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日独新聞考

日独新聞考

日本とドイツの間で最も違うものの一つは、新聞の内容だろう。それは、日独間の報道に対する基本的な考え方の違いも象徴している。

日本の報道の基本は、事実を正確かつ速く伝えることである。私もNHK記者だった頃は、「自分で評論をすることは避け、事実を人々に伝えることだけに力点を置くように」と指導された。事実についてコメントをするのは記者の仕事ではなく、読者や視聴者が自分で行うべきだというのだ。つまり日本の報道では、客観性と中立性を何よりも重視している。このため、新聞記事は短くなる傾向がある。

かたやドイツの新聞やテレビは、全く逆である。当然何が起きたかについても報道されるが、記者たちが重視しているのは、起きた事件などの背景の解説と、事件をどう解釈するかについての評論や分析である。したがって、ドイツの新聞は日本の新聞に比べて主観的な色彩が強く、記事もはるかに長くなる傾向がある。1人の記者がページの半分を埋めるような長い記事を書くのは、日常茶飯事だ。日本の記者がしのぎを削る第1報の特ダネ競争は、「通信社に任せておけばよい」ということで、余り重視されていない。また大半の記事は署名入りなので、ジャーナリストの説明責任もはっきりしている。

日独の報道姿勢のどちらが優れているかを決めつけることはできない。これはそれぞれの国民性、好みを反映しているからだ。個人主義が強いドイツでは、読者も、ジャーナリストがある出来事をどう解釈するか、どう評論するかを期待している。特にグローバル化が進み、複雑化した現代社会では、読者は客観的な事実を提供されただけでは自分で判断できない場合も多い。

問題は、特定の新聞だけを読んでいると、見方が偏る恐れがあるということだ。なぜならドイツの新聞は、不偏不党ではなく政治路線がはっきりしているからだ。FAZだけを読んでいると、どうしても右派寄り、Die ZeitやFrankfurter Rundschauを読んでいると、左派的なフィルターで世の中を見ることになってしまう。つまり読者が自分の考え方や思想をはっきりさせることが、新聞を読む上でも重要なのである。読者も、新聞を読むために時間を取ることを要求される。日本のように忙しすぎる社会では、無理な注文かもしれない。

私の個人的な感想を申し上げれば、17年もドイツやフランス、米国の新聞を読んでいると、社会や歴史、政治の舞台裏をちらりと垣間見せてくれるのは、欧米の新聞の長い記事だという気がする。たとえば、ある時FAZが「1952年に発覚したアデナウアー暗殺未遂事件の指令を出したのは、後にイスラエルの首相になるメナハム・ベギンだった疑いがある」という長大な記事を載せたことがあったが、まるで1冊の本でも読んでいるかのように面白かった。日本の新聞でも、1ページを丸ごと使ったこんな記事を読んでみたい。

20 Juli 2007 Nr. 672

 
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熊谷徹
1959年東京生まれ、早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。神戸放送局、報道局国際部、ワシントン特派員を経て、1990年からフリージャーナリストとしてドイツ在住。主な著書に『なぜメルケルは「転向」したのか―ドイツ原子力四〇年戦争』ほか多数。
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