Hanacell

ホーネッカーの西ドイツ訪問 Honecker im Westen

1987年9月7日
1987年9月7日、東ドイツのエーリッヒ・ホーネッカー国家評議会議長(ドイツ社会主義統一党(SED)書記長)が初めて西ドイツを訪問し、ドイツ・ドイツ関係は新たな局面を迎える。

ドイツ・ドイツ会談とソ連の圧力

東西が顔を合わせるドイツ・ドイツ会談は、それまでに3回行われていた。1970年にブラント首相(SPD)が東ドイツのエアフルトでシュトフ閣僚評議会議長と会い、翌年に同議長が西のカッセルを訪れてブラントと再会。次のシュミット首相(SPD)も、81年に東ドイツ・ブランデンブルク州の湖畔でホーネッカー国家評議会議長と会っている。

つまり4回目となる今回のドイツ・ドイツ会談は、3回目のシュミット東独訪問への返礼と言えるものだが、予定は83年4月、84年9月と2度、東からキャンセルされていた。この時期は、米ソの核戦略拡大競争、モスクワオリンピックの西側ボイコットへと、東西間の緊張が再び高まっていたために、ソ連がホーネッカーの西独訪問にストップをかけたと歴史書にはある。それはどういうことなのか。

ホーネッカーは80年から中立国オーストリアを手始めに、NATO加盟国のイタリア、ギリシャ、オランダを歴訪し、バチカンでローマ教皇、日本で昭和天皇に拝謁するなど、積極的な対西外交を展開していたが、西ドイツの首都ボン訪問には特別な意味が伴う。

西ドイツが2つのドイツ国の存在を現実として認めるということだ。それはホーネッカーの成功を意味し、東ドイツの政治力を抑えておきたいソ連にとっては好ましくない。また西側諸国も本音では、頭越しのドイツ関係を喜んでいなかっただろう。

象徴的な2国会談

しかしソ連にミハイル・ゴルバチョフ書記長が登場し、1987年5月に開かれたワルシャワ条約機構の会議(当連載32回参照)で軍縮案が採択されるや、ドイツ・ドイツ関係も急展開。急きょ、ホーネッカーの西ドイツ訪問が可能になった。

1987年9月7日、握手を交わすホーネッカー(左)とコール
1987年9月7日、ボンの西ドイツ首相府で
握手を交わすホーネッカー(左)とコール
©ddrbildarchiv.de/DPA/Press Association Images

西で迎えるのは82年から政権を取るヘルムート・コール首相(CDU)。国民の反応は2つに割れた。交流の広がりに期待が膨らむ一方で、「ドイツの分裂を代表する人物を儀仗隊(ぎじょうたい)の栄誉礼で迎えるのか」「これで統一は幻になった」などの否定的な意見も出る。

コールは「単なる実務訪問である」と説明して批判を抑えた。ドイツ・ドイツ関係は“両国民に関わる国内問題”なのだから、これによって東の壁を少しでも開けられればと考えたのだそうだ。

こうして9月7日、2つのドイツ国旗がはためくボンの飛行場に、ホーネッカーを乗せた特別機が到着した。東の国旗は西と同じく横に黒赤金の3色が入り、中央部に労働を象徴するハンマーとコンパスと稲穂の花輪が描かれている。オリンピックや世界選手権で何度も表彰台を飾った国旗だが、覚えておられるだろうか。

次にボンの首相府で、国賓を迎えての栄誉礼が挙行された。軍楽隊がドイツ民主共和国(東ドイツ)の国歌『廃墟からの復活』を演奏し、ホーネッカーとコールが捧げ銃をした儀仗隊の前を並んで巡閲する。2つの国旗、2つの国歌、儀仗隊の栄誉礼。コールは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

名を捨て、実を取ったコール政治

しかしその夜の歓迎晩餐会で、コールは東ドイツにも生中継されることを計算した上で辛らつなスピーチを行う。

「ドイツの国民は分裂に苦しんでいます。道の前に立ちはだかって彼らをはね返す壁に苦しんでいます。彼らは今日ここで、我々が新しい橋をかけることを望んでいるのです」

カメラは隣に座る東ドイツ国家評議会議長の、凍りついた表情を映し出していた。

ホーネッカーは5日間の訪問中に環境問題、放射能問題、学術交流で協定を結び、4つの州を視察。精力的に動き回っている。ザールラント州では生まれ故郷の町を訪ねて隣人たちと語り、ヴッパータールでは1983年に彼を名指しで風刺したロック歌手ウド・リンデンベルクから、「Gitarren statt Knarren(鉄砲よりギターを)」と書かれたギターをプレゼントされて苦笑い。人間の顔をのぞかせた。

そして帰国後、ドイツ・ドイツ会談の成功を大々的に宣伝し、国民への監視体制を多少緩める。87年中に西ドイツへの旅行を許された東ドイツ市民は500万人。前年より100万人も多い。35の市町村が西と姉妹都市を結び、青少年のスポーツ文化交流も盛んになる。

別の見方をすれば、コールの、名を捨てて実を取る政治が未来への投資という形で実を結んだとも言えよう。いみじくも当時、東ドイツの国家安全機関(シュタージ)がドイツ・ドイツ会談後の東ドイツにおけるイデオロギー弱体化を警告している。しかしベルリンの壁が、そのわずか2年後に崩れることを、誰が想像できただろう。

18 März 2011 Nr. 859

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 18:06  
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