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ロンドンのゲストハウス
Sa. 29. Feb. 2020

そのとき時代が変わった1945年敗戦から1989年ベルリンの壁崩壊まで

高橋容子 ドイツニュースダイジェスト創刊時からの常連ライター。日本で文芸映像翻訳を手がけ、渡欧。英・独・豪と移り、現在はスペインのバスク州暮らし。

ミュンヘンオリンピックの惨劇 Münchner Olympia Attentat

1972年9月5日
オリンピック開幕から10日が経過した9月5日の未明、選手村にパレスチナの秘密テロ組織「ブラックセプテンバー(黒い九月)」が侵入。イスラエルの選手を人質に取った。

薄弱だったテロへの危機感

自由なドイツ、開かれたドイツを世界に示そう。西ドイツはオリンピックに希望を託していた。開催地はミュンヘン。ヒトラーを独裁者へと成長させた街である。期間中に警察官ばかりが目立つと、その過去を彷彿とさせるかもしれない。バイエルン州と市は、警備を通常の増員体制でいくことにした。

しかし時局はテロの危険を示していた。1972年上半期だけでも、黒い九月がハンブルクとオランダのエネルギー施設を爆破、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)がサベナ航空572便をハイジャック、ドイツ赤軍(RAF)がカールスルーエなどで連続5件の爆破、PFLPから依頼された岡本公三ら日本赤軍3名がテルアビブのロッド国際空港ターミナルで無差別乱射、と断続的に発生。イスラエルのオリンピック委員会は特別警戒を求めたが、西ドイツは過激派テロの反社会性を甘く見ていたのだ。

黒い九月、選手村に侵入

こうした状況下で、ミュンヘンオリンピックは8月26日に開幕。11日目を迎えた9月5日の未明、選手村の近辺で電話線を整備していた郵便局員3人が、フェンスを乗り越えて村内に入っていくトレーナー姿の男性集団を目撃する。フェンスの高さはわずか2メートル。すでにこの方法で宿舎へ近道する男子選手たちの姿が何度も目撃されていたため、朝帰りの選手たちだろうと郵便局員らは思った。

しかし、彼らのスポーツバッグには自動小銃や手榴弾が入っていた。4時35分、彼らはイスラエル選手団の居住フロアに侵入し、抵抗したコーチ1名と選手1名を射殺。ウエイトリフティングの選手1名が窓から脱出できたが、ほか9名の選手は人質になった。

黒い九月と名乗った占拠グループから、イスラエルに収監されているパレスチナ人234名の釈放を求める声明が出されたのは5時30分。警察本部、バイエルン州内相らが対策本部を設置したのは6時40分。すでにテレビ局や外国の報道陣が実況中継を始めていた。

覆面をして選手村に立てこもる占拠グループのメンバー
覆面をして選手村に立てこもる占拠グループのメンバー
©KURT STRUMPF/AP/Press Association Images

オリンピック史上最悪の悲劇

以後、この事件はテロとオリンピックが同時に進行するという、まれにみる展開となった。黒い九月が求めた最後通牒の9時は、12時、さらに17時まで延長され、その間、9時からハンドボールの日本対ドイツ戦、10時には乗馬とカヌーがスタート。しかし、15時開始予定の男子バスケットボールの試合にエジプト選手が現われず、国際オリンピック委員会(IOC)のブランデージ会長は、ようやくこの時点でオリンピックの中断を発表する。

そして17時、占拠グループは人質を連れてカイロへの脱出を要求。ドイツ側はエジプト政府から了解を得たと嘘をつき、出国を模した飛行場での狙撃計画を立てた。

それがいかにずさんであったかは、現場に急行したイスラエル諜報機関モサッドの長官が目を覆った事実が示している。ルフトハンザ機が待機するフュルステンフェルトブルック空軍基地に、犯人と人質を乗せたヘリコプターが着陸したのは22時。照明は暗く、狙撃手の銃はスコープなしの一般ライフル。乗務員の格好で機内に待機するはずだった一般警察官たちは、準備不足と役割への不安から逃げ出していた。

罠に気づいた犯人に狙撃手が発砲したのは22時50分。約2時間の銃撃戦で、人質9名全員、警察官1名、占拠犯8名のうち5名が死亡する流血の惨事となった。

惨事がもたらした教訓

翌日、IOCはオリンピックスタジアムで追悼式を開き、数々の人種差別発言ですでに辞任を求められていたブランデージ会長が、怒号渦巻く中でゲームの続行を宣言する。「The game must go on!」

耳を疑う選手、密かに安堵する選手、試合の予定を考える各国関係者。友好と相互理解を謳うスポーツの祭典は、その目的とはほど遠い現実の姿を露呈した。

一方、救出作戦失敗の原因について分析されたのは後々のことであり、ドイツ当局は当初から落ち度を認めなかった。殺されたイスラエル人選手の遺族から起こされた賠償請求にバイエルン州が応じると決めたのは、なんと28年後の2000年9月である。

しかし、この事件が西ドイツにある種の覚悟をもたらしたことだけは確かだ。テロへの対処を主な任務とする特殊部隊の設立が決まったのは、惨劇直後の9月26日。6年後に発生したルフトハンザ181便ハイジャック事件で人質救出に成功し、日本の特別急襲部隊SATのモデルになったGSG9(国境警備グループ9)は、こうして誕生したのである。

20 November 2009 Nr. 792

 

高橋容子 ドイツニュースダイジェスト創刊時からの常連ライター。日本で文芸映像翻訳を手がけ、渡欧。英・独・豪と移り、現在はスペインのバスク州暮らし。 www.geocities.jp/takahashi_mormann
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