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ジャパンダイジェスト
Sa. 22. Feb. 2020

そのとき時代が変わった1945年敗戦から1989年ベルリンの壁崩壊まで

高橋容子 ドイツニュースダイジェスト創刊時からの常連ライター。日本で文芸映像翻訳を手がけ、渡欧。英・独・豪と移り、現在はスペインのバスク州暮らし。

バーシェル疑獄 Barschel-Affäre

1987年9月7日~
1987年10月11日、ジュネーブのホテルの一室から男性の死体が発見される。1週間前にシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州(SH)首相を辞任した政治家、ウヴェ・バーシェル(キリスト教民主同盟= CDU)だった。

疑獄を呼んだ選挙戦スクープ

1950年以来CDU が政治を担うSH州で、82年に前任者から政権を引き継いだバーシェルは、83年の改選に勝利して二次政権を樹立。その4年後の87年9月13日に、再び州民の審判を受けたところだった。

結果はCDU42.6%、社会民主党(SPD)45.2%、自由民主党(FDP)5.2%。CDUは第2党へと後退したが、FDPと連立すれば政権を維持できなくはない。しかし選挙前の9月7日、シュピーゲル誌からCDU陣営の汚い選挙戦についてスクープされ、首相バーシェルは窮地に立たされていた。ここから、「ワーターカントゲート(Waterkantは低地ドイツ語で北海沿岸の意)」と呼ばれる一大疑獄の幕が切って落とされる。

記事によると、バーシェル選挙事務所が広報担当に雇ったライナー・プファイファーは、SPDの州首相候補ビョルン・エングホルムの私生活を探偵に探らせ、根も葉もない誹謗中傷を流すだけでは足りず、偽の脱税情報を通告。さらには医者を名乗ってエングホルム本人に電話を掛け、「貴殿はエイズに罹患している」と言ったという。

謎めいたバーシャルの死

選挙前日、バーシェルは記者団に「完全な作り話である」と断言した。しかし選挙後、シュピーゲル誌が次々に送り出す暴露記事によって追い込まれ、10月2日に首相を辞任。そのわずか9日後にジュネーブで死体となって発見される。

家族や目撃者などの証言によると、バーシェルは6日に妻とグラン・カナリア島へ休暇に出掛け、10日の10:30に1人でジュネーブへ向けて離陸。15:10にジュネーブ空港に着き、その10分後に空港を出て、遅くとも16:30にはホテルBeau-Rivage に到着すべきところ、17:10 にチェックインしている。12日に同件の調査委員会に出頭する予定があり、11日にキールへ飛ぶ航空券を購入済みだった。

空港からホテルまでの空白の40分間に彼は何をしていたのだろうか。バーシェルは妻と妹に、「ロベルト・ロロフという男が私の名誉回復の助けになる情報を持ってフランクフルトからジュネーブに来る」と言っていた。空港近くでそのR.R.なる人物と会ったことは、ホテルに残されたメモからも確かなようだった。

翌日の昼にホテルの客室でそのメモとバーシェルの死体を発見したのは、シュテルン誌の記者とカメラマンである。彼らは早朝からホテルに張り込み、何度も317号室のドアまで行っては「入室断り」の札を見てロビーに 戻ってきていたが、12時になっても政治家が現れないため、点検に来たルームサービス係と一緒に入室。フロアの端に転がる片方の靴と使用した形跡のないベッドを目に留め、メモを見付け、バスルームに入って死体を発見する。彼らがすべての状況をカメラに収めて警察に通報したのは、1時間後だった。

着衣のままバスタブの水に半分浸かっての死は、普通の死に方ではない。胃から向精神薬、抗うつ薬、精神安定剤、睡眠薬が多量に検出され、死者が以前から薬物に依存していたことから、ジュネーブ警察は自殺と判断。リューベック地検も自殺と結論付けた。

バーシェル事件を扱った本
バーシェル事件を扱った本
『Der Doppelmord an Uwe Barchel(第5版)』
(Wolfram Baentsch, 2008)。
これまでに、事件を題材にした数多くの書籍が出版されている

他殺説と事件の余波

しかし、今でも他殺説を主張する関係者は多い。浴槽の前にあった片方の靴に出所不明の液体が付着し、ワイシャツの2番目のボタンが千切れ、抗うつ薬の箱がなかったこと、R.R. なる人物が特定されず、バーシェルの闇の活動が明るみに出たからだ。

弁護士業に就いていた1970年代から、バーシェルはアラブ諸国や南アフリカへの武器密売を手掛け、東ドイツとの不法な商取引にも関係していたが、今回のスキャンダルによって今後は邪魔な存在になるとみなされ、殺されたというのだ。有名なイラン人武器商と北朝鮮人、あるいはイスラエルの諜報機関モサドによって口封じされたとする説もある。

そしてこの事件は、88年5月のやり直し選挙に大勝利してSPD政権を樹立し、92年選挙で続投を決めたエングホルム首相の運命をも変えてしまった。

エングホルムは88年初頭、調査委員会でCDUの不法行為をシュピーゲル誌の報道で初めて知ったと証言。しかし実際は、選挙の7日前に前述のプファイファーがSPD広報官らに告白しており、SPDはその情報をシュピーゲル誌に流した上で、プファイファーに口止め料として計5万マルクを払っていた。それが明らかになったのは93年5月。エングホルムは偽証の事実を認め、すべての公職を辞すことになった。

この事件で勝利者がいるとすれば、シュピーゲル誌を筆頭とするメディアであろう。彼らは「調査報道」を旗印に、売るための情報操作を行い、世論をあおり、しかし展開については責任を負わず、自己批判もない。現在もバーシェルの死の謎は最も売れるネタである。

22 April 2011 Nr. 864

 

高橋容子 ドイツニュースダイジェスト創刊時からの常連ライター。日本で文芸映像翻訳を手がけ、渡欧。英・独・豪と移り、現在はスペインのバスク州暮らし。 www.geocities.jp/takahashi_mormann
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