Hanacell

平和運動 Friedensbewegung

1981年10月10日
NATO(北大西洋条約機構)が1979年12月12日に採択した「二重決定」を契機に、冷戦の最前線に立つ西ドイツ国民は核戦争への危機感を強め、平和運動に立ち上がった。

米ソ軍拡競争の尖鋭化

東欧諸国を加えた現在のNATOは周辺地域の紛争予防と危機管理に重点を移しているが、冷戦中はソ連共産圏に対抗するための西側軍事同盟であった。1979年時の加盟国は、米、英、カナダ、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、デンマーク、アイスランド、ノルウェー、イタリア、ポルトガル、ギリシャ、トルコ、西ドイツ。加盟国は域内のいずれかの国が攻撃された場合に、共同で応戦する義務を負っていた。

冷戦期の特徴は、米主軸の西側陣営とソ連を中心とする東側陣営が軍拡と核開発にしのぎを削り、それによって安定と均衡を保っていたことだ。こちらが手を出せば破壊的な報復がもたらされるという恐怖によって、米ソ間の直接戦争を回避してきたわけである。しかし核の抑止力に従っている限り、常に核兵器を増強し続けるしかない。

そのため70年代、米ソ間で戦略核兵器の制限交渉や欧州安全保障会議が始まり、緊張緩和の時代に入ったと見えた76年、ソ連が旧型ミサイルに替え、核弾頭を搭載する強力な中距離弾道ミサイルRT-21M(NATOコードSS-20Saber)を、ウラル地方以西の29基地に配備。射程範囲に入った西ヨーロッパ諸国は震え上がってしまった。

核配備——恐怖のシナリオ

これに対するNATOの反応が「二重決定」と呼ばれる。米ソ双方が軍縮交渉のテーブルに着くことを提案する一方で、米のパーシング2型ミサイル108基と巡航ミサイル・トマホーク464基を、1983年から西ヨーロッパに配備することを決定したのだ。「そちらがSS-20を撤去しなければ、当方も同レベルの新型核ミサイルを配備しますよ」というわけである。

1981年10月10日、ボンのホーフガルテンで行われた市民平和集会
1981年10月10日、ボンのホーフガルテンで行われた市民平和集会
© DPA DEUTSCHE PRESS-AGENTUR/DPA/Press Association Images

ここで、西ドイツには米英仏の軍隊が国中に分散して駐留し、冷戦が終わった現在も駐留し続けていることを思い起こしてほしい。特に米軍はハイデルベルク、シュトゥットガルト、マンハイム、ラムシュタインなど、26もの都市に基地(施設ではなく軍事活動拠点)を開き、軍人約30万人を配属。当時すでに7000基にも及ぶ核ミサイルを持ち込んでいた。対するソ連は東ドイツに50万もの兵力を投入し、SS-20が照準を西へ定めている。

この状況でNATOが西ドイツに、パーシング全基とトマホーク96基を割り振るというのである。それは、核兵器の発射拠点であると同時に攻撃目標になっている東西両ドイツを舞台に、すべてを抹殺する核戦争が勃発しかねないということを意味した。基地と軍人に身近に接する西ドイツ人にとって、ひどく現実的な恐怖のシナリオである。非核三原則に守られ、最近まで国防問題を他人事と考えてきた一般の日本人には馴染みのない感覚であろう。

反核・平和運動のうねり

市民の抗議行動が始まった。1980年11月16日、クレーフェルトに共産党系のグループが集まり反核宣言。ソ連を悪の帝国と名指すロナルド・レーガンが81年1月に米国大統領に就任すると、ドイツ国民の恐怖感はさらに高まる。

4月のイースター行進で各地の市民が反核を叫び、週刊シュピーゲル誌は43/1981号で平和運動を特集した。首都ボンで大規模な市民平和集会が開かれたのは10月10日。教会、組合、左派、環境保護系、さらには与党SPD、そして軍拡に反対する軍人らも加わった。

参加者30万人。会場のホーフガルテンとその周辺は市民で埋まり、「核兵器ストップ!」「原爆死反対!」などのプラカードが揺れる。国内からはノーベル賞作家のハインリヒ・ベル、国外からも著名な平和運動家らが壇上に立ち、最後に米国の歌手ハリー・ベラフォンテが「We Shall Overcome」を熱唱。レーガン大統領に中性子爆弾の開発中止を求めた。

しかしこうした抗議の声に対して、SPDのアペル国防 相は「国を弓矢で守ろうというのか」と反論。東西の戦力不均衡を最も恐れるシュミット首相は、平和論者たちを「子ども同然だ」と揶揄する。

結局、米が打ち出した米ソ双方のミサイル完全撤去案は83年11月、英仏の核兵器を除外したためにソ連から拒否されて座礁。こうして米の新型ミサイルは84年から西ドイツ、ベルギー、オランダ、イタリアに配備されてしまった。このときすでにシュミット首相は政権をCDU(キリスト教民主同盟)のヘルムート・コールに譲り、一方、平和運動で発言力を強めた緑の党が連邦議会へと進出していたことは、皮肉な展開とでも言えようか。

21 Juli 2010 Nr. 826

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:11  
  • このエントリーをはてなブックマークに追加


Nippon Express ドイツ・デュッセルドルフのオートジャパン 車のことなら任せて安心 習い事&スクールガイド バナー

デザイン制作
ウェブ制作