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ジャパンダイジェスト
Sa. 29. Feb. 2020

そのとき時代が変わった1945年敗戦から1989年ベルリンの壁崩壊まで

高橋容子 ドイツニュースダイジェスト創刊時からの常連ライター。日本で文芸映像翻訳を手がけ、渡欧。英・独・豪と移り、現在はスペインのバスク州暮らし。

ギヨーム事件とブラント辞任 Guillaume-Affäre / Rücktritt Willy Brandts

1974年4月24日
ブラント首相(SPD =社会民主党)の個人秘書ギュンター・ギヨームとその妻クリステルが東独スパイの容疑で逮捕され、わずか12日後に首相自らが責任を取って辞任。国民は2重の衝撃を受け、様々な疑問を口にした。

欠けていた確証——遅れた逮捕

首相の個人秘書という、一国政治の頂点部分にまで東独の諜報活動が入り込んでいたことに国民は大きなショックを受け、さらに前年5月末の時点で連邦憲法擁護庁(BfV)からゲンシャー内相を通してブラント首相へと、疑惑が知らされていたことにも驚いた。首相はなぜギヨームを解任しなかったのか。なぜ逮捕までに約1年もかかったのか。

「ブラントは半信半疑だったのではないか」と、逮捕直後に出たシュピーゲル誌は書いている。これまでに幾多の要職がスパイとして逮捕される一方で、根拠のない噂話も多かったからだろう。あるいは諜報機関による陰謀の可能性も考えたかもしれない。

西独の諜報機関には、国内を監視するBfVと、国外を扱う連邦情報局(BND)の2つが存在する。ソ連共産陣営に対峙するこの2機関は、当然ながらドイツに初めて誕生した社会民主主義政権を快く思っていなかった。特にBNDは、戦後アメリカ占領軍の後押しで元ナチス親衛隊員やゲシュタポを主要メンバーとして発足した前身(ゲーレン機関)を持つだけに、保守反動の傾向が強かった。

そのためブラントは、BNDと連携するBfVの情報を鵜呑みにできなかったのかもしれない。あるいはこのことで、東側にいるBND諜報員の動きが発覚する危険も考えたであろう。ギヨームがスパイであるとの確証がない以上、首相は動くわけにはいかなかったのだ。

スパイの仮面が暴かれた日

BfVによると、当時約1万1000人もの東独工作員が西独で活動していた。彼らは、建国から壁出現までの12年間に西へ逃れた亡命者270万人に混じり、西独に潜入してきていたのである。

ギヨーム夫妻も同様、東独国家保安省シュタージの工作員教育を受け、亡命を装って1956年に西独へ入った。フランクフルトに居を構え、翌年SPDに入党。ギュンターは党の地区指導員、クリステルは党の秘書として事務能力を発揮する。そして68年、夫はフランクフルト市議に当選。その後、連邦に誕生したブラント政権の首相府へと推薦を受け、首相の個人秘書へと潜り込むまでに要した期間はわずか4年だった。

彼のベルリン方言をブラントは気に入っていたという。首相は西ベルリンの前市長である。彼らは家族ぐるみで付き合い、ブラントは疑惑を知らされてからも妻の母国ノルウェーでの休暇にギヨーム一家を同行させる。逮捕後に事情を知った政府要人と知人らは、ギヨームの凡人ぶりとブラントの仮面顔を思い出し、信じられない演技力だと驚いた。

当事件は、東独がブラントの極秘文書や私生活まで知っていることに疑問を持ったBNDが、シュタージの対外諜報本部(HVA)から出る短波を集めた記録をひっくり返し、その中にあった3通の祝福メッセージの発信日がそれぞれ、ギヨーム夫妻と1人息子の誕生日と一致することから人物が割り出された。

連邦刑事庁(BKA)がギュンター・ギヨームを自宅アパートで逮捕したのは74年4月24日。そのとき彼が「私はドイツ民主共和国(DDR)市民、HVAの将校である。敬意を払いたまえ!」と発言し、それが有罪の決め手に欠く後の裁判で重要な状況証拠となる。

ギヨーム事件とブラント辞任
ブラント辞任2日後の1974年5月9日、次期政権について
話し合うSPD議員団長のヴェーナー(右)と後継候補の
シュミット(中央)。左はブラント。
©Strumpf/AP/Press Association Images

「誰かが責任を取らなければ」

逮捕後、首相はBKAが押収したギヨームの記録物件を読み、5月6日の夜にハイネマン大統領へ辞表を提出した。ブラントはその日の早朝、妻が眠るベッドの足元に立って「今日辞任するよ」と言い、妻は「誰かが責任を取らなければならないものね」と答える。政治的責任による辞任を語るときによく引用されるエピソードだ。

確かにギヨーム事件は、ブラント辞任の原因になった。しかし彼に辞任を決意させた実際の理由については、今もって様々な解釈がなされている。ギヨームが世話したという女性との交際を暴露されることを恐れたのか、うつ病のために気力を失ったのか、闇将軍と言われたSPD議員団長ヘルベルト・ヴェーナーによって辞任へと追い込まれたのか。

いずれも真実だろうと、南ドイツ新聞は辞任後30年が経った2004年5月6日に書いた。党体制の豪腕ヴェーナーがセンチメンタルなブラントに見切りをつけ、SPD政権を継続させるために、保守テクノクラートのヘルムート・シュミットを首相後任に推したことは想像に余りある。

そして東独は、皮肉にもブラントの辞任に驚いてしまう。同政権下で新東方政策が始まり、相互に国家主権を承認したのは1972年12月(東西ドイツ基本条約)。この時期のブラントの失脚は、東独にとって望まない事態だった。そのためギヨームは、東独が送り込んだ最高のスパイ、しかし作戦そのものは失敗に終わったと言われている。

18 Dezember 2009 Nr. 796

 

高橋容子 ドイツニュースダイジェスト創刊時からの常連ライター。日本で文芸映像翻訳を手がけ、渡欧。英・独・豪と移り、現在はスペインのバスク州暮らし。 www.geocities.jp/takahashi_mormann
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