独断時評


最低賃金導入へ ー SPD、アゲンダ2010を修正

10月17日、キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)と社会民主党(SPD)は、連立協定のための交渉に入ることを発表した。緑の党がCDU・CSUとの連立を諦めた今、CDU・CSUとSPDが大連立政権を組むことは、ほぼ確実となった。

連立協定の会議室
10月23日のCDU・CSUとSPDによる連立協定の様子

やって来る最低賃金制

CDU・CSUとSPDは、意見が対立していた政策についても譲歩する姿勢を打ち出している。最低賃金制は、その1つだ。

選挙前からSPDは、法律によって全業種に1時間当たり8.50ユーロ(1105円・1ユーロ=130円換算)の最低賃金を導入することを提案していたが、これに対してCDU・CSUは難色を示していた。しかし両党は、連立協定のための交渉に入る直前に、最低賃金をめぐり歩み寄りを決めた。SPDが富裕層に対する増税を断念する代わりに、CDU・CSUは最低賃金制への反対を撤回したのだ。

欧州の大半の国では、法律で最低賃金が決められている。しかしドイツでは、一部の業種が法律ではなく、労使間交渉によって最低賃金を設定していた。

経済学者たちの間からは、法律による最低賃金の導入は、雇用などに悪影響を及ぼすという声が上がっている。

ドイツ経済研究所(DIW)のフィヒトナー研究員は、「8.50ユーロの最低賃金は、旧東独地域の小規模企業に深刻な影響を与え、雇用の減少につながる」と警告する。彼によると、旧東独では就業者の25%が8.50ユーロよりも少ない時給で働いている。このため、最低賃金が8.50ユーロに引き上げられた場合、多くの市民が職を失う可能性があると言う。

リンツ大学のシュナイダー教授は、「時給8.50ユーロの最低賃金が法制化された場合、この金額よりも低い賃金で働く闇労働者が増加する。闇経済の規模は、1年間で約20億ユーロ(2600億円)増えるだろう」と推測する。シュナイダー教授は、現在ドイツで未申告労働に支払われる賃金や報酬の額が、毎年3405億ユーロ(44兆2650億円)に達すると推定している。闇労働の増加は、就業者が税金や社会保険料を納めないことを意味するので、社会に対して大きな損害を与える。

シュレーダー改革を修正へ

私が興味深く感じるのは、SPDがシュレーダー前首相による構造改革を部分的に逆戻りさせて、その悪影響を必死で弱めようとしていることだ。

ドイツでは、1998年から2005年まで首相だったシュレーダー氏が、構造改革「アゲンダ2010」を断行。彼は長期失業者に対する給付金を生活保護と同じ水準に引き下げ、公的年金を実質的に削減したり、健康保険の適用範囲を狭めたりした。さらに「ミニジョブ」と呼ばれる低賃金労働を可能にし、派遣労働に関する規制を大幅に減らした。ドイツではそれまで、雇用契約は基本的に無期限だったが、シュレーダー氏は法律を改正して、企業が期限付きの雇用契約を増やせるようにした。

こうした改革によってドイツの労働コストの伸び率はほかの欧州諸国よりも大幅に低くなり、失業者の数が約200万人減った。しかし、低賃金部門で働く労働者の比率は、EU主要国の間で最も高くなった。今でも200万人を超える人々が、1つの仕事の報酬だけでは生活できないため、国から失業給付金(ALG・II)を受け取っている。だがこれらの人々は、統計上は失業者に数えられない。シュレーダー氏は、低賃金部門の拡大と統計によるトリックによって、失業者数を大幅に減らしたのだ。

現在SPDは、連立協定をめぐる交渉の中で、最低賃金の導入だけではなく、派遣労働期間の制限や、期限付き雇用契約数の削減に狙いを定めている。

その理由は、シュレーダー改革について、SPDの左派勢力などから「所得格差を拡大し、ワーキングプアの問題を深刻化させた」として批判が出たからだ。シュレーダー氏が2期目の任期を全うせずに首相辞任に追い込まれたのは、アゲンダ2010に対する市民の不満が高まったからである。シュレーダー政権で一時財相を務めたが、SPDを離党して左派党に入ったラフォンテーヌ氏は、「数百万人の市民が貧困の脅威にさらされている。シュレーダー氏が首相の座を追われて良かった」と述べ、アゲンダ2010を厳しく批判している。

1976年には、SPDの党員数は100万人を超えていたが、今では半分以下の約49万人に減った。シュレーダー政権下でSPDを離党した市民も少なくない。つまりアゲンダ2010は、SPDに癒しがたい傷を与えたのだ。

今年はシュレーダー氏がアゲンダ2010を発令してからちょうど10年目だが、SPDは選挙期間中にこの言葉を使うことを避けた。今なおSPDの指導部にとって、アゲンダ2010という言葉は禁句なのだ。メルケル首相がシュレーダー氏による大改革を事あるごとに称賛するのとは、対照的である。

SPDは、時計の針を逆に戻して「負の遺産」を清算し、有権者の信頼を回復することができるだろうか。ガブリエル党首の戦いは、まだ始まったばかりだ。

1 November 2013 Nr.965

最終更新 Donnerstag, 20 April 2017 10:49
 

ドイツ連邦軍の アフガン撤退

10月6日、アフガニスタン北部のクンドゥスにあるドイツ連邦軍の基地を、ヴェスターヴェレ外相とデメジエール国防相が訪れた。

彼らは、アフガン軍と警察にこの基地を引き渡すための式典に出席したのである。主権の譲渡を象徴する木製の大きな鍵が、ドイツ人の閣僚たちからアフガン政府の内相らに手渡された。

一時は4500人が駐留

約11年にわたってアフガニスタンに駐留していたドイツ連邦軍は、今年10月末までに完全に撤退する。

2001年以降、米英仏など50カ国が、国連決議の下に国際治安支援部隊(ISAF)として延べ8万5000人の将兵をアフガニスタンに派遣してきた。テロ組織アルカイダは、2001年までタリバン政権の支援の下、アフガニスタンに訓練施設や基地を持ち、米国で同時多発テロを実行した。

各国は、アフガン政府が自力で軍と警察力を作り上げ、過激勢力に対抗できるよう訓練を施し、復興を助けることを任務としていた。

ドイツ連邦軍は当初、首都カブールに1200人の兵士を駐留させていただけだったが、2006年にはアフガニスタン北部の治安維持を任された。このためドイツは、一時4500人の将兵を同国に駐留させていた。

初めて戦闘を体験

アフガニスタン駐留は、ドイツ連邦軍を大きく変えた。1955年に創設された連邦軍は、この国で初めて地上での戦闘を経験したからである。

これまでアフガニスタンでは、米軍を中心に3000人以上の兵士が戦死し、ドイツ軍の兵士も54人が命を落としている。連邦軍の歴史で、戦死者が出たのは初めてのことである。クンドゥス基地の一角には、戦死した兵士たちに捧げられた慰霊の壁があり、兵士たちの名前入りプレートが貼り付けられている。冷戦の期間中には、「戦死」とか「戦闘で負傷」という言葉はドイツ人にとって抽象的な概念でしかなかったが、アフガンでの駐留によって、現実のものとなったのだ。

アフガン駐留は、ボスニアやソマリアで経験したような平和維持任務ではなく、いつ攻撃してくるか分からないゲリラたちとの、神経をすり減らすような戦いだった。当初ドイツの政治家たちは、「ドイツ連邦軍が戦争に参加している」という言葉を使うことを避けていた。しかし彼らも、タリバン・ゲリラの待ち伏せ攻撃や、自爆テロによってドイツ人の戦死者が増えるにつれ、連邦軍兵士たちが戦争に巻き込まれていることを、公に認めざるを得なかった。

激しい戦闘で負傷したり、目の前で戦友が殺されるのを目の当たりにして、帰国後も心的外傷後ストレス障害(PTSD)という精神的機能障害に苦しむドイツ人も少なくない。

クンドゥスの悲劇

2009年9月4日には、悲惨な事件が発生した。ドイツ連邦軍はアフガニスタン北東部で、「抵抗勢力タリバンのゲリラが、ガソリンを満載したタンクローリーを乗っ取った」という通報を受けた。ドイツ連邦軍のクライン大佐は、「タンクローリーが自爆テロに使われる危険がある」と考え、この車両を攻撃するよう米軍に要請した。それを受けた米軍の戦闘機が、川の砂地にはまって動けなくなっていた2台のタンクローリーを、爆弾で破壊した。

この攻撃でアフガン人は少なくとも約140人が死亡したが、当時の国防相だったユング氏は事件の3日後、「死亡者はタリバンのテロリストだけ。市民への被害はなかった」と発表。しかしアフガン政府の調べで、死亡したのはタリバン・ゲリラだけではなく、約40人の市民も空爆の巻き添えになっていたことが明らかになった。

タリバンはタンクローリーが立ち往生したため、近くの村の住民を呼び集め、ガソリンを配って重量を軽くし、車両が砂地から抜け出せるようにしていた。このため、多くの住民が車両の回りに集まっていたのだ。

同年11月末に、ビルト紙が暴露した事実は、ドイツ政府を窮地に追い込んだ。空爆の翌日にドイツ連邦軍の憲兵は現場を視察し、「ゲリラだけでなく市民も多数死傷している」という報告書を国防省に送っていた。つまり元ユング国防相は、市民の間に犠牲者が出ていることを知りながら、数日間にわたって「死亡者はゲリラだけ」と嘘をついていたのである。

同年11月に発足した新政権でユング氏は労働相に任命されていたが、メルケル首相はユング氏を更迭。「アフガン市民をタリバンから守る」というドイツ政府の大義名分は、多数の市民を死傷させた空爆で、大きく傷付けられたのだ。

アフガンの未来は?

今後、ISAFはアフガニスタンから徐々に撤収するが、その後、同国の治安がどうなるかについては不透明だ。各地に軍閥が割拠する状態は変わっておらず、政治家や官僚の腐敗が伝えられる。現在は守勢に追い込まれているタリバンが、ISAFの主力部隊が撤退した後に攻勢を開始し、欧米が支援する政権への攻撃を強める可能性もある。

同国に過激勢力が復活し、ISAFに協力したアフガン人や女性たちが弾圧される事態は、是が非でも防がなくてはならない。欧米諸国は今後も、アフガニスタンと長く関わらざるを得ないだろう。

18 Oktober 2013 Nr.964

最終更新 Donnerstag, 20 April 2017 10:57
 

「女帝」メルケル圧勝連立交渉は難航へ

9月22日の連邦議会選挙では、メルケル首相の率いるキリスト教民主同盟(CDU)と姉妹政党キリスト教社会同盟(CSU)が、前回の選挙と比べて得票率を約8ポイント伸ばし、大勝した。この選挙結果は、2005年から首相を務めるメルケル氏に対する国民の信頼が、いかに強まっているかを浮き彫りにした。

メルケル個人の勝利

多くの世論調査機関やメディアが、メルケル氏の勝利を予想していた。ドイツの景気は、ユーロ危機による不況の暗雲が欧州全体を覆っているにもかかわらず好調である。この国の失業率は約5%で、ユーロ圏平均の半分にすぎない。経済状態が良い時、人々は安定を望む。

選挙前の世論調査では、「誰を首相に望むか」という問いに対して、回答者の半分以上が「メルケル」と答え、社会民主党(SPD)の首相候補シュタインブリュック氏に対して、20ポイント近い差を付けていた。「Mutti(お母さん)」というあだ名まで付けられ、安定感に満ちたメルケル氏に比べると、失言・放言の多いシュタインブリュック氏は精彩を欠いていた。欧州諸国を見回しても、メルケル氏のようにリーマン・ショック、ユーロ危機など様々な危機をくぐり抜け、絶大な指導力を発揮できるリーダーはいない。最近の政局運営の仕方には、「女帝」の風格すら加わってきた。

今回の選挙結果は、CDU・CSUの政策の勝利ではない。メルケルというベテラン政治家の勝利なのだ。

FDP惨敗の波紋

だが、今回の勝利はメルケル氏にとって完全無欠の物とはならなかった。西ドイツの政治ドラマの中で戦後半世紀以上もの長きにわたり、しばしばCDU・CSUを連立パートナーとして支えてきた自由民主党(FDP)が、5%の閾(しきい)を越えることに失敗し、初めて連邦議会での議席を失ったのだ。1948年に創立されたFDPは、テオドア・ホイス、ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャーなど著名な政治家を輩出し、企業経営者や自営業者、富裕層の利益を代表してきた。だが近年では、党首の指導力の弱さや、政策の独自色のなさによって支持者から見離され、緑の党や左翼党よりも得票率が低い泡沫政党に転落した。

個性をアピールしない現在のFDPは、メルケル氏にとって連立パートナーとしてベストの選択肢だった。保守勢力・リベラル勢力がともに議席の過半数を確保できなかったことから、メルケル氏は2005年にも経験したライバル政党との大連立の道を探らなくてはならなくなった。組み合わせとしては黒・赤(CDU・CSUとSPD)もしくは黒・緑(CDU・CSUと緑の党)が考えられるが、現実的なのはSPDとの大連立だろう。

ドイツ連邦議会選挙の得票率

政策の違いをどう調整する?

メルケル氏にとっては、難しい交渉である。大きな争点が少ない無風選挙だったとは言え、CDU・CSUとSPDの政策の間には、様々な違いがあるからだ。

たとえば、市民の関心が強い増税問題では、両党の違いがくっきりと浮かび上がる。現在、所得税の最高税率は42%ないし45%だが、SPDはこれを49%に引き上げることを提案した。最高税率は、年収が独身者で10万ユーロ、夫婦で20万ユーロを超える世帯に適用される。さらにSPDは、90年代にコール政権が廃止した資産税を再び導入するとともに、相続税を引き上げる方針を明らかにしている。

これに対し、CDUはマニフェストの中で、「ドイツの納税者の内、最も所得が多い25%の市民が、所得税の76.9%を払っている。現在税金の大半を払っている人々の負担を、これ以上増やすべきではない」として最高税率の引き上げに反対している。また資産税の再導入や相続税の引き上げについても、「中規模企業(ミッテルシュタント)の国際競争力を弱め、雇用を脅かす」として、拒否している。

家庭での教育を重視するCSUは、働いている両親が子どもを託児所に預けないで、自宅で養育する場合には、「家庭養育手当(Betreuungsgeld)」を支給する方針を提案していたが、SPDは「女性を家庭に縛りつけようとする試み」として、強く反対している。

健康保険制度の改革でも、両党の意見は対立している。SPDは、現在の公的健保と民間健保の違いを廃止し、国民全員を「市民保険(Bürgerversicherung)」に加入させることを提案しているが、CDU・CSUら保守派は反対している。電力価格の高騰にどう歯止めを掛けるかについても、議論の難航は必至。再生可能エネルギー促進法(EEG)の抜本的な見直しが不可欠という点では、両派の意見は一致しているが、SPDが提案している電力税の引き下げなどについては、CDU・CSUが難色を示している。

メルケル首相とリベラル派の代表が連立協定書に署名して新政権が発足するまでには、まだかなりの時間が掛かるだろう。

4 Oktober 2013 Nr.963

最終更新 Freitag, 17 Januar 2014 11:30
 

所得不平等の是正を!

ドイツ連邦議会選挙まで、いよいよあと2日。今回の選挙戦で各党が訴えたテーマの1つは、所得格差の是正だった。

ゲアハルト・シュレーダーは2003年に「アジェンダ2010」を発動し、失業保険制度や公的年金制度に大胆にメスを入れた。彼の政策は、「第2次世界大戦後、最大の社会保障サービス削減」と呼ばれた。このため統計上の失業者数は減ったものの、富裕層と貧困層の間の格差は拡大した。

ドイツも格差社会に

そのことは、社会の所得格差を測る物差しとして、欧州連合(EU)などの国際機関が最も頻繁に使うジニ係数に表れている。これは、社会の中で所得が完全に平等に分配されている場合に比べて、どれだけ分配が偏っているかを数値で示したものだ。例えば,収入格差がない完全に平等な集団では、ジニ係数は0になる。これに対し、1つの世帯だけが収入を独占する完全に不平等な集団ではジニ係数が限りなく1に近付く。数字が大きいほど、所得が一部の市民に偏っていることを意味する。

独・米・日のジニ係数の推移

経済協力開発機構(OECD)の統計によると、ドイツのジニ係数は、シュレーダー政権誕生直後の1999年には0.2585だったが、2005年には0.2968に増えている。約15%の上昇である。ただし、2005年以降は低下傾向にある(手元にある直近の数字は2010年で、0.286)。ドイツのジニ係数の絶対値には、ドイツ経済研究所(DIW)や欧州連合統計局、OECDなどの間でわずかな差異がある。計算方法などの違いによるものだろう。だが、ジニ係数が1990年代後半から2005年まで上昇し、それ以降下がるという傾向は、どの統計を見ても一致している。

富裕層に偏在する資産

ドイツで所得の偏在化が進んでいることを裏付ける、もう1つの数字がある。連邦統計局は、全世帯を個人資産が多い順に並べて、資産がどのように分布しているかを調べた。1998年には市民の内、最も裕福な10%の人々が、社会全体の個人資産の合計の45%を所有していた。シュレーダー改革後の2010年には、その比率が61%に拡大している。逆に、個人資産のリストの下半分に位置する市民は、1998年には個人資産全体の3%を所有していたが、2010年には、その比率が1%を割ってしまった。

このグラフは、ドイツの中間階層が時とともに小さくなっていく傾向も、くっきりと描いている。

ドイツの個人資産の分布状況

ベルリンにあるDIWのマルクス・グラプカ研究員は、この国の所得配分や貧困の問題をテーマに研究活動を行っている。彼は2012年に発表した研究報告書の中で、貧困に脅かされている市民の比率を調べた。貧困に脅かされている市民とは、市民の可処分所得を多い順に並べた場合、可処分所得が中間値の60%に満たない人々だ(これはEUなどの国際機関が使っている基準である)。

グラプカ研究員は、「1990年代のドイツでは、貧困に脅かされている市民の比率は約11%だった。しかし、1999年から2005年の間に貧困層は著しく拡大し、全体の14~15%となった。貧困率は、今もこの水準から下がっていない。特に旧東ドイツの貧困率は旧西ドイツを上回っており、2010年には市民の5人に1人が貧困層に属していた」と指摘している。

つまり、シュレーダー政権下で富裕層が資産の蓄積を加速する一方で、貧困に苦しむ市民の比率が拡大したのである。メルケル政権は、シュレーダー政権が実施した社会保障改革を一部緩和したが、それはシュレーダーの一部の政策に、市民にとって厳し過ぎる点があったからであろう。

ジニ係数に関するグラフをご覧頂ければお分かりになるように、ドイツの所得格差は米国や日本ほど大きくない。それでも今年誕生する新しい政権には、ドイツの国是である「社会的市場経済(Soziale Marktwirtschaft)」の精神を再確認するためにも、貧困の危機にさらされているシングル・マザーの年金補てんなど、富の再分配を促進する政策を取ってほしい。

19 September 2013 Nr.962

最終更新 Donnerstag, 20 April 2017 10:59
 

ドイツの落ちた偶像たち

メディアの表舞台で脚光を浴びる有名人たち。新聞、テレビ、雑誌はこうした「セレブ」なしには生きていけない。だが彼らの中には、栄光の頂点から突然、真っ逆さまに転落する人々がいる。

サッカー界の大御所の脱税事件

バイエルン・ミュンヘンのヘーネス会長
バイエルン・ミュンヘンのヘーネス会長。
4月23日、欧州CL準決勝バイエルン対
バルセロナ(スペイン)の試合にて

ウリ・ヘーネス(61)は、まさにその1人だ。彼は、ブンデスリーガで人気の高いサッカーチーム「FCバイエルン・ミュンヘン」のゼネラルマネジャーである。

今年4月にメディアの報道によって、スイスの銀行に320万ユーロ(4億1600万円・1ユーロ=130円換算)の資産を隠し持って脱税していたことが発覚。ヘーネスは、ドイツで最も有名なスポーツ業界人で、メルケル首相など多くの政治家とも知己がある。名選手だったヘーネスは、ニュルンベルクのソーセージ・メーカーを経営する実業家としても有名だ。

テレビのトークショーなどに出演し、スポーツの話題だけではなく銀行危機など、専門外の時事問題についても発言する「ご意見番」としても人気があった。そうしたマスコミの寵児が、脱税の罪で検察庁に起訴されたことは、サッカーファンだけでなく多くの市民に衝撃を与えた。320万ユーロの内、290万ユーロについては時効になっているため、量刑は軽いものになると見られているが、その栄光には大きな傷が付いた。

財界のご意見番の転落

脱税で転落した著名人と言えば、ドイチェ・ポストの社長だったクラウス・ツムヴィンケル(69)を忘れることはできない。

財界の大物で政治家に知り合いも多かったツムヴィンケルは、約100万ユーロ(1億3000万円)を脱税した疑いで、2008年2月に検察庁に摘発された。公共放送ZDFは、ツムヴィンケルが自宅で検察官によって任意同行を求められるシーンの撮影に成功。この特ダネ映像は、ドイツ中を駆け巡った。郵便事業を民営化したツムヴィンケルは、国から勲章まで授与された著名人だったが、裁判所から執行猶予付き2年間の禁固刑と100万ユーロの罰金刑の判決を言い渡された。

彼の転落につながったのは、リヒテンシュタインのLGT銀行の元行員が盗み出した顧客データである。この元行員は、約900人のドイツ人資産家に関するデータを収めたCD-ROMを、ドイツの諜報機関である連邦情報局(BND)に提供。メルケル政権は、420万ユーロ(約5億4600万円)の報酬を支払ってデータを入手した。

検察庁と税務当局は、この顧客リストを基に、資産家に対する強制捜査に着手。その網にかかった富裕層の1人がツムヴィンケルだった。ZDFの映像を見た資産家たちは、震え上がった。最初の2週間で91人の資産家が脱税していたことを自主申告し、税務当局は2780万ユーロ(36億1400万円)の脱税額を回収した。かつての「財界のご意見番」だったツムヴィンケルも前科者となり、マスコミの表舞台から姿を消した。

グッテンベルクと博士論文

脱税と並んで、著名人たちを奈落の底に突き落とす地雷原が、「博士論文」である。最も激しい転落ぶりを見せたのが、連邦国防相だったカール・テオドール・ツー・グッテンベルク(41)だ。彼はここ数年のキリスト教社会同盟(CSU)の中で、最も人気のある政治家だった。2009年に連邦経済相、2年後には国防相となった。フランケン地方の貴族の血を引き、甘いマスクを持ったグッテンベルクは、しばしば美しいブロンドの髪を持つ妻とともに女性誌の表紙を飾る、珍しい政治家だった。

ドイツの政治家としては稀有なカリスマ性を持ち、将来の首相候補という声もあった。ところが、彼がバイロイト大学で2007年に博士号を授与した際の論文に、ほかの論文からの盗用部分があることが判明。2011年に大学は彼の博士号を剥奪した。その直後に彼は国防相の職だけでなく、連邦議会議員のポストも辞職した。グッテンベルクは人気の絶頂で挫折し、あっという間にメディアの舞台から姿を消した。太陽に近付き過ぎて、羽根を固定していた蠟が溶けて転落したイカロスを思い出す(バイエルン政界の事情通によると、グッテンベルクはこの論文を自分で書かず、ゴーストライターに書かせていたという説もある)。

教育相よ、お前もか。

ドイツには、IT技術を駆使して、著名な政治家の博士論文の盗用部分を次々にチェックするプロの「盗用調査マン」がいる。彼らは政治家たちの博士論文をスキャンして、ネットで検索する。盗用部分が数値化されるので、政治家は抗弁できない。IT革命によって、盗用調査技術も飛躍的に進歩したのだ。

この盗用調査マンによって転落したもう1人の著名政治家が、アンネッテ・シャヴァン(58、CDU)である。彼女はドイツの教育行政を司る連邦教育相だったが、1980年に博士号を取った際の論文に盗用疑惑が浮上した。デュッセルドルフ大学は、今年2月にシャヴァン氏の博士号を剥奪。彼女は教育相の職を辞した。彼女は教育行政の責任者として、グッテンベルクの盗用疑惑が浮かび上がった際、彼を批判していた。その彼女が、自分でも他人の文章を盗用して博士論文を書いていたというのだから、滑稽である。

ここに挙げた4人は、運命の急変を経験した著名人の氷山の一角にすぎない。一寸先は闇。今後も転落する偶像たちは、後を絶たないだろう。

6 September 2013 Nr.961

最終更新 Donnerstag, 05 September 2013 12:46
 

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