ドイツ人と仲良く付き合う


Nr. 15 公私の境界線

公私の境界線一見、個人主義が徹底していて、一人ひとりが好きなことを主張しながら自由に暮らしているように見えるドイツ社会ですが、実際に住んでみると、個人の「暮らし方」に関しては意外と社会的プレッシャーが強い、と思うことがしばしばあります。日本では、休日をテレビの前で過ごそうと、家族と一緒に出かけようと、日常の過ごし方を他人から干渉されることはあまりありませんが、ドイツ人同士では案外他人の日常生活に注目していたり、プレッシャーを感じたりする人が多いようです。

“ドイツ人は家庭を大切にする”と言われますが、よく見てみると、ドイツ社会では個人の家庭生活が完全な「私」ではなく、多分に「公」的な要素を含んでいる、ということがわかります。日本では「私事」であると思われていることが、「公」の社会生活の一部であることが多いのです。そこで今回は、ドイツ人の家庭生活の中で、対外的に重要なシグナル効果を持つ部分をいくつか取り上げてみましょう。

所有物のメンテナンス

物づくりを生業にしていた庶民の多いドイツですが、昔は店であろうが、砥石だろうが、かな床だろうが、マイスターになったら生産資本はギルド(組合)から借りて、死んだらまたギルドに返すものでした。ギルドのメンバー同士、代々の共有財産である生産資本を預けるのはモノの価値が守れる人間に限る、と監視し合っていた時代が何百年も続いていたのです。当然、日ごろからそういった能力を対外的に誇示しておかなければ、ギルドでの登用や出世に大きな影響が出ていました。

土曜日をまるまる家や車のメンテナンスで過ごす人も珍しくありませんが、会社での休日出勤を頑なに断って自分の所有物の手入れに精を出すドイツ人を見て、これは個人的な物欲の表れだろうか、などと困惑する前に、そのような行動が社会的に重視された歴史的な背景にある、ということを知っておくことが大切でしょう。

規則的な出勤、帰宅、休暇

決まった時間に家を出て、定時に帰宅することは、生活を計画的に把握して、効率よく暮らしている証拠と見なされます。時間を目いっぱいに使って暮らそうと思ったら、計画を立てなくてはならないと考えられているからです。しなくてはならないことをしっかりと合理的に把握し、事前にしっかりと時間配分をしていることが最も生産性の高い暮らし方だ、という社会通念があるのです。アーティストやワンマン起業家などは別として、地道に会社員として暮らしている人に「臨機応変」は必ずしも「カオス」ではなく、時間を目いっぱいに活用する生産性の高い別の方法なのだ、と納得させることは至難の技でしょう。臨機応変の対応や柔軟性を求める外資系企業の要請を理解させようと思ったら、環境を整え、しっかりとした論拠を提供したうえで説明しないと、議論は平行線で終わってしまうはずです。

これは休暇のとり方についても言えます。計画通りに一定期間休暇に出かけることは、単に娯楽を追及しているだけではありません。暮らしが計画通りにうまく運営されており、支出と収入のバランスも計画通りに取れていることを対外的に誇示する行為です。不景気になると、休暇に出かけたと偽って、食料を2週間分買いこんで家の中に閉じこもる人も多いと言います。それほどまでしても計画通り休暇をとるということは、計画通り暮らせている、ということを示す社会的なバロメーターにも なっているのです。

計画的な家事

計画性と規則性が重視されるもう一つの大きな分野が、家事です。洗濯をする間隔、掃除機をかける頻度、窓を拭くタイミング、買い物に出る日程、しっかりタイムプランを決めている人が多く見られます。

これも、歴史的に考えれば当然のこと。以前テレビで、ベルリン出身の一家がテレビ局のサポートを受けながら、6週間ほど19世紀前半の「黒い森」地方の農家の暮らしを実践してみる、という番組が話題を呼んでいました。それを見てつくづく思ったことは、冷蔵庫のない時代に、牧畜と酪農、肉食をベースに海の遠い内陸地方で冬を生き延びるためには、暮らしの「計画性」はサバイバルの大前提だった、ということです。

9月の初めに収穫が終わり、11月に豚を1匹屠殺したら、5月ごろに最初のジャガイモを収穫するまでは、牛乳やチーズを除いて、食べ物も家畜のえさも半年間はストックしかありません。保存食の確保も献立も、エネルギーの使い方も、計画的に行わなければ餓死するしかない。そんな生活では、むやみに他人の都合に合わせて便宜をはかり、計画を変更していては命にかかわります。人間関係を犠牲にしてでも計画を守れる人の方が偉いかもしれない、というような心理が生まれても当然の成り行 きだったと思うのです。

そんな何百年にもわたる歴史的体験を乗り越えて、近代的なサービス精神を理解してもらおうと思ったときに、口で説明しただけではなかなか難しいのも少しも不思議ではありません。

家の中を他人に見せる

計画的なメンテナンスと掃除が行き届いている家は、当然対外的に見せるためのものです。特別に豊かでなくても、自分の生活の中身をくまなく人に見せますが、これは趣味の良さや金儲けの能力など、個人的な才気を誇示しているというよりも、自分はしっかりと計画的に生活を営む能力があるのだ、そして、それがこの程度の財につながっているのだ、という「情報開示」のような役割があるように思います。前近代の時代にギルドの世界で出世させてもらおうと思ったら、当然そのような能力の情報開示を求められたわけですから。

少なくともある程度気心の知れた相手には、家に上げた後で全室見せることが礼儀、ということになっています。社会的に信頼できる人物であるかどうかは、家の中でもデモンストレーションされるもの、というわけです。

こうして見ると、“家庭生活を大切にするドイツ人”は、必ずしもエゴイスティックに私生活のみを大切にしているわけではないと言えるでしょう。きちんとした社会生活を営もうとしているまじめな人物であるからこそ、社外での生活を大切にしている、という面もありうるのです。

人事評価などでも、こういった公私の境界線の引き方が違うことを考慮しておかないと、社員の社会性や能力を見誤る危険性があります。外資系企業の要請とドイツ人社員の常識が衝突するような場面では、一歩引いてそういった境界線の所在を確認し、その人がどこまで社会的に「公」の生活をきっちりやろうとしているのかを確認してみることも大切でしょう。

 

ひとことPrivatsphäre 個人的でプライバシーな領域
Intimsphäre 私生活。他人がまったく立ち入らない生活領域
アフターファイブの生活はドイツでも日本でもPrivatsphäreに属しますが、そのどの部分が本当にIntimであるかは、日独で大きな違いがあるのです。

 
最終更新 Mittwoch, 05 Oktober 2011 11:44
 

Nr. 14 ドイツ人社員に残業を頼む

ドイツ人社員に残業を頼むドイツ人と一緒に仕事をしている人なら、経験済みの方も多いと思います。うっかり終業間際に職場のドイツ人に何か頼みごとをしたら、あっさり断られ、帰られてしまった。あるいは、雰囲気がいきなり険悪になり、冷や汗をかいたこと。

そこで、今回のテーマはドイツ人社員への残業の頼み方です。一言間違うと、その場が凍ってしまう危険もありますが、一見融通のきかなさそうに見えるドイツ人でも実は「そうか、それなら残業もやむをえない」と納得すれば動いてくれるのです。

日本人とドイツ人が行き違いやすいのは、人格とか性格といった個人レベルとは無関係に、それぞれ「時間」と「課題処理」の関係が根本的に異なる社会に身をおいているからです。西洋と東洋では課題処理のスタイルに根本的な違いがある、ということを知っておく必要があります。

前回の合理的な家事のやり方の話でも説明しましたが、ドイツ人は、一日にやらなくてはならないことを、「時間レベル」でとらえ、順番に片付けていくことがよいことだ、と考えています。お店などでもよく見られる光景ですが、次の客の相手をする前に、前のお客のために出した品物をゆっくりと片付けている店員さんにいらいらさせられたことはありませんか。

でも、こうした方がミスが少ない、という社会全体の共通認識があるので、お客も納得して待っています。いずれはやらなくてはならないことのための時間は次の課題が迫っていても必ずとらなくてはならない(Diese Zeit muss man sich nehmen)、と言われて育てられているのです。課題を並行して処理し、優先順位の低い作業を「合間」に片付けることによって時間を有効に使おうとするのは、実はとても東洋的なことなのだそうです。

社会全体、生活全体が、あらゆることの所要時間を大体見積もった上でそれだけの時間は確保し、一定レベルの状態を常に保つという仕組みになっており、メリットがあると判断しているので、そのやり方でみんな納得して暮らしています。

結果として、あなたの同僚のドイツ人社員は、予想外に会社の帰りが遅くなる、といったことが、実はその人の「計画性のなさ」、つまり人格的な問題として扱われるような社会に身を置いている、ということになります。

もちろんドイツにも臨機応変に対応しなくてはならない、とされる職種はいくらでもありますが、その場合には、柔軟に対応できるような時間も、あらかじめ確保した上で、計画しようとするのです。日本的な常識で臨機応変な対応を期待して物事を頼んだときにドイツ人から抵抗にあうのは、「予期できない仕事でも、最初から計画の中に盛り込んであるべきだったのに」、という反発が生まれたときが多いでしょう。

残業を依頼するにあたってきちんとした説明がないと、急な用事を頼まれても、「これは、頼む方が仕事をきちんと計画していないから時間調整ができず、それを人に迷惑をかけて調整しようとしているのだろう」と誤解されてしまう恐れが出てきます。

ですから残業を頼むときには、違いを踏まえた上で、十分なコミュニケーションをとり、頼む側の計画性を強調して、変な誤解が生まれないようにすることがポイントになると思います。

あらかじめ忙しくなるとわかっている時期、つまり来客や出張が予定されていたり、レポート提出の期日が迫っていたり等々、残業なしには調整できない場面が予想される時期については、いついつの第何週には時間外労働のための時間を確保しておいてほしい、と早めに予告しておく。残業が多い職種では、あらかじめ採用のときに、時間的な柔軟性を望む、と条件をつけたほうがベターでしょう。

その日にうちに片付けなくてはならないと分かっている課題は、できるだけ早い時点で指示を出す。たとえば、会議の報告書は、その日の内に作成して提出してほしい、とか。その人が、会社外の人付き合いで信用を失ってしまわないようにする配慮も必要です。そのためには、アフターファイブに何か約束ごとがあったとしても、早いうちに断れるようにしてあげなくてはなりません。

予期しない事態が発生して物事を頼むときには、いかに急な事態であるか、相手に伝えましょう。雇用主の人員計画が甘かったわけでも、仕事の指示の仕方が下手だったわけでもなく、また契約上の仕事の内容と実際が一致せずに搾取しようとしているわけでもない、ということさえ分かれば、ドイツ人だって残業してくれます。

残業を頼んだ際に怒って断られるのは、「もっと早く分かって準備していれば、ちゃんと時間内にできたはずだ」と思われたケースが多いでしょう。そう思わせないようにすることが肝腎なのです。

もちろん、どれだけ言葉を尽くしても、すでに何か予定が入っていて、どうしても残れない、と言われてしまうこともあるかも知れません。そのような時には、残念だけれど仕方がない、とあっさりあきらめるべきです。相手が残らないことに対して、お説教のようなことをしても、無駄でしょう。相手は、ドイツ社会で信用を落とさずに暮らしていくことのほうが大事だと思うに違いありませんから。もし、その人が決められた時間にはちゃんと働いているなら、その枠内で仕事が完了できるような指示を出さなかったほうが悪い、ということになってしまうだけです。

計画性を重視する社会では、計画通りに余暇を取ることも仕事を優秀にこなしている証拠とみなされます。内閣も議会も中央銀行の役員も、しっかりと夏休みをとるのはそのためです。

逆に、雇用主の方も、日中は能率の悪い人が、夕方遅くまで残って仕事をしている場合は、それは勤勉ではなく単なる怠慢だと解釈し、注意を促すべきでしょう。そうやって残業している人を、あっさり帰宅する人よりも「やる気がある」と誉めたり、優遇してしまうと、社内の雰囲気にも悪影響が出ますのでご注意を。

いちいち予告するのは面倒だ、と思われるかもしれませんが、 Die Zeit muss man sich nehmen!そのための時間さえ確保されていれば、臨機応変の対応も確実に保証できるのです!

 

ひとことKönnten Sie nächste Woche etwas länger bleiben?
残業の必要性が予想されたら、早めに相手の都合をチェック、調整を依頼しましょう。そして、なぜ契約時間内では処理しきれない可能性があるのか、きちんと説明することが大切です。
Die Zeit muss man sich nehmen!
それだけの時間は、きちんと確保しておかないと!

 
最終更新 Mittwoch, 05 Oktober 2011 11:45
 

Nr. 13 合理的な家事のコツ

合理的な家事のコツ家をいつもきれいにしている人の多いドイツ。小さな子どもがいて、しかも主婦がパートで午前中働いているような家庭でも、リビングルームに限らず、すべ ての部屋がきれいに、まるで家具店のショールームのように片付いていたりします。

ドイツではお客さんを招いた時も、「腹を割った仲」であることを証明するために、家の中を見せてまわる習慣があったりと、家の中を常に他人に見せられるような状態にしてある家庭が少なくありません。社会習慣からのプレッシャーもあるのでしょうか。

でも、実際問題として、一体どうやってこのような整然と片付けられた状態を保っているの?と不思議に思われる方も多いと思います。

ドイツの友人を見ていると、まず一番のポイントは、このような家の状態を保つために、どのような作業が必要で、どの程度の時間がかかるか、把握している人が多いという点だと思います。お宅ではどれくらいか、ご存知ですか?

一週間あたりに洗わなくてはならない洗濯物の量、洗濯機を回す時間、そしてアイロンかけに必要な時間。毎日やらなくてはならない作業を分単位で把握している人が多いのです。さらに洗濯物だけでなく、台所の棚の整理にかかる時間、家の中の埃ふきに要する時間、寝室のタンスの中を片付け、その状態を維持するためにかかる時間。

また家中の掃除にかかる時間も、窓拭きには何分くらいかかり、それを1カ月に何回やればベストな状態が維持できるか、といった形で考えています。必要に応じてやることもありますが、あくまでも基本的な所要時間が数字として把握されているのです。

こうすると、たとえば花粉が激しく飛び交う季節になって、窓ふきの回数を増やさなくてはならないと思ったら、大体同じくらいの所要時間の他の作業をやめるか、あるいは別の形で大体それだけの作業時間を確保するか、という判断がしやすくなるのです。

そして何よりも、時間を把握することで、本当に忙しいときの家事の外注化を楽にしてくれるのです。ドイツではとくにお金持ちでなくても、必要とあらば気軽に掃除を人に頼む人が多いのですが、その背景にあるのは合理的に進めようという考え方です。

プッツヒルフェ(プッツフラウという言葉もありますが、これはかなり失礼な差別用語だといわれています。家庭内で掃除を手伝ってくれる人のことはプッツヒルフェ「掃除のお手伝いさん」、あるいはラウムフレーガリン「部屋のケアをしてくれる人」と呼ぶ人もいます)は、友達の紹介や新聞広告などを使ってみつけるのが一般的で、最近では家庭内でのミニジョブ制度が簡易化されたこともあって、ヤミではなく、きちんとした契約に基づいて雇っている人も増えてきました。小さな子どもがいて共稼ぎである場合は、税制上の控除枠もあったりして、かなり優遇されています。

日本の清掃会社と違うところは、相手は通常「掃除のプロ」ではなくて、あくまでも「お手伝いさん」であることです。ですから、何をしてほしいかは、具体的に雇い主が指示しなくてはなりません。そして、週に何時間と時間を決めて頼むことです。だらだらと仕事をすればするほど、お手伝いさんのお小遣いになる、というようなシステムではいけないので、週に何時間かけて何をしてほしい、とあらかじめ指定時間内の作業を細かく指示します。作業時間の大体の目途は1平方メートルあたり3分程度。これだけの時間があれば、床掃除(掃除機と床ふき)、バスルームその他の鏡磨き、各部屋のほこりふき、バスルームのバスタブ、シャワー、流し台のそうじが期待できます。

もちろん前提は、掃除する前の片付け、つまり外に散らかっている物を拾ってタンスにしまうといった作業は家人が事前に済ませていることです。

1週間に何回依頼するかは、予算と家の中の汚れ具合次第。小さな子どもがいる家庭では週に1、2回頼み、基本的なところをやってもらって、あとは家族でやる、というのが通常のパターンだと思います。

家事がはかどらなくて困っている方には、お手伝いさんを雇うことは予定していなくても、一度具体的に必要な作業を数字で把握してみることをお勧めします。毎日やらなくてはならない家事の所要時間に驚かれるかもしれませんが、自由時間がどれくらいあるのかを具体的に把握できれば、余暇も心置きなく満喫で きるようになるでしょう。

  ひとことPutzhilfe, Raumpflegerin
プッツヒルフェは一般家庭で手伝ってくれる人、ラウムフレーガリンはオフィスなどの清掃を一手に任されているような人のイメージです。
 
最終更新 Mittwoch, 05 Oktober 2011 11:46
 

Nr. 12 謝らないドイツ人

謝らないドイツ人経験のある方は多いと思います。明らかにミスをしたドイツ人が全然謝ってくれないので、気分を害したこと。あるいは、ドイツ人にミスを指摘して注意を促しても、一向に謝らないどころか、少しも改めようという姿勢が見えずに困惑したこと。

いったいこれはなぜなのでしょうか。謝ってくれないドイツ人を「強情」と決めつけてストレスを貯め、謝罪を求めて議論を続ける前に、次のようなことを知っていると便利です。

おおよそ、2つのパターンが考えられます。1つめは、どこかの会社や団体に客がクレームを持ち込んだときに、窓口担当者が「自分のせいではない」と言い張り、お客を「お門違いだ」と突っぱねるケース。これは、これまでにも何度か触れてきましたが、組織と個人の関係が日本とは違うことから生まれてくるギャップです。たいていの人は、「販売員」「秘書」「営業担当」「旋盤工」など、特定の職種のスペシャリストとして行動し、社会生活を送っています。会社という所属組織は変わることがあっても、スキルのほうは変わりません。

ですから、例えば製造部門の誰かの責任で発生したミスをお客に指摘されても、秘書や営業マンが連帯責任をとって謝ることはほとんどなく、そんな時はむしろ自分は何の落ち度もなく仕事をしている、と主張しなければ、まるで自分が「秘書」あるいは「営業担当」としての義務を怠っていたように受け取られるのではないか、と恐れてしまう人が多いのです。

近年は、グローバル化のおかげで、このような各人の極端な職業意識が会社全体の顧客サービスの質に悪影響を与えている、と気づいた会社も増え、お客のクレームをせめて情報として集めようと、窓口を設置するようになっています。しかし、よほど先進的な社員教育を行っている会社でない限り、個人的なミスでないのなら、「クレーム係」でない人が「会社として」謝ることは、ほとんどあり得ないでしょう。たいていの場合は、せいぜい「あなたにとっては残念なことと思いますが」にあたる 「Es tut mir leid für Sie」止まりで、ごめんなさいにあたる「Entschuldigung」は出てこないはずです。迷惑を受けた人の気持ちを汲んで、自分が犯していないミスについて謝ることは、ドイツ人の常識としてはあり得ないことなのです。

ですが、問題はそういった組織上の違いにとどまりません。2つ目のケースは、明らかにミスを犯した本人に対して、上司あるいはお客がそのミスを指摘し謝罪を期待しているのに、反省どころか、改善の意思すら見せないことにびっくりさせられる場合です。

これはミスを犯した後の「謝罪の言葉」に含まれている意味合いおよび重みが、日本とドイツでは違う、というところに原因があります。ミスの事後処理の伝統が違うために生まれてくるギャップです。

ではミス発生後の事後処理の手順を比べてみましょう。日本では、相手がよほど許しがたい罪悪を犯したのではない限り、上に立つ人は①ミスを指摘し、②相手が非を認めて謝ったら、③反省を求め、次からはそのような事態が発生しないように要請する、というやりとりをして解決したことになるでしょう。

何かに失敗したら親や先生に対してまず謝る、というものの順序は子どもの頃から教わるものです。通常、取り返しのつくレベルである限りは、「叱咤激励」を受け、それに対して深く反省して謝り、自分なりに原因を考えて「繰り返さないように努力する」と宣言すれば、再度挑戦する機会を与えられる、という展開になることも多いと思います。

ではドイツでは、どこが違うのでしょう?ドイツ人も、子どもがミスを犯せば叱ります。そして謝らせます。ですがその後で、罰を課して償わせることが多いのです。今でも小学校では、子どもが宿題を忘れたり授業中うるさかったりすると、罰として余計な宿題が出たり、廊下に立たせたり、あえて「いやなこと」をさせる伝統があります。親に変な口ごたえをするとお小遣いがカットになったり、テレビが禁止になったりする家も多く、とがめられている事柄とはまったく関係のない罰を与えられることも多いのです。ミスを犯したら、一度いやな思いをさせて、そのいやなことを繰り返さないために、ミスをしないように心に誓わせよう、というしつけ方です。

責任範囲をもう一度見直して、再度その責任を果たすチャンスを与え努力させる、というのとは異なります。これに対しては最近ようやくドイツでも、「これは単なる威圧的な調教であって、本当の意味での教育ではないのではないか」と問題視されるようになりました。こういったしつけ方には、前近代的な絶対主義の社会や教会の絶対的権力を反映した懲罰制度の名残りがあり、失敗を「罪」として罰する伝統的な「罪の文化(Schuldkultur)」が根にあると言えます。しかし、今はこの「罪の文化」を乗り越え、失敗は責任をもって繰り返さないようにする「責任文化(Verantwortungskultur)」へと発展しなくてはならない、といったことが議論されるようになってきました。

そんなことから、ドイツも少しずつ変わってきているとはいえ、日常生活では「罪の文化」を背負い込んでいる人はまだまだ多いものです。この場合、謝ることがイコール「私はだめな人間ですから罰してください、償わせてください」と言っているのと同じことになります。そうなると謝ること自体、それまで対等だった人間関係のバランスを崩してしまう危険がある行為と考えられます。このため、よほど重大な罪を犯したのでない限り、ちょっとした失敗ならば謝ることはできないという心理構造を生むわけです。「ごめんなさい」という言葉には、「次回からは気をつけます」という意味合いが含まれている、と考える日本人と、「私はいけないことをしました。何らかの形で償わせてください」という意味合いがある、と考えるドイツ人の間では、相手のミスを指摘したり、謝罪を求める場合、トラ ブルが発生する危険があって当然と言えます。

相手のミスを指摘するときには、本当に損害賠償、あるいは解雇や減給といった形で償いを要求しているのではない限り、相手が謝らないという点に固執したり、謝らせようと無駄なエネルギーを消費するよりも、二度とこのようなミスはやらないでほしい、とはっきりと伝えればよいのです。「So etwas darf nie wieder vorkommen」あるいは「Bitte sorgen Sie dafür, dass so etwas nie wieder vorkommt(二度とこういうことが起きないように気をつけてください)」と要請すればよいのです。相手が「Sie haben recht(あなたは正しい)」、「Ist OK, habe verstanden(わかりました)」といった返事をしたら、「Entschuldigung」という言葉が登場しなくても、それだけで一件落着した、と解釈すればよいでしょう。

  ひとことBitte sorgen Sie dafür, dass so etwas nie wieder vorkommt.
二度とこういうことが起きないように、あなたが気をつけてください。
 
最終更新 Mittwoch, 05 Oktober 2011 11:47
 

Nr. 11 アブナイ、アブナイ

(誤解されることなく職場の若い女性を誉めるコツ)

アブナイ、アブナイ先日、東京に転勤することが決まったばかりのドイツ企業に勤務するドイツ人に、次のようなことを聞かれました。米国支店に転勤した同僚は、就任早々何気なく秘書の女性に向かって「今日のあなたはすてきな格好をしていますね」とお世辞を言ったつもりが、「セクハラ」で訴えられてしまった。日本でも職場で女性を下手に誉めると裁判沙汰になるだろうか。本当に異国の職場での異性との付き合い方は難しい。フランスやイタリアなど、国によっては相手が女性大臣だろうと「今日のあなたは美しい」と言わない方が野暮で失礼とされるのに…。

確かに文化によって「嫌がらせ」や「差別」と感じる事柄がまったく違うことがあります。女性が顔や腕をあらわにしただけで、男性を挑発している、という解釈が成り立つ社会もあれば、上半身一糸まとわず公園で寝そべっていても誰も気にしない国。感じ方は千差万別で、何の悪意もない人が良俗に反する行為をしていると思われてしまうのですから、なかなか微妙な問題です。

ビジネス通訳をしていると、日本とドイツの間でもそんなカルチャーギャップの板ばさみになってしまうことがあります。たとえば、ドイツ企業を訪問した日本人ビジネスマンが、若くて熱心で、気持ちのいい対応をしてくれる女性社員に感動し、ビジネスパートナーに社交辞令のつもりで何気なくお世辞を言おうとしたようなとき。「いいですねえ、あの女性。若くてなかなか熱心で、おまけに美人で」と言いたいと思ったとします。でもその何気ない一言が、言葉の選び方や強調の仕方を誤るだけで、大きな誤解を生んでしまいかねません。

日本人の陥りやすい落とし穴は、組織における「若さ」の定義付けを誤まってしまうという点です。日本的な感覚では、若くて初々しい人が一生懸命に働いていることはいいことで、年長者が誉めてあげるのも自然なことと考えますが、これが実はドイツではそのままでは通用しない常識なのです。

詳しく見てみましょう。年長者が「親のような目」で若手の努力を応援することは良いことだ、という常識が成り立つのは、社内で時間をかけて人材を育てていくようなカルチャーがあるからです。そんな文化があるからこそ、「若い人」の「意欲的な姿勢」は「今後の可能性」イコール「会社の将来の可能性」として十分に外からも客観的に評価できる事実、ということができます。

ところがドイツ企業の雇用関係は、特定のスキルや資格を基盤としたものです。雇われているのは、一応表向きは年齢とは関係なく、何かのスキルを身につけ、「すでに完成されたスペシャリスト」として自分を売り込んだ人たちです。周りの人に対して「ご鞭撻のほどよろしくお願いします」といって入社したのではなく、「この仕事ならできますので任せてください」と言って入ってきた人たちです。第1に評価されるのは触れ込みと中身が一致しているかどうか、という点であり、売り物のスキルの現時点での質であって、「今後の可能性」ではありません。熱心であっても、引き受けた課題が初めから十分にこなせないなら、単に無能ということになっています。社会一般でも、若い人は次の段階のスキルを身につけたら、より良い職場を探して転職したほうが賢明な人生設計と考えられています。

そんな環境では、若くて熱心だから良いと思う、という発言は社交辞令としては通用せず、個人的な好き嫌いを述べたと思われる可能性があります。「なぜあの若い女性にそんなに関心があるのだろう」と変に勘ぐられてしまうことも考えられます。

あるいは、会談などで若い女性と中年以上の女性が同時に出席している場合も、「若さ」だけを取り立てて誉めてしまうと、誤解を招きやすいでしょう。「男性として、能力よりもセクシーに見える若い女性に注目した」と解釈される恐れがあり、女性のビジネスパートナーをどこまで本気にしているのだろうかと疑われてしまいかねないのです。日本人ならば年配の女性に空々しいお世辞を言うことにはむしろ違和感があると思いますが、レディーファーストのような習慣のある文化圏では、「女性を大事にする」ことは紳士の常識。何の下心もなく社交辞令としてその場の女性をおだてるのなら、若い女性に限らず、その場の女性全員を誉める方が上品、とされているのです。

誤解を避けたいと思うなら、社交辞令に頼らず、できるだけ素直に、そして具体的に誉めるのが一番無難でしょう。「複雑な事柄を手際よく、まるでベテランのように落ち着き払って片付けてくれた」とか「平均年齢を明らかに下回っているのに重大な責任を任されていて優秀だ」と言えば、その人の若さに感動したと言ってもまったく違和感はありません。

もうひとつ。誤用するととんだことになる単語があります。辞書では「乙女」と訳されることもある「ユングフラウ(Jungfrau)」。スイスアルプスのユングフラウヨッホも「乙女岳」などと翻訳されているので、これは若い女性、つまりヤングレディーと同じような意味合いだろう、と思って口にされる方が時々いらっしゃるのですが、ユングフラウは現在ではとても具体的に「処女」という意味で使われています。一般的に未婚女性イコールユングフラウだったその昔は、「若い女性」という意味もありましたが、現代では若い女性を指してユングフラウ、と言ってしまうと周囲が困惑しますのでご用心。ヤングレディーにあたるドイツ語は「ユンゲ・ダーメ(Junge Dame)」です。 くれぐれもお間違えのないように!

  ひとこと
仕事ぶりを評価する場合、よく使われる表現

“eine tüchtige Mitarbeiterin”
よく仕事をする同僚
“eine gute Kraft” 優秀な人材
“umsichtig” 気がきく
“eine gestandene Frau” 多くの試練をこなしてきたベテラン
“ein gestandener Mann”
 
最終更新 Mittwoch, 05 Oktober 2011 11:48
 

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