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ジャパンダイジェスト
Sa. 29. Feb. 2020

そのとき時代が変わった1945年敗戦から1989年ベルリンの壁崩壊まで

高橋容子 ドイツニュースダイジェスト創刊時からの常連ライター。日本で文芸映像翻訳を手がけ、渡欧。英・独・豪と移り、現在はスペインのバスク州暮らし。

68年闘争 68er Bewegung

68年闘争 68er Bewegung
1968年は政治の季節と言われる。西ドイツで大 規模な反体制運動、フランスで五月革命、米国では激しいベトナム反戦運動が発生。チェコスロヴァキアでは「人間の顔をした社会主義」の試みが始まったが、ワルシャワ条約機構の戦車によって潰された。

反ファシズム・反核—改革思想の底流

日本で東大安田講堂占拠が起きたのもこの年である。反体制運動の経過は当事国の事情によって異なり、簡単に比較できない。たとえばフランスの大学紛争は労働組合と連帯してゼネストへと進んだが、西ドイツでの“闘争”は反共かつ巨大な労働組合から支持されず、学生と知識層のみの改革運動となった。彼らは「議会に真の野党はいない」と批判し、自らを議会外反対派(APO)と称した。

68年に至るまでの背景にも違いがある。西ドイツでは63年末にフランクフルトで始まったアウシュヴィッツ裁判を契機に、戦後世代が父親たちへの詰問を始めていた。ナチスにどの程度協力したのか、民族虐殺を知っていたのか。彼らにとって父親世代は、今も過去の認識から目をそらすファシストたちだった。

また米ソの軍拡競争により、冷戦の最前線に立つ西ドイツで特に核戦争への恐怖が広がったという事情もある。65年2月に米軍がベトナム戦争に直接介入し、66年に発足したキージンガー大連立政権(CDU・CSU&SPD)が防衛事態に対処するための「緊急事態法(Notstandsgesetze)」の成立を急ぐにおよび、異議申し立ての声は高まる一方だったのだ。

激化するデモと武力行使

67年6月2日、西ベルリンではドイツ全学連(SDS)が、イランに専制体制を敷くパーレビ国王の訪問に対する抗議デモを繰り広げていた。国王夫妻がリュプケ西ドイツ大統領に伴われてドイチェ・オーパーに入ったのは午後8時。まもなくデモ隊と警察隊の衝突が起こった。このときデモを見学していた26才の学生ベンノ・オーネゾルクが、警察官の発砲によって死亡。政府与党と大衆紙は学生の暴動を責め、警察官クーラスは正当防衛を認められて無罪放免となった。

激怒する“68年世代”の一部から、資本主義抑圧国家を武力で倒そうとする動きが生まれたのはこのときだ。オーネゾルク射殺の夜に、「アウシュヴィッツ世代とは議論できない」と叫んだグドルン・エンスリンが、アンドレアス・バーダーとともにフランクフルトのデパートを放火したのは68年4月2日。後にドイツ赤軍RAFを結成するメンバーである。

米大使館に対して抗議するルディ・ドゥチュケ
1968年2月5日、米大使館の前で権威の象徴である
同大使館に対して抗議するルディ・ドゥチュケ
©/AP/Press Association Images

一方、ビルト紙の反共キャンペーンに踊らされた塗装工が4月11日、全学連の指導者ルディ・ドゥチュケを狙撃したことで、議会外反対派の抗議デモも拡大していった。3万人が参加する緊急事態法反対集会がボンで開かれたのは5月13日。しかし同法は5月30日にあっさりと連邦議会を通過し、闘争テーマは大学民主化へと移った。

権威の象徴「大学」の民主化を

紛争の中心となった大学の1つに、フランクフルト大学社会学研究所がある。学生たちはマルクス主義を基盤にした理性批判を聴講するために集まり、と同時にそれを机上の空論であると批判。69年4月22日には、テオドール・アドルノ教授の前に女子学生3人が躍り出て裸の胸を示し、「現実を見よ!」と吊るし上げる事件まで起きた。

一方、全学連と大学助手会議が求めた大学民主化案のうち、教授に集中する権限を助手と学生にも分配する3等分権(Drittelparität)は違憲判決を受けて敗北。かたや州の宥和政策によって大学が次々に新設され、その教授職に68年世代の助手たちを淘汰せずに滑り込ませたことで、教授資格論文の廃止案も助教授ポストの独立案も立ち消えになった。

68年運動が遺したもの

結局、大学民主化闘争で実現したのは大学が増設されたことだけだった。教授になった元助手たちが既得権に胡坐をかいたため、内実はむしろ悪化したとの声もある。しかし68年世代から環境保護や反核、人権を訴える社会運動が生まれたことを忘れてはならない。使い捨てからエコロジーへと現代人の意識を変えた緑の党は、この世代の産物なのである。

なお最近、67年のオーネゾルク射殺に関する新事実が浮かび上がったことはご存知だろう。発砲した警察官カール=ハインツ・クーラスは実は東ドイツの諜報機関シュタージのスパイだった。武器フリークだったクーラス個人の逸脱行為だった可能性が高い。

当時を知る者は、たとえ東ドイツのスパイであることが暴露されていたとしても68年世代はすでに東ドイツの体制に失望していたので、闘争における方向性は変らなかっただろうと言う。しかしこの事実がわかっていたらクーラスは無罪にはならず、司法が修復不可能なまでに信頼を失うことはなかったのではないだろうか。42年前の歴史の見直しは今始まったばかりだ。

19 Juni 2009 Nr. 770

 

高橋容子 ドイツニュースダイジェスト創刊時からの常連ライター。日本で文芸映像翻訳を手がけ、渡欧。英・独・豪と移り、現在はスペインのバスク州暮らし。 www.geocities.jp/takahashi_mormann
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