独断時評


欧州議会選挙の警鐘

欧州議会への市民の関心は依然として低い。その証拠に、6月7日に行われた欧州議会選挙で投票したドイツの有権者はわずか43.3%だった。

しかしドイツでは、9月27日に連邦議会選挙があるほか、今年は多くの州や地方自治体で選挙が控えているため、今回の欧州議会選挙の結果は注目されていた。

蓋を開けてみると、大連立政権を構成している大政党が敗北し、小政党が躍進するという予想通りの結果になった。6月8日時点の開票結果によると、メルケル首相率いるキリスト教民主同盟(CDU)の得票率は前回に比べて6ポイント減り、30.7%に落ち込んだ。キリスト教社会同盟(CSU)と合わせても、得票率は40%に満たなかった。

国内の保守層、特に南部のカトリック教徒の間では、メルケル首相の政治路線がリベラルすぎるという批判が出ていた。たとえば「追放問題に関する資料館」をめぐるポーランドとの論争や、ローマ教皇がホロコースト否定論者の破門を解除した問題で、首相の態度は保守的な市民の眉をひそめさせた。このためCDUに対する支持率は、今年に入ってから下がりつつあった。

一方、大連立政権のパートナーであるSPD(社会民主党SPD)の得票率も、わずか20.8%という極めて低い水準にとどまった。同党については、「シュレーダー流の、大企業を利する経済改革を続けるのか、それとも所得格差を減らす方向に進むのか、路線がはっきりしない」という批判があった。ミュンテフェリング党首もシュタインマイヤー首相候補も、元はシュレーダー寄りだったが、最近ではオペル救済などをめぐって大衆の受けを狙った発言が目立つ。どちらが本音なのか、よくわからない。これが、得票率低迷の理由だろう。

対照的なのは、自由民主党(FDP)の躍進である。同党は前回から5ポイント近く得票率を伸ばし、今回の選挙で最も急激に票を増やした政党となった。この背景には、メルケル路線に反発した保守層の票がFDPに流れたという事情がある。緑の党の得票率の伸びが0.2ポイント、左派政党リンケでは1.4ポイントにとどまったことを考えると、FDPを選んだ人がいかに急激に増えたかがわかる。

なぜ多くの票がFDPに流れたのだろうか。いま人々の最大の関心事は、経済である。彼らは、不況の出口が見えないことに強い不安を抱いている。今年後半には、失業率が本格的に上昇すると見られている。労働者だけでなくホワイトカラーも、「自分の仕事は、数年後にはどうなるのか」と感じている。不況の後にやってくると見られるインフレについての不安感も強い。

昨年の秋以降、金融危機やオペル救済で大連立政権が取ってきた政策は一貫性を欠き、必ずしも国民に安心感を与えるものではなかった。前例のない事態とはいえ、メルケル首相の態度にはぶれが目立つ。このため、人々の票は大連立政権に属さず、左派でもないFDPに流れた。9月の連邦議会選挙では、CDU・CSUとFDPが黒・黄連立政権を組む可能性がある。ただし断定は禁物だ。前回と同じく黒・黄連合、SPDの双方とも単独過半数を取れない事態もあり得る。不況の暗雲の中、有権者はどのような道を選ぶだろうか。

19 Juni 2009 Nr. 770

最終更新 Mittwoch, 19 April 2017 15:13
 

オペル救済劇の波紋

100年以上の歴史を持つ米国の大手自動車メーカー、ジェネラル・モーターズ(GM)が破産法の適用を申請した。一時は世界最大の自動車企業だったGMが破たんし、事実上国有化される。世界の経済史に残る出来事だ。

GMの子会社オペルも破たんの瀬戸際に追いつめられていた。メルケル首相らドイツ連邦政府の閣僚は、ベルリンの首相府で連日深夜まで協議し、GMが破たんする2日前に「救済策」をまとめ上げた。このためオペルの破たんは一応避けられたが、この救済策の是非について、国内で激しい議論が起きている。

再建計画によると、オペルを長期的に買収するのはカナダの大手自動車部品メーカー・マグナ。同社はとりあえず株式の20%を取得する。さらにロシアの銀行ズベルバンクとGMが株式の35%をそれぞれ保有し、残りはオペルの従業員が持つ。

ところが5月29日の深夜に行われた会議では、グッテンベルク経済相がこの救済案について「国民に過重な負担をかけるリスクが大きい」として反対した。マグナとズベルバンクが投じる自己資本は、7億ユーロ(約910億円)前後。これに対し、連邦政府と州政府はまず15億ユーロ(約1950億円)のつなぎ融資を行うほか、連邦政府は少なくとも45億ユーロ(約5850億円)もの連帯保証を迫られるからだ。

マグナは「ドイツ国内のオペルの工場は閉鎖しない」としているが、最終的に雇用がどの程度確保されるかについては、書類によって確認されているわけではない。グッテンベルク氏は会議中に経済相を辞任する意向までにおわせたが、首相に説得されて内閣に留まった。

この救済劇には、「選挙対策」という色合いが濃い。保守派の論客からは、「メルケル首相とシュタインブリュック財務相は、オペルを倒産させた場合に多数の労働者が失業し、およそ3カ月後に迫った連邦議会選挙で得票率が減ることを恐れて、納税者へのリスクが大きい再建策を無理やり成立させた」という批判の声が出ている。

昨年の秋に金融危機と世界同時不況が始まって以来、大連立政権は救済の対象を金融機関に絞ってきた。米証券大手リーマン・ブラザーズの破たんが示したように、銀行の倒産は世界中の金融システムに悪影響を与えるからだ。だがオペル救済は、投資家さえ見つかれば銀行以外の企業でも、ドイツ政府が連帯保証などの間接的な支援によって破たんから救うことを示した。今後は金融機関以外の業界からも、政府による救済を求める声が高まるだろう。

実際、経営難に直面しているデパート経営会社アルカンドアについても、社会民主党(SPD)のミュンテフェリング党首は「連邦政府が6億5000万ユーロの連帯保証を与えて、数千人が職を失う事態を避けるべきだ」と述べている。

オペルの2万9000人の従業員たちはひとまず胸をなでおろしたかもしれないが、楽観はできない。オペルは金融危機が起こる前から経営難に陥っていた。販売台数に比べて、生産能力がだぶついていたからである。建設会社ホルツマンのように、連邦政府が救済策をまとめ上げたにもかかわらず倒産した企業もある。オペルをめぐる救済劇に幕が引かれたと言い切ることは、まだできない。

12 Juni 2009 Nr. 769

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 11:20
 

オーネゾルク射殺の真実

ドイツ戦後史に新しい光を投げかける文書が発見された。1967年6月2日に西ベルリンで行われたデモの際に、当時26歳の学生だったベンノ・オーネゾルクが警官に射殺されるという事件があった。この際に発砲した警察官K・H・クーラスが、実は東独の秘密警察シュタージの密偵で、共産主義者だったことが、シュタージ文書管理局の研究員の調べで明らかになったのだ。クーラスもこの事実を認めている。

なぜ、ドイツでこの発見が大きな波紋を呼んでいるのか。オーネゾルク射殺は、いわゆる「68年世代」にとって忘れることができない事件である。その理由は、この事件が西独で吹き荒れた街頭デモ、大学紛争、若者の政府に対する異議申し立ての引き金の1つとなったからである。

多くの若者はこの事件をきっかけに、西独政府に対して疑問や反感を抱くようになった。オーネゾルクを射殺した警官クーラスは、若者たち、特に左派勢力にとって「強権的な西独の抑圧体制」の象徴だった。彼は業務上過失致死の罪で裁判にかけられたが、「数人の若者に取り囲まれて身の危険を感じたので撃ってしまった」と述べ、無罪になっている。

このことはリベラル勢力を激怒させた。「我々も武装しなければならない」と主張する一部の若者はテロ活動に走り、RAF(赤軍派)を結成して政治家の暗殺や旅客機のハイジャック事件などを引き起こした。つまりオーネゾルク事件は、左派勢力が急速に過激化する引き金ともなったわけである。

歴史について「If(もしも)」を語ることは空しい。しかし仮に、当時の捜査でクーラスがシュタージに積極的に情報を提供していたスパイであり、東独の独裁党SED(社会主義ドイツ統一党)の党員だったことが判明していたら、若者たちはクーラスを単に「西独の暴力装置の象徴」とみなしただけでなく、東独政府に対しても強い反感を抱いたはずである。つまりこの警官がシュタージの密偵と暴露されていたら、西独社会のオーネゾルク事件に対する見方が大きく変わっていた可能性が高いのである。多くの若者が共産主義にも失望し、過激な活動に走ることを思いとどまっていたかもしれない。

シュタージ文書は、クーラスがオーネゾルクを撃った理由について記していない。重要な部分は廃棄されているからだ。「シュタージが西独社会を混乱させるために、クーラスに学生を撃つように指示した」という見方はうがちすぎだろう。シュタージにとっては、クーラスが当時西ベルリン警察で東からのスパイに関する捜査も担当し、東側に内部情報を提供していたことの方がはるかに重要だったはずだ。シュタージがクーラスに約1万5000マルクもの金を払っていたことは、彼が貴重な情報源だったことを示している。

シュタージはクーラスに関する実名索引カード(F16)を廃棄していたため、この重要な事実はドイツ統一後も埋もれたままになっていた。問題の文書は、別の調査をしていた研究員が偶然見つけたものだ。秘密警察の文書庫からは、これからも現代史を塗り替えるような事実が発見されるかもしれない。

5 Juni 2009 Nr. 768

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 11:20
 

ベネディクト16世とイスラエル

ローマ教皇ベネディクト16世は、5月中旬にイスラエルを訪れた。彼はその際に、ユダヤ人たちと和解するための重要なチャンスを逃してしまった。

特にユダヤ人たちを失望させたのは、5月11日にエルサレムのホロコースト犠牲者追悼施設ヤド・ヴァシェムの「記憶のホール」でローマ教皇が行った演説である。イスラエルを訪れる外国からの首脳や国賓が、このホールでの献花を日程から外すことはできない。ナチスによって殺されたユダヤ人の数は600万人と推定されているが、彼らに捧げる「永遠の火」が燃えるこのホールでの演説は、ユダヤ人から最も注目されるのだ。

ベネディクト16世は、「恐るべき虐殺の犠牲となった数百万人のユダヤ人に捧げられたこのホールに立つために、私はやってきた」「犠牲者たちの叫びは、今も私たちの心の中に響きわたっている。この叫びはあらゆる不正と暴力に抗議している」と述べ、殺された人々への哀悼の意を表わした。

だがイスラエルでは、この演説を「表面的だ」として批判する声が圧倒的に多かった。その理由は、ドイツ人であるベネディクト16世が、ナチスが行った犯罪について謝罪しなかったからである。彼の演説には「遺憾に思う」とか「ドイツ人として許しを乞う」という言葉すらなかった。ここを訪れる歴代のドイツの首相や大統領の大半は、謝罪や反省の意を表してきた。

さらにユダヤ人たちは、「戦争中にローマ教皇だったピウス12世をはじめとして、バチカンはユダヤ人虐殺に抗議せず沈黙し続けた」としてローマ・カトリック教会の姿勢を批判している。だがベネディクト16世は、戦争中のローマ教皇庁の態度についても一切触れなかった。また彼は、子どもの頃ヒトラー・ユーゲント(少年団)に加盟していたが、そのことを「若き日の過ちだった」と反省する言葉もなかった。

バチカンとイスラエルの険悪な関係の背景には、ベネディクト16世が保守的な4人の司教に対する破門を解いたことがある。この中の1人がアウシュヴィッツでの虐殺を矮小化する発言を行っていたことから、イスラエルではローマ教皇に対して轟々たる非難の声が巻き起こった。しかしイスラエルでの滞在中、ベネディクト16世はこの問題についても口を閉ざしたままだった。

ベネディクト16世もさすがにイスラエル国民の反発に配慮したのか、同国を離れる直前に「アウシュヴィッツでは、神を信じない反ユダヤ的な政府によって、多くのユダヤ人が残酷に殲(せん)滅された。このようなことは2度と起きてはならないし、この事実を否定することも許されない」と述べ、ナチス批判をやや強めた。しかし、ヤド・ヴァシェムで逸した機会を完全に補うことはできず、多くのユダヤ人の心には空しさが残された。

ベネディクト16世の演説の全文を読んでみたが、確かに抽象的である。キリスト教徒には理解されるだろうが、ユダヤ人の心に強く訴える内容ではない。彼はドイツ人の教皇だからこそ、一歩踏み込んだ演説を行うことでユダヤ人との関係修復に貢献できたはずだが、結局「象牙の塔」に閉じこもったままだった。バチカンが本格的に「過去との対決」を始めるには、まだかなり時間がかかりそうだ。

29 Mai 2009 Nr. 767

最終更新 Mittwoch, 24 August 2011 11:21
 

ポルシェの敗北

企業買収の過程では、最後まで何が起こるかわからない。ポルシェ社とフォルクスワーゲン社(VW)の合併問題を3年前から追ってきて、そう思った。

ポルシェの持ち株会社であるポルシェ・ホールディングは、欧州最大の自動車メーカー・VWの株式の51%をすでに取得している。ポルシェは当初、この比率を75%まで引き上げて、VWを完全に傘下に置くことを目指していた。

スポーツカーの名門企業ポルシェは、1990年代初めに倒産の瀬戸際に追いつめられていたが、ヴェンデリン・ヴィーデキング氏が社長に就任してリストラを行い、世界で最も収益性が高い企業の1つに生まれ変わった。新車を毎年10万台前後しか製造しないポルシェが、年間生産台数600万台のVWを買収するプロジェクトは、「小人が巨人を飲み込む買収」として注目された。ヴィーデキング氏が買収を完了し、欧州のトップ自動車メーカーに君臨するのは時間の問題と思われていた。

ところが今年5月初め、思わぬ逆転劇が起きた。ポルシェの大株主であるポルシェ家は、VW買収計画を撤回し、「ポルシェとVWは独立の企業として1つのグループに属する」という方針を明らかにしたのである。その最大の理由は、ポルシェの財務状態が悪化したことである。同社ではVW買収計画のために債務が増加したが、不況のあおりを受けて売上高と利益が減少したため、利払いをスムーズに行えなくなる危険が浮上してきたのだ。金融危機の影響で現在、銀行の融資条件は非常に厳しくなっている。

常に自信に満ち溢れ、ドイツで最も高い報酬を得てきたヴィーデキング社長にとって、VW買収計画の頓挫は大きな敗北である。「コスト・キラー」として知られる彼は、VWの買収を完了したあかつきには、ポルシェ式の経営や生産手法をVWに導入して、収益性を高めるという方針を明らかにしていた。このことは、老朽化した工場の閉鎖やリストラに直結するので、VWの労働者たちからはポルシェに対する反発の声が上がっていた。

ポルシェの挫折を聞いて微笑んでいるのは、VWの社長だったフェルディナンド・ピエヒ氏だろう。彼はヒトラーのために国民車フォルクスワーゲンを生んだ自動車デザイナー、フェルディナンド・ポルシェの孫である。

ドイツの自動車業界で隠然たる影響力を持つピエヒ氏は近年、ヴィーデキング氏と犬猿の仲だった。祖父が築いたVW帝国がポルシェに飲み込まれることなく、ポルシェと対等の企業として1つのグループに属することは、ピエヒ氏にとっては勝利である。ポルシェがVWを買収していたら、VWグループで赤字を出している高級車の生産が中止される恐れがあった。ポルシェが買収をあきらめたことで、ピエヒ氏は面目をつぶされずに済んだ。彼は逆にポルシェをVWグループに加えることすら提案している。

VWは外国企業による買収からも守られている。これは、VWの大株主ニーダーザクセン州政府が「VW法」と呼ばれる特別な法律によって、最大の議決権を与えられているためだ。ポルシェが白旗を掲げたことで、1930年代から綿々と続くVW帝国の安定性は高まることになった。ヴィーデキング氏が要職から退くのは、時間の問題だろう。

22 Mai 2009 Nr. 766

最終更新 Donnerstag, 20 April 2017 14:24
 

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