Hanacell

ドイツの街角から

岩本順子 翻訳者、ライター。ハンブルク在住。ドイツとブラジルを往復しながら、主に両国の食生活、ワイン造り、生活習慣などを取材中。著書に「おいしいワインが出来た!」(講談社文庫)、「ドイツワイン、偉大なる造り手たちの肖像」(新宿書房)他。
www.junkoiwamoto.com

移民たちが旅立った街

AUSWANDERER MUSEUM

移民たちが旅立った街
船の型を模した展示室
19世紀半ばから20世紀前半にかけて、ドイツから1000万人を超える移民が、主にアメリカ大陸に向けて旅立った。ドイツにおける玄関口となったのは、ハンブルクとブレーマーハーフェンの2つの港だった。

2005年8月、ブレーマーハーフェンに「ドイツ移民ハウス(Deutsches Auswandererhaus)」という、一風変わった博物館がオープンした。ブレーマーハーフェンから、主にアメリカに渡った700万人以上の移民の歴史をテーマとした博物館で、彼らがいかなる理由で祖国を後にし、どのような船旅を経てアメリカ大陸に辿り着き、そこでどのような暮らしを始めたかが追体験できる仕掛けとなっている。無料で利用できる移民データバンクもこの博物館の目玉だ。同博物館は今年5月、「ヨーロピアン・ミュージアム・オブ・ザ・イヤー」(ヨーロピアン・ミュージアム・フォーラム主催)に選ばれたばかりだ。

そして7月、ブレーマーハーフェンの博物館に次いで、ハンブルクの港湾地区フェッデルにも「移民博物館バリンシュタット(Auswanderer museum BallinStadt Hamburg)」がオープンした。ハンブルクの移民博物館の建物は、かつてドイツを始め、ヨーロッパ各地やロシアから集合した移民たちが、出航までの日々を過ごしていた「移民街」の宿舎を忠実に復元したものだ。この移民街は、船舶会社HAPAG社が1901年から1907年にかけて建設したもので、当時総裁だったアルベルト・バリンの名前をとってバリンシュタットと名付けられた。乗船日までの「移民街」での滞在費は渡航費に含まれていた。ハンブルク港を後にした移民の数は、およそ500万人だという。

宿舎風景
移民街の宿舎風景を再現
博物館外観
博物館外観
バリンシュタットは最盛期には5万5000平米の敷地に30もの建築物を擁し、5000人が宿泊可能な「人工の街」だった。孤立した街区だったため、ハンブルク市民との接触はなかったようだ。当時のドイツ人の移住理由は、貧困と失業、そして人口の増加だった。また、差別され、不当に扱われ、しまいには迫害されたユダヤ人も多数移住した。そのため、この「移民街」には2つの教会のほかにシナゴークもあり、習慣の異なるユダヤ教徒とキリスト教徒のために別々の台所や食堂まで整っていた。

ハンブルクの博物館でも、展示を通して移民たちの足跡を辿り、彼らの業績を知ることができる。移民たちの宿泊設備なども再現されており、賑やかな頃のバリンシュタットの様子を想像する助けとなっている。ハンブルク港からの乗船者リストなどの移民のデータバンクにアクセスできるコーナーもあり、実際に自らの家族のルーツを調べに来ている人たちもいた。有料になるが、メールあるいは郵便で、祖先の足跡を個別に調査してもらうこともできる。

そういえば、日本人も明治維新以後、ハワイへ、アメリカへ、そして南米へと移民として旅立った。日本にも、横浜にJICA海外移住資料館という同種の博物館があり、移住資料のデジタルネットワーク化が徐々に進められているという。また神戸には、バリンシュタットと同様の役割を果たした「国立移民収容所」(神戸移住センター)の建物が残されており(2008年改修予定)、海外移住者の歴史と功績を残す資料室がある。

考えてみれば、私自身も夢を抱いてドイツに移住した移民の1人。先達の移民たちの苦難の歴史が、こうして世界各地で徐々に紹介されつつあることを素直に嬉しく思い、博物館を後にした。

ドイツの街角で起きていることを切り取ったこのシリーズは今回で終了です。長い間、おつきあいくださり、どうもありがとうございました。

 
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