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テロ捜査と人権

テロ捜査と人権

ショイブレ内相は、メルケル政権で最も経験が豊富で、かみそりのように鋭い政治家として知られている。彼が4月末にテロ捜査について行った発言は、国内で大きな波紋を呼んだ。

彼はドイツに住む全市民の指紋やパスポート写真を捜査当局のデータバンクに保管して、犯罪捜査に使用することを提案したのである。さらにトラックが高速道路を走行する際にコンピューターに蓄積される情報をテロ捜査に使ったり、警察が電話回線を通じて個人のコンピューターに入り込んで、データを調べたりすることができるように、法律を改正することを求めている。

またドイツの捜査当局は犯罪事実について動かぬ証拠が見つかるまでは、容疑者を「無実」と推定することを前提としているが、ショイブレ内相はテロ攻撃の防止など特殊な状況では、この原則をあてはめないことも提案している。つまり、捜査官は「容疑者が犯人に間違いない」という前提で尋問するのである。これは刑事事件の捜査の手法に歴史的な変化をもたらす。

約70年前に、ナチスが最悪の警察国家を作り上げたことがあるドイツでは、個人データを警察が犯罪捜査に使うことや、コンピューターの使用記録や携帯電話の盗聴はデリケートな問題である。特にリベラルな勢力は、「監視国家の再来」を危惧するだろう。実際、政界からは同相の発言に「行きすぎだ」という声が出ている。

このテーマがドイツ人を苛立たせるとわかっているにもかかわらず、ショイブレ内相があえて大胆な発言を行った理由は何だろうか。それは、アルカイダなどのイスラム過激派グループが、ドイツで無差別テロを行う危険が刻々と高まっていることにある。ドイツは電子偵察機能を持ったトルナード戦闘機をアフガニスタンに送っているほか、約3000人の将兵を駐留させている。過激組織は、ドイツがアフガニスタンから即時撤退しない場合には、国内でテロを起こすことをインターネット上で示唆している。イラクでドイツ人親子を誘拐したグループも、同じ要求を政府に突きつけている。ロンドンやマドリードで起きたようなテロがドイツで発生する可能性は、もはや排除できない。

ドイツには約170万人のイスラム教徒が住んでおり、捜査当局にとっては国内に潜伏する過激組織を摘発するのは容易なことではない。捜査官にとって個人情報保護法は大きな障壁だろう。インターネットを通じたアルカイダのメッセージに影響されて、ドイツ生まれのイスラム教徒がテロリストになる可能性もある。ショイブレ内相の発言は、無差別テロを防ぐという困難な課題に直面した捜査当局のあせりがいかに高まっているかを如実に示している。

9.11事件を体験した米国は、「テロ捜査のためには、市民の人権が制限されるのはやむを得ない」という立場を取っている。同相の発言には、同じ意図が含まれている。テロ捜査はもちろん重要だが、ドイツ政府には米国のように暴走してほしくない。テロ捜査のためとはいえ拷問を黙認するような国になるべきではない。

4 Mai 2007 Nr. 661

 
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熊谷徹
1959年東京生まれ、早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。神戸放送局、報道局国際部、ワシントン特派員を経て、1990年からフリージャーナリストとしてドイツ在住。主な著書に『なぜメルケルは「転向」したのか―ドイツ原子力四〇年戦争』ほか多数。
www.facebook.com/toru.kumagai.92
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