特集


東京2020 オリンピック・パラリンピック - 東京大会で登場する新競技・追加種目

未来に何を残せるか? レガシーから見る 東京2020 オリンピック・パラリンピック特集

2020年、いよいよ東京でオリンピックとパラリンピックが開催される。この東京大会はスポーツ競技だけではなく、社会にポジティブな改革をもたらすきっかけとなる役割も担っているという。本号では、東京大会の基本コンセプト3本を解説するとともに、それを実現するための具体的な取り組みを紹介する。また、スケートボードやスポーツ・クライミングなどの東京大会から新たに加わる競技にも注目。オリンピックに向けて練習に励む、選手へのインタビューもお届けする。(Text: 英・独ニュースダイジェスト編集部)

開催期間

オリンピック 7月24日(金)~8月9日(日)
パラリンピック 8月25日(火)~9月6日(日)

参考: 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会HP、サイボーグ社公式HP、プライドハウス東京公式HP、経済産業省HP ほか

次世代へつなぐスポーツの方向性東京大会で登場する新競技・追加種目

オリンピック33競技339種目、パラリンピック22競技540種目の史上最多の種目数となる東京大会。正式に採用された新競技・新種目のほかに、本オリンピック大会から開催都市が追加種目を提案できるようになり、スケートボードをはじめとした追加種目5競技18種目の開催が決定した。アーバン・スポーツやパラ競技をさらに充実させ、スポーツ界の未来を変える競技の一部をここで紹介しよう。

オリンピック追加種目遊び倒した選手が優勝? トリックを決めて高得点を狙う スケートボード

4つのウィール(車輪)が付いたデッキ(板)に乗り、滑走しながらトリック(技)やスピードを見せる。1940年代に米国で木の板に鉄道の車輪を付ける遊びとして始まり、その後スケート・パークの建設や新しいトリックの誕生によって、時代ごとにプレイ・スタイルが大きく変化してきた。また、競技スタイルにも幅があり、ランプと呼ばれるハーフパイプを滑って空中技を競う「バーチカル」、平地で技を競い合う「フリースタイル」などがあるが、今回オリンピック種目に選ばれたのは「ストリート」と「パーク」の2種目。前者は階段や手すりなど、街中にある障害物を再現したコースを、後者は椀状の窪地を複雑に組み合わせたコースを滑る。

どちらの種目も、いかにコースを自分のものにして滑り、障害物の上や空中へ勢いよく飛び出す瞬間に、より難易度の高いトリックを決められるかが評価の判断基準となるが、現時点で具体的な採点ルールは未発表だ。しかし音楽やアートと結びついた「遊び」として始まった経緯から、スケーターたちは大会のことを「コンテスト」と呼び、にぎやかな声援が飛び交うリラックスしたムードの中で行うのが常。オリンピックに競技として登場した際には、どのような雰囲気になるのかにも注目したい。

強豪国として米国やブラジルなどが挙げられるが、近年の「パーク女子」は日本人選手が上位を独占し、大躍進中だ。

欧州の注目選手

スカイ・ブラウン Sky Brown

スカイ・ブラウン Sky Brown (英国)

2008年生まれ、宮崎県出身。7歳でプロ・スケートボーダーになる。空中で2回転する720°など、高度なトリックも難なくこなす。英国人の父親と日本人の母親の間に生まれ、どちらの国の代表として出場するかが注目された。

オリンピック追加種目波がなければフェスになる、独特の競技日程が話題 サーフィン

1つとして同じではない波の動きを瞬時に読み取り、サーフボードと自分の身一つでスプレー(水しぶき)を飛ばしながら技を決めるサーフィン。風や海底の地形によって簡単に形状を変化させる波と真っ向から対峙し、自然と密に関わっていくスポーツだ。競技日が厳密に設定されるオリンピックにおいて、7月26日から8月2日の間で波のコンディションの良い4日間だけ行い、競技のない日は音楽イベントなどを含む「オリンピックサーフィンフェスティバル(仮称)」を開催する、というイレギュラーな形態が採用される。

サーフィンで使うボードは、長さ9フィート(約274センチ)以上のロングボードと1970年前後に登場した長さ6フィート前後(約183センチ)のショートボードがあるが、東京大会で採用されたのはショートボード。波の上を飛んだり跳ねたり自由自在に動き回れるのが特徴で、一般的に思い描くサーフィン像がこれに当たる。2〜5人ずつで競い合うトーナメント方式で、判定はライディング(波に乗る)をいかにスムーズに行うか、ダイナミックな技が展開できるかなど、技の数より総合的な質で評価される。ただし、あらかじめ技を披露する順番が決まっているわけではなく、崩れる波の頂上である「ピーク」に最も近い選手が優先的に波に乗ることができるので、ベストな位置を正確に把握する勘も重要になってくる。

欧州の注目選手

ジェレミー・フローレス Jérémy Florès

ジェレミー・フローレス Jérémy Florès (フランス)

1988年生まれ。インド洋に浮かぶフランス領のレユニオン島出身で、3歳からサーフィンを始めたベテラン選手。2019年10月に行われたワールド・サーフ・リーグ(WSL)主催のレース、チャンピオンシップ・ツアーで優勝した。

パラリンピック新競技スピーディーな試合展開に釘付け バドミントン

1998年、オランダで第1回世界選手権が行われてからアジア・欧州を中心に競技人口を着実に増やしてきたパラバドミントン。大きく「車いす」と「立位」の2つのカテゴリーがあり、上肢、下肢、低身長など障がいの種類や程度によって車いす2クラス、立位4クラスの全6クラスに分けられる。

使用するコートや道具は一般的なバドミントンと同じだが、障がいのクラスによってコートの面積や攻守のスタイル、戦法が大きく変わる。定められたコートをフルに使い、相手を前後に揺さぶる車いすクラスでは、フェイントを駆使してコートの隙間にシャトルを打ち、敵をあざむく心理戦が繰り広げられる。また、強いスマッシュが見られる立位上肢障がいクラスは、オリンピックと変わらないスピーディーな試合展開に目が離せない。競技の歴史も長いので、どのクラスも選手層が厚いのが特徴だ。

バドミントン

パラリンピック新競技選手同士がフィジカルにぶつかり合う テコンドー

テコンドーは「足のボクシング」と称されるほど激しい蹴り技が繰り出される、韓国発祥のスポーツだ。パラテコンドーは上肢に切断や機能障がいのある選手を対象にしたキョルギ(組手)と知的障がいのある選手を対象にしたプムセ(型)の2種目があるが、東京大会ではキョルギのみの実施となる。男女別の体重階級制で、障がいの程度によって4つのクラス(東京大会は1クラスのみ実施)に分けられる。

基本ルールはオリンピックとほとんど同じだが、頭部への蹴りは禁止で、胴部への足技だけが有効な攻撃となる。通常の前蹴りは1回2点で、180度の回転が加わった後ろ蹴りは3点、後ろ蹴りから軸足を入れ替えて計360度の回転蹴りは4点。同じクラスでも選手の腕の長さは微妙に異なるため、どちらの腕で蹴り技を防御するかなど、身体の使い方にも個性や工夫が見られる。戦略に富む試合展開に注目したい。

テコンドー

先に述べたスケートボード、サーフィンのほか、開催都市提案の追加種目にスポーツ・クライミング、野球・ソフトボール、空手が決定した。野球・ソフトボールは1つの競技として復活し、男子が野球、女子がソフトボールに分かれてプレイする。流派が多く開催は困難とされてきた空手もオリンピックの舞台に登場。また、スポーツ・クライミングに加え、今大会から新種目となるジャンプ台を使ってテクニックを披露する自転車のBMXフリースタイル、ストリート発祥の3人制バスケットボールの3×3(スリー・エックス・スリー)など、ファッション性のある現代らしいアクティビティーが採用された。これらの種目を通じて、選手、観客共に若者を積極的に巻き込むような東京大会を目指している。

最終更新 Dienstag, 28 Januar 2020 11:14
 

フォトコンテスト2019 受賞者発表!

ニュースダイジェスト主催 フォトコンテスト2019 受賞者発表!

かけがえのない旅の思い出から何気ない日常のふとした発見まで、毎回多くの力作が届くニュースダイジェスト主催のフォトコンテスト。9回目を迎えた今年からは、スマートフォンで撮影した作品も審査対象となり、より多くの応募作が寄せられました。そんな中から選び抜かれた、今年の受賞作を見ていきましょう!

テーマ「2018〜2019年の思い出」

大賞マチュア部門大賞

「はじめての海は地中海!」 斎藤 裕美さん Saito Hiromi(英国)

「はじめての海は地中海!」斎藤 裕美さん

今年の夏にスペインのマヨルカ島で撮ったお気に入りの一枚です。2歳の息子にとって初の外国の海!息子の目にはどんな風に見えているのかをのぞき見したくて、サングラスに映った景色を撮りました。この受賞を励みに、わが子が世界の美しさに出会う瞬間をこれからもカメラに収めていきたいと思っています。

審査員コメント

表現方法が優れています。男の子の背景は、どこなのか分からないくらいぼかしているにもかかわらず、サングラスにはっきりビーチの景色が映り込んでいますね。大人のサングラスとゴム付きの帽子のギャップにもクスリとさせられます。映画「ボヘミアン・ラプソディ」にも、こんなサングラスの映り込みが印象的なシーンがありました。

大賞 キッズ部門大賞

「ストーンヘンジの作り方」 矢崎 悠真さん(10歳)Yazaki Yuma(英国)

「ストーンヘンジの作り方」矢崎 悠真さん(10歳)

5月にストーンヘンジに行った時、どうやって作られたのだろうと話しながら撮りました。自分で作っている感じにしたら面白いかなと思って、石が奥のストーンヘンジのギリギリの所にくるように注意しました。石の形と大きさがストーンヘンジに似ているところと、周りの風景がきれいなところが気に入っています。

審査員コメント

遠近法を使ったアイデアが面白い写真ですね。応募時のコメントにあった、「巨人が石を運んだ」という発想が少年ならではで素晴らしいです。子供の手で石を載せているので、より「レゴのように簡単に作れそう」な感じが出ていますし、古代の遺物と小さくて柔らかな手のコントラストも良いと思います。

マチュア部門入賞

「森空」 増山 もなさん Masuyama Mona(ドイツ)

「森空」増山 もなさん

入賞できて、とてもうれしいです。この写真は小雨のなか、海からの冷たい風が吹くリューゲン島で撮りました。足元ばかりを見て歩いていたのですが、ふと真上の景色はどうなのかと興味が湧いて、スマホを上に向けて撮影してみることに。枯れ枝ばかりの森が、まるでひび割れのように見えました。

審査員コメント

西欧の特徴的な気候を1コマに収めた、ドイツらしい作品です。方々に伸びている枝がまるで血管のようで、動植物を超えた「生命」を身近に感じられました。また、下からのアングルは冬の刺すような寒さと土の柔らかい香りを思い出させ、子どものころの記憶が蘇ってくるかのようです。by Brickny Europe GmbH

マチュア部門入賞

「はじめての国際電話」 佐々木 賢之介さん Sasaki Kennosuke(ドイツ)

「はじめての国際電話」佐々木 賢之介さん

まだあまり言葉を話せない娘ですが、この夏に夫婦で「暑い暑い」と会話していたせいか、「あっちい」が言えるようになりました。日本のじいじとばあばにも、この夏の暑さが電話で伝わったことでしょう。将来、 今回のニュースダイジェストを娘に見せて、思い出話をするのが楽しみです。

審査員コメント

携帯電話を小さな手で握りしめ、かわいい口元でしっかりとお話しをしている様子が、タイミング良く捉えられています。きれいな肌の色を毛布のグレーが浮き立たせており、構図もとても気持ち良く、「美しい」と感じる1枚です。ずっと大事にしたい、大切な家族の写真ですね。 by JSTV

マチュア部門入賞

「ビタミンカラー」 ネフ 瞳さん Neff Hitomi(ドイツ)

「ビタミンカラー」ネフ 瞳さん

南ドイツ国境に近い湖畔の街で、あれは寒い寒い雪の日でした。曇り空を眺めながらカフェに向かっていると、雪だるまに出会いました。モノトーンの世界に際立つオレンジ色は元気いっぱいで、雪だるまを作った子どもたちの笑顔も自然に想像できます。この日から、苦手だった冬の日が楽しいものになりました。

審査員コメント

冬の空と水際に続く雪、そして雪だるまから寒さが伝わってくる写真ですね。寒い季節には温かいものを自然と探してしまうように、雪だるまのオレンジ色の鼻にぱっと目が行きました。日常的に見ているはずのにんじんではあるのですが、不思議と安心感があり、寒さのなかに少し安らぎを感じてしまいます。 by CHOYA Umeshu Deutschland GmbH

キッズ部門入賞

「Rot! Rot! Rot!」喜多村 コマチさん(10歳)Kitamura Komachi(ドイツ)

「Rot! Rot! Rot!」 喜多村 コマチさん

プラハの街角のマーケットで、おいしそうな果物たちが赤く輝いていました。果物が大好きな私は、すぐにでも手を伸ばして口に運びたい気持ちをおさえながら、写真を撮りました。同じ赤でもいろいろな赤があり、それらの赤が混ざると、また違う色になります。少しの色の違いで、見たときの気持ちもほんの少し変わるのかなと思いました。

審査員コメント

真っ赤なチェリーやベリー、青いブドウから奥の黄色いバナナまで、とてもみずみずしいフルーツが写真からこぼれ出てくるようです。手前の値札や、背景に写りこむローキーな建物からは、この土地に暮らす人々の生活が垣間見えるようで、見ているこちらもマーケットへ買い物に出かけたくなりました。 by Takagi GmbH -Books & More-

キッズ部門入賞

「こんにちは」ウィーランド 千尋さん(10歳)Wieland Chihiro(ドイツ)

「「こんにちは」ウィーランド 千尋さん

夏休みにスペインのカナリア諸島、フエルテベントゥラ島の火山に登りました。頂上には、たくさんの野生のリスの姿が。人を怖がらずにとても近くまで寄ってきて、その様子はまるで、私たちに向かって「こんにちは」と言っているみたいでした。とてもかわいかったので、写真に収めました。

審査員コメント

パーフェクトな瞬間を捉えた、とてもかわいらしい1枚。被写体であるリスと背景の色のトーンが調和し合っていて美しいです。また、リスは右側に上半身をよじらせながらも、フォーカスの合ったカメラに体を向け続けていて、ダイナミックさと動きが感じられます。素晴らしいスナップショットです。 by EPOCH Traumwiesen GmbH

審査員総評

今年も素晴らしい作品が勢ぞろいし、大変審査の難しいコンテストでした。マチュア、キッズともにユニークな構図の創造性豊かな作品が多く見られました。また、光や色彩を効果的に取り入れた、家族のスナップ写真にとどまらない印象的な作品が集まったのも今回の特徴ではないでしょうか。

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キヤノンヨーロッパ / JSTV / CHOYA / Brickny Europe GmbH
Takagi GmbH -Books & More-D /EPOCH Traumwiesen GmbH


ドイツ マチュア部門 次点作品

「お気に入りの散歩コース」 蔭浦 明日香さん「もちつもたれつ」 武川 麻美さん Takegawa Asami

「Spectrum of memories」マユ・ティーべンさん「Zauberei(マジシャン)」 増山 薫子さん Masuyama Kuniko

「パーフェクトチーム」ウィーランド 由紀絵さん「パーフェクトチーム」 ウィーランド 由紀絵さん Wieland Yukie

「Lion smile」 石原 博史さん 「Lion smile」 石原 博史さん Ishihara Hirofumi

「明日はきっと、」
田中 真緒さん Mao Tanakai 「明日はきっと、」 田中 真緒さん Mao Tanakai

最終更新 Montag, 09 Dezember 2019 14:45
 

欧州の日系子どもサッカーチーム U12 EURO-JAPAN代表 世界大会への挑戦

U12 EURO-JAPAN代表 世界大会への挑戦 欧州に暮らす
日本の子どもたちに
サッカーで夢を与えたい

ドイツや欧州各地に、日系のサッカースクールがあることはご存知だろうか。教室の人気は年々高まり、多くの日本の子どもたちが欧州の地でサッカーをしている。この秋、欧州各都市から選ばれた子どもたちがU12のインターナショナルカップに出場する、という大きな挑戦に立ち向かった。この欧州における日本サッカー界の新たな動きについて、本プロジェクトを率いた加藤康人さんにお話を聞いた。(Text:編集部)

お話を聞いた人

加藤康人さん
日本の大学卒業後、サッカー指導者を目指して渡独。DFBサッカー指導者ライセンス取得した後、日系サッカースクールをフランクフルト、ブリュッセル、シュトゥットガルトに設立する。各々のスクールで指導に当たり、EURO JAPAN 代表チームの初代監督を務める。

インターナショナルカップにて、代表チームの子どもたちインターナショナルカップにて、代表チームの子どもたち

なぜドイツで日本人向けサッカー教室?

ドイツの国技といえば、もちろんサッカー。この国でサッカーをすることには、さまざまなメリットがあると加藤さんは話す。「ドイツではプロだけでなく、アマチュアチームもスタジアムを所有していたり、子どものころから選手育成に家族が協力的であるなど、恵まれた環境が整っています。特に夏場は日が長いので、放課後にゆっくり練習したり、親の退勤後に一緒にボールを蹴ったりできることも、日本との大きな違いですね」

日系のサッカースクール設立前は、日本人の子どもたちがそういった環境を享受するには難しい現実があったという。「私はドイツ人チームを指導しながら、FCフランクフルト・ジャパンという、成人日系チームにも所属していました。それに参加する方々から、子どもたちにもサッカーを教えてほしい、という要望があったんです。特に駐在のお子さんの場合は、言語の問題もあり、現地のチームに参加するのはなかなかハードルが高いもの。また、ドイツで生まれ育った子は週末に補習校があるなどで、物理的に現地のサッカーチームの試合に出場することが難しいという現状もあります」

そして2011年、日本の子ども向けのサッカースクールを立ち上げるべく、ほかのコーチとともにフランクフルトでKM Sportsを発足。初めは公園などで5人ほどで練習していたが、正式に募集を始めると瞬く間に100人規模に。2014年に法人化し、シュトゥットガルトとベルギーのブリュッセルにも教室を開校するまでに成長した。

日系子どもチームの欧州公式戦「EURO J Jr.CUP」

教室に通うのは、幼稚園から小学校低学年の年齢層が中心だ。中学年以降になると、現地のチームに参加するパターンも少なくない。

「まずは私たちの教室に通ってもらい、サッカーを好きになってもらう。最終的に、現地のチームに入ってもらう橋渡しをすることが私たちの目的です。

KM Sportsの教室は週1回のみ。子どものやる気をどう保つかが課題でした。そこで、モチベーションを高めるために2015年に始めたのが、『EURO J Jr.CUP』という欧州の日系子どもチームのための公式戦。今では年2回開催し、交流の場にもなっています」

この公式戦には、ドイツや英国など9カ国のチームが参加し、年々規模が拡大。さらに今年7月に行われた大会では、新たなプロジェクトも始動した。「子どもたちにより大きな夢を抱いてほしいという願いのもと、10月にオランダで開催されるインターナショナルカップへの出場を目指すことに。まずはクラウドファンディングで支援金を募り、EURO J Jr.CUPでメンバーを選出。各都市の11~12歳の選手で構成されるU-12 EURO-JAPAN代表チームが誕生しました」

子どもたちの成長が日本サッカー界の活力に

代表メンバーは欧州各地に住んでいるため、大会当日まで全員で集まれなかったという。「1番重要なことは心の距離を縮めることでした。そこで、スカイプでのミーティングを実施し、特に大会のために掲げた3つコンセプトの共有に力を入れました。1つ目の『人間性の成長』では、技術や戦術よりも人間性を育てること。2つ目の『代表意識』では、自分たちが多くの方に支援され、日本代表であると自覚すること。そして、3つ目の『青春の時を築く』では、大会に全力を注ぐことでかけがえのない青春を味わってもらうこと。この3つを選手たちに伝えて準備しました」

スカイプミーティング代表チームの選手が住むフランクフルト、デュッセルドルフ、ミュンヘンのほか、
8都市をつないでのスカイプミーティングの様子

そして、迎えた10月18~20日の本番。オランダに集まった代表メンバーにコーチ陣はできるだけ話しかけ、相互のコミュニケーションを図った。「初めはなかなか輪に入れない選手もいましたが、最終日には何年も一緒にいたかのような仲間意識が芽生えたことが印象的でした。選手たちが3つのコンセプトを理解し、しっかり実践してくれたことが、彼らの成長と大会の結果につながったと感じています」

合計6試合を戦い抜いた選手たち。最終成績は3勝2分1敗で、惜しくも準優勝という結果に終わった。「最終戦で優勝を逃したときの選手の涙は、まさに『青春』を物語っていました。私たちも子どもたちから『青春の時』をプレゼントしてもらった思いでした。

私の当面の目標は、近年増加している欧州に点在する日本のサッカー少年や指導者をさらにつなぎ、1つの組織を作り上げること。それが、欧州における日本サッカー界への貢献につながったらうれしいです。いつかここから日本代表選手が生まれ、ワールドカップ優勝が達成されることを心から願っています」

欧州を拠点とした日本サッカー界の歴史はまだ始まったばかり、と加藤さん。今回の大会はその歴史の1ページとして刻まれ、日本サッカー界の希望の光となったはずだ。未来へと歴史を紡いでいく日本の子どもたちの活躍は、これからも見逃せない。

準優勝カップを手にして喜ぶ選手たち準優勝カップを手にして喜ぶ選手たち

EURO J Jr.CUP 2020 in Frankfurt am Main
(EURO-JAPAN代表 選考大会)

開催日程:2020年7月5日(日)
※単願でのエントリーも可能です。ご興味のある方は下記までお問い合わせください。
Web: www.km-sports.com/euroj_jr
E-Mail(加藤): このメールアドレスは、スパムロボットから保護されています。アドレスを確認するにはJavaScriptを有効にしてください

最終更新 Mittwoch, 04 Dezember 2019 15:30
 

ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【後編】勘違いが招いた歴史的事件-ベルリンの壁崩壊までの14時間30分 3

ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【後編】 2つのドイツが迎えた
あの日とそれからの30年

ベルリンの壁崩壊からちょうど30年を迎える、2019年11月9日。前号に引き続き、今回もベルリンの壁をテーマに特集をお届けする。後編の幕開けは、社会主義体制が崩れ始めた東ドイツ。壁崩壊までのダイナミックな歴史の流れを感じながら、その後の30年について振り返る。再び1つになったドイツが歩んできた道のりは、決して平たんではなかった。私たちは過去を知ることで、現代ドイツの課題をさらに理解することができるかもしれない。(Text:編集部)

ベルリンの壁

"革命前夜" 社会主義体制のほころびと市民デモ

1985年にミハイル・ゴルバチョフがソビエト連邦共産党書記長に就任。政治体制の改革「ペレストロイカ」政策を推進し、西側との関係改善を図りながら経済の再建を目指した。それに伴い、ポーランドやハンガリーなどの東欧諸国でも民主化を求める声が高まっていく。しかし、東ドイツではそのような政治改革は一切行われず、国民の不満は募るばかりだった。

1989年5月、ハンガリー政府がそれまで国境にあった有刺鉄線を撤去し、「鉄のカーテン」にほころびが生じ始める。夏になると多くの東ドイツ市民たちが、もう二度と東ドイツに帰ってこない決意を固め、休暇へと出かけた。行先はハンガリー。ハンガリーとオーストリアの国境を越え、さらに西ドイツへと渡っていくのだった。

東ドイツを去る市民が増える一方で、国内にとどまって内部からの改革を目指す動きも広まっていく。最初の大規模なデモは1989年9月4日にライプツィヒで行われ、およそ1200人が「大量逃亡の代わりに旅行の自由を(Reisefreiheit statt Massenflucht)」と叫んだ。以降この「月曜デモ」は、公安当局からの圧力にも屈せず毎週行われ、2週間後の9月25日には8000人、10月2日には1万5000人、10月16日には15万人、そして10月23日には30万人がデモ行進に参加。出国の自由を訴えるとともに、「私たちはここに残る(Wir bleiben hier!)」、「われわれこそが国民だ(Wirsind das Volk!)」と呼びかけ、国内の体制改革と民主化を強く求めた。

人口流出による社会の空洞化、そして国内では市民による激しいデモ。もはや崩壊寸前に追い込まれるなか、東ドイツは1989年11月9日を迎えた。

勘違いが招いた歴史的事件 壁崩壊までの14時間30分

50年先も100年先も存在し続けるだろうといわれていた、ベルリンの壁。しかし、東ドイツからの亡命者の数は日を追うごとに増え、国内ではデモがますます激化。この現状を打破しようと東ドイツ政府が躍起になっていた矢先、壁の崩壊は突然、そして誰もが予想だにしなかった形で訪れることになった。1989年11月9日、この歴史的な平和革命の日は、ゲルハルト・ラウター内務省旅券局長の事務所から始まる。

参考:Bundeszentrale für politische Bildung「Chronik der Mauer」
Berliner Zeitung「Der Tag, an dem die Mauer fiel」
ドイツニュースダイジェスト「そのとき時代が変わった~ベルリンの壁崩壊」

ベルリンの壁 1989年11月4日の東ベルリンのアレキサンダー広場でのデモには、100万人が集まったともいわれる

1989年11月9日(木)

9:00 新しい政令案の作成を開始

ゲルハルト・ラウター内務省旅券局長をはじめとした4人の官僚と国家保安省員が、ラウターの事務所に集まる。東ドイツ市民がチェコスロバキアを経由して西ドイツへ亡命することを防ぐため、将来的に東ドイツからの出国申請に関するすべての制限を廃止することで、すぐに4人の意見が一致した。

東ドイツ市民チェコスロバキアのプラハに到着した東ドイツ市民たち(1989年10月撮影)

10:00 総会協議2日目がスタート

党中央委員会(ZK)総会の2日目の協議が始まり、デモ対策などについて話し合われる。

12:00 政令案が完成

ラウターが政令案を完成させる。10月17日からエーリッヒ・ホーネッカーに代わって国家評議会議長を務めるエゴン・クレンツが、タバコ休憩をしている政治局のメンバーと政令案に目を通す。草稿が各閣僚に渡される。

16:00 クレンツが新政令を発表

クレンツが党中央委員会で旅行規則に関する新政令を読み上げる。

17:30 クレンツが記者会見を要請

クレンツがスポークスマンのギュンター・シャボウスキーに決議案とプレスリリースを渡し、18時から国際プレスセンターで記者会見を行うよう要請。しかし、クレンツの詰めの甘い行動が壁崩壊を導くことになる。

詰めが甘かった4つの行動
  • 1. 本来は新政令に対して18時まで異議申し立てが可能だったが、クレンツはその時刻まで待たなかった。
  • 2. 新政令は翌日4時に公開予定だったが、クレンツはそれを見落としていた。
  • 3. 記者会見前にクレンツ自身がシャボウスキーに新政令について説明すべきだったが、それを行わなかった。
  • 4. クレンツは、協議の場にいなかったシャボウスキーに会見を託してしまった。

18:49 歴史的記者会見が始まる

シャボウスキーが東ベルリンの国際プレスセンターで記者会見を始める。記者会見は中継され、各国メディアも招かれていた。新政令について正しく理解していなかったシャボウスキーは、記者の質問に対し、新しい旅行規則が「今すぐに」効力を発揮すると発表。事実上、ベルリンの壁が開くことをここで宣言してしまう。

記者会見のやり取り(抜粋)
  • シャボウスキー:私たちはすべての東ドイツ市民が国境を越えての旅行を可能とする規則をつくることにしました。
  • ANSA通信記者:パスポートなしですか? パスポートなし?
  • シャボウスキー:(中略)今私からパスポートに関する質問にお答えすることはできません。(中略)
  • DAPA記者:この政令はいつ施行されるのですか?
    シャボウスキー:私が知る限りでは今すぐに。滞りなく。

歴史的記者会見左)記者会見で話すシャボウスキー 
右)東ドイツのニュース番組で報道された記者会見の様子

19:05 メディアが速報を出し始める

  • 19:05 AP通信社「DDR öffnet Grenze (東ドイツが国境を開く)」
  • 19:41 ドイツ通信社「Die DDR-Grenze ... ist offen (東ドイツの国境が……開かれた)」
  • 20:15 西ドイツの国民的ニュース番組 Tagesschau「DDR öffnet Grenze」

20:30 国境検問所に市民が詰めかける

約100人の東ベルリン市民がボルンホルマー通りのゲートにやってきた。国境警備隊長のハラルド・イェーガーは「シャボウスキーが新しい旅行規則を発表しましたが、それには許可が必要です。人民警察でそれを受け取ってください」と話す。しかし、人々は「今すぐだと彼は言ったんだ!滞りなくと!」と抗議。

20:47 総会協議2日目が終了

党中央委員会総会の2日目の協議が終わったが、この時点でほとんどの総会出席者はベルリンで何が起きているのかを知らず、そのまま帰宅した。

21:20 ボルンホルマー通りに約500人

ボルンホルマー通りに人々が押し寄せ、道路に車が並び始める。

21:50 イェーガーが「通気法」を開始する

上司の指示を受けて、イェーガーは一部の東ベルリン市民のパスポートに「不法出国につき再入国不可」のスタンプを押し、西ベルリンに送り出し始める。これを「通気法(Ventillösung)」という。

23:10 ボルンホルマー通りに約3万人

イェーガーの目測では、ボルンホルマー通りに約3万人が押し寄せていた。この時間になると、西ベルリンから戻ってくる東ベルリン市民も。ある女性はパスポートに再入国不可のスタンプが押されたにもかかわらず、子どもを家に置いてきたから東ベルリンへ帰りたいと泣き始める。イェーガーは、仕方なく全員の再入国を許可する。

23:30 ボルンホルマー通りのゲートが開く

ベルリンの壁崩壊

ゲートが限界を迎え、人々の安全を考えたイェーガーは独断で遮断機を上げることに。人々は橋を渡り、西ベルリン市民に迎え入れられた。その後、ほかの国境検問所も次々に解放され、ベルリンの壁が崩壊した。

ベルリンの壁崩壊国境検問所を越えていく東ベルリン市民

1989年11月10日(金)

1:00 ブランデンブルク門のゲートが開く

東西ベルリンの両市民がブランデンブルク門付近の壁に集まる。クーダム(西ベルリンの繁華街)にも多くの人が集まり、朝までパーティーが繰り広げられた。

ベルリンの壁崩壊壁の崩壊をともに喜ぶ東西ベルリンの市民たち

東西分断時代を知る人のエピソード 「あの日、私はここにいた」

当時を知る人たちは、どのような気持ちでこの歴史的事件を受け止めたのだろうか。ベルリンの壁崩壊30周年記念特集の前編(1107号)の中で「壁の中の暮らし・壁の外の暮らし」について語ってくれた4人の方に、再び話を聞いた。

東ベルリン壁が開いて未来が開けた ウーヴェ・ベネケさん(当時19歳)

1970年東ベルリン生まれ。大学進学前の兵役中に壁が崩壊した。1999年、東ベルリン出身の4 人の仲間とゲーム会社を立ち上げ、現在も同社の共同経営者。

東ドイツでは1年半の兵役義務があったため、兵役後に大学に進学しようと考えていました。壁が崩壊する1カ月ほど前に19歳の誕生日を迎え、兵役が始まったばかりだったので、あの日は東ベルリン市内の軍施設にいました。運動室に向かおうとしていた時だったと思いますが、誰かが壁が開いたと知らせにやってきたんです。壁崩壊を知らされたにもかかわらず、そのまま運動室に行きました。物事は変わっていくものだと思ったくらいで、あまり実感が沸かなかったんですね。その後、東ドイツ市民が西ドイツに行くと祝い金(Begrüßungsgeld)として100ドイツマルクをもらえる期間がありました。11月に父と一緒に西ベルリンに行き、空手の本を購入したことを覚えています。

壁崩壊前は数学か物理の教師になろうと思っていたのですが、ドイツが再統一したことで一気に可能性が広がったと感じました。結局大学では、その当時東ドイツでも熱かった情報学やコンピューターサイエンスを学び、90年代の終わりに東ベルリン出身の仲間たちとゲームの会社を立ち上げることに。今年で創業20周年を迎えることができました。

西ベルリン翌朝の新聞を読んでびっくり! 吉岡俊司さん(当時40歳)

1949年生まれ、和歌山県で育つ。ハンブルク、デュッセルドルフを経て、1973年に西ベルリンに移住した。2018 年まで日本食レストランのオーナー。

11月9日の晩はちょうど親友が自宅を訪ねてきていて、何も知らずに眠ってしまいました。翌朝、買い物に行ったらB.Z.(タブロイド紙)に大きく「Die Mauer ist weg!(壁がなくなった!)」と書かれているのが目に入ってきて。まさかと思って帰宅後にテレビをつけたら、街中がすごいことになっていたんです。それからこの目で確かめようと、すぐ車に乗って見に行きました。クーダムは車道まで人が出ていて、マクドナルドには人がずらーっと並んでいました。写真を撮ってあちこち回ったのですが、すごく浮き立つ気持ちでしたね。だって、西ベルリンを自由に出ていけるようになったんですから。

壁が開いてからは、東ベルリンの人が買い物に来るようになったので、西ベルリンからバナナがなくなって(笑)。それからしばらくして、経営していた日本食屋で新しいアルバイトの子を雇ったのですが、住所がどうも聞いたことない地名で……そしたら、東ベルリンの学生だったんです。すごく真面目に働いてくれていましたが、1つ印象的だったのが、まかないは必ずサラダを食べたがったこと。東ベルリンには新鮮な野菜が売られていなかったからだと思います。

ケルン東ドイツ出身の同僚と泣いて喜ぶ 永井潤子さん(当時55歳)

1934年東京都生まれ。日本短波放送(当時)に勤めた後に、1972年にケルンに移住し、ドイチェ・ヴェレの日本語放送記者として働く。2000年よりベルリン在住フリージャーナリスト。

当時、私は西ドイツの公共国際放送ドイチェ・ヴェレの日本語放送記者として、ケルンで働いていました。あの日は夕方に仕事が終わって、早々に帰宅しました。それで、夜テレビをつけたら、シャボウスキーさんの記者会見をやっていて。壁が崩壊したのは真夜中でしたが、東ドイツ出身の同僚に電話して、彼女と2人で泣いて喜んだことを覚えています。同僚は東ドイツで政治的な迫害を受けたため、大学時代から家族と離れて西ドイツに暮らしていました。そんな彼女の里帰りに何度か一緒に行ったことがあるのですが、ご家族には本当に良くしてもらっていたんですね。東西別れ別れになった家族の苦しみや悲しみを身に染みて感じていたので、壁の崩壊を自分のことのように喜びました。

それからしばらくの間、ドイチェ・ヴェレの記者として交代でベルリンへ取材に行きました。東ベルリンから本社に電話でニュースを報告しようにも、公衆電話もなくて。当時の東ベルリンでは、お偉いさんしか電話を持っていなかったんです。だから、私たちは東ベルリンから西ベルリンまで走って、本社に電話をかけました。

東京解説者として日本のテレビ番組に出演 アンドレアス・ガンドウさん(当時38歳)

1950年東ベルリン生まれ。1956年、政治的な理由で両親と7人の姉とともに西ベルリンに移った。元新聞記者で、日本特派員として約20年日本に住んだ経験も。

西ベルリンの大学で日本学と経済学を学び、卒業してから銀行の仕事をしました。その後、新聞記者として採用されてデュッセルドルフへ移住。1985年からは東京に赴任し、特派員として働いていました。当時はインターネットがない時代ですから、ドイツの出来事はあまりフォローしていなくて。でも、1989年6月に中国で天安門事件があって、東ドイツもそれに影響を受けて、状況がだんだんと変わってきていることを感じていました。

あの日、東京は11月10日。午前中だったのですが、ドイツ銀行の記者会見があって、その時に夜中だったベルリンの壁崩壊のニュースが入ってきたんですね。あまりに突然のことだったので、残念ながら当時どんなふうに感じたのかは覚えていません。その後、ドイツの状況を解説するため、日本のテレビ局の依頼でいくつかニュース番組に出演しました。しかし、ドイツの情報を全然持っていなかったため、西ベルリンに住む甥に電話をして、ベルリンの様子についていろいろと聞きました。東ドイツ製の自動車「トラバント」が西ベルリンを走るようになり、その排気ガスがものすごい臭いだったそうです。

最終更新 Dienstag, 05 November 2019 00:50
 

ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【後編】消えた東ドイツの足跡をたどって - DDRと出会える5つの場所 4

ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【後編】 2つのドイツが迎えた
あの日とそれからの30年

ベルリンの壁崩壊からちょうど30年を迎える、2019年11月9日。前号に引き続き、今回もベルリンの壁をテーマに特集をお届けする。後編の幕開けは、社会主義体制が崩れ始めた東ドイツ。壁崩壊までのダイナミックな歴史の流れを感じながら、その後の30年について振り返る。再び1つになったドイツが歩んできた道のりは、決して平たんではなかった。私たちは過去を知ることで、現代ドイツの課題をさらに理解することができるかもしれない。(Text:編集部)

消えた東ドイツの足跡をたどってDDRと出会える5つの場所

ベルリンの壁崩壊の翌年、1990年の東西ドイツ統一は、結果的には「西ドイツによる東ドイツの吸収合併」という形で行われた。それに伴い、社会主義を象徴するような建物は次々取り壊され、東ドイツ(ドイツ民主共和国 Deutsche Demokratische Republik、通称「DDR」)の面影も急速に失われていく。ここでは、もう消えてしまったDDR時代を知ることができるスポットをご紹介。ベルリンの街を歩きながら、東ドイツのもつ暗い歴史だけでなく、ごく当たり前に営まれていた市民生活の風景を覗いてみよう。

東ドイツ時代の生活文化に触れる DDR博物館

DDR博物館
DDR博物館

旧東ドイツの日常生活をテーマにした博物館。「歴史を触る」というコンセプトをもとに、一般的な東ドイツ市民の生活空間をまるまる再現したコーナーをはじめ、当時の学校の様子やバカンスの過ごし方、秘密警察の盗聴システムなどが、実物を使って展示されている。さらに旧東ドイツの国産車トラバントのドライブシュミレーションも体験でき、旧東ドイツ時代へのタイムトリップが味わえる。

DDR Museum
日曜~金曜 10:00~20:00 土曜 10:00~22:00
Karl-Liebknecht-Str.1, 10178 Berlin
www.ddr-museum.de

2007年オープンの「泊まれるDDR」 オステル

泊まれるDDR
泊まれるDDR
泊まれるDDR
泊まれるDDR

東ベルリンのフリードリヒスハインに位置する、本格的な東ドイツのデザインを再現したホステル。建物の外観もさることながら、1970年代の壁紙が貼られた室内には、レトロな家具、旧式のラジオ、カール・マルクスの肖像画などが並んでおり、レトロ好きにはたまらない。ホテルから徒歩2分のところには、東ドイツ時代の典型的な料理を味わうことができるレストラン「Volkskammer」も。

OSTEL - Das DDR Hostel
Wriezener Karree 5, 10243 Berlin
www.ostel.eu

監視社会としての東ドイツを知る シュタージ博物館

シュタージ博物館
シュタージ博物館

旧東ドイツの国家保安省として、諜報機関の役割を担っていた「シュタージ(Stasi)」。その本部であった建物が、現在は博物館として開放されている。当時の盗聴器や隠しカメラ、密告者の記録などが展示されており、シュタージがどのように東ドイツ市民を監視し、国内外で諜報活動を行っていたのかが分かる。また、当時の情報開示が行われているため、博物館に請求すれば自分の情報がシュタージに集められていたかどうかを知ることができる。

Stasimuseum
月曜~金曜 10:00~18:00 / 土曜・日曜・祝日 11:00~18:00
Ruschestraße 103, Haus 1, 10365 Berlin
www.stasimuseum.de

涙の別れを記憶する場所 涙の宮殿

涙の宮殿

フリードリヒ通り駅の北側にあるガラス張りの青い建物「Tränenpalast」は、東西ドイツ分断時は出国検問所の役割を果たした。西側から訪問してきた親せきや友人を駅に見送りに来た東ベルリン市民が、この建物で泣きながら彼らを見送ったことから、「涙の宮殿」という俗称で呼ばれている。現在は歴史記念館として、当時の検問施設などの再現や東西のニュース映像などが展示されている。

Tränenpalast
火曜~金曜 9:00~19:00 / 土曜・日曜 10:00~18:00
Reichstagufer 17, 10117 Berlin
www.hdg.de

生々しく残る壁と分断の歴史 ベルリンの壁記念センター

ベルリンの壁記念センター
ベルリンの壁記念センター
ベルリンの壁記念センター

ベルリンの壁の実物を眺めるなら、シュプレー川沿いのイースト・サイド・ギャラリーが定番だが、そこから北西6キロの所に約200メートルにわたって当時の壁や監視塔が残されている、ベルナウアー通りもおすすめ。壁の建設時、国境線に隣接するこの通りのアパートの窓から西側へ飛び降りて逃げた人も多くいた。この通りにある「ベルリンの壁記録センター」では、東西分断に苦しんだ人々の様子をとらえた写真や映像が展示されている。

Gedenkstätte Berliner Mauer
火曜~日曜 10:00~18:00
Bernauerstr.111, 13355 Berlin
www.berliner-mauer-gedenkstaette.de

レトロでキッチュな味わいDDR製品のデザイン

DDR製品の特徴といえば、シンプルなデザイン、チープでキッチュなつくり、そしてユーモアあふれるセンス。素材としては、プラスチックやブリキを使った製品が多い。社会主義体制のため、鋼鉄やコットン、ガラスなどが輸入できなかったことも、製品のデザインに大きく影響を与えている。現代の蚤の市などで当時の製品を見つけて喜ぶ私たちに、東ドイツ出身者はこう言うかもしれない。「一つひとつのデザインは確かにいい。でももし、生活の中にこれらの選択肢しか44なかったら?」

写真提供: DDR Museum

DDRのシンボル的存在 トラバント メーカー:VEB Sachsenring

VEB Sachsenring
VEB Sachsenring

「トラビ(Trabi)」の愛称で親しまれていた小型乗用車で、製造されていた1958年から1991年の間で、外見もエンジン性能もほとんど改良されることがなかった。ボディはプラスチック製、故障が多く、車を注文してから納品までに10年以上かかるなど、数々の逸話も。壁崩壊後、最新式のフォルクスワーゲンに混ざってトラビが走る姿に、東西ドイツ市民は互いに衝撃を受けたという。

飲めば当時を思い出す? クルプ・コーラ メーカー:Spreequell Mineralbrunnen GmbH

クルプ・コーラ

東ドイツでは米国のコカ・コーラが入手できなかったため、政府の要請により独自の開発が進められていた。1967年にはクルプ・コーラが開発され、ベルリンの国営飲料工場で生産。西側と味は異なっていたが、ウォッカやラムなどの蒸留酒が合わさった味わいは若者の間で人気だった。統一後は製造中止されていたが、1992年から再開した。

東ドイツの定番おやつ ハローレン・クーゲルン メーカー:Halloren Schokoladenfabrik AG

ハローレン・クーゲルン

ハレにあるドイツ最古のチョコレートメーカーで、もとは1804年にケーキ店として創業。1950年に工場が政府に収用され、1952年に「ハローレン(Halloren)」という名前の国営企業に。なかでも「ハローレン・クーゲルン(Halloren Kugeln)」は大人気のお菓子になった。再統一後に民営化され、現在も製造を続けている。

DDR デザインを代表するエッグスタンド Sonja Plastic製「Hühnchen」 メーカー:VEB Sonja Plastic

Hühnchen

1925年にエルツ山地のヴォルケンシュタインで設立された、プラスチックの加工会社WillibaldBöhm GmbH。1960~70年代には東ドイツの国営工場として稼働し、「ゾンヤ・プラスチック(Sonj a Plastic)」というブランド名で家庭用品やキッチン用品などを製造していた。なかでも有名なのが、ニワトリ型のエッグスタンド「Hühnchen」。その高い人気により、現在では復刻版も製造されているが、DDR時代オリジナルのものは淡い色合いが特徴だ。本来はゆで卵を乗せて食卓に出すためのものだが、小物入れなどとしてもおすすめ。

西の子どもも東のおもちゃで遊んでいた Sonni製のぬいぐるみ メーカー:VEB Sonni

Sonni製のぬいぐるみ

テューリンゲン州ゾンネベルクにあった国営企業「Sonni」は、東ドイツ最大の玩具工場として、ピーク時には1日に6000体以上のペースでおもちゃをつくっていた。そのため、ほとんどの東ドイツ出身者は、子どものころに一度はSonniの人形やぬいぐるみを抱いたことがあるとか。生産されるおもちゃのうち約70%は輸出用で、半分はソ連へ、もう半分は西側諸国に届けられていた。しかし西側諸国では、おもちゃに付けられるラベルが貼り替えられていたため、東ドイツ製のおもちゃだとは知られていなかった。

東ドイツ時代にもアーティスティックな製品 シュトレーラ製のヴィンテージ陶磁器 メーカー:Strehla

シュトレーラ製のヴィンテージ陶磁器

1950~70年代に西ドイツで生産されていた陶磁器は、コレクターからも絶大な人気を誇っている。実は東ドイツでも同様のヴィンテージ陶磁器が製造され、海外向けに輸出も行われていた。その代表的なメーカーが、1828年に設立された、ザクセン州の小さな町発祥のシュトレーラ(Strehla)。当時のDDR製品は保守的なデザインが多かった一方で、シュトレーラでは装飾性が高く、アーティスティックな商品も多く見られる。

DDRを紐解くキーワード

[オスタルギー] = オスト(東)+ ノスタルジー

「オスタルギー」とは、東ドイツ時代を懐かしむ情緒的・郷愁的な思いを表す造語。東西ドイツ統一後、社会主義体制下のシュタージ(秘密警察)の存在などが明るみに出たことで、国際社会では東ドイツが否定的に捉えられる傾向に。初めは統一を喜んだ東ドイツ市民だったが、自分たちの時代や社会が否定されたという失望感と、埋まらぬ東西格差から、「東ドイツ時代も、悪いことばかりではなかった」という思いが次第に強まっていく。このオスタルギーの感情は、ベルリンの壁崩壊から30年が経った今でも、政治や経済、社会状況など、さまざまな面で表れ出ている。

[人民公社] VEB(Volkseigener Betrieb)

第二次世界大戦後、民間企業はソビエト連邦(ソ連)の占領下で次々と収用された。東ドイツの独立後に、それらの企業は「国営」という形態で返還される。東ドイツ時代の製品はほぼすべて国営企業によって生産されていたため、製品には東ドイツの国営企業を表す「人民公社(Volkseigener Betrieb)」のマーク「VEB」が刻印されている。しかし東西ドイツ統一後、実際のレートとはかけ離れた東西マルクが1対1で等価交換されたことにより、旧東ドイツの製造業は軒並み競争力を失う。倒産が相次いで失業率も増加した。現在では、旧東ドイツの企業は数えるほどしか残っていない。

最終更新 Dienstag, 05 November 2019 00:51
 

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