えているよ。

すると、ワインに興味を持たれたのはやはり、ご両親の影響でしょうか?

両親ではなく、彼らの友人の影響だったと思う。父母の友人に、大変なワイン好きがいて、彼の家には膨大なワインのコレクションがあったんだ。彼は、僕がワインに興味を持ち始めていることに気付いて、気前良くボトルを開けてくれたものだった。

あとは、実家の近くのワインショップでアルバイトをしたことをきっかけに、ワイン好きになったっていうのもある。仕事の後でオーナーやスタッフと試飲を繰り返し、多くのことを学んだよ。でも、ワインへの本格的な興味が沸いたのは、もっと後になってからだったんだ。

食への関心は、どなたの影響ですか?

これは祖母の影響だと思う。父母がいつも忙しかったので、僕はよく祖母のところに遊びに行っていたんだけど、そこで彼女が作る美味しい料理を食べるのが楽しみだった。プフェッファーポットハスト(Pfefferpotthast)や牛舌の煮込みなどの伝統料理で、祖母のキッチンでは手伝いもしたよ。

2009年のTVINOの番組風景。ゲストはピーター・ゲイゴ氏
2009年11月26、27日にアップロードされたTVINOの番組風景。
この時のゲストはピーター・ゲイゴ(Peter Gago) 氏。
英国生まれ、オーストラリアのペンフォールド社のワインメーカー。
ライターでもある © tvino.de

最初はソムリエではなく、料理人を目指したそうですね。

僕は勉強が苦手で、学校を卒業するとすぐ料理人の道に進んだ。最初はギュータースローのパークホテル(Parkhotel)で修業し、皿洗いから調理、サービスに至るレストラン業務を一通り学んだ。でも、このままギュータースローに留まっていては将来性がないと思い、料理人修業と兵役を終えると、ハンブルクのラントハウス・シェラー(Landhaus Sherrer)で働き始めた。ここは当時、ミシュラン2つ星のレストランだったんだよ(現在は1つ星)。

米国の名ソムリエ、 ラリー・ストーンが手本なんだ

当時、ラントハウス・シェラーにソムリエ職の人はおられましたか?

シェラーには素晴しいワインカルテがあったけれど、ソムリエに相当するケルナー(給仕)はいなかった。もちろん、これは今日の視点からの見解であって、決して批判しているわけじゃない。でも、1980年代後半のドイツでは、一流レストランであっても、ワインについての専門的な知識を提供できるスタッフはほとんどいなかったんだ。先駆者となったのが、かつてヴィースバーデンのレストラン、エンテ(Ente)にいたラルフ・フレンツェル(Ralf Frenzel)、そして1988 年に「ゴーミヨ・ドイツワインガイド」の創刊号で最優秀ソムリエに選ばれたパウラ・ボッシュ(Paula Bosch)といったソムリエたち。マルクス・デル・モネゴ(Markus del Monego)がソムリエ世界チャンピオンを受賞し、この職業が広く知られるようになったのは、それから10年後の1998年だった。

あなたが料理人からソムリエに転身したきっかけは?

1990 年にラントハウス・シェラーの調理スタッフの職を辞めて米国へ渡り、カリフォルニア州ナパ地方・ルサーフォード(Rutherford)のリゾートホテル、オーベルジュ・デュ・ソレイユ(Auberge du Soleil)のレストランで2年間働いたんだ。そのレストランのシェフ、ウド・ネクトニーズ(Udo Nechutnys)は、フランス・リヨンの著名レストラン、ポール・ボキューズ(Paul Bocuse)などで修業を積み、1970年代にナパ地方にやって来たドイツ人で、現地のあらゆるワイナリーやレストランと繋がりを持っていた。また、僕のルームメイトがニューヨーク出身の料理人で、当時ケイン・セラーというワイナリー(Cain Cellers Vineyard & Winery)のレストランで働いていてね。そのワイナリーで僕は再びワインに出会ったんだ。やがて、僕はそこでワイン造りのアシスタントをするようになり、いつの間にかレストランでよりもワイナリーで働く時間の方が長くなってしまったんだ。

また、オーベルジュ・デュ・ソレイユでも、徐々にソムリエ的な仕事を任されるようになり、米国で活躍するソムリエたちと知り合うようになった。あの頃の僕にとっての一大事件は、マスター・ソムリエのラリー・ストーン(Larry Stone) と出会ったこと。彼がルビコン・エステート(Rubicon Estate) のマネジャーをしていた頃だね。ラリーは多くの若手を育てた米国で最も重要なソムリエ。とても大らかな人柄で、僕のお手本なんだ。

探し求めていたものは、米国にあったというわけですね!

そう。ドイツへ戻ってから、僕はラインガウ地方のワイナリー、ヨハネスホーフ(Johanneshof)でしばらく働いていたんだけど、その時にはもうソムリエになろうと決意していた。その後、ハイデルベルクのホテル専門学校にソムリエ科があることを知って、2年生に飛び入り入学。コース終了後、ソムリエとしてスタートを切ったんだ。

ソムリエとしての最初の勤務先はどこですか?

まず、ライプツィヒのインターコンチネンタルホテル(現Westin Hotel)で1年半働いた。フランスワインが主体だったけれど、旧東独のザクセンやザーレ地方、世界各地のワインも豊富で、約300 種類が常備されていた。でも、上部の管理が厳しく、なかなか新しいことに挑戦できなかったんだ。そんなある日、オープンしたばかりだったハンブルクのホテルのレストラン、ルイ・C・ヤコブ(Louis.C.Jacob/1995 年オープン)がソムリエを募集していると知り、早速応募して採用された。以来、ずっとハンブルク住まいなんだ。

長年、ルイ・C・ヤコブのシェフソムリエを務められ、まさにヤコブの顔でしたね。

1995年から2008年まで勤務したから、計13年。実に様々な人と知り合い、多くのことを学んだ、充実した期間だったよ。

その13年の間に、レストランを訪れる客のワインの好みやソムリエの作法などに変化、進化はありましたか?

僕が働き始めた頃は、顧客のほとんどがボルドー・ドリンカーだった。誰もが「ワインはボルドーかサンセール(Sancerre)」という古典的嗜好。好みが画一化されていたんだ。1990年代半ばは、年代物のボルドーがまだそれほど高価でなく、専門業者から難なく購入できたしね。また、初期のヤコブには、ドイツワインと言えば、モーゼル地方のワインが少し置いてあるだけだったんだ。そこで僕はまず、ドイツワインの比率を増やした。ボルドーがどんどん高価になっていたので、ボルドー以外のワインを勧められる状況になったんだ。ほかのワインにもチャンスが巡ってきたというわけだね。そうしてドイツワインをはじめ、ポルトガルやスペイン、カリフォルニア産などのワインもよく飲まれるようになった。

顧客との信頼関係が大切

13年間で最も貴重な体験は何でしたか?

同じレストランで長年勤めたので、常連客の好みを熟知することができ、彼らとの間に信頼関係が生まれたことかな。信頼関係があったからこそ、彼らの本来の好みとは違うワイン、たとえばドイツワインを勧めても、それを楽しんでもらうことができたと思う。

僕は人の名前はあまりよく覚えられないんだけど、その人の顔とその人が飲んだワインは、なぜかしっかり覚えられたし、レストランでは顧客情報のカルテを作っていた。顧客が以前、どんなワインを選んだかをちゃんと把握した上で接客していたんだ。顧客にとっても、僕たちがそれを把握していることはいろんな面で有利だしね。

あなたが体得した、あるべきソムリエの姿とは?

ソムリエには、まだよく知られていない優れたワインを広く知ってもらうという役割がある。基本となる古典的なワインは知っておく必要があるけれど、そこで終わってはいけない。客にお勧めを聞かれて、すぐに答えられなければならない。顧客の予算にあったワインを押さえておくことも大切だ。

顧客が限られた予算内で充分楽しめるよう手助けすること、顧客と良い関係を築き、彼らにまた来てもらえるようなサービスをすることも大事だね。ほかには、価格が公正であること、ワインカルテがいつもちょっと流行の先、ほかのレストランの先を行っていることも大事。あと、ソムリエは正確な振る舞いをする必要がある。一番良いのは、正確に振る舞いつつ、リラックスした接客ができること。堅苦しくなっちゃいけない。僕はもともと堅苦しいタイプじゃないけれど、経験を積むごとにそのあたりが磨かれていったと思う。

今日、ミシュランの星を獲得しているレストランへのプレッシャーには大変なものがある。ルイ・C・ヤコブで働いていた当時の僕にとっても、それは大変なストレスだった。完璧さが要求され、失敗は許されない。しかし、食事というのは本来楽しいもの。正確さ以上にハートや情熱の方が重要だと思うんだ。

理想的なワインカルテとは、どんなものでしょう?

ワインカルテは大きい方が良い。小さなカルテではバラエティーが限られてしまうから、あらゆるワインを載せておく方がレストラン客にとっても選びやすい。でも、あまりにも分厚過ぎるワインカルテも良くないんだ。40、50本くらいのワインが揃っていて、良いソムリエがいれば理想的だね。

ワインと料理の組み合わせ、あるいはワインそのものをどう楽しんでいらっしゃいますか?

たとえばここに素晴しいワインがあるとする。すると、料理がどんなものであっても、そのワインをずっと愛おしみ、楽しみ続けるということがあるね。通常、僕はその時の状況や雰囲気でワインを決めることが多い。季節や天気、気温などを基準にね。料理を伴うなら、せいぜい軽いワインが良いのか、重い方が良いのかを考えるだけ。僕は、それぞれの料理に2種類もワインをサービスするような過剰なことはしたくない。そういう点で、ピノ・ノワールはカメレオンのように、かなりいろんな料理にマッチする。

ワインと料理の世界を平たい板に例えるなら、一方の端に不可能な組み合わせがあり、もう一方の端に最高の組み合わせがある。そして、その間がワインの世界だ。そこには無限の可能性がある。定説的な、凝り固まった考え方をする時代はすでに終わっていると思うよ。

ルイ・C・ヤコブに勤務されていた時に、マスター・ソムリエの資格を取得なさっていますが、ソムリエの仕事と勉強の両立は大変だったのではないでしょうか。

マスター・ソムリエの勉強は確かに大変だった。準備に4年掛かり、資格が取れたのは1999年だった。ザ・コート・オブ・マスター・ソムリエ(The Court of Master Sommeliers)というソムリエ資格を認証する世界機関は、とても英国的な組織だけれど、国際性を志向していて、世界中どこでも働けるワインケルナーを養成することを目的としているんだ

1999 年にゴーミヨの年間ソムリエ優秀賞を受賞なさいましたが、マスター・ソムリエの資格取得と同年だったのですね。

そう、1999 年は僕にとって大きな転機だった。受賞後、テレビ局から声が掛かるようになった。その頃には僕もシェフソムリエとしてスタッフを抱えていたので、時間的に余裕があり、副業も行える状態だったから、VOXやNDR局などの仕事を引き受けた。VOX 局のコッホドゥエル(Kochduell)は、ドイツのテレビ史上初めてソムリエを登場させた料理番組のはずだよ。

TVINOでは、これまでのあらゆる経験を活かせる

そのうちに副業が専業となり、独立されたのですよね。

いや、その前に業務用食材大手メトロ(METRO)から声が掛かったんだ。ワイン商の仕事も面白そうだなと考え、思い切って転職した。長年レストランでばかり働いていたから、ほかの世界ものぞいてみたくなったんだよ。でも、実際に働いてみると、ここは自分の居場所じゃないと感じるようになった。そこで、一通りのことをやってから辞めた。独立したのはそれからだったんだ。

2009年にスタートしたTVINOは好評ですね。

TVINOの仕事は本当に面白く、とても気に入っている。しばらくは、TVINOが僕の仕事の主体になると思う。インターネット上での番組公開はコミュニティーを作れるし、フェイスブックやツイッターなどを駆使しながらワインを自在に紹介できる。このような手段を利用することは効果的な戦略だと思う。それにTVINOでは、僕がこれまでやってきたあらゆる経験を活かすことができる。自分らしさを出せる仕事だと思うよ。

あなたは、これまでドイツワインの紹介に大変尽力されてきました。今、日本ではドイツワインの人気が低迷していますが、ドイツワインを勧めることには特別な困難が伴うと思いますか?

心の広い大らかな人たちになら、フランス人だろうが、アメリカ人だろうが、ドイツワインを勧めることは全然難しくないよ。でも、頑固で心の狭い人たちにドイツワインの良さを伝えるのは難しい。彼らは自分の意見や主張に凝り固まっていて、新たな挑戦をしたがらないから。寛大で素敵な人は、ワインに対してもとてもオープンな考え方をしているよ。

最終更新 Dienstag, 13 August 2019 10:25
 

年末年始の音楽の贈り物

©Sae Esashi

年末年始の音楽の贈り物  中村 真人

毎年12月半ばになると、新聞の文芸欄の一面にCD案内が掲載される。その年の推薦盤を選者数人がプレゼント用に紹介するというものだが、私は毎年このコーナーを楽しみにしている。CD 選びの参考になるだけでなく、選者の機知が感じられるからだ。例えば、ベルリナー・ツァイトゥング紙ではこんな風にカテゴライズされている。「年間ベストCD」「教養ある叔母のためのCD」「悪い甥のためのCD」「幸運をもたらすCD」・・・・・・。これを眺めていると、今年も1年無事に終わったことへの感謝と、来るべき年への希望を込めて、親しい人や自分自身のためにどれか1 枚選んでみたくなる。「贈り物としての音楽」を強く実感する季節である。

ドイツでも稀な厳しい寒さが続く。こんな冬の季節の音楽となると、大学時代に受講していた池田香世子さんのドイツ語の授業を時々思い出す。モーツァルトのオペラ《魔笛》のテキストを半年間かけて訳していくという授業だった。受講者は確か10人もいなかったが、それだけにアットホームな雰囲気があり、授業の後にみんなでカフェに行くこともあった。池田さんが、ベストセラー小説『ソフィーの世界』や映画『ベルリン・天使の詩』の字幕を担当した著名な翻訳家であることは知っていたが、実はジャンルを問わず相当な音楽愛好家でもあった。時々授業から脱線して、「実は私、ドイツに留学していたとき、よく車を運転して指揮者のチェリビダッケの追っかけをしていたのよ」といった意外な思い出話を聞くのは楽しかった。12 月に入った頃だったと思うが、池田さんがふとこんなことをおっしゃった。「ドイツの冬というのは本当に長くて厳しいの。でも、だからこそ人は劇場に足を運ぶのだと思うわ。映画『アマデウス』にもそういうシーンがあるけれど、劇場のシャンデリアのきらびやかさは本当に格別なのよね」。

大学卒業後、本場の音楽に思い切り浸りたくてベルリンにやって来た1年目、池田先生のあの言葉を本当に実感することになったのが年末年始の季節だった。日が落ちるのがみるみる早くなる、どこか陰鬱な11月が終わり、アドヴェントの季節になると、コンサートホールに、教会に、音楽があふれるようになる。日本だと「第9」一色に染まるが、ドイツでは例えば《クリスマス・オラトリオ》を筆頭に、《メサイヤ》、オペラ《ヘンゼルとグレーテル》、《くるみ割り人形》、胸躍るリズムのバロック音楽等々・・・・・・。寒く暗いこの時期、温かさに満ちた音に人は幸せを感じ、つかの間かもしれないが、憂鬱な気分から解き放たれる。そんな中に《魔笛》もあった。ドイツ全土の伝統というわけではないようだが、ベルリン州立歌劇場では毎年この時期、必ず《魔笛》を上演している。子ども連れのお客さんが多いのもこの季節の特徴だ。私の知人は、最近小さな息子がパパゲーノとパパゲーナが結ばれる場面で、2人に飛びつくエキストラの役をもらい大喜びしているのだと、嬉しそうに話してくれた。19世紀の建築家シンケルの舞台画が元になった、ブルーを基調とした美しくも楽しい舞台を見ていると、池田先生のチャーミングな日本語訳で息を吹き込まれたパパゲーノがいきいきと脳裏に蘇ってくる。素朴で愛が詰まったこの音楽も、モーツァルトから私たちへのかけがえのない贈り物だ。

おいら鳥刺しいつでも愉快 ごきげんハイサホプサッサ
おいら鳥刺しこの国じゃ どなたさんにも知れた顔
娘捕る網あったらなあ 片っ端から捕まえて 
みんな篭に入れちまう 娘はみんなおいらのものさ
(池田香世子訳)

音楽に彩られたクリスマスが終わると、家族と過ごしていた人々が続々と住む場所に戻って来る。クリスマスは家族と、大晦日は友達や恋人と過ごすというのが、こちらの定番のようだ。大晦日のコンサートは開演時間がおおむね早い。有名なベルリン・フィルのジルベスターコンサートは17時15分から。聴衆もオーケストラのメンバーも、コンサートが終わってから友達と落ち合い、祝う時間はたっぷり残されている。日本に比べると演奏頻度はずっと少ないが、この日は大都市ならどこかのオーケストラが世の平和への願いも込めてベートーヴェンの「第9」を演奏している。自宅でパーティーをする人もいれば、ブランデンブルク門やダンスホールへと繰り出す人も。日付が変わった瞬間、シャンパンかゼクトで乾杯!

©Sae Esashi

1月1日のコンサートといえば、世界中にテレビ中継されるウィーン・フィルのニューイヤーコンサートが何と言っても有名だ。だが、私はベルリンの音楽好きで、このコンサートを毎年欠かさず見ているという人になぜか出会ったことがない。「あのあまりに豪華絢爛な雰囲気が、ちょっとねえ。それにウィーンとベルリンはライバル関係にあるから」という生粋のベルリンっ子のおばさんの言葉の真偽はともかく、11時開演という時間にも理由がありそうだ。遅くまでパーティーをしていた人々の多くは、まだ夢の最中にあり、前夜に散乱したゴミを片付ける清掃車の姿がようやく街角から消えた頃。日本で中継が始まる19時という絶妙な時間を思うと、あれはまさに極東のファンへ向けた贈り物ではないかという気さえしてしまう。

ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを一生のうちに一度でも生で聴ける人は相当限られているが、自宅で新年最初に聴くCD を選ぶのは、音楽好きにとって結構大きな楽しみだったりする。2011年のクラシック音楽シーンを彩るのは、没後100年のグスタフ・マーラーだろうか、それとも生誕200年のフランツ・リスト?

先のベルリナー・ツァイトゥング紙のCD紹介では、「年間ベストCD」の中にルネ・ヤーコプス指揮ベルリン古楽アカデミーの《魔笛》が選ばれていた。今年最初の1枚はこれにしようと思う。

2011年が皆様にとって、愛と喜びにあふれた、そして音との出会いに満ちた年でありますように。

2010年12月20日 ベルリンにて

中村真人(なかむら まさと) 神奈川県横須賀市出身。早稲田大学第一文学部を卒業後、2000年よりベルリン在住。現在はフリーのライター。著書に 『素顔のベルリン』(ダイヤモンド社)。ブログ「ベルリン中央駅」http://berlinhbf.exblog.jp

中村真人によるコラム
最終更新 Dienstag, 13 August 2019 10:34
 

医師 中島眞樹さん - 先輩は知っている欧州で生きるヒント

医師 中島眞樹さん - 僕たちは「鏡を見れば日本人」なのです - 先輩は知っている欧州で生きるヒント。

医療先進国ドイツで30年以上にわたり、第一線で医療現場に立ち続けてきた日本人がいる。67歳の現在も国内トップレベルの胸部外科医としての手腕を認められ、あちこちの病院から呼び声を掛けられる中島眞樹さんだ。文学を志していた青年は、なぜドイツへ渡り、何を思いながら医師を続けてきたのか?
(Text : Yasuko Hayashi)

中島眞樹さん

1943年4月19日、鹿児島県生まれ。70年3月、京都大学医学部卒業。神戸中央市民病院心臓外科、京都大学医学部胸部疾患研究所・胸部外科での勤務を経て72年12月に渡独。77年4月までシュヴァルツヴァルト地方のレーマーベルク呼吸器センターに勤務した後、帰国し、滋賀医科大学で胸部外科の設立に携わる。82年7月、再渡独。ノルトライン=ヴェストファーレン州へーマーやハイデルベルクなどの病院に勤務した後、88年よりハンブルク近郊のグロースハンスドルフ病院の胸部・肺疾患センター第1医長。2008年5月に定年退職するも、09年に同センター部長として復帰。10年2~10月、同市ハーブルク地区の総合病院の呼吸器センター再建に従事。現在、バルムベク地区の病院の胸部外科新設に携わる。ドイツの呼吸器疾患専門医、外科専門医、胸部外科専門医の資格を持つ。ハンブルク近郊アーレンスブルク在住。医師業の傍ら、絵画制作も行なっており、これまでにアーレンスブルクを始め、各地で展覧会を開催している。

医師になった経緯を教えてください。

僕は昔から文学が好きで、大学も文学系の学部に進みたいと思っていました。しかし、肺疾患系の医師である親父を始め、親族の7人が医師という家庭環境で育ったため、当然、僕も医学の道を進むと考えていた家族は猛反対。それで大学に入る気がなくなり、東京へ出て1年間遊んだのです。その間、詩を書いたりしながら過ごしましたが、文学部に入って本当に生きていけるのかという疑問がわいたのと、東京が嫌になったのとで、結局、京都大学の医学部を受験しました。

当時は学生運動の真っただ中で、僕も毎週末電車で京都から東京へ行き、最前線で機動隊と闘っていました。だから卒業時に「あいつは危険だ」というレッテルを貼られ、就職活動には難儀しましたね。なんとか決まった就職先は、神戸にある病院の胸部心臓外科。小さな頃から親父が毎日レントゲンと向き合っているのを見て、「いったい何が楽しいんだろう?」と思っていたので、一番なりたくなかったのが心臓外科医なんですけどね。

渡独のきっかけはどのようなものでしたか?

神戸で2年間働いた後、医師としてもう少し医学を学びたいと思い、京大の胸部疾患研究所の胸部外科に入りました。そこの教授から、シュヴァルツヴァルトの呼吸器センターが手術のできる日本人医師を探しているから、ドイツに行くようにと言われたのです。当時は米国に行きたいと思っていたので、気が進まなかったのですが、その教授がしつこくて。結局、断りきれずに行くことにしたのです。

1972年に初めて訪れたときのドイツの印象はいかがでしたか?

僕はドイツに来るまで、まともにドイツ語を習ったことがありませんでした。だから当初は、患者とのコミュニケーションが非常に難しかったですね。でも、のんびりとした雰囲気の良い病院で、周りの同僚たちが皆、優しくしてくれました。

カルチャーショックというのも特にありませんでしたが、あえて言うなら、僕はお酒が好きなので、「こんなに美味しいビールやワインが、こんなに安く飲めるんだ!」と思ったことですかね。

幼少時代
幼少時代、画家だった叔父さんと

1991年、グロースハンスドルフの病院にて
1991年、グロースハンスドルフの病院にて

僕が病院を移ると、
患者の流れもそれに合わせて移動するようです

1977年に日本に帰国されています。再びドイツに戻られたのはなぜですか?

ドイツでの勤務が4年程たった頃、京大から戻って来いと言われて帰国しました。それまでに勤務先で知り合った妻と結婚し、長男も生まれていましたので、あまりドイツに戻りたいという気持ちはなかったのですが。ただ、日本で次男、三男が生まれ、子どもたちを教育する上で言語が問題になってきました。そこで、この状況は将来的に子どもたちにとって良くないだろうと考え、ドイツに戻ることにしたのです。

その後、現在に至るまでドイツで医師を続けてこられたわけですね。

ドイツに戻り、複数の病院に勤めた後、グロースハンスドルフの病院で20年間胸部外科を率い、2008年5月に定年退職しました。しかし、僕が辞めたらそこを仕切る人がいなくなって手術症例数が減り、病院の評判がどんどん落ちていったのです。そこで院長に再建を頼まれ、職場復帰。その後、ハンブルクの病院から胸部外科の再建を依頼され、今度は別の病院から同外科の新設を任され、現在はその準備に携わっています。

僕が病院を移ると、患者の流れもそれに合わせて移動するようです。ドイツの病院の評価は日本と違い、そこに勤める医師次第というところがありますからね。

もう医師の仕事は十分、とは思いませんか?

思いますよ。だからこの間、退職届を出したのです。でも、つい最近まで毎日2~3例の手術をしてきました。今までにこなした手術症例数は約7000例。1年間に200例をこなすとして、35年間毎日休まず手術してきたようなものです。今でも土日に急患が入ると、病院に駆け付けて手術をしていますから、「67歳、いまだ現役」ならぬ「67歳、今でも第一線の外科医」です。

日本で65歳の医師ならば、上から手術をのぞくような立場なのでしょうが、ドイツでは、上に立つ人間は常に第一線にいるものなのです。

イラスト
自身の経歴を振り返り、祖父も父親もその他多くの親戚も
医師という医学一家に育ったということを、
2008年に病院で行われた定年退職祝いにて、イラストを使って説明した

中島さんの絵画
中島さんの絵画。感情が高ぶっているときは原色を使って大胆に、
落ち着いているときは細かいモチーフを丁寧に描くという

絵を描くことで
医師業とのバランスが取れている

退職後はどうされるご予定ですか?

本来は2008年に定年退職したら、NGO団体の「国境なき医師団」でボランティア活動をしたいと考えていました。しかし、アフリカに派遣されるケースが多く、英語が必須で日常会話程度のフランス語も求められるということ、そして政情不安定な地域へ赴くことに妻が反対したことから、断念しました。ただ、ほかにも似たようなボランティアの組織があるようなので、今情報を集めているところです。

あるいは、アーレンスブルク内に「無料医療相談所」のようなものを作ろうかな、とも考えています。お年寄りの多くは、相談相手を求めているんですよね。開業医に通院しても、面談時間はせいぜい2、3分ですから。いずれにせよ、ボランティアのような形で医師を続けていきたいとは思っていますが、まもなく68歳になりますので、どの程度働けるかが問題ですね。

医師業の傍らで、個展を開くほど本格的に絵を描かれていますね。

絵画は10歳の頃から画家である叔父に習い、大学生の頃には個展やグループ展をよく開いていました。ポスターや雑誌の表紙のイラストを描いて小遣い稼ぎもしていました。ポスター1枚で1万円くらい。当時、1カ月1万5000円で生活していましたから、相当な額ですよね。絵で得た収入で好きなお酒を飲んでいました。

今も旅行の時は必ずスケッチブックを持って行きますし、仕事が終わって家に帰ると部屋にこもって描いています。僕は描きたいテーマがあって描き始めるというよりは、気分に応じてモチーフを考えながら描いていくスタイルです。

中島さんにとって、絵画はどのような存在ですか?

自分の内面を表に出すために必要な存在です。絵画は医学とは全く違います。医学はあくまで技術、知識が大前提ですが、絵画では感性、感覚が求められますから。絵を描くことで医師業とのバランスが取れているのかもしれません。

人に対して謙虚であることが大切

日本に帰りたいと思ったことはありませんでしたか?

20年程前、このままドイツで暮らそうかどうか悩んだことはありました。でも、僕にとっては家族が一番大きな存在ですし、今さら日本に帰っても……と思い、国籍をドイツに切り替えました。僕自身はどこでも暮らせるような気がしているし、故郷というのは家族がいる所だと思うのです。だから、日本の国籍を捨てるだとか、あまり大げさには考えずにね。実際、ドイツ国籍を持っていれば、身分証明書1つでヨーロッパ内を自由に移動できるなど、何かと便利ですし。

ドイツが気に入っているのですね。

ドイツは住みやすいと思います。街はきれいだし、古いものを大切にする文化があります。ごみごみとした日本の街には、もう住めませんね。ただ逆に言えば、ドイツでは家を1軒建てるにも、好き勝手にはいかず、非常に細かい規則があります。だからこそ街がきれいなのですが、何にしても規則・法律がものをいう、融通が利かない社会だとは思います。

それから、医師というのはドイツではある程度、社会的地位の高い職業なので楽ですね。馬鹿みたいだけど、ドイツ人ってそういうところを大切にするんですよ。

逆に、ドイツに住んでいて見えてくる日本の良い面、悪い面は?

日本では、言葉で言わなくても伝わるところが良いですね。花を見て「ああ」と言えば、日本人ならそれが「ああ、きれい」と言いたいのだとすぐ分かりますが、ドイツでは「ああ?何?」という反応が返ってきますから。

それから食べ物。神戸牛のしゃぶしゃぶやふぐ刺しが懐かしいです!とても繊細な、ドイツにはない味ですよね。食べ物と言えば、日本は食器も美しく、京料理なども目で楽しむものですが、ドイツにそういう感覚はないでしょう。

悪い面は、政治家の質の低さ。もう、毎日インターネットで日本の情報を読んで、腹を立てていますよ!

健康法を教えて下さい。

こればかりは医者の不養生で、自分の健康にはあまり構わないというか。でも、週末は近所の森を1時間程掛けて散歩していますし、年に2、3回旅行に出掛けています。これが一番の気分転換です。

ただ、老化は感じますね。仕事でも、昔なら手際良く進んでいた繊細な手術も、今はできなくなっている。視力が衰えたことが大きな原因です。肉体的な老化は精神的な老化と違って止められません。それをわきまえておかないと、外科医として高慢になってしまうと思います。

日本を出てドイツで生活する日本人に、メッセージをお願いします。

どんなに長くドイツにいても、鏡を見れば日本人です。人に対して常に謙虚であることが大切だと思います。

僕は定年後もいくつかの病院から声が掛かって、結局まだ働いていますが、辞める際には「なぜ残らないのか?」と言われます。これは、医師としてのレベルが認められている証拠なのだと思います。そのためには、医師としての勉強も怠りません。僕は、普通の医師よりはるかに多く勉強してきた自信があります。それが評価されてきたのだから、幸運ですね。

僕たちは日本人です。人に厳しくするなら、自分にも厳しくする謙虚さが必要だと思います。とはいえ、周りから「あいつは威張ってる、厳しい」と言われる僕も高慢ですけどね。


英国

フランス

最終更新 Dienstag, 13 August 2019 11:08
 

本田圭佑のサッカー教室

本田圭佑のサッカー教室 Notice of Honda

2010年夏、南アフリカの地で日本のサッカーを世界に見せ付けた男、本田圭佑。サッカー少年ならずとも、この孤高の夢追い人の姿に憧れを抱かずにはいられない。今の本田選手を作り上げた「夢」の存在と、そこに至るまでの気持ちを子どもたちに伝えるため、12月4日デュッセルドルフでイベントが開催された。午前中にサッカー教室、午後から夢ミーティングという2部構成で行われた「Honda Notice」。夢いっぱいの会場の様子をお届けする。
(編集部:高橋 萌)

Keisuke Honda
1986年6月13日生まれ。大阪府摂津市出身。
身長 / 体重 182cm / 74kg
経歴 摂津FC→ガンバ大阪JY →星稜高校(石川)→名古屋グランパスエイト →VVVフェンロ(オランダ)
現所属 CSKA モスクワ(ロシア)
ポジション MF / FW
利き足 左足
ウェブ www.keisuke-honda.com

\sl261\slmult0 「サッカー教室」でプロの意識を植え付ける

「今日の日を、楽しみにしていました。皆さんに負けないように、僕も全力でやるんで、1つでも多くのことを僕から盗んでいってください。楽しんでいきましょう!!」大きな声で子どもたちに呼び掛けた本田選手の講師としての第一声。子どもたちは、今年のW杯のヒーローを目の前に緊張の面持ち。だが、その赤く染まった頬からはやっぱり興奮と喜びを隠しきれない。

ゲームに見立てた練習の中で、ディフェンスやオフェンス、シュートの練習が行われる。練習の中で、本田選手が何度も声に出していた言葉がある。

「何のために、何を目的に練習しているのか考えて!」

その意識を持って練習するだけで練習の質は数倍上がるから、と。練習の狙いは1つではない。やらされるのではなく、自分で弱点の克服や長所を伸ばすために練習の中にテーマを見付けることが大切。

「声を掛け合っていこう!!」

「自分のことだけ考えないで!」との言葉もあった。チームメイトとの連携が個人技に勝るのは、11人で広いピッチを縦横無尽に駆け回るサッカーの醍醐味でもある。コミュニケーションなしにサッカーはできないと強調する。

「考えろ!もっと考えろ!!」

無意味な突破に賭ける前に、より確実な攻め方を模索する。勝利への熱い執念と確実な勝利のための冷静な判断力、その双方を持ち合わせてこそプロだと教える。

子どもたちは最初、ゲーム感覚の練習を楽しんでいたが、徐々にその表情を集中したものに変えていった。本田選手も、練習の中でボールを奪われたら本気で悔しがり、ナイスプレーには最大の賞賛を惜しまない。子どもたちの本気を引き出す、子どもたち以上に本気な本田選手との2時間の練習は、あっという間だったに違いない。

本田圭祐選手のサッカー教室

本田圭祐選手のサッカー教室

人生をもっと楽しく、充実させるための「夢ミーティング」

夢を持つことの大切さを子どもたちに直接伝えたい。この思いが、サッカー教室開催の最大の動機だという。夢について、真正面から語り合う夢ミーティングは、子どもたちからの質問に答える形式で進んでいった。素朴なものから、深い悩みまで、どんな質問にも率直に答えた本田選手の返答の一部を紹介する。


小学生のとき、プロのサッカー選手になれると思っていましたか?

思っていましたよ。小学6年生のとき、おれは間違いなくプロになるなって思っていました。自信があったんです。これは、理由のない自信。大人になったら自信を持つには理由が必要だけど、子どものときは、「無理だよ」って否定されても、「今に見てろよ!」と奮起していました。

インターナショナルスクールに通っています。この経験は将来、世界で活躍するのに役立ちますか?

日本を出てサッカーをやるとき、日本語が通じない中でどうコミュニケーションをとるか、どう相手を笑わせるか、気の合うヤツを見付けて仲間になれるかどうかが大切になってきます。コミュニケーション能力を向上させたら、きっと世界で活躍する人になれるはず!

試合のとき、どんな意識で臨んでいますか?

勝つぞ!という気持ち。そしてどういうプレーをするかをイメージします。負けたときは切り替えるのが一番。上手くいかないときほど前向きに。そして、どうやったら試合に勝てるか。そこから「逆算」して、今何をすべきかということを考えています。

今まで何回くらいゴールを決めましたか?

プロになってからは40ちょっとかな?その内、オランダで20点くらい。オランダに移籍してから半年ほど経った時期、2部に降格したんです。これは、自分にとってものすごい衝撃で、深く傷付きました。今でこそ、こんな風に言えるんだけど、子どもの頃から世界を目指すという目標がある中で、2部でプレーするっていうのはプランになかった。でも、ここでどう成長したら良いんだろう?自分を変えていかなきゃ!と、上だけを目指してやってきました。その中でシュートに対する意識も変わってきました。上手くいかないときはチャンスです。そこでどう頑張るかが問題。

本田選手の今の夢は?

「レアル・マドリッドでプレーしたい」「W杯で優勝したい」。これは、子どもの頃から変わっていませんし、夢を遠いものだとも感じていませんでした。それを目指して進むのみです。僕は、夢を叶えるために、まず行動ではなく、まず洗脳。思い込み。強く願うと自然に体がついてくると考えています。だから逆に、1年先のことを想定していないと、明日のエネルギーが湧いてこない。1年、3年、10年後の自分の目標を設定して、明日の過ごし方を決める、そうやって過ごしてきました。夢を持つと、人生はより楽しくなる。今日の楽しみより、1年後の成長の喜びを感じたいって思える。僕はこれに病み付きです。

自分の夢が叶わないんじゃないかと不安になります。

僕も、不安になることがあります。でも、あきらめない。絶対。自分の弱い気持ちが一番の敵です。

自分の夢は、よく変わります。良いのでしょうか?

悪いことじゃない。自分の欲求に素直に従ってください。そうじゃないと夢は叶えられません。夢を追うことは、そんなに甘いものじゃない。自分の好きなことに熱中して欲しい!

努力だけじゃ夢は叶わないと思います。夢を叶えるために必要なものは何だと思いますか?

僕は、才能というものを信じていません。サッカーに向いているとか、向いていないとか、そういうことも考えたことがありません。自分の才能を疑う前に、自分の気持ちが足りなかったんじゃないかと、そういう風に思います。夢に向かっている途中で、「自分には才能がないから・・・・・・」と考える必要はなく、強く願い、そのためにすべきことを考え、行動することが大切だと思います。

 

子どもたちに、再度「夢は願えば叶う」と強調した本田選手。その言葉に嘘がないから、世界で活躍する今の本田選手がいる。ドイツだけでなく、オランダやベルギー、英国から集まった子どもたちは、みんなそれぞれに夢を持っていた。明日から、その夢に向かって新しい一歩を踏み出すんじゃないだろうか。そんな明るい予感とともに、夢ミーティングは幕を閉じた。

子供たちと本田圭祐選手

子供たちと本田圭祐選手

企画:Honda Estilo(株)

協賛企業

最終更新 Dienstag, 13 August 2019 11:13
 

ドイツで過ごす年末年始のお楽しみ

ドイツ
ドイツで過ごす年末年始のお楽しみ

2010年も残すところあと3週間。
去る年に思いを馳せながら、新しい年への決意を新たにする
年末年始を今年はドイツで過ごされる皆様に、日本とは趣きの異なる
当地のジルヴェスター(年越し)とノイヤー(元旦)の楽しみ方をご紹介。
「Guten Rutsch(よい年越しを!)」
(編集部: 高橋 萌)

A カウントダウン・パーティー B 年越し旅行
C 家で過ごす年末年始 D 新年のイベント
カウントダウン・パーティー
クリスマスを家族と厳かに過ごすドイツでは、年越しは友達や恋人とのひと時。パーティーに繰り出し、歌って・踊って・陽気に飲んで遊び倒し、最後はカウントダウンの大合唱!!
Berlin

Silvesterparty am Brandenburger Tor
寒くたって、野外でカウントダウン

ベルリン首都ベルリンでは毎年、ブランデンブルク門から戦勝記念塔までの2キロメートルの範囲すべてが一大野外パーティー会場に変貌する。世界中からDJが集まって音楽をかき鳴らし、100万人もの観客が参加するこのイベントの規模はケタ違い。2011年の到来を祝う特大花火も必見だ。夜はマイナスまで気温が下がる可能性が高いので、しっかり防寒して街に繰り出そう。

2010年12月31日(金)~2011年1月1日(土)
www.silvester-berlin.de


Düsseldorf

Sensation - Celebrate Life -
ドレスコードは白!まっさらな気持ちで新年を

デュッセルドルフ世界各地の巨大アリーナで行われるオランダ発祥のダンスイベント「Sensation」がデュッセルドルフにやってくる。巨大なセットと大掛かりな演出が幻想的な空間を作り出し、ドレスコードは白一色に統一されている。また、デュッセルドルフでの年越しなら、108つの鐘の音が日本的な気分を味あわせてくれるEKO-Hausの「除夜の鐘」(21:30~)も魅力的。

2010年12月31日(金)20:00~2011年1月1日(土)06:00
77.25~181ユーロ
ESPRIT arena, Arena-Str.1, 40474 Düsseldorf
www.sensation.com/germany


Dresden

Silvester auf dem Theaterplatz
旧市街の魅力あふれる大晦日

ドレスデンドレスデンの旧市街のハイライト、エルベ川沿いにあるゼンパーオーパーとツヴィンガー宮殿が取り囲むテアーター広場がカウントダウン・パーティー会場として完全包囲される。17:00からの子ども用イベント、19:00からはゼンパーオーパーで伝統あるZDFのジルヴェスターコンサートが行われ、午前0時には花火が盛大に打ち上げられる。

2010年12月31日(金)17:00~2011年1月1日(土)04:00 
5ユーロ
Theaterplatz, 01067 Dresden
TEL: 0351-866600
www.silvester-theaterplatz.de


Silvester lauf

年越しマラソンで走り収め

Werl/Soest

2つの都市をまたいで走る
Silvesterlauf von Werl nach Soest

距離:15キロメートル
参加費:13ユーロ
www.silvesterlauf.com
  Trier

ローマの遺産に囲まれながら
Bitburger-Silvesterlauf

距離:5~8キロメートル
参加費:12ユーロ (12月20日以降17ユーロ)
http://silvesterlauf.de

Berlin

雪の積もる林の中を駆ける
35. Berliner Silvesterlauf

距離:6.3~9.9キロメートル
参加費:10ユーロ (12月16日以降15ユーロ)
www.berliner-silvesterlauf.de
 
München

仮装して楽しみながらのラン
MRRC Silvesterlauf München

距離:10キロメートル
参加費:16ユーロ(12月21日以降18ユーロ)
www.silvesterlauf-muenchen.de

Frankfurt

コメルツバンクアリーナの周りの森を行く
32. Spiridon Silvesterlauf

距離:10キロメートル
参加費:7ユーロ(12月19日以降10ユーロ)
www.spiridon-frankfurt.de
 
Hannover

マッシュ湖のほとりを走る
HDI Silvesterlauf

距離:5.8キロメートル
参加費:9ユーロ(申し込み12月26日まで)
www.silvesterlauf-hannover.de
年越し旅行
ドイツ人の旅行好きは年末年始も健在。年越しを特別な場所で過ごそうとせっせと荷造りにいそしむ。人気の年越し旅行スポット、堂々の第1位はベルリン、2位はリューゲン島、3位はミュンヘン。
Hotel

ホテルで至れり尽くせりの年越しステイ

Maritim Hotel
ベルリン、ミュンヘン、デュッセルドルフなど国内の主要都市にあるマルティムホテル各店舗が、世界最高峰のホテルの実力を存分に発揮し、スペシャルディナーやショーなど、独自の年越しイベントを用意している。1年に一度の贅沢をどうぞ。

Maritim Hotel
Berlin Stauffenbergstr.26, 10785 Berlin
TEL: 030-20650
Maritim Hotel München
Goethestr.7, 80336 München
TEL: 089-552350
www.maritim.de

VITAL HOTEL
VITAL HOTEL1年間酷使した体と心を開放して、すっきりと新年を迎えよう。ビーレフェルトの南およそ40キロ、バート・リップシュプリンゲにあるウェルネスホテルの4泊5日のスペシャルプランで快適な年越しを。

Schwimmbadstr., 33175 Bad Lippspringe
TEL: 052-52964100
www.vital-hotel.de

HOTEL HANSEATIC RÜGEN
リューゲン島バルト海に浮かぶリューゲン島には昔、上流階級の海水浴場があったことから洗練された宿泊施設も多く、セレブが好む島として有名。美しい大自然と極上のパーティーを満喫する贅沢なひと時が過ごせそう。

Nordperdstr.2, 18586 Göhren/Rügen
TEL: 038308-515
www.hotel-hanseatic.de


Ski-Reise

雪山でウィンタースポーツ三昧

Allgäu
アルゴイ地方アルゴイ地方は、オーベルストドルフやケンプテンといった素朴で美しい街を抱えるドイツ屈指のスキーリゾート。どこまでも続く白銀の世界に目を向けると、南にはアルプスの絶景を臨むことができ、スキーヤーならずとも一度は訪れてみたい場所。
www.allgaeu.de

Ostbayern
バイエルン南東部バイエルンの中でも、チェコとの国境を接する南東部には自然がいっぱい。全長約300キロメートルにわたる山岳地帯やドイツ初の国立公園に指定された広大な森林保護地区にはクロスカントリーやスノーボードに適した地形が多く、愛好者を惹き付ける。
www.ostbayern-tourismus.de

Sauerland
ザウアーラント地方ザウアーラント地方は、ヴィンターベルクなどの保養地を有するのどかな山岳地帯。ノルトライン=ヴェストファーレン州でありながら、スキーなどのウィンターレジャーを楽しめるとあって、デュッセルドルフなどの主要都市から週末を利用して訪れる人も多い。
www.sauerland.com

家で過ごす年末年始
寒い冬は家の中でぬくぬく過ごすのが一番という寝正月派や、家族と自宅でゆっくり過ごしたいという皆さんには、自宅を拠点にドイツ風の年越しを楽しむためのヒントをご紹介。
TV-Program

これを見なきゃ、年は越せない!?

Dinner for oneNHKの「紅白歌合戦」→「ゆく年くる年」が日本の年越しの王道であるように、ドイツにも毎年恒例の番組がある。12月31日に放送される「Dinner for one(1人でディナーを)」だ。40年以上も続いているというこのコメディー番組は、老夫人ソフィーの90歳の誕生日パーティーを描いた英国の寸劇。例年通り、4人の友人を招待したソフィーだが、実は皆もう先立っていて誰も来ない。しかし、忠実な執事のジェームスが4人のゲストになりきって、ソフィーと一緒に乾杯する。シェリー、白ワイン、シャンペンと、杯を重ねるうちにすっかり酔っ払って足元はふらふら、様々な粗相をしでかす……。最近では、「Dinner for Ah!」というパロディまで登場し、こちらも大晦日に放送される。そして、元旦には世界約50カ国で中継されるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の「ニューイヤーコンサート(Neujahrskonzert)」を見なければ年が明けないというクラシック音楽ファンも多いはず。チケット予約が1年前からスタートするというこの大人気コンサートを放映するのは、公共放送ZDF。

「Dinner for one」/ WDR: www.wdr.de
「Neujahrskonzert」/ ZDF: www.zdf.de


Böllern und Feuerwerke

家庭で花火を打ち上げられるチャンス

花火古くから悪霊を追い払うために打ち上げられていたという花火。ドイツでは新年を祝う道具として欠かせない。新年のカウントダウンと共に、街中で立派な花火が打ち上がる様子を見て驚いたが、法律により、普段は個人で打ち上げることを禁止されている「クラス2」のサイズの花火が年末年始にだけ解禁となるらしい。ここぞとばかりに花火や火薬を買い込んで、豪快に打ち上げるのがドイツ流。ただし、花火を取り扱う際には、けがや事故が起きないよう、安全には十分に留意しましょう。

花火のオンライン購入
www.pyroweb.de
www.pyroland.de

年末年始の花火の打ち上げに関する規則について
www.jurawiki.de/SilvesterRecht


Bleigießen

来年の運勢を占う鉛

鉛占い ブライギーセン大晦日のパーティーの出し物として、鉛を使ったドイツの伝統的な占い「ブライギーセン」に家族で挑戦してみよう。占いに必要な鉛とスプーンのセットが年末が近づくにつれ、スーパーマーケットや雑貨屋さんに出回り始める。溶かした鉛(Blei)を水に注ぐ(gießen)からブライギーセンと呼ばれる。占い方は、スプーンの上に鉛の塊を乗せ、下からロウソクの火であぶって溶かし、それを水を張った器に注いで、固まった鉛の形で新年の運勢を占う。鉛がコップのような形だったら、幸運(Glück)だとか。

鉛占いの結果: www.bleigiessen.org

新年のイベント
大晦日の夜に大騒ぎした後のドイツの街中には、まさに「兵(つはもの)どもが 夢のあと」といった惨状が広がっているが、二日酔いから醒めた後は、元旦ならではのイベントに繰り出そう。
Neujahrskonzert

クラシックの本場で聞くニューイヤーズコンサート

Berlin

ベルリンフィルで聴く
ベートーベンの第九
Sinfonie Orchester Berlin

2011年1月1日(土)
17:00
Berliner Philharmoniker
Herbert-von-Karajan-Str.1,
10785 Berlin
www.berliner-philharmoniker.de

  Köln

カリスマバイオリニスト、
アンドレ・リュウが奏でる
Neujahrskonzert André Rieu 2011

アンドレ・リュウ2011年1月1日(土)16:00
Lanxess Arena
Willy-Brandt-Platz 3,
50679 Köln
www.lanxess-arena.de

München

力強い歌声で聴かせるベートーベンの第九
Ludwig van Beethoven,
Symphonie Nr. 9 d-Moll op. 125

2011年1月2日(日)11:00
Münchner Philharmoniker
Kellerstr.4, 81667 München
www.mphil.de

  Dresden

ブラームス、シュトラウスで迎える新年
Neujahrskonzerte

2011年1月1日(土)15:00
Dresdner Philharmonie
01067 Dresden
www.dresdnerphilharmonie.de

Hamburg

日独ハーフの
エリック・シューマンのバイオリンが響く
Neujahrskonzert

エリック・シューマン2011年1月9日(日)15:00
Hamburger Symphoniker
Dammtorwall 46, 20355 Hamburg
www.hamburgersymphoniker.de

   

Neujahrskater-Brunch

遅めのブランチを召し上がれ

シャンパンドイツでは、午前0時に新年を迎えた瞬間がハイライト!花火を打ち上げ、「Frohes Neues Jahr!」と挨拶したら、2次会とばかりに夜更けまでパーティーが続く。ドイツでは、朝早起きして「元旦は一年の計」なんて考える人なんてめったにいない。二日酔いでぼーっとする頭を抱えながら、家族と顔を合わせるのはブランチの時間。ということで、ホテルやレストランでは、新春ブランチのメニューが用意されている。二日酔いの人(Kater)のためのメニューまであるところも。


Neujahrsbaden

極寒の寒中水泳で身を清める?!

寒中水泳寒い日に湖や海に入る寒中水泳を愛好している人が、ここドイツには少なからず存在する。そんな彼らがバルト海や北海沿岸の街で行うのが、新春寒中水泳大会。コートを着て立っているだけでも凍えるこの季節、雪が積もる砂浜を水着姿の老若男女が歩き、氷の浮かぶ海に体を浸けている様子は気が狂っているとしか思えない。しかし、参加者たちはコスプレをしたり、思い思いの小道具を持ってきたりと、皆さんとっても楽しそう。怖いもの知らずの勇気ある人は、自己責任で参加してみても良いかも。

最終更新 Freitag, 21 Juni 2019 16:39
 

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