ドイツ人と仲良く付き合う


Nr. 5 他人の子を叱る

仲良く付き合うドイツの現地校に子どもを通わせている人がよく直面する悩みのひとつに、「他人の子どもの叱り方」というものがあります。日本にいて、日本人同士であっても難しいこの問題、せっかく子どもに現地の友人ができた、と喜んだのも束の間、その友人の行動に大きな問題を感じた時、親としてはどう対応すべきか迷うものです。そこで今回は、ドイツで子どもを叱る場合のコツを説明しましょう。

日本的な感覚からすると、まず戸惑うのは、「これはいけないことだからやめなさい」という叱り方が通用するような、社会全体に適用される行動基準がほとんど存在しないという事実ではないでしょうか。比較的規律正しく、ルールを重視する人が多いとはいえ、ドイツ社会の行動規範というものは、日本に比べて均一性がなく、地方によって、また家庭によっても千差万別です。従って、厳しく家で礼儀を叩き込まれている子どももいれば、全く子どもに構わない家もあり、また可愛いがるだけでほとんど叱らず、しつけなど全く考えていない家、しつけの重点が「整理、整頓、清潔」であって「人に対する礼儀正しさ」にはない家など、とにかくいろいろなパターンに出合うものです。

多種多様な基準を身につけているクラスメートと付き合いながら成長する子どもたちは、当然、家庭によって異なるルールが存在する、ということを心得てい ますから、よその家に出かけても、ひとまずは自分のやりたいことをやって、叱られるかどうか試してみるという姿勢を身につけている場合も多いと思います。信頼できるしっかりした家の子どもでも、よその家ではとんでもないことをしでかして、ケロリとしていたりということもあります。

さて、ドイツ人の基本的な考え方ですが、家の中のルールは社会常識によって決まるのではなく、家の主(Hausherr)の判断によって決まるもの、ということになっています。日本と最も勝手が違うのは、遊びに来た子どもが羽目を外してとんでもないことをし始めても「これは一般的にいけないといわれていることだから、やめよう」と、大人が子どもにあいまいな一般常識を盾に注意しても通用しない点でしょう。

そんな場面で有効なのは、その場のルールを決定する権利のある責任者としての大人の断固とした態度です。例えば、リビングルームでボールを蹴ったり、ソファやタンスによじ上って飛び降りたりするような遊びが始まったら、「ここでは許されていない行為だからやめなさい」(Aufhören, das ist hier nicht erlaubt)と注意することになります。「なんで?」と聞き返されたら、「私がやって欲しくないから(Weil ich das nicht will.)」「ここのルールを決めるのは私だから(Ich bin der Bestimmer hier)」と権限の所在をはっきりとさせます。そして、毅然として、決めたルールを徹底的に守らせるのです。

子ども同士の付き合いに支障をきたすかもしれないと思ったり、注意した子どもの親との関係が険悪になるかも、と案じて大人が子どもに遠慮することはありません。「家の中のルール」は「漠然としたドイツ流」といったような社会常識によって決まるものではないので、周りの家とルールが違っても全くかまわないからです。他人の家では、あくまでも「その家の人の常識」 が基準になる、ということが子どもも親も納得する当たり前の社会常識なのです。

ですから、ルールを説明しても、よその子どもがいうことを聞いてくれなかったら「あなたのお家で許されていることなら、あなたのお家でやってちょうだい(Mach das bitte bei dir zuhause, wenn deine Mutter es dir erlaubt)」と釘を刺すお母さんも珍しくありません。

では、自分の家や敷地外の公共の場で、子どもに注意する場合はどうすればよいでしょうか?これは地方差があるもので、一般的には、南ドイツでは赤の他人同士でも子どもには「こら、そこに紙くずを散らすな」「年寄りに席を譲れ」などと注意しますが、北ドイツでは我関せずと無視する人が多いような印象を受けま す。ですが、直接的に自分、あるいは自分の子どもの身に降りかかってくるような行為であれば、即座にその場で抗議し、やめさせるべきでしょう。

その場合も、「これは一般的によくないとされる行為」であると指摘してみても効果が薄いという点に気を付けましょう。法律や契約に違反するものでない限りは「私が迷惑だから(Es stört mich)やめて欲しい」という姿勢で交渉すること。それでは押しが弱いかもしれませんが、あいまいな社会行動規範を反映して、その分子どもが騒いではならない時間帯、芝刈り機を使用してはならない時間帯、他人に対して口にしてはいけない言葉、他人の庭に飼い猫が入り込んでも許容される範囲など、ありとあらゆることまで細かく法律で決められている社会ですから、誰かに何かをやめさせたい場合には、それが法律で規制されている行為であるか否か、事前に調べてみる価値はあるかも知れません。大人であろうが子どもであろうが、やめてくれるようお願いしてみても相手からの歩み寄りが見られない場合の最終手段として、「これは法律でも許されていない行為ですよ。(Das ist verboten)」と言うこともできるからです。

  ひとこと(Bitte) Aufhören, das ist hier nicht erlaubt.
家の中のルールを決めるのは、その家の主。遊びにきた子どもが勝手なことをしはじめたら、「ここでは許されていないことだか らやめなさい」とルールの説明を行います。それだけではだめだったら、「ここでルールを決めるのは私」Ich bin der Bestimmer hier. と権限の所在をはっきりさせます。宣言した後には、ルールの徹底も忘れずに。
 
最終更新 Mittwoch, 05 Oktober 2011 11:57
 

Nr. 4 お礼をする

仲良く付き合う異文化コミュニケーションについて書かれた本を読むと、西洋人には好意を受けたお礼として贈り物をしても喜ばれないからしないほうがよい、というアドバイスを目にすることがあります。お中元やお歳暮を始め、感謝の気持ちを物に託すことに慣れている日本人にとって違和感があるのは否めません。「口頭でのお礼だけではそれこそ失礼にあたるのではないか」「他にどんなお礼の方法があるの」など気を揉むことになれば、近所付き合いはますます億劫なものになってしまいます。そこで、今回はドイツで一般的なお礼の仕方を取り上げることにしましょう。

ドイツでは車を運転しない日本人が、買い物帰りに重い荷物を持ってスーパー前のバス停で待っていると、たまたま車で通りかかった近所の顔見知りの奥さんが「一緒に乗っていかない?」と声をかけてくれ、家まで送ってくれた─という場合。

まず注目すべきは、向こうから申し出てくれたかどうかです。近所の奥さんの方が好意として言ってくれた場合は、親切を受ける側がすまながったり、申し訳ないと思ったりする必要は一切ありません。あなたにアプローチをするか、しないかの判断と責任はその人に委ねられているからです。ドイツ的な言い方をすれば、相手は「親切をしたくてやっている」わけで、日本人的発想で「相手にそう言わせてしまった」と気遣う必要は無用です。

ですが、その親切には「私はあなたに好感をもっている」という意味が込められていることがよくあります。自分も仲良くなりたいな、と思う相手だったら、これを機会に相手が出した好意のサインに対して、「仲良くしましょうよ」というメッセージを出してみることです。

具体的には、「今度我が家にきて一緒におしゃべりしませんか」と手作りのケーキを焼いて家に招待するようなお返しをしてみてはどうでしょうか。ドイツ語でのおしゃべりはちょっときついかな?と思われる場合は、蚤の市や展覧会、花火大会、お祭り、ショッピ ングなどに一緒に行こうと誘ってみることもできます (費用は相手持ちでかまいません)。もちろん、手作りのジャムをプレゼントしたり、物を贈ることもできますが、すぐに値段のばれる物、高価な物をプレゼントしてしまうと、仲良くしたいと思っている相手を物質的にねぎらうことになり、相手の行為に「値段をつけて支払った」ことになります。相手は気持ちを跳ねつけられたと感じるかもしれません。

相手が単なる世話好きで、特に個人的な接近は望んでいないこともあるかも知れません。そんな場合は、せっかく招待してもあいまいな返事が返ってきたり、断られたりすることもあるでしょうが、あまり気にしないこと。人助けはその人の趣味、と割り切って口頭でにこやかにお礼をいうだけで充分です。

では、こちらの頼みごとを引き受けてくれた、という場合はどうでしょう。休暇旅行中の植木の水やりを頼んだり、急用で出かけるときに子どもを数時間預かってもらったら、お礼を述べた後で、「今度は私が頼まれる番ですからね」「必ず恩返ししますから」と互いに助け合える、対等の仲であることを強調しましょう。

もちろん次に同じことを頼まれたら、気持ちよく引き受けること。お返しができそうにないとあらかじめ分かっている場合は、用件が終わったその場で手渡せ るようなプレゼントを用意しておくと楽です。植木に水をやってくれた人には、旅先の小さなお土産を手渡してもいいかもしれません。相手の好みが分からなければチョコレートやワインをあげてもいいでしょう。

もうひとつ考えられるケースは、本当は一緒にやるべきことを、相手が好意で全面的に引き受けてくれた場合。隣の庭との境界線にある柵にペンキを塗ったり、共同ガレージの屋根を隣の人がDIYで修繕してくれたというようなことが想定できます。男同士のお礼はワインその他のアルコール類が定番となっています。ただし、ペンキ代、あるいは屋根の修繕に必要になった道具や材料の代金は、確認して現金で割り勘にします。具体的に、「ペンキ代はいくらでしたか?」と聞いても全く失礼になりません。あるいは、金額をやんわりと聞くには、「私の借りはどれくらいでしょう?」(Was schulde ich Ihnen?)という決まり文句を使うこともできます。人によっては冗談めかして「100万ユーロ」という答えを返してきたり、「ペンキは15ユーロ99セント、刷毛は2ユーロ26セント」といった具体的な数字を挙げる人もいたりと千差万別ですので、こういった 時は臨機応変に対応しましょう。

反対に、ドイツ人からお礼に何かをプレゼントされたらどう反応すればよいでしょうか。ドイツ人同士で は、こんな場合「Oh, das war wirklich nicht nötig(まあ、お礼をいただくほどのことではなかったのに)」「Ich habe es doch gern gemacht(私の好きでやったことですから)」と大きな声でいって、「Aber vielen Dank」と続けるのが一般的なパターン。お礼して感謝してもらって当然だ、と内心思うようなときは、「Oh, das ist nett.Danke(まあ、ご親切に、どうもありがと う)」程度ですませてもいいでしょう。

  ひとことVielen Dank! Das nächste Mal bin ich dran!
Vielen Dank! Ich revanchiere mich!

「次は私の番ですからね!必ず恩返しします」互いに助け合える仲の人が、何かを引き受けてもらったときに発する言葉。植木の水遣り、子どもの送迎など、交代でできることを頼みあう場合によく使われる。
 
最終更新 Mittwoch, 05 Oktober 2011 11:58
 

Nr. 3 お店にクレームを持ちこむ

仲良く付き合うドイツ人は、自分でも「ドイツはサービス地獄」といって嘆くことがありますが、日本的な感覚では絶対に信じられない光景に遭遇するのが、例えば百貨店などのクレームに対する顧客窓口でしょう。最近ではドイツ企業も必死に窓口担当者に「サービス精神」を叩き込もうと、社員セミナーに巨額のコストを注ぎ込んでいるようですが、長年培われてきた「ドイツ人の常識感覚」は、そう簡単には変わらないようで、小売店などでいやな思いをすることはよくあるものです。

「これ、家に持ち帰ってから気が付いたんですけど、ちょっと傷がついていたので交換してくれませんか?」「できません。私の責任ではありません」─。先日もカメラ屋で、2日前に買ったデジタルカメラを持ってきたアメリカ人が、けんもほろろに冷たくあしらわれている場面を目撃してしまいました。一体どうなってるの!長くドイツに住んでいても何度でも憤慨してしまうのですが、ドイツの店員たちの常識観のからくりを知っていると、意外な親切に出逢うこともあり得るのです。

まず、ドイツ人の店員がこのような行動をとる背景には、個人というよりも、組織上の問題があります。ドイツでは職業が徹底的に専門化されていますが、この「専門性」と表裏一体になった「専門以外は自分の仕事ではない」という考えが、ドイツ人店員の姿勢の根底に流れています。

ドイツの雇用関係は、その人が専門とする「職業」をベースにして結ばれます。そこで求人広告でも日本のように「販売経験のある人優遇」ではなく、「くつの販売員求む」「肉の販売員募集」といったように、各分野の職業教育を受けていることが応募の必須条件となっています。スーパーの店員であっても「肉売り場の販売員(Fleischverkäufer/in)」の試験に合格して「資格」を取っており、肉の部位やその名称、どのような保存・調理方法があるのか、法律上の衛生基準はどうか、などを熟知しています。これらの知識は「職業学校」で学ぶため、その水準は全国的に保証されており、どんなに小さな町のお肉屋さんでも格安スーパーの肉売り場でも、客の立場としては安心して利用できる利点があります。これは「クツ売り場の販売員(Schuhverkäufer/in)」「チーズ売り場の販売員(Kaeseverkäufer/in)」などについても同じです。

さて、その代償と言っては語弊がありますが、一方でドイツ人店員には「自分には専門以外の分野については知識も資格もない」という自覚があります。だから、ヒマにしている肉売り場の隣にチーズ売り場があって、そちらに長蛇の列ができていても、店主など責任者の指示がない限り肉売り場の店員は動こうとしません。日本人からも見ると怠慢以外の何ものにも映りませんが、かれらにしてみれば、「資格もない自分がしゃしゃり出て、畑の違う同僚販売員の仕事を横取りしてはいけない」と思ってしまうわけです。

さらにここにもう一つの社会的要素が加わります。ドイツでは、店員がミスを犯した場合、雇用主(社長や店主)が連帯責任を問われることはほとんどありません。「業務不行き届き」でクビになるとしたら、それは「販売員の資格」を売り物に雇われたのに、雇用主に対して契約で約束したはずの「質」を保証できなかった 店員本人になるという厳しい契約社会の現実があります。店員たちはそのため、「専門外のことをやってはいけない」という意識を強く持っています。

さて実際にクレームを持ち込む場合、「ドイツ人は気が強いから、こちらもきつく言わなければ、いうことをきかないだろう」と肩に力を入れる方も多いようですが、「こんなものを売りつけて!なんて会社だ」と怒鳴りつけると、店員は「私の責任ではありません」の一点張りでその場は硬直、さらには店員が反撃に出るなんてことにもなりかねません。こういう時は視点を変え、店員が「お客と雇用主の板ばさみ」の状況にあるかも知れない、ということを念頭に入れて相談すると、話が思ったよりもうまく進むことがよくあります。

「あなたの責任ではないことはわかってるけど、こんなものを家に持ち帰って、とてもがっかりしました。見てください。ほら、これじゃあダメでしょう」。同じ目線に立って交渉してみてください。ドイツの店員さんは質素な節約生活をしている人も多いので、「こんなにたくさんのお金を出したのに、本当に困って泣きそうな気持ち」を伝えると、わかってくれる人もけっこういるのです。

  ひとこと“Ich weiß, es ist nicht Ihre Schuld, aber…”.
クレーム窓口の係員の落ち度ではなく、製造元または第3者のミスであることをはっきりとさせます。「あなたの責任ではないことはよくわかっていますが・・」と前置きすると、相手は安心して問題解決に協力してくれることでしょう。また「大変なお仕事ですね」と理解を示してあげると、“Das geht auf meine Kappe!”(私個人の責任でやってあげましょう)と 都合をつけてくれるかもしれません。
 
最終更新 Mittwoch, 05 Oktober 2011 11:59
 

Nr. 2 白黒・グレー

仲良く付き合う西洋人はデジタル思考をする、といわれることがありますが、確かにドイツ人と付き合っていると、日本的な感覚では簡単にイエスかノーか決められないと思うことでも、白黒はっきりした決断を迫られることがよくあります。「お茶かコーヒーか」といったレベルなら悩みませんが、一番戸惑うのは「はっきり言ってしまったら誰かが傷つくのでは」と心配されるような場合。ずいぶん昔の話ですが、ドイツ人の夫と婚約して間もない頃の失敗談をお話しましょう。

自己紹介を兼ねて初めて夫の実家に行ったときのこと。その時は折り悪く、夫が敬愛する高齢の祖母が数日前に倒れ、集中治療室で一命を取りとめた後、入院している最中でした。義母や義妹など家族全員で食卓を囲んだとき、私は聞かれたのです。「私たち、夕方にみんなで病院にお見舞いに行くけど、あなたも一緒に行きたい?」

この「行きたい?」という質問。まだ面識もない、しかも危篤状態の人のお見舞いに自分の好き嫌いで行くか行かないか決めろ、と言われても、「とっさには全く分からない」と思ったのでした。果たして、これから家族の一員になる者として同伴することが望まれているのだろうか?ためらう私に集中するみんなの視線。そんなとき、夫がしびれを切らして私をせかしたのです。「行きたいかどうか、さっさと言えば?行きたくないなら行かなくていいよ」。

あれよあれよという間に、家族の話はまとまってしまいました。「そうか、君は行きたくないんだな」。次々にかかってくる親戚からの電話にも、「今日はみんなでお見舞いに行くけど、彼女は行きたくない、といっている」─。行きたくないとは言っていない、と頼みの夫に訴えても、「だったら行きたいといえばいいじゃないか」と、こちらの気持ちなど全く汲んでくれないどころか怒り出す始末。結局、初めての大喧嘩に発展してしまったのを覚えています。

私としては、危篤の祖母を気遣う家族の見舞いに私のような他人がついて行って迷惑にならないかどうか、私が行くか行かないかは、だれかもっと事情のわかった人に責任を持って判断して欲しい、と思ったのです。でも今考えてみると、この「責任の所在」こそが日独間のギャップを生んだ最大の原因になっていたのです。日本では、新参者は勝手に行動せずに、より「事情に詳しい人」に判断を「お任せする」方がよいことがよくありますが、ドイツでは行動の責任は、小さな子どもでもない限り、各人がとるもの、ということになっているからです。

もうひとつのポイントは、2つの相反する感情が交錯している場合でも、ドイツで重視されるのは最終的に口にした結論だけ、という点です。日本ではそのふたつの感情の比重も判断の拠り所として伝えることが大事ですが、ドイツ人同士の付き合いでは、いわゆるこのグレーな部分は認識されないことが多いように思います。祖母の見舞いの話でも、最終的に気持ちの半分以上が「行きたい」のか「行きたくない」のかが問われており、「他人が押しかけるのは迷惑だから(行きたくない)」といった理由付けは求められていません。そして特に理由が求められない場合、答えはどちらでも、相手はそこに善意または悪意を見い出すことはありません。さんざん気を遣った私ですが、「行きたい」と答えたとしても、「行きたくない」と言ったとしても、「ああそう」とニュートラルに受け止められたことでしょう。

日本人同士のコミュニケーションでグレーの部分に関する情報が重要なのは、行動がお互いに調整しあった上で決定されるものだから。各自の判断で行動を決め、その結果、不都合が生じたら互いにそのことを口に出して伝えあうドイツでは、このグレーな部分は各人が胸のうちで処理すべきもので、他人にぶつけるものではないのです。祖母の見舞い関していえば、会いたいと思ったら会いに出かけ、それが不都合かどうかは、祖母の判断に任せてしまえばよかったのです。もちろんせっかく会いにいっても、「悪いけど、疲れるからもう次からは来ないで」といわれるかも知れない。でもそういわれても、「しまった!」と思う必要はなく、「あらそうだったのね」と納得して帰ればよかったん だ、と。

他人と意見を調整する段階が日本と違うドイツ。日本のようにグレー部分での調整がないと分かったら、話していても、相手が気を遣って自分の意に反することを言っているのかも知れない、と心配する必要もないはずです。もちろん、はっきり口にしなくても相手は自分の事情を察してくれる、という期待は抱かないほうが賢明です。

ひとことIch kann das nicht beurteilen.
(わたしには判断できません)
Die Entscheidung überlasse ich Ihnen.
(判断はお任せいたします)
Ich schließe mich der Mehrheit an.
(皆さんに合わせます)
ドイツ流の白黒選択が理屈ではわかっても、やはり困るときはあるでしょう。実際、ドイツ人でも即答しかねる状況はあるものです。そんなときに使われる常套句が上記の3つ。もちろん濫用すると、「意見がなく、存在感も責任感もない人」になってしまうので要注意ですが、とっさに答えられない、とあせった時は、ぜひご利用ください。
最終更新 Donnerstag, 27 August 2015 17:24
 

Nr. 1 けんかを売られた?

仲良く付き合う困っているドイツ人に親切のつもりで融通を利かせてあげたのに、逆に文句をいわれてしまったとき、あなたならどうしますか?感情でも、意見でも、フィルターなしのストレートな表現を「正直」「誠意」とする風潮があるドイツですが、ものすごい剣幕で文句をいわれたら、日本人ならやっぱり傷つきますよね。特に感情面から責め込まれると、理不尽な駄々だろうがなんだろうが、とにかく動揺してしまうもの。ドイツ人同士はお互い、どうやって折り合いをつけているので しょう?あるとき、バスに乗っていて目撃したドイツ人同士のやりとりをご紹介しましょう。

バスが停留所から発進した直後に、交差点の向こうから手を振りながらひとりの中年女性が走ってきた。バスは女性を無視していったん発進したものの、10メートルほど先の信号で停車。運転手は、遅れてきた女性のためにわざわざ扉を開けてあげた。するとその女性は開口一番、いかにも不服そうに言い放った。「私が向こうで手を振っているのが見えたのに、どうして待っててくれないの!」。

面白かったのはその先のやりとりで、運転手がすかさず一言、「あなたはもっと早く家を出るべきでしたね」。女性の剣幕から察して、こんな言い方をしたら、これはもう完全に売り言葉に買い言葉になると思いきや・・、女性は「Sie haben ja so recht!(あなたは本当に正しい)」と満面笑みで、大きくため息をつきながら席に着いた。かくして一見落着。ふたりとも落ち着いて、車内には和やかな雰囲気が戻っていた。

この例をみてもわかるように、ドイツで文句をいわれて納得できなかったら、責められた方は相手の気持ちを汲んだりする前に、まずは理屈で責任関係をはっきりさせると意外にうまくいくものです。人の気持ちを汲んであげることはよいことだけれど、特に親しい間柄でもなければ、優先させるべきは「社会や公共のルール」。一見杓子定規で融通性のないドイツ人気質を証明しているように思えますが、日本とは違って、すべての隣国と陸続きで、しかも地方分権でこれといった「文化の中心」となる都市もなく、いろいろな価値観や文化背景、行動規範をもった人々が大昔から東西南北行き交ってきたドイツならではの生活の知恵、と言えるかもしれません。

相手が感情的にアピールしてきたら、あっさりと自分の責任と相手の責任を仕切ってしまうことが解決の秘訣です。「気持ちの上で甘えられない」関係であることが判明すれば、たいていの相手なら、正論を述べればそこで退いてくれるでしょう。こんなときに、相手の「気持ちレベル」の議論に乗ってしまったら、もはや筋は通せません。そのドイツ人と一緒に、人柄や倫理、時代や文化の背景についてまで、とことん得体の知れない論争の泥沼にはまってしまう危険もあります。

こうした対応は、会社の部下や取引先に「泣き」を入れられたときも、ご近所にクレームをつけられたときにも応用できます。まず、相手が「気持ち」や「倫理」で責めてきたら、ひとまず「正論」で返して、土俵をはっきりさせてみてください。相手の心情に配慮する意思があることを示す前に、冷静に(だからといって冷たくするわけではなく)落ち着いた声で、まず、あなたの職務、法律、常識的な行動基準はどうなっているのか、はっきり示してみましょう。はっきりと一線をひいてから、どこまで譲れるか、話し合えばいいのです。

逆に、自分が文句をいう立場で、相手に「なんて不親切なの!」という不満がある場合、相手が冷たく「正論」を返してきても逆上しないこと。話はそこから始まります。このような場合は、「もちろんあなたは正しい。でもあなたには、そのルールを拡大解釈する権限があるのでは?」というような切り口で、落ち着いて働きかけてみるのもひとつのコツのです。もちろん相手は頑なに意見を譲ってくれないかもしれないし、もし相手のいっていることに矛盾があれば、激しい議論を覚悟で矛盾を指摘し、徹底的に戦うことも時には必要かもしれません。でも問題が心情問題に限られている場合は、おどろおどろしい争いの深みにはまる前に、上記の女性のように、「Sie haben recht!」とあっさり諦め、にこにこ、さばさばするのが一番健康的な対応でしょう。

ひとことSie haben ja so recht!
ジー・ハーベン・ヤー・ゾー・レヒト
言い放ってから、派手なため息か深呼吸をします。この表現は、冷たく「仕切られた後」をフォローするときによく使われ、「そりゃあなたの言い分はごもっともだけど、本当に災難で、そのあたりまえのことができなかった。もういやになっちゃう」といった含みがあります。相手に情がありそうなときには、この先にaber(でもねえ・・)と続けて、さらに自分の言い分をアピールし、相手の説得を試みる会話に発展させることもできます。
最終更新 Donnerstag, 27 August 2015 16:22
 

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