英語圏では、日本人と合わせて「オリエンタル」と一括りにされることも多い、中国、韓国などを含む東アジア出身の人々。英国に暮らしていると、外見が似ているからか、こうした人々に今まで以上に親近感を抱いてしまったりする一方、現地社会に上手く溶け込み、たくましさを発揮する姿が眩しく見えることもある。実際、英各界の第一線には、東アジア出身の人材がたくさん存在する。そんな彼らの勇姿に学ぶべく、英国のオリエンタルな有名人を紹介する。
(本誌編集部: 長野雅俊)

円滑なコミュニケーションのために
自道に勉強して語学を習得する
パク・チソン
Park Ji-Sung
サッカー選手 29歳
イングランドのプレミア・リーグ の強豪、マンチェスター・ユナイテッド(マンU)に所属するサッカー選手。日本の京都パープルサンガ、オランダ・リーグのPSVアイントホーフェンで数年ずつプレーした後、2005年にマンUに移籍した。
各国代表チームではスター選手なのに、欧州リーグでの活躍はいまいち、というアジア選手が多い中で、同選手は例外的にイングランドでも存在感を存分に発揮。「酸素タンク」との別名を付けられるほどの豊富な運動量とスタミナで、常勝を宿命付けられたマンUの貴重な戦力となっている。
そんな同選手を支えているのが、「他の選手とコミュニケーションを図るために、語学を学ぶことは絶対に必要」という信念。Jリーグ時代は大阪経済法科大学で学び、英国では週に2、3回の頻度で英語のマン・ツー・マン指導を受けて日本語、英語を習得。現在ではどちらの言語でインタビューを求められても、通訳なしで堂々と応じることができる。
疲れ知らずの献身的な働きだけでなく、習得した現地語を通じて、チームメイトとの円滑なコミュニケーションを図る。彼ならきっと、どの国に行っても、周囲の信頼を勝ち取ることができるだろう。

アジアの伝統と
西洋の合理的な経営手法を融合させる

アラン・ヤウ
Alan Yau
レストラン経営者 48歳
日本風料理チェーン「ワガママ」、ミシュランを獲得した高級中華レストラン「ハッカサン」と「ヤウアチャ」、客単価200ポンドといわれる超高級日本食レストラン「酒の花」などで、英国の食品業界に革命を起こしたレストラン経営者が、アラン・ヤウだ。
香港生まれ。12歳のときにイングランド東部ノーフォークに家族揃って移住するも、まだ外国人の存在が珍しかった1970年代当時の、しかも地方における移民生活は、「非常に厳しいものだった」という。
同地で中華レストランを経営していた両親に育てられた彼は、大学を卒業すると、香港のマクドナルドやロンドンのケンタッキー・フライド・チキンでのアルバイトに精を出すようになる。これらの経験を通じて、アジア料理のメニューと西洋的なファーストフード店の経営手法を融合させた「ワガママ」の構想を思いついた。同店が成功を収めた後、やはり西洋的なマーケティング手法を駆使しながら、タイ、中華、和食をテーマとした新店舗を次々と開店している。
アジアの伝統を西洋的にアレンジして成功したという意味で、自らを「ブルース・リーみたい」と述べる彼の成功の秘密は、その見事なまでの折衷主義にあるのかもしれない。

繊細で丁寧なもの作りで
英国王室のお墨付きをもらう

Picture by: Chris Radburn/PA Wire/Press Association Images
ジミー・チュー
Jimmy Choo
靴職人 49歳
世界中のセレブたちに愛用される高級靴ブランド、ジミー・チューをつくり上げた靴職人の成功物語は、ロンドン東部の病院跡に設えられた作業場から始まった。
マレーシアの中国系一家に生まれる。靴店を経営していた父親に、幼少時から靴作りを手取り足取り教えてもらい、11歳のときには既に1人で靴一足を仕上げたという。靴作りを極めようと、後にロンドン・カレッジ・オブ・ファッションとなる英国のアート学校に留学。レストランや靴工場で清掃の仕事をして学費を稼ぎながら、優等の成績で卒業した。
その後、ロンドンで本格的な靴作りを始める。その品質の高さが徐々に評判を呼ぶようになり、1988年に「ヴォーグ」誌が大々的に取り上げると、人気は急上昇。1996年、同誌の編集者と共に自身の名を付けた高級靴ブランド「Jimmy Choo」を立ち上げ、その名は世界中に知れ渡るようになった。
ハリウッド女優から各国の王室メンバーといった面々が顧客リストに名を連ねる中で、同ブランドの最も熱烈なファンが、故ダイアナ元妃だったという。繊細な手仕事を通して世界的なブランドを確立する彼の姿は、同じく手先が器用だとされる日本人にとって、模範例となるに違いない。

外国人コンプレックスを
バネにして矜持を持つ

Picture by: Chris Radburn/PA Wire/Press Association Images
マイリーン・クラス
Myleene Klass
タレント 32歳
英国人とオーストリア人のハーフである父親と、フィリピン人と中国人のハーフの母親との間に生まれたという多国籍な英国人タレント、マイリーン・クラス。ノーフォークで過ごした学生時代には、肌の色の違いや、いかにも外国人的な名前を理由に同級生にからかわれてばかりいたという。「外国人」とのレッテルは、顔に唾を吐かれるなどのいじめにまで発展したため、一時は褐色の肌の色を隠すために、パウダーを顔に塗りつけて学校に通っていたと後に語っている。
4歳からピアノとバイオリンを始め、後にハープや声楽も学んだ。王立音楽学校を卒業後に出場したテレビの人気オーディション番組「Popstars」を勝ち抜き、ポップ・グループ「Hear' Say」を結成。これで英国人セレブの仲間入りを果たした。同グループ解散後はリアリティー番組への出演などで注目を浴び、現在はモデルとしても活躍している。
芸能界入りしてからは、「金持ちの家を掃除するだけがフィリピン人女性の仕事ではないことを、英国人に分からせたい」という、優しそうな外見には似合わない、強烈な自尊心を持ち続けてきたという彼女。外国人コンプレックスを成功へのエネルギーに変えることで、立身出世を叶えてみせた。

日英文化の間を文学的に
自由に行き来してみせる

Photo: Mariusz Kubik
カズオ・イシグロ
Kazuo Ishiguro
作家 56歳
代表作「日の名残り」で、英国で最も権威ある文学賞であるブッカー賞を受賞したのが約20年前。「カズオ・イシグロ」の名は、今では英文学の教科書で名が紹介されるほどになっている。
1954年、長崎生まれ。海洋学者の父親が北海油田の調査に参加するため、5歳のときに英国へ移住。ロンドン郊外で幼少期を過ごし、ケント大学の英文学科、イースト・アングリア大学大学院の創作学科を卒業した。若かりし日は、レコード会社にデモテープを送るなどして、ミュージシャンになることを志していたという。
祖国である日本への憧憬を基にして書いたという処女作「遠い山なみの光」と第2作「浮世の画家」では戦後直後の日本を舞台に設定し、没落する英国貴族の執事を主人公とした「日の名残り」では、「英国人作家の作品よりも英国的」と形容される機微な描写が高い評価を得る。この初期3作において、日英の文化の間を文学的に行き来してみせたことで、彼の作家としての地位は確立された。
既に英国への帰化を済ませており、人生の大半を英国人として過ごしてきた彼だが、最近になって日本語を少しずつ学び始めたという。彼のアイデンティティーは、今も日英の間での行き来を続けている。

西洋音楽の伝統を打ち破る
斬新なアイデアを実現する

Photo: Kowarisuki
ヴァネッサ・メイ
Vanessa Mae
音楽家 31歳
タイ人の父、中国人の母を持つ、シンガポール出身のバイオリニスト。日本では、2006年に開催されたトリノ冬季五輪でフィギュア・スケート金メダルを獲得した荒川静香が彼女のアルバム収録曲を採用したことから、その名が知られるようになった。
幼くして両親が離婚。母が英国人男性と再婚したため、4歳で英国に移住した。いわゆる「ステージ・ママ」の母から多大な支援を受け、10歳で音楽家デビュー。13歳のときには、チャイコフスキーとベートーベンのバイオリン協奏曲の演奏録音を行い、その最年少記録を塗り替える神童ぶりを発揮した。
彼女が人気を集めた要因は、西洋のクラシック音楽の枠に囚われない、斬新なアイデアだった。露出度の高い衣装を着用し、電子音楽など異なるジャンルの音楽とのコラボレーションを企画するといった、当時はまだ珍しかった、クラシック音楽のエンターテイメント化を実現。水着姿での演奏といった試みは、音楽家たちから非難を浴びた一方、普段はクラシック音楽に馴染みのない人までをも惹き付けた。
外国人として、クラシック音楽の本流に入るのが難しかった彼女だからこそ、伝統の殻を打ち破ることができたと見るのは、穿ち過ぎだろうか。

悩みと苦しみを
ユーモアと優しさに変えてみせる

ゴク・ワン
Gok Wan
ファッション・コンサルタント
35歳
自分の容姿に悩みを持つ女性を励ます番組「How to Look Naked」でお馴染みのファッション・コンサルタント。
香港人の父親と英国人の母親の下に生まれ、イングランド北部レスターの公営住宅で育つ。細身な体でいつも元気にまくしたてる現在の姿からは想像もつかないが、極度の肥満に陥った幼少期は、周囲と溶け込めず、みじめな時間を過ごしたという。俳優になることを目指して演劇学校へ通うが、裕福な学生たちとの価値観の違いに愕然とし、中退。また中国人コミュニティーの中ではとりわけ拒否反応の強い同性愛者であるとの自覚も、塞ぎ込む理由となった。
こうした苦労を通して学んだのが、ユーモアの精神。また肥満に悩んでいたとき、服を変えるだけで外見が著しく変わることに気付いたことが、ファッションに興味を持つきっかけとなった。さらに、幼い頃から父親が経営していたレストランの手伝いなどを通して学んだ接客術も、随分と役に立ったという。
テレビ番組や雑誌のコラムを通して、体にコンプレックスを抱える女性たちに自信という名の万能薬を与えることを生業とする彼。かつて経験した自身の苦労があるからこそ、その優しさにも説得力があるのだろう。

生まれ持ったオリエンタルな容姿を
武器に魅惑する

Picture by: Samir Hussein/EMPICS Entertainment
ジェーン・マーチ
Jane March
女優 37歳
中国人青年とフランス人女性の愛を描いたロマンス映画「愛人/ラマン」での熱演で一世を風靡したジェーン・マーチの半生は、現代のシンデレラ・ストーリーとでも呼ぶべきものである。
1973年に、ロンドン北部に生まれる。父はスペイン系英国人、母はベトナム人と中国人のハーフ。14歳のときに恋人に振られたことをきっかけに、「復讐」の意味を込めて、モデルを目指すようになったという。そのオリエンタルな容姿を武器に、すぐさまモデル・コンテストで優勝。やがて各ファッション誌に頻繁に登場するようになり、ある雑誌の表紙を飾った彼女の写真が、アカデミー賞受賞監督のジャン・ジャック・アノー監督の目に止まる。演技の経験が全くないにも関わらず、主役に大抜擢され、「愛人/ラマン」でいきなり映画デビューを飾った。そして第2作「薔薇の素顔」でハリウッドへと進出し、同作のプロデューサーと結婚と、その後の彼女の人生はトントン拍子で進んでいく。
ただ初期2作におけるあまりに赤裸々なシーンのために、一時は卑猥なイメージがまとわり付いたのも確か。2001年には離婚。オリエンタルな容貌を持つシンデレラは今、第2の人生を歩もうとしている。



在留届は提出しましたか?


今回の総選挙の争点は、何といっても公共財政である。3月末発表の2010年度予算によると、2009年度の財政赤字は1670億ポンド(約23兆3800億円)と推算され、国内総生産(GDP)の11.8%にまで膨れ上がっている。これについて保守党は、財政赤字を放置しておくと、国の財政政策の信用性が失われ、景気回復が妨げられる結果につながると主張。政権を取った暁には、2010年度より早速、公共支出を削減し、次の総選挙実施(恐らく5年後)までに、構造的財政赤字の大部分を削減するとの方針を明らかにしている。
もちろん、財政赤字削減を達成する手段には、公共支出削減のほか、増税、行政業務の効率化による経費削減などもある。政府は、そうした手段の一つとして、昨年までに、国民保険(NI)の保険料を2011年4月から1%引き上げるとの計画を明らかにしていた。しかし今年3月末、保守党がこのNI引き上げの影響を一部緩和する案を発表。すると、保守党案の財源の信憑性や、政府の計画の景気回復への影響などを巡り、産業界も巻き込んで主要政党間で議論が沸騰。選挙戦の序盤はこのニュースで埋め尽くされ、今回の選挙の最大の争点が公共財政や税制であることを改めて実感させた。
今回の総選挙は、労働党の勝利が予想されていながら、最終的には保守党が4期目を達成した1992年以来、最も予測が難しいと言われている。支持率調査では、ブラウン首相の指導力の欠如や議員経費問題などが影響して2008年春頃から保守党が2けたのリードを維持し、同党の政権奪回が確実視されていた。しかし、2009年末頃から両党の差が縮小し始め、現在は結果の予測が不可能な状態になっている。そのため、起こり得る可能性として考えられているのが、労働党、保守党のどちらかが最大政党となっても、過半数の議席を獲得できず、自由民主党と連立政権を組むことである。労働党は今回、総選挙に勝利した場合、下院議員選挙の投票方法を現在の小選挙区制から「優先順位付連記投票方式」に変更する案について住民投票を行う方針を明らかにしているが、これは、かねてから小選挙区制に反対している自由民主党の考えに寄り添い、連立内閣への参加を誘うジェスチャーであると解釈されている。ちなみに自由民主党のヒューン内務担当スポークスマンは先日、ブラウン首相が党首を続けるのであれば、連立の可能性は薄いといった趣旨の発言を行っている。





2008年の政界復帰以来、「実質的な首相」と言われるほど重要な政策ブレーンとして活躍している。今回の選挙戦でも、かつて2度も閣僚辞任に追い込まれながらカムバックした執念と、「暗闇の王子」との異名を取ったこともある策略家ぶりで、愛する労働党を崖っぷちから救うべく奮闘している。なお、上院議員なので自分の選挙はなし。
サラ・ブラウン(46)
キャメロン党首と同じく富裕家庭出身で、同党首とお坊ちゃまコンビを組む。若さゆえか、他政党の古参政治家から軽んじられることもあり、国民保険に関する政策を発表した際は、自由民主党議員から「学生が考えたような案」と小馬鹿にされていた。労働党の選挙キャンペーンでは、歌手の名にひっかけて「ボーイ・ジョージ」と呼ばれている。
サマンサ・キャメロン(38)
テレビのニュース番組や下院での発言で、好々爺(こうこうや)的ルックスに似合わない洞察力に溢れたコメントの数々を放ち、圧倒的な存在感を見せつけている。キャリア・ウーマンの妻が選挙戦に同行してくれないクレッグ党首の傍らに常に寄り添い、「女房役」として大活躍中。労働党と自民党が連立政権を組んだ場合、閣僚入りする見込みについては否定している。
ミリアム・ゴンザレス・デュランテス(42)






コーンウォールと言えば、印象的なのが最西端のランズ・エンドではないだろうか。切り立った崖に差す夕日や、透き通った海の美しさはさすがの一言だが、コーンウォールの良さはそれだけではない。サーファーから食通、家族連れから一人旅まで、多くの人を惹きつけてやまないコーンウォール。
コーンウォールでは、サイクリング、ダイビング、乗馬など様々なアクティビティーが楽しめるが、お勧めは何といってもウォーキングだ。














フランスの神秘スポットを調べようとすると、頻繁に「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」という言葉を目にする。これは、イスラエル、バチカン市国と並ぶキリスト教徒の聖地とされているスペイン北西部に位置する街サンティアゴ・デ・コンポステラへ続く、長い、長い道のこと。地名の「サンティアゴ」はイエス・キリストの12使徒のひとりであり、スペインの守護聖人であるヤコブを、そして「コンポステラ」は「星の広場」を意味するという。主に、首都パリから始まる「トゥールの道」、聖マリー=マドレーヌ大聖堂が建つヴェズレーを起点とする「サン・レオナールの道」、サント=フォワ教会がそびえ立つコンクを通る「ル・ピュイの道」、「バラ色の都市」と呼ばれるトゥールーズを通過する「サン・ジルの道」。これら4つの巡礼路から、さらに枝分かれするように、いくつもの細い道が続く。そして、それらの道の一部区間または途中にある教会などが、神秘スポットとなっていることが多いのだ。1000年以上も昔から利用され、今でも10万人以上の巡礼者たちが通り過ぎていくというこの巡礼路は、スペイン領内にあるものが1993年に、フランス領内のものが1998年に、それぞれ世界遺産に登録された。
英国の代表料理と言えば、もちろんフィッシュ・アンド・チップス(F&C)。





















うことなんじゃないかな。2005年にロンドン地下鉄でテロ*7が発生したときも、バスカーたちの顔色から「テロに負けてなるものか」という気持ちが伝わってきましたよ。
あとロンドンの冬って、本当に寒いですよね。そうした寒い日に、外気が入り込んでくるような場所で演奏していると、お金がよく入るんです。僕はこれを「同情票」と呼んでいるんですけど(笑)。こういうときにチップがたくさん入ったり、「頑張ってね!」なんて声かけられると、人生捨てたもんじゃないなと思いますね。この前なんてサウス・ケンジントン駅横の長いトンネルで演奏してたんですけど、とにかく寒くて寒くて震えてました。そうしたら、そこを通りかかったダウン症の子供たちが寄ってきて、皆でニコニコしながら僕の体をさすってくれたんですよ。「頑張れ、頑張れ!」って言いながら。もう、「この優しさは一体何だろう」ってぼんやりと疑問に思うことしかできなかった。あと、ホームレスの人から1ポンドをもらったときも、どういうことなのか、頭の中が整理できなかったですね。
誰かを、または何かを待っている気はしますね。期待や希望がなかったら、何もできないでしょう。
それで先月、重度の鬱状態のとき、何もかもが怖くてギターが弾けなくなってしまったんですよ。指の神経までおかしくなってしまいました。決まってたコンサートや講演を全部キャンセルして多大な迷惑もかけてしまいました。今はだいぶ良くなりましたが、結局、最終的にバスキングが救いになったんです。バスキングを通して通行人に安らぎを与えるつもりでやってきたのに、今度は自分がバスキングで通行人に癒してもらう立場になっちゃっていました。やっぱり、そういうときは人と触れ合うのが一番いいんでしょうね。そうだ、もし今、鬱の人、または何かに悩んでどうしようもない人がいたら、僕がバスキングしてる所に来てみませんか? スケジュールがウェブサイトに載っていますから、気軽に来て声をかけてください。僕は専門家ではないので治療やカウンセリングみたいなことはできませんが、同じような痛みを経験している者として、良い話し相手にはなれると思いますよ。これから本帰国までの間は、そういった活動もバスキングを通じてやっていきたいと思っています。






スコットランドの首都、エディンバラから西へ14キロ。フォース湾と呼ばれる入り江に、「鋼の恐竜」とも形容される巨大なフォース鉄道橋が架かっている。19世紀末に大英帝国の技術を結集して建設されたこの鉄道橋は、ユネスコの世界遺産の候補にも挙げられており、英国の1ポンド硬貨、そしてスコットランド銀行が2007年から発行している20ポンド紙幣にもその威容が描かれている。
カンチレバー構造は、片持梁の原理を応用している。片持梁は両岸に支えとなる刎木(はねぎ)を埋め込んだり、大石で押さえたりして固定し、突き出した先端を支えとしてこの上に梁を渡すというものである。単純桁では渡せない渓谷でも、両岸から片持梁を突出させ、真中に別の桁を載せると、橋脚がなくても両岸を結ぶ橋桁を渡すことができる。
日本近代工学の祖
工部大学校の初代教頭
電気工学の先駆者
日本の灯台の建設者
日本物理学の父
博学多才な技術者 

19世紀のスコットランドは、教育制度において、イングランドをはるかに凌駕していた。イングランドにオックスフォードとケンブリッジの2大学しかない時代、スコットランドには既に1413年創立のセント・アンドリューズを始め、グラスゴー、アバディーン、エディンバラの4大学があった。1860年代において、高等教育を受ける人口がイングランドでは1300人に1人のところ、スコットランドでは140人に1人と、10倍近かった。特に1451年創立の名門グラスゴー大学は、学生の5人に1人が労働者階級出身で、貧しい農家の息子が大学教授になるなど、社会的流動性の低いイングランドでは考えられないような立身出世があった。またスコットランドでは実学教育が重んじられていたために、経済学者のアダム・スミスや技術者のジェームズ・ワットを輩出したグラスゴー大学は、まさに産業革命の原動力となっていたのである。
スコットランドと日本のつながりの深さを示すエピソードがもう一つある。福沢諭吉の三男・福沢三八は1900年に慶應義塾大学を中退し、グラスゴー大学に留学した。その福沢三八が入学試験で、語学科目として独・仏語ではなく、日本語の受験を希望。すると、大学評議会はアンダーソン・カレッジ理事のヘンリー・ダイアーに意見を求め、日本語を入試選択科目として認めたのである。試験官を依頼された在ロンドン日本総領事は留学中だった夏目漱石を推薦、漱石はグラスゴー大学「教授」として試験委員を務めた。漱石には4ギニーが支払われている。
最初の逃亡人民兵
インヴァリーデン通り(Invalidenstr.)の橋のたもとに、1961年8月24日、川を越えて西側に逃げようとした際に射殺された、当時24歳のギュンター・リトフィンの記念碑が立っている。近くにはギュンター・リトフィン記念館(Gedenkstätte Günter Litfin)もある。彼が壁の最初の犠牲者だが、正確な犠牲者の数はいまだに分かっていない。
同年11月9日、旅行自由化に関する歴史的な記者会見がモーレン通り(Mohrenstr.)の38番地で行われた。会見に臨んだ東ドイツ社会主義統一党のギュンター・シャボウスキーは、「その政令はいつから有効か」という外国人記者の質問に対して、うっかり「今すぐ」と答えた。この会見が行われた部屋は現存しないが、「旅行自由化の公布」という名のインスタレーションが法務省の建物内にあり、道路側からのぞけるようになっている。
テレビで記者会見を見ていた人々は半信半疑のまま検問所付近に集まりだし、状況を知らされていない警備兵との間に食い違いが生まれた。やがて「門を開けろ!」の大合唱が起こり、同日23時半頃、ボルンホルマー検問所を皮切りに、ベルリンのほかの検問所もついに開放されたのである。
オーバーバウム橋から東駅まで続く全長1300 メートルの壁に、21カ国118人のアーティストが絵を描いた世界最長のオープン・ギャラリー。昨年すべての絵が描き直され、美しくよみがえった。
シュレジア灌木の監視塔
昨年8月にオープンしたばかりのブランデンブルク門駅は、分断の象徴ともいえる場所。構内に壁の展示があり、「マウアー・ガイド」(P15参照)もここで借りられる。地下へ降りるエレベーターの壁には、壁にまつわる政治家の発言がちりばめられていて、この場所が持つ意味の重さを実感できるはずだ。
かつて外国人専用の検問所だったチェックポイント・チャーリーに面した壁博物館は、1963年設立と古い歴史を持つ。数々の写真や資料のほか、西側への脱出に使われた車や気球、ボートなどの展示物が充実している。検問所の敷地には壁に関する野外展示もあり、ここを観るだけでも十分多くのことを学べる。
昨年5月にオープンした新しい公園。戦前は鉄道のターミナル、戦後は壁の緩衝地帯だった細長いスペースに作られている。当時の壁が残り、注意して歩くと昔の線路が埋め込まれていることも分かる。奥に進むと遊び場が見えてくる。ベルリンらしい不思議な雰囲気の公園だ。
アパートの中は東側、前の通りは西側というこのベルナウアー通りで当時、何が起きたのか。コンパクトな展示スペースながら、その内容は充実している。建物の向かいには当時の壁が再現され、屋上からその様子を見渡すことができる。壁が実際どういう構造になっていたのか、よく分かるだろう。
フリードリヒ通り駅
白い十字架
ヴァルデマー通り
東ドイツの国産車「トラバント」を運転できるツアー。色とりどりのトラビの中から好きな車を選び、簡単な手ほどきを受けてからいざ出発。旧東ベルリンをメインにしたコースと東西の両方を巡る、それぞれ約1時間のコースから選べる。
"All free men, wherever they may live, are citizens of Berlin, and, therefore, as a free man, I take pride in the words, Ich bin ein Berliner‘! "
"Gefahren lauern auf diejenigen, die nicht auf das Leben reagieren.“
Apple社が開発したスマートフォン(携帯電話と携帯情報端末が一つになった機器)。キーパッドではなく、画面に触れることで操作を行うことができるマルチタッチスクリーン方式を採用、その洗練されたデザインが人気を博している。電話はもちろんのこと、メールやインターネット、テキスト・メッセージなどの機能に加え、様々なアプリケーションを追加することで、自分の好みに合わせてカスタマイズすることができる。


















































