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ジャパンダイジェスト
Sa. 29. Feb. 2020

そのとき時代が変わった1945年敗戦から1989年ベルリンの壁崩壊まで

高橋容子 ドイツニュースダイジェスト創刊時からの常連ライター。日本で文芸映像翻訳を手がけ、渡欧。英・独・豪と移り、現在はスペインのバスク州暮らし。

西ドイツ大使館への駆け込みと汎ヨーロッパ・ピクニック Flucht in die Botschaft und das Paneuropäische Picknick

1989年8月~9月
東ドイツでは、1989年5月7日の地方選挙で支配政党SED(ドイツ社会主義統一党)が行った不正(前36回参照)をきっかけに、20~40歳の就労世代が国を見限り始めた。

SED政権は政治犯や不愉快な著名人を西の外貨と引き換えに追放し、高齢者に名目上は温情、内実は公費負担の軽減を兼ねて西への移住を認めてきたが、就労世代には出入りを厳しく制限していた。出国は認可制で、特に西への出国ビザは逃亡を防ぐため、夫婦や家族に同時には出さない。西の親戚を訪ねてもほとんどが帰ってきたのは、そのためだった。

それでも1989年に出国申請が急増したのは、出られるチャンスはもうないかもしれないとの不安が市民間に広がったからだという。計画経済の失敗から食品と生活物資は底をつき、家電の修理を頼めば数カ月、車の購入には16年も待たねばならない。

「展望がない」「ソ連で世直し、ポーランドで政治制度の民主化が始まり、ハンガリーがオーストリアとの国境に巡らした鉄条網の解体を始めていても、我が国は変わらない」。これが若い夫婦や家族を脱出に走らせた動機だった。

駆け込み者の急増による大使館閉鎖

彼らは東ベルリンの西ドイツ大使館、あるいは取得が比較的簡単な「ビザなし協定国への出国許可書」をもらってポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアへと入り、そこの西ドイツ大使館に駆け込んだ。これ自体は珍しいことではなく、すでに東西間で対応マニュアルができていた。帰宅するよう説得しても拒否する大使館占拠者には、東ドイツ政府代理を介して犯罪の有無を審査し、合格ならば、帰国することを条件に東の政府が「刑の免除」と「近日中の出国許可」を保証する。これで彼らはいったん国に帰り、東ドイツ政府の面子が立つわけだ。

1989年8月19日、ハンガリーから国境を越えてオーストリア・メアビッシュへと向かう東ドイツ国民
1989年8月19日、ハンガリーから国境を越えてオーストリア・
メアビッシュへと向かう東ドイツ国民
©Votava/AP/Press Association Images

しかし、1989年の夏はあまりに数が多すぎた。例えば8月のある週に西ドイツ大使館に駆け込んだ東ドイツ国民は、東ベルリンで131人、プラハ140人、ワルシャワ10人、ブダペスト187人。しかも今回、東ドイツは「刑の免除」だけを保証するという。

出国ビザ交付の保証がないなら誰も帰らない。そこにまた別の一団が駆け込んでくる。各地の西ドイツ大使館は建物を閉鎖し、彼らの世話に追われることになった。

流血なき約700人の越境

同じ頃、オーストリアと国境を接するハンガリー西部にも東ドイツ国民があふれ始めていた。彼らは鉄のカーテンが開いたことで自分たちもオーストリアへ行けるだろうと期待してやって来たが、通行許可がないため叶わず、そのまま観光地に留まっていたのである。

そこで、ハンガリーの民主勢力と国際汎ヨーロッパ連合の会長オットー・フォン・ハプスブルク(オーストリア=ハンガリー帝国最後の皇帝の長男)が協力。ハンガリー内務省の暗黙の了解を取り付け、国境沿いの町ショプロンで野外平和集会「汎ヨーロッパ・ピクニック」を開くことにする。これを利用して東ドイツ国民を越境させてしまおうというのである。

8月19日午後3時、オーストリアから視察団が来ると言われてゲートの錠を開けておいたハンガリー国境警備隊は、国道側から突然現れた約700人の集団に肝をつぶした。

「服装から東ドイツ国民であることは分かったが、多勢に無勢。無視することにして、部下にも撃たないように言いました」と、当時の警備隊隊長は語っている。

流血騒ぎにならなかったのは幸運としか言いようがない。封鎖地帯の森を何キロも歩く中で集団パニックになっていたら、警備隊長の首が飛ぶだけではすまない。

この後、ハンガリー政府は東ドイツ政府から激しい抗議を受けたが、在留東ドイツ国民の強制送還を要求されて反発。9月11日に国境をすべて開放してしまうのである。

“出国”が可能になった日

一方、8月23日に閉鎖したプラハの西ドイツ大使館には、その後も塀をよじ登っての駆け込みが続き、9月にはその数が4000人になっていた。庭や駐車場はテントで埋まり、劣悪な衛生状態と寒さの中で病人が出始める。

ハンス=ディートリッヒ・ゲンシャー外相(自由民主党= FDP)が大使館のバルコニーに立ち、彼らに決定を伝えたのは9月30日18時58分。「同胞の皆さん、ドイツ連邦共和国への“出国”が本日可能になりました」。

大きな歓声が上がり、“出国”という言葉はほとんど聞き取れない。プラハから東ドイツを経由して西ドイツへと入る列車を仕立てて自国民を出国させることに、東ドイツ政府が同意したのである。あくまでも「出国させる」ことにこだわる東の顔を立てた結果だった。

こうしてほかの西ドイツ大使館からも難民が西へと送り出され、東ドイツ国民の出国は集団脱走の様相を呈してくる。すでに出国申請者は推定100万人。東はそのうち空になるとのジョークが囁かれ始めた。

15 Juli 2011 Nr. 876

 

高橋容子 ドイツニュースダイジェスト創刊時からの常連ライター。日本で文芸映像翻訳を手がけ、渡欧。英・独・豪と移り、現在はスペインのバスク州暮らし。 www.geocities.jp/takahashi_mormann
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